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目次


 2.富と執着












(1987年7月25日の霊示)

1.百事如意、無限供給を説く「生長の家」


谷口雅春です。いよいよ私の霊言集の第二集の8章、「無限供給の原理」というところまでこぎつけたわけであります。まあ、そこで、本書を締めくくるにあたって、この「生長の家」の初期の頃から一貫してあった「無限供給の原理」について、初学者にもわかるように、その真理の骨格をお話ししておきたいと思うわけであります。

初期の「生長の家」の運動においては、主に二つの大きな奇跡が起きてきた。第一の奇跡というのは、すなわち、書物を読んで病気が治る人が続出した。そういう奇跡であった。まあ、これは、まだ読者の皆さんも、記憶に新しいところでありましょう。

第二の奇跡というのは、この「無限供給」、あるいは、「百事如意(ひゃくじにょい)」という言葉で表わされるがごとく、思うがままの人生の展開ということが、それぞれの読者の、あるいは、会員の身の上に起きてきたことであったというわけです。

自己実現の問題に関しては、また、折りがあれば、別途詳しい話を私はしたいと思っておるが、本章においては、とりあえず、この「無限供給」ということに関して、焦点を絞って話をしていきたいと、このように思います。

この「無限供給の原理」というのは、誤解をされたことも数多くあります。この言葉じりをとらえて、谷口雅春は金もうけばかりやっておるとか、人間の欲をそそって迷わしておるだとか、このようにマスコミとか、他の宗教家から陰口を言われたこともあった。これも事実です。

まあ、確かに「無限供給」というような響きのいい言葉であるから、これは悪用される可能性も非常に強いわけであって、一部の良識ある人から、そうしたおそれに関して警告がなされたのも、これは故(ゆえ)なきことでもなかろうと思う。まあ、そうした良心的なる警告の面が半分と、残りの半分は、やはりやっかみもあったであろう。私はこのように感じるわけであります。

宗教家というのは、残念ながら自己実現が下手な連中が非常に多いわけです。たとえば、神社の修復作業をしたいとか、仏閣の増築をしたいと思っても、その増築資金が出なくて、四苦八苦して政財界をまわって断られたりして、苦労しておる神主や坊主たちがあとを絶たないわけです。

ですから、そういう貧乏性の身についた宗教家からみれば、「百事如意」「無限供給」を説く「生長の家」というのは、まさしく摩訶不思議(まかふしぎ)な存在でありましょう。そんなバカなことがあるわけがない。神仏に仕える身というのは、もっともっとこの世的なるものを滅却して、執着を取る道を説くのが信仰への道であるにもかかわらず、この執着を増幅させて、思うものが何でも手に入るというような理論を説く「生長の家」とは、これはまた何と神意に反した、仏意に反した教えであろうか、と。まあ、そういうことでも、ずいぶん言われた。


2.富と執着


ただ、彼らの言うことも、根拠がないわけではありません。原始釈迦仏教においても、乞食坊主たちの、何と言うかな、布施を求めながらの遊行(ゆぎょう)というか、伝道というのが多かったし、キリスト教においても、イエス様も貧しかったことも事実です。そして、富の神に仕うることと、それと真実の神に仕うることと、この両方は両立しない。まあ、こういうふうに言われておった。ま、こうぃうことがあったであろう。

そこで、この点について、さらに考えていかねばならんと思うのだが、まあ、いわゆる金銭とか、財産、あるいは、その他のこの世的なる有用なるものということだな。こうしたものに関心を持ったり、手に入れたりすることを一概に執着と言ってしまう人もいるであろう。

ただ、イエスの時代、釈迦の時代と現代とでは、かなり様相を異にしていることは事実であります。つまり、法というのは、やはり時代の要請というものを見誤ってはならんのです。今、新宿へ行けば、副都心には、五十階建ての超高層ビルが建ち並んでおる。また、本屋といっても、何十万冊、あるいは、百万冊もの本を持っておるような、大きな書店が出ておるような、そうした世の中であります。

こうした時代に、かつての僧侶たちがそうしたように、写経ということを通して、写経をして、その巻物を売って、米や味噌を千に入れてくるという生活が、そのまま現代に通用するかと言えば、私は、そうではないと思う。

そうしたものを、つまり、この世的なる超近代ビルとか便利な交通網とか、百貨店とか、こうしたものをすべて執着の権化として一蹴し去るならば、人間に待っておるのは原始生活のみであって、何のために現代という時代において魂修行をしておるのか、この意味がわからないことになる。やはり現代のなかにおいては、現代的なる道の模索というのがあってよいのではないか、と。まあ、私はそのように思うわけであります。


3.貨幣は価値中立的であり、その使途が問題


さて、金銭というものに関しても、私は、ひとつの見解を述べておきたいと思う。すなわち、金銭というものを、魔物であるとか、悪の所産であるとかいうふうに、考える必要は、決してないということであります。

こういう貨幣とかいうようなもの自体は、これは価値中立的なものなんです。善とか、悪とかいうものではないんですね。それ自体は、無色透明であって、善でも悪でもない、中立的なものです。要は、この貨幣を取り扱う人たちの心がどうであるか。その点が問題なわけですね。

まあ、これはね、言ってみれば、現代では、真理を述べ伝えようとする宗教団体であっても、自分たちだけで集合、集会ができるための講習会場、こういうものを持ちたいと考える。これが欲であるかと言うと、必ずしもそうではないと私は思うのであります。

現在見ておると、講演会場だの、セミナー会場などを探すのに大変苦労をしておるようであるが、やはり、こうした制約があって、他人の意向を気にしなければ独自の活動ができんというのも、これも非常に悲しいものであります。自分たちがやりたいときに、やりたいだけの規模で集会ができるということ、これも非常に大事なことですね。

そうしてみると、たとえば、千人なら千人が入る会場を手に入れるためには、資金がいる。現代においてはね。ま、無料で提供してくれる人がいれば、それに越したことはないが、必ずしもそういうわけにもいかんであろう。

では、そうした資金自体が、悪いかと言うと、そうではない。その資金が、いくらかかったかは知らん。まあ、いくらでもよいが、五億なら五億かかったとしようか、十億でもよいであろう。十億かかったとしよう。たとえば、その十億で、毎年毎年、四十年、五十年間にわたって、多くの人びとが法を学ぶことができ、講義を聴くことができ、どこに気兼ねすることもなく、真理の学習ができるような場が得れたとするならば、その十億というお金は、これは活きてくるわけだ。十億というのが、もっともっと価値を持ってきて、その何十倍にもなってくるわけですね、値打ちというものが。

今、十億というお金ならば、これは日本のあちこちにダブついておるわけですね。ダブついておって、何と言いますかね、まあ、空(むな)しい利益と言うかね、そうしたものの追求のために、十億ぐらいのお金が右から左に飛んでおる。証券会社だ、あるいは、商社だとか、まあ、そんなところでは、為替の投機とか言って、十億どころか、何十億、何百億の金が右から左に動いておる。そして、利ザヤを稼ぐ。そういった商売が、現在において、非常にはやっておるようですね。しかし、こうしたことで使う金と、たとえば、真理の伝道のために使う十億とでは、同じ十億であっても、十億の活き方が違ってくる。まあ、こういうことがあるわけですね。

また、一万円なら一万円でもいい。この一万円でも、値打ちが違うことがある。たとえば、パチンコでもうけてきた一万円を施設に寄付するのと、あるいは、貧しいながら長年働いてきた老夫婦が、少しでも世の中の役に立てと思って一万円を寄付するのとでは、残念ながら、その一万円についた値打ちというのが違ってくる。まあ、こういうことがあります。

ですから、お金自体は、とくに善でも悪でもない。これは、前提なのです。そこにとらわれすぎると、つまり、その善悪にとらわれすぎると、そこにまた苦しみが現われます。宗教家であるから一円も金をとってはならんとかいうことに固執すると、これが、また苦しみになってくる。

つまりね、たとえば、講演会をやっても、全国伝道をやっても、一円も金をとらんということにこだわっていると、今度は、これで執着をつくって、無理をする。その金をかせぐために、自分で事業をせねばならんようになる。ある宗教家で、そういう宗教家がおりました。自分で自営で商売をして、利益を出して、その金を投入して、真理伝道に使う、と。まあ、こうぃうことをやった立派な宗教家がおる。

それはそれでもちろんよいのだけれども、ただ、その方の場合、金銭というものに対する罪悪感というものがやはり根本にあったのではないか。そういう感じが、私にはするわけですね。

本当に、神のために奉仕しなければならないのならば、必要なものは与えられて当然なわけですね。ところが、自分で稼いだ金以外を使ってはならんというふうにあまりにも考えるのは、それはまた、何と言うかね、大きな天意と、神意とを、あまり認めていないという自力論の粋のなかに入ってしまうのではないか。まあ、そういうようにも感じるわけですね。


4.時間の限界が法の限界となることを知れ


しかし、これに関しては、私もそういう経験があってね。昔、乃木坂にある「生長の家」の道場で、幹部講習をやっておった頃のことだから、まあ、何十年も前のことだが、幹部になる人たちということで、彼らに無料で講習会をやっておった。ところが、一向に実効が上がらんのだな。無料でやると、お客意識になって、「聞いてやるから、いい話をしてみろ」と、こういうふうになってくる。お客様意識になってくる。

そして、こちらも宗教家だから、真理の伝道のために人を養成するのに金をとってはならんなどと心を縛っておると、「取ってはいかん、取ってはいかん」と思うから、無料でやる。では、無料でやってどうだったかと言うと、足を投げ出して、あぐらをかいて、「じゃあ、言ってみろ、どんないい話ができるか言ってみろ」と、幹部諸氏がお客さん意識になってしまう。まあ、こういうふうなことがあるわけですね。

結果として見たらどうかと言うと、性根(しょうね)に入らんわけです。学ばない。ろくでもない幹部ができるわけだな、こういうただ食いをさせると。本当に勉強をしようと考えるなら、身銭を切って学ぶぐらいの姿勢はいるわけですね。そうでなければ嘘だ。

と言っても、一回の講習を受けるのに、何十万、何百万もかかるとすれば、これはもちろん取りすぎであってね。そういうことは、現実的にもおかしいとは思うが、まあ、妥当な値段というのはあるであろう。私はそう感じる。

したがって、いちばんいけないのは、何でもいいが、固定観念でもって、自分たちの手足をがんじがらめにしてしまうことだね。そうする必要はないのではないか。まあ、そういうことなわけだな。先ほど述べたすぐれた宗教家にしても、費用は絶対自分で稼がねばならんというようなことで、自分の手足を縛っておったのでは、時間というものができない。自分の自由な時間というものが、どうしてもできない。

そうすると、その時間の限界が、結局、法の限界となるわけです。書物を書く時間がない。それを人びとに教える時間がない。そして、その時間がないことのツケはどこにいくかと言うと、そのツケは、自分の肉体にいく。つまり、肉体を酷使することになるわけですね。そして、過労で倒れる。まあ、こういうふうになるわけだな。

こうしたときに、やはり人様の金はいただくもんではないとか、金銭を集めるのは罪悪だというふうに決めつけずに、もっとおおらかな考えを待てばいいと私は思うんです。すなわち、一億なら一億の金が、五億にも、十億にも、あるいは、それ以上の心の富になるような方向で、そのお金を活かしていけばいいのであります。もちろん、それによって、自分の懐(ふところ)を肥やすという方向にいってしまったら、これは間違いなわけですね。私はそう思う。

たとえば、作家にしてもそうだな。作家が、貧乏長屋で暮らしておって、それでいい小説が書けるかと言うと、ま、必ずしもそうではない。落語のネタぐらいは仕入れることができるであろうが、やはり大作家ともなれば、それなりの住処(すみか)というかね、住処を持っておって、つまり、庭に池があったり、散歩ができるぐらいのところにいて、それなりの構想が浮かぶということもあるだろう。

そうすると、こうした邸宅に住むための資金というものは、決して人類にとってはマイナスではないわけですね。そうした大作家が、それだけの余裕ある生活を送ることによって、それだけのものを生み出すことができる。小説を生み出すことができる。それによって、人類の心をますます富ますことができる。こういうふうに考えると、そのお金は、決して執着でも何でもないわけです。悪いお金でもないわけだな。まあ、こういうことが言えると思います。


5.貧しきギッシングと富めるスコットの例


私も早稲田の英文で学んだ者であるから、まあ、こうした英文学者たちの例は、もちろん数多く知っておるわけです。有名な例としてはね、たとえば、ギッシングという、詩人というか文章家がおったんだけれども、このギッシングという人は、非常に貧しかった。夕刻になると、食事を食べるためにお金を使うか、それとも、一冊の本を買うために食事をやめるかという選択に追い込まれるような、そういう生活をしておったわけです。

そして、夕食のパンとベーコンをやめて、一冊の本を買ったということ、古本を買ったということを、得意げにエッセイに書いておるんだな。それはそれでいいんだが、彼の文章自体は、非常に美しいもので、人の心をうならせるものがあるけれども、ただ、どこかに罪悪惑というか、悲愴感というのが漂っていることは否(いな)めない。また、大全集を刊行するほどの仕事はできなかったことも事実です。

夕食を食べるか、本を一冊買うかの選択に迷って、屋根裏部屋に生活しておるようでは、やはり大全集を組むような作家にはなれんということだな。つまり、清貧に甘んじるということもいいが、それなりの環境ということは必要だということです。

まあ、これとは別な例というのもないわけではない。西洋のほうでは、ま、貴族階級のなかに、お金と時間というものに大変恵まれた人たちがいて、こうした人たちは、何と言うかね、大量の著作物を刊行することも可能であった。まあ、こういうことがあると思う。たとえて言えば、そうだねえ、まあ、いろんな例があるけれども、スコットという大作家がおったね、英国に。
スコットという大作家がおって、これは皆さんも、多少読んだことがあるかもしらんが、『アイバンフオー』であるとか、『ウィリアムテル』とか、あるいは、『英国史』を書いたり、まあ、いろんなものを続々と書いた大作家であります。彼などは、お城だな、お城を住処(すみか)にしておった。

お城のなかに大変な蔵書、こういうものを持っておって、次々と良質の名作というのを書いていった。まあ、こういうこともあるな。お城に住んでおって、乗馬を楽しんだりするような優雅な生活をしておったが、それなりのものを残した。ギッシグと比較してみると、ずいぶん違うところがある。まあ、こういうことがあると思うんだな。

今まで話したのは外国の例だが、そういうのは、日本にもあってね。しかし、文を書いて売りつなぐというようなことをしておると、そして、生きのびることばかりを考えておると、どうしても世間に迎合するような文章ばかりを書かねばならんようになるわけですね。

やはり、適当な資産があることによって、自分の良心に忠実な文章を書いていくことができる。まあ、こういうことがあると思うんだな。とくに思想的なものというのは、その良心的独立ということが非常に大事であって、あまり銭金に左右されてはならん部分というのがあるんです。

たとえば、スポンサーがついたとしても、そのスポンサーから援助を切られると、たちまち干上がってしまうような宗教家であると、それでもって、中味、法の中味がおかしくなってくる。また、借金をいっぱいこしらえると、その借金を取り戻すために、ツアーを組んで、心霊治療だ、病気治しだと言って、一件百万円ぐらいも取って、金もうけをせねばならんようになる。こういう哀れなことになる場合もある。

そういうことで、やはり、宗教家なり、こうした思想家というものは、その良心の独立を守るためにも、多少の恒産と言うかね、恒(つね)なる財産、これは必要だと思う。また、これから私の本を読む真理の使徒たち、まあ、宗教家、思想家が数多く出るであろうが、そういう彼らに言っておきたいことは、ひと昔前の、釈迦弟子のときのように、すべてを捨てて托鉢してでもという考えも大事だけれども、もう少し、自分の生活に安定を出しながら、真理を広めていける方法を考える必要がある、と。こういうことを、私は言いたいのであります。

やはり、内心にそういう不安定があると、どうしても本当にいい行動、これはできない。まあ、飯を食わねば戦(いくさ)もできんということだな。これはあるわけで、飯の部分というのは、非常に大事な面がある。すなわち、この世にはこの世の法則があり、この世なりのしきたりがあるからです。

そういうことで、無限供給の原理を採り入れた「生長の家」は非常に発展をしたが、物質は、執着と言うたところは、逆に全然発展をしない。こういうこともあるわけでね。要は、自分たちが繁栄し、発展していったときに、それを当然だと思わずに、それ以上のものを生み出していくことです。これが大事なわけだ。

と言っても、ただいたずらに大邸宅に住み、馬を乗り回し、本をいくら買ったところで、何らの知的な生産をしなければ、そうしたものは、何の意味もない。単なるもの集めにすぎない。しかし、それが、スコットのような大作家への道を歩んでゆくための一歩であるならば、それはまた正しいことになる。こういうことがあってね。

まあ、決して資産というものを馬鹿にしてはいかんのです。ただ、その資産以上のものを世に還元していくことだ。こうした考え方が大事なわけですね。入ってきたもの以上を、出していくように努力する。こうぃうふうにしていくわけです。これが考え方のポイントなわけなのです。


6.無限供給とはホースで水を汲み出すがごとし


あなた方は現代の人たちであるから、昔のことは知らぬかもしらんが、たとえば、お風呂ひとつみたところで、昔は、今のようにスイッチをひねれば湯が出るようなものはなかった。昔は木の風呂であって、前の日に使った湯が、翌日になっても、まだぬるい感じで残っておるのだが、この風呂の湯を取り出すときにね、もちろん栓を抜いて湯を流すということもあったが、ホースを使って湯を抜く方法というのがあったんだな。これをご存知であろうか。

長さ五十センチか、一メートルぐらいのホースのなかに水を入れておく。そして、ホlスの片方は風呂桶のなかに浸け、もう片方を外側に出しておくと、風呂のなかの湯が外へ抜けるわけだ。これは、池の水を汲み出すときにもよく使う方法であってね。池の水を替えるときに、ま、池にはバスタブのように栓がないから、この池の水を出すときにどうするかと言うと、このホースを使ってね、一メートルぐらいのホースを使って、そのなかに水をつめて、片方を池に浸けて、片方を外に出しておくと、池の水が汲み出される。こういう原理があるな。

これは、ホースのなかに入っておる水が下のほうに、つまり、外側に落ちようとすると、ホースのなかの水は中断されて、真空になってしまう。しかし、真空になるわけにはいかんのであって、真空になりそうになると、水をまた吸い寄せる。こういうことで、間断なく池のなかの水をホースのなかに自動的に吸い込んで、その結果、水が他の外に出ていく、と。まあ、こういうふうになってくるわけだな。こういう原理がある。

すなわち、「無限供給の原理」というのは、まさしくこのとおりなわけです。ちょうど池の水をホースで汲み出すときと同じ方法なわけだな。モーターで汲み出すわけでもなければ、電気、電力を使って、タービンを回して汲み出すわけでもない。原理は簡単だ。ホース一本あればよい。そのなかに水をつめて、片方をなかほどより低くしておいて、手を放せば、池の水は、自動的に外に汲み出されるようになる。

無限供給とは、まさしくこのとおり、何の動力もいらない。そこにあるのは、ただ真空を嫌うという水の原理だな。これだけなわけだ。真空を嫌うがゆえに、水が水を呼んで、池のなかの水が外に出てゆく。

無限供給もこのとおりであって、まあ、いっさいの計らいごと、執着というものを断って、与えられるもの、それを素直に受ける。素直に受けたら、素直に出していく。つまり、これが感謝行ということだな。人間はいろんな機会に、いろんなものを、事物を与えられておる。引き寄せておる。そういうことがあると思うのであります。

たとえば、会社で言えば、昇進するというようなこともあるね。人より早く課長になる。部長になる。こういうことがある。まあ、こういうところで体裁を言って、それを断って、ヒラに甘んじておることはないんであってね。人より早く課長になったら、「ありがとうございます」とそのままに受ける。「はい」とそのままに受ける。そして、「はい」として受けたその素直な気持ちでもって、ヒラ社員のとき以上に、一所懸命会社のために貢献するわけです。働くわけです。

これは、すなわち、ホースのなかの水が外に汲み出されてくるのと一緒だな。汲み出されると、また入ってくる。出ていくと、また入ってくる。何の労力も使わず、何の原理も使わないで、こういうふうに循環しておる。これが、無限供給ということです。

このときに大事なのは、このホースと同じ原理で、入ってきたものをどんどん出していく。そうぃう気持ちでやっていく。これが大事なわけですね。

商売でも、同じです。不況になったときに困るというふうに考えて、好況時に利益を蓄えてばかりおるようなそういう会社とか、商店とかいうのは、不況になったときにいちばんに潰れるんです。不況がくるぞ、くるぞというので、好況のときに一所懸命利益を出して、それを抱え込んでおったりすると、こういうところは、人びとの不評を買って、不況のときに真っ先に潰れたりするようになる。

しかし、不況になったら、そのときはそのときで、神の恵みがあるはずなんです。好況のとき、自分のところが高収益が上がっておるなら、この高収益をできるだけ多くの人たちに活かしていこう、と。その気持ちでやっておった人たちには、不況になっても、あのときはお世話になったからと言って、今度は助けてくれる人がいくらでも出て来る。そうしたものなのですね。

とにかく、自分だけが利益を上げてため込んでおる人には、困ったときに助けがこない。逆に、人びとが繁栄をしておるときに、自分だけが繁栄をするのではなくて、その繁栄をさらに分け与えておったような人には、困ったときには、必ず助けがくる。こうしたもんなのです。


7.必要な時期に、必要な方法で、必要な結果が与えられる


したがって、無限供給というのは、現在ただ今に、億万長者になる法とか、そういうことを言っておるのではないんです。現在ただ今に金が降ってきたり、すぐ偉くなったりすることをもって、無限供給とは言っておらんのだ。

まあ、身分不相応にも急に偉くなって、自己実現の願いどおり、すぐ偉くなったのはいいが、偉くなったと思うや今度は、仕事で失敗をしたり、あるいは、人の不評を買って降ろされたり、と。まあ、こういうことがよくあるわけだな。ま、そうであってはならん。一時的な成功というものを追い求めてはならんのです。無限供給とは、まさしくその名のとおり、連綿と続く供給、これを求めることが必要であってね、現在ただ今に、やたら溢れておることがいいわけではないんです。

第一、家のなかに金銀財宝が溢れておったのでは、身動きもできんであろう。必要なときに必要なものが与えられたら、それでよいのだ。まあ、これは、人体を流れる血液も同じだね。血液が大事だからと言って、血液が二倍にも、三倍にも増えたら、人間は脳の血管が破れて、死んでしまう。ですから、必要なときに、必要なだけの血液ができれば、それでよい。これを、無限供給と言うのです。

財物にしても、必要なときに、必要なものが集まってくる。人も必要なときに、必要な者が集まって来る。そして、そういう信頼感だな。神仏に対する信頼感、これを持つことが大事です。

したがって、「無限供給の原理」というのは、一夜にして億万長者になる法とか、すぐ社長になって、すぐクビになる法ではないのだ。そうではなくて、必要なときに、必要な時期に、必要な方法で、必要な結果が与えられる。これが無限供給だな。まあ、こういうことが大事なわけであります。

したがって、現在ただ今に、その人が与えられたものを他人に与えておくと、それだけホースの水が外に放出されたように、次のものが入ってくる。入って来たら、また与える。これでいいわけですね。

決して詰まらしてはならん。詰まらせる、それが、すなわち、執着ということになってくるわけですね。ま、だから、不況のときほど安く商品を売るようなところというのは、決して潰れることはないんです。不況になれば、高くして利益を出そうというようなところは、潰れていく。そういう傾向がある。まあ、そういうことがあると思うのであります。

何度も繰り返しますが、大事なことは、常に人に与える気持ちを持って生きておれば、必要なものは必ず与えられるということです。で、それに対しては、それを拒むでなく、それにこだわるでなく、「ありがとうございます」と素直に受ける。それをまた、世のために還元していく。こういうふうに円環だな。グルグルと回していく。これが、愛は円環であるということの理由ですね。

愛というものは、ちょうど、まあ、円環になっとるわけだ。ひと昔以上も前のことだが、フラフープというのか、腰のまわりに輪っかをつけて、クルクルと子供たちが回して遊ぶ、ああいう遊びがあったであろう。まあ、あれと同じでね。円環とは、要するに、何人かでその円環を持っておれば、フラフープを持っておれば、それを三十センチ回せば、また三十センチ回ってくる。こういうふうに、クルクルと回っておるんですね。ま、これを忘れてはならんわけです。

宗教家も、まさしくそうでね。多くの人たちから感謝を受ければ、その感謝をまた、大いなる救世の力、エネルギーとして、世の中に還していく。まあ、こうしたことが大事なわけですね。ですから、これを学んでゆかねばならん。私はそういうふうに思うわけであります。


8.守護、指導霊への全託が大事


ま、これはね、法則という面から私は説いてきたわけですが、これは、ひとつには、本人の守護霊とか、一段と霊格の高い指導霊の力でもあるんですね。すなわち、本人の心のなかに何のひっかかりもなく、ただ世の中のためにつくしていこうという気持ちを持っておると、守護霊や指導霊が助けてくれるということであります。

この世の中においては、人の協力があって実現しないというようなことは、ほとんどないわけだな。つまり、本人の心が澄んでおって、守護霊の素直な導きを受けれるようになっておれば、その守護霊が、本人に必要な人を探して来て、その人の守護霊と話をし合って、協力者を出して来る。こういうことによって、ことが進んでいくわけです。

ところが、心が曇っておれば、守護霊もなかなか導きようがなくて、そういうことがうまくいかん。まあ、こういうことです。ですから、実在界の原理から見れば、守護、指導霊の働きを受ける、そういう働きを受けやすい状態に置いておけということだな。

心のなかが、欲望で渦巻いておるときに、そのまま助けたら、守護霊や指導霊も、ますます点数が落ちていくであろう。そういうことで、本人の心の向きというのが非常に大切なわけです。つまり、自分だけのために、そういう無限供給を願っておると、決していいことはない。まあ、そういうことが言えるであろう。私は、そう思うわけですね。

そしてね、無限供給で大事なことはね、先ほどから述べておるが、必要なときに、必要な方法でね、必要なだけ与えられる。この三つなんです。必要なときに、必要な方法で、必要なだけ与えられる。この時期、方法、まあ、量だな、この三つ、これを全託するということです。つまり、すべてお任せするということね。こういうことが、私は大事であろうと思います。これをね、たとえば、何月何日までにお米一升持って来いとか、明日の午後までにウィスキー一本が手に入るようにとか祈っておると、まあ、こういうのは、おかしな祈りになるわけです。

本当の「無限供給の原理」が身についてくると、私などもよくあったが、それこそ、冗談ではないが、饅頭(まんじゅう)一個食べたいと思えば、饅頭を誰かが持って来る。そろそろ懐がさみしくなったと思うと、献金がある。関西のほうで講演したいなとフッと思うと、翌日に関西のほうから講演に来てくれないかという依頼がくる。海外の著書で何か光明思想に関したものがないかと思っておると、ふと駅前で入った古本屋に、その本が入っておる。まあ、こういうふうなことがあってね。決してね、計らい心でやるもんじゃあないんです。

それとね、必要なものは、人の手を通じて実現することが多いということだな。あまり、自分が、自分がとやっておっては、もがき苦しむことになるから、そうしたときの全託、自己実現における全託ということも、忘れないことです。

守護霊や指導霊がついておるんだから、必要があれば、彼らが他人の守護霊や指導霊と話をして、そうしたこと、たとえば、事業なら事業の打開策というのを練っておるんだから、決して心配することはないんです。だから、大まかなことは任す。そして、それ以外の自分のできる範囲で、日々努力すること、これがいちばん大事です。こういうふうに、希望しておることの実現のときのために、必要なことというものを考えて、日々努力しておること、これが大事ですね。

そして、実現する方法、時期、それから、どれだけ実現するかというような量はね、これは、ま、任しておくことだな。これが大事で、本当に実相世界のことを知ると、そうしたことは何ら心配がなくなる。まあ、あんまり自分の心で限定をして、苦しまんことです。


9.結婚成就の秘訣


とくに大事なのは、時期の問題です。自己実現の法がずいぶんはやってはおるが、時期の問題で苦しみをつくることが多いようです。自己実現の方法っていうのは、もちろん、現実にあるんだけれども、これを勝手に、自分で何月何日までにとか、誕生日までにこうしたいだとかいうふうにやると、これがあせりになり、苦しみになり、周りから見てても、非常に苦しいようなあがきとなってくる。しかし、必要であれば、必要なときには絶対に与えられるのだから、それを信ずることです。

これは、結婚などにも、同じことが言える。あまり結婚、結婚ということで、たとえば、女性であれば、二十五歳と勝手に枠を仕切ってしまって、二十五歳までにはせねばならんということで、見合いばかり毎日、毎日しておっても、そうしたことでは、かえって、結婚はできんのです。

もし、縁のある人がおるならば、必ず神がお導き下さる、と。ま、そういうふうに思って、一生懸命自分のやるべきことをやっておれば、必要なときには、必要な人が現われてくるもんです。必要な人がもし現われないとしたら、その人には、さらにもっと大切な仕事があるという場合もある。

だから、二十代の後半になった女性があせっておるのを私はよく見ておるが、まあ、あまりあせってもいかんな。心を執着に焦がしては、いかん。と言って、あまりボサッとしておってもいかんのだが、まあ、必要であれば必要な人が現われたときに、結婚してもいいなというぐらいの気持ちでおればいい。あんまり結婚、結婚と追いつめられていくと、自分が苦しくなってきて、そういうふうな必死の形相が顔に表われてくると、見合いをしても失敗をする。

まあ、男性というのはそうしたもんだ。池でゆったりと泳いでおる鯉を見るとすくいたくなるけれども、向こうから向かってくる鯉を見ると、これは鮫(さめ)か、あるいは、鱶(ふか)かと思って、あわてて逃げてしまう。こういうことがある。まあ、こうしたもんでね。つまり、ゆったりとした気持ちで泳いでおれば、鯉をすくってくれる人がおるのです。

ですから、あんまり岡に飛び上がってまでとってもらおうとはせんことだな。こういうことで、あまり自分を追いつめないこと。自分で勝手に二十五までとか、三十までにとか、あまり考えすぎないことだな。自力で相手を見つけようなどと思うと、それが執着になる。だから、よくない。しかし、必要なときに、必要な方法で、つまり、他人の手を介してそういうことが実現されると、こういうふうに思っておれば、執着ができなくて、毎日、毎日をさらさらした気持ちで過ごすことができるんです。まあ、何と言うか、行雲流水だな。行雲流水の気持ちというのはこういうことを言うんです。

だから、無限供給でいちばん大事なことは、さらさらと春の小川のように流れていく無限供給こそが本物であって、執着の虜(とりこ)になってはいかんということだな。

ただ今、何々が食べたい、何々が欲しい、と。こういうことをやると、これが、その執着がそこに栓をしてしまうことになる。実相世界というのは、非常に富んでおるのです。神様は、何でも持っておる。あの世の大国主命がハンコをつけば、お金ぐらい、いくらでも降ってくるんです。日本中にお金はどこでもよどんでおる。そのよどみを解消すれば、お金は回ってくる。そういうもんですね。

伴侶にしてもそうだ。結婚したい男性、女性は、世の中にはわんさとおる。しかし、自力で走り回っていたのでは、なかなかそのひとりが見つからん。ところが、縁結びの神がその気になれば、その人をめあわせるぐらいは、簡単なことなんです。


10.無限供給とユートピアの原理


まあ、そういうことでね、この「無限供給の原理」の本質は、執着を持たず、さらさらと流れていくことです。そして、入ってきたものは、それ以上に世間、社会に対して還元していこうと思うこと。こういうことだな。これが、その人が繁栄、発展する道であり、それと同時に、社会全体がさらに高度に発展、繁栄していく道ではないだろうか。また、それがユートピアというのができていく道ではないだろうかね。

ですから、まあ、あなた方も、与えられたものは、素直に受けなさい。必要なときに、必要なものは、与えられるであろう。ですから、それを素直に受ける。ただし、与えられたとき、それをためてしまわないで、どんどんと、また与えていくことです。社会に還元していかなくてはいけない。そうすれば、また歯車が回って、次なる大きな使命というものが開けてくるであろう。まあ、私は、それを信じております。

これでもって、今回の私の講義は終了となるが、これで、私の霊言としては二冊目であろう。

今後、世の人びとから、どうしても谷口雅春の講義を続いて聞きたいとの声が高まれば、第三集を出さないでもない。しかし、「生長の家」の幹部諸君が狭い心を起こして、初代総裁の教えにあったその寛容の心を忘れて、狭い心でもって、こうした谷口雅春の霊言集が立て続けに出たのでは商売にさしつかえるというようなことを言うようであるならば、私は、そうした後継団体に涙流すとともに、あの世で、沈黙せざるを得ない。

けれども、全人類を救うという大きな目標から言えば、谷口雅春の霊言は、三集、四集と出していくのが、世の救いになるのではないかと、私は思っております。ま、そういう希望を持っておるので、世間の良識ある人びとのご判断を仰ぎたいと思う。以上でもって、今回の話は終りといたします。