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目次


 2.日本と神理

 3.自力と他力

 4.内在する神



 7.天使の役割





1.キリスト教と仏教(1986年5月14日の霊訓)


さて、何日もお休みいたしました。今日は、先日予告しておきましたように、「キリスト教と仏教」という題でお話ししたいと思います。

あなたもご心配のとおり、はたして小桜にこんな難しい話ができますやら心配ですが、少なくともこの書物は〈神霊世界入門〉的な書物ですので、内容的にやさしいものはやさしいものなりに、読者に訴えかけるものもあると思います。

さて、あたな方は、キリスト教や仏教が同根であることも、当然のこととして信じておられます。けれども一般の方々の考えは、必ずしもそうではありません。一般の人びとは、キリスト教は神様を拝むもの、仏教は仏様を拝むもの、といった具合に違っているふうに考えています。ですからまず、キリスト教と仏教という代表的な二つの世界的宗教を引き合いに出して話す必要があると思います。

まず、神様と仏様が違うものかどうかから話したいと思います。キリスト教では、イエス様は神様のことを、「天の父」とか「わが父」といっておられるようです。これはニつのことを意味していると思います。

その一つは、霊天上界には、イエス様が尊敬するような、一段と高い霊がおられることです。そして、いま一つは、そのイエス様よりも一段と霊格の高い霊でさえも、人格霊としての性質を持っておられるということです。

おそらくは、宇宙の根源の生命を神とするならば、その神が人間的な知覚理解能力を有しているにせよ、大宇宙の創造の神が、イエス・キリストのような、一個の人間の肉体に宿るわけではないことは、ある意味ではあたりまえだと思うのです。ですから宇宙の本源の神というような、人間の認識を超越したような、大エネルギー体はさておき、普通の人間でさえ、すぐれた人とそうでない人との差があるのですから、まして霊の世界では、心の世界が純粋に反映されますから、偉大な霊とそうでない霊との区別、境涯の差は歴然としたものであると思われるのです。ですから、一般霊からするなら、イエス・キリストのごとき人は、まさに神が肉身をまとって出現したもののようでもあろうし、イエスみずからが父と仰ぐような霊人は、ほとんど神そのものといってよいほどの高級霊であります。

同じようなことは仏教でもいえると思うのです。仏教というのが何を指すのか釈然とはしませんが、そもそもの意味は、ブッタ、悟った方という意味であったと思うのです。ですから、悟った方という意味での仏様は、お釈迦様その人といってもよいし、他の方をいってもよいですが、少なくとも、大宇宙の根源の神様にはほど遠いといわざるをえません。

やはり仏様というのも、人並みはずれた高級霊ということです。

ですからキリスト教は神様を信仰する、仏教は仏様を信仰するといっても、もともと異ったものを信仰しているわけではなく、究極的には、大宇宙本源の神を信仰しているにしても、直接の信仰の対象となっているのは、神に近き高級霊、高度な発達を遂げた人格霊ということです。

これでいちばん根本的な話は、し終えたと思います。第二点目として、キリスト教と仏教の思想的違いを話しておこうと思います。

キリスト教の中心思想は、いうまでもなく愛の思想であり、「心を尽くして汝の主なる神を愛せよ」、「汝自身を愛するがごとく、汝の隣人を愛せよ」に代表される愛の思想、また、許しの思想があったのだと思います。

他方釈迦の仏教は、八正道を中心とした自己完成の道を説き、また、慈悲というものの大切さを説きました。

この違いというものを考えてみると、結局教えを受ける側の人間の事情がかなり影響しているように思います。

イエスの愛の思想は、すでに形式に堕(だ)していたモーゼの律法の根本的な立て直しのために、万人にわかる本質的な愛ということを力強く訴えかける必要があったのだと思います。つまり、イエスは形式に対する実質の大切さを人びとに教えたのではないでしょうか。また、人びとも、それほど身分の高くない方が中心であったため、理性や知性に訴えかけるよりも、主として悟性と感性に訴えかけたものだと思うのです。

これに反して、釈迦の弟子たち、釈迦教団の人びとは、当時のインテリ層に近かったといえます。釈迦の当時はいろいろな宗教が百花繚乱(ひゃっかりょうらん)で、人びとは我を先にと争って解脱(げだつ)しよう、悟ろうとしていたのです。ちょうど、第三次宗教ブームともいわれている現代の日本の状態にも似ています。ですから当時の修行者たちを対象としていたため、釈迦の教えはどうしても、個人の努力を重視し、理性的・知性的な面に重きをおいたのです。

ですから、キリスト教、仏教の思想的な違いも、ひとつには、教団を構成する人びとの違いが問題とされましょう。もちろん、決して釈迦が、人を愛することの重要さを無視したわけではないのですが、当時の仏弟子たちは宗数的な知性が高かったため、単に隣人を愛しなさいということぐらいでは通用しなかったのです。

ここまで話を進めてくれば、現代はどのような宗教が説かれるべきなのか、おわかりになってきたことと思います。やはり、現代は、知性と理性に訴えかけて神の道というものが人びとに説かれねばならないということなのです。

では今日はこのへんで。


2.日本と神理(1986年5月20日の霊訓)


さて、今日私は、目先を変えて、「日本と神理」という題でお話させていただきたいと思います。かなり小桜の限界を越えた内容でございますので、もし、疑問に思われることがあれば、何なりとご質問くださいませ。

ところで、すでにお気づきになっておられるように、今回の正法神理の伝道ということに関しては、この日本の地が、第一番の柱として選ばれました。正法神理の流布は、時代を変え、所を変えて種がまかれて来たわけですが、とうとう、私たちの愛するこの日本が世界の宗教の中心となるべきときが来たのです。

日本の人びとは、やがて誇りに思うようになってきます。この国に、救世の偉業をなす人が生まれたということを。ああ、やっとこの日本の空に、待ちに待った救世の星が煌(きら)めき始めたのです。この日が来るのを、日本の歴史を造ってこられた高級霊、神々はいかほど久しく待ち望んできたことでしょう。ああ、やっと日本がその聖なる地として選ばれたのです。

思えば古事記、日本書紀が編まれてより、あなた方の霊言集が世に出されるまで千数百年、この日々が、いかに久しかったことでしょう。

単に宗教的な面での神理の流布だけではありません。日本の歴史の、時代時代を創るために血を流した幾多の英雄たちの努力も、今後日本が世界の盟主となってゆくことによって報いられるのです。

世界の盟主日本――この言葉に、あなたはいったい何を思い浮かべられることでしょう。

これから約百年の間、日本には、かつて地上にはなかったような、黄金の時代が訪れます。

科学文明はもちろん世界一の発展をみ、日本から宇宙へと旅立つ人びともたくさん出てきます。が、一方、国際政治、経済でも、日本はまさしく世界のよきリーダーとなります。各国の政界、経済界の重鎮(じゅうちん)が、毎日のように日本を訪れ、東京は「外交の都」と呼ばれるようになります。

他方、宗教のほうも、日本を核とした新たな明晰かつ合理的な教えが、ヨーロッパに、北米に、そして東南アジア、中国にと広がってゆきます。産業界でもトップの国が、宗教でもトップの国へと変貌してゆきます。こうして二十一世紀には、日本は「神と太陽の国」と呼ばれるようになりますでしょう。そしてあなたが説かれた教えが、「太陽の法」として、諸外国に知られてゆきます。それはまさしく、日本の国の象徴が太陽であるとともに、あなたの説かれる法が、太陽のごとく人びとに注ぎかけるときでもあるからです。

ときにこれからの十年間は、第一次の変革の波が訪れるときであり、これは、主として、一大宗教改革の様相を呈(てい)することとなりましょう。第二次の変革の波は、今後十年を経たころ、ひじょうに明確な形で現われてくるでしょう。そしてそれは、日本の政財界をも立て直す一大変革となりましょう。第三次の波は、今後二十年を過ぎたころに明瞭になってきましょう。日本が盟主として世界に号令をかけるべき時が来るということです。

よいですか。どのような大きな波も、最初は小さな波紋でしかないのです。今あなたのやっている仕事は、広大な太平洋に、一粒の雫(しずく)をたらすように見えるかもしれませんが、やがては逆巻く怒濤(どとう)として世界各国の湾岸に押し寄せるのです。どうかその日のことを忘れずにご精進ください。


3.自力と他力(1986年7月12日の霊訓)


しばらくぶりでまた、この霊界通信を再開させていただけることを幸せに思います。

さて今日は、「自力と他力」ということについてお話させていただきます。

あなた方が、こうして多次元世界の霊たちと語るにあたって、いちばん困惑するのは、いわゆる、「自力と他力」の問題であろうと思います。自力論者はあくまでも、みずからの苦境を自力で切り拓いてゆきなさいといわれるし、他方、他力論者は、すべてを神の御心に委(ゆだ)ねなさいといわれます。単純な人間なら、いったいどちらを信じたらよいのかがわからなくなってしまいます。また、あなたにしても自力と他力の間(はざま)で随分と心揺れていることと思います。あなたの思想としていったいどうのように考えるかということです。

同じことは「予言」についてもいえます。

あなた方が高級霊の方々と話す過程において、さまざまな予言がなされることでしょう。しかしこの予言をすでに決定したもの、不変のものと考えてゆくならば、自力論者はまったく立つ瀬がなくなってしまいます。

そこでこれは小桜の試案ではありますが、次のように考えてみてはいかがでしょうか。

まず第一に、自力と他力の問題を悟りの問題と、行動の問題に分けて考えてみる必要があります。

悟りということに関しては、八割が自力、残り二割が他力です。まずたいていの人間はみずから努力して悟ろうとする心、菩提心(ぼだいしん)を起こさなければ、高級霊たちの協力を受けることはまずありません。この例外はほんのわずかで、たとえば、イエス様のお弟子を迫害していたのに、ある日突然に、イエス様の天上からの声を聞いて翻然(ほんぜん)、悟りを開いたパウロなどがその例外ですが、たいていの人間は、みずから努力して修行しようとする心、すなわち、菩提心を起こさねば、悟りへの道はまず開けてこないのです。まず悟ろうとする心、次に心の修行の実践があります。ある人は禅をやり、ある人は神想観をやり、ある人は内観をやり、ある人は瞑想をやりということで、その方法なり、名称なりは異なりますが、心を高級神霊と同通させようとする実践行為が必要です。この意味でここの段階でも自力が必要です。

他力がかかわってくるのは、この次の段階です。すなわち、本人の内観が深まり、また反省が進んで、やがて壁にぶつかることになるのです。この悟りの前に立ちはだかる壁を打ち破ることが、高級神霊に課せられた役割です。言葉を換えていうならば、神界下段階、中段階ぐらいまでの悟りなら、ある程度自力による観法(かんぽう)で悟りうるということです。しかし、神界上段階、いわゆる光の天使の候補生になってきますと、守護・指導霊たちの特別の指導を受けないと、諸天善神の境地には到達しえないのです。

この意味で私は、「悟り」の問題に限っていうならば、菩提心―観法―高級霊の啓示の段階になっており、やはり八割が自力、二割が他力だと思います。

では次に「行動」の問題について考えてみましょう。

人間が自力と他力の間(はざま)で揺れる場合には、ある行動をとるかどうか、言葉を換えれば、一つの判断なり決断なりを求められている場合だと思います。それがある場合には個人の人生設計であるし、ある場合には企業の経営であろうし、ある場合には伝道の方法でもありましょう。このときに考えるに、あくまでも自力でやっていくなら、あまり信仰の領域の問題にはならないと思います。

ではなぜ、自力でやるにしても「高度な判断」ができるのでしょうか。結局のところ、決断なり判断なりというのは、インスピレーションの問題だと思うのです。インスピレーションという言葉がわかりにくければ、「ふと心に思いつくこと」といってもよろしい。なぜ、ふと重要な結論を考えつくのでしょうか。それはやはり、八割方はその人が現在までに培(つちか)ってきた教養・人格・人生観・交友関係によって決定されるのです。いかに高級霊がインスピレーションを与えようとしても、その人の培(つちか)ってきた人生観が低次元のものであるならば、そのインスピレーションを受け入れることは不可能なのです。

ですからやはり人間は、悟りを得るときばかりではなく、一つの重大決断として行動をするときにも、やはり八割の自力が重視されるのです。そうして初めて、残り二割の他力が生きてくるのです。力となるのです。

これは決して他人事ではなく、あなたにとっても同じことです。あなたに八割自力の気概(きがい)があってこそ、高級霊たちの、残り二割の指導が生きてくるのです。あくまでも悟りを求め続け、みずからの人格を高め続けてください。


4.内在する神(1986年7月13日の霊訓)


本日は、「内在する神」ということでお話ししたいと思います。

あなたがたの書物の読者でも、神棚の祭り方がどうだとか、仏壇への配慮のしかたが重要なのではないかとか、神や仏の礼拝のしかたに迷っている人の数は尽きないことだと思います。

しかし、こうした行為の裏には、何かしらの偶像崇拝(ぐうぞうすうはい)の匂いがつきまとっています。要するに、神仏はどこか遠くかなたにいらっしゃるもので、それを何らかの形を通して崇拝するという気持ちです。

しかし、考えてもみてください。人間は、神様が「是(よ)し」と思われて創られた神の分御霊(わけみたま)なのです。つまり二人ひとりの人間の心の奥、魂の聖なる秘部には、神の生命が鼓動しているのです。そうであるならば、ほんとうの信仰とは、どこか遠くかなたにいる神仏を尊ぶことではなく、みずから自身のなかにある神なる心、神聖な自我、神仏の心そのものである大我を見つけ出し、これを尊ぶことではないでしょうか。

「内観(ないかん)」という修行方法があります。これは内なる自我を見つめ、真我と偽我とを峻別してゆく方法です。そして偽我を否定し去り、ほんとうの自己の真我を見出したときに、悟るという考え方です。

また、「止観瞑想(しかんめいそう)」という修法があります。止観とは、決して心を止(と)めることではありません。心を静めるという意味です。つまり止観瞑想とは、心を静めることによって、みずからの内に潜む、澄み切った神理の湖を思い出す方法といってもよろしい。あるいは、真我を見出すために、探し出すために、幾重もの偽我の堆積層(たいせきそう)を据り下げていって、ついに、本物の鉱脈を探りあてるという方法でもあります。

結局のところ、「内観」にしても、「止観瞑想」にしても、みずからの心のなかにある、真我、神なる我を探りあて、それと一体になろうとする方法論にほかなりません。

ここで、あなたは、昨日お話しした自力と他力の問題を想起されることと思います。

他力とは、どこかはるかかなたに居ます神なる実体に祈りの橋をかけて、一体となろうとする姿であり、自力とは、みずからの内なる神を発見して、それと一体となろうとする試みにほかなりません。結局、自力といい他力といい、その思考の志向性が若干異なるものの、「ほんとうの神」を探究し、これと一体となろうとする試みなのです。

ただ私は、ここにまったく異なった人間観が派生する恐れを感じます。つまり、他力を主とする信仰は、どうしても、人間を煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫とみて、あるいは、極悪罪重(ごくあくざいじゅう)の悪人とみて、外なる光によって救われようとしているのではないでしょうか。

これに対して、自力を中心とする信仰は、やはり自分の中に偽りの我を発見して、これを取り除き、真我を見出すのですから、結局、根本的に人間を「是(よ)し」と観ている、あるいは、「人間神の子」を前提としているといえます。

やはり私としては、外なるいろいろな神を信仰することも大切ではあるが、みずからの内なる神を見出すことこそが、だれにも課された、悟りの方法ではないかと思います。

あなたにおかれましても、今後、さまざまな悟りの方法論を展開されるのでしょうが、どうかこの「内なる神」という考え方、これを忘れないでほしいのです。人間が一人ひとり内なる神を秘めた存在ならば、決してほんとうの悪人とか、ほんとうの罪人とかはありえないのです。そして、「内なる神」に目覚めることが、究極において、ほんとうの意味において、人間を生かすことになるのではないでしょうか。


5.キリストの使命(1986年7月14日の霊訓)


まもなくこの霊界通信を始めて一年になります。ほんとうに私たちの勉強も遅々として進まず、いったいいつになったらこの本が出版されるのやら、小桜も本当に不安になってきました。何とかこの七月いっぱいで、一冊の書物になるぐらいの通信文を送りたいと思いますので、あなたもどうか精一杯努力してください。

さて今日は、多少目先を変えて、「キリストの使命」ということに関してお話いたします。

あなたから見たら、神道系の人間と思われる、八百万(やおよろず)の神々(かみがみ)の一人でもある私から「キリストの使命」というテーマを出されたことは、不思議な思いがされることと思います。

けれどもそれは決して不思議でも何でもありません。今あなた方がやろうとしている事業を思い返してみればよいと思います。あなたがたの仕事は、過去のすべての宗教を一堂に会(かい)して、さらにそれを乗り越えてゆくという内容を持つものです。また、それだからこそ、イエス・キリストという人が、指導霊を務めているのではないのでしょうか。

さて、それでは、過日、イエス様のご講演が神界(六次元)上段階で行なわれたときの内容をかいつまんでご報告いたします。

私たち六次元の人間に対しては、ふつう七次元菩薩界の人が出てきて常時指導してくださっているのですが、月に一回ぐらいは、八次元如来界の方が来てご講演くださり、さらに年に一回ぐらいは九次元太陽界の方々のうちのお一人がご降臨され、私ども光の天使の一年生に対してご訓示をくださるのです。

そう、あなた方の時間でいうと、ちょうど七月七日にあたります日、イエス・キリスト様がご降臨になり、約一時間ほどお話をされるというので、小桜たちは、そのご講演の演壇を造ったり、世話役の方を決めたり、聴衆を集めたりでたいへんでした。その日のイエス様のご講演を一声でも聞こうと集まった光の天使の数は、およそ一万人にも達したでしょうか。如来界からも、おつきそい役としてエリヤ様、ミカエル様、ラファエル様、ガブリエル様などキリスト教系の大天使が、続々私たちの世界に舞い降りてこられる姿は、さながら夢物語のようでございました。みなさま、天使の象徴であるまっ白の羽根をピンと伸ばされ、それはそれは神のご光栄をまさしく体現(たいげん)しておられる方々でした。

七月七日の午後七時に始まったイエス様のお話は次のような内容でありました。

「いよいよ戦いの日は来た。みなの者、三次元に神の国を今回こそ打ち建てようではないか。この機をのがしては、二度とこのようなチャンスは巡ってこない。しかも、今地上界では、歴史上かつてなかった未曾有(みぞう)の大危機が迫っている。

しかしこの大危機を決してサタンの襲来と考えてはならない。新しき神の国が地上に打ち建てられることを讃(たた)えるファンファーレなのだ。決して悪の勢力に怯(おび)えてはならない。怯えは彼らが恰好の餌食(えじき)とするところなのだ。地上に降りた光の天使たちの力を分散させることなく、一致団結させ、天と地に黄金の架橋をつくるためにも、私たちは祈ろう。光の天使たちの総力をあげて。

イエスのキリスト(救世主)としての使命は、ナザレで十字架にかけられたときに終わったのではない。むしろ、そのときよりこのかた、キリストとしての使命は始まったのである。今、地上に降りた光の軍団をキリスト(救世主)の力の再来とするためにも、私たちは、悪の力を徹底的に粉砕し、光の輪を地上に投げ続けよう。かつて光の大指導霊が地上に降りたときにも、形の上では光の軍勢が闇の軍勢に破れたかに見えたときもある。

しかし、今回は決して、形の上でも光の軍勢は闇の軍勢に負けてはならない。私イエスみずからが陣頭指導をとって、地上の者どもを指導しているのだ。幾千幾万の光の天使たちよ、あなた方も力の限りを尽くしなさい。今回は悪の勢力をこの地上から一掃するための、徹底的な総力戦なのだ。」

だいたい、イエス様のお話は以上のようなものでしたが、そのお言葉は、まさに神の生命力に溢(あふ)れ、私たち、幾千幾万の天使たちも、感激のあまり涙を流しておりました。

どうか地上のみなさま方も、決して孤立無援の想いにとらわれることなく、天上界でもこれだけ力の結集がなされていることをお忘れなく。小桜の力は微々たるものですが、天上界の人びとの想(おも)いの一端なりともお伝えすることができれば、これにすぎる喜びはございません。

ではまた。


6.地獄最期の日(1986年7月16日の霊訓)


さて、本日は、「地獄最期の日」という演題で、少々お話ししようと思います。

ご存じのように、あらゆる世界中の宗教には、一致する共通項があります。その共通項のなかで、生きている人が地獄に堕ちないようにする、あるいは、地獄に堕ちた人びとがいかにしたら救われるのか、といった方法論があると思います。そこで小桜は、第一の問題として、生きている人はどうすれば地獄に堕ちなくてすむのか。第二の問題として、どうすれば現在地獄にいる人びとを救い出せるのか、を考えてみたいと思います。

まず、第一の問題から取りかかりましょう。生きている人間はどうしたら地獄に堕ちずにすむか。簡単にいえば、もちろん神の心を心として生きれば、絶対に地獄など行きません。しかし、生身の人間にとって、神様のような心を持って生きるのは難しいですから、少し条件を緩めて、高級霊の生き方を手本として生きるべきだと申しておきましょう。つまり手近な例が、偉人の生涯を手本として生きているということです。

偉人の生涯の特徴を、私はできるだけあげてみたいと思います。

まず一番目は、自分に厳しいということです。この自分に厳しいということは、一つの面として、努力、精進、ということであるし、他の面をとれば、謙虚さということであろうと思います。

二番目は、他人への思いやり、優しさであろうと思います。これが他の人への愛であり、慈悲であり、親切であり、配慮であります。この他人への思いやりの欠けた人は、どれだけ大きな事業を成し遂げたとしても、所詮、自分だけがかわいい、自己保存欲の強い人間であり、偉人の範疇(はんちゅう)には入りません。ですからこの二番目の要点を別の言葉でいうと、無私ということだと思います。

第三番目を申し上げます。それは清らかさです。その人の言葉に触れると、あるいはその人の行動に接すると、何かしらハッとさせられるような清らかさです。言葉を換えれば人びとの心の琴線に触れるような何か、人の心のなかに潜んだ聖なるものを共鳴させる何かです。物質に対する無欲さといってもいいし、執着心が少なく、行雲流水(こううんりゅうすい)のごとき生き方をしているといってもよいでしょう。聖なる内流を持っている人、ということです。

第四番目は、心の広さです。偉人に共通しているのは心の広さです。あらゆるものを包容するがごとき、青空のごとき、広さ、大きさです。どんなに精進、努力をしたとしても、その結果、他人を寄せつけないような心の狭さを身につけたような人は、決して偉人とはいえません。

第五番目は、内省(ないせい)ということです。偉人は常づねみずからの心を内省し、さらなる発展を心に期しています。この内省のなかには、いわゆる反省や瞑想も含みますし、広義の内省には、神と心を一体にするという意味での、祈りも含まれています。しかし、この場合の祈りは、多勢で集団で祈るのではなく、人知れず、静かに祈るということです。つまり、偉人の条件の五番目は、人知れず神と相対座する時間を意図的に持っている人という意味です。

私は以上で、偉人の条件として(1)自分に厳しいこと (2)他人への優しさ (3)清らかさ (4)心の広さ (5)内省する習慣、の五つをあげました。これがすべてではありませんが、神に近き人の共通した性質だと思います。少なくとも地上に生きている人間は、この五つの徳目を身につけるべく努力して生きれば、決して地獄などへ堕(お)ちることはありません。

さて、第二の問題として、現在地獄に堕ちている人びとをどうしたら救えるかという問題に入ります。

一口でいうならば、この地上界が神の国ユートピアになれば、地獄は自然に消滅してしまいます。その理由は、ひとつには、この地上からあの世へと旅立つ人びとが地獄に行くことがなくなるため、地獄の人口は決して供給されないということ、つまり、減りはしても増えないということです。いまひとつの理由は、地獄の住人たちのエネルギー源は、この地上界の悪想念であるため、この地上界をユートピアにすることによって、悪のエネルギーの供給をやめてしまえば、彼らは活動を停止してしまうからです。

つまり、この地上を神の光に満ちた楽園とすることによって、地獄はなくなってゆくのです。ですから、仏壇や神棚を祭って拝むことよりも、この地上で生きている残された家族が、楽しく豊かで調和された生活を送っておれば、自然と地獄霊たちも心が調和され、天上界へと旅立ってゆくのです。この方法がいちばん確実で間違いのない方法です。

第二の方法は、祈りの方法です。天上界の高級霊たちも、日々、地獄霊救済のために努力しておりますが、地上からの祈りの力を送ってやることによって、彼らも勇気づけられ、パワーが増してゆくのです。生きている人が神理を悟れば悟るほど、この祈りの力も強くなり、悪霊たちに神理を知らしめる力となるのです。

以上で、第一の問題と第二の問題について語りましたが、こういうことが、あなた方の努力によって良い方向へと進めば、地獄最後の日はもうそこまできています。


7.天使の役割(1986年7月18日の霊訓)


さて、前回は地獄をなくす方法論について語りました。そこで今日は、「天使の役割」ということについてお話ししましょう。あなた方の霊言集のなかで、天台智覬(ちぎ)さんが、地獄を病院に譬(たと)え、地獄霊は患者、天使を医者や看護婦に見立てていました。

だいたいこの比喩は的を射ています。ただ惜しむらくは、天使たちの積極的役割に触れていない点です。

確かに天使達は、地獄霊救済のための医師や看護婦であるかもしれませんが、それは病人が出てきた場合の受身的役割だと思うのです。けれども実際はそのような受身的役割をしている天使の数は少数で、むしろ大多数の天使たちは、積極的に、神の国実現のために努力しているといって間違いないと思います。

その努力の現われの一つが、地上に次々と降誕している光の天使たちの存在であり、他の一つが、各次元において光の天使が駐留して、多くの霊たちを導いている光景でありましょう。

先日のイエス様の言葉にあったとおり、キリストの使命は肉体イエスが十字架にかかったときに終わったのではなく、さらにそのときから、より一層強力なキリストの使命が発揮され始めたのだということです。

いかなる光の大指導霊がこの地上に降誕しようとも、やはり肉体を持てば盲目に近くなり、その人の本来の使命の一〇パーセントも発揮できないまま終わってしまうことがままあるのです。それゆえ、あの世に還って、自由自在の身になって、地上にあったときの失敗を埋めるべく、大車輪の活躍をされる人も多いのです。

昔からよく話されることで、時代が人を創るのか、人が時代を創るのか、といった問題があるはずです。結論から先に言うと、やはり人が時代を創っているようです。というのも、時代の節目、節目には、天上界の計画によって、さまざまな光の天使が地上に生まれているからです。そうした人たちが束(たば)になって出て、新しい時代というものができるのです。それは古代ギリシャに哲学が栄えた時もそうですし、古代中国に孔子、孟子などが生まれて、百家争鳴(ひゃっかそうめい)といわれた時もそう、また釈迦の時代も、イエスの時代もそうです。

時代時代の転換期には、偉大な光の天使たちが群れをなして出現して、時代の気運を創り出しているのです。そうしてそういった新しい時代の到来は、千年二千年に一回ですから、その間に正法の灯を絶やさず守り伝えるために、中継ぎの光の天使たちが、何百年かおきに出現しているのです。

現代という時代も、イエス出現以来のここ二千年間で最大の時代の転換期であり、後世において「霊的奇蹟と科学の時代」と称(よ)ばれるようになりましょう。現にあなた方の時代にも諸如来、諸菩薩が相競って地上に生まれているのですから、それがいったい、肉を持った身でだれであるかは、あなた方にはわかりかねるかもしれませんが、私たちから見ると、あの「南総里見八犬伝」の八犬士のように、天上から散らばって地上に降りた天使たちは、やがてあなた方のもとへと、間違いなく集(つど)ってくるのです。ここ数年のうちに、あなた方の集まりのなかに、間違いなく散りばめられた光の玉、天使たちが引き寄せられてくるでしょう。

あなた方も、今後一つの宗派を創るのではなく、相集って、一つの時代を創造していくのだという気持でもって神理伝道に励んでください。

では今日はこのへんで。


8.大黒天の役割(1986年7月19日の霊訓)


今日は、「大黒天の役割」ということでお話をしようと思います。

みなさま方はよく、正月などに、七福神の乗った宝船の絵をご覧になったことがおありでしょう。あれを単なる伝承とか昔話、作り話として一笑に付すのは簡単ですが、真実はそうではありません。福の神というのは現実にいるのです。あなた方地上世界を見渡しても、あちこちに繁栄している会社があり、衰退していく会社があり、また、どんどん豊かになってゆく人があり、どんどん貧乏になってゆく人もおります。それも、多少の貧富の差ぐらいなら偶然で片づけられるでしょうが、あまりにも目ざましい発展や成功を遂げる企業や人を見ると、そこに目に見えない力が働いているのではないかと想像されることと思います。

実際、実在界には、神から供給される無限の富をコントロールする役割をしている光の天使たちがいるのです。その人たちのことを福の神といいます。古くは、日本では大国主之命(おおくにぬしのみこと)という方がいらっしゃいました。

では、なぜ福の神の存在があるのでしょうか。それは、神の世界計画のなかで、「繁栄」ということも、一つの重要な鍵となっているからです。各時代の文化興隆の諸都市を考えてみると、いつの時代にも、経済的に目まぐるしい繁栄があったはずなのです。それは神理伝道のための、舞台装置、音響効果として、無限の富の供給がなされているからなのです。これが一般的な場合です。

もうひとつ特殊な場合があります。それは、光の大指導霊が地上に降誕した場合です。イエス様は、富と神とに共に仕えることはできないと言われたそうですが、それは、現実にイエス様の教えを聞かれた方々が貧しかったので、時の圧政者たちへの批判をこめて言われたことであって、実際に貧乏でなければ神に仕えることができないわけではありません。けれども、光の大指導霊たちは、神理伝道に熱心なあまり、どうしても世俗的な、現実的な経済生活への配慮がおろそかになってゆくのです。

このため、神は特別な役割を待った福の神を創りました。これがいわゆる「大黒天(だいこくてん)」といわれる人びとです。「大黒様」といわれる人は、特定の人ではなく、そうした使命を持った一群の人びとがいるということなのです。

日蓮様にしてもそうです。政治的、経済的に日蓮様を庇護した武士がおります。釈迦の時代にも、竹林精舎(ちくりんしょうじゃ)を寄進した人がおります。

いつの時代にも神理伝道の際には、光の指導霊たちが経済的なことにのみ腐心(ふしん)しなくてもよいように、大黒天が助けてくれるのです。

おそらくあなた方の時代にも、今後続々と神理伝道のための経済的協力者が出てくるでありましょう。ともすれば、法の研究、実践のみが尊いことのように思われがちですが、こうした方々の縁の下の力持ちとしての使命の重大さをも、あなたは十分に認めてあげる必要があると思うのです。

近くは日本に、光の指導霊として高橋信次という偉大な方が出られましたが、この方は、あまりにも自主独立の気性のはっきりした方で、ご自分の経済的自立は自分でまかなわねばならないという信条の方でありました。そのために、ご自分の経済的基盤を固めるのに時間がかかりすぎ、肝心の法を伝える時間がひじょうに少なくなってしまい、天上界からもたいへん惜(お)しまれています。みずからが悟るための環境として貧しい生活環境を選んでお生まれになったのですが、その反作用として、経済的自立に力を注ぎすぎたといえるかもしれません。

あなたにおかれましても、他人の協力に身を任せることを潔しとしていないあまり、ご自身が経済基盤確立に奔走されると、法の中身が薄くなり、後世に悔いを残すこととなってしまいます。

やはり第一番の目標は、この時代に、できる限り多くの人びとに神理を伝えることですから、その他のことは、大黒天たちの力を信頼して任せることです。できるだけ効率のよい人生を生きることをお祈り申し上げます。