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目次



















(1987年2月20日の霊示)

1.出口王仁三郎の霊力指導霊は、「役小角(えんのおづの)」


あー、いよいよ第6章ですなあ。天狗と仙人、という話までこぎつけてきた。まあ、今さら天狗と仙人でもなかろうがと言う人も多かろう。天狗と聞いて、現代人でピンとくる人はおるまいて。ひと昔前なら、天狗と言えば、それこそ、何じゃのう、ひとつ歯の高い下駄(げた)履いて、団扇(うちわ)であおぎながら、長い鼻をして、羽根を伸ばしつけて空を飛んどるような、そういうイメージを持った人も多かろうが、まあ、最近は、そんなことも思わんじゃろうのう。

まあ、子供の頃に、絵本で天狗さんを見る程度かのう。あとは、もの心ついて以降、天狗さんとは、全然縁がないようじゃ。縁日のお面でもあれば、まあ、天狗も見るが、最近は天狗ショーとかいって、変わったのもやっとるようじゃのう。普通は、天狗というのは、忘れ去られとる。

まあ、仙人というのも同じじゃのう。芥川龍之介とかいうのは、仙人の話が好きで、ようしておったようじゃけれども。現代人で、仙人のことを知っとる人も少なかろう。仙人というとやはり、どうじゃろうかのう、中国か、インドか、ヒマラヤかは知らんけれども、どっかそんな外国の山奥に住んどる感じじゃの。仙人と言われてもピンとはこんじゃろう。まあ、宗教に多少なりとも関心を持っとる人たちちゅうのはのう、何ちゅうかのう、今でも修験道(しゅげんどう)ちゅうのがあって、山伏(やまぶし)じゃのう。山岳信仰というのがある。彼らが仙人だということは、知っとるだろう。まあ、日本流で言えば、ああいうのが仙人じゃのう。仙人になるわけじゃ。

古くは、役小角(えんのおづの)というのがおったのう。知っとるかのう、役(やく)の小角(しょうかく)と書くのじゃ。役行者(えんのぎょうじゃ)というては、有名なお人じゃのう。今から千何百年前じゃろうかのう。千数百年前になろうか、大変な法力を持っとった人でのう。これが有名じゃ。

この役小角というのが、他ならぬ、この出口王仁三郎の指導霊をやっとったのじゃ。指導霊をのう。わしもずいぶん霊力を持っとったけれども、まあ、霊力の側面では、わしを助けてくれた人でもあるんじゃ。

また、わしは、幽体離脱というて、肉体から抜け出して、あの世でよく散歩しとったわけじゃけれども、そのときにも、わしによう教育してくれたのも、この役行者(えんのぎょうじゃ)じゃ。偉い人かどうかは、まあ、皆さんのご判断に委(ゆだ)ねるけれども、まあ、霊力とは何か、ちゅうことはよく知っとる人じゃのう。霊能力、超能力、神通力じゃの、とは何かということは、よく知っとる人であろう。まあ、そういうことで、仙人界というのがあって、まあこれも、それぞれの国ごとに仙人界というのも、分かれておるんじゃ。

中国には、もちろん大きな仙人界がある。インドにもある。西洋に仙人界があるかちゅうと、まあ、ないわけでもないのう。まあ、あちらは、仙人というよりは、どうも妖術使いの方が多いようじゃけれどものう、妖術使いが多いようじゃ。まあ、日本の仙人というのは、こうした山岳信仰というのかのう、そういうものを経験した仙人が多いようじゃ。


2.仙人の特徴は、霊力の技競べ


なかには、山岳信仰をやらずとも、他の職業についておって、仙人というのもおらんわけではないけれども、まあ、仙人の特徴というのは、人を驚かすというようなことをよくやるっちゅうことじゃのう。これは特徴じゃ。このときに、たいてい霊能力というか、まあ、そういうものを駆使したり、また、誇示したりしたくなるっていうのが、仙人の本領じゃのう。

まあ、あとは、そうじゃのう、まあ、仙人の話をもうちょっと現代的に話するとのう、現代にも仙人はいっぱい出ておるぞー。

たとえば、まあ、他の人の話をしてもあれじゃけれども、今、地上でものう、超能力とか、超念力とかやっておる者がおるじゃろうが。うーん、最後の超念力じゃとか何じゃとか言うて、やっとるのー、まあ、ありゃ仙人じゃ。間違いない。仙人じゃのう。八次元パワーだとか言うとるけれども、まあ、正真正銘の八次元パワーじゃないんじゃ。正真正銘の如来のパワーじゃないんじゃ。ああいうのはのう、ありゃ仙人パワーじゃ。まあ、あの世の仙人がついて指導しとるわけじゃのう。

まあ、霊能力があるわけだから、そこそこの現象も起こすし、まあ、病気も治したりすることもできるし、多少いろんなことを起こす。たとえば、そのパワーを入れれば、草木がよう育(そだ)つとか、のう、果物(くだもの)が大きゅうなるじゃとか、まあ、そんなことがないわけではない。それはあるんじゃ。まあ、わしもそっちに関係しとらんわけでもないから、あんまり偉そうなことは言えんのじゃが。


3.如来・菩薩は「話せばわかる」の心の指導


お前さん方の仕事ということも考えて言うとするならばのう、まあ、仙人系統とそうでない人の系統というのを分けるとするならば、奇蹟というのは両方起きる場合があるけれども、仙人以外の何と言うかのう、表の世界、如来、菩薩の世界というのは、極力、心の教えで人を導いていこうとしておるのじゃのう。まあ、諭(さと)して、話を聞かして、まあ、話せばわかるわけじゃ。話を聞かして導いていこうとするのが、だいたい、如来、菩薩の普通の系統じゃ。


4.仙人・天狗は目にもの見せる技の指導


仙人系統ちゅうのは、どっちかと言うと、まあ、話せばわかるじゃない、見ればわかるじゃ。見ればわかるじゃろうと、目にものを見せてやろうと、まあ、だいたいこの系統じゃのう。ただまあ、これも公平に見てやらにゃあいかんのじゃ。仙人だからいかんとか、そういうものは、まあ、考え違いであってのう。仙人も、まあ、役には立っているのじゃ。

つまり、話ばかりを聞いてもわからん人は、世の中にいっぱいおるんじゃ。話聞いてもわからんのがのう、いっぱいおるんじゃ。ただ、目にものを見せる、要するに、信じられないような奇蹟を目の前で見せると、信じる人は多い。これからあとは、いかんのは、いかんのだけれどものう。その奇蹟だけありがたがって、あとへいかんのは、いかんのだけれども、まあ、そういう役割もないではない。これは、昔からあるでのう。天狗小僧というような話とか、まあ、そんなもんがないわけでもない。

まあ、仙人系統じゃけれども、他にも言えば、そうじゃのう、仙人系統で、他にいるとするならば、あと、たとえば明治の時代にもおったのう、仙人が。何て言ったかのう、「オサナミトシエ」と言うたかのう。長南年恵(おさなみとしえ)と言うたかのう。「オサナミ」という、新潟のほうじゃったかのう、新潟のほうに、霊能少女が出てのう。明治時代大騒ぎになったことがあるんじゃ。

このオサナミさんという人が、四十ぐらいになっても、二十ぐらいで、全然年が変わらん。もう若いままじゃ。もう、全然。それで、あるときから、飯ももう全然食わんのじゃ。飯も食わず、生きとるのじゃ。もう十何年も、二十年もトイレヘ行ったのも見たことがない、という、まあ、そんな人じゃのう。でもって、肌はいつも湯上りのようにつやつやして、それでまた、とっても怪力じゃ。怪力で、大人五人、十人かかって綱引きしても、片手で引いて、大人が皆んな倒れてしまうぐらいの怪力じゃ。

こういうことでのう、それで、御神水とかいうのがあって、まあ、一升瓶か何かを並べておいて、病人の人が来ると、まあ、神様に祈るとのう、一升瓶のなかに水が入る。空中から水が出てのう、御神水というのが出て、それに色がついておる。赤じゃの、黄色じゃの、青じゃの、いっぱい色がついておる、のう、こういう御神水が下(くだ)って、病気に効(き)くあれが出たと、まあ、こういうことが起きたようじゃ。

そうして、まあ、裁判所にものう、一回、世を惑わすということで、何じゃったかのう、朝日新聞じゃったかのう、何かでずいぶん叩かれて、そして、デタラメじゃ、淫祠邪教(いんしじゃきょう)じゃということで叩かれてのう、新聞記者に。それで裁判所で、お前がほんとうにそんな能力を持っとるならばやってみい、と言われて、裁判所の公開の席で、その一升瓶のなかに御神水を下(くだ)らしたんじゃ。

それで、裁判官もおったまげてのう、こりゃあ困った。そして、ついには不問となった。確かのう、不問となったはずで、ただそれが認められたちゅうわけではないけれども、釈放されたのは事実じゃ。そういうことでのう、お前さん方からいきゃあ、もう遠い昔の話じゃろうけれども、そういうものもある。


5.最近出ている仙人の有名人はユリ・ゲラーとサイババ


あとは、そうじゃのう、まあ、そんなもんじゃろうかのう、記憶に残っとるのでは。記憶に残っとらんのではまだ他にもたくさんおるんじゃけれどものう。そうじゃのう、おった、おった。最近のでおったぞー、ユリ・ゲラーというのがおったじゃろう。これは有名じゃのう、日本でも。まあ、スプーン曲げる奴じゃ。スプーン曲げたり、何じゃ、カード当てるのか、時計の針を回したり、あるいは、缶(かん)のなかに入れたものを当てたりするんじゃろう。

これは、仙人じゃ。間違いない、間違いない。仙人界から出とるから、よー知っとる。これは最近じゃからのう。えー、仙人です。で、これをインチキじゃ何じゃと言うとるのがおるけれども、まあ、インチキもないとは言えんが、まあ、能力を持っとるのは、確かじゃ。持っとるんです。まあ、これじゃのう、だから、仙人も、最近、けっこう頑張っとるんじゃ。

そして、ユリ・ゲラーが日本に来て、超能カブームがずいぶん盛んにもなったわのう。うーん、だからまあ、こういうこともあったわけじゃ。まあ、彼らも、使命がないかちゅうたらないわけではのうてのう。そういう世界があるということを気づかす意味では、やはり、使命があるわけじゃ。そりゃあ、心の教えは何も言うとらんじゃろう。それから、それについていく者を惑わすこともあるじゃろう。

じゃが、現在の何と言うかのう、この唯物論、ものしかないというような、偶然に人間ができて、偶然に人間が生きているという人が多いなかでは、そういう鬼面(きめん)で人を驚かすというようなことも、まあ、意味があるわけじゃ。如来、菩薩がそういうことをしたんでは、疑われるからのう。じゃから、そういう仙人にやってもろうて、そして、如来、菩薩の段取りをやっとるのじゃ。そして如来、菩薩が心の教えを説いとる。これでええわけじゃのう。今、イエス・キリストみたいな人が出て、やたら奇蹟ばかりを起こすと、まあ、疑われるのは間違いなしじゃ。病人ばかり治しとってものう、まあ医事法違反か何かで摘発されることじゃ。

ああそれから、インドにも聖者がおって、サイババとか言うのがのう、こういうのがおって、何ちゅうのか、ビブティちゅうのか、薬か何かを、天から降らして飲めば、病気が治るとやっておるけれども、こんなの日本でやったら、一発で捕まっちゃうだろう。

ダイヤモンドとかを降らしとるそうじゃが、そんなのは盗んできたとか、まあ、手品師だとか言われて、捕まるのがおちじゃ。間違いないじゃろう。じゃから、こういう人を、まあ、あれじゃのう、日本で、如来、菩薩として、出すわけにはいかんのじゃ。じゃから、ユリ・ゲラーもそうじゃし、まあ、そういう超能力者たちも、だいたいそうじゃのう。

そうじゃのう、せっかく話が出たから、サイババのことを言うとこうか。お前たちは、あれを偉いというとるが、どの程度偉いか知っとるかのう。さあ、わかっとるかどうかじゃのう。結論を言えばのう、あれはインドの仙人なんじゃ。まあ、救世主じゃとか言うて、言われておることもあるじゃろうが、救世主があれでは、務まらんのじゃ。インドの仙人でのう、インドはしかし、哲学がはやっとるから、哲学とか、まあ、教典じゃのう、そういうものがはやっとるから、教えがむずかしゅうなっとるけれども、あれも仙人じゃ。インドの。仙人の親玉が出とるのじゃ。あれものう。

まあ、そういうことで、彼の格を下げることもなし、わしの格を上げるわけでもないが、あれは、インドの出口王仁三郎じゃ、早い話が。まあ、そういう人間じゃと思えばいい。わしだって、そりゃ正真正銘の如来でありたいんじゃけれども、いかんせん、もうちょっと、裏側のほうへ来とるんじゃけど、もう半周ぐらいせんと、表へ帰れんだけのことであって。

じゃから、サイババ先生もじゃな、わしらの世界の住人じゃ。だから、住んどるところが違うから、直接会うこともなかろうが、まあ、そうじゃのう、位置から言えば、インドで出た出口王仁三郎ぐらいじゃ。まあ、その程度の位置づけじゃのう。したがって、出口王仁三郎が救世主なら、サイババも救世主じゃ。サイババが救世主じゃなければ、わしも救世主じゃないわ。まあ、似たようなもんじゃ。

じゃがまあ、わしはのう、単なる仙人とは違うことは、わかってくれると思うんじゃ。そりゃ、時代時代で、ときどき行ったり来たりしておるんじゃ、わしの場合はのう。前に古事記、日本書紀をわしがつくったと言うたことがある。稗田阿礼(ひえだのあれ)という名前で出てのう。このときに、じゃあ、仙人かと言うたら、このときは、仙人というよりは、まあ、お前たちが今、霊示集をつくっているようなもんじゃから、言わばのう、これは、「正法神理」の本家本元みたいなものじゃのう。

だから、ちょっと微妙なところなんじゃ。ほんの微妙なところなんじゃのう。今世はどうかと言うと、今世は、ちょっと指導神が悪かったんじゃな、これがいかんかったんじゃ。指導神さえ間違(まち)ごうていなかったら、わしはちゃんと如来界に還っておるんじゃけれども、ちょっと指導神が丑寅の金神じゃからのう。まあ、ちょっと指導神のほうが、どうも崇(たた)り神が指導神であったから、こっちのほうへ来てしもうたけれども、まあ、こんなのが普通ではないと、やむを得んだろうから、こういうことも、試練としてあるからのう。

まあ、谷口雅春などは、表のええとこなどへ行きよって、まあ、おもしろくないんじゃけれども、本来ならば、どっちが偉いのか、わかっとるのかと、言いたいんじゃけれども、まあまあ、しかたがあるまい。現在は、やつのほうが、うまいこと、文章中心に法を説いて、表へ帰ったんじゃから、わしはしょうがない。今ちょっと薄暗いけど、やむを得んじゃろう。焦(こ)げ臭い、壁臭いところじゃけれども、まあ、やむを得ん。

そういうことで、まあ、サイババちゅうのがおるけれども、まあ、あれをモーゼじゃとか、何じゃとか言うてる人がおるんじゃろう、奇蹟を起こすから。モーゼの生まれ変わりとか言うとるが、まあ、あれは大仙人じゃ。仙人中の仙人じゃのう。じゃから、役行者(えんのぎょうじゃ)、出口王仁三郎、サイババ、この辺はまあ、だいたい同格ぐらいじゃ。偉いんじゃ。力は持っとるぞ。ちょっと勉強しとるんじゃのう、どっちへ行くかじゃのう。まあ、どっちへ行くか、還って来るのが楽しみじゃけど、じゃがまあ、多分仙人のほうへ還って来ると思うぞ、わしは。多分、そっちへ還るであろうと思うわ。

まあ、ヨガというのは、もともとはのう、インドの仙人界なんじゃ、系統としてはのう。したがって、日本神道系では仙人界と言うけれども、インドの法では、ヨーガ界と言うてのう、ヨガのだいたい流れがあって、まあ、ヨガのなかにも、もちろん心の教えを説いた一派があって、そういうのは表のほうじゃけれども、ヨガ仙人界というのがあってのう。修行を中心にやった人、あるいは、超能力を中心にやったヨガ仙人界というのは、どっちかと言うと、まあ、これは裏側へ行っているのう。そういうことがあってのう、まあ、参考までに聴いておきなさい。がっかりする必要はない。ヨガにも両方あるんじゃから、そう思えばよい。


6.あの世とは、引き合うもの同士が集まる波長の世界


まあ、そういうふうに、あの世の世界というのは、地上でたまたま何をやったかでずいぶん左右されるんじゃ。行く先がいろいろあるんじゃ。それこそ今世で、神社の復興でもやってのう、心清くありなさいなんてやっとったら、それこそ竜宮城へ行けるのは間違いなしじゃ。竜宮界へ行けるじゃろう。まあ、そういうふうに波長じゃのう、あの世というのは。引き合うもの同士が、だいたい行くんじゃのう。

まあ、わしもじゃから、法を説いたつもりでおったんじゃけれども、けっこう愛の教えが若干足りんかったようじゃのう。もうちょっと、愛を言わねばいかんかった。残念じゃのう。いろんなことを言うたり、奇蹟も見せたんじゃけれども、ちょっとまあ、愛の教えが足りんかったのう。

如来、菩薩の資格条件というのは、どうやら、愛らしいわ。わしも、ちょっと勉強しとるんじゃが、愛と慈悲らしいのう。愛と慈悲を説かずして、如来、菩薩にはなれんそうじゃ。生きていたときに、愛と慈悲をわしはあまり言わんかったんじゃのう。わしはのう。そういうことで、若干、如来の条件に外れるということで、裏側で今ちょっと修行させられとるんじゃ。

言うとくが、地獄ではないぞー、決して地獄ではないぞー。まあ、そういう世界もあるということじゃな。じゃから、もう一回地上に出たときに、今度は表の世界へ還るつもりでおるんじゃ。もう一回わしが地上に出たとき、今度は弟子のTは裏側へ回るじゃろう。わしはそう思うとる。そういう世界じゃ。まあ、あなたがたの勉強材料として聞きなさい。そういうふうに、仙人界というのが、まあ、どっちかと言うたら、この世で救いたいという気持ちがあるのは確かなんじゃけれども、いかんせん超能力信仰のほうに傾いた人が行くところじゃのう。


7."法力" は便利、悪霊を跳ね返す


まあでも、これはありがたいことはありがたくてのう、いわゆる法力じゃから、便利なんじゃな。あの世の霊人でも、思ったとおりのことができるというけれども、そりゃ程度の差がある。通常の霊人であるならば、たとえば、あの世に還ってかなりの時間が経つと、地上の人とどうやって話をしたらええかも忘れておる人が、いっぱいおるんじゃ。あるいは、地上があるということも、忘れておる人もおる。あるいは、自分の世界以外のところへ、どうやって行ったらいいのかわからん人も、いっぱいおる。

たとえば、わしらは、地獄なんか行こうと思えば簡単に行けるんじゃの。地獄へ行って、どうじゃ、鬼の二、三匹、頭殴って来ようかと言うてのう、行って、鬼の何じゃ、バットというのか、鉄棒か、鬼の鉄の棒を取り上げて、赤鬼と青鬼の頭を殴ってね、たんこぶの二つ三つつくってから、ああ気持ちいいって帰って来るぐらい、簡単なんじゃけれども、そういうことができんちゅうのもいっぱいおる。住んでおるところ以外、要するに、動けんのじゃのう。

えー、そういう人もおるし、あの世でも、空を飛べる、ほんとうは皆んな空を飛べるんじゃけれども、空を飛べん人もいっぱいおるんじゃ。飛べんと思うとるんじゃ。空を飛ぶと、要するに、地面に落ちたら痛いと思うとるから、飛べんのじゃのう、そういう世界もある。じゃから、結局、その人の、まあ、開発した能力の範囲じゃのう、それによって、違うわけじゃ。

じゃから、まあ、地上に出て、今、お前たちも、正法神理というのか、よう知らんが、まあ、仏法を説いとるようじゃけれども、ずいぶん悪霊にもやられるじゃろう。悪霊の影響もあるじゃろう。これを跳ね返すのが法力じゃ。じゃから、この法力はやはり、何と言うかのう、そういう超能力の強さで左右されるんじゃ、多少は。そういう能力が強いと、やはり、そういう法力もついてくるから、悪霊をねじ伏せるのはわけないんじゃ。じゃから、そういう意味では、ある程度法力もつけにゃあ、いかん。

法力というのは何かと言うと、結局、念の力じゃのう、念の強さと、まあ、それを実現する力じゃ。念ちゅうてもわからんかのう、思いの力じゃ。思いの力でのう、あと、思いの力があっても、それが実際に、具体的に、何ちゅうかのう、実現するということを知っとらん人は、できんのじゃ。


8.恋愛成功率も "念" の強さで決まる


まあ、地上のお前さん方もそうじゃろう。願いごとは叶(かな)うじゃろ。何じゃのと言うとるけれども、願いごとが叶うちゅうて、まあ、神社の前で手を合わしているのはええけれども、合わしただけだと、もう忘れとるわのう。恰好だけじゃの。そうじゃなくて、願いごとが叶うには、叶うということを、要するに、まあ、知っとらにゃいかんのじゃ。ほんとうの意味で、ほんとうの意味で知っとるものは、それを実現できるんじゃのう。それが、ほんとうの意味でそれを知らんと、願いごとした人はやりっ放しということじゃの、これはダメなんじゃ。やっぱりそれを受け取るだけの、願いごとが実現したときに、受け取るだけの心境というのがやはり大事じゃのう。それを信じることができるかどうかじゃ。

したがって、たとえば、頭で、わしらの世界で空を飛べると思うておっても、これは皆んな知っていたとしても、やっぱり、空を飛ぶのは怖いと思う人は飛べんし、飛んだところで何のもんじゃと思う人は飛べるんじゃ。そういう違いがあるのう。まあ、そういうことじゃ。

じゃから、この世でもあろうに、女子(おなご)の子と言うのかのう、女の子を見て、きれいじゃと思うて、いい寄って行くのう。それで、結婚してほしいと思うて、まあ、プロポーズするんじゃけれども、向こうが戸惑(とまど)うと、すぐもう腰砕(くだ)けになってのう。男でも、プロポーズはするんじゃけれども、ちょっと女のほうがちゅうちょすると、もうそれだけで腰砕けになる。いやあどうもすみませんでした、なかったことにして下さいと、すごすごと帰って来る、まあ、こういうのを腰砕けと言うんじゃが、まあ、この類(たぐい)というのはのう、法力を持っとらんわけじゃ。

したがって、そういう願いがあるんじゃけれども、願いの実現を、要するに、受け取るだけの器(うつわ)がまだできとらんのじゃ。こういうの、よーあるんじゃ。

女の子に迫ってはのう、ダメじゃ、たとえば、田舎から出て来てのー、都会の若き、美しきレディを何とかしてものにせんとして頑張るんじゃのう。そして、やっとデートに誘い出したと、おっ、やったやったと思うんじゃが、二人きりになったら、やたらそわそわしてのう、今度は自信がのうなってきて、誘い出したまではよかったけれども、気まずーなってしもうて、話す言葉がなくなってしまう。で、ちょっと僕は、帰って用があります、と。帰ってズボンにアイロンかけにゃあいかんから、早く帰るなんて言って、公園から逃げ出したりする男もある。まあ、こういうのも、要するに、思いが実現しかかって、後がダメなんじゃのう、腰砕けじゃ。

まあ、女の子でもあるんじゃのう。逆に、何とかさんと結婚したいしたいと思うて、何とかプロポーズしてくれんじゃろうかと思うて、ずーと待っておるんじゃ。いざプロポーズされると、そんなことはあり得ない、信じられない、こんなのきっと騙(だま)されているんじゃないかしら、あるいは、他にも好きな人がいるんだけれども、私を、何と言うか翻弄(ほんろう)して遊ぼうとしておるんじゃないかしら、私は、惨(みじ)めに捨てられるんじゃないかしらなどと、妄想を巡らして、待ちに待ったプロポーズを断わる女がある。

そして、だいたいこれは、皆んな後悔するんじゃ。まあ、後悔しておる女の多いことよのー、見てると。まあ、だいたい行きそびれている女性というのは、皆んな後悔している。ああ、あのとき、受けておけばよかったというのばっかりじゃ。まあ、だいたい九分九厘そうじゃ。だいたい、一回ぐらい、皆んなあるんじゃ。それらしきことはのう。

これはじゃけど、まだ出て来るわとかのう、もっとええのが出て来ると思うて、まあ、いったん蹴るんしゃ。あるいは、もっと強く言ってきたら受けてやろうなんて思って、蹴っていると、もう二度と出て来ん。そうして、まあ、一、二年で出て来ると思っとって、待っとったら、だれも出て来んかった。気がついてみたら、二十年も過ぎておったとか。まあ、こういうのが、ようあるんじゃのう、こういうのが。

まあ、そういう、何と言うのかのう、法力が足りんのじゃ、法力がのう、法力が足りんのじゃ。こういうときに、いいのが出て来ると言うとらんと、まあまあ、とりあえず結婚してみて、ダメだったら、その男を捨てりゃあいいんじゃ。捨てて、もうひとつ、次のを見つけりやええんじゃけれどものー。それだけ、割り切る気持ちもない。まあ、そういうこっちゃのう、まあ、これも法力のひとつじゃ。


9.法力は、転生輪廻の過程で得た個人別の霊力


まあ、こういうふうに、法力と言うけれども、まあ、これはある意味では、ひとつには器(うつわ)じゃのう、器なんじゃ。そういうことが叶っても、これを受け入れられる器じゃのう。まあ、たとえば、霊能力がついて、諸霊たちと話ができるようになっても、まあ、それは器というのがあってのう、どこまで引き出せるかどうか、王仁三郎と聞いただけで逃げ出すような人であれば、わしの話はできんのじゃ。王仁三郎様と言えば、「キャー、ステキ」と、まあ、これは救世主じゃないかと思うような人であれば、これは、法力がそれだけあると言えよう。

まあ、そうしたもんじゃのう。したがって、法力というのは、念の強さであって、それを実現できるというような、遂行(すいこう)能力じゃのう。これを法力と言う。これは、善いことでも、悪いことでも、意外に使えるんじゃ。そして、法力そのものが転生輪廻の過程で、けっこうついてくるんじゃのう、まあ、ひとつの力じゃ。才能みたいなものと言ってもよい。いったん獲得したものは、なかなかなくならん。


10.新興宗教百あるなかで、九十六までは悪魔に憑かれている


そういうことで、地獄霊のなかでも、法力を持っとるものがいっぱいおるんじゃ。これは、過去一生懸命やっとるのじゃのう。法力をつけるのに一番いいのは何かと言うと、まあ、要するに、念の集中する作業をすれば、法力がついてくるわけじゃ。まあ、密教の一派だな。こういうのもそうじゃし、あるいは、行をやる人たちじゃな。山岳で行をやっとる、滝行をやったり、いろんな行をやっとる者がおる。それから、誤解されんように言えば、まあ、ヨガの一派じゃのう。ヨガだって、そりゃあ、正しいヨガもあるけれども、そうじゃないヨガもあろう。そういうのもあるし、まあ、他にもいろいろある。そういうのをやると、だいたい念力が強うなるのじゃ。

それで、そういうふうにいったんつけた念力というのは、まあ、そう簡単にはなくならん。これをなくすには、やはり同じだけの努力がいる。同じだけの時間と労力がいれば、だんだんに衰(おとろ)えていくっていうことがあるけれども、いったん獲得したら、なかなかなくならん。そういうことで、まあ、地獄の魔王たちもそうじゃのう、だいたい、そういう法力を持っとって、地獄へ行って見ていると、おもしろいんじゃのう。

普通の地獄霊というのは、まあ、たいしたことは、できんわけじゃ。そして、のどかに、と言っては何だけれども、そこそこ平凡に生きとるわけじゃ。ところが、魔王じゃとか、悪魔じゃとか言われる人たちは、法力を持っとってのう、たとえば、そこらの、地獄霊が五、六匹おったら、それをまとめてすっ飛ばすぐらいできるわけじゃのう。

ところが、そうした普通の地獄霊から見れば、これは信じられんことじゃから、恐れおののいて、平伏(ひれふ)すわけじゃ。何せ、五人、六人をまとめてふっ飛ばすわけじゃのう。ポーンと、そういうことができる。念の力じゃのう、これを開発している。まあ、そういうことがあるわけじゃ。

じゃから、こういう悪霊と言うか、まあ、サタンと言うか、これが地上の、正法行者たちにとっついてくると、これが大変なことになるわけじゃのう。まあ、彼らも、要するに、念の力が弱いと負けてしまうという弱い心の持ち主だと、大変じゃ。じゃから、正法行者と言うても、心を強く持たにゃあいかんわけじゃ。

まあ、今までも、見とったらやられているところが、いくつもあるぞー。言うてもええが、まあ、読者が滅るといかんから、止めておこうかのう。いっぱいあるぞー、言ってやろうかな、止めようかな。まあ、止めておこうか、そういう大悪魔に引かれておるような集団がいっぱいおるぞー。

まあ、宗教が、新興宗教百個あれば、そうじゃのう、そういう悪魔、大悪魔、中悪魔、小悪魔、いっぱいおるけれども、何かにやられておるというのは、百個あれば、まあ、九十六ぐらい、やられておるのう。まあ、ほとんどそういうこっちゃ。だから、現在にはまともなところがないっちゅうのは、あたっとるわけじゃ。百あれば九十六ぐらいはやられとる。間違いない。それで、普通であっても、ときどきやられておるところもいっぱいある。ときどきやられておるときに、まあ虫歯と一緒じゃのう、 ちょっと痛みかけたときに治しとかんと、歯を抜かにゃあいかんことになるわけじゃ。ボコッとのう、歯を丸ごとやられてしもうて、抜かにゃあいかん。こういうふうに、普通のところであっても、チョコチョコと、そんなふうにやられているうちに、そのうち、ザクッとやられてしまうことがある。そういうこっちゃのう。

とくに、そういう能力を誇った、病人治しをしとる人は、そのうち、やられてしまうことが多い。病気治しか何かでのう、自分の能力で治ったと思って、喜んで、いつまでもやっているうちに、だんだん、治せんような大きなのがかかってきて、それにバカッと入られてしまうと、もう取りようがない。こういうのがいっぱいあるんじゃ。これは気をつけにゃあいかん。まあ、そういうのが、主に仙人の働きじゃのう。


11.天狗と仙人との違い、天狗は威張りたいだけ


さて、もうひとつの天狗さんのほうをちょっと言うとこうか。まあ、天狗さんと言うてものう、それこそ、今活躍しとるのは、そうじゃのう、上野辺じゃのう、上野辺じゃ、天狗さんが活躍しているようじゃのう。あるいは、銀座、上野、渋谷、新宿。読者よ、ご推察あれ、天狗さんが活躍しておるのは、そんなところじゃ。まあ、そういうことで、現代人というのは、天狗さんの信仰というのが薄れとる。まあ、天狗さんの出番がないんじゃ全然のう。出番がのうて困っとる。

今の仙人と天狗の違いというのは何かと言うと、まあ、仙人は多少なりとも、人を何と言うかのう、救おうという気持ちはあるのじゃ。人を救おうという気持ちがあって、ただまあ、若干、心の教えのほうはあまりやらんというぐらいのことじゃのう。これが仙人の系統じゃけれども、天狗の系統は、人を救うっていう気持ちは全然ない、さらさらないんじゃ。これがのう、天狗さんはさらさらなくて、まあ、いねば、威張っとるんじゃ。

まあ、地上にも、これは多いぞ。そういう意味ではのう。今言ったような、繁華街だけではないぞ。それは、会社のなかにもいっぱいおるぞ。あるいは、ワンマン経営者のようなのも、いっぱいおるぞ。まあ、だいたい天狗の特徴は、ひとことで言うと、威張りたいんじゃ。要するに、威張れたら、それで幸せ。じゃあ、威張るような人は地獄じゃないかと言うが、まあ、そうとも言い切れんのがあるのじゃのう。

たとえば、たたき上げの何と言うか、商売人、わしは商売がうまい、とふんぞり返っておるのがおるわのう。まあ、これらでも、ほんとうにいい商売をしておるような場合もある。そしてまあ、それほど人を傷つけたわけでもなく、いい商売をして、ただわしは日本一じゃと、銀座一じゃと言うとるのがおるわのう。まあ、これらが地獄へ行くわけでもない。ただ、まっとうなところへ行くという人とは、あんまり合わんから、そういう天狗さんの世界へ行くわけじゃ。

じゃから、天狗さんと言うても、前も言うたけれども、プロレスラーや相撲取りだけでもないわけじゃ。わしは銀座一の寿司職人じゃとかのう、あるいは、浅草一の何とかづくり職人じゃとか、おるけれども、このなかにも、天狗さんはいっぱいおるんじゃ。あるいは、手相見、人相見、仙人かと思うたら、天狗も多い。わしのが百発百中当たらんことがあるものかちゅう、こんな天狗さんが多い。

あるいは、どこかの出版社にもおるぞー。天狗さんなんちゅうのは。わしのところの出版物は天下一品じゃ。売れんのは人が悪い、著者が言おうが、だれが言おうが、わしが嫌(いや)なものは嫌なんじゃちゅうて、まあ、要するに、著者が頭を下げてくるのしか認めんちゅうような出版社もおるぞー。要するに、へいつくばってきたら、出したる。売れたら、出版社の力じゃ。お前らの力じゃないちゅうてのう。著者より絶対偉いとふんぞり返っておるのがおる。

まあ、こんなの、天狗じゃのう。天狗の一派じゃ。まあ、霊が好きじゃろう、こういうのは。だから、天狗さんも地上に出ておるけれども、霊が好きなのも確かじゃ。皆さん、だいたい霊が好きじゃのう。まあ、心霊治療なんかも、まっとうなちゅうたらあれじゃけれども、光の天使の系統もあるけれども、まあ、天狗さんもけっこう入っておるのも確かじゃ。じゃから、同じ教団のなかでも、光の天使と天狗さんと両方やっておるのがいる。そういう超能力だけが好きでやっておるのも多いし、また、人を救いたい気持ちがあるのも多いしのう。


12.光の天使、仙人、天狗、地獄霊と入れ替わるので用心、要心


心霊治療の系統を見ると、そうじゃのう、まあ、天狗、仙人、光の天使が入り乱れておるちゅうことじゃのう。どこもここも、入り乱れておるのう。まあ、いろいろと、あっちこっち、いっぱい入っとるわ。腕の見せどころなんじゃのう、心霊治療なんてのは。ああ、じゃが、光の天使なんか、最初いろいろ治療したりしてやっとるうちに、治療者なんか、だんだんいい気になってのう、わしの能力は天下一品じゃと、わしが治せん病人はおらんなんてやっとるうちに、だんだん光の天使が来んようになってしまい、次第に仙人さんが出て来てくれる。

まあ、仙人さんのうちはまだいいんじゃけれども、仙人さんが、天狗に変わってくると、これはちょっと狂ってくるんじゃ。仙人さんから天狗のほうへ変わってくると、今度はだいたいなあ、女遊びを始めてみたり、それから、株に手を出したり、博打(ばくち)やり始めるのは、これは、だいたい天狗さんがやり始めとるんじゃ。もともとは違うんじゃけれども、まあ、仙人は、そこまではいかんのじゃ。

天狗までいくと、だいたいそうじゃのう。天狗は、わりに色と欲とが強いんじゃ。色欲がのう。色欲もあれば、酒も大好きじゃ。だから、天狗さんが入って来ると、酒も好きになってくるぞー。今まで酒が飲めんかったのに、急に大酒飲みになってきて、いやあ、酒は健康にいい、霊力がますます増してくる、酒飲んだらますます治療がうまくいく、なんて、こんなのかおる。酒飲んだら治療がうまくいったり、タバコのんだら非常にうまくいったりのう、だいたいおるんじゃ。

麻薬(まやく)のんだり、で、ずいぶん能力を発揮できたというような人がおるんじゃー。だいたいこういうのは、天狗さんじゃ。こういうふうに、まあ、この三者も三つ巴(ども)でな、いろいろあるんじゃ。それで、だんだん入れ替ってくることが多い。そして、天狗さんがやっているうちに、だんだん、天狗さんが飽きてのう、今度は下のほうの天狗さんが入ってくる場合がある。魔界の天狗さんが、だんだん入ってくるようになってきてのう。だから、最初やっておる人が、そういう治療家が、心がそう悪くないうちは、だいたいそういうところにおるんじゃが、真っ黒けになってくるとのう、だんだん、下のほうへ行くんじゃ。それじゃから、天狗さんから、次に、地獄天狗のほうへ回っていき、地獄天狗からもっと大きいのに変わっていくのがわりに多いのう。

天狗さんも、よう天国におるもんじゃと思うけれども、まあ、これは、神様が創ったからしようがないんじゃ。恐竜とか、蛇とか、何であんなの創ったかと思うじゃろうが、まああれも、景色のために創ったんじゃ。天狗なんちゅうのもいらんじゃろうと思うけれども、これも一種の精霊(せいれい)でな、精霊というか、自然霊なんじゃ。そういうのもいると思って創ったんじゃ。だからまあ、いわゆる山の神とか、よくあるなあ、海の神、山の神、水の神とかあるけれども、まあ、天狗さん系統が多いのは確かじゃ。