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目次

 1.私の時間論


 3.霊界の時間

 4.予知の問題


 6.運命の克服






(1988年5月12日の霊示)

1.私の時間論


谷口雅春です。またこうしてお話ができる機会を得たことを嬉しく思います。この6章は、主として「時間論」を中心に組み立ててゆきたいと思います。

この時間論というのは道元禅のひとつのテーマでもあるし、私自身にとってもひとつのテーマであった。このように思います。

生長の家の諸君には、常々「今を生きよ」と、「今を生き切れ」ということを言っておりましたが、禅から学んだこととしては、これがいちばん大切なことではないかと思います。今を全力でもってつかみきれということですね。

これは、時間的な「今」ということだけを言っているのではなくて、すべての人生の諸問題を解決する鍵が、この「今」という概念の中にあるからなのです。過去に遡(さかのぼ)って過去のことをどうこうしようとか、未来に飛んでいって未来のことをどうこうしようと言うのは、非常に難しいことであります。しかし今、只今(ただいま)何かをどうこうするということは、それほど難しいことではないのです。したがって、久遠(くおん)の今を生きるという考え方。これが結局はすべての人生の諸問題を解決してゆく鍵でもあるわけです。

それはどういうことかというと、みんな時間というのは、時計の針で動いていくものだと思っているかもしれないけれども、そうした時間はある程度人間の生活というものを規律あるものとするために、方便として与えられているものであって、本当はそうしたものはないかもしれないということなのです。

私たちからみれば、現在一九八八年の五月の十二日であろうかと思うが、こうした時間というのは実はそう大きな意味はないのです。本当は時間というものは、神がつくられた無限の部屋の中に、それぞれの今というのが詰まっているかもしれないのです。そうしたものかもしれない。したがって、私たちは時間というものを非常につかみにくいものだと思っていますが、ただ人生を黄金にしていくための方法論がここにすべてある。そのように思います。

私は時間ということに関しては、非常にうるさかった人間だと思います。それはこの使い方が結局、人間の人生をどう変えていくか、どのように色分けしていくかという。大切な大切な指標となるからであります。いちばん肝腎なことは、過ぎ去ってしまったことはもうどうすることもできませんが、時々刻々に新たな人生を出発するということ。一瞬、一瞬に新たな人生を出発するということ、そうして、久遠の今を生きるという心境を大事にすること。そうしたことではないかと思います。


2.神はなぜ時間を創ったか


さて、この時間というものの存在について、さらに考えてみたいと思います。神はなぜ時間を創られたか。こうした問題です。

ただ時間という観点は、あくまでもあなた方が感じるように地上的なるものであるということだ。そして、地上的なるこの時間の発生原因は、実は天体としての地球の運行に非常に関係しているということが言えるでしょう。

天体としての地球がどのように運行しているか、これが一年三百六十五日で太陽の周りを公転しているということ。こうしたことがあるだろう。またこれ以外に、地球の周りを回っている月の動き、こうしたものも多少の影響はあるであろう。これらが重なって現在の時間というものができている。昼間は太陽が出、夜になると月が出る。こうした考え方だ。こういう考え方があって、人は自然と昼と夜というものを受け入れている。

場合によっては、こうしたものがない世界も考え得(う)るということだ。太陽系の中の他の惑星の中には、あるいは太陽系以外のこの銀河の中には、そうした一日中昼、あるいは一日中夜というような所に棲息(せいそく)している生物もいるかもしれない。したがって、地球のこの時間というものは、必ずしも当然のことではないということを知らねばならんと思う。場合によっては、一日が三十六時間の所もあるだろう。あるいは、一日が百時間の所もあるかもしれません。一年が百日の所もあれば、一年が五百日の所もあるでしょう。

そうした所には、また違った考え方があるということを、私たちは認めなければならんと思います。一年というのが、地球が太陽の周りを回転する速度だとするならば、他の所ではもっと違った速度があり得るということは、当然のことだと思います。

こうしてみると、地球の人間のこの生活速度というものは、ある程度、地球の自転、公転ということと関係しているように思います。地球が公転する、一年で公転するということによって四季があり、四季があるということによって農作物の取り入れとか、栽培ということがある。そうしたことを起点として人間の営みがある。したがって人間の営みも、そこから発していると考えてもよいでしょう。また、たとえば三日昼が続き、三日また夜が続くというような生活であったならば、人間はまた違った生き方をしているかもしれません。ただ、現在私たちがあるような時間という形が、与えられているということです。

これに関しては、いささか私は、まあ運命論的に響くかもしれないけれども、地球に生まれたということ自体がこうした考え方、こうした時間の形式を受け入れていると、このように考えねばならんと思う。

たとえば一年が千日もかかるような星から、ある生物が地球に来て住みつくとするならば、地球の生活は非常に忙しく感じるであろうと思う。前の所では何倍もかかって一年が過ぎていたのに、地球上ではそうしたものがない。こういうことによって残念ながら地球における生活は、彼らにとっては非常に慌(あわ)ただしいものとなるであろうと思います。

逆に今度は、一年がわずか五十日ぐらいの所があったとする。五十日で太陽の周りを回るような、そうした星があったとすれば、これはまた地球人から見れば異常に忙しい速度で、彼らから見れば地球というのは非常にゆっくりした速度で、物事が動いているように思うだろう。

もし一年が五十日であって、五十日の間に四季があるとすれば、これは大変な速度であろうと思います。春はわずか十日余り、夏も十日余り、秋も十日余り、冬も十日余りということですから、雪が降ったかと思えば、すぐ桜の花が咲き、桜の花が咲いたかと思えば、すぐ夏になって草木が生い茂る。そうかと思えば、すぐ秋となって紅葉していく。こういう所にもし生活をしているとするならば、人間の時間は非常に忙しいものとなっていくだろう。

こうした所に住んでいる人がいるとするならば、おそらくは非常に行動的な人であってリズミカルに毎日を送っているであろうが、他方、瞑想的な生活、思索的な生活には適さないであろうと思います。

こうしたいろんな星があるということを前提に、神がなぜ時間を創ったかと考えてみると、神が時間を創った理由の中には、魂修行の場の違いというものを考えておられる。このように言えるのではないかと思う。

地球という環境の中で、いろんな魂修行をいろんな方がしているけれども、これをだいたい卒業し終えればまた違った環境での魂修行があるであろう。地球に生まれていて非常に行動的で、やり手タイプであって、地球に飽き飽きしてきた魂であるならば、たとえば一年が地球の三分の一ぐらいの所へ行けば、それに合っただけの勉強量、仕事量というのが与えられるであろう。またもっとゆったりとした生活が好きな人であれば、そうした星に移っていくことも可能であろう。

このように、神は時間というものを創造することによって、違った魂修行の場を提供している。そういうことが言えるのではないかと思います。


3.霊界の時間


さて、先ほど話した時間は三次元的なる時間、この世的なる時間のことでありますが、私は次に、霊界の時間の話をしておかねばならんと思います。

霊界に時間があるかと言えば、もちろんそれはあるわけですが、ただその時間というものは、皆さんが持っておられるような腕時計であるとか、あるいは壁時計であるとか、そうしたもので計られるものではありません。しかし、一定の感覚というものはあるものです。時間感覚というのがあります。ずいぶん時間が経ったように感じるとか、まだ少ししか経っていない、こうした時間の感覚はありますが、この時間感覚というのが非常に不思議なものであって、まったく直接的、直覚的にとらえることができるものなのです。

つまりアインシュタインなども言っているように、「非常に楽しいことをしておれば時間があっと言う間に過ぎ、苦しいことをしておればなかなか過ぎない」と言うけれども、こちらの世界でも、それがもっと増幅された形で現れるということになります。夢中で過ぎていくと、百年が一日の如しということになります。ところが地獄の責め苦にあっていると、一日も千年の如く感じる。こういう世界です。

したがって、そうした多様な時間感覚の中に、こちらの霊界人たちは住んでいるということが言えましょうか。こちらにおいても霊であっても、いつも忙しい忙しいと言って立ち働いている霊もおりますし、あるいは、いつも退屈だ退屈だと言っている霊もいます。いろんな霊がいますが、その人の考え方や、性格、行動パターンによって、時間の受け取り方はずいぶん違うということになります。

さすればこちらの世界において、たとえば人と会う約束をする時にいったいどうするのか。明日の午後三時に会うというようなこういう約束が、果たしてあり得るのかどうかということになると思いますが、これはある意味ではあり得るわけであります。ある意味ではあり得るというのは、お互いの時間感覚に一致をみれば、それが明日の三時であろうが五時であろうが、そうした適当なところに落ち着くということなのです。こういうことがあります。

私であれば、この第六章の「久遠の今を生きる」という霊示を午後送っているわけですが、午前中には「霊界見聞録」というのを送っておりました。午前の七時半からと午後の二時半からと、二回に分けて自分の霊示を地上に送っているわけです。ではこうした時間、午前七時半と、午後の二時半であるならば、その間に約七時間の時間のずれがある。これをいったいどのようにしているかということです。

私たちの方では、そうした時間を計っているかどうかというと、まあこうした時間そのものはないということになります。こうした時間はないけれども、地上の人間の生活活動を見るにつけて、だいたいの検討をつけるということになります。午後になったから、そろそろまた出番が来るかもしれん。こういうふうに感じるわけであります。

したがって、霊人たちが地上人たちと未来のことであるとか、そうした時間のことを言う時には、地上人の意識内容、感覚内容を、いったん受け入れた上で判定をするということになります。私たちの所へ来れば、もちろん三度の食事もなければ、睡眠ということもないわけです。この意味において、時間というものがまったく主観的なものとして流れているわけであって、客観的な時間速度というものが無きに等しいわけです。

ただよく言われているように、ものごとの順序だけはある。これは言える。原因、結果の連鎖だけは、はっきりしているということです。これが先に起きて、その次にこれが起きたというようなことだけは、わかっているということです。すなわち譬話(たとえばなし)で言うならば、手でもって相手の頬をぶって、そして相手が痛いと感じるのは、手でぶつという原因行為があって痛いと感じると、こういう順序だね。痛いと感じてから手でぶたれたと、こういうふうにはならんと言うことです。この時間系列の流れ、原因、結果の流れだけは、はっきりとした形でつかまれている。こういうふうに言えるのではないかと思う。


4.予知の問題


さてこうした話をしたならば、必然的に、次に「予知の問題」というものに入っていかねばならんと思う。

霊界の証明、霊人の証明のひとつとして、「予知」ということがあげられると思う。地上の人間の感覚でもっては予知ということは非常に難しい。運命を予測すること、自分の将来起こることと、これを当てるのは難しい。しかし霊との交流、交信をやっていると、なんらかの形でそれができるのではないかということは、みんな共通に知っているわけです。先のことがわかるのではないか、またこの先のことがわかるのではないかという感じが、いろんな宗教とか、あるいは霊能者たちの所へお客が続々と来る理由にもなっているわけだね。あるいはもっと違った形では、いわゆる筮竹(ぜいちく)だな、筮竹、占い師たち、こうした所にも人々は来る。未来のことが知りたいのだな。

なぜ未来のことが知りたいかと言うと、あらかじめ起きることがわかっているならば、危機は避けたいという気持が人間にはあるわけだ。もちろんそれがどうなるかは結果としてはわからない。一キロ先にあるのは丸太橋であるとする。これを知っているならば、遠回りしてでもちゃんとした橋の方を渡りたい。こういう安全心理というのが人間にはあるわけです。ところがそれがわからないので、盲滅法(めくらめっぽう)歩いていると丸太橋にさしかかって、そこですべって落ちる。こうしたことがあるということです。

さて、この不安材料というものを取り除くという意味での宗教、あるいは霊的世界があると言いましたが、これもひとつの神の伝道のための方便として与えられていることなのです。したがって予知というものは、完全なものではなく、そうした霊界というもの、あるいは霊というものがあるということを、教える限度で許されているということなのです。それ以上にはいかないということです。

もし未来に起きることを分刻み、秒刻みで、すべて適中させることができるとするならば、いったい人間の地上の存在とはなんなのでしょうか。これが問題となってくるわけです。そうすると地上の人間の自助・努力ということは、まったく意味がなくなってきますね。「あなたは明日はこういうふうなことをする。そしてその次はああする、こうする」ということがもし決まっているとするならば、まったく地上の人間の主体的努力ということは無駄になっていきます。そうするとなんのために魂の修行をしているのか。これがわからんということになってくるわけです。

したがって予知の問題も、あくまでも真理の伝道のための方便として許されているのだ、あるいは霊界が存在するということの方便のために、多少なりとも許されているのだという程度に考えておけばよいと思いますし、人間には自分の未来を見せない、知らせないというのが神の基本方針であるということは事実であります。

それはそうでね、次回の学期末試験で一番をとることがわかっているというなら、どうするかね。一生懸命努力するか、しないか。もし成績が下がるということを知っているなら、どうするかね。もし大学入試で落ちるということがわかっているなら、どうするか。まあそうしたことだね。

このように、やはり自由意志、あるいは自助・努力ということと決定論、あるいは運命論、予定説、こうしたものとの兼ね合いというのが非常に難しい問題となっています。だから予知の問題を言うとするならば、未来のことはある程度わかるけれども、わかりきることは難しいし、わかりきったことを三次元の人間にわかるように翻訳しきることは、なおさら難しいということです。ただ、ある程度のところまでわかることはわかる。それがあるということだけに、留めておきたいと思います。


5.運命のとらえ方


さて、こうした予知の問題を考えてきたわけだけれども、こうしてみると「運命とは何か」という問題に当たってこざるを得ないと思います。運命とはいったい何か。この問題です。

こうしてみると、運命というのは非常に不思議なものだなという感じがしています。ある程度の筋道が決まっているのか、まったく決まっていないのか。どれが決まっており、どのことが決まっていないのか。結婚の相手のようなものは、もう決まっているのか、まだ決まっていないのか。事業で成功するというようなことは決まっているのか、いないのか。病気をするということは決まっているのか、いないのか。自分が死ぬ時期というのは決まっているのか、いないのか。こうしたことが運命のとらえ方として問題になるのです。

人生の重大事となるようなことは、運命として決まっているというとらえ方もあるでしょうが、ただこれと違ったことが現実にあるということを、諸君の多くも知っておられることと思います。

たとえて言うならば、あるきっかけによって霊的な現象、あるいは障(さわ)りというようなものを受けるというようなことがあります。病気の原因の中でも、霊的な原因による病気ということもあると思います。こうしてみると、運命をどうとらえるか。この憑依(ひょうい)されるというようなことも、これは運命として決まっていることであるのか、そうではないのか。あるいは憑依霊の数も一体、あるいは二体、四体、五体、こうした数が決まっているのかいないのか、と言ってみると、まあこれは非常に難しい。憑依する側、悪霊の側も、これも自由意志で動いているし、地上の人間の方も自由意志で動いている。こうしたことがあって、なかなか予定というふうなわけにはいかないところがあるのではないか。こういうことが言えると思います。

ただ、人間は生まれた時にその性格、あるいはものの考え方、魂の方向性というものをある程度持っています。これが埋め込まれているということ自体が運命にとって、運命の芽が伸びていくのと同じだということが言えましょう。

朝顔の種を蒔(ま)けば朝顔が咲くように、黄色い西瓜(すいか)の種を蒔けば、黄色い西瓜ができるように、このように種子の段階で、ある程度、果実は決まっているかもしれません。その程度の違いかもしれぬ。朝顔の種を蒔けば確かに朝顔が咲くだろう。ただその朝顔がどのような朝顔になるのか、ということまでがわかっているかおらぬかと言えば、これが難しいということだ。

枯れてしまうということもある。たとえば朝顔としては、完全な朝顔が咲くことが予定されていたにもかかわらず、そこの家の人が水をやらなかったために途中で枯れてしまった。あるいは何かの物が当たって折れてしまった。あるいは異常に暑い日があって枯れてしまった。こうしたことはいくらでもあるわけですね。

こうしてみると、運命として予定されているというのは、朝顔の種を蒔けば朝顔が咲く、瓜(うり)の蔓(つる)には茄子(なすび)はならないで瓜の蔓(つる)には瓜がなる。こうしたことはすでに決まっているという意味で言えるかもしれん。ただそれが完全な形として実現するかどうかは、その間の途中にいろんなことがあり得るということだ。この朝顔の種を蒔けば朝顔がなるというところが、その人自身の魂の中に蓄積された全素質と言ってもよいかもわからぬ。幾転生繰り返すうちに、蓄積したものだと言ってもいいかもしれない。

このように、運命というものをそうしたふうに考えてもよいと思う。本来ならばこうあるべきであるという姿は、ある程度決まっているけれども、現実問題としてはいろんなことが地上では起こり得るということだ。もちろん偶然に大宗教家になったり、偶然に大政治家になるようなことは、まあないと言ってよいだろう。ある程度そうした方向づけはあるということだ。ただ、大政治家なら大政治家になるまでの間に、途中どういう経路をたどっていくかということは、まだまだ本人の努力の余地があり、他の環境による影響もあるということだ。こうしたこともまったく無視しては成り立たんということを、知ってほしいと思います。これが、運命のとらえ方の大筋です。


6.運命の克服


さて、運命のとらえ方について種々話をしてきましたが、「運命の克服」という話も、しておきたいと思う。

それは、朝顔の種が蒔かれて、そしてその種は朝顔として、天に向かって伸びていこうとしているわけだ。蔓(つる)を伸ばして、いろんな竹なら竹に結びついて、しがみついてやがて花を咲かそうとしているわけだ。この途中で日照りであるとか、いろんな石があたるとか、人間の手によって摘み取られるとか、さまざまなことがあり得(う)るわけだけれども、これが運命との闘いになるわけです。運命の克服ということだ。こういうことになるわけです。

さあ、では運命というのは克服されるものか、されないものか。こういうことだ。そして運命の克服を、どこまで入れて考えるのかということだ。

たとえば朝顔の種が見事に咲いてひまわりになるかといえば、まあひまわりにはならんということだね。植物でも接(つ)ぎ木とか挿(さ)し木とかして、違ったものに中間でならせるというようなこともあるとは聞くけども、そうしたことは例外中の例外であって、なるべきものにはやがてなっていくということはあるだろう。すなわち、魂として期待されている程度のものには、普通はなっていくものだということだ。

さてここで、運命全体の構造というものについて、話をしておかねばならんと思う。それは、運命というものと自力というものを、どの程度の比率でとらえるかという考え方です。たとえて言うならば、その割合をどのようにみるかということだ。

私は、基本的にはこうした割合ではないかと思っています。だいたい生まれつき決まった道筋と言いますか、筋道というのが、だいたい五割ではないかという感じを受けます。やはり朝顔は朝顔であって、多少変形しても朝顔の花以外はつきようがない。こういう考え方だ。五割はあるのではないか。

残りの五割のうちの約半分、すなわち全体から見れば四分の一ぐらいが守護霊・指導霊たちの力ではないのか。ただこの四分の一が守護、指導霊と言ったけれども、これが悪しき運命になってくる場合には、守護・指導霊ではなくて悪霊、あるいは憑依霊の影響ということもあるだろう。

こうした霊的影響、自分以外の他の存在としての霊的影響というのが、四分の一ぐらいあるだろう。そして残りの四分の一ぐらいが、だいたい自力の領域ではないのか、というふうに考えるわけです。

ただ、これは私がだいたい考えていた構想であるけれども、今こちらに還って思ってみると、多少違いがあるという感じを受けています。それは、その人の使命に応じて、やはりパーセンテージが変わってくるということなわけです。

私自身の人生計画というものをこちらに還ってから振り返ってみた時に、谷口雅春が地上に出ての人生計画というのがあったわけで、それを見たけれども、私の場合はほぼ変わりない。寸分変わらない人生を生きていた。自分の妻となるべき人もその通りの人であったし、自分の子となるべき人もその通りの人であったし、自分の教義、教えというものもだいたい予定どおりであったし、その広がり方というのも予定どおりであった。

こういうのを見ると、自分の場合は誕生の計画書と比べてみると、おそらく九割五分ぐらいが的中していると言わざるを得んと思う。途中、私は私なりに努力をしたし、指導霊は指導霊なりに努力をしたはずであるけれども、私の場合は九割五分ぐらいは生前造った計画のとおりであったと感じます。

こうしてみると、偉大なる仕事をせんとして地上に降りている人の場合には、この運命の決定論的要素はかなり大きい、ということが言えるのではないかと思います。しかしこれは、逆に言うならば、凡人であればあるほど自由裁量の余地が多いということですから、これはまことにめでたい、まことに面白い生き方だと言えましょう。自分でどういう人生を創るかが、各人に任されている比率が多いということです。これはまことにめでたいということです。

神という人も相当面倒見のいい方ではあるけれども、基本的には各人の問題は各人に預けているようなところがある。ゲタを預けているようなところがあるわけです。この意味において、平凡な魂であればあるほど、運命の克服の領域が大きくなってくる。自力の領域が大きくなってくるので、非常にこれは面白いと思います。

こうしたことが言えますが、基本的には前に、先ほど言ったように、半分――運命、四分の一――霊的指導、四分の一――自力と考えてもよいけれども、この比率が私のクラスになってくると、運命の領域が九十五パーセントぐらいになってくるし、まだ霊的自覚がそこまで行っていない人にとっては、運命の比率が四分の一ぐらいになっていくこともある。後はいろんな要素が重なってできてくることもある。そうしたことだ。その辺を知っておいてほしいと思います。

したがって、自らの内(うち)を見つめて、内なる声に耳を傾けた時に、非常に大きな声が聞こえる、うずきの強い人ほど運命というものを持っているというふうに考えてよいだろう。個性の強い人は、また運命があると、はっきりした運命があるというふうに考えてもいいだろう。

こういうふうにいろいろあるけれども、ただ基本は、どのような運命にあろうとも、地上にある人はその運命が見抜けんのだから、やはり努力をしていくしかないのではないか、ということだ。その途中でいろんな霊的指導も受ける。できれば受けたい、こういうふうに希望することがいいと思います。


7.光による前後際断


さて、運命の克服の話までやってまいりましたが、ここで全体的なパーセンテージの問題ということは、あまり深入りをしても私は意味がないと思います。そこで違った観点から、運命を切り拓く方法論について説いてみたいと、このように考えるのです。

そこで考えつくこととして、「光による前後際断」ということがあり得ると思います。私も禅についてはずいぶん学んだつもりでありますが、この前後際断という考えは非常に大事な考えであろうと思う。ある言葉、ある悟り、ある現象、ある人との出会い、そしてそうしたものを通して自分の心がクルッと変わることによって、その人の人生の前後が際断された状態になってくる。こうしたことが大事だ。道元なども、ずいぶんこの前後際断ということを重視しているようです。

結局こういうことだ。薪(たきぎ)というものがある。薪というものに火をつけて燃やしたら薪は灰になっていきます。薪に火をつけた結果、灰となったと言えるけれども、薪と灰とではまったく異質なものになっていて、灰は薪にはもう戻れない。こういう状況なわけです。こうした状況を前後際断と言います。

薪のうちはいろんな使い途があると思ったものが、火がついて燃えてしまえば灰になる。灰になったら灰は灰以上のものではなくて、薪には戻れない。もう元には戻れない。まったく異質なものになってしまった。これが、前後際断の例であろうと思います。

さて人生において、こうしたことがあるだろうか。今まで何十年か生きてきた人間が、前後が際断されて、まったく違った生活をすることがあるだろうかと考えてみた時に、それはある、あると考えざるを得ない。そうした例を私は数多く見てきましたし、実際自分が指導して、人生の前後際断をしてきた人も数多くあります。

たとえば自分が重病だと思って病気で寝ていた人に、「立て、床をとりて歩め」と私が言っただけで、病気が治ってしまった人はいくらでもおります。病気の大部分は、そうした自己イメージを愛し過ぎるがゆえに、そのように病気になっていることが多いのです。ところが導師が来て、「立ちて歩め」と言うと、本当に病院から出てきて退院する人も数多くいたということです。実際どれだけの数かは定かではありませんが、相当の数の奇跡が私の周りには起きてきました。

病気が治ったり、あるいは結婚できなかったような人が結婚できたり、あるいは、まあ初期の頃には、交通事故にあったにもかかわらず怪我をしなかったというような人は、いくらでもいました。車にはねられて怪我をしないと、こういう人がいたわけですね。それがあまりにも何人も出てくるものだから、私がそれを書いたりしゃべったりしていると、「じゃあ誰でもいいから、その人を出してくれ。俺が車でひいてみるから」と、まあこういうことを言ってくるような人もいました。この辺が現象ということの難しいところでもあるわけだけれども、ただその人の人生において、そうしたこともあり得(う)るということです。まったく信じられないような生き方をするということ。これも可能であるということです。

したがって、これが結局悟りのいちばんの功徳(くどく)だと思います。悟りということによって、人生の前後を際断するということだ。まあ昔は、前後際断のきっかけとしての出家ということがあったけれども、現代においてそうした出家は流行(はや)らんであろう。在家でもよいが、法に触れす学んで、人生観がクラリと変わるということ、これは前後際断であろう。今まで唯物論者であった人が、無神論者であった人が、クラリと心が一転して、神、信心の深い人になっている。霊を知るようになる。そうしたことはいくらでもある。

したがって、運命を変更し、より良きものとしていくためには、「光による前後際断」ということが非常に大事であろうと思います。この光、すなわち神の光。これを受けて人生をクラリと変えるということがあると思います。

このためにはどうしたらいいかというと、まあ私流に言うならば神悲観ということが一番です。神を想って精神統一をすることによって、他力の光というものを受けられる。こうしたことを実体験するということが、運命の変更に非常に役に立つ。このように思います。ただこうした考え方が嫌いな人であっても、霊的な自覚が高まれば高まるほどこうした前後際断が起き、まったく質的に違った人生が開けていくことが多いと思います。


8.久遠の今を生きる


さて、本章も終わりが近づきました。「久遠(くおん)の今を生きる」という最初のテーマに帰ってみたいと思います。

久遠ということは、「久しく遠い」と書いてあるが、実際時間という名の矢は、逢かなる無限遠点から飛び来たって、逢かなる無限遠点に向かって飛び去っていく。そうしたものであると思います。

こうした悠久の時間の流れを見た時に、その中で今を生きるということがいかなる意味か。これは実は神の目から見たら、いつの時代の人たちも、どのような地域に生きている人たちも、結局今を生きているだけかもしれない。神の目にはいったいどのように映っているかはわからない。しかし、久遠の今を生き切る――こうした考え方がとてもとても大事であることは、否めないと思う。

久遠の今を生きるという考え方が、どのように大事であるかというと、私は三つ大事な理由があると思う。

第一の意味は、それは真理という観点からそれが肯定されるということです。真理においては、やはり久遠の今しかない。永遠の今しかないのだ。今がすべてであって、それがすべての修行の機会であるのだという考え方。今やらずしていつやるかという、そうした気迫(きはく)です。これが大事だし、これが人間の向上の秘密でもあると思う。

久遠の今を生き切るということを、力説するための第二の考え方としては、これは、これがなければ光明思想は成り立たんということだ。光明思想というのは、とにかく良くなるしかない、良くなっていくんだ、光に向かって行くんだということだ。したがって、この今を出発点として努力していく、頑張っていく、素晴らしいものが来るという受け入れの気持を持たないで、光明思想というはあり得ないということだ。光明思想というのは、いつも現時点から出発して未来に向かって投射された光です。この光明思想という観点から、久遠の今を生きるという生き方が大事だということです。

第三番目は、人生を充実させる手法として、これがいちばんだということだ。キリスト教的に「一日一生」という考えもあります。これも同じことだろう。一日一生ということも多分同じことだと思うけれども、人間は、やはりその日その日を充実させていくのが、すべてにつながるということです。

私も生前、三百冊を超える著書を残しましたが、それらも毎日毎日、うまずたゆまず原稿用紙を埋めていった、その結果です。その原稿用紙を埋めるという作業なくして、私がそれだけの三百数十冊の書物を一挙に書くこともできなければ、あれだけ多くの伝道活動をすることもできなかった。このように思います。

したがって「久遠の今を生きる」というこの考え方は、実は私自身の人生を貫いた生き方でもありました。とにかく死ぬまでに完結するかどうかは知らないけれども、コツコツと書き続けるということを九十才近くまで続けたわけです。諸君のうちの多くは、若い頃に原稿は書けても年を取ったら書けなくなっていくだろう。諸君らはまだ、うまずたゆまず続けていく、毎日毎日続けていくということが、どれほど大事であるか、これを知っていないと思う。

この久遠の今を生きている。いつ死が訪れても悔いのないよう人生を生きているということが大事だ。何かチャンスがあればまとめてやろうなどと思っている時に、そのチャンスは永遠に訪れて来ない。常に常に前向きに、すべての時間を投入して自分の道を拓(ひら)いていく。それこそが、真理に到る道だということだ。どうか、私のこの話を深く深く肝に命じてほしいと思う。