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目次










(1988年11月30日の霊示)

1.祈りはかならず聞かれている


谷口雅春です。さて、引き続き本日は「祈りとは何か」ということに関して縷々(るる)話をしてまいりたいと思う。

この祈りということは宗教によっては、やっているところもあり、やっていないところもある。また、とくにキリスト教圏の他力中心の考えでは祈りが強く、仏教圈では比較的弱いと考えられているかも知れない。

さて、この祈りというものは一体なにゆえにあるのか。これを諸君は考えてみたことがあるであろうか。まことに祈りの行為をやっている人であっても、これを何かごくごく形式的なことだと思ってやっている者も数多いようだ。

しかし私はあなた方に言っておくが、祈りということは、これは具体的方法であり、祈りにはかならず効果というものが現われてくるのだ。これはまちがいのない事実であると思う。

あなた方は霊道とか言って心の窓が開いて、霊と交信ができるようにならねば祈りはできないと思っているかも知れない。確かに心の窓が開いた場合には祈りやすいという事実はあるであろう。けれども他方において祈りとは、その行為があるということ自体、すでに、ある結果が生ずることを予定しているとも言えるのだ。

すなわちこのように言ってもよいであろう。祈りの行為はかならずどこかで聞かれている、そう考えてまちがいがない。たとえば地上においても、ある人が他の人に声をかける時にその人の名を呼んで声をかければ、その人がふり返るであろう。同じことだ。地上の人間に対して話しかけているのに天上界の請霊が答えるということはないが、天上界の諸霊に対して話しかける時に何らかの答えがあるのは当然であろう。

人間が住んでいる世界は三次元世界と言われるように、縦・横・高さのある物質の世界であるが、人間は三次元的存在であると同時に、また高次元的存在でもあるのだ。そして人間をして、三次元的存在であると同時に、高次元的存在たらしめているものは一体何であるかというと、思いの力なのだ。これを心思(しんし)の力と言ってもよい。心と思いの力だ。この心と思いの力は、実は人間をして四次元以上の高次元的存在とならしめるだけの力があるのだ。

生前の私も、あの世の世界に四次元的世界、五次元的世界、六次元的世界、七次元的世界というような世界がどうやらあるらしい、ということは語ったことがあるが、実際こちらに来てみてますますその感を深くしている。そして人間の心の思いとはこの各世界に通じてゆくものなのだ。その思いはその思いの波長に合わせた世界に通じていると言ってまちがいがないであろう。それゆえに人間は三次元的存在であると同時に、多次元的存在でもあるのだ。


2.観世音菩薩とは


生前私は、神想観というものを教えたり、あるいは聖経「甘露の法雨」について教えたりした。こうしたものはもちろん生長の家の大神、あるいは観世音菩薩と言われている者から受け取ったと私は伝えていたものですが、こうした観法、坐法、精神統一法、祈願法というものは、その性質上、人間が創るものではなくて、霊、特に高級霊から与えられるものをその本質としている。

甘露の法雨も、今こちらに還ってわかる事実としては、やはり私に伝えていた人がいたようだ。それはこういうことを言うと、教義の解説のようで、修正をしているようにとられて不本意なところもあるし、生長の家の諸君も「谷口雅春が自分の説を曲げるなどということは聞いたことがない」と思って、「そういうこともあるまい」と思うかも知れぬが、こちらに来てわかったことによれば、私が甘露の法雨を受け取ったのを観世音菩薩からというふうに言っていたが、観世音菩薩というのは、こちらの世界で発見したことによると、特定の人間ではなくて役職名であるということがはっきりしてきた。

この観世音菩薩というのは主として女性の菩薩のことで、女性の菩薩であって手を差し伸べる役割、具体的救済の役割をやっている女性菩薩のことを、どうやら言っているらしい。そして仏数的には観世音菩薩と言われても、また出る世界によってはさまざまな形で現われているようだ。

たとえばこの観世音菩薩という役職名にあてはめるとするならば、もちろんヘレン・ケラーとかナイチン・ゲールとかいうような、人びとを救うために降りた女性高級霊たちも観世音菩薩の中には入ることになるし、中国にもそうした役割を担った女性もいたし、日本の神道系の中にも観世音菩薩にあたるような、そうした役割をした方もいる。たとえば光明皇后というような偉いお方が昔おられたが、あのように、らい病患者を救(たす)けるための施設を造り、病に伏せった人たちを救ったその行為は、観世音菩薩の行為そのものでもあろう。

こうした方がたが、役職としては観世音菩薩という範疇(はんちゅう)に入ってくるのだ。そうした似たような仕事をした人たちは、観世音菩薩という形で呼ばれることが多い。そうして必要に応じて観世音菩薩を名乗ったり、あるいは実名を名乗ったり他の名を名乗ったりすることが多い。


3.私に霊示を与えた諸神霊


高級霊たちの本質の一つとして方便を使うということはよくある。実際の名前を名乗るのではなくて、自分の役職名を名乗ったり、あるいは他の特別な名を名乗ったりすることもある。生長の家の大神にしてもそうだ。生長の家の大神と名乗りつつ、その実態は一体何者であるのか私も生前つかみかねていたが、実はこちらに還ってきて感じたことは、その中心霊をなしていたのが天之御中主之大神であったということが、もう明らかにわかっている。

もちろん生長の家の大神を名乗っていた者の中に、これ以外の数名の日本神道系の神々もいたことも事実であるし、私の哲学的思考の、あるいは思想の構築のためには、哲学者たちも相当のインスピレーションを与えてくれていたことがわかった。たとえば『生命の実相』という私の全四十巻の書物は、これはおそらくは日本始まって以来の唯神実相哲学体系とでも言うか、むしろ世界の歴史の中でもたいへん珍しい体系書である、と自負しているものだが、この体系書などを作る時の哲学的側面では、やはり私は予想も多少はしていたが、カントあるいはヘーゲル、こうした者たちも私自身にインスピレーションを与えてくれていたことがわかった。

こうした観念論哲学者たちも生前私を指導していてくれたのだ。ただ、私はそうしたことには気がつかなかった。それはすべて生長の家の大神という形で片づけられていたに違いないと思う。それでよかった面もあると思う。何といっても谷口雅春がデカルトの霊示を受けているとか、あるいはヘーゲルの霊示を受けておるとか、あるいはソクラテスだ、あるいはカントだ、こうした著名人の霊示を受けていると言っておれば、またそれを攻撃する者がたくさん出てくるので、あえて高級霊たちは真実の名を語らずに、そういう形で霊指導をすることが多いのだ。これは言ってみれば、中身で勝負しようとする傾向だと言ってもよいだろう。

このように実際、我が数十年の伝道生活をふり返ってみると、その間私に霊示を与えていた者はおそらく数十名にのぼると推察されるのです。教義の中心的なもの、本来肉体なし、本来迷いなし、本来悪なし、本来光一元である、こういう考え方はこれは如来の法であって、天之御中主之大神から降ろされていたものであるが、他の教えはいろいろなその分野において、得意な方がたから与えられていたということを私は知るに至った。

また生長の家においては病を治すということがずいぶん多く起きてきたが、これなども私は知らなかったが、私をずいぶん指導していた人の一人に白隠(はくいん)禅師という方がいらしたことが判明した。これは禅宗のほうでは有名な方であり、南蘇(なんそ)の法を使ってみずからの病を治した方だ。大悟を何回もし、小悟は数知れずと言われた方であって、日本の中で禅と医学との関わりを示した方だと言えるだろう。

この白隠禅師という方は、もちろん系統的には薬師如来の系統をひいている方であるが、同時に禅もやっているということであって、ちょうど谷口雅春と似たような役割を持っていた面もあったであろうと思う。我が思想の中にもそうした哲学的部分もあったが、これ以外に具体的救済としてのそうした治療、あるいは病気治しという面もあったと思う。これなどは白隠禅師がずいぶん指導してくれていたようである。

これなどは私は生前は知らなかったが、こちらに還ってたいへん感謝している次第である。やはり禅で病を治したほどの方であったから、『生命の実相』を読めば病が治るというふうな教え方をするのは、もちろんその思想に近かったと言ってもよいだろう。こうした方の協力を挙げれば数限りないことになろう。

さて「神想観」という教えがある。これは精神統一をして招神歌(かみよびうた)を唱えるという、そうした方法であるが、この神想観を私にくださった方は、じつは天照大神(あまてらすおおみかみ)という名で呼ばれている女性神霊であった。これも明らかになった。もちろんその内容自体は他の人たちとも共有されているものであろうが、天照大神からの啓示で、その神想観というものがどうやらできたという過程を私は知った。

これ以外にもずいぶんと私を指導していてくれた方はいて、たとえば私は教育法の中で、霊性に基づいた神の子の教育法ということをずいぶん説いてきたつもりであったが、その指導者は、私を霊的に指導しているのが一体だれであるかということは、まったく気づかないままで来た。しかしこれなども、実はドイツでシュタイナー教育ということで有名なシュタイナー博士などが、私に死後インスピレーションを与えてくれていたことがわかって、たいへん感銘をしている。

こうした方が地域を越えて、私の人類光明化運動に協力していてくれたということを知って、もうこれは感激以外の何物でもない。

諸君よ、本当の霊的世界の地上浄化運動、救済運動というものは、このように時代を越え、地域を越えて行なわれるものなのだ。地上にいる指導者たちは、あるいは宗教家たちは、自分がそうした多くの者たちの霊指導を受けているということを知らないままに一生を終わることが多いが、実際は数多くの人の徳をいただいてそうした活動ができるのである。

なぜ宗教家だけが、それだけ多くの霊指導を受けることができるかということだが、宗教家の活動は実は、その目的および範囲において限定がない。すべての人類の幸福化を願っている運動であるから、もとより一個人の利益を目的とするわけでもなく、また一利益会社の利益を追求することを目的としているわけではない。現在および後代の多くの人びとに心の糧(かて)を与え、彼らを救うことを目的としているわけであるから、まったく指導ということにおいて限界が無くなってくるのだ。

この意味において、通常人にはとうてい指導されるはずもない多くの指導霊団が、宗教家にはついていると言ってもまちがいないであろうと思う。

また、これも多少言いにくいことではあるが、私の軍事問題についての考え方、これを指導していた者もかなり明らかとなってきた。日本神道系の中には軍神と言われる方も数多くいて、そうした方の中には、国を守るということを強く主張しておられる方もいるのです。そうした方の一人が私をどうやら指導していた、ということを知りました。

軍事に関して私を指導していたのが、まあ大方の方はごぞんしであろうとは思うが、須佐之男命(すさのおのみこと)という方であった。この人の考え方が相当私の軍事的考え方の中に入っていた、そのように言ってよいであろう。


4.日本歴史のなかの光の天使


また天皇を中心に考えていくというこの政治思想の流れ自体は、もちろん天之御中主之大神、天照大神を初めとする歴代皇室系統の御柱、神々が私を指導していたということも明らかとなった。歴代の天皇家の中には、今、光の指導霊と称されるような方が数多くおられたのです。日本神道系はかなり霊格の高い人びとによって形成されてきた、一つの霊的山脈でもあった。そういうことがわかっているわけです。かなりの高級霊たちが出ていたわけです。

たとえば、日本神道系において偉かった方はずいぶん昔からおられたわけではあるけれども、やはり日本の国威があがったころと言えば聖徳太子のころ、聖武天皇のころ、まあこうした時代です。このようなころにも、かなり霊格の高い方も出ていたし、また平安時代の全盛を作った藤原氏、この藤原氏の中心人物の中にも相当の高級霊はいた、ということが明らかになった。藤原の関白、こうした方の中にもそれ相応の高級霊が出ていたことが明らかになった。

こうした豪族や天皇家に出たような方は、また神代(かみよ)の時代に神々の一人として出たような方でもあったということだ。天皇家だけではない。幕府の中にもそこそこ偉大な神霊という者はいたように思う。

戦争ということを通せば勝ちだ負けだということはあるので、何が正義で何がまちがいであるかということは、一概には言いにくい面はあるが、たとえば鎌倉時代を創った、これも歴史家はさまざまに批判はしようが、源頼朝という方もやはり霊的にはかなり高い方であったことが明らかになった。ずいぶん陰湿な、家系での争いもあったから、どうかと思う方もいるが、やはり時代を創るだけあって霊的にはそこそこ高い方でもあった。

こういうことが明らかになったし、あるいはこれ以外でも、もう少し時代は下るが、戦国時代の武将たちの中にもそれ相応の神格を備えた方も出ておったことを知った。たとえば、今有名であろうが、武田信玄であるとか、上杉謙信であるとか、こうぃう方は英雄でもあり武将でもあるが、同時に魂の質においてひじょうに高いものを持っていた。宗数的なるものを持っていたと言ってもよいであろう。

こうした英雄の魂の中にも神格を持った者がいたということです。こういうことが明らかになってきたわけです。

また敗れはしたが、楠木正成公(くすのきまさしげこう)のように後世から尊敬されるような方も、軍神の一人として高天原に還っておられる。そういうことも明らかとなったわけです。

こうしたことを知ってくると、じつは政治、軍事的な面でも相当多くの霊たちが私を指導していてくれたことがわかったし、その霊指導の系統もかならずしもひと通りではなかったと言えよう。政治、軍事的なことは日本特有の国津神(くにつかみ)とでも言われるような方がたが、私を指導していたが、哲学的次元になればカント、ヘーゲルというような世界をまたにかけるような巨人が私を指導していたこともあった。こうしたことがわかったわけです。

こうした事実を述べることによって、私が一体何を言いたいのか、諸君はおわかりであろうか。そう、私が生前説き来たり、説き去ったところの万教帰一の思想、「本来一なる神から流れてきた教えである。すべてのものは本来一つのもので、すべての教えはまた一つにまとまっていくもの、また一つから流れ出したもの」、こういう考え方。「仏教もキリスト教も神道も、あるいはその他のものもずいぶんあるが、これらも本来の神から流れ出したものであって、相(あい)対立するようなものではない」という考え方。これが真実であるということを私はこちらの世界に還って実感しているのだ。

もちろん生長の家という団体の考え方の中にも、「万教帰一」とは言いつつも、多少日本的に色彩として偏(かたよ)っている面も否めないかも知れない。ただ、それはそうとして、基本的な姿勢において万教帰一ということは本当であるのだということを、私は実感した。

生前、これだけ多くの者たちに指導されておりながら、十分感謝の念を捧げることもなく生きていたことを、まことに残念に思ったことであった。


5.祈りの対象と反応


これからもさまざまな宗教家や預言者が出てくるであろうが、この宗教家や預言者を私もそのうち次つぎと指導をするようになると思うが、陰で指導するという形で、谷口雅春の名を名乗らないでやらざるを得ないことも数多くあるであろう。現に谷口雅春の名を使って、明かして、こういうふうに霊示を送っているが、喜んでくれる大部分の者もあれば、名前があるがゆえに疑ってかかる者もある。そのように難しいものだと感じるのだ。

ただ、私は明らかにしておかねばならないことはあると思う。人間に魂修行があるということは、それは魂の個性に付随する修行であるということを否むことは不可能であろうと思う。

すなわち地上で魂修行をして、そして地上を去った人は、霊となればもちろん生前とは違った存在形態をとるわけであるけれども、しかし、やはりそれなりの個性は持続するということが言えるのだ。個性の持続ということがあり得るということなのだ。

個性の持続があるということはどういうことであるかと言うと、やはり実相の世界に還ったとしても、谷口雅春は谷口雅春的な考えをすることが可能であるのだ。また他の霊人たちもそれぞれ固有の考え方をすることができるのだ。

こうした個性があるということが、すなわち実相ではないということを意味するのではない。実相ということを羊羹(ようかん)か何かを切ったように、全部同じだというふうに考える向きもあるかも知れないが、そういうわけではない。

たとえば花が咲いている姿を見ても、花びらが五枚ある花もあれば、八枚ある花もある。あるいは花びらが二十枚、三十枚あるような花もあるであろう。それぞれの花びらは小さく分断され、個性化されたものだけれども、統一して一つの花という外観を作っているのだ。もしそれが造花か何かのようにプラスティックで一枚の花びらが作られているのであったならば、どれほどその花の美は損なわれることであろうか。

こう考えてみた時に、一枚一枚の個性ある花びらが、一つの花という実相を作り上げていると言っても過言ではないと思う。ちょうど個性と霊的実相との関わりはかくのごときものなのだ。霊的実相の世界ということは、均一、一様で何らの変化もなく、何らの偏(かたよ)りもないと思う方もいるかも知れないが、そうではなくて、実相世界というものは咲き乱れる花のようなものだと考えていただければよいと思う。

その花の理念を作っておられるのは神のお心だが、花には花びらがあり、おしべもめしべも葉っぱも茎もあるということだ。これを忘れてならない。そうした全体で実相の花ができあがっているという事実があるのです。そうした事実について十分に認識しておいて欲しいと思う。

地上を去った人間の魂が、実相の世界という名の大海の中に流れ込んで無個性になってしまって、一様の魂の海のようになってしまうと考えるならば、それは明らかなまちがいであるというふうに言ってよいと思う。たんに魂の海のようなところに流れ込む水留まりであるならば、何のために地上で個性化され、努力し続けてきたか、そのへんの意味がなくなってしまうからである。

このようにさまざまに私の住んでいる世界の様子、霊的指導のあり方というものを説明してきたが、私が言いたいのはこういうことなのだ。地上を去ってのちも、地上に生きていた人はそうした同じような個性と心を、やはり維持しているということなのだ。したがって祈りにおいて対象を選べば、その人の反応があるということなのだ。

生長の家の諸君、あるいはそれ以外の諸君もよくよく考えていただきたいが、谷口雅春の名を呼べば感応してくるのは谷口雅春である、ということなのだ。こうした事実が厳然としてあるということを知っていただきたいと思う。


6.祈りに不可欠な三条件


さて、私は実在界と地上界との交信の方法についてさまざまに語っているわけだが、本章の表題である祈りということを、さらに深めて考えてみたいと思う。

〔1〕謙虚なる姿勢

そうしてみると、祈りに不可欠な条件がいくつかあると思われる。その第一は、祈りはもちろん高級霊、あるいは神格を持つ霊たちに対するメッセージを発するということになるわけであるから、まず心を空(むな)しゅうしなければならない、ということが言えよう。心空しく、謙虚でなければならない。これが祈りに入る前の前提だ。

心がおごりに満ち、そしてうぬぼれに満ちている時に祈りということはできない。世の中には自力天狗という人間がいて、自分の力で何もかもできると思っているが、霊的世界の実相を知れば知るほど、自力でできるということがどれほど狭い範囲のことであるか、それに気づいていくようになっていく。

この実相世界の広大無辺さと、この力に満ち満ちた様相を知った時に、地上の人間の自力など本当にたわいもないものであることがわかる。それはせいぜいお昼ごはんのおかずを選び分けて食べる程度の自力しかないということなのだ。

こうして多くの高級霊たちの姿、存在を認識するということは、まず謙虚になり、彼らが上位者であるということを認識せねばならん。それはまさしく上位者なのだ。肉体に宿る人間は、その中に高級霊がたとえ宿っているとしても、肉を持っているということ自体がかなりのハンディであるのだ。すなわち何分の一かの力しか持っていないと思わねばなるまい。ましてや英知において高級霊に到達するほどの英知を、生きながら持てる人というのはまずいないと言ってよいであろう。

この意味において師と弟子の関係が成り立つのである。弟子は師から教えを乞う以上、心を低くし、頭を下げて、乞い願わねばならんのである。この姿勢がまず第一だ。

〔2〕純粋なる思い


第二は、この祈りの対象、思いが純粋であるということなのだ。ここに濁(にご)りがあってはいけない。祈りの内容に濁りがある場合には、それは悪しき霊波をひきつけることにもなりかねない。そうした霊波を食い物にして生きている者もいるようであるから、こうした悪しき霊波を引き受けないようにつねづね気をつけねばならん。

神想観などをしていても、ときおり気が変になったり、精神異常になったりするような者もあるが、これらは祈りの純粋性が足りないからそういうことになるのだ。自分の我欲のままに、欲得のままに祈っているとそのようなことが起こりがちであるのだ。したがって祈りに入る前に、まず謙虚であると同時に純粋な気持ちで祈らねばならん。

この純粋な気持ちということの中には、全託という気持ちがあると思う。すべてをお任せするという気持ちだ。最後は神、仏にお任せするという気持ちがなければ、祈ってもそれは本当の祈りとは言えない。それは交渉しているということになる。高級霊たちに祈って自分の都合のいい結果は引き出したいが、都合の悪いことは引き出したくない。こういうことであれば、これは交渉しているということになる。しかし相手は交渉の相手ではないのだ。

やはり、お任せするという気持ちが大事だ。お任せしないのであるならば、祈りはむしろすべきではない。お任せしないで自分の都合のいい情報だけを取り、都合のいい結果だけを求めるのであれば、むしろ祈りはしないほうがよいと思う。それはまちがいにつながっていくと思われるのだ。このように祈りにおいては純粋性、濁っていないということが大事であると思う。

〔3〕無執着の確信


三番目にとくに挙げるとするならば、やはり祈った時には、すでにもはやそれは実現されたと考えればよいと思う。霊界において決定されたことが地上界に降りてくるには時間がかかる。それは即座には降りないことが多い。私たちが地上にそれを与えようと思っても、私たちの気持ちにおいてはほんの一時間か二時間以内に与えたつもりであっても、地上に降りてくる時には一か月二か月かかっていることはままある。

これはちょうど次のような例えで説明できるであろうか。ビルの二十階の屋上に立っているのが私谷口雅春として、ビルの下にちょうど私の愛読者が通りかかったとする。そして上に向かって「谷口雅春先生、どうぞ私の願いをお聞き届けください。」こうして祈るわけだ。「お答えをください。」という気持ちで切に祈る。そうするとビルの二十階に住んでいる谷口雅春は、何らかの答えをしたいと思うのだ。その人が真剣に祈っており、また信仰心においてあやまりがないならば、何らかのアドバイスをしてやりたいと思う。

ところが私は、その祈りに対して答えを、ノートブックの用紙を一枚破りとって鉛筆で書いて、それを上から落とすわけだが、上から降りる時にひらひらひらひらと降りていって、なかなかストレートに降りていかないわけだ。二十階から投げられて下まで落ちるまでに多少の時間がかかっているのだ。

それはそうであって、鉄の板か何かに答えを書いて落とせば、下にいる人は頭に当たって死んでしまう。それであってはいけないということで、紙に書いて落とすわけだ。あるいは風呂敷を投げるようなものだと言ってもよいかも知れない。まあ、こうしたものであるのだ。

それゆえに祈りから祈りの答えまでには、多少の時間的差があることはある。そしてその落下地点においても、風の関係だとか空気の抵抗だとか、いろいろなことが高次元世界と地上世界との間にはあるために、多少の時間的ずれ、多少の空間的ずれということはあるかも知れない。

たとえば地上の人が大きな家に住みたいと祈ったとする。そしてその人たちの信仰が碓かであって、高級霊が見ても碓かに大きな家を与えてやればよいと思ったとする。そうすると二十階から大きな家という答えを降ろすわけだが、その答が降りていく途中で多少風に流されたり、位置を変えたりして、少し場所が違うところに現われてきたりするようなことがある。まあ、こうしたものなのだ。

霊の答えはすべてこのように念として答えられるので、あるいは理念として答えられるので、この理念が地上に降りた時にどのような形で翻訳されて出てくるかは、まだ定かではないことがあるのだ。それゆえに祈りにおいて、地上人が特に大事にせねばいけないことは、その祈り実現の手段方法については執着を持ってはいけないということだ。時期についても執着をしてはいけない。手段、方法、時期について特定して執着を作り、あせったり、ねばならないという心にひっかかってはならないということだ。

祈って、純粋に祈って、そしてそれが神の心にかなうならば、すべて適当な時に適当な方法でお与えください、ということで、祈ったことすら忘れて日々を生きているのがよいのだ。

これが私なりの祈りについての考えだが、これがいちばん危険性のない祈りであり、また神仏の心にかなう祈りでもあると思う。どうか最後の部分がいちばん肝要な点であるから、このことを忘れないでいただきたい。