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目次












(1987年6月29日の霊示)

1.人類救済の仕事には、その終りがない


谷口雅春です。先般、私の霊言集の第一集として、「如来界から生命の実相を語る」(土屋書店)とサブタイトルを施(ほどこ)し、この世に霊言を送ったことは、すでに多くの皆さんがご記憶のとおりです。

この第一集を世に問うて以来、各方面から、さまざまな反響や、問い合わせが殺到しているとのことであります。また、「生長の家」の信徒からも、谷口雅春に重ねて聞きたいという声が多数寄せられている事実を知って、日本全国の読者の反響にお応えするためにも、再び私の言葉を世に問いたいと思うのであります。

帰天二年余りの谷口雅春が、今なお地上の人びとに言葉を伝えたいと思っているということを不審に思われるかもしれませんが、私自身の基本的な考えは、人類救済という偉大な使命に関しては、決してその仕事に終りがないということであります。たとえ肉体を持って地上におろうとも、肉体を去ってあの世、すなわち、実在の世界に還ったとしても、我らが使命は、一向に変わらぬものであります。

すなわち、生あるかぎり、永遠の生命があるかぎり、我らは人びとの幸福のために、また、我らと言わず谷口雅春は、世の人びとの幸福のために、休むことなく日々精進し、活動をしておるということであります。そこで、まず、この事実を知っていただきたい。

古来、宗教家たちは、数多く地上に舞い降りて、新しき宗教を立てたり、新しき宗派を起こしたり、新しき哲学を樹立したり、新たな思想を流布したりしてきたのでありますが、彼らも地上を去ってよりこのかた、死人にロなしではないけれども、まるで活動を停止したかのごとき感があることは、歴史的な事実であります。

しかしながら、これら高級霊たちは、地上を去った後も、天上界にありて、さまざまなる活動をし、人類への福音を述べ伝えておるのであります。その事実を知っていただきたいがために、こうして私もあえてまた、私が地上を去って後の考えを世に問いたいと思っておるのであります。


2.「生長の家」の諸君よ、寛容の精神を忘れるな


さて、第一集が世に出て以来、「生長の家」の信徒三百数十万からは、間違いなく我が声を信じて、熱狂的なる手紙が数多く寄せられているとの事実を、私は知りました。

そこで、信徒の多くが、「まだ知りたい」「もっと話を聞きたい」と思ったことに関して、本書でもって答えていきたいと思うのであります。もちろん、本書だけでは、谷口雅春が思想は、すべて言いつくすことはできませんが、それはいずれまた、折りを改めるとして、本書に盛る思想として、可能なかぎりのことを述べていきたいと思うのであります。

ただ、私が惜しむらくは、本書を世に問うにあたって、私の後継団体である「生長の家」に対する憂慮、心配というものをせねばならぬという事実であります。

すなわち、私は、万教は帰一、万教これ同根、すべて唯一の神より流れ出したる教えであるということに立脚し、五十五年余りの伝道活動をしてきたわけでありますが、いかんせん「生長の家」という団体も、初代が去ってよりこの二年、さまざまな内部事情を抱え、問題点が出てきておるようであります。

また、私が悲しく思うことに、内部のなかにも、初代谷口雅春が他の団体から霊言を世に問うということに関して、非常に困ったものだと言っておる者もあると聞いております。

しかし、こうした者たちに対して、私は一言言っておきたい。あなた方は本当の意味の「万教帰一」、この言葉の意味を知っておるのか。また、地上で自らの団体を運営し、維持していくことだけに目的を見い出してよいのかどうか、と。こうしたことについて、もう一度肝に銘じて考えねばならんのではないか。私は、そう思うわけであります。

地上に出ておる光の指導霊というのは、何も「生長の家」にだけ出ておるのではないのです。他の団体にあっても、他の人びとのなかにも、光の天使が降りておる。このことについては、私はすでに、『生命の実相』のなかで語ったことであります。

すなわち、キリスト教にも、仏教にも、日本神道にも、あるいは、近代の流れのなかにおける天理教、金光教、黒住教、大本教などの他の教団のなかにも、光の指導霊、光の天使と言われる方がたが数多く出ていたのであります。であるならば、それは過去だけのことではなくて、現在ただ今も出ておるのだということを知らねばならぬのです。

私は、「生長の家」という団体が、その寛容の精神を失い、狭隘(きょうあい)な狭い心の団体になることを非常におそれておるのであります。この世で会員を何人集めたところで、死んであの世に還れば、それは何の意味もないのであります。実際、この地上で他団体だと思って、排斥したり、攻撃していた団体の中心人物が、あの世に還ってみると、同じく天使仲間であることを知って、後悔することが多い。それもまた、事実であります。

まあ、そうした事実を知ったならば、地上に降りた肉の眼でもって自分と他人、自と他を分けて、自分のためにのみ、自分の利益のためのみに行動を取るということは、非常に間違いであります。

正しき方向とは、いかに数多くの人類を救うかであって、人類を救うという目的のためには、数多くの同士がいてよいのです。「生長の家」のみが人類を救えて、「生長の家」以外は人類を救えないというような、そうした狭い考えを持っては、断じてならん。私は、このことをきつく申しておきたい。


3.「自らに厳しく」は宗教家特有の義務


これは歴史的に見てもそうであって、私の生命の実相哲学のなかにある、人類光明化の原理は、実はエマソンを幽祖とするアメリカのニューソートの流れと軌(き)を一(いつ)にするものであることは、私が繰り返し繰り返し、皆さんに説き来たり、説き去ったところの真実であります。アメリカでさえ、「生長の家」と同じ考えが出ておるのに、この日本に、ましてやその同じ流れが出ぬわけはないのであります。

宗教団体というのは、会社の経営とは違うのです。すなわち、正しき心の団体であるのだからして、どうか会社経営のようなつもりではやらないでほしいと深く深く希望するものであります。

幸いにして、二代目総裁として、谷口清超という非常に良き後継者を私は得ておるので、まあ、私が霊言集をこのように世に問うたところで、「生長の家」がどうこうなるものでないということに対して、万全の信頼を寄せておるものであります。

見渡して見ると、まあ、数多くの宗教団体があるけれども、たいてい二代目、三代目になるとダメになるのが例外のないことのようであります。しかし、我が「生長の家」にあっては、二代目総裁として、希有な後継者を得ることができたがために、私は、非常に満足をしております。

ましてや、「生長の家」以外の団体の者が、谷口雅春が教えは、真理に合致した正しい教えであったということを、このような形で証明しておるのだから、これに対して、大いに敬意と感謝の念を払わねばならぬ。私は、そのように思うのであります。

とくに三代目にあっては、まだ年も若いこともあって、さまざまなことに関し、判断がつきかねることが数多くあるようであるけれども、まだまだあなたは人生の修行の途次であって、完成された人間でないことをよくよく肝に銘じ、さらに十年、十五年は、人生修行の過程にあると思い、いたずらに人を指導しようと思わずに、まず、自らを磨いていくことに力を注ぎなさい。

人間は、自らが悟っておらんのに、人を悟らせることはできんのです。人の上に立つものであればあるほど、自らに厳しく、自らの悟りを求めてゆかねばならん。これは、宗教家特有の義務であります。そういう大きな義務を負って、この世に出ておるということです。ですから、このことを忘れてはならん。

谷口雅春の霊言集第一集が出て、全国の信徒からは、その九九パーセントは喜びの声というものが寄せられておるけれども、「生長の家」本部の内部において、自分たちの保身がために、この書を攻撃する人が一部にいたことを知って、私は、大変悲しく思ったものであります。

ましてや、幹部諸君を集めて、朝礼の場で、「神は霊媒にはかからぬから」と言って、谷口雅春霊言集をニセモノ呼ばわりするなどということは、あの世に還って、どのような反省をせねばいかんようになるか。そうしたことを、よくよく考えていただきたい。

ニセモノというのは、すぐにばれるものです。しかし、本物というものは、時間が経つにつれて、ますますはっきりとしてくるものです。本人が本人であると言っている、これは、やがて誰もが疑えなくなるものであります。

ですから、自己保存、あるいは、自団体保存のために、どうかつまらぬ中傷をしたり、批判をせぬように。本書の始めにあたって、このことだけを、強く願っておくものであります。寛容の精神が「生長の家」という団体になければ、今後、私もまた、地上を去ったあの世において、人類救済のために心おきなく活動することができんのです。


4.万教帰一理論の真髄


私は地上を去って、はるか如来界最上階段に現在おりますが、ここにおって我が考えるところは、「生長の家」の信徒は救うが、それ以外は教わんというような、そういう考えは持ってはおらんということです。仏教者であろうが、キリスト教者であろうが、天理教であろうが、何教であろうが、関係ない。私は、機会あるごとに、天上界においても、さまざまなところへ行って、講演しております。

それは、ひとり日本の霊人のみに対してなされておることではないのです。こちらの世界でも、私は、アメリカの霊域に行き、そこにて、英語で人類幸福化の原理を語ることもある。また、他の地域へと赴いて、語っておることもある。谷口雅春は、決して日本人のためだけに、日本人を救うためだけに、死後、活躍しておるのではありません。他の国の人びとをも、他の宗教の人びとをも救おうと思っておるし、また、こちらの世界に来て、新たに知り得た友人諸君とも共同して、活動をしておるのであります。地上におったとき、私は、万教は帰一だということを口をすっぱくして説いてまいりましたが、こちら、実相の世界に還って、ますますその感を強くしておるわけであります。

すなわち、万教は帰一と言いつつも、まだ、私の考えのなかには、万教は、「生長の家」に帰一するというような、そうしたひとりよがりが一部にあったことは否めないと反省しておるのであります。

万教が帰一ということは、万教は神に帰一するということであって、「生長の家」という団体に帰一することではないのです。そういうことを、こちらで、身をもって実感しているわけであります。こちらには、天使の数が大変に多く、私もまた、そのなかにおって、日々修行し、ともに語らい、どうやって世を明るくし、幸福にしていくかということを検討しているのであります。


5.人類幸福化運動として、現代に現われたる仏教の精神


さて、第1章では、「人類幸福化の原理」という題を選んでみたので、これについて、さらに詳しく話をしていきたいと、このように考えているわけであります。

今、「〇〇〇〇〇」という精神革命運動が起きておって、〇〇〇〇らが、人類幸福化運動というのを始めております。これはまあ、私が説いてきたところの人類光明化運動と軌(き)を一(いつ)にするものであろうと思います。

「生長の家」の教えというものが、どちらかと言えば、日本神道的な考えを基礎においていたのに対して、〇〇〇〇らがこの人類幸福化運動は、その根本において、仏教の精神を基盤としていることは否めないであろうと思うのです。

では、現代に現われたる仏教の精神とは、一体いかなるものでありましょうか。一体何をもって、現代的仏教の精神と言うのでしょうか。このことを、さらに検討してゆかねばならぬと思うものであります。

仏教とは、言うまでもなく、今から二千五百年以上昔に、釈尊(釈迦)という傑出した人物の登場をもって始まったわけであります。その釈尊が、八十年の人生において、説き来たり、説き去ったところの仏教の本質とは、一体何であるか。これを検討してみる必要があると思うのです。

仏教の教えというのは、結局において、まず第一に、自分づくりということでありました。この自分づくりということが、悟りを求めるということになってきたわけであります。では、なぜ仏教徒が悟りを求めてきたかと言えば、結局、この自分づくりという大きな目標があったからであります。

その第二は、大乗仏教の本質であるところの大衆布教であり、神理の広布でありました。これはすなわち、他人を救うということです。「自分から他人へ」というこの動きこそが、他ならぬ仏教の本質であったわけであります。

では、なぜ釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)は、自分を救ってから他人を救うというこのような教えを説いたか。このことに関して、さらに検討をしてみたいと思うのであります。そうしてみると、ここに、現代の新興宗教の多くが反省すべき原点が見つかるわけであります。

反省すべき原点とは、一体何か。結局のところ、自らが悟っておらぬ者が、他人の頭に止まろうとしているハエを追い廻しておる、それが、現在の新興宗教の間違いの大部分であるということです。つまり、自分の頭に止まったハエを追わずして、他人の頭に止まろうとしているハエを追い廻しておる。そして、あるときはキリスト教の新興宗教といい、あるときは仏教系統の新興宗教といい、また、あるときは他の新興宗教といい、人を集めることに汲々(きゅうきゅう)として、それでもって、是(よ)しとしている。

しかし、自分の頭のハエを追わずして、他人の頭のハエばかりを追っておったのでは、いつまでたっても、ハエはいなくならん。他人の頭のハエを気にするのもいいけれども、まず、各人が、自分の頭の上のハエを追い払うことを考える。そうすれば、他人の頭の上のハエをそれほど追う必要もなくなる。こういうことです。

自分がそういう状況にありながら、他人を救おうとしていることが、私たちの霊的なる眼でみたらどれほど滑稽(こっけい)な姿であるか、これを知っていただきたいと思います。


6.自己犠牲の精神と自己処罰の観念


他人を幸福にしようという気持ちは尊いけれども、自己犠牲の精神でもって、つまり、自分を犠牲にして他人を教うという人ばかりが出てきておったのでは、結局、人類というのは、残らないわけであります。人類一般のために、自分を投げ出すという気持ちは尊いけれども、その結果どうなったかと言うと、まあ、神風特攻隊のようになってしまってはならんということです。

たとえ日本人全員が、神風特攻隊になって、敵艦に突っ込み、生命を捨てて、国を守ったとしても、国民がひとりもいなくなれば、それは何の意味もないこととなってしまいます。そういうことであって、やはり、ひとりひとりが幸せになってこそ、初めて、国全体が幸せになってくるのです。

このことは、ひとり仏教のみならず、中国の二千数百年の昔においても、孔子という偉大な人が説き来たった真理でもあります。修身という教えですね。身を修めて、次に家庭が円満となって、その後、治国、平天下、つまり、国が治まり、天下が平らかになる。こういうことを、孔子は言ったのだけれども、これも精神においては、仏教とまったく同じであります。すなわち、ひとりひとりが幸せになって、社会を、国を、幸せにしていこうとしているわけであります。

もちろん私は、キリスト教に言う自己犠牲というものを決して軽視するわけではありません。しかし、それが、ただ悲しみを追うためだけの自己犠牲になってしまってはならぬのです。自己犠牲のなかにも、いかにも悲しみを誘う自己犠牲というのがある。つまり、そうした人は、自己犠牲ということにおいて満足感を得ておるのかもしれないけれども、その人の自己犠牲において、あることが推進されたということは、周りの人びとにとっては、「何もしていないお前たちは罪人だ」とレッテルを貼られていることにもなりかねないわけであります。

と言っても、これは、あまり厳しく言うのは無理があるかと思います。なぜならば、キリストの人生そのものが十字架にかかるような悲劇的な人生であったがために、クリスチャンのなかには、そのような自己処罰観念が、いまだ連綿として続いておるからであります。そして、実は、この自己処罰観念が、長年、人類を苦しめてきたものであります。人間は罪の子であって、とうていそのままでは救われぬ。したがって、罪深き自分であるならば、罪人であるならば、その一身(いっしん)を投げ出して、やっと元に戻るのだ。こういう考え方があると思うのです。

しかしながら、私は、人間を罪人とするこうした考えに対しては、いささか不満を持っております。私は、本来、人類には罪はないと思うのです。本来には罪がない存在、それが、人類の本当の姿であろうと思うのです。そうでなければ、人間が神の子であるということが、決して真理にならないはずです。人間が罪の子であるならば、なぜその罪の子を神が創ったのか。そうした問いに対して、誰が答えることができるでしょうか。

アダムとエバが犯した原罪によって、人類が永遠に処罰されているというような観念、こうした観念を、本当に正気の人間は、信じることができるでありましょうか。


7.神の子の実相を知ることが小乗であり、万教帰一の思想が大乗である


それは、結局、こういうことなのです。交通事故というのがあって、年々、日本でも一万人に近い人が亡くなっているそうであるけれども、この一万人近い死者が出る交通事故を見て、人間とは、交通事故を起こすような存在であるとの定義をするのが、人間罪の子の思想であります。しかし、それは現実の現象を説明しているのみであって、決して人間の本質を説明しているとは言えないと思うのです。

では、人間は車に乗れば、必ず事故を起こさねばならぬのか。オートバイに乗れば、電柱に衝突せねばならぬのか。道を歩いておれば、車に跳ねられねばならぬのか。と言えば、そんなことが人間の本質であってたまるかとなるでありましょう。

すなわち、諸君は、人間は交通事故を起こす存在であるというような、こういう人間観をただちに否定し去らねば、永遠に幸福になるということはできないのであります。

人間の本質は、正しい交通ルールを守って、非常に調和した生活を送ること。それが、やはり、その本分であるのです。本質であるのです。このことを知らねばならぬと思います。決して罪を犯すようにできているわけでもなければ、罪は実在でもない。このことを知らねばなりません。こうした考え方を出発点としなければ、本章の標題である、「人類幸福化」ということは、決して達成できんのであります。

罪の子人間が罪を滅らすことのみに汲々としておるようなことは、人類の幸福化ではないのです。本来、罪なく、汚(けが)れなき純粋無垢(じゅんすいむく)な神の子としての人間が、その本来の性質を取り戻して、そして、さらに素晴らしき大調和の世界を、ユートピアを建設することが、本当の人類を幸福にするための生き方なのではないでしょうか。

まず、自分というものをつくるという仏教の精神の話をしましたが、すなわちこれは、自分が神の子であるという実相をつかむということです。まず、神の子としての実相をつかむ。これが、出発点であります。

神の子としての実相をつかむがために、皆さんは、この私の書物のような真理の書を勉強しておるのではないですか。こうした真理の教えを勉強して初めて、それから後に、その実践ということがあるのではないですか。日々の実践ということがあるのではないでしょうか。知って、かつ、これを実践するということです。これが、人間神の子ということをはっきりと自覚するということになってくるわけです。

知行合一(ちぎょうごういつ)という、中国の王陽明という思想家の考えがありますけれども、これは、決して中国だけの思想ではなくて、現代の皆さんにとっても、非常に大切な考え方であります。まず、真理を知る。その真理とは何か。つまり、人間神の子であるという事実を知る。本質を知る。実相を知る。これが出発点であって、次に行、すなわち、行ないがくる。

行とは、神の子として行動するということです。したがって、もし自分に悩みや苦しみがさまざまに降りかかってくるのであるならば、神の子にこんな悩みがあるか、神の子にこんな苦しみがあるか、神の子がこんな罪を犯すか、神の子がこんな病気になるか、こういうことを常々心に問うて、勇気を持って、力強く行動していかねばならぬのです。

神の子ということをまず知るということ、これが、仏教で言えば、自分づくり、すなわち、小乗の教えに相当するものであります。

さてでは、仏教の大乗にあたる部分は、一体どうなるのであるか。こういうことが、問題でありましょう。これは、すなわち、人間神の子であるという思想をできるだけ多く広げるということではないでしょうか。

そのための手段のひとつとして、万教帰一の思想があるのではないでしょうか。一宗一派に登録すれば救われるとか、そこの会員になれば、それで天国に行けるとか。こういう狭いものの考えをしておったのでは、決して人類幸福化運動というのは実現しないわけであります。志を同じくする者が、日本国内、あるいは、海外を問わず、一致団結して、地上天国を打ち立てるために行動してこその本物であります。

したがって、もし他団体のなかに悪が見え、悪しきものが見えたとしても、それを邪宗として一蹴するのではなくて、彼らもまた、神の子であるのだから、しっかりと両足で立ち直って、神の子として神の国建設運動のために、彼らもまた、活躍してくれるであろうということを祈ることです。これが、大事です。


8.宗教家たちよ、お互いに手を取り合ってユートピアを築け


ですから、現時点において、人類幸福化のために目的をひとつにしておる者同士は、手を取り合って、携(たずさ)え合う。自分が偉い、彼が偉いといったそういう議論はどうでもよいのです。そんなことではなくて、目的をひとつにしておる者は、手を取り合って、行動していくということです。

目的については、まだ漠然としておっても、一応人類幸福化ということを考えており、ただ、教義のなかに誤りがあって、そのため、迷っておる人たちに対しては、根強く、辛抱(しんぼう)強く、彼らを励まし、彼らが正しい方向に向くことを祈りながら、彼らをよい方向へと導いていくべきではないでしょうか。そして、やがては、すべての人が、ひとつの大きな使命のもとに生きていくべきではないでしょうか。現在、最もこの改革が求められているのが、宗教的な世界であります。

一宗一派に偏して、それぞれ、我こそは神の子、他は悪魔の子、こうしたことをやっておるのが、日本の宗教団体であります。こんなことをやっておるから、人びとはその不信感から、決して宗教というものに深入りしようとせんのであります。そうではなくて、本当に地上天国をつくろうとしておるのならば、ユートピアを本当にこの地上につくらんとしておるのであるならば、それを目指しておる宗教家同士が、まず、大調和、ユートピア世界というものを見せなさい。それが、あなたたちの使命なのです。

お前は仏教徒ではないか。お前はキリスト教徒ではないか、と。こんなことを言っておるから、おかしいのだ。キリスト教のなかでも、お前は何とか派だ、いや、何とか派だということで、互いに争っておる。また、仏教のなかでも、お前は自力門だ、他力門だと、こんなことを言って、争っておる。

要するに、人間というものは、狭い心にとらわれて、全体的統一ということを忘れてしまうからです。ですから、この大乗仏教の本質というものを現代に問うとするならば、まず、地上に出ておる宗教家たちは、どうやったらお互いに手を取り合って生きていけるか、と。このことをしっかりと学ばねばならぬのです。そして、努力せねばならぬ。

人間は、どうしても自分に対しては甘くなって、自分が偉ければ人は偉くない、人が偉ければ自分が偉くない、このように二者択一的なものに考えがちだけれども、本来、人間が神の子であるならば、どっちが偉い偉くないというのはないのです。みんな、偉いのです。そうした考えを基礎にして、皆んなで手を取り合って、どうか大きなユートピアの輪を広げていっていただきたい。私は、こう思います。

自分が幸せになり、そして、社会が幸せになっていくという考えこそが、現代に要請されている人類幸福化のための原理ではないでしょうか。私は、そう信ずるものであります。