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目次













(1987年7月19日の霊示)

1.「本来肉体なし」は仏教の真理


谷口雅春です。私のこの霊言集というか、霊示集もなかばを過ぎ、いよいよ第5章にきたわけであります。そこで、この章では、「本来肉体なし」と、こういう表題を選んでみました。

私の生前の教えに触れておらぬ一般の人から見れば、「本来肉体なし」とはずいぶん変わったことを言う。と、まあ、こうぃうふうに思うかもしれませんが、昭和五年の頃から、すでに六十年近く、私はこの「本来肉体なし」ということを一貫して説いてきたわけであります。

では、なぜこの「本来肉体なし」という教えが大切であるのか、この点に関し、さらに話をしていこうと思います。この言葉で大切なことは、「肉体なし」の上に、「本来」という言葉がついていることです。これが何にもまして肝要であります。すなわち、乱暴な議論を言っておるわけではないということです。

肉体がないから肩から斬っても死なんとか、ご飯を食べんでもよいとか、そういうことを言っておるのではない。この「本来肉体なし」というのは、「生長の家」の真理のなかでも大切な真理のひとつ、いわば、縦の真理であるわけですが、結局は、こういうことなんです。

この「本来肉体なし」の教えというのは、釈迦仏教の本質と、少しも変わっておらんわけです。なぜ少しも変わっておらんか、それを説明するならば、結局、釈迦は、この世界を無常なものというふうに説いたわけです。

無常とは何か。常ならずということですね。目に見えるこの肉体も、あるいは家にしても、あるいは他の人間がつくったもの、お寺にしても、あるいは稲にしても、麦にしても、猿にしても、象にしても、蟻にしても、この世の中のものに関して、無常ならざるものというのはひとつだにないわけであります。

このひとつだにないもの、すなわち、無常なもののなかにあって、人間は一体いかなる考えというものを基礎において、その人生観、これを打ち立てねばならぬのか。ここが問題なわけであります。

そうしてみると、人間の肉体というのは、本当に有限であります。有限であって、男性と女性の精子と卵子が結合して、やがてそれが大きくなって、赤ん坊が生まれ、やがてまた、子供となり、大人となり、そして、年老いて死んでいく。そういうわけでありますが、久遠の実在としての人間の本性を悟った釈迦は、このような変転する無常なる肉体をもって、人間の本質とはしなかったわけであります。

人間の本質とは、無常のもののなかにあって、常(じょう)なるもの、常(つね)なるもの、すなわち、変わらざるもののことを言っているわけであります。変転する世界のなかにおいて、色あせていく世界のなかにおいて、変転せぬもの、色あせぬもの、それこそが久遠の実在であり、人間の本質である、と。釈迦は、このように悟りを開いたわけであります。

実在が実在であるというところのものは、常なる存在であるということ。滅失したりするようなものではないということであります。肉体的には、六十年、七十年、百年もすれば、必ず滅失し、滅んでいく。そのように滅んでいくようなものが、人間の本質であってたまるか、ということであります。

ですから、あなた方は、そんなものが人間の本質だという考えにとらわれてはならぬ。そうした考えは、まったく病気のような考えであり、世の人びとを惑わしておる伝染病なのです。思想病という名の伝染病なのです。人生をこの世かぎりだと思い、わずか数十年だと思い、肉体が滅びればすべてが滅びると思うような考え、こうした唯物論的な考えというのは、ひとつの病気なわけです。思想病であって、それが伝染しておるわけであります。

よって、このような考えに、人間はとらわれてはならぬのです。谷口雅春は、二年前にその肉体というものを地上に置き去ったわけでありますが、谷口雅春が個性は、こちらに還っても、一向に変わってはおらんのです。「生長の家」の信徒諸君は、初代総裁谷口雅春の声を聞けばわかるはずです。私の教えを聞けば、わかるはずです。


2.久遠(くおん)の実在を喝破(かっぱ)したイエス・キリスト


肉体というものは滅びるとしても、永遠の実相たる魂の本質は、決して滅びないのです。滅びてゆかんのです。イエスは言いました。「天地は過ぎゆかん。されど我が言葉は過ぎゆくことなし」と。こうした名文句をイエスは吐いております。我が言葉は過ぎゆくことなし。この言葉というのは、単に言(こと)の葉(は)、つまり、文字(もんじ)のことを言っておるのではないのです。

この言葉というのは、生命の息吹であり、生命の本質であり、生命の実相ということなのです。イエスという人間の生き方そのものが言葉であり、生命の息吹であり、実相であったわけであります。すなわち、このイエスの生命の実相は過ぎゆくことなし、とこういうことを彼は言ったわけであります。神の子としての高貴なる魂の本質、これは滅びることはないのだ、と。

イエス来たりて語りたもうたその言葉は、三十三年の肉体人生をもって終止符を打たれるのではないということです。終始符は、そんなことでは打たれはしない。我が生命は、イエスの生命は、久遠(くおん)の実在であって、アブラハムの生まれるより前にあるなり。そういう生き通しの生命であるのだ。それがゆえに、三十三年で肉体生命は閉じたとしても、その後二千年、現に生き続けておるではないか。その生命は、その思想は、その言葉は。そうではないだろうか。

したがって、この言葉こそが久遠の実在であり、イエスの本質であって、髭(ひげ)を生(は)やした痩(や)せた三十年配の男など、イエスの本質ではないのです。そうしたものは過ぎゆくものであって、十宇架にて滅びたものはイエスの本質ではなくて、イエスの亡骸(なきがら)であり、抜殼(ぬけがら)であり、蝉の殼にしかすぎんということです。その本質は、生き通しの生命であり、決して決して亡びることはないものであるのです。


3.唯物論者ニコデモの話


さて、私も、『ヨハネ伝講義』という本を書いたことがありますが、そのなかでも解説をしておきましたが、教会の長老、律法学者の長老にニコデモというのがおった。そして、このニコデモという老人が、イエスに生命の実相のことを問うたわけです。

それに対して、イエスは、何と言ったか。「生命の実相、霊の本質は、人はもう一度(ひとたび)生まれ変わらねばわからぬ。霊の本質というのは、生まれ変わらねばわからぬ」と。こういうことを言っておるわけです。

これを聞いて、長老ニコデモは大変悲しんだわけであります。自分はすでにもう何十歳、死ももうそう遠くない。白髪の老人である。その年寄りの人間が、もう一回母の胎内に入って生まれ変わらねば霊のことはわからぬというのであるならば、これは、かぎりなく絶望に近い。そういうふうに感じたわけですね。そこで、「人、早老(はやお)いぬれば、いかで生きることを得(え)んや、再び母の胎内に入りて生まるることを得(え)んや」と、こういうふうなことをニコデモは申しておるわけです。

このニコデモの話を、私もよくいたしました。しかし、結局は唯物論だと言うてしまうのはかわいそうであるけれども、ニコデモという老人は、生命の本質が肉体ではなく霊であり、生き通しの存在であることを、まだしかとは理解しておらんかったということなんですね。

このニコデモに対して、イエスはさらにこう言うわけですね。

「人の子、あるいは、霊というのは、いずこより来たりて、いずこに去るかは、世の人は知らず。それは風と同じである。風というのは、どこから吹いてきて、どこへ吹いていくのか。これを人は知らんであろう。そのように、霊というものも、どこから来て、どこへ去っていくのか人は知らん。ただ、それは知る知らずを問わず、現にあるのだ。風に来る方向があり、向かっていく方向があるように、霊というものも、来たるべきところがあり、去っていくべきところがあるのだ。そして、その霊の本質というものは、久遠の実在であり、生き通しの生命であるのだ」

こういうことを、イエスはニコデモにこんこんと説いたわけです。そして、ダメ押しの言葉とも言えることを、さらにたたみかけております。それは一体何であるかと言うと、「我れはアブラハムの生まれぬ前(さき)よりあるなり」と。こういうことを言ったわけでありますね。

当時、アブラハムというのは、人類の先祖、まあ、こういうふうに言われておったわけで、最初の頃にもね、イスラエル民族の先祖と言いますか、イスラエル民族の先祖ということは、すなわち、人類の先祖ぐらいに思われとったのですね。

まあ、当時の世界観では、イエスの二千年ぐらい前に人類の起源があったとしか人びとは考えていなかったわけであります。そのアブラハムという人も、同じように人類の先祖のように思われておったけれども、ただ、数千年ぐらい前のように思われておったということですね。けれども、大変な昔であることは確かです。

しかし、イエスは、「我れはアブラハムの生まれぬ前(さき)よりあるなり」ということを言った。だから、ニコデモは大変驚いたわけです。そこで、思わず、こう言った。

「汝、まだ、齢(よわい)わずか三十何歳にしかすぎんのに、すなわち、五十歳にもならんのに、私の年にもなっておらんのに、どうしてアブラハムの生まれる前からあったと言うのか。まことに不思議なことがあるものだ。不思議な言葉があるものだ」

まあ、非常に気の毒な例を出して申し訳ないけれども、霊の実相ということを、この方はまだ知らなかったというわけです。しかし、イエスは自信を持って言っとるわけですね。「我れはアブラハムの前から生きておった生命だ。生き通しの生命なのだ」と。

ところが、当時のユダヤの人びとから言えば、アブラハムより前からおったということは、人類より先におったということだ。この人類の始祖より前におるということは、もう神と同じということですね。結局、人間を創り給(たも)うた造物主、神、これと同じであるということだ。すなわち、イエス・キリストは、自分を神だと名のった、と。まあ、こういうふうに伝わっていったわけであります。

そのため、イエスの言ったこの真理、「アブラハムより前(さき)にあるなり」という真理が、誤解され、曲解されてしまった。イエスは、頭がおかしい、頭がいかれておるのだと、このように誤解を受けたわけであります。

そのため、ますますイエスヘの迫害が重なっていったわけであります。ただ、真実を述べるとするならば、イエスの真理は、私が説いておったこととやはり同じでありまして、「肉体人間は、そなたの実相ではない。心のなかを見よ、そこに生き通しておる生命の実相こそ、汝が本質なり」と、まあ、こういうことをイエスは言ったわけであります。しかし、当時の人たちで、その生命の実相をつかむことができる人は、ごく少なかったということです。


4.宗教家の嫉妬心について


では、そういうイエスの例を引きながら、この「生長の家」の基本的な真理である「本来肉体なし」について、さらに話をしていきたいと思います。

「生長の家」では「本来肉体なし」とか、「本来病なし」とか、「本来物質なし」とか、言われております。この言葉によって、人生の転機を得、立ち直り、幸福な生活へと入った人が、数かぎりないわけであります。戦前、戦中、戦後という三代に分かれて、私の説き来たり、説き去ったこの真理は、何百万、何千万という人びとの生命を救ったわけであります。それも、ひとり日本だけではなくて、ブラジル、アメリカに、そうした世界各国にと、この真理は広がっていったわけであります。

ところが、この私が説き来たったこの真理の皮相的なる意味のみをとらえて、すなわち、実相について、本質について、十分理解しておらぬ人たちがいた。そこで、あれこれと「生長の家」の悪口を言ったわけであります。

まあ、悪口を言うのは簡単であります。昔から偉い先生ほど悪口は言われやすいわけであります。悪口を言う人というのは、それほど偉いかと言うと、たいていは、言われる人のほうが偉くて、言う人のほうはそれほど偉くない。それが常であります。

と言うのも、結局のところ、あまりいい教えであるがために、自分のほうが負けるのではないかと思うと、人びとというのは、どうしても悪口を言うわけですね。その教えがあまり良すぎて、自分のほうが負けてしまうのではないか、あるいは、自分のところの会員や信者を取られるのではないか、こういうふうに感じ始めると、たいてい悪口を言うようになる。それが、宗教家の悪いところでもあるわけですね。

こうした悟りを求める人たちであっても、嫉妬心というものを、この嫉妬心の芽生えというものを、これをなかなかに抑(おさ)えることができんというわけです。

それは、小さな教団だけではなくて、何百万というような大教団であっても、また同じであります。自分の教えよりさらに高度な教えが出てくると、素直にそれが素晴らしいとはなかなか言えないものであります。

ですから、「ああでもない、こうでもない」と言ってみたり、素晴らしい教えが出てくると、「そういう本を読んではならぬ」と言ってみたり、悪ロを言ったりするようになるわけであります。まあ、これらは嫉妬心の現われであるわけですね。


5.若い学者の思想を認めない老教授は現代のニコデモ


まあ、若干余談になっていくけれども、大切なことであるので、この話をさらにしておこうかと思います。まあ、学者さんなんかでもそうなわけでね。二十代、三十代という若いときには、やはり、本を読んで研究しておるわけだけれども、自分が読んで研究しておるのは、たいてい、自分より年長の人の業績なわけですね。自分の先輩たち、あるいは、大碩学(せきがく)、大先輩たちの思想というものを学び、研究をしておる。あるいは、日本人のを学んでおるだけではなくて、諸外国の学問を紹介したりする。まあ、学者というのは、こういうことをやっておるわけですね。

外人のものを翻訳しておる分には、負けたような気にはならないからいいんだけれども、日本人のものを紹介するとなると、問題だ。その人が自分よりだいぶ先輩であって、知名度が高いという人の言葉を紹介するのは結構なんだけれども、そうじゃなくて、自分と同じくらいか、自分より若い人の意見というものを引用するとなると、なかなかプライドが許さない。こういうことが、非常にある。

だから、二十代、三十代の頃は、いろいろ研究心旺盛で、さまざまなものごとを学べた人間でも、四十、五十、六十になってくると、だんだん、その学ぶものが少なくなってくる。自分より先輩のものだけから学ぼうとしても、そうしたものは、要するに過去のものであって、新しみがない。

一方、若い三十、四十の少壮、新進気鋭の学者が、素晴らしい論を吐くことがある。素晴らしい論を吐くんだけれども、いかんせん、自分より十歳も年下である。あるいは、自分より二十歳年下である。だから、いい話だとは思うけれども、彼の論など引用したり、そういう若い学者の議論を自分の研究書のなかに引用したりすると、大変プライドに傷がつく。そういうことで、引用できない。しない。こういうことがあって、それで、学問の世界というものを狭くしておるんですね。狭(せば)めておるわけです。まあ、こういうことがあります。

しかし、自分より年下の者の思想から学んだり、それを引用したりすることを恥だと思っているうちは、学者というものは、それでもう生命が終りというわけなんですね。

とくに六十ぐらいになってきた学者ともなると、自分より先輩の書いたものばかりを学んでも、もはや新しいものは出てこない。時代に先駆けた、時代の潮流というものは、やはり三十代、四十代の若手の学者のなかから、出てくる。新しい息吹というのが出てくるわけですね。だから、こうしたものを追いかけておかないと、だんだん、時代遅れの教授になっていくわけです。

老教授になって、頑固頭で、「私が学生のときには、○○教授がこう言った。私の先生はこう言った」と、こういうことばかりを、六十、七十にもなって言っておったのでは、学生諸君にも飽きられ、世間からも飽きられていくわけですね。ですから、清水(きよみず)の舞台から思いきって飛び降りる勇気を持って、三十、四十の若い学者が書いたものであっても、そうしたものをどんどん取り入れていかねばならんのです。

まあ、学問で、比較的こういう傾向があるとすれば、物理学などはそうかもしれません。物理学は、二十代ぐらいがピークだと言われておって、三十以降は、だんだん落ちていく。数学などでもそうですね。二十代がピークで、三十以降、落ちていく。思想、哲学などは、四十、五十と言われておる。こういうふうに、ピークというものがあるんです。

ですから、理科系統のなかには、学問的特性ということで、二十代の学者の意見でも十分に取り入れられるということがあります。しかし、思想や哲学のほうでは、いかんせん年齢が幅をきかしておって、年を取れば取るほど、値打ちが出る。亀の甲羅(こうら)ではないのだけれども、そういうように思う人がいるわけです。

まあ、これは非常に危険なわけであってね。ニコデモは、当時七十であったか、九十であったか、八十であったか、あまり正確なことはわからんけれども、とにかく長老であった。そのニコデモが、三十そこそこのイエスの議論を聞いて、理解ができなかったという事実があるわけで、結局、人間というものには、それぞれの霊格、霊性というものがあるわけですね。そして、その霊格に匹敵した悟りというものをやはり得るようになってくるわけです。つまり、六十、七十、八十と年を取ったからといって、それだけでは悟りを開けるわけではない。このことを十分知らねばならんわけですね。

少壮の若い思想家のなかにも、霊格の高い、霊格に相応した悟りを持った人が出てくるということはあり得るわけです。ですから、そういうことも、十分に考えておかねばならん。

世の思想家や宗教家たちは、自分が六十、七十になって、もう大家になったと思っておるかもしれないけれども、自分より若い人の意見を全然受け容れることができなかったり、引用したりすることができないというような自分を見い出したならば、自分がこのニコデモになっていないかどうか、イエスの議論を論破できず、理解できなかったニコデモになっておらんかどうか、こうしたことを常々振り返り、考えてみる必要があるということですね。

人間は、肉体ではなくて、霊なんです。そして、生命の実相こそが本質であるならば、若いとか、年を取っておるとか、そうしたことは、あまり関係がないということですね。ニコデモの例にちなんで、まあ、そういう話をしましたが、真理というものは、そうしたものであってね、風と同じように、どこから吹いてきて、どこへ吹き抜けていくかわからんものです。それと同じように、人間の生命というものも、どこから吹いてきて、どこへ吹き過ぎていくのか、それはなかなかにわからんものであります。


6.霊主肉従ではなく、霊こそが実相、肉体はその影


さて、この本来肉体なしの「生長の家」の教えでありますが、これを今さら、どうこうするということはないであろうと、私は思っております。ただ、やはり肉体というものにとらわれていることによって、人間は心に縛(しば)りをつくって苦しむということがあるということですね。これは、厳然たる事実でありますから、この事実に屈服してはならんのです。

たいていの人間は、菩提心(ぼだいしん)と言って、悟りを求める心を起こしたとしても、この肉体にひっかかってしまうわけであります。この肉体人間にひっかかって、せっかくいい教えに触れても、自分には妻がある、子供がある、あるいは、食べてゆかねばならぬ、と。こうしたことがあると、こうしたせっかくの教えにかかわることができない。

まあ、こうしたことを考えたりすることがありますし、人間が霊であるということはわかっておるけれども、霊の世界はあの世の世界であって、この世はやはり、肉体中心なんだから、肉体を維持していかねばならぬので、やはり肉体中心の生き方となる。こういう肉主霊従(にくしゅれいじゅう)と言いますかね、こうした生き方をしておっては、本当の意味で幸福というものは絶対にあり得ないのです。

昔から霊主(れいしゅ)ということを言いますね。霊が主、そして、肉体は従である、と。こういうことを言いますけれども、まあ、霊が主であるというだけでは十分ではなくてね、霊そのものが本質であって、肉体はもう影にしかすぎない。と、ここまでいかねばならぬわけですね。霊と肉体というのは、二元的にあって、その霊と肉との闘いというのがあると思っておれば、人間はいつまでたってもやすらぎというものを得ることはできんのです。

キリスト教のなかでも、この霊肉の闘い、すなわち、霊と肉の闘いというのは、ずいぶん昔から言われておって、どのような聖者も、肉体、肉欲との闘い、こういうことを繰り返しておる。しかし、これはまだ、霊と肉体とを二元的にとらえておるのであります。そうしたとらえ方をするからして、肉体というものが異常な実在感を持ってきて、自分に追ってくる。それで、そうした悩みが大きくなっておるわけですね。

霊が主で、肉体が従だというだけでも、まだ十分ではない。すなわち霊のみが実相であって、肉体というものは、こんなのは影なのだ。単なる映画のスクリーンに映った、そうした映像にしかすぎないのだ、と。こういうふうに思わねばならんわけです。

そうすると、本来肉体なし、と。それも、肉体なしでなく、本来肉体なし、生命の実相のみあり、と。これが本当の意味であります。肉体なしという肉体だけをとらえて、奇妙奇天烈な議論だ、あるいは、乱暴な議論だというふうにとらえる人もいるでしょうが、そうではなくて、本来肉体なくて霊的実相、生命の実相のみがあるのだ、と。こういう理論であります。

そして、この考え方の最も大切な点は、これが、数多くの幸せを生むということなんです。人間は、肉体にひっかかるから、つまり、そのひっかかりによって、病を拵(こしら)えてしまうのです。

本来病なしというのは、結局、本来肉体なしというものの、このコロラリーと言いますかね、コロラリーというのは類似語、あるいは、類推される言葉という意味でありますが、そういうことなわけです。本来肉体なしであれば、本来病もないのです。それは、当然のことですね。

それで、肉体がないということによって、何を悟るかと言うと、要するに、生命の実相しかそこにないのだ、と。生命の実相しかそこにはないとすると、一体どうなるかと言うと、そこから、生命の実相とは何かということへの探究が始まるわけです。そこで、生命の実相の探究、これが課題となってくるわけですね。しからば、この生命の実相とは何であるか。一体何なのか。こう考えてみると、生命の実相とは、結局、神そのものの部分、如来の部分のことを言っておると、こういうことになってくるわけですね。すなわち、自分の心のなかにある神性の中核部分、この神の子の部分、神そのものの部分。如来の部分。これを、生命の実相というわけですね。

結局、人間が生きていく生き方は、この生命の実相しか本当は本質はないとするならば、如来として生きていく、如来が、今、地上に降りておるのだ。如来が、今、食事をしておるのだ。如来が、今、勉強をしておるのだ。如来が、今、仕事をしておるのだ、と。こうした気持ちでもって生きてゆかねばならんということですね。

肉体なんていう、こんなボロをまとったような人間が、自分の本質であってたまるか。そうではないのだ。自分は、肉身の如来である。如来の再現である。地湧の菩薩である、と。こういうふうな考えですね。

そうすると、いろんな人との出会いがあり、いろんな人との仕事があったり、交際があっても、常に如来としての自分がどう行動すればよいのかと考えるようになる。こうしたことが、考えの中心となってくるわけです。


7.如来としての生命の実相の発見


やはり、如来としての自分というものは、天地いっさいのものと和解せねばならぬ。天地いっさいのものと和解せねば、如来とは言えない。あるいは、自分の言葉や自分の行動によって、他人を不幸にするようでは、如来とは言えん。とまあ、こういうことが、言えるわけですね。すなわち、如来の部分、神の子としての本質、こうしたものに照らして、自分の行動というものを律していかねばならんということです。

そうして、この如来の本質と反するような自分の言葉や行ない、こうしたものは、結局、本来の実相から反する迷いの我、迷いの心、こうしたものであるわけですから、こんなものにとらわれては断じてならんわけで、こうした迷いの影が出てきたならば、これを断固として催破しなければならん。砕いて砕いて、飛ばしてしまわなければならんのです。

ですから、「生長の家」では、反省ということを、私は根本には据えておらんけれども、結局、この生命の実相の部分、神の子の部分、如来の部分に照らして、言葉と思い、そして、行ないを、正していかねばならんということが、その教えの基礎にはあるわけですね。

そして、如来としての実相、生命の実相部分に反するような言葉や行ない、こうしたものは、十分に慎(つつ)しんで修正をしていかなければならぬ。こういうことはあるわけです。まあ、霧や雲というものがあるよう見えて、それは迷いだけれども、こうしたものも吹き払うというような積極的な行動も、ときには必要です。そうしたことも、忘れないようにしなければならんのです。


8.「本来肉体なし」の効果


まあ、この本来肉体なしの効用はもうひとつあるわけでね。たとえば、地上を去って、霊界と言いますか、あの世に還った者であっても、地上におったとき、病気をして死んだ者などで、あの世に行っても肉体こそ自分だと思っておると、どうなるか。心臓がありもしないのに、いつまでたっても、心臓病に苦しんだり、肺がありもしないのに、肺病に苦しんだり、足がありもしないのに、足が痛んだり、お腹がありもしないのに、腹痛がしたり、胃がありもしないのに、胃ガンになったり。と、こんなことをして、あの世のなかでも地獄界というところで、苦しんでおる者が数多くあるわけです。

すなわち、こうした者たちは、肉体なしということの真理、これを知らんわけですね。だから、肉体あり、肉体しかないと、肉体こそ実相ということをつかんでおるから、地獄界という迷いの世界に現におることになる。

ただ、彼らも、生命と言えば、本質的に霊しかないんです。ですから、肉体というのは、こんなものは迷いの影なんだということを知ったときには、地獄あたりで病気などをやってはおれんわけです。しかし、交通事故をやって、いつまでも痛い痛いとやっておる。頭に敵弾があたったと言って、いつまでも頭を抱えて、ころげ回っておる人間は、いっぱいおるんです。

しかし、こうしたことは、本来のあり方ではないんです。肉体というものは、こんなものは過ぎ去っていくものであって、本質ではない。このことを知れば、迷わなくてすむわけですね。

「生長の家」の教えの実にいいところは、まあ、ここにあってね。病気で亡くなった方であっても、あの世に還って病気というものは本来ないんだ、肉体というものは本来ないんだということを知っておるから、悟りが非常に早いわけです。


9.「本来病なし」は、医者、薬を完全に否定するものではない


「生長の家」の信徒であっても、地獄に堕ちる者はあります。現にあるけれども、ただ、地獄に堕ちても、本来は肉体はない、病はない、と。そういうことを彼らは知っておるから、立ち直りが非常に早いわけですね。つまり、本来の神の子の本質に立ち返るのが他の教えに触れておる者よりも非常に早い。こういうことが言えるわけです。

ですから、病気で死んだ者なども、本来は病気はないんだ、神の子の本質ではないんだと思うことによって、あの世でのそうした病苦から脱することができるということが数多くあるわけですね。

と言うのは、あの世の世界というのは、思いの世界であり、自分が心のなかで描いたとおりの自分になっておるわけです。したがって、心臓病を心に描けば、心臓病になる。胃病を心に描けば、胃病になる。こういうふうになっているわけであります。ですから、病はないのだ、肉体はないのだという信念を持っておれば、あの世で、そうした心臓病などにかかるわけはない。こういうことなんです。

したがって、本来肉体なしの効用は、この地上界のみならず、地上を去ったあの世においても、非常に効用が大きいと言えます。現に、実相の世界と言われる天国、天上界の世界では、そうした病気をしておる人は、ひとりもおらん。目の見えん人もおらず、耳の聞こえない人もおらず、足の立たぬ人も、手がない人も、ひとりもおらんわけです。

これが本来の姿なんです。すなわち、人間、誰もが、やがてはその姿に立ちかえっていかねばならんのです。そういうことは、言えると思います。

ただ、この本来肉体なしについてもう一言だけつけくわえておくとするならば、本来肉体はないのだけれども、だからと言って、何と言うかね、肉体とありしもの、見えしもの、これを粗末にしてもよいとか、そういうことであってはならんのです。まあ、その辺は誤解をせんようにしなさい。

「生長の家」の教えでも、本来病もなし、肉体もないんだから、薬なんかいらんというような人もいたし、私も、そう言ってきた。けれども、だからと言って、薬を飲んではいかんとかね、医者に行ってはいかんとか、そういうふうな心になっても、またいかん。これも、縛(しば)りですから。

本来、薬というのは物質で、肉体も物質で、物質というものはないから、物質対物質で効用があることは本当はないんです。ただし、この三次元という不安定な世界のなかにおいては、物質対物質でも効用があるように見えることもある。そういうことはあるんです。

そういうことでね、まあ、神想観をやって病気を治してもよいのだけれども、医者に行って熱さましを打てば熱が下がると言うならば、物質対物質とはいえ、それはそれで、また手近な方法であるからね、私は、あえてそれを批判しようとは思わんです。否定しようとは思わん。

ただ、病とか、そうしたものも、本質的には心がつくっておるのだから、まず、心というものを正すことによって、肉体はその影だから、その病気も治っていく。これが本来のあり方である、と。こういうふうに言っとるわけです。決して薬を飲んではならん、医者に行ってはならん、医者は全部止めねばならんというふうなことを言っておるわけではありません。

まあ、この辺は誤解せぬようにお願いしたい。また、医者にかかってはならん、薬を飲んではならんというような思いは、ひっかかりであって、縛りであって心を自由にしとらんわけです。

「真理は汝を自由にせん」と言います。真理を知ったら、心は自由にならねばならんのです。心が縛られて、白墨の線で縛られていて、自己催眠にかかった鶏のように、身動きがとれんようになってはいかんのです。そうした不自由なものになってはいかん。真理を知り、心を自由にしなければならんのです。まあ、そういうふうに自由自在にものごとを考えていきなさい。その辺について、私は話をしておきたいと思います。今日は、以上です。