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目次


 2.霊界の実相










(1988年4月28日の霊示)

1.魂の真実とは


谷口雅春です。こうしてまた、地上の皆様に私の霊示集を送れますことを、心より嬉(うれ)しく思います。

第一集の『谷口雅春霊言集』、第二集の『谷口雅春霊示集』共に、なかなかの好評であったとのことを聞いており、私もこちらで大変嬉しい気持でいっぱいです。

さて本日は、前二集に加えて、さらに私自身の言い足しておきたいところ、また、こちらの世界に還って新たに気づいたこと、発見したこと、経験したこと、こうしたことを重ねて話をしていきたいと、このように思う。

さて、まずお話をしたいことは、「魂の真実」ということについてです。

魂の真実とは、言葉ではなるほどそうしたものかと思うかもしれませんが、こちらに還って、これが魂なのだなあという実感は、地上の皆様方にはどのように表現しても、どのような比喩(ひゆ)を使っても、必ずしもわかり得るという感じがしない。

私自身、現象界にあった時に、「本来肉体なし」「本来生命の実相がすべてである」こういうことを説いておりましたが、こちらに還って、その生命の実相というのが、いったいどのようなものであるのかということを、しみじみと、またつくづくと感じたものであります。

もちろん私は、まだ地上を去って日も浅い者ですから、多少人間感覚も残っており、自己認識をするに際しまして、生前の谷口雅春という肉体意識が復活することもあり得ますが、ここに還り、二年、あるいは三年経ってきた今、次第、次第に、魂の真実とは何かということを、霊的実感として感じ始めている今日この頃であります。

もちろん地上にいる皆様も、人間があの世に還った時に、もう何も食べなくとも死ぬこともない、何も飲まなくとも煩(わずら)うこともない、また、病というものもなく、自由自在であるという話は聞いているであろうと思う。しかしこちらに還って来ると、それがどれほど真実味を帯びてくるかということを、つくづくと感じるのです。

また、地上にないようなさまざまな経験というものが、現実にあります。地上にいる時、皆さんは、霊というものは壁を通り越してでも出て来たり、出て行ったりすることができるというようなこととか、あるいはまた幽霊とかというような話でもって、足があるとかないとかいうことを聞いたこともあるであろう。こちらに来ては、まさしくそうしたことが冗談ではなくて、実際のことであるということを感じるようになる。

つまり人間であった私たちも、自由自在に、こちらの世界では透過(とうか)という、通り抜けるということが可能であるし、また地上を歩くのみならず、空中を浮遊(ふゆう)すること、及び飛翔(ひしょう)すること、また空中を移動することもできる。こうしたことは、非常に不思議な感覚であるが現実である。

また、地上の人間であれば、握手するということによって、肉体と肉体との接触ということを深く感じるものであるけれども、こちらの人間となると、握手するということがひとつの実感を伴わないことになる。すなわち、手が手を通り越していくというようなことも十分に有り得る。握手をしているというような気持を持つことはあっても、実際上、握手ということができなくなる。

すなわち、相手の実在というものは結局ビジョンであって、それは立体映画のような存在となって来る。映画のスクリーンの俳優を、つかまえることも握手することもできないように、ちょうどそれが立体映画となっても、その立体映画の像は、つかむこともどうすることもできないでいる。まあそうした感じだと思ってよいかもしれない。これが、私の世界から見た魂の真実です。


2.霊界の実相


さて、そうした魂の真実について話をしましたが、「霊界の実相」について、もう少し話をしておく必要があろうと思う。

霊界と言ってもいろいろあって、一言で肉体を持たない人々の住む世界を霊界と称することもあるけれども、実際は世の書物によく説かれているように、あの世の世界も幾層にも分かれている。そうして、あの世の世界が幾層に分かれているかということは、どのような人間であっても、しかとはわかりかねている。そうしたものだ。

ただ、大きな分け方としては、何層かに分かれているということはできるであろう。そうした何層かに分かれた世界の中で、また地域別や国別、思想、信条別に住み分けているというのが、その真実であろうと思う。

さて、霊界と言っても、私が住んでいるような如来界というところに還って来るならば、これはまたいわゆる狭義の霊界とは、ずいぶん様相が異なっている。私のいる世界におられる人たちは、すべて如来と言われる人類の指導者であった魂ばかりである。したがって、そうした魂たちばかりが集まっているのだから、まあ言ってみれば、これは天上界における国連総会のようなものだ。各国の代表のような人たちが、集まって話をしている。また生活をしている。こうした感じを思い浮かべればよいと思う。

たとえば、国連に出席するような各国の大使であるとか、首相であるとか、こうした人たちが、たとえばスイスかどこかの保養地に別荘を持っていて、夏の間に保養に来ている。そして、いろんな人たちと会って話をしている。まあこうした感じが、私の住んでいる世界の実感に近いのではないかと思う。

ただ違うところは、現在、あるいは現代に生きていた人たちだけではなく、過去の時代に生きていた偉人、天才たちも、数多くこの世界にはいるということだ。地上の皆さんは驚くかもしれないけれども、そうした歴史上の偉人たちが、私の住んでいるこの如来界には数多くいるのです。

主として私の周りには、哲学者と宗教家がおります。最近では特によく私が話をしているのは、アメリカの光明思想の先駆者となったエマソン、こうした人が親友の一人となっております。

またエマソン以外でも、こちらで非常に懇意(こんい)になった人の一人が、まあ皆さん方は、おそらく驚かれるかもしれませんが、これがデカルトと言われている哲学者です。

そしてこれ以外にも、私がこちらの世界において懇意になった方は、宗教家の中では、皆さん方の中にはその名をご存知であるかどうかは知りませんが、今からおよそ五、六百年前になりましょうか。イタリアにて宗教改革を起こしたサヴォナローラという宗教家、まあ悲劇の宗教家でもあるけれども、こうした方も如来界に還ってきていて、私の今、ずい分仲のよい友だちとなっているわけであります。

またこれ以外にも、キリスト教系ではアッシジの聖フランシスコという方とも、こちらでは私は友人になりました。生前、『生命の実相』という書物の中にも、フランシスコのことはずい分語った記憶がありますし、またフランシスコの必ずしも良い面だけを取り上げたとは言いかねるところも私はありました。その悲劇を期待しすぎる性格が、イエスと同じような聖痕(せいこん)を体にもたらし、そして、フランシスコに病と悲しみの中での一生を送らせたというようなことを、私は語ったこともあります。こちらに還って、そのフランシスコ、あるいはフランシスと言ってもよいけれども、そうしたフランシスもまた、如来界の人間であるということを知りました。

こうして私の仲間は、毎日毎日どんどん増えてゆくばかりです。

これ以外にも、もちろん日本の霊団の中での神々と言われる方々とも、もちろん親しく付き合っておりますが、まあいかんせん私自身が、まだこちらに還って日が浅いがために、日本の古代の神々と交わるよりは、むしろ近代に出ていろんな知識を吸収した人たちと話をするのが、まだ面白いという気持があることは真実です。まあそうした世界が、私の住んでいる世界であると言えましょうか。


3.あの世から考えた死の意味


さて、こうした世界に還ってみて、死の意味というのをもう一度、私はとらえ直してみたいと思うのです。

地上にいる人間は、どうしても死というものを、大いなる悲しみととらえがちであります。大いなる悲しみとして、死を恐れている人というのは数多いと思う。百人の人がいたら、おそらく九十九人は死を恐れていると思うし、また死後の世界を十分知っている人であっても、自分の死というものは怖(こわ)いものだろうと思う。なぜ怖いかというと、やはり未知への恐怖心、自分が知らない世界に対する畏怖感(いふかん)、畏(おそ)れというものが、おそらくあるからではないかと思う。

このように死後の世界は、未知である、分からないということでもって、地上の人々に恐怖心を起こしがちでありますが、ただ、死後の世界というものの実相を知った時に、人びとの恐怖心はやがて消えていくしかないのである。そのように私は思います。

もちろん低位霊界において、まだ地獄に迷っているような姿を示しているものもいるが、これらはまだおおいなる魂が迷いの中にあるのであって、真実、地獄というようなものが実在するわけでもなければ、その中にいる人たちの姿が真実の姿でもない。

彼等は生命の実相に気づき、本来の神の子の思想に到達した時に、一躍その世界から逃れることはできるのであるけれども、いまだ地上にいた時の残骸にとらわれ、亡霊にとらわれ、そうした苦しみの世界にいることはいる。けれども、本来、人間は地上にいた時にある程度の悟りを開き、そして神の子として調和された生活を送っていく時に、そうした苦しみや悩みのことは考えなくともよいのです。

こうしてみると、死というものを縁として人間は新たな誕生をするわけですが、この新たな誕生は、地上にありし時に心清く生きた者、心美しく生きた者にとっては、非常な悦びであるということです。それはちょうど羽化登仙(うかとうせん)する蝉(せみ)の如く、ひとつの殼を脱いで自由自在に天地を翔回る姿でもあり、この本当の姿を知った時に、死というものは悦び以外の何ものでもなくなるのです。

つまり本当に迷いを去り、執着を去った人間にとって、死というものは、ちょうど地中からはい出した蝉の幼虫が殼を脱いで大空を飛ぶような、まさしくそうしたものであり、非常な悦びである。こう考えてよいと思います。もちろんこれは早く死ぬことを勧めているわけでもなんでもありませんが、地上にいる時にしっかりとした真理を学び、そしてそれを行(ぎょう)じて生き、やがて時期が来て地上を去った時に、死はおおいなる悦びであるということを、知りなさいということです。

したがって、死に対して一途(いちず)に恐怖心を植え込み、教え込むということは大変残念なことであります。死への恐怖心が弱まること自体でもって、病人たちの多くの病は消えていく。私はそのように思う。病人たちは、いたずらに心にさまざまな恐怖感をいだき、また未来への不安をいだいて病を重くしているのが事実なのである。しかし、死後の世界が歓喜の世界であることを知った時に、やがて彼らもひとつの悟りを得ることができると思います。


4.転生輪廻の法則


さて、世によく言われる「転生輪廻(てんしょうりんね)」ということに関して、話をしておきたいと思う。

転生輪廻というものは、文字どおり生まれ変わるということ。そして輪廻(りんね)という言葉で表されるように、ぐるぐると回っていくということだ。ちょうど水車がぐるぐるとまわっているように、あのように人間は生まれ変わり、生まれ変わり、天国とそして地上界とを輪廻している。このように言われている。

まあこれは、百パーセントの真実と言ってもよいであろう。何人(なんぴと)であっても、この転生輪廻の法則から外(はず)れることはできないでいる。すべての人がその法則の下にある。短い人は数年、数十年の周期で生まれ変わってくることもあるけれども、まあ平均的な人は、数百年、二、三百年、あるいは三、四百年の周期で地上に生まれ変わってくるし、魂として偉大な方は、千年、二千年に一度、地上に生まれ変わってくる。こうしたことをしているようです。

もちろん如来と言われる方々になってくると、この転生輪廻そのものも強制的なるものではなくて、自発的に必要があれば地上に計画を持って出てくるという形になるけれども、大部分の霊界に住んでいる住人たちは、一定の周期が来ればルールとして、地上に生まれ変わらなければならない。そして新たな経験を積まなければならない。そういうふうになっている。

こう考えてみると、地上の存在、この地上界の存在、現象世界の存在というものはいったい何かと言えば、これは「学校教育」であるというふうに考えてよいと思う。

すなわち、だいたい平均的な霊人ならば、たとえば霊界に三百年ほど生活をすることになるが、三百年ほど生活をして魂が退屈をし、生長が止まってくる。そうすると、また新たな学習を受けられるようにその環境を用意されることとなる。したがって、三百年に一度ぐらいはまた地上界に出て来て、数十年の人生を送ることになる。

この地上界というのは、魂にとっては非常にいい学校であり、最高度の学校ということになる。すなわち、三百年に一回生まれ変わるとすれば、三百年経てば、地上の世界はまた一変しており、そこに新たな魂学習の経験が得られるということになる。文明の進歩というようなこともあるが、以前生まれ変わった所とはまた環境が違っており、人びとも違っており、文化も違っている。そうしたことで次なる勉強ができる。こういうことがあるのである。

したがって、地上に生まれるということは、学校に学びにあがるということと同じだと考えてよい。そしてそうした事実があるからこそ、なかには学校に行くのを嫌がる人もいれば、喜んで学校に通う人もいる。また学校にもいろんな学校があって、皆さん進学の時に、あの学校にする、この学校にすると悩まれるだろうけれども、おそらく同じような状況でもって、霊人たちもあの学校にするか、この学校にするかを決めている。このように考えてよいと思う。

この転生輪廻の法則は、まあキリスト教などでは、あまり説かれてはおらぬかもしれぬけれども、真実であるし、また新興宗教の中で転生輪廻を否定しているような宗教も一部にはあると思うが、皆、それを真実否定しているのか、あるいは現代の時代に迎合するために、あえて否定しているのか、その本質を私はよく知らないけれども、これを否定しているものがあるとするならば、これはひとつの誤りであるから訂正しておきたい。あるいは訂正する必要がある。このように私は言っておきたいと思う。


5.生まれ変わりの方法


さて、そうした転生輪廻があるという話とはなったが、では具体的な生まれ変わりの方法は、どのようにするのであるのか。これについて語っておきたいと思う。もちろん、こちらに還って経験した私の範囲もまだ知れているから、すべてを知っているというわけではないが、こちらに来て自分が見もし、聞きもした範囲のことを話しておきたいと思う。

具体的にはどういうことかということであるが、これは、もちろん住んでいる人、霊界に住んでいる人の、その生活様式に合った生まれ変わりということが可能であろう。

それはある程度、近代的なところにおいては、かなり高度に発達した生まれ変わりの組織、仕組みというものもあって、役人のような者が生まれ変わりの順番を待っている人たちを整理し、彼らのしかるべき出所、両親等とを決めていたりするところもある。そうしたところで生まれ変わりをするということ。これも結構、最近は多くなってきているようだ。

これ以外の古典的な生まれ変わりの方法としては、いくつかある。それは、それぞれの次元における霊界村において、生まれ変わりの場所というのがあることがある。

それは何かと言えば、たとえば生まれ変わりの海というようなものがあることもある。その海の中に浸(つか)っていくとやがて意識を失っていって、地上に生まれ変わるというような場所である。あるいは生まれ変わりの井戸というようなものもある。その井戸の中に飛び込めば地上に出てくるというような所である。生まれ変わりの池というようなところもあって、そこの池に飛び込んで地上に出てくるというようなこともある。

いずれにせよ大切なことは、こうした池であるとか、井戸であるとか、海であるとかいうのは、ひとつの象徴でもあるということだ。霊界は物質世界ではないから、実際にそうしたものがあるわけではない。ただ意識の目にそうして、そういうふうに映ずる場所があるということだ。そうしたところに波長を合わせていくことによって地上に出る。こうした地上へのチャンネルとなっている、通路となっている箇所が、霊界のあちらにもこちらにもあるということなのだ。そのように考えていけばよいと思う。

この際に注意すべきこととしては、生まれ変わりにおいて、その準備ということがなされるということだ。地域において、生まれ変わりの仕組みは多少違ってはいるけれども、地上にて両親が結婚し、そして子供として出ていってもよいような状況ができてくる時に、数カ月前から子供たち、出誕する予定となっている者は、その準備を始めることとなる。

すなわち、あの世、この実在界の生活にピリオドを打ち、そして新たなる生活に出ようとする覚悟をまず決める必要がある。次には現在の地上世界の様子というものを、魂的に学習するという段階がある。自分がどういう地域の、どういう文化の、またどういう生活環境に選ばれて生まれていくのかということを、それを学ぶということです。そして次には、やがて意識を切り換えていくという作業がある。

この生まれ変わりの場所はいろいろあるけれども、ある所で私が見てきたものでは、ちょうど蚕(かいこ)の産卵室、養蚕(ようさん)室ではないが、そうした風景もあった。つまり、そこにいる人たちが地上に生まれ変わる準備をして、一堂に寝かしつけられているという状況があった。

すなわちそこで睡眠状態、あるいは催眠状態に陥っていって、次第次第に霊界での覚醒せる意識というものを失っていく。そうして蚕(かいこ)が繭(まゆ)になるように、ちょうどその霊としての意識をやがて停止し、凍結したような状況にて、しばらく、一ヵ月二ヵ月の月日を待つこととなる。

やがて地上から夫婦の和合した合図が送られ、妊娠可能な時期が来るとすると、その養蚕室にいる手伝いの方、役人と言ってもよいが、そうした人の許可が出て、その蚕の繭がひとつひとつと地上に送り出されていく。こうした感じだと思ってよい。そうした繭に入った霊人が地上に降りていって、そして母親のお腹の中に宿るということになる。まあこうしたシステムだということだ。

もちろん、この蚕の繭という表現は私独自の比喩でもあるし、ある程度視覚的に訴えた比喩であって、霊的世界が実際にそういうふうになっているわけではないが、意識の目で見ると、たとえて言えば、そうした感じになっていると言うことができるであろうと思う。


6.霊的進化の違い


さて、こうした生まれ変わりの方法がいくつかあるわけだけれども、この際にも、霊的進化の違いということがひとつの問題となってくる。魂において、やはり霊的進化に違いがあるということは、これは歴然たる事実である。地上を魂の学校と考えるならば、霊的進化によって、その学校が違うということは有り得ることだ。いわゆる高級霊などが地上に出て来る際には、やはり時代の変化ということを微妙に察知していて、時代の変革時に数多く出て来るという現象がある。

たとえば国造りの時、こうした時には数多くの光の天使たちが地上に生まれることがある。また国造りが終わり、やがて繁栄、発展していって文化の一大高みになる時にも、また多くの天使たちが地上に出ることがある。またそうした平和が続いた後に、再び一大改革が行われるような時、宗教改革が行われたり、文明の改革が行われるような時にも、また新たな波が起きて、天使たちが数多く出ることもある。

こうした目でもって私が見ていて、天使たち、あるいは高級霊たちと言ってもよいが、そうした者が数多く出ている地域、場所とはどこであるかというと、現時点ではおそらく、日本という国にかなり数多くの天使たちが出ているということが、言えると思う。アメリカなどにも、もちろんかなり出ているけれども、だんだん、量、質ともに日本に出ている高級霊のレベルが上がってきたように思うし、今後とも続々と用意されている。

また、やがて日本の繁栄に続く国々として、日本に近いアジアの国々、韓国であるとか、東南アジア諸国、インドネシア、シンガポール、またオーストラリア、ニュージーランド、こうした所にも、またやがて時を追うにつれて、天使たちが数多く出ることが予定されている。

このように今、日本という地域が非常に注目されていることは事実であるし、日本が注目されている理由のひとつとして、非常に大きな霊的な磁場がこの日本を中心に起きつつあると言うことが、できるのではないかと思う。こうした大きな霊的磁場ができる時に、高級霊は好んで地上に降りていくということになる。

たとえば私も、宗教改革という名目でもって日本に出たけれども、今後も数多くの諸如来、諸菩薩が、この日本の国に出ていくであろうし、現に出ていっている方も数多くいる。その流れの中には、もちろんかつてキリスト教系で活躍した人もいれば、仏教系で活躍した人もいる。また、日本神道の中の偉大な方々も続々降臨の予定を組んでいる。まあこうしたことがあるだろう。

これはいったい何を意味しているかというと、地上にあっても、たとえば優秀な学生諸君というものは、いい大学を目指していったりするであろう。全国各地の勉強のできる子供たちが、たとえば有名高校に進んで共に学んだり、あるいは有名大学、たとえば東大でもなんでもよいが、そうしたところに集まって勉強したがる。これは競争の原理のひとつの面でもあろうけれども、切磋琢磨(せっさたくま)ということを求めて人々が集まってくる。まあそうしたことがあるのではないかと思う。

このように、高級諸霊が競って出てくる理由は、地上において、たとえば田舎の町立の小学校であるとか、中学校であるとか、高校であるとかに大秀才が一人いたとしても、自分の力が実際どの程度なのかということがわかりかねる。こうして、大秀才はやがて都会の学校に行きたがるという風潮があるが、高級霊たちにとっても同じようなことが言えるのであって、自分一人だけが高級霊として、その時代に出ていっても、自分というものを磨くということにおいて、あるいは他人というものの尺度がないということが、非常に不安である。

したがって、大指導霊が誰か出る時に競ってその時代に出て、お互いに切磋琢磨するということがよく行われる方法論であるし、これは単に方法論としてだけとらえるのではなくて、人情として考えてもそうであろうと思う。やはり同時代に生きて自分と互し、あるいは自分を超えていくような方がいるということが、やはりひとつの進化の条件であろうと思う。こういうことにおいて、高級霊たちも同時代に、同一地域に数多く出てくる傾向がある。まあそうしたことが言えるであろうと思う。

霊的進化の違いが、生まれ変わりの時にもこうして影響するということはあるだろう。魂の学習にとって非常にいい時期に、いい地域に限って出て来るということがあるということだ。これに関しては、ひとつ知っておかねばならんと思う。


7.カルマに対する一考察


さて、この霊的進化、あるいは生まれ変わりということの話をしたわけだけれども、いわゆる「カルマ」ということに対しても、考察を加えておかねばなるまいと思う。

カルマとは、仏教では業(ごう)というふうに言われている。人間には宿業(しゅくごう)というものがあって、それは消し難(がた)いものである。そして過去世の業といって、過去世に犯した業ゆえに今世で苦しみが待っている。まあこういうことがよく言われる。

仏教の本質のひとつは、やはりこの業の思想、カルマの思想であり、過去、現在、未来という三世が、このカルマの法則によって握られているという思想だ。まあこれは、キリスト教などでは明確には出ていないけれども、仏教では非常に大きな目玉のひとつであろうと思う。

このカルマの考え方をなぜ釈迦が明確に打ち出したのかと言うと、ここに教育者としての釈迦の本質があったと言ってもよいであろうか。つまり、人間はともすれば今世限り、現在ただ今の環境そのものに対する不平、不満で生きているけれども、その不平、不満を断つ方便のひとつとして、「今、お前がそうやって苦しんでいるのは、実は過去こういうことがあったのだよ。その原因に対する結果が現れているのだ。これを因果応報の法則という。すなわち、その過去悪いことをしたから今世悪い結果が出ているならば、これをなくすためには、むしろ来世の幸福を考えて、今世にいい種を蒔いていくしかないではないか。いい因を残して、来世のよい結果、よい果実を待つしかないではないか」、まあこういうことを、方便として説いたのではないかと思う。

ただ、これは非常にわかりやすい話であったが、事実その通りの話であるかどうかというと、若干疑問になる点もなきにしもあらずと言えようか。確かに、カルマの法則というものも影響は出ていることは事実。特別な生活をした人、極端な魂の傾向のある人たちにとっては、その魂の傾向を打ち消すか、あるいは和らげるか、修正することができるようなところに出ることが数多くあります。けれども、また同じような生活を送る人がいることも事実です。宗教家として生まれて、何回も出て、何回も成功を収めているような方もいれば、いつも政治家に出て、政治家として成功を収めているような方もいる。

したがって、カルマの法則というもので、ある時に僧侶となり、ある時に下等動物となったり、ある時に罪人になったり、また政治家となったり、奴隷となったり、こういうふうに激しく動くというよりは、やはりその人の魂相応のところに出て来るということが現実であり、そして魂の一部の修正のために、今世の意味があるというふうに考えてもよいと思う。

過去世のカルマというものを、すべて引きずって歩くような生まれ変わりではないと、私は言ってよいと思う。たとえば、過去世に人殺しをしたから、今世に自分が死刑台に立つことになった。まあそうした極端なカルマもないとは言えないだろうけれども、ただそうした一点、重大な過ちという一点によって、今世のカルマがすべて支配されるというふうには、私は言い難いと考える。そうではなくて、やはり今世の意味というのは、ひとつの教育であって、人間は生まれつき立派な素地を持っていて、それの磨きをかけるために出ているのだ。その磨きの部分をカルマの修正というのだ。このように考えてよいと思う。

人間はもともと仏性の宿った素晴らしいものであり、また神の子である。こういう神の子であるから、徹底的な悪人がその罪を償(つぐな)うために刑務所で牢獄に入れられるような、そうしたカルマの思想は間違いだと言ってよいと思う。もともとみんな素晴らしい人であるけれども、素晴らしい人であっても、多少見劣りのする部分はある。たとえば大変な秀才であっても、英語の発音がうまくないとか、大変な秀才であっても国語がそれほど得意でないとか、数学にどうも苦手(にがて)意識とかがある、こうした方がいるであろう。この数学に多少苦手意識があるから、家庭教師を付けて数学の勉強せねばならん。この辺がカルマの刈り取り、修正ということであって、大秀才であることは事実なのです。

まあこうしたことで、極端から極端に物事を考えてはならない。やはり人間とは、そうしたものではないのだ。素晴らしい神の子としての恵みをもって、今世に生まれてきているということが前提であって、その前提を外(はず)した議論は不毛である。私はそのように考えます。したがって、カルマということもあり得るけれども、また原因・・結果、作用・反作用ということもあり得るけれども、それはトータルが素晴らしいものであると見た上で、その一部の修正であるというふうに考えていただきたい。

谷口雅春が今世において、「光一元」の思想を説き、「人間神の子」を説いたから、そのカルマの法則による刈り取りとして、来世もう一回出てくる時には今度は人間罪の子、悪の子、二元論を説くとかと言えば、そういうことはない。おそらくこの次に出ても、また光一元論を私は説くであろう。そのように思う。まあそうしたことだ。何事も極端に考えてはならない。


8.生死を超越せよ


さて、いろいろと魂の真実とか、転生輪廻の法則、こうしたことを話してきたけれども、私がこうした話でもって、皆さんに伝えたいことは何かというと、「生死をすべからく超越せよ」ということです。

生死、すなわちこの世の生、それからあの世の死というものを、分断されたものと考えるな。生と死は一体となったものであり、一貫したものなのだ。それは、ひとつの学校から次の学校へと移っていくということなのだ。魂の春夏秋冬なのだ。そういう考え方を持ってほしいと思う。

そしてこの世というものは、先はども述べたようにひとつの学校であり、学校としての意味を持っているのだ。学校としての意味を明確に持っている以上、この学校で優秀な成績をあげなければ、今回の学校教育の意味は終わらないのだ。あなた方もそうであろう。小学校六年間の教育を終えて。中学校三年間があるであろう。これを終えて、高校の三年間があるのではないのか。

同じように、人生というこの現実は、皆様にとって小学校であるか、中学校であるか、高校であるかは私は知らない。ただ、それがひとつの学業過程であり、現在自分が置かれている魂修行の場もまた、そうした学びであるということ、学びの材料であることは事実であって、そのように今世を学校と考える立場から見れば、今世の魂修行として学べるものは貪欲に学んでいく、すべてのものを学んでいくという考え方、これが非常に大事であろうと思う。

同じ環境に生まれ変わることは、いくら生まれ変わりがあるとしても、二度とないであろう。今世の日本なら日本に、生まれるということは、おそらく二度とはあるまい。そうであるならば、今回この人生を持った以上、生ある限り学び尽くすということが大事であろうと思う。学び尽くすということ。この環境において、生きれる限りの最大限の力を発揮して、学びに学ぶということ。そしてその学びの内容は、魂の糧となることを選び取っていくということ。これが大事だ。

魂を堕落させ、下落させるようなことに腐心してはならない。魂を向上させ、光らせることのみに力を注ぎ、そして自らを磨いていくことが大事であろうと思う。それがやがて、今世を超えた来世において、皆さんを調和された世界へと連れていくことになっていくのであろうと思う。

谷口雅春は、人々がわが教えを学んで地上を去った後に、如来界に続々と新しい天使として生まれることを望む。私の書物を学んだ方が、続々とわが如来界に還り来たって、ともに手を携(たずさ)えて悦(よろこ)び合うことができることを祈る。きっとそのようになるであろう。

諸君よ、学ぶということに限りはないのだ。

諸君よ、向上ということに限りはないのだ。

根源なる神に向かって、遙かなる旅に向かって、我らは今、修行しているのだ。絶えず、絶えず向上せよ。そのためには、常に光を目指せ。常に光の王国を目指せ。

私は皆様の先導役として、今後も長く活動してゆきたいと思う。どうか、わが振る手の方へついてきなさい。私の背中を見て、山を登ってきなさい。私の行く先には光がある。私の行く先には太陽がある。私の行く先には神がある。どうか、わが言葉を信じてついてきなさい。