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目次










(1988年12月5日の霊示)

1.実相身について


谷口雅春です。さて今日も話を続けるとしよう。真理はひじょうに幅広く幽遠(ゆうえん)なものであるので、一度二度、あるいは数度の話ではとうてい終わるものではないが、今時点でいちばん大切だと思われる話をしてゆきたいと思う。

とくにこうした法の勉強をしている者は理屈を求める傾向が強いが、理屈は求めても、自分自身の日常生活があまり幸福でないということがよくある。これはかえすがえすも残念に思われることだと思う。

まず毎日毎日が明るく楽しく健康的で、そしてその上に神を学び、神の教えを研究し、より立派になっていけばよいのだが、残念ながら神の教えを学んでいく途中で不健康な生活をしたり、また自分自身心が楽しまない状況が結構多くなるのではないか。私はそのように感じている。

だから真理を学ぶ者というのは、どうしても霊がすべてであって肉体はないからと――私もそうは言っていたが、肉体がないからといって肉体が不健康になったり、あるいはまた病気が現われたりしてかまわないと言っているのではない。本来肉体はないから、心が健全であれば健全な姿が現われると言っているのであって、肉体はものすごくひどくなっても、それはただ「ないのだ。」と言っているのではない。

それは心の現われとして悪い物が出てきているのだ、と言っているのだ。したがって心をコントロールすることによって肉体の変調というものは防げる、こう私は教えているのです。

実際こちらの世界に還って三年ほど経(た)っただろうか。本来肉体なしという教えはほんとうにその通りである。こちらの世界でも肉体はないが人間的意識はあって、そこそこ生活をしているような気持ちもあることはある。だから意識をすれば手も足もあるような感じになることは可能だ。また他人をそのような姿で認識することもある。ただ私たちの身体はもはや実相身であって、何者も傷つけることはできないし、ましてや病原菌に冒(おか)されて、そしてまいってしまうような身体ではない。

この実相身というのはまことに便利なものだ。つねに光輝いていて、そして病むことがない。風邪によって仕事ができないとか、筋肉痛で動かないとか、こんなことは決してないし、まあ、いつも春のようで、のんびりとしながら身体は開放的で、そして喜びに満ち満ちている。

この霊的な身体も、私たちの世界では常夏(とこなつ)、常春(とこはる)というべき、そうした状況の中で、ひじょうにすばらしい毎日を送っているが、はるかな下の方ではその逆になる。そういうふうになっていると思う。

ハワイというところがあって、私も講演会で行ったこともあるが、ああいうところへ行くと天国という感じがするだろう。これこそ天国だという感じがするだろう。なにゆえそういう感じがするかと言うと、その解放感ゆえに、その光の強さゆえに、その自然の美しさゆえに、そういうふうに感じるのではないだろうか。

私のいる世界も、そういう意味で一つの天国であると言い得ると思う。ただ、ここでは残念ながらフラダンスをする者はいない。それだけは言っておけるだろう。

さて、この本来肉体はなく、すべては心の現われだということを私は説いてきたが、この考え方はこちらの世界へ来るとますますはっきりしてくる、ということが言えるというわけだ。つまり高級霊界に行けば行くほど、肉体とも言うべき実相身がもっともっと光輝いて、安らぎ、調和に満ち、幸福で幸福でどうにもならないところまでくる。

ところが他方、下のほうの世界には一時的迷いの姿として地獄界のようなものがあるようにも見える。そのような世界ではやはり暗い寒い世界に、多くの人びとが自分の身体を、まるでいじめているかのような姿で存在しているように見える。本来そういう姿ではないのに心が寒いからまわりが寒い。心が暗いからまわりも暗いのだ。彼らに早く、その、心はすべての繁栄の元である、心はすべてを映し出しているのだということを教えておきたい。知らせてやりたいと思う。


2.菜食と肉食の違いについて


さて今日は「神の子の健康法」という題をつけてみたので、健康法についていくつか語ってみたいと思う。

この私の本の第5章を読んだならば、健康にならざるを得ない、そう考えて欲しいものだ。この本を読んで健康にならないようであれば、ま、問題外だと言ってよいであろう。

さてまず、通常考えられる健康法について少し触れた上で、ほんとうの霊的な目で見た健康法とはいったい何であるか、これを語り伝えておきたいと思う。

まず食事の問題というものがあるであろう。身体を健康にする食事があるのかどうかということだ。もちろん私は菜食主義であってまったく肉類を好まなかったが、ただそれだけでいけば生活ができない人もいるであろうから、かならずしも菜食にせよとは言わないが、ただ菜食主義をすると長生きすることだけは事実であると思う。長生きをして、そして持久力がつき、しかも脳の働きがいつまでたっても衰えない。これは厳然たる事実であろうと思う。

なぜそうであるかということだが、逆の方面から話してみると、肉類をなぜ私が避けたかということだが、豚にしても牛にしても鶏にしても、この屠殺(とさつ)をされ、あるいは殺される時の恐怖心というものがその肉に宿っている。豚や牛の恐怖心もたいへんなものだ。

その恐怖心というのは、豚や牛類が亡くなる前に全身の中に残される。そして一種の毒素というべきものが体内に発生する。その恐怖心ゆえに、そうした分泌物(ぶんぴつぶつ)が出てくるということだ。血液中に毒素が蓄(た)まってくる。だからそういうものを食べて、血の滴(したたる)るようなステーキだと言って喜んでいるが、その中には悲しみと恐怖の毒素が入っている。こういうことが言えると思う。

「本来物質なしであるから、そんな毒素もないであろう」という考えもあるが、思いの世界、心の世界においてはすべてが現象化するので、そうした動物の場合にはそのような念が残っている、こう言えるだろう。

それに反して植物の場合は、もちろん植物も生命はあるのだけれども、動物と比べれば感覚細胞があれほどは発達していないために、魂的に痛みを感じることは少ないと言えるだろう。それゆえにまた彼らは、食べられるということを十分に認識しているということも言えるだろう。野菜を見ても果物を見ても、食べられるということを十分に認識しているように思われるが、動物たちはかならずしも食べられるために生まれてきたわけではない。彼らも彼らの一生をまっとうしたいと考えている。それゆえに動物の肉を食べるのと、植物を食べるのとでは、そこに多少の差があると言ってよいだろう。

もう一つは、動物の肉を食べることによって、やはり彼らの獣的性質、獰猛(どうもう)な性質を多少受け継ぐことになるということが言えるであろう。彼らの肉が自分の身体の肉になっていくわけであるから、多少獣的な要素が身体の中に入ってきて、その点精神的な多少のマイナスが出ると私は思っている。

一方、野菜類を食べ、穀類を食べてそれを肉とした場合には、まったく別なものとして変質変形変化させたわけであって、ここに創造の美徳がはたらいていると私は思う。みずから創った肉である。みずからが創った肉と、他の動物の肉をそのままもらってきて自分のものとした肉とでは、多少その差がある。このように思うのだ。

もちろんこれは私の考えであって、かならずしもすべてがこの通りであるとも言えないであろう。昔はひじょうに身体が弱く病人が多かったのに、それが現在は健康というか、体格もよく栄養失調で亡くなる人が少なくなった理由は、肉類が食べられるようになったり、あるいはその他の美容食類、牛乳であるとか卵であるとか、そんなものがふんだんに食べられるようになったことが多いであろう。

それゆえに、こうした文明の食べ物も一概にいけないとは私は言わない。それは害はあるものだけれども、速効性を有するものとしては、もちろん存在の価値がある、ということは言えるのではないかと思う。

ただ、長く長く活動していくためには、私はどちらかというと菜食のほうが身体には向いているように思う。ただこれも私の体験を通してのことなので、私は元来身体が弱く、胃腸も弱かったのでその菜食がとてもよかったが、もちろん胃腸も丈夫で身体も頑健な人にとっては、肉類を摂らないと身体が力を発揮しないということもあるであろう。そのようなことは十分に考えておきたい。

ただ一般的に言えることは、この野菜類を数多く摂ることによって、体中に入ってくるさまざまな毒素が分解されているという事実があるのだ。動物の肉を食べた時であっても、この野菜類を食べることによって、毒素の一部は解毒剤のごとく消されている。毒素が消されているという結果が出ている。したがって肉類を食べる時には、野菜類をもっともっと、しっかりと食べておくことだと私は思う。これが何よりも大事なことだと思う。

もう一つはお米の問題があるであろう。白米というのはとてもおいしいものだけれども、栄養価としてはかなり下がっている。今、すべて玄米にしろとはとても言えないが、たまには玄米を入れてご飯を炊くなり、あるいは最近はもう食べなくなっただろうが、麦を入れて食べるなり、こうした経験も大事だと思う。栄養価はひじょうに高い、そうした麦だとか玄米だとか、こうしたものを捨てて栄養価の少ないものを食べているのだから、まことにもったいないと言わざるを得ない。

できれば、週のうちに二度は玄米の入ったご飯を食べ、また残りの二度ぐらいも麦の入ったご飯を食べればよいかも知れない。もちろんこういうことは面倒ではあるかも知れないけれども、みずからの味覚というものを、もう一度ゼロに引き戻して味わわせるという意味と、健康を大事にする意味から、とても重要であるようには思われる。

さらに野菜についてもう少し話をしておきたいと思うのだが、動物と植物という大きく二つに生物が分類されていると思う。そしてそうした生物形態には一つの理念が流れていることは事実だと思う。動物の理念とは何であるかというと、やはり猛々(たけだけ)しく獰猛(どうもう)で、俊敏で、活動的である、こういう理念が動物にはあると思う。

一方、植物にはどういう理念があるかと言うと、無限に生長していく、が、それ自体無駄な活動はせず、どちらかというと静的である。そのような理念が宿っている。したがって植物を食し続けるとどうなるかということだが、性格はひじょうに穏(おだ)やかになってくる。これが一つだ。性格は穏やかで持久力がつき、無限に伸びていこうとする、そういう傾向が出てくる。これは植物の中にある、理念形態がそのようなものであるからだ。

一方、動物食を主とするものは怒りというものに馴染(なじ)みやすく、また闘争心がひじょうに強い。したがって、闘争心をなくして、そして穏やかな心にしようとすれば、植物を数多く摂(と)るようにすればよい。こういうことが言えると思う。それは霊的作用としてもそのように言えるのだということだ。


3.緑食野菜摂取のすすめ


さて、では植物の中で一体どのような植物が人間にとってよいのか。これについては考える人も多いと思う。文明人の特徴の一つは、太陽光線を浴びることがひじょうに少なくなったということだと思う。太陽光線を浴びることが少なくなったがために、どうしてもひ弱となり、疲れやすい体質となり、そして脆弱(ぜいじゃく)となっていると言えよう。

これゆえに植物、野菜類を摂るためには、太陽光線をいっぱいに浴びた物を摂るようにすればよい。太陽光線をいっぱいに浴びた物とは何であるかと言うと、やはり緑濃い野菜ということになる。葉緑素をたっぶりと含んだ野菜というのは、太陽光線を十分に浴びている。最近は残念ながら、室内で作るものとか、試験管で作るものとか、いろいろ変なところで野菜を作っていることも多いので信用ができないが、太陽をいっぱいに浴びた野菜というのは、それだけで十分に価値のあるものなのだ。

この葉緑素はまだその効力というものが十分に認識されていないが、近い将来においては葉緑素の持つ意味が発見されるだろう。葉緑素の中には二通りの、まだ発見されていない効能があるのです。

第一の効能は、この葉緑素の中に人間を長寿にならせる物質が含まれているのです。葉緑素の摂取によって人間が長寿になっていくのです。こういう性質が入っています。葉緑素の第二の効能はいったい何であるかと言うと、太陽光線を浴びて、そして炭酸同化してきたそうした野菜でありますから、これを食することによって太陽エネルギーが身体の中に入ってくるのです。太陽のエネルギーというのはこの植物にふり注ぐわけですが、この植物の葉っぱの中で太陽のエネルギーが摂り込まれて別なものに変わっているのです。

これは、たとえば炭水化物の合成などの形で、太陽エネルギーが何らかの形で摂り込まれているのです。この太陽エネルギーを植物たちは自らの内に蓄えているわけですから、これを体内に摂り込むことによって一体どうなるかと言うことです。それは肉体の中に光が満ちてくるということになりましょう。肉体の中に光が満ちてくるということはどういうことかと言うと、それ自体が健康の基(もと)になる、そのように言うことができると思うのです。

このように緑濃き植物を摂り続けることは長寿の基となるということと、もう一つは健康そのものを日々出していく基になる。こういうふうに言えるわけです。

緑濃い植物と言っても、もちろん季節によっていろいろと違っておりますから一概には言えませんが、身体には特によいと思われるものは、たとえば、ほうれん草の類(たぐ)いはもちろん身体に効く万能薬でありますが、それ以外でも青みを帯びたものはいくらでもあります。例えば青ねぎ、こうしたものももちろんそうですし、またキャベツなどでも青いものを使えば、それなりの効果があります。またパセリの類いもあるでしょうし、それ以外も季節に応じては数限りない緑色野菜というものが出ていると思います。

要はそうした緑色野菜の元気のいいものを食べるということで、野菜の食べ方をもっともっと、これからの主婦は研究せねばならんと思います。


4.朝型生活のすすめ


食べるものとして、私は菜食に重きを置きましたが、あとは食べる分量と時期の問題があるでしょう。そうしてみると朝食はどのへんに食べればよいかということですが、現代人は、問題の一つとして朝食を軽視する傾向があります。サラリーマンのおそらくは半分か半分以上は朝食抜きで出社していると思います。あるいは自宅で自由業をやっている者たちは、また朝が遅いので朝食と昼食がひじょうにくっついたりして、苦しみを作っています。学生などもこの類いであって、朝食と昼食の間が二時間しかないというようなことはよくあることです。そして昼夜逆転する生活をしているようです。

理想的な人間の身体というものは、やはり食事においても規則正しい生活が求められています。お昼ご飯を本当においしくいただくためには朝食は何時ごろに摂ればよいかということですが、これはやはり六時から七時の間には食べておく必要があると思います。八時以降に朝食を食べると午前中いっぱいが消化のために血液が使われてしまい、そして頭がはっきりしないままに終わってしまって昼になります。そこで不健康なサラリーマンたちは、昼ご飯を食べたあたりで目が覚めてくる、ということがひじょうに多いのです。

ですから私は、できれば朝食は早目に食べたほうがいいと思っています。できれば六時から七時の間ぐらいがよいでしょう。七時までに終えておけば十二時までに五時間ありますから、この間ゆっくり活動ができます。六時半に終われば十二時半から昼食とすれば六時間あります。これだけの空き時間を作ってやると胃腸もたいへん喜びますし、六時半に食べた食事はだいたい七時、八時でかなり消化され、そして九時半ごろにはもうエネルギーとして身体中に伝達され始めています。そしてその時期に仕事を始めるわけですから、ひじょうに能率がいいわけです。

ところが朝出がけにかきこんでいくと、ひじょうに消化も悪く、遅いわけです。ですから理想的にはやはり六時から六時半ごろに朝食を食べるのがよいでしょう。そして昼はだいたい十二時から一時の間、十二時半から一時半でもいいです。そのころに食べるのがいいでしょう。五時間から六時間、間を空けるというのが一つの秘訣だと思います。

そして十二時台ぐらいに昼食を食べて、また一生懸命働いて、晩御飯は六時から七時ぐらいに摂るのがよいでしょう。六時台に摂るのがよいのではないかと私は思います。

そして夜の睡眠時間ですが、十時ごろにはもう寝るようにしたらよいのではないかと私は思います。人間の睡眠が一番深くなり、そして効率的になる時間は夜の十時から朝の六時です。この八時間というのが睡眠にとっていちばんいいのです。ところが同じ八時間であっても、十二時から八時であると睡眠の効率は少し落ちてきます。

なぜ落ちるかということですが、人間のこの身体が休まる度合いというのは、夜の十一時前に寝るのと十一時以降に寝るのとでは、実はかなりの違いがあるのです。十一時前に睡眠に入るということが、健康生活の秘訣であるのです。都市生活のこの不養生というのは、十二時一時、あるいは二時三時という睡眠がひじょうに多いというところに問題があると言えましょう。

とくに子供においてもそうであって、受験勉強が最近は盛んであるけれども、発育期において十一時前に寝ている子供と、十二時以降に寝ている子供では発育の具合がぜんぜん違ってきます。すなわち、十二時過ぎて寝ているような子供は発育不全になってくるのです。それはその時間帯が身体の成長にとっていちばん都合がよいからなのです。

そういうふうに人間の身体はもともとできているのです。朝は日の出とともに起きるようにできているのです。そういうことで、眠りとしていちばん深いのは、この十時から六時であるということを、私は教えておきたい。

できるならば、八時間も睡眠をとる必要はないのではないかと私は思っています。十時から五時でいいかも知れない。これも理想的な睡眠時間です。十時に寝て、そして熟睡をするのです。深い眠りに落ちて五時に起きる。そして軽い朝食を食べて、そしてひと仕事をする。出勤前にひと仕事をするというのが何と理想的であるか。あなた方にはこの気持ちがわかるでしょうか。

夜が明けていくのを見ながら、しらじらと夜が明けていくのを眺めながら朝のひと時仕事をしていると、自分がカントやあるいはゲーテのようになった気持ちがするでしょう。カントも朝五時に起きて仕事をしていました。またゲーテも夜明けを楽しみながら詩を書いていました。

こうした人たちの優雅な楽しみに比べたら、現代人たちの楽しみがいかに取るに足らないものか、つまらないものであるか。夜のネオンサインの中で遊ぶということが、ほんとうにそんなすばらしいことなのか、魂にとってマイナスであるということがなぜわからないのか。私は深くそうしたことに思いをいたすわけなのです。

夜中に酒を飲み遊んでいて、そして魂はどこか罪悪感がないだろうか。それは魂自体がそうしたことが自己破壊につながるということを、十分に知っているからなのです。朝都会であっても日の出前に起きて、一杯のコーヒーをすすって外を眺めれば、すずめのチュンチュンと鳴く声、また木々の間から日が昇って来る姿、人通りは絶え、そして大地がシーンとして、聖なる時間がそこにあります。この時間を知っている人と知らない人では、霊的には大きな違いがあると私は思うのです。


5.人生の偉業の目的を持て


こうした朝型の生活をする方法は、だれが試みても二日三日しかもたないわけですが、なぜもたないのか、やはり習慣というところにその原因を見出すべきでありましょう。習慣を形成するのは、まず同じ時間帯に起きることを一週間続ければ、だいたいそれは軌道に乗ってきます。習慣は軌道には乗るのですが、問題は朝起きて何もすることがなければ、それでどうしても惰性に流されていくということです。

冬ともなれば寒いので布団から出たくないという気持ちになり、中には十一時十二時まで起きないで、日が南中するのを持っているような人も世の中にはおります。そうした人も例外的にはおりますが、たいていの人でも一時間でも長く布団の中に、と思う気持ちがあるでしょう。

こうした時に大事なことは、人生の目標であると私は思います。どうした目標を自分が持っているのか、これによって考え方は大きく変わると思われるのです。

この人生の目標は、偉業というふうに言い換えてもよいでしょう。あなた方が一体どれだけの偉業を成し遂げんとしているのか。これに関係すると思います。人生のスケールというものは、それを大きくしようとすればいくらでもあるわけです。

私も九十年余りの人生、精一杯に生き切ったという気持ちはありますが、それでももっと私自身の身体が丈夫であれば、もっともっと大きな仕事ができたかも知れないと思うことが多いのです。多くの人たちを導く機会はまだまだあったのではないか、そう思えてなりません。もっと多くの機会を提供することができたのではないか、そういうふうに思えるのです。

たとえば身体が健康であれば、私も生涯に二千数百回の講演、講義をこなしてまいりましたが、これが五千回とも一万回ともなることもできたかも知れませんし、あるいは書物の執筆にしても、もっともっと勉強の時間があったならば、もっと広範囲の学問分野について深い深い研究を重ねて、そしていろいろな形の真理を世に問い続けることもできたであろう、と思えるのです。そうすると、もっともっと勉強してみたかったという気持ちがひじょうに強いのです。

勉強し続けたいという気持ちがなくなれば、人間は墓場行きだと思ってまちがいがないでしょう。今世の目的の一つは勉強にあるのです。さまざまな知識を得、経験を通して学ぶということです。これを見ているとみなさんは、たいへん幸福者であると私は思います。毎月、二冊、三冊、場合によっては四冊もの新刊書が公刊されていますが、これはひじょうにありがたいことで、魂の向上にとってこんないいことはないのです。

たとえば朝型生活に切り換えて、朝の五時に起きるとしても、たいていの人は毎日毎日早起きをして勉強しなければならない目標がないのです。たまに英会話の勉強をしてみたりいろいろしても、それが長続きをしません。なぜ長続きしないかと言うと、その目標そのものがそう高次元のものではないからです。みんなが英会話を勉強しているから、われもわれもとそのブームに少し乗っているぐらいで、実際上その英語を使って、じゃあどうするのか、と言うと確たるビジョンもない。それが通常であると思うのです。

やがていつかは海外旅行をするかも知れないとか、英語を使うセクションに行くかも知れない程度のことでやるということですから、一週間もしないうちにダメになっていくわけです。


6.真理学習の方法


ところが明確に、自分は今回法を学び悟りを得るのだという目的を立てて、その目的は死後の世界において明らかに成就したかどうかがわかる、というふうな、大きなスケールの計画であれば、これは死ぬまでが日々学習です。したがって学習の材料は多ければ多いほどよいということになります。

私の考えだと、真理の書も年に五十冊ぐらい出してもよいのではないかと思います。一週間に一冊ぐらい出していただければ、午前五時に起きて早朝学習をするのにまことに都合がよい。ところが年に一冊ぐらいしか本がないと、朝起きてまで勉強しなければならない理由がない。土曜日か日曜日の暇な時に一冊の本を読めばよい。こうなりますから、みなが学習をこなせる以上の真理のテキストが出続けるということが、生涯教育においてひじょうに大事なことである。そのように思うのです。

ですから今私が学ぶとすれば、やはり月から金までじっくり新刊書を読み、そして赤線を引きノートを取り、そして週末にはそうしたノートの整理をしたりして、真理をみずからのものにしていく。こういうことに当てていきたいと思います。一冊一冊の本を自分のものにすることです。

この「谷口雅春の霊示集」でも、これで四冊目でしょう。この四冊目を読んでおる方は、前の三冊に一体何を書いていたか憶えていますか。あまり本が多くて憶えていないという人は、まだそれを消化しようとする努力が足りないのです。みずからのものにするためには、たとえば一冊の本を読んでも、それを無駄にすることなくノートに取っておくことです。サブノートのような形で自分なりのノートを取っておく。そして「谷口雅春霊言集」のノート、「谷口雅春霊示集」のノート、「谷口雅春の大復活」のノート、これをそれぞれ取っておくことです。

一冊の本であってもノートブックに取るとするならば、おそらくは、ま、何十ページかで済むと思うのです。おそらく一章についてノートに取るとすれば、五枚や十枚あれば済むのではないかと私は思います。そうすると一冊の本であっても、ノートブックで言えば五十ページもあれば充分、そんなに書く気がない人であれば三十ページでもいいでしょう。三十ページで充分です。三十ページから五十ページで納まるわけです。

そうすると、こういうノートを付けていくと、「谷口雅春の霊示集」なら霊示集でノートを作っていくと、それが蓄まっていきます。そしてときおりそれを読み返して勉強をします。そして関係のあるところをまた本に戻って読んでみる。こういうことであってよいのです。自分なりの勉強方法を開発しておくことです。さすれば真理の書が五十冊出ようが百冊出ようが、いっこうに恐くはないのです。そのノートブックを充実させていき、そしていつもそれをひもとけば、どんな真理、どの本にどんな真理が載っているということがすべて手に入る。そしてそれを勉強材料として、もとの本に戻っていく。

こういうノートブックを持っていることは人と話をする時にたいへん大事です。真理の伝道においても自分で作ったノートブックによって勉強した、こうしたサブノートで勉強したことがあれば、その知識を使って雄弁に語ることができますし、議論をすることもできる。また教えることもできます。他の人を教えてあげることもできます。そしてそうしたノートをつけているとは他の人は知りませんから、あなたが自由自在にいろいろな書物から引用して話ができるのを見れば、「何と頭のいい人だろうか。何と悟った人だろうか。」人はかならずそう思うようになるのです。

そうするとあなたはその期待がとてもうれしいですから、ますます向学心に燃えてくるようになっていきます。

私は、自分のやり方としてはノート方式がいいと思うのですが、もちろんこれは人によってさまざまでしょう。カードに取る人もいるでしょうし、あるいはワープロによって原稿化して残しておく人もいるでしょう。いろいろな資料の蓄積方法がありますが、要は自分が学び得たことを何らかの形で整理しておくことです。これをやりっ放しにしないこと、学びっ放しにしないで、かならず整理をしておくことです。そして五十冊の本であっても、ノートブックの十冊もあれば充分に全部の内容がわかる。

こういう形にしておけばノートをいつも何冊か待っていれば、どんなことであっても対応できる。こういうふうになってきます。

どうか多くの人に早朝学習を始めて、そして健康になり、真理の勉強もできる、こういうふうな生活パターンを作って欲しいと思います。健康法と言っても、身体の健康ばかりを維持しても仕方がないのであって、いちばんの根底は精神の健康です。毎日やることがあって気力が充実し、向上心があること。これが長い間健康に生きていくための秘訣です。

私の方法の一つはこうしたサブノートを作って、そして真理を勉強していくことです。そしてそのノートで憶えたことを人びとに語ってあげること、教えてあげること、こういう機会が出てくれば人生は楽しくて仕方がない、このように思う。

生長の家の諸君も漫然とこの本を読むのでなく、これでもう四冊目ですから、それをしっかりとノートに取って、生前の私の教えと比べてどの点が発展しているか、そこをつぶさに学んでいただければ、さらに話には重みがつき、おもしろくなっていくことであろう。そして悟りは一段と深まっていくだろう。私はそのように感じるものです。

無限に健康となり、健康となる理由は無限に働きをし、仕事をしていくためだという原点を忘れないでいただきたい。「よりよき仕事をしていくためにこそ、無限に健康になっていきたいのだ。」、こう願っていれば健康になることはすなわち、神の心にかなうこととなるわけです。