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目次


 2.信仰の意義

 3.信仰の作法

 4.中心帰一

 5.神の心

 6.信仰の優位



1.原点への回帰


最終章において、信仰の優位について、話をしていきたいと思います。

何はともあれ、信仰ということが、何にもまして現代人にとっては、大切なことなのです。偉大なる神人が地上に生まれた時には、そうした信仰の心が、人びとの心に満ち満ちてくるのですが、やがて時代が下るにつれて、何千年も昔のことは、神代の時代の神話へと変わっていくのです。

人間たちの多くは、こうした、神があり、語り、そして教えを説かれるということを、遥かに昔の時代に、神話として知っているということに満足しているのではないでしょうか。

今、私は、「原点への回帰」ということが、何にもまして大切なことであると思われるのです。原点とは何か。一体それが何を意味するのかと言えば、どこに日本人の根本的な精神の源(みなもと)があったか、ということなのです。それは、今から三千年程前の昔に、私や天之御中主之神が、日本の国にて教えを説いた時代のことであると言えましょうか。これが、原点への回帰ということでありましょう。

今、『古事記』や『日本書紀』を読んだ方には、必ずしもこの原点が明らかではないかも知れません。と言いますのも、『古事記』や『日本書紀』に書かれている内容が、実は、今から千数百年前の記述であるということがひとつ、いまひとつの事実は、その記紀(きき)が書かれた頃をもってしても、私たちの時代からは、既に千年以上の時代が流れていたということです。千年以上の時代が、人びとの口から口へと語り継がれるということでけでもって、流れてきたのです。神話の多くはこうした伝承であるために、その内容が非常に不明確となっているのです。

このため、私たちは、今から千数百年前に、稗田阿礼(ひえだのあれい)、太安万侶(おおのやすまろ)らを用いて、こうした日本の歴史についての編纂(へんさん)をさせたわけです。この際に、単に伝承をまとめるのみならず、真実の歴史をできるだけ明らかにしたいという意図から、稗田阿礼に対して、かなりの霊示を送ったのです。この霊示が、高天原(たかまがはら)の神話のなかに、さまざまなかたちで現われているのです。

ただその当時、私たちが送った霊示といえども、当時の万葉人(まんようびと)たちが理解できる範囲であったために、必ずしもすべてを語り得ているとは言えない部分もありましょう。当時の人たちの神に対する感じ方、考え方を裏切らない範囲で語ったということを言えると思います。

すなわち、人びとはまだ、人間的なる意識でもって、神々というものを認識せねばならなかったということです。この稗田阿礼を通じてさまざまな物事を学ばせ、そうして天上界のことなどを教えたものです。

この『日本書紀』、『古事記』というものの編纂も、私どもの神理、神道の真理という流れのなかで見たならば、ひとつの中興運動、立て直し運動であったと言えましょう。けれども、原点への回帰は、まだ十分にはなされていないと感じるのです。原点にあるものは、神話という姿、そこに描かれている神々の姿を除き去った後に現われるもの、すなわち、信仰の真実の姿、神々の心の本当の姿ということでもあったでしょうか。

結局のところ、神話となった『日本書紀』、『古事記』の奥にあるものは何かというと、日本の国において、神の愛される人間像は如何なるものであるか、ということだったと言えましょう。

それは、本来、高天原とこの地上との間には偉大なる架け橋があり、霊的な架け橋を通じて、さまざまなやり取りがされていた。神と人間とは別々のものではなく、神と人間とは、共に語り合いながらまつりごとをし、歴史を創って来たということです。ここに、本当の人類史の秘史があるわけです。

どの時代のどの民族であっても、必ず神話の時代がありますが、その時には、神と人間とが共に住み、語り合うという世界観が呈示されていると思うのです。その世界観の本当のあり方は、その神話が創られるような状況においては、数多くの高級諸神霊が地上のことを気にかけている様子を、地上にいる霊的能力者たちが感じ取り、見、聴いて、それを他の人びとに伝えたということなのです。

私たちも太安万侶らの時代に、稗田阿礼を通じて数々の神示を送り、正しい国史編纂のための助力をしたのです。この稗田阿礼という人間が、やがて現代日本に生まれ変わって、大本教の教祖となった、出口王仁三郎という人間であったということを、既に知っている方もいるであろうと思います。

このように、日本の歴史のなかにおいても、私たちは必ずしも沈黙はしていなかったのです。そうした事実を知っていただきたいと思います。


2.信仰の意義


「信仰の意義」ということについて、さらにさらに深く考えてみたいと思います。

それは、まず第一に、信仰は如何なる意味を持っているのか、そもそもどのような意味合いからそれを要求されているのか、ということを語ってみたいと思うのです。

それは結局において、人間が、高天原にいる神々のことを思い起こすということであるということです。また、本来の世界のことを知るということでもあります。本来自分たちが、如何なる世界に住んでいて、その世界からどのような使命を持って地上に降りてきたのか、そして、自らの使命を忘れないがために、どのようなことをしなければならないかを心に振り返る、反芻(はんすう)してみるということ。これに大いなる意味を見出したのです。

地上に生きるあなた方は、肉体というものに宿っているために、本当の霊的な存在について、深く確信することができにくくなっていることと思いますが、けれども、心を落ち着けて、精神の統一をした時に、そこに信仰の姿というものが現われてくるように思います。それは結局において、自らの心のなかにある神へと通じる通路を開くということ。普段は閉じている扉を、押し開けることであると言えましょうか。この意味において、信仰とは、人間がこの世的なる纏(まとい)を去り、本来の神とひとつになるということだとも言えましょう。

また、信仰について大切なことは、信じるということが、ひとつの大きな力であるということです。人びとは、信ずるという力が一体どのようなエネルギーを持っているかということを、忘れ去って久しいのです。
本当は、地上にある人間にとって、最大の力が信仰の力なのです。一人の人間として、なすべきこと、なし得(う)ることとには限界がありますが、信ずる力によってなし得(え)ないものは何もないのです。

それは、神を信ずるということにおいて、人間にすべての道を開くという力を、お与えになっているからなのです。信ずることによって、その本来、神の世界にある力が、この地上に解き放たれ、それが、大いなる奔流(ほんりゅう)となってほとばしっていくのです。これこそが、信仰の意義でなくて一体何でしょうか。これこそが、信仰の力でなくて何でしょうか。

また、私は、みなさま方に申しあげておきたいけれども、高天原の神々のなかには、さまざまな力を持っている方がいらっしゃるのです。それぞれの道での専門家が数多くいらっしゃるのです。もちろん、宗教家として生きた方が多いことは事実でありますが、それ以外の世界においても、政治や、あるいは経済、それ以外にも文学であるとか、学問であるとか、いろんなところで力を発揮する神がいらっしゃることも事実です。

そうした神は、何らかのきっかけさえあれば、地上の人びとを導きたいと思っているのです。地上の人びとを救いたいと思っているのです。地上の人びとをより良くしたいと思っているのです。そうした神々は、地上の人びとが心を清くし、そうして自ら仕事に励んでいるのを見た時に、必ずや何らかの力を与えてくれるものです。信仰には、そうした大いなる力の原理があるのです。そう思って間違いありません。

すなわち、信仰とは、結局において、神々と地上の人間との間の連絡手段でもあり、会議手段でもあり、また、一体となるためのロープでおあるということです。それは、神々は神々において、何とかしてその力を、その目的を地上に天下(あまくだ)らせ、そうして実現せんとしているのです。だるからこそ、そうしたことを手助けしてほしいと思っている人たちに対して、力強い援護射撃ができるのです。

ここに、信仰はひとつの完成された姿として、立ち現われることとなります。これは、神の自己完結の姿でもあるということです。地上世界と、地上を離れた神の世界とが一体となり、円環となって、そのなかに、大いなる愛の力が巡り来たるということ。神の世界と地上の世界が分け隔てられることなく、そのなかに大いなる愛の力が流れていくということ。循環していくということ。ここに信仰の意義があるのです。

そうして、高天原に在る神々が、地上の人びとを指導することによって、それは神々の単なる自己実現にとどまることはなく、その地上にてなした業(わざ)が、やがて多くの人びとへの愛の奇跡となっていくのです。多くの人びとを救っていく力となるのです。多くの人びとを救済していくエネルギーとなっていくのです。

信仰には、こうした生み出していく力があるのです。何もないところから新たなものを作り出し、大地に種を捲(ま)き、作物を育てていくような、そうした育むというものがあるのです。それが、信仰です。そこに、大いなる奇跡を見るのです。信仰なくしての奇跡はありません。

信ずる者には道は開かれていきます。信ずるということが、ひとつの呼び水となって、大きな奇跡が起きてくるのです。この奇跡の力を、私は現代の多くの人に知ってほしいと思います。信じるということが、如何なる力を持っているか。これを知ることが、神の創られた世界の秘密を解く鍵ともなるのです。


3.信仰の作法


さてそれでは、信仰について、その「作法」は如何にあるべきであるか、この点に関して話をしていきたいと思います。

日本の神道と言わず、世界各国の宗教においては、それぞれの作法というものを持っています。この作法とは何かと言うと、如何に神の世界に入るべきかという方法です。これに関して、仏教では「反省」というような方法も教えていますし、キリスト教においては「懺悔(ざんげ)」という考え方もあげているようです。

さて、日本の神道においては、昔より「禊祓(みそぎはらい)」ということが、大変重視されています。人びとは、これを単なる儀式としてとらえている向きがありますが、実はこの作法のなかに、重大なる意味があるのです。

この世の中には、神の力が増進される方向での心のエネルギーもあれば、神の力が実現するのを何とかして妨げんとしている悪の意志、悪の自己実現の意志もあることは事実です。神が人間を創られた時に、それぞれの人間に神と同じような意志というものを、自由意志というものを、小さなかたちではあるが、与えました。それが、思い違いをすることによって、その人の心のなかに悪しき思いが入ることによって、その自由意志を濫用(らんよう)したものが、それなりの悪しき波長をつくり出して、やがて悪霊というようなものを生み出すこととなっているのです。

しかし、この時に、私は思いたいのです。悪霊との関わりにおいて、信仰を如何にすべきであるか。彼らの取り扱いは如何にすべきであるか。こうしたことです。

これを考えるにつけても、悪霊には、本来、自分が今、如何なる立場にいるかということを知らせてやる必要があると感じるのです。

本来の立場、本来、自分が今いるのが如何なる世界であるのか。自分たちが悪を働いているという現実を、知らしめる必要があると思うのです。これを救済するという愛の道は、また別にあります。しかしそれ以前において、自らが救われるべき対象として、今、人びとに迷惑をかけているという事実。神の道に背いているという事実。これは、明らかにする必要があるのです。

彼らが神の道に背いているということを、自覚するということが、何にもまして大事です。まず、自覚がすべての出発点です。自らが神の意志に反しているということを彼らに自覚させないでは、彼らを本当の意味において更生させ、立ち直らせることはできないのです。

したがって、まず、信仰の作法の一貫として、悪霊の禊祓(みそぎはらい)ということが、どうしてもあります。地上に在る人びとが、神と交信せんとする時に、悪しき想念波動の影響というものを取り去ることが、どうしても必要です。そうした悪しき想念波動を取り去らないで、神と対話し、神の啓示を受け、神の心を心として生きていくということは、この上なく難しいことであります。

まず、悪の波動を去れ。悪の心の力を去れ。悪の入り込む余地を無くせ。自らのなかに悪霊を入れてはならない。悪霊を取り去れ。まず、拭い去れ。

そのためには如何なることをすればよいか。悪霊を自ら遠ざけ、神と心において通信をなすためには、如何にすべきであるのか。それは、まず、自らの内を清めること。自らの心の内を清めること。これが大事です。

では、自らの心の内を清める方法は、どのようなところにあるのでしょうか。

単に心の問題として、それを捉(とら)えることはたやすいことであろうと思います。けれども、大事なことは、まず、そうしたかたちをつくっていくということです。かたちをつくっていくことが大事です。神と対話せんとする者は、それなりに威儀を正し、作法を正して、精神を統一していくということが、大事であるように私は思います。

そうした威儀がなければ、威儀を正さなければ、本当に高級神霊と話ができるでしょうか。あなた方が地上にいる時でさえ、身分の高い人と会う時には、服装なり、身だしなみなりに気を遣うではないですか。言葉使いに気を遺うではないでしょうか。挨拶(あいさつ)に気を遣うのではないでしょうか。地上に在る人間と会う時でさえ、そうした作法が現にあるではないですか。そうであるならば、地上を去った世界において、神々もまた、そうした作法を欲しているということは真実ではないでしょうか。

あなた方地上の人間と、高天原の神々とは、対等ではないのです。神と対等なのは神だけです。あなた方が神であるならば、対等にロをきくもよい。しかし、現に地上に在る人間において、神と同じく悟りを得ているということは皆無。また、神と同じく、清き心で生きているということも皆無。神と同じく愛の思いのみで生きていることも皆無。神の如く、人びとへの救済の思いのみで満ちていることも皆無。すなわち、心が汚れていると言ってもよいでしょう。

そうしたあなた方であるならば、自らの小ささを知り、自らの足らざるを知リ、目上の者と接するが如く、威儀を正して神と相(あい)対座せよ。謙虚になれということでもある。

自らを低くし、自らを清くして、神と相対座せよ。神の御心(みこころ)を受けて、どのようにして自分が考えを変えるかということを思え。神と自分を対等だと思うな。たとえ魂において偉大であっても、地上に在るということは、下級生であると思え。

そして、そうした謙虚な心が、行動となって現れ、そして丁寧(ていねい)な応対、心の状態、そして身なり、こうしたことが大事です。作法だけが重要ではないけれども、それを重視し、そのなかに、他に対する、そういう優れた者に対する敬意を表していくということは、とてもとても大事です。

私は、こうした書物を読む人びとにも威儀を正して読むことを、服装にも気をつけ、考え方にも気をつけることを、大事だと言っておきたいと思います。


4.中心帰一


さて、本節においては、いちばん大切な考え方を明らかしておきたいと思います。

それは、「中心帰一(ちゅうしんきいつ)」という考え方です。中心、中なるものに、帰一、ひとつとなる。中なるものとひとつになる。そうした意味です。

今、さまざまな高級霊たちが降臨し、さまざまな教えを説いています。そうして、いろんな個性のある教えが、人びとに伝えられていると思います。

けれども、私は、宗教と学問とは、根本的に違うところがあると思うのです。それは、学問という領域においては、いろんな学科があって、それを自分の好きなように学んでいけばよいのであろうと思うけれども、宗教の世界においては、結局はすべて、一なるものに戻っていく、一なるものに立ち還っていくという意味があるからです。その一なるものが、本来の神であるということです。

その一なるものに回帰することを、帰一することを、帰属することを、帰依(きえ)することを説かない教えは、本当のものであるとは思えません。一なるものに戻っていくからこそ、そこに、信ずるということに力が湧いてくるのです。信ずるということに、生命(いのち)の泉が溢(あふ)れてくるのです。

確かに、霊天上界と言われる世界には、さまざまな神近き高級霊が住んでいることは事実です。わが大和の国の高天原に住みませる神の数も、数多くはありますが、この高天原以外においても、数多くの神々が、神近き高級神霊が住まう霊域があるということは、真実です。それを私も認めはいたしましょう。

ただ、そうした数多くの優れた方々が、地上を去った世界におられるということが、すなわち、人びとがいろんな教えを勝手に吸収し勝手に浸透させればよいということではない、ということです。違いを知ることは大事。しかし、奥なるものがひとつであることを知ることも、大事です。

奥なるものとは、では一体何であるのかということを、私は明らかにしておきたいと思います。

それは、人間としてのかたちをとった神というものは、あくまでも方便にしか過ぎないということなのです。人間であるとか、高級霊であるとか、こうした人間的なる姿をとって現れる神は、あくまでも方便としての神、すなわち、方便神(ほうべんしん)にしか過ぎず、この奥には、人間ならざる神が在(あ)るということ。人間ならざる神が在(いま)すということ。御座(おわ)すということ。これを忘れてはならない。

私たち人格を持った神というものは、あくまでも地上に在るあなた方を指導し、悟らせていくための方便として姿を現しているのであり、天照の奥にあるものは、はかり知れぬ叡知であり、はかり知れぬ光であり、はかり知れぬ愛であり、はかり知れぬ慈悲であるということを知りなさい。

女性という姿をとった、人格神としての神が私ではない。私の奥にあるものは、人格を超えた神であり、実在の神であります。それを、あなた方は姿形なきものを認識することができないために、こうした人格を持った神の姿をとって、あなた方に語りかけているのです。これを、「方便神」というのです。

したがって、あなた方が本当に信仰すべきものは、奥に在るものです。これは、天照と言っても、天之御中主と言っても、その奥に在るものではないということ。この奥には、姿形なき偉大なる神霊が在るということを、知らねばならんということです。

キリスト教においてもそうであろうと思います。イエスにしても、やはり神の使いであって、神そのものではないはずです。その奥なる、実相の神というものがあるはずです。その実相の神は、日本神道の実相の神と変わるものではないのです。

私は、地上にいるあなた方に、親切な心でもってこの真実を、くり返しくり返し、伝えておきたいと思います。実相の神は唯一の神であり、すべての教えは唯一の神に通じるということ。そして、唯一の神は人格神ではないということを、私は語っておきたいと思います。

唯一の実相の神は、中心神は、地上に肉体を持って生まれることはないのです。地上に肉体を持って生まれる神は、それは、人びとを教化し、教え導くための方便として、神の力の一部が現れてきたのです。

そうして、方便として現れてきた神の力の一部が、地上に在る時の肉体個性を帯びて、また、あなた方に霊示を送るというようなこともあるのです。しかしそれは、本来、すべてのものではないということを、知っていただきたいと思います。

信仰の根本には、中心帰一の思想があり、中心帰一の思想がない信仰は、本物とは言えないということを私は言っておきます。

どのような教えを学ぼうとも、どのような宗教を学ぼうとも、どのような思想を学ぼうとも、中心に帰一する神がなければ、そうした教えは偽物だと言ってよい。その奥なる実相の神を信じなさい。それこそが、あなた方の本当の神であるのです。

人格神というものは、それを悟らせ、信じさせ、わからせるがための縁(よすが)としてあるのだということを、あなた方のちょうどよき後見人としてあるのだということを、先生役としてあるのだということ知りなさい。

われは天照大神として、かつて肉体を持った者であるが、肉体を持った我(われ)、天照大神の本質ではないということを知リなさい。天照の本質は、大宇宙をあまねく照らしている光、そのものであるということを、あなた方に知っていただきたい。そう思うのです。

大天地を、この宇宙を、この地球を、人類を、あまねく照らす光明、これが、天照大神の実相の部分であるということ。その方便の部分としてのみ、私が今、あなた方に語っているということを知リなさい。これが、信仰の秘密を解く鍵となるのです。


5.神の心


さて、中心帰一という話が出たついでに、「神の心」ということに、触れておきたいと思います。

唯一実相の神は、一体如何(いか)なる心を持っておられるのか。 一体如何なる心でもって、私たちすべての者を生かしめ、育(はぐく)もうとしておられるのか。これについて話をしてみたいと思うのです。

唯一の神、絶対の神の思いは、徹底した光であり、徹底した愛であり、徹底した慈悲であり、徹底した正義であります。そして、徹底した善であります。神のなかには、悪はないのです。神のなかには、憎しみも怒りも、愚痴(ぐち)も何もありません。神のなかには、マイナスなるものは、消極的なるものは、何も無い。闇なるものは、何も無いのです。あの太陽のように、燦燦(さんさん)たる光を地上に生きている人びとに、そして地上を去った霊的な世界に生きている人びとに、与え、与え、与え続けている。それが、唯一の神の本当の姿であります。

その世界のなかにおいて、一時的に悪のように現れるものがあったり、また、醜(みにく)いもののように現れるものがあったとしても、それは一時期の姿であって、本当の姿ではない。本来、この地上に、そして霊的世界に、悪は存在しないということ。これを認めなければいけない。

悪があるように見えるのは、それぞれの人間に自由意志というものが与えられているために、その自由意志が思い込みによって、そうした間違った映像を、心の世界に映し出しているにしか過ぎないということです。しかし、そうした自由意志も、また、大きな眼のなかにおいては、やがて、一つのものに集めていかれるようになっているのです。

人びとよ、これを一つの芸術だと知りなさい。一つの神の芸術だと知りなさい。それぞれの者が、それぞれに個性を光らせながら、やがて、一なる神に近づいてゆくのだということを知りなさい。

あの打ち上げ花火のように、それぞれの光が天空をよぎっているように見えながら、全体として統一ある姿ができている。全体として統一ある美しい形をつくっている。神の心というものは、そうしたものなのです。すべてのものを包み込み、育みながら、やがて犬いなるものとして帰一させていく。そこに神の本質があるのです。本来の神の在り方があるのです。

ですから私は言っておきたい。神というものは、絶対の真理であり、神の心とは、こうした心であり、完全無欠であるということ、これをあなた方は忘れてはいけない。たとえどのようなことがあろうとも、その神のお心を疑ってはならない。悪のように現れることがあっても、本来の神のお心は、そこにはないということを、私たちは知らなくてはならないのです。

さて、神のお心がこのように完全無欠なものであり、そして絶対的な真理であり、絶対的な善であり、絶対的な光であるとするならば、私たち人間が地上に生きていく時に、すなわち、霊天上界においては神近き高級霊であるとされていたにもかかわらず、地上に在る時、人間として生きていかねばならない者たちは、どのようにそれを理解して生きていかねばならないのであろうか。ここに、大きな問題があるということです。

結論をまず、述べるとするならば、現実がどうであるかということはまた二の次として、まず人間は、こうした神の世界の理想像に、一歩でも近づいていくべく努力をしなければならないということです。そうした努力をしないで、ただ漫然(まんぜん)とあるがまま生きることが素晴らしい生き方でないことは、事実であります。

地上に在る時、人間は盲目です。神の心がどの辺にあり、この世界の真実が奈辺にあるかということに対して、盲目です。また、神の愛や慈悲に対して盲目です。そうした人間であるならば、本来の理想というものを知ることによって、それに一歩でも二歩でも近づいていくべきではないでしょうか。

私は、現在の地上の宗教の多くが、天国と地獄ということを説き、「地獄に堕ちるぞ」ということで脅(おど)しをつかっているのを見て、悲しい気持を禁じ得ないのです。現に地獄という世界はあることはあり、そのなかに地獄の亡者と見ゆる者もいることはいます。けれども、それは本来の人間の姿でもなく、本来、予定されている形でもなく、また、そのままであってよい姿でもないのです。

私は、人間は、そうした地獄に堕ち苦しむことを恐れるあまりに、信仰心を持つべきではなく、そうしたことを度外視して、本来なる神に近づいていくべく努力する必要があるのではないかと思うのです。地獄のことを研究し、それから逃れようとするのではなく、神そのものに近づいていこうとすることが、大事なのではないでしょうか。

さすれば、地上に在るあなた方よ、あなた方の仕事は一体何かと言えば、神の心をこの地上に具現化していくこと。それぞれの職業を通して、神の心を具現化していくこと。そして、それを大いなる理想にまで押し上げていくこと。ここにあるのではないだろうか。

さまざまな職業があり、そのなかに生きているあなた方です。それは極めて、限定された世界ではありましょう。しかし、その限定された世界のなかではあっても、そこにおいて全力を尽くし、神の心に一歩でも近づいていくべく努力をしていくのが、あなた方人間に要求された努力ではないでしょうか。

神のその心でもって、あるいは、神の心を心として生きていくならば、どのように今の仕事のなかで生きていかねばならんのか。

教師は教師として、妻は妻として、店員は店員として、政治家は政治家として、それぞれ果たすべき本分があるでしょう。その本分(ほんぶん)をどのように果たしていくのか、これを考えるべきです。

その際に、神が絶対の真理であり、善であり、光であり、愛であるということ、神そのものの性質のなかに、何らの悪はないということ、何の悪意も、何の邪念もないということ、それらに見えるものは、単に生きている人間の自由意志の歪曲(わいきょく)した姿にしか過ぎないということ、そしてやがては、そうした歪曲されたものも過ぎ去っていく、消え去っていくものだということ、こうした観点を忘れてはいけません。

神の心を心として生きるということは、地獄から脱するということではなく、本来、天国の天国なるところ、神の懐(ふところ)に大いなる気持でもって飛び込んでいくということではないでしょうか。私はそれが、何にもまして大切なことであると思います。


6.信仰の優位


さて、本章を終えるにあたって、最後に、「信仰の優位」ということを、今一度、繰り返しておきたいと思います。

私が本書を通じて言いたかったことは、ただひとつ、「信仰の優位を取り戻せ」ということです。この信仰が地に堕ちた時に、人類の堕落が始まり、日本人の堕落が始まったと言えるのです。

私は、日本人とは、大和民族とは、本来、神と共に生きてきた民族であると思います。その心の底に、神が常に在った民族であると思います。神と共に生きてきた大和民族。それが一時的な西洋デモクラシーにかぶれることによって、本来の神を見失った姿、これは、如何ともし難い現状です。許し難い現状であろうと思います。信仰の優位を、何ものにも勝るものとして考えなさい。

あなた方は、食糧と信仰との、どちらを取るかと迫られたならば、迷わず信仰を取りなさい。地位と信仰のどちらを取るかと言われたら、迷わず信仰を取りなさい。金銭と信仰のどちらを取るかと言われたら、迷わすに信仰を取っていきなさい。この世の命、生き長らえることと、真実の信仰に生きることと、一体どちらを選ぶかと問われたならば、迷わず信仰の道を取りなさい。神に愛される生き方こそが、本来の人間の生き方であり、これ以外の生き方はないということを知りなさい。

信仰の優位は、これはすべてに勝る優位であるということ、すべての地上人に言える優位であるということを、そして、この地上を去った時に、あなた方を限りなき高みまで導いていく力もまた、その信仰の力にしか過ぎないということを、これであるということを、この信仰の力そのものであるということを知りなさい。

信仰とは、結局のところ、限りない高みにある神のお姿、実相の神の胸元に、御元に戻っていくための力であるということです。そしてこれが、すべてであるということなのです。

神は、地位も名誉も金銭もなくとも、崇高なる存在として存在しています。そして、人間もまた、そうしたものへと回帰していくものとして、創られているのです。

私は、あなた方に言いたい。みなさんは、心のなかの小さな出来事だと思っているかも知れませんが、心にあるものこそがすべてであるということです。心のなかに現れてくるものが、あなたが何者であるかをすべて雄弁に語っているのです。

心に邪悪なることを思ってはなりません。心は常に澄んでいなさい。心は常に清くありなさい。心は常に神の方に向いていなさい。心は神の方に向いているということがすなわち、あなた方を救い、あなた方を悪より守ることとなっていくのです。あなた方を地上的なる誘惑から守っていくということになるのです。

地上の悪を去りなさい。そうしたものに染まってはならない。また、害ある人の言葉、こうしたものに、心傷つけられてはならない。心を汚してはならない。ただ神のみを振り返りなさい。そして、神が見て下さっているのだから、自分はその神のために生きているのだと思いなさい。

たとえ、すべてを失っても、信仰だけは失ってはなりません。これは、「衣食足って礼節を知る」と言いますが、この世的なるものが満足されて、初めて信仰というものが出てくるのではないのです。信仰というものは、すべての元(もと)、すべての根本、すべての始まり、すべての終わりです。これは始まりであり、終わりであるのです。これがすべてなのです。神あってこその地球であり、神あってこその人類であり、神あってこその宇宙であるのです。神なくしては何も無いのです。

みなさま方が、どのように努力して農作物を作ったとしても、それは結局、あの太陽の恩恵を受けているのではないでしょうか。無料で熱を供給している、あの太陽の恩恵を受けているのではないでしょうか。神とはそうしたものです。神は、徹底的な善であり、圧倒的な慈悲の姿をとって、この大宇宙に生きとし生けるもの、すべてを育んでおられるのです。

さすれば、地上のみなさんは、この信仰の優位ということを、これを胆に命じていただきたい。選択に迷った時には、信仰の優位をとることです。それが、長い目で見て、神の悦(よろこ)ばれる道であるということなのです。

地上には、茨(いばら)の道もありましょう。谷間の道もありましょう。岩陰の道もありましょう。厳しい山道もありましょう。崖(がけ)を登ることもあるでしょう。しかし、どんなことがあっても、信仰という名のザイルを、信仰という名のロープを、決して手離してはなりません。神の裾(すそ)をつかんで離さないことです。神の手を握って離さないことです。そして、ただただついていくことです。

やがてあなた方は、かつて経験したことがない素晴らしい世界へと入っていくようになるでしょう。そこは荘厳(そうごん)な世界です。神々の世界です。素晴らしい光に満ちた、安らぎに満ちた、幸福に満ちた世界です。それを日本では高天原(たかまがはら)と言いますが、他の言葉で呼ばれる世界でもありましょう。

私は、この私の書物を読まれるみなさまが、一人でも多く、こうした私たちの光あふれる世界に還ってきていただきたいと思うのです。

みなさま方のなかには、もともと光輝く魂もあるでしょう。そうした方が光輝く世界に還っていくこともあるでしょう。しかし、私は、みなさまにお願いしておきたいのです。この地上の目的は、決して、もともと光輝いた方が、光輝いた世界に還ることにはないということです。この地上というものは、大いなる教育の場であり、これを通過することによって、今まで光輝いていなかった者も、燦然(さんぜん)たる光を放つような、そうした魂の修行場として創られているのです。

したがって、私は、この私の書物を読む人びとのなかの、数多くの方が、高天原に初めて入って来られることを望みます。そして、高天原に入ってくる条件とは、信仰の優位ということを心に刻んで、その道をまっしぐらに歩いた方であるということです。人間心を捨て、地上の心を捨てて、ただひたすらに、私のもとへ向かって歩いて来なさい。

天照への道は、すべてに通じる道です。この一本の道を、自らの信念に基づいて、ただただ真っすぐに歩いてきなさい。そこに、私が大いなる手を広げて、みなさま方を待っている姿を見ることもあるでしょう。その日を楽しみにして、また、あなた方の大いなる成長を楽しみにして、これからもまた、あなた方の世界を、この地上をも照らしていきましょう。それが私の、永遠の使命でもあるからです。