※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。

目次








1.霊界での生活


小桜姫でございます。またこうして、わたくしが地上のみなさまにお話しできる機会を得ましたことを、とても、とてもうれしく思います。私の『神霊界入門』という本も、たいへん好評のうちに多くの方に読まれ、とても、とてもうれしく思います。

このたび新装版として、あたらしく『新・神霊界入門』が出されるということですので、この機会にわたくしも、一章を追加し、私の、その後の考え方、また、地上のみなさんへの、わたくしからのお願いごと、希望することなどをお話ししておきたいと思います。

私の、『神霊界入門』という本は、現代女性を幸福にするという内容をもっていたと思います。女性の側から、霊界の立場で地上の女性に生き方を指南した本というのは、そう多くは出ていないと思いますし、あるいは本格的に出たのは、これが最初であるかもしれません。

地上を去って、もう数百年の歳月がたちました。わたくしも、小桜姫という名前で呼ばれているのが気恥ずかしくなるような、ご時世となってまいりました。地上の世界では飛行機は飛び、新幹線は走り、船も大きなものが走り、水中にも潜り、宇宙空間にも人が飛び出す時代となったようです。

そうした時代に、いつまでも霊界の話であるとか、室町時代の、そうした女性の霊が語りかけるというような話は、だれがきいてもまゆつばもののように感じられるのではないかと思います。

けれども、わたくし自身は、時代は変われども、人間の心の本質というものはいつも変わらない、そのように思います。人間の心は、地上にどのような国が栄え、どのような政治が栄え、どのような人びとが力を持っていても、いつも同じのような気がします。それはちょうど、風景画の背景がちがっているだけで、登場人物はあまり変わっていないというふうな感じをうけるのです。

さて、私は今あらたに、こうした機会を得て、地上のみなさんにどうしてもお話しておきたいことがいくつかあります。そのいくつかを順番にお話ししてゆきたいと思います。

まず第一に、わたくしがみなさまにお話ししたいこと、それは、みなさまはまだ霊界というものが、どういうふうな感じであるのかということが、実感としてつかまれていないと思うのです。そこで、霊界の実感について、また、もう一度お話ししてみたいと思うのです。

みなさまは、霊になればもはや肉体がないということはご存じだと思います。しかし肉体もなく、食事も食べないで、いったいどうのようなかたちで生活しているのかしら、そう不思議に思う方も、ずいぶんいらっしゃいます。

また、女性の大部分は、地上にいたときに、奥様として三度の食事を作り、子供たちを育てていたのに、霊界に還れば子育てもなく、また結婚もなく、そして食事も作らなくてよいというのならば、いったい毎日はどうなのだろうか。さぞかし退屈な毎日なのではないだろうか、そう感じておられるのではないかと思います。

そこで私は、こうした疑問に答えるためにも、こちらの生活をもうすこし詳しく話しておきたいと思います。この私たちの世界はどうやら、あなた方の言葉では、六次元の神界というふうに呼ばれているそうですが、この世界はどういうふうに見えるかというと、わたくし自身は、やはり女性としての姿をとっております。まだ私たちのこの世界では、お互いを認識するのに、人間としての意識で認識しあうほうが好都合であることが多いのです。外見を見ただけで、その人となりがわかるというのが、とても便利で都合がよいからなのです。

そこで、こちらの世界でどういうふうに生活しているかということですが、まず言っておきたいことは、私たちはもう地上の人間ではないわけですから、いわゆる必要生活時間といいましょうか、睡眠時間、あるいは食事の時間、こうしたものがないのです。では、どういうふうにするかというと、結局、人と話をするか、それとも独りで何かに打ちこむか、このどちらかが仕事であるといってよいでしょう。そうして、これ以外に特に関心事のある霊であるならば地上の生活を垣間見(かいまみ)たり、地上の人間を指導しに行ったり、そうした仕事をしている人もいます。

ですから最初、霊界に還ってきた人というのは、まず、こちらの生活に慣れることが第一番の学習です。こちらの生活が慣れてくるまでに、おそらく地上時間でいう数年はかかるものと思います。いろいろな感覚が違っているのですから。

たとえばみなさんは、地上では大地の上を歩いていないと落ち着かないし、重力がなければ、変な感じがするだろうと思います。ところが、こちらの世界では、重力というものはまったくありませんし、道路の上を歩くといっても、ちょうど、どういうふうに言ったらよいのでしょうか、まるで滑(すべ)るがごとくといいましょうか、ススススーッと体が動いていくというのが、その真相です。地上ではベルト・コンベヤーというものが発明されて、立ったままで体が動いてゆくそうですが、そうしたものでもなく、地上すれすれのところに足が浮かんでいて、そしてススススーッと動いてゆくということが、よくある歩き方なのです。

ですから、ある人と会っていても、フッとその人の後ろに行ってみたいと思うと、体がいきなり、その人の後ろにまわってくる、こういうことがよくあります。いっしょに道を歩いていても、そのいっしょに歩いていた霊人のお友達が、私と話をしていたことを忘れて、フッと、気がかりなことが出てきたとき、たとえば、友人とほかの約束をしていたことを思い出して、フッと心が変わったとき、突然私のそばにいた人がいなくなったりします。そしてほかの場所に現われるのです。そしてその予定の用事をすませると、また私のところにスッと現われてくる。こうしたことができます。

これは地上の方には、とうてい納得のいかない現われ方だと思います。霊的世界では、こうしたことは日常茶飯事のようにあります。ですから、地上の人にわかるように言うとすれば、宇宙遊泳といえば話が変ですが、いろいろなところに人が現われたり、また空中から突然出てきたりすることはよくあることなのです。

とくに私たちの世界より、上の世界に住んでいらっしゃるみなさまがたは、突然に現われてくることがあります。その、突然の現われ方というのは、ある象徴的な姿をとって現われ、そのつぎに自分のほんとうの姿を現わすということがよくあります。

たとえば天使が現われてくるときでも、まず、私たちをあまり驚かさないようなかたちで、現われてくることが多くあります。たとえば、一例をあげてみれば、金色の雲が遠くからたなびいてきます。そして見つめていると、どんどん、どんどんと近づいてきて、その雲が目の前にとまります。そしてしばらく見ていると、その雲の上に人の姿が見えてくる。その人が古代の神様の姿をしていたりすることもあります。こういうふうに現われてくることもあります。

あるいは別な方の現われ方は、たとえば鳥の姿をとって現われてくることもあります。みなさまも『古事記』とか、『日本書紀』などで、鳥の姿をした神様のお話を読まれたことがあると思いますが、白い鳥の姿をとって空のかなたから飛んできて、そして近くの木のこずえにとまります。不思議だなあーと思って見上げていると、やがてその鳥は、もう一度羽ばたきをしたかと思うと、私の前にトンと降りてきて、そして、本来の姿を現わしたりすることがあります。

このように高次元の方々は、この私たちの世界に現われるときに、ほんとうの姿を現わして他の人たちを驚かしてはいけないので、いろいろな姿で現われてくることがよくあるのです。そのような、不思議な不思議な世界だといってよいでしょう。


2.女性霊の進化について


小桜姫のいる世界は、いろいろな方が、いろいろな職業を持っておられますが、なんらかの学問的な仕事をやっている方がいちばん多いようです。学者のような方とか、文章を書かれる方、また議論熱心な方、神理を学んでおられる方、こういう方が、ひじょうに多くいます。

私たちの世界でも、もちろん勉強ということもあります。気の合った人たちと集まっていろいろなことを議論してみたり、いろいろなことを勉強したりすることもあります。また、自宅を持っておりますから、自宅の二階に引きこもって本を読んだりすることもあります。

このように、私たちは勉強ということをするのですが、その勉強の進度がわからないために、ときどき指導霊の方に来ていただいて、チェックといいますか、勉強の進度を見ていただくことになります。一か月勉強して、そして先生役の方がみえて、そして、「あなたは、こういうところはひじょうに進歩したね、よくなったね」と言ってくださると、とてもうれしく思います。

たとえば、今私たちが勉強しているのは何であるか、みなさんはご存じでしょうか。それはやはり私自身の関心事です。それが何かというと「女性の幸福とはいったい何なのか」ということです。今みなさんがよく学んでおられるように、女性の幸福として、この世とあの世、私たちの世界から見れば、あの世とこの世になりましょうが、この両者を貫くような幸福とは、いったい何だろうか。また、地上では今、女性の権利拡張ということがずいぶんいわれていますが、いったいどういった女性のあり方が、神の御心にかなうのだろうか。また、女性として、霊的に進化してゆくことに限界はあるのだろうか、それ以上は行けないのだろうか、それとも、無限の進化の可能性があるのだろうか、そうしたことを考えているわけです。

とくに、女性霊の進化という問題は、私にも頭の痛い問題です。天上界の女性霊のあり方を見てみると、たいへんりっぱな方は、もちろんずいぶんいらっしゃるわけなのですが、如来界あたりの大先生になると、女性霊というのは見あたらなくなってきます。どうして、そういうふうになるのか、小桜もずいぶん考えてみました。

こうして、私が考えてきた結果をお伝えするとすると、どうも女性というのは、長い間コツコツと努力して、そして進歩をめざすという性格に生まれついていないのではないか、そういうふうに思えることもあります。女性はどうしても、現在のままでいい、という気持ちが強いように思います。できればじっとしていたい、このままで幸せ、という気分を味わいたいという気持ちが、私にもあります。

こうしてみると、女性霊は、みんな老荘思想をやっているのかしら、そういうふうに思うところもあります。でも、そうした考えのほうが、ほんとうは近いのかもしれない、そう思います。女性はどうしても、努力努力ということを言われると、肩が凝ってしまうのです。これは神様の予定された魂の傾向なのでしょうか。どうなのでしょうか。私にもよくわかりません。

でも、こうしたなかでも、私などはどちらかといえば、一生懸命努力をしているほうの一人です。なぜ努力をするかというと、努力する方向のなかに、りっぱな先生方が、いっぱいいらっしゃるからなのです。私たちが一生懸命努力し、勉強していると、それなりのりっぱな先生方が来て、教えてくださることになります。それゆえに私たちも、そうした方向をどうしても取ってゆくことになります。

しかし、私のいる神界という世界は別にして、一段下の世界、五次元の霊界という世界などを見ても、女性霊たちはやはり、その世界でけっこう満足して生きている人が多いのを不思議に思います。この霊界の世界などでは、まだ地上的な職業に似たところが一部あって、そうした延長もやっているようです。

しかし、夫婦で住んでいるということは、ごくごくまれです。もちろん、四次元の世界のなかでは、まだ夫婦で住んでいるというような、あるいは家族で住んでいるという、そういう形式も見あたりますが、だんだんバラバラとなってきます。

この魂の傾向というものをじっくりと眺めてみると、つぎのような二つのことが言えるのではないかと私は思います。

第一に言えることは、魂はやはり陰性といいますか、内にこもるタイプと、陽性といいますか、外に出てゆくタイプがあるということです。そして、外に出てゆくタイプの方は、さまざまに経験を積んで魂が大きくなられることが多いのですが、逆に失敗することも多い。それとは逆に陰性といいますか、内に向かってゆくタイプの人は、あまり失敗するということはないけれども、魂が大きくなってゆくのには時間がかかる。そういう傾向があるようです。

大きくいって、この二つの傾向があるわけですが、どうやら女性霊というのは、後者に属する人が、とてもとても多いように思います。でも、私自身も女性霊の末席をけがしている者として、どうか地上のみなさんにも、もっともっと霊的にもりっぱになっていただきたいと思いますし、神様のお心にかなうようになっていただきたい、そのように思います。


3.地上の女性に望むこと


ですから今、私が地上に生まれて、そして生きるとしたならば、考えることは二つです。第一は、やはり女性の本来の特徴といいますか、女性の強さというものをもっともっと認めてもらうようにがんばってみるということだと思います。女性ならではの力といいましょうか、特色といいましょうか、そうしたものの値打ちというものを、認めてもらえるように、がんばってみたいなと、そういうふうに思います。

それは、失われた日本精神かもしれません。女性のもつ美しさ、あでやかさ、優しさ、しおらしさ、献身、またつつましやかさ。こうしたものはほんとうは、男性の大胆さや勇気、そうした力強さに劣ることのない価値を持っているものですが、そうした値打ちを認めてくれる方が少なくなったために、ひじょうに残念な気持ちがしています。

できれば、地上にいるみなさまのなかから、どうか、女性特有の、そうしたすばらしさを、もっともっと多くの女性に教えてあげるような、そうした方が出て欲しいと思います。そうした方が出て、きっと女性というのは、こんなふうにすばらしく生きられるのだということを、教えていただきたいと思います。

それはたとえていえば、あのお茶とか、お花の精神のなかにあるもののようにも思えます。お茶というものがあります。和室のなかで作法にしたがって、そしてお茶を点(た)てて飲むわけですが、そのときに、何ともいえない緊張感と礼儀正しさ、そして全体の調和、美しさというものがありますが。、これは地上の言葉ではなかなか説明し、翻訳(ほんやく)することが難しいと思います。

こうしたもののなかにこそ、ほんとうは価値のあるものがあるのです。そうした美しさ、あり方としての美しさ、これがあるのです。どうしても地上のみなさんは、結果主義になるといいましょうか、活動して、その結果どうなったということに考えがいくようですが、そうではなくて、存在するあり方、どのような存在のしかたをするか、どのようなあり方をするか、どのように生きるか、どのように思って生きるか、どのようなふりをして生きるか、どのような立居振舞いをし、どのような日常生活を生きるか。そのなかにりっぱな生き方が、ほんとうはあるのだということを私は申したいのです。

もうひとつ地上の女性に私がお願いしたいと思うことは、つぎのようなことです。それは何かというと、男性というものを、もっともっと研究していただきたいのです。男性というものは、やはり、どうにでも扱える生きものだと私は思います。それは大きくなった大人子供のような存在です。女性の力がなければ、何もできないようなところがあります。そうして子供のように偉ぶってみたり、またふんぞりかえってみたり、いろいろなことをします。そして、誉(ほ)めてほしいというのが男性のほとんどの心境のように思います。私は、こうした男性の姿を見ると、ほんとうにほほえんでしまいます。

ですから、女性も男性と競おうなどと思わないで、お母さんになることです。大きなお母さん、人類のお母さんになることです。子供だけではなく、大人の男性をも子供のように慈(いつく)しみ、そして育て、励まし、りっぱにしてゆくということに生きがいを見出すことは可能だと思います。男性は今、真に女性の力を必要としているのだと私は思います。真に女性の力を必要として、そして、もっともっと伸びてゆきたいのだと思います。そう思いますから、どうか、男性をもっともっと伸ばしてゆくためにはどうしたらよいのか、こうしたことを考えていただきたいと思うのです。

これが女性についての、私の考え方ですが、さらに、私の現在の問題としているところ、気にかかっていること、そうしたことをお話ししておきたいと思います。


4.女性の優れた資質


私は女性一般について、つぎのようなことを言っておきたいと思うのです。神様がなぜ女性を創られたのか、それはひじょうに難しい問題だし、私のようなものには十分わかりませんが、そうした女性として生きるという運命がある以上、その運命にしたがって、運命をりっぱに乗りこなしてゆくことがだいじではないか、そういうふうに思います。女性は女性として、大輪の花を咲かせる、その方向にすばらしいものがあるのではないかと思えるのです。

もうひとつ、女性の特技と申しましょうか、男性に比べてたいへん優れていると思うところがあるのです。女性は男性と比べるならば体力はもちろん劣ります。知力も、やや劣るということは言えましょう。行動力も劣るということは言えましょう。でも、女性特有の強さがあります。

それは、内向的な方向に、心がつねに向いていることが多いということです。こうしてみると、女性自身の優れた資質として、反省とか祈りとかという方向に、自分の力を伸ばしてゆけるということがよくわかるのです。反省的生活をして日々心を清らかにする、そうした方向では、男性より女性のほうがはるかに優れていると私は思います。

また、神への祈りに関しても、女性は男性よりはるかに優れた面がある、そのように私は感じます。男性は、どうしても傲慢になりがちです。自分が自分が、ということになりがちですが、弱きものとして長く生きてきた女性は、どうしても自分を超えたるものに対する願いということを考えがちです。そして伝統的に祈りの世界のなかにおいては、男性よりも女性のほうが、はるかに優れた実績を残してきたのではないかと思います。

ですから、男性より体力・気力が見劣りするところは、祈りの力で、神仏の力によってすばらしい人生を生きてゆくことができるのではないか、そのように私は思います。

さて、この話も、またまとめをするべき時が来たと思います。女性だけではなく男性のみなさまにも、なんらかのことを、私なりに言っておかねばならないと思います。

私がいま、男性のみなさまに言っておきたいこと、それは男性のみなさまはあまりにも多く、焦(あせ)りのなかに生きておられるというふうに感じるのです。どうしても、他人との競争に疲れ、そして成果を焦り、人との争いを生み出してゆく、そういう生活をしておられるように思います。

そうした男性のみなさまに言っておきたいことは、女性の生き方のなかに、男性のみなさまに欠けているものがほんとうはあるのだということなのです。みなさまは女性を、ほんとうに見劣りするもののように考えがちかもしれませんが、ささやかなもののなかにも、感動することができる女性の力というものをご存じでしょうか。

男性であるあなたは、肩書きとか、出世とか、お金とか、大きなもの、人目を魅くもので自分を飾りたいと思いがちですが、女性のなかには、ごく小さなこと、ささやかなこと、つまらないことのなかに感動をする、そういうすばらしい心があります。

花が美しく咲いただけで喜ぶ、風が薫っただけで喜ぶ、太陽がさんさんと日の光を投げかけただけで喜ぶ。冬の日だまりのなかで生きることを喜ぶ。子供がニッコリと笑って喜ぶ。赤ん坊が、日に日におなかのなかで大きくなってゆくことを知って喜ぶ。こうした、ささやかなことのなかに喜びを見ている女性は、みなさんから見れば、一見取るに足らなく思えるかもしれませんが、ふと気がついてみると、自分が忘れてきた世界がそこにあることを知るにいたると思うのです。

男性のみなさまは、どうか大きなことばかりを追わず、小さなもののなかにも美しさがある、ささやかなもののなかにも喜びがある、そして取るに足らないもののなかに、真の幸福があるということを、お忘れにならないようにしていただきたいものだと思います。