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目次



 3.貧乏の分析





(1988年11月30日の霊示)

1.聖経「甘露の法雨」の指導霊


谷口雅春です。今日も引き続いて話をしていきたいと思う。前章では祈りとは何かという話をしたが、祈りと経済問題もひじょうに近いところにあるので、この機会に一緒に話をしておいたほうがよいと思う。

前章の要約は、結局、天上界にはいろいろな指導霊団がいて、地上にいる人たちのさまざまな祈りの性質によってそれを聞き分けている、ということであった。そしてそれなりの指導というものが実際にあるのだということを、私自身の例をひいて縷々(るる)語ってきたと思う。

一つ「甘露の法雨」の指導霊について、観世音菩薩ではなく…、ということだけは言ったがだれであったかを言わなかったと思うので述べておくと、私の「甘露の法雨」を指導したのは、これは龍樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)、ナーガールジュナと言われている仏教では有名な仏教の中興の祖の一人だ。これが私のひじょうに親しい友人であるのだ。親しい友人であって、天上界におって私を指導してくれたのだ。これだけを補足しておきたいと思う。

このように実に多くの友人たちが実在界に住んでいて、地上の人たちが神仏の心にかなった生活をする際には、かならず援助の手を差し伸べている。こういうふうに言ってまちがいがないと思う。

要はこうした援助を、どのように具体化するかということだと思うのだ。この具体化さえ成功すれば、この世で不可能なことはほぼ何もない。そのように言い得るであろう。そう考える。

さて、「経済問題の解決」の方法を本章では述べていきたいと思うが、なかなかこのような大切な法を一章ぐらいで、また一冊の本のみで述べるということは、出し惜しみをするわけではないが、たいへん貴重でもあり、もったいないことでもある。そういうふうに私は思う。

この谷口雅春の経済問題解決の法は、おそらくあまりにも効果があり過ぎるので、続々とこの部分だけを真似する人が出てきて、そして迷惑するやも知れん。あまりに効果があると、人はそれだけを追い求めるので、どうかこの章だけを頼りにせず、他の章に説いてある教えも十分に学んだ上で本章を実践されることを、くれぐれも願っておく。


2.無限供給の経済学とは


さて、世に経済問題というのはいろいろとあろう。典型的に言うならば貧乏ということである。貧乏というのはどのように起き、またどのように解決されるべきかという根本問題がある。とはいえ、現代の日本はひじょうに豊かになってきた、という考え方もあるだろう。ひじょうに豊かになってきて貧乏な方は少なくなった。そこそこの人が中程度、あるいは中以上の生活を味わっているという実感があるかも知れない。

私も生長の家を始める前のころ、また始めたころも、経済的にはずいぶん貧乏であったと思う。私の心がそういう心であったために、私のまわりにも三界は唯心の所現でそうした経済状況が訪れていたように思う。

若いころの私という者は、やはり善悪の二元にとらわれて忌(い)み嫌う傾向、自分が値打ちを認めないものを蔑視(べっし)する傾向があったがために、どうしても逆に円満さを欠いて、経済的繁栄を享受するという結果が出なかったように思う。多くの人も経験はあると思うが、いわゆるケチだな。ケチ、出し惜しみをする性格、吟味をしてなかなか金を出し渋る性格、こういうのがいろいろあるだろう。こういう性格の人と会うと、だいたい物を与えたり、給料を与えたり、いい職を与えたりする気がなくなってくるというのが、天(あま)の邪鬼(じゃく)な人間の姿でもあると思う。

私は生長の家を始めてからは、逆に与えるということを徹底することに決めた。人にとにかく与えて与えて、無限に供給すると また自然と自ずからいろしろなものが与えられるのだ。こういう無限供給の道を説いてきたつもりだ。

これはまた違った形で「与える愛」ということを教えているようだが、これは神の世界の法則にかなっていることなのだ。神の世界においては与えた者にこそ与えられるのであって、与えられようと思った者には与えられないという、そういう循環の法則があるのだ。人に与えれば与えるほどよくなっていく、ま、そういうことがあるわけだ。

こうした私の無限供給の経済学を実際に適用して成功した方も数多くいるように思う。たとえば八百半デパートというデパートがあるが、これなども行商から身を起こして、まあ世界的……とまではいかないかも知らぬが、海外にも進出するほどの大きなデパートとなった。それらでも、いい品を安く、人びとに真心を込めて供給するということをやっていたら、自然自然と大きくなったのだ。そういうことが言えると思う。

実際これが商売の根本であって、人間一時期は人の目をごまかして高利をむさぼることができても、つねに人から奪うことを考えている人というのは、何となくその人のまわりにそうした雰囲気が漂い始めるのだ。こうした雰囲気がいったん漂い始めると、だんだん人というものはついてこなくなってくる。寄りつかなくなってくるのだ。

いろいろな繁華街で軒を並べて商売をやっているが、あるところは繁盛しあるところは繁盛しないというのも、決してその位置関係や店のデザインだけが問題ではなくて、中にいる人の出す波動、波長というのが関係あるのだ。とくに商売においては気は心とでも言うか、気立てがよい、あるいは人に好かれる性格でないと上手(うま)くいかんという法則があるのだ。これは知らねばならない。「魚心あれば水心」とも言うが、やはり似た者同士が集まる傾向があって、経済繁栄を願っている者はやはり、経済繁栄をしそうな者のところに集まってくるという法則があるのだ。


3.貧乏の分析


私はここで貧乏の分析をしておきたいと思うのだが、なにゆえに貧乏ということがあるのか。これをよくよく考えてみていただきたいと思う。

貧乏の根本は、つまりはケチで卑怯(ひきょう)で臆病な心、ここにつきると言ってもよいだろう。ケチで卑怯で臆病で、つけ加えるとすれば取り越し苦労で持ち越し苦労、こうした性格をしていればまちがいなく貧乏になる。うそだと思われる方は実践してみればよい。ケチで、そして人を信じないで、そして取り越し苦労、持ち越し苦労して、そうした臆病でまた引っ込み思案で、こうした性格を合わせ持って、これ以上ないという性格を集めて、実際に商売をやってみるといい。まず成功はしない。そういう景気の悪い人には、景気の悪い結果がかならず起きてくるようになっているのだ。

一度にすべてを説明することは難しいので、ここでいくつかの例をあげて説明してみたいと思う。

〔1〕ケチな心

まず「ケチな心」について話をしたい。このケチな心というのは、決して節約をする心のことを言わない。節約はまた一つの美徳だと私は思っている。物ごとは何でも蓄積ということが大事で、勤倹貯蓄(きんけんちょちく)ということは、いつの時代でも成功のための王道である。この意味で自分がせっせと働き、こつこつと金を貯めて、そして大成功を収めていくということは、これは王道であって、決して責められるようなことではない。

だから節約節倹に努めるということと、ケチであるということとはまた別である。これは別なものだと言ってよい。

ではケチな心とは一体何であるかと言うと言い換えるならば「難癖(なんくせ)をつける心」と言ってもよいかも知れない。人間の実相を完全円満なものだと見ないで、人間を傷物だと思う、そうぃう思いは今度は物に対してもあるだろう。物を見ても傷物だと思う。ああだ、こうだとケチをつける。要するに減点主義だな。マイナスばかりを見ていく、こういう思想の持ち主、これをケチと言ってもよいだろう。

だいたい、会えばかならず自分の欠点を指摘するような人と会いたい気がするかどうかを、諸君らも胸に手を当てて考えたらよい。だんだん人の足は遠ざかっていくものだ。

以前にも話をしたことがあるが、スイカの話か何かで言ったことがあるような記憶があるが、八百屋の店先で「うまいスイカはどれですか」と言っただけで怒るような八百屋もいる。「うちのスイカにケチをつけるのか」と言って文句をつけたり、「そんなものわかるはずがない」と言うような人もいる。このようにすぐカッときてケチをつけたがる心、こういう心がある人はまず成功しない。こういうことだ。

もちろん人の上に立って人を使っていく人は、人間の欠点もよく見えねばならないと私は思う。長所だけ見えて欠点が見えないようでは、人間はどこかでバカにされるようなことになるかも知れぬ。ただ欠点が見えても、その欠点を分析したことは胸の奥にしまっていて、その欠占を消し、そしてさらに凌駕(りょうが)するような方向にその人の長所を伸ばしてやる。こういう努力が大事なのだ。

このように誉(ほ)めて伸ばしてやる傾向のある人のところには、人も物も集まってくることになる。したがって人間神の子であるという思想を述べ伝えた生長の家は、発展に発展を続けた。それはすべての人に「お前たちは神の子なのだ。すばらしい人間なのだ。」と教えてやったから、人びとは「それは知らなかった。これはありがたい。」と思って、人も集まり物も集まるという結果となったのだ。

ところが人間罪の子を教えたらどうなるか。これはイエス・キリストという偉大な人が出ても、その法則が働いたことはみんな知っているだろう。人問罪の子を教えたイエスは最後は一人になって、十字架にかかって死んでいったではないか。弟子たちは散り散りバラバラになっていったではないか。

これは思想の効果というものがあるのだ。その罪の子の思想自体がまちがっているとも、それがナンセンスであるとも私はあえて言うつもりはない。ただ思想には思想の効果というものが必ず付随(ふずい)する。人間神の子、仏の子と教えてやれば人は喜んでついてくるが、あなた方は罪人だ、悪人だと言われていると、一人減り二人減り、次第についてくる人はいなくなり、孤高の人となることになる。

よってこれからの宗教指導者は、どちらをとるかよくよく心したほうがよい。人の欠点ばかりを暴(あば)くこと、これに重点を置いていると、ついてくる人はいなくなって会員は減り、やがて指導者は孤立していくようになってくる。人をよくするためには、もちろんその欠点を修正することも大事だが、その欠点の修正のみにとらわれていくと、やがて人を救うという本来の効能、機能を阻害するようにもなっていく。

やはり人は、この世において誉め言葉に飢えているのだ。もっともっと可愛がって欲しいという気持ちがあるのだ。そうであるならば、よいところをどんどんと認めてやっていくことがよいのだ。

宗教の話で話しをしたが商売でも同じだ。そのお店に買いに来る人のよいところを気がついたら「奥さま、よい服を着ていますね。」「奥さま、かわいいお坊ちゃんですね。」「奥さま、なかなかお似合いのハンドバッグですね。」「奥さま、ハイヒールが素敵ですね。」と、こういうひと言をつけ加えておけば、その客は必ずもう一度やってくる。そうではないだろうか。

女性の読者の諸君、胸に手を当てて考えてください。「あなたのそのコートは素敵ですね。」と言われれば、そのコートを着てもう一度行きはしないだろうか。「その髪型は素敵ですね。」とほめられたら、その髪型でまた他のパーティーに行ってみたくはないか。そこで人に喜ばれたら、またそのお店に立ち寄りたくはないか。幸先(さいさき)がよい気分がするのである。

誉め言葉の効能と言えるところは、こういうところにあるのだ。したがっていくら美しい服を着ても、まあ、そういうご婦人が来たとしても、「そんなきれいな服を着たところで、心が腐っていちゃ何にもならない。」というような気持ちで接し、口の中でぶつぶつと言っていたら、何となく嫌悪感というものが漂ってきて、そのご婦人はやがて来なくなる。そうしたものなのだ。

したがって決して人にケチをつけるような気持ち、物にケチをつけるような気持ちを持ってはならない。こういう気持ちを持つと貧乏になってゆく。

〔2〕卑怯な心

次に私が言っておきたいのは、「卑怯な心」というものについてだ。卑怯な心というものも確かにあることはある。この卑怯な心が経済の問題に出る時にはどうなるかと言うと、責任をとらないという形で現われてくることになる。

自分の仕事でミスを犯した時に、その時にもし部下のまちがいであったとしても、もし他の人のまちがいであったとしても、自分の管理が不行き届きであったならば、潔く「私のまちがいです。」と、それを認めてその責任を負うタイプの人というのは、もちろんその時に減点され、マイナスの評価をされたとしても、かならずやその人徳がその人を救って、もう一度立直る時期が来る、そういうふうになっている。

ところが人のミスというものがあって、自分が失敗した時に「これは私の失敗ではなく○○さんの失敗です」ということを言ったとするならば、もちろんそれは事実かも知れないが、ミスを指摘されたその人はよくは思わないのは当然のこと、その事実を知らされた人も「確かに事実はそうかもわからないが、この人は何か自分の責任を回避している。」こういう感じを受けて、なぜか崇高な感じや、なぜかその人を取り立ててやりたいという気持ちがなくなってくるものだ。

また八百屋の例をひいてもよいが、そこのトマトに傷が入(い)っていれば「あ、これは農協の責任です。」と説明してこれで客は納得すると思うか。よくよく考えてみなさい。傷のついたトマトを並べているのはそこの八百屋なのだ。したがって客がその傷の入ったトマトを見て「お宅のトマトは傷が入っていますね。」と言った時に、「これは私のせいではない。トラックで揺れたからこうなったのだ。」あるいは「農協で梱包(こんぽう)する時こうなったのだろう。」こんなことをその八百屋が言ったとすれば、これは卑怯な心であり、もはやプロとしての資格はないと言わざるを得ないと思う。

何事においても仕事とはこういうものだ。たとえばスポーツの選手でプロの選手という者もいるであろう。その中ではプロの選手をやっていても、ある時は調子がよく、ある時は調子の悪い時期もあるだろう。ゴルフの選手でもそう、柔道であれ、レスリングであれ、相撲であれ、調子のよい時悪い時あるであろう。その時に自分が試合に負けたら「今日は天気が悪かったからダメであった。」とか、「今日は寝不足だからダメであった。」とか、「今日は妻が、朝出がけに準備をしてくれなかったからケンカをしてこうなった。」だとか、「今日は風邪気味だからこうであった。」とか、こんな言いわけをいつもしている人は、プロとして通用する仕事を続けていくことはできなくなるということなのだ。

人間が生身(なまみ)で生きていく以上、いろいろ好調不調はあるだろう。また、当てにしていた他人の協力を得られないことだって、もちろんあるだろう。しかしながらそうした時に、それを他人の責任に帰して自分はまったく関係がない、責任がないという姿をとっていれば、やがてその人は人の信頼を失い、人の称賛を受けることができなくなってくるのだ。

よって、決して責任を回避してはならない。どのような最悪のことが起きたとしても、それは自分を磨き鍛えるために現に起きているのであって、そこまで気づかなかったのは自分の至らなかったためである。そうした至らなかった部分を気づかせていただいてありがとうございました、という気持ちです。これがなければならない。

店頭に並べたトマトに傷が入っていて、それを客に指摘されたならば、「お客さま、こういう指摘をしてくださいましてどうもありがとうございました。このままでは当店は恥をかくところでした。ほんとうにありがとうございました。すぐ取り替えます。このような物は二度と売りません。またこういうものを見かけたらご指摘ください。本日はどうもありがとうございました。こうした傷ついたトマトを並べておくということは、まことに私どもにとっては商売上の恥でございます。よくぞお教えくださいました。」と、こういうふうに言ったとしたら、その客はどうすると思うか。
「いやいや、おやじさん、そんなに気にすることはない。傷が入っていてもトマトはトマト、だれかが食べなければいけないのだから私がそのトマトを買おう。」こう、相手はたいていの場合おっしゃるのです。そうすると主人は、「いやいや、こんな傷ついたトマトを売ったとしてはうちの八百屋の恥でございますから、どうぞそれだけはご勘弁ください。」こういうことになる。

しかしこうなると客は、「いや、ぜひそのトマトが食べたい。」と言い始める。こうなってくる。「ではぜひ値引きをして売らせてください。」と、おやじが言い始める。「いや値引きはいらない。その定価通りの金を置いていくからくれ。」ということになる。こうして商売は円滑(えんかつ)、そしてその誠実さが認められて、ますます固定客が増えていくようになる。こういうものなのだ。

したがって、なかなか商売でも繁盛しなかったり、仕事上でもなかなか人の受けが悪く、引き立てがない人は、こうした卑怯な心がないかどうかを、よくよく考えてみられるとよい。

〔3〕臆病な心

次に「臆病な心」ということも言っておこう。

世の中にはずいぶんと臆病な人がいるものだ。その臆病さはたいてい劣等感から発生している。自分が過去、まったく知らないことがあって、人前でそうしたことを言ったり、そういう行為をして恥をかいた、そういう経験があるとだんだん臆病になっていく。

たとえば吃(ども)りの人などもそうだ。吃りで言葉がうまく言えない。そのために臆病になる。こういうのがある。あるいは地方出身の者で、訛(なま)りがどうしても直らない。東北の出身の者に多いが、訛りが直らなく、そしてその訛りだと自分が行きたい駅が発音できないので、もう一駅先のところまで切符を買う、こういう方も中にはいる。こういう人もだんだんと臆病になっていくだろう。

臆病なのには他にもまだある。人間関係においてもそうだ。商談が成り立ちそうになって何かの形で壊れるというのを二度三度とくり返すと、もう諦(あきら)めがちになって、最初から降りるようになる人もいる。

結婚などでもそうだ。見合いで一度二度ふられると、もうそれで自分はダメだ、という気持ちになって、見合い話がきても自分は独身主義者だと言って断る類(たぐ)いの人もいる。まあ、こうしたものだ。

こういうのを臆病な心と言ってもよい。失敗恐怖症と言ってもよい。こうした失敗恐怖症は、営業マン、あるいはセールスマンの中にはずいぶん多いと言えよう。「セールスは断られた時から始まる」という言葉もあるが、セールスをやる以上、断られることがないということはあり得ない。どんな優秀なセールスマンであっても、二度三度、あるいはそれ以上断られている。こうした時に臆病になったら、まず事業というものは成功しない。どこまでも押し強く断行するところに道というものは開けていくのだ。

したがって臆病な心の何が悪いかと言うと、その基(もとい)になっているのが劣等感であり、そして臆病な心というのはそうした劣等感による失敗体験を、追体験するのを避けるために新たな経験を拒むようになってくる。こうしたものなのだ。

中には、この臆病さを謙虚さと取り違えている者もいる。傍目(はため)に見ればたんに臆病なだけであるのに、本人はいたって謙虚な人柄だと自分のことを思っている。自分は謙虚であるから何の判断もせず、何の行動もしない、何の商売もしないで謙虚に生きている、こう思っているのだが、端目にはたいへん臆病で新たなことを恐れている、そういうふうに見えることもある。

ただ私は思うのだが、世に立って、そして事業なり、他のもので成功していこうとするならば、やはり開拓者精神というものはだいじだと思う。あるいはファイティング・スピリットと言ってもよい。戦いの気持ちはだいじだと思う。熱意を持ってやらねば道は決して開けないのだ。

だから臆病者が経済的に繁栄することは、おそらくないであろうと思う。せいぜい親の遺産を受け継いで、そしてそれをなくさないようにがんじがらめに縛って、地縛霊とやがてなっていくのがオチである。こうしたものだ。だからみずからの内に臆病さのある人は、どうかこの臆病な性質を変えてゆかねば、ほんとうに成功はないということを知っていただきたい。

臆病さから脱してゆくためには、やはり熱意というものが必要だ。熱意を持って実践している時に人から認められることがあるだろう。人から何度か認められる体験をした人は次第に自信がついてくる。その自信が、臆病さから自分をやがて救っていくようになるのだ。

人に認められるような仕事をせよ、とはよく言われるが、実際それは一つの成功体験として考えてよいであろう。そうした成功体験を積めば、人間は自信がついてくるのだ。このように言ってまちがいがないと思う。

〔4〕持ち越し苦労型

さて以上で、「ケチをつける心」「卑怯な心」「臆病な心」というものについて説明をした。さらに次に、持ち越し苦労型というのを説明しておこう。これもずいぶん多い。読者もみずからの胸に手を当てて考えてみなさい。

いつもいつも悩みごとを抱えている人はいないか。持ち越し苦労ということで、一週間前、一か月前、一年前の悩みを今も持っている人はいないか。こういうふうな持ち越し苦労型の性格だと、悩みごとは累積していくということをごぞんじであろうか。

たとえば商売で赤字が続く日もあるだろうが、今日は今日、明日は明日としてそれを切り離して考えている人にとれば、それなりにまた今日も頑張ってみようという考えがあるであろうが、その赤字の累積ばかりが気になるタイプの人であれば、人生はもうやりきれなくなってくるのではないだろうか。

「昨日もダメだった、その前もダメだった」、こうしたことばかりを考える。セールスマンでもそうだ。毎日毎日を新しい気持ちで始めないと、「昨日も断られた、一昨日も断られた、その前も断られた」、と断られた人の顔ばかり覚えていたら、いつまでたってもきりがないことになる。

恋愛においてもそうだ。失恋するのは、まあ人間としてつねであろう。しかしそれをいつまでもひきずっていて、よいことは何もない。失恋をしてもまた新たな相手を見つけて、それで幸せになればそれでよいではないか。人間はそれほど欲深くはできていないから、男性でも女性でも自分の理想のパートナーが一人いれば、それで結構満足できるのだ。

過去五人、十人失恋したとしても、五人も十人も自分の恋人にも妻にもすることはできないし、とうていそれは人間として無理な相談だと思う。そうすれば過去の十人をどうこうすることはできないが、現在一人の女性と気が合えば、それはそれで済むことではないか。昔のことは水に流せば、それはそれでよいではないか。私はそう思うのだ。そうではないだろうか。

このように、持ち越し苦労型の人生をしていると、人生は累積債務の山になるだろうと思う。そして現在の不幸の原因を「実はあの時にあれがあったからだ」、そしてその不幸の原因は、また「その前にこういうことがあったからだ」、「その前にまたこういうことがあったからだ」、こうしたことをたどっていく人はいるか、これは決して成功する性格にはならないであろうと思う。

幼少時より苦労をされた叩き上げ型の人間に、この持ち越し苦労型はひじょうに多いと言えよう。ただ、昔苦労したことは苦労したこととしても、それをどこかで断ち切ってしまわねば、その苦労性があまり表面に出てきたら、やはり経済的に成功するということはない。なぜならば、経済的に成功しようとし始めると、その人は人間に対して不信感を持ち始めるのだ。こんなにうまいことが起きるはずがないから、だれかにだまされようとしているのではないか。だれかに何か罠(わな)にはめられようとしているのではないか。こういうことを疑い始める。そうするとその結果、そうした事業に成功しなくなってゆくのだ。

こういうことで、持ち越し苦労型というのは、結局貧乏性だと言うことだ。普通は貯金には利子がついてくるものだが、この持ち越し苦労型であれば、不安やそうしたマイナスの感情が、利子がついてますます膨(ふく)らんでくるのだ。だから損だと言っているのだ。

〔5〕取り越し苦労型

次に「取り越し苦労型」というのもある。これもまた多い。取り越し苦労型の人には頭のいい方が多いことは事実ではあろうと思う。将来のいろいろな危険というものを分析して、最悪の場合でもこうはなるということを考えておくということは、まあ頭がいいという意味ではいいだろうし、一度はそうした考えも通り越さねばならないとは思う。ただ、天変地異だとか、自分が病気になるとか、自分のパートナーが病気になるだとか、こんなことばかりを心配していて何もできないということであれば、道が開けるはずはもちろんない。

将来に対しては明るい希望をつねに持っていなければ、どうしても顔はくもりがちになり、渋面をつくると人が寄りつかなくなってくる。これだけはまちがいがない。一番倒産しやすい方法は、「倒産するのではないか」と、いつも思っていることだ。自分が倒産するのではないかといつも思っていると、銀行はもちろん貸付金を引き上げたがるし、また取引先も危ないと思うので商売を遠慮するようになる。また、「あそこは倒産するらしい」という噂(うわさ)が立つと、人びとはそういうところで物を買うとあとあと心配だというので物を買わなくなる。こうしてあっと言う間に銀行の取り付け騒ぎのように、倒産の心境はその事実を引き起こすことになってくる。

まあ、そういうことで、つねに成功の気持ちを持ち、成功の言葉を発し続けるということが、何よりも大事であると私は思う。そうした気持ちを持っていなければ経済的に改善することはない。

これは、財布の中身を見てもそうだ。財布の中に千円札一枚しか入っていないとする。これをどう判断するか。心配性の人であるならばこの財布の中を見て「私は何と貧しいのだろうか。千円札一枚しかない。これではもう今日はどこにも行けないし、また一体、もし不意のことが起きたらどうしたらいいのだろうか」こういうふうに考える。

楽天的な方であれば、財布の中を見て千円札以上あれば「あ、これで昼食が食べられるな」と思って、それで終わってしまう。「家に帰ればまたお金もあるだろう。これでお昼ご飯を食べて帰ればいい」ぐらいにしか考えない。同じ千円というお金であっても、それに対する判断はいろいろだ。

私が言っておきたいことは、将来悪いことが来る、自分を罰するような事態が来るという性格は、それ自体が不幸な性格である、そう言ってまちがいがないと思うのだ。天変地異が起きたり、自分を処罰するようなことが起きるという思いは、これは不幸を呼び寄せている心なのだ。どうか失敗が続いているという人は、そうした不幸な傾向が自分にないかどうかを考えられたらいい。


4.光明思想の効果


この不幸な性格を直すのは、はっきり言って特効薬は一つしかないのだ。それは私の説く、この光明思想、これを身につけることだ。毎日毎日、すべてがよくなる、あらゆるものがよくなると思い続けることだ。クーエという心理学者が教えたように「毎日毎日あらゆる点で自分は一層よくなる」、こういう言葉を毎日寝る前、あるいは朝起きたときに言うことだ。

寝る前には「今日もまた私は知恵が湧いた。今日もまた体力が増強した。明日ももっとすばらしくなるだろう。毎日毎日あらゆる点ですべてよくなっていく。」こういうことを寝る前にも、あるいは起きてからも言うことだ。昨日子供が病気をしたとしても、その前の日には仕事上で失敗したとしても、そうしたことを反省することは大事かも知れないが、心がそれにひっかかってしまっては元も子もない。やはり、よりよき自分を創っていくために自分を励ますことが大事だ。あらゆる点で自分がますますよくなる、こう思うことだ。身体の健康もそうだ。ますますあらゆるところで自分はよくなると思うことだ。

喉(のど)が痛くて困っている人であるならば、喉が痛くなって使えなくなるのではないかなどと思っていては、そういう現象が起きて来ることになる。喉は使えば使うほど強くなる、鍛えられて筋金が入ってくる。そしてどんな状況下でも使えるりっぱな喉になるのだ。こう毎日毎日思えば、喉はそのように働いてくる。

歌手などでもそうだ。自分で「毎日十曲も二十曲も歌っていると声が出なくなるのではないか」、と恐れる歌手というものは結構多い。そしてあちこちの薬局に行ったり、また飴(あめ)を買ってきてなめたり、いろいろ心配をしているようだが、人間の喉というものはそんな柔(やわ)なものではない。ましてや天職として歌手になるように生まれてきた人であるならば、そんなことで声が出なくなるはずがない。

歌を歌うために出て来てそして声が出ないならば、それは職業を変えろという神の意思だと考えればよい。ほんとうにその歌がすばらしい歌で人びとに喜びを与えるものであるならば、声は出続けるであろう。カナリヤでさえ歌を歌うと言うではないか。人間に歌えぬはずはない。

このように、すべて天命があるならば、よくなっていくしかない。すばらしくなるしかない。このように思っていけばよい。私もときおり地上の人たちの姿を見ているが、女子のマラソンなどを見ていても、小柄な人がずいぶん一生懸命走っているではないか。あんな小さな身体でよく走れるものだと思うが、本人はどうも気にしていないらしくて一生懸命走っている。自己弁護の心を持っていないから、そうしたこともできるのだろう。

自分は小柄だから決してマラソンで優勝できないなどと思っていたら、決して優勝はできないだろう。ところが小柄であろうが何であろうが、自分はこれが好きだから、マラソンが好きだから、とにかくやるしかないのだ、人の後ろにつくのはいやだ、自分としては優勝したい、と思い続けて走っていれば、やがて優勝するようなことが出て来るであろう。

まあ、私も相撲が嫌いではないから天上界から相撲も見ておったが、このたび千代の富士というのが五十三連勝して、ついに敗れて、まあ残念ではあったがたいへんな大記録を残したようだ。この千代の富士という力士にしてみても、もし身体が小さい、体重が少ないということをいつも口癖にしてそれに逃げ込んでいれば、決して大横綱にはなれなかった。それだけはまちがいのないことだと思う。

体重の少ないところ、身体の小さいところを気力と技術力で克服しようと努力して、そして堂々たる横綱となり、横綱となったのち実績を積み上げたがゆえにその実績に自信を持ち、その自信が次つぎと並み居る強敵を打ち倒すという現実を起こすことになったのだと思う。

だからよろずマイナス的なことばかりを考えず、自分のプラスのことのみを考えて、そして実践していくことだと思う。そこにかならず道は開ける。

まあ、この私の本を読む人であっても私は言っておきたいが、この「谷口雅春の霊示集」を信じる人、疑う人いろいろいると思うが、信じて得をすると思えば信ずればよいと思う。疑って、さて何が得をするかよくよく考えればよいと思う。それが私の言うようなケチな心、卑怯な心、臆病な心によって疑っているのではないかどうか。そのようなことを考えてみることだ。

千円札を出して本書を買ったならば、この中で、まあ何でもよいから、自分のプラスになることを学んでみようと、あっけらかんと思って見ることではないかな。そこにほんとうの真理が現われると思う。

生長の家の幹部の諸君にしても、こうした本が出れば自分たちが危うくなると、そういう取り越し苦労をする人もいるかも知れないが、いかんせん生命の実相を説いた著者は光明一元の著者であるのだ。私の本が出ることによって、どこかにマイナスが出るということは決してあり得ない。すべてがよくなるしかないのである。私はそう信じて本書を書き続けているのである。その私の精神をよくよく知ってもらいたいものだと思う。