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目次












(1987年7月25日の霊示)

1.本源の神と高級霊


谷口雅春です。いよいよ本書も、第7章まで進んでまいりました。本章においては、日本神道、これについての、まあ、如来界に還っての、私の現時点での考えというものをまとめてみたいと思います。

まあ、これは、生前の私の考えの確認でもあり、また、一部、考え方の修正ということでもあります。そうしたことで、大変大切な話でもあるので、「生長の家」の信徒の諸君のみならず、日本国民、それから、やがてはこの書も翻訳されて、諸外国にもわたっていくやも知れぬが、諸外国の諸君にも、よく聞いていただきたいと思うのです。

二年ほど前、地上を去って、この如来界という世界に、今、私は還って来ておるわけだけれども、こちらに還ってから、新たに学んだことというのが、結構数多くある。その数多く学んだことのひとつとしては、いわゆる高級霊、これと神と言われていたものとの共通点と相違点であります。

私は生前、神という言葉を、第一義的な存在、絶対の存在としてとらえておりましたし、その神の、要するに本質が、さまざまな人間に宿って、その生命の実相となっておる、と。このように話もしておったと思うのです。

ただ、私も今、こちらに還って、少し言葉を言いたしておかねばならぬと思うことは、やはり、神とは何かということに関する説明でありましょう。

すなわち、万教帰一を唱え、最高の神法を説いてきた谷口雅春であったと、自らは思っておったわけですが、私の六十年の講演、執筆活動も、まだまだ法のすべてというものを網羅(もうら)はしていなかった、と。そうしたことを、強く強く感じるわけであります。

と言っても、私の書いたものや、語ったことが、決して間違っておったというわけではありません。ただ、その私の視野のなかにも、やはりまだ十分でない面があった、これは否(いな)めない。こういうことが言えると思うのです。

そこで、こちらに還って、私は、どうした点について若干違うなと感じたか、このことを話をしておかねばならんでしょう。それは、ひとつには、日本の神というものに対する考え方です。まあ、私は、神も仏も、そういうものは本質的にはひとつのものであると、こういうふうに説いてきたし、それ自体、少しも間違っておることではないのだけれども、いかんせん、神として現われているものにも形態の差があり、段階の差があるということ、これを今、認めざるを得なくなってきたのです。

地上に生きておる人間が、神というような存在で称(よ)んでおり、名前を持ち、人格を持っておるように言われておる神というのは、これは高級霊としての神であって、やはり本当の本源の神そのものではない。こういうことが、だんだんにわかってきたわけであります。


2.別棟マンション的な高級霊界の縦割り構造


そして、高級霊の世界のなかにも、さまざまな縦割りの構造があるということ、これもまた、私がこちらに還ってから学んだことであります。今までは、霊の世界も、主として横割りの世界だというのが、中心にとらえられておったようであります。

すなわち、まあ、幽界であるとか、霊界であるとか、神界であるとかいうような、こうした階層でとらえた、横割りの霊界の考えというのがあった。こう思うわけでありますが、こちらの世界に還って感じたことは、こうした横割りのみではなくて、縦割りの構造もある、と。こういうふうな感触を持つにいたったわけであります。

それは何かと言うと、そうだねえ、まあ、ちょうど大阪で言えば、昔、万国博があったあたりのほうには、ずいぶん高層住宅街というか、マンションが密集しているような地域がありますが、ちょうど、ああいうマンションの密集地域にもよく似た感じがするわけです。

この高層マンションというのは、十階、二十階建てのものであるけれども、あっちこっちに、棟(むね)があるわけですね。いろんなところに棟があって、それぞれのところで、たとえば、十階建てなら十階建てということで、住民が住んでおるわけですね。十階に住んでおる住民、九階、七階に住んでおる住民、一階、二階に住んでおる住民、と。ま、こういうふうになっておるわけであります。

それぞれのマンションマンションで、住民の自治というのが行なわれておる。そして、それぞれのなかに、やはり世話人がおって、そのマンションのなかで、いろんな取り決めをして、生活をしておる。その隣にも、そのまた隣にも、違ったマンションがあるけれども、お互いに、それがそれほど干渉し合わずに、それぞれの建物のなかで、住民が建物の空間を区分所有しながら、そのなかでまた、自治をやっておる。こういう姿であろうと思う。

そして、建物のなかに、問題がある人なんかが住んでおる場合には、住民が意見を出し合って、一致してその人の退去を求めたり、まあ、こういうことをしておるようである。たとえば、管理費をいくらにするとか、階段の便が悪いとか、隣の騒音がうるさいとか、こうしたことを住民同士が意見を出し合って、決めたりしておる。そういう管理組合があるように思われる。あの世の世界に還って見てみると、ちょうどこうした高層マンションの棟のような、こうした感じになっておるわけですね。

A号棟、B号棟、C号棟というふうにあるわけだけれども、A号棟の十階に住んでおる人と、B号棟の十階目に住んでおる人とは、同じ高さのとこにおるわけです。ただ、お互いに会うためには、まず、エレベーターに乗って一階まで降りて、隣の棟に行く。あるいは、その途中にある中庭で話をするなりしなければ、意思の疎通はできない。まあ、こういうことがあると思う。

そういうふうに、同じようになっておって、まあ、地球でも、各地で、地域別に、ある意味での霊団というのができておる。もちろん、この霊団も一定不変のものではなくて、時々別々にその構成員が変わりつつあるわけですけれども、アメリカにはアメリカの霊団が、アフリカにはアフリカの霊団が、中国には中国の、日本には日本の霊団というのがやはりある、ということは事実です。

たとえば、県でもいい、大阪に住んでおる者が、東京に移転して来たり、あるいは、北海道の者が九州に移転したりすることがあります。あるいは、日本に住んでいる者がブラジルに移住したり、ブラジルの者がアメリカに移住したりと、まあ、こういうことがあるように、移住ということをしなければ、原則は、自分のおる地域で生活をする。まあ、こういうふうになっておる。

で、霊団から霊団への移行ということももちろん可能であるけれども、原則はそうした地域というか、霊域で共同生活をしておる。まあ、こういうことが言えると思うわけです。してみると、ここでひとつ、新たな事実というのが出てきたわけであります。

その事実とは、何であるか。すなわちそれは、結局、日本には日本の霊団があって、他のイスラエルの霊団、インドの霊団、中国の霊団とは、多少色彩が異なっておるということです。これは、先ほど言ったマンションで言えば、日本という大きなマンションがあって、そこにさまざまな霊たちが住んでおって、主として、日本を中心にして、転生輪廻を繰り返して、勉強しておる、と。まあ、こういうふうなことが言えるわけですね。

そうすると、日本における神と言われているものの存在は、もちろん神というのを究極の神であり、ゴッドというふうに考えるならばですが、そのゴッドは、そうしたマンションに住んでおるようなゴッドではあり得ないことは当然であるけれども、マンションというものがある以上は、そこの責任者なり、管理人がおるということですね。これがおるわけです。最高責任者がおるわけで、A号棟にはA号棟の最高責任者がおり、B号棟にはB号棟の最高責任者がおる、と。まあ、こういうふうになっておることがわかるわけです。


3.仏教伝来と日本の神道の困惑


もちろん私は、キリスト教であろうが、仏教であろうが、神道であろうが、真理はひとつということは説いてきたし、実際、そのとおりであるわけですけれども、キリスト教系の霊団と、日本神道系の霊団では、多少色合いが違っておることは、事実であると思います。それは、なぜか。日本には、古来から神々と言われる高級神霊が住んでおったわけです。そして、そうした高級神霊が中心となって、日本の国を治めてきておった。こういう事実があるわけですね。

西暦で言うと、五百三十八年であったか、百済(くだら)のほうから、まあ、韓国だな、今で言う、百済(ひゃくさい)と書く百済という国から、仏教が伝来して来た、と。こういうふうに言われておるが、その頃に、物部(もののべ)氏とか、蘇我(そが)氏とか、こういう豪族同士で、仏教を日本に入れるか入れないかということで、大変な争いがあったということは、読者の諸君も、中学校や高校の教科書で、おそらく習ったことがあるでしょう。

まあ、このときに、蘇我氏などは、仏教の導入ということに努力をいたしたわけであります。しかし、物部氏というのは、そういうことをすると、日本の古くからの神々の機嫌(きげん)というのを損(そこ)ねて、国にいろんな災難やいろんなものが起きる、ということがあるから、それであってはいかん、と。異国の神々を入れるべきではないと言ったわけです。

仏教というのは、だいたいがインドの神ではないか。インドの神を日本に入れるとは何ごとか。この神聖な国が侵(おか)される。まあ、こういうことを言っておった。蘇我氏は蘇我氏のほうで、現在で言えば、万教帰一理論みたいなことを言っておったんであろう。異国の、つまり、唐土(もろこし)と言うかのう、唐(から)の国、唐の国のそうした神々であっても、真理はひとつ、そんないい教えであるならば、これを日本に入れることに一体何の異議があるか。日本の神々も、それを決して迷惑がったりはせんであろう、と。まあ、こういう議論があったわけですね。

そして、蘇我氏と一緒に、聖徳太子、若き日の聖徳太子なども、仏教の移入ということをずいぶん盛んにやったわけであります。事実、聖徳太子のおかげで、仏法が広まり、同時に、それと同じように、中国から入ってきた儒教も日本の精神のなかに流れてきた。まあ、こういうことがあったわけですね。

聖徳太子などは、篤(あつ)く三宝を敬えと、まあ、こうしたことを話しておったようです。三宝とは、「仏法僧(ぶつぽうそう)」なり、と。仏法僧と言うのは、仏(ほとけ)、つまり、釈尊ですね。釈尊を敬うということ。「法(ぽう)」というのは、法ですね。つまり、釈尊の説かれた教えを敬うということ。「僧」というのは、これは僧団、集団ですね。釈迦教団、この教えに帰依するということです。すなわち、こういうことが大事だということを言ったわけですね。こういう動きがあったのであります。

さて、ここで、この仏教の日本伝来に関して、天上界ではどうであったかという問題があろうと思うわけです。やはり天上界でもすんなりと受け入れられたわけではなくて、地上でそうした争いがあったというのは、天上界においても、そうした問題はあったわけです。

日本の神々、伝統の神々というのは、日本の国は我らの教えで統一していくのだ、と。そういう意志が非常に強かったし、これに対して、仏教系の諸如来、諸菩薩たち、こうした高級霊たちは、いや、日本の国にも仏法というのを広めておかねばならんのだ。そうして初めて、本当の教えというのが広まるのではないか、ということを主張する。

日本の神々は、やはり我々は、我々のマンションならマンションの規約があって、管理組合がちゃんとやっておるのだから、よその管理組合が来て、口をはさむ必要はないのではないか、と。まあ、こういうことを言っておるわけだが、隣のマンションの管理組合が来て、いや、うちはこういうやり方をやっておるが、これは非常にいいやり方だ。こういうやり方を取り入れたら、お宅もうまく運営がいくだろう。このやり方を取り入れてはどうかと、おせっかいにも、まあ、そういう意見があるわけですね。

そこで、この調和をどうするかということなのですが、結局は、日本の歴史から言えば、隣のマンションの管理組合の意見を容(い)れて、仏教だの、儒教だの、あるいは、後には、キリスト教などが入ってきたわけでありますね。

したがって、神は唯一のものではあるわけですが、マンションに住み分けたときには別々のものになっておって、多少個性の違いがある。つまり、それぞれのマンションで自治が行なわれているから、この自治を侵されると思うと、住民たちが反対する。まあ、こういうことが現実問題としてあったわけです。この自治の問題と万教帰一の理論、すべてが唯一の神から流れてきているという理論との間に、こういったくい違い、矛盾があったわけですね。まあ、こういうことが言えると思います。

そこで、物部氏、蘇我氏の争いがあって、物部氏が滅ぼされて、蘇我が勝ったり、やがてはまた、その蘇我氏も滅ぼされたり。まあ、地上での勢力争いと、神仏のどちらの教えが正しいかという争いという、こうしたものが昔あったわけですね。


4.日本の歴史と真理の流れ


そして、その後、聖徳太子以降と言いますかね、神仏習合(しゅうごう)と言いまして、神と仏とがごっちゃになってきたような信仰というのが、平安時代にずいぶん盛んになってきたわけですね。あるいは、本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ)と言って、どっちがもとでどっちがそれから分かれてきたものか、まあ、こういう考えが出てきたわけですね。

たとえば、日本の神が主であって、仏というものは、これに従うものなんだ、そういう神の脇座としての仏があって、仏教というものがあるんだ、と。こういうふうに理論づける人もいたり、いや、その逆である、仏というものがまずあって、その下に神々もいるんだ、と。まあ、こういうふうに言っておった人もおる。

こういうふうに、異教の仏教理論と、日本の神道とを習合させる、どうやって一体にするかということで、ずいぶん長い間の苦労があったわけですね。その間には、芸術的には仏教芸術と、そうした神道芸術とのかなりの交り合いというのができてきたわけであります。

時代の流れを見てくると、だいたい平安時代は、その仏教と神道とが、入り乱れておって、最澄、空海などを中心として仏教がやや優っておったような観が出てきた。この流れは、やがて源平の時代から鎌倉時代に入ってくると、仏教の流れが急に強くなるわけですね。すなわち、仏弟子、こうした過去世の釈迦弟子たちが数多く日本の鎌倉の地に生まれて来て、仏法を広めたからであります。こうして、鎌倉時代以降、仏教というのが、日本にはっきりと根づいてくるようになるわけです。これは、まあ、仏教というのがひとつの勝利をおさめたと言えるわけです。

それに反して、神道のほうは、やや下火になってくる。奈良時代ぐらいにはまだよかったんだけれども、平安以降、ちょっと下火になってきます。しかし、江戸時代の後半頃から、復古神道という動きがあって、平田篤胤(ひらたあつたね)であるとか、本居宣長(もとおりのりなが)であるとか、こうした人たち、つまり、神道系の人たちが出て、復古神道ですね、これを始める。まあ、こういうことがあるわけです。

そして、明治期に近づいていくわけですが、この間に、天理教であるとか、あるいは、天理教の以前には、金光教、黒住教、こういうのがありましたね。金光、黒住、天理、それから、大本、それから、PL教団ね、まあ、PLも、どちらかと言うと神道系統でしょう。こうした流れがあったわけです。

そして、この大きな流れのなかに、「生長の家」もあったわけで、結局、江戸時代以降、この仏教にだいぶ追いやられていたものが、神道の復権、日本神道の復権ということで、江戸以降やってきたわけです。そうした流れがあったわけですね。

そうなってくると、鎌倉、室町期にあれだけはやった仏教が、今度は、若干下火になってくる。だから、仏教系統では、それほど偉大な方は出て来ない。まあ、こういうこともあったと思うんですね。

また、明治期になると、今度は、キリスト教というのが入って、植村正久(まさひさ)と言うのかな、あるいは、内村鑑三、まあ、こういう人たちがずいぶん出て来て、教えた。こういうことがあるわけです。

このように、日本の歴史、この真理の歴史というものを振り返ってみると、やはりそこには、いろんな特色ある教えが綾(あや)なして、現在の真理の状況ができてきている。こういうことが言えるわけですね。ただ、これをもって、いけないものだと判断するのは早計であります。

皆さんは、綱(つな)というものをご存知だと思うが、綱というものは、ああいう太い一本のロープでできあがっておるものではないんです。

直径五センチ、あるいは、十センチあるかもしらんが、たとえば直径十センチのもので一本の綱をつくったところで、あれほど強くはならんのです。綱というものは、小さな繊維、糸がよれてよれてして、何十本、何百本、何千本とよれて、そして、あんな強いものになっておるわけです。

だからこそ、どんな船でも動かすことができるし、どんなものでも引っ張ることができる。そういう力を持っとるんです。

あれが、たとえば、プラスチック、あるいはセルロイド、そうした化学製品でも何でもいいが、偶然にそうしたひとつのもので、五センチ、十センチの直径の綱をつくったら、丈夫になるかと言うと、そうでもない。やはり小さな一本一本がより混ざっておって、そして、強くなっておるのですね。まあ、こういうことが言える。

それから、着物なんかでもそうだな。縦糸と横糸がうまく重なって着物というのができあがっておるな。服の折り目と言うか、縫い目ができて、そして、きれいな着物ができあがってる。これとて、新聞紙をくり抜いてつくったような一枚きりの、そういう布地でできておってよいかと言うと、そうでもない。やはり縦糸と横糸があって、それでもって織ってきたものだから、あれだけの強さというものがあるんだ。布にね。それだけの強さというものがあるわけです。

こういうふうになっておって、決してひとつの流れだけがいいというわけではなくて、日本というなかにも、そうした仏教も、キリスト教も、神道も、混ざり合っておって、ひとつの素晴らしい糸、あるいは、綱というものがよれておるわけですね。まあ、そういうふうにものごとを考えてみる必要があります。


5.肉体天皇が天皇ではない


そうしてみると、日本神道についての正しい考え方、まあ、これが出てくるわけですね。私は、生前、天皇制についてずいぶんその擁護論、あるいは、主張論、これを言ってきましたし、その見解は、現在でも変わってはおりません。現在でも、変わってはおらんのです。日本という国は、やはり天皇というものを中心とした、そうした統治国家であるべきだと思う。なぜそうかと言うと、まあ、本来であれば、神、神というものが国を治めるのが筋だけれども、そういう神というものがない以上、神の精神を体現した天皇というものが必要となる。これは日本の国の象徴だと言われておるけれども、まあこれは、神の象徴であるわけですね。

国を治めるには、その道徳的中心、これがなければならない。こうしなければ、国というものは、治まらないのです。まあ、こういうことがあったわけですね。それで、そういう国を治める中心というものは、それはもちろん、神理を悟った人がおればそれでいいんだけれども、現在の宗教界を見るかぎり、この人なら国が治まるというような、真理を悟った人、神理を悟った人が出ておるわけでもない。まあ、孔子がおれば治まるかもしれず、釈迦が統治すればまとまるかもしれず、イエス・キリストが統治すればまとまるかもしれぬが、そうした人が連綿と時代を背負っていくということは、不可能に近い。それもまた、事実であります。

こうしてみると、日本の天皇制というのは、もちろん、親子代々につながっておるもんだけれども、この肉体天皇をもって、天皇と考えるのは間違いである。そうではなくて、天皇制のなかにある、精神というものを汲みとらねばならん。私は、そう思うわけですね。天皇を単なる肉体を持った人間だと思えば、そうしたものに帰依したり、そうしたものに誓ったりするのは、これは間違いでありましょう。そうしたものではなかろう。ただ、天皇というもののなかに流れておるのが、これは、日本の国体の象徴であり、日本精神の生命なわけですね。これが、昔から連綿と続いておるわけです。

もちろん、これに代わるような偉大な象徴が現われれば、それはそれでもいいわけだけれども、現在では、それは期待できないと私は思うし、また、日本の皇族というものも、これは二千年以上の歴史がつながってきたものです。連綿としてつながってきたということ、そして、将軍家が滅びても、幕府が滅びても、天皇家は滅びなかったということは、これを生かそうとする力が、霊天上界から、働いておるということなんですね。生かそうとしておる。

それを生かそうとしている力は何かと言うと、これはやはり、天照大神の力であり、また、天之御中主之神の力なのであります。つまり、日本を神国として維持していくために、そうした天皇家の血筋を絶やさぬように、二千年以上にわたって、守ってこられたわけです。そこに、国体としての神国日本の理想があるからですね。


6.戦後民主主義への疑念


これはね、皆さんには、民主主義というのを戦後いいことだと思って、民主主義と言えば何でもかんでもいいと、そういうふうに思うておるが、そこには、大変な考え違いがある。教科書で教えられておるので、民主主義がいいもんだとはやのみ込みをして、皆んな、そう言っておる。しかしながら、偶然にバラバラにできあがった肉体人間が偶然に競争して、多数決でものごとを決めるというようなのが民主主義であるならば、こんなものに一体何の意味があるか。そういうことに対して、私は、強い疑念を感じるわけであります。

では、地上に生きておる人間というのは、それはど万能なものなのか。神の代わりに判断ができるほど、それほど偉い人間たちなのか。そう考えてみると、それは、否であります。そんな偉い人間などおらんのです。そうした凡人が集まって多数決でものごとを決めて、それでどうなるのか。まあ、最悪の政治にはならんであろうがね。

民主主義とは、最悪の政治を防ぐという意味があるわけですね。独裁制による最悪、これはヒットラーだとか、ムッソリーニとか、そうしたものでも、実験されておるけれども、こうした独裁制を防ぐという意味では民主主義はいいけれども、民主主義そのものは、最高のものではないんです。

本当の最高の統治、政治というものは、その中心に、やはり、神というものを持ってこなければいかんのです。唯一なる、神に帰依する気持ちでもって、人間というのは謙虚に生きていかねばならんのです。まあ、それが本当なんですね。

ですから、本来であれば、「生長の家」のような真理の団体があって、この団体が日本国中に広がって、日本中の支持を受けることができるならば、「生長の家」の総裁が日本を治めてもよいのだけれども、残念ながら、「生長の家」にしても、信徒四百万足らず、三百、四百万しかいない。これだけの納得しか得られておらんのです。

しかし、天皇制というのは、一億人以上の人の納得を得られておるわけです。まあ、こうしたものが現にある以上、これを中心にして、日本の国というのがまとまっていくことが大事なのではないか、と。であるからして、多数決主義の民主主義というものをもって、最高と思ってはならんのです。欧米のものだからと言って、最高だと思ってはならんのです。

戦後きた民主主義って、一体何だ。それは、選挙制度による落選、多数決主義、そして、金権政治。それから、民主主義が生み出したものは何だ。男女の自由の生活度。それによる堕胎の増加。こうしたことで、一体国がどう良くなったんだろうか。誰もかれもが自由だ、自由だと言いながらも、家庭がどんどん崩壊していく。カップルは、どんどん離婚していく。アメリカのように二人にひとりが離婚するような、そうした社会が本当に民主主義でいい国なのかどうか、これをもうひとつ考えてみなければいけない。

やはり、人間というものは、自分の「我」というものを競わすと、だんだん悪くなっていくものなのです。民主主義の根底にあるのは、「我」と「我」、これの争いです。「我」と「我」が争って、「我」の数が多ければそれで勝てるようになっておる。こういうことではいけないのであって、人間というものは、「我」を捨てねばならんのです。「我」を捨てないところに、本当のやすらぎはないし、本当の幸せはないのであります。

では、「我」を捨てるためにはどうするかと言うと、やはり精神的なるもの、大いなるものに帰依する、それが大事です。大いなるものに帰依するということによって初めて、目覚めることができるのです。「我」を捨てることができるわけです。

したがって、諸君よ。セックスの自由を民主主義だと思うな。そんなものをいいと思うな。堕胎の自由をもって、民主主義だと思うな。人間が解放されたと思うな。肉体人間の「我」ばかりを解放して、勝手気ままに競争させて、多数決になって、それでいいと思うな。そんなものでもって、本当に素晴らしい政治だと思うな。素晴らしい国だと思うな。そんなもんであってはいかんのです。

「我」というものを捨てよ。そして、本物の神性、「神の子」に目覚めよ。本当の「神の子」に目覚めたら、そこに中心帰一なる神への大いなる帰依というものが起きてくるはずです。そして、その帰依というものは、結局のところ、日本を主宰しておる神への帰依であります。

日本を主宰しておる神というのは、天照大神様であり、また、その背後において、日本神道の中心神を成しておるのが、天之御中主之神であられるわけです。


7.一国を治める上での精神的中心の重要性


こういうことで、日本というのは、日本人精神というのは、連綿として長く伝わってきたものであります。この日本人の美しい心情、日本の国を中心とする、こうしたユートピア世界を守っていくためには、私は、そうした精神的中心というものが非常に大事だろうと思う。

戦争中、あれだけ天皇制を支持した人たちが、戦後は一転して、天皇制を笑い、天皇制に対して、要するに嘲笑うのをもって、知識人の証明であるかのように言い、そして、まあ、左翼化したと言うかね、左がかったものの考えをすれば進歩人であるかのような振りをしておる。こういう似非(えせ)進歩人、似非知識人たちを、私は非常に悲しく思う。

これはなぜかと言うと、すなわち、天皇制というものを肉体天皇制とみるから、そうなるんである。肉体を持った天皇が、どうこうと言っておるのではないのだ。天皇制という天皇のなかに流れるその精神は、肉体天皇ではなくて、高貴なる天照大神、天之御中主之神へとつながるものなのだ。そうした、崇拝の思想というのがそこにあり、そこに秩序の思想と、徳治主義の思想というのが流れておるのだ。

この思想を忘れたときに、日本は得手勝手にいろんなことを自由にやる、馬鹿なガリガリ亡者たちの民主主義となってしまう。そんな国にしてはならん。断じて、そんな国にしてはならん。私はそう思うわけであります。

まあ、霊界まで行ってまだ、天皇制の擁護をしておるのか、谷口雅春はずいぶん時代遅れの人間だとおっしゃる方もいらっしゃるかもしらん。しかし、この二千年以上にわたって、日本の国というものをまとめてきたのは、やはり、この天皇制という、ひとつの制度であったということ、これを忘れてはならんのです。それは単なる統治の制度ではなくて、そこにあるのは宗教精神の権化であり、宗教精神の顕現であったということ、その現われであったということ、これを忘れてはならんのです。

天皇制に代わるような、偉大なる真理が打ち立てられたときには、また別の選択もあるでしょう。ただ、誰もまだそうしたことに成功していない以上、こうして連綿と並んできた、流れてきた、二千数百年流れてきたこの天皇制というものに対するちゃんとしたものの考え方、つまり、けじめのある、礼節のある考え方というのが大事ではないか。私はそう思うのであります。

まあ、日本でも今、自民党だ、社会党だ、公明党だと言って、政権争いしていろいろやっておるが、もし彼らが日本でいちばん偉くなってしまえば、日本の国というのは治まらない。そんな金権制度、金と投票だけで決まるような政治で、日本の国が治められると思ったら、大間違いだ。やはり、精神的なるものが、大いなるものが日本の国を治めておって初めて、動くのである。そういう考えを、私は大事にせねばならんと思うのであります。


8.日本の国をユートピアにすることが日本人の義務


まあ、大まかな考え方ではありましょう。あるけれども、ただ、私が若干の修正が必要だと思うことは、私が生前において、宇宙の根本神、こういうふうに思っておった天之御中主之神というのは、実はそうではなくて、日本神道の中心神、中心の高級神霊であった、それが、はっきりとわかったということであります。

そして、日本神道以外のなかにも、そうした高級霊団があって、それぞれに治めておる高級神霊がおるということ、これを知りました。こういうことがあるということを知りました。日本神道の教えと違う教えもまた、説かれているということを知りました。まあ、こうした違いというものを、今、私は認めるにいたったわけであります。

そういう違いは違いとして、認める。そうしたものの正しさがあることも認める。しかしながら、やはり日本人は、日本に生まれた以上、日本という国を誇りにして、日本の国の歴史というものを誇りにして、日本の国の中心神、根本神というものを信仰の中心に据(す)えていくのが筋ではないか、とそう思うわけであります。

天之御中主之神が宇宙をつくったわけではないけれども、まあ、天之御中主之神と同じくらいの霊格を持った神も、何十かは他の霊団にもいられることを私は知りましたが、ただ、日本人が日本に生まれた以上、そうした日本神道の高級神霊を信仰の中心に据えるのが筋ではないだろうか。

仏教なり、キリスト教なり、他のいろんな教えがあるけれども、そうしたものをいたずらに排斥するのではなくて、自分の信仰を強め、真理の理解を助けるための、そうした補強材料として使っていくべきではないのか。そういう考えが日本人として、いちばん大切な生き方ではないだろうか。私はそう思うんですね。

まあ、これに対しては、反論する人もいるでしょう。日本人、日本人と言って、日本人にとらわれるのはおかしい。そんな愛国主義っていうのはナンセンスである。じゃあ、お前が中国に生まれたらどうするのか。イギリスに生まれたらどうするのか。インドに生まれたらどうするのか。インドに生まれても、日本神道を信仰するのか。アメリカ人であって、日本神道を信仰するのか。そんなことあり得んだろう。魂というのは、転生輪廻をするんだから、どこの国に生まれるのかわからんのである。それにもかかわらず、そういうことを言うのはおかしい、と。そう言われる方がいるかもしれない。そこで、それについても話をしておきましょう。

諸君はね、道元禅なんかでも学んでおられるように、今を生きておるのです。今を最高に生きる以外に、諸君の人生の修行というのはないのです。アメリカに生まれたときには、アメリカのために一生懸命生きればいいのです。インドに生まれたときには、インドで一生懸命生きていいのです。それでもって、ユートピアができていくんです。

日本に生まれたなら、日本をユートピアにし、日本の国を理想的にするのが諸君の仕事なんです。あなた方が手をこまねいていれば、アメリカ人が来て、日本を良くしてくれるなどとは、決して思ってはならん。日本を良くするのは日本人である。そういう自覚は大事です。そして、それが世界がユートピアになる第一歩なんです。

いろんな国がよその国へ行って、そこをユートピアにしようなどとすると、そこで、戦争が始まって大変なことになっておることは、ご承知のとおりです。まず、自分の国は自分たちの力で、ユートピアにしていく。仏国土にしていくことが大事なんです。

そうであるならば、転生輪廻があるから天皇制はおかしいという考えは、ナンセンスであります。日本の国土に日本人として生まれた以上、そこで、そうした、何と言うか、正しい信仰を持って生きる。これはほめられることであっても、嘲笑われるようなことではないのであります。他の国に転生したときは、そこでまた勉強しなさい。それはそれでよろしい。

ただ、日本という国を素晴らしくするのは、日本に生まれた皆さんであって、インド人やヨーロッパ人では決してないということ、これだけは忘れてはならん。ま、そうしたことを話しして、本日の話は終りといたしましょう。