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目次












 12.魂の懐古








(1986年5月3日の霊示)

1.美を司る神々の働き


――  ピカソ先生ですか。

ピカソ  ピカソです。

――  ご高名はもうかねがね伺(うかが)っているんですけれども、実は、私どもの仕事につきまして、多少ご理解していただけるようなところがございましょうか。ご説明申し上げましょうか。

ピカソ  やっておられることは、わかっています。

――  はい、それではそういうことで、私どもは新しい、要するに、二十一世紀に向けての日本を初めとして、新しい精神文化を築いていこうという気持で今、いろんな聖賢方のお話を受け賜って、そして、新時代の、新文明建設の序曲というものを、奏(かな)でる仕事にとりかかっているわけでございます。

そういう意味で、実は、今回は近年におきます偉大な芸術家であり、画家でもあられるピカソ先生に、特にこの芸術、美術の問題につきまして、今後の指針といいますか、あなたが探究せられた道を通して、美術、それに芸術というものが今後、どういう方向へ進んでいくべきであるか、ということについて、お説を受け賜ることができましたら、今日(こんにち)および将来の人類の上に大きな示唆(しさ)となるのではなかろうかと、このように考えるのでありますが、お話いただけましょうか。

ピカソ  私は、まだ、こちらの世界に来て、月日が浅いために、まだまだ十分には理解していないことも多いので、あなたのご質問に答えられるかはどうかはわかりませんが、ただ、私(わたくし)は、あなた方も私の仲間だと聞いております。あなた方のやっていることは、私とは違うかも知れないけれども、神の一つの光の現れだと存じております。

私にあなたは、美術、芸術について語れと申されましたが、なかなかそのような壮大な主題の下には語れるものではありません。

――  それでは、私の浅い知識でございますけども、先生を理解するためのことを、拙(つたな)い尋ねではございますけれども、お教え願いましょうか。

ピカソ  わかっております。

――  それでは、先生は、まあこれも万人が認めているところでございますけれども、天才であられて、とにかく、お亡くなりになったのが確か九十歳位であられたと思います。そして、その間、非常なご活躍をされて、世界の美術家はもとより、文化人なり、芸術家が右往左往する程、先生は、素晴らしい軌跡を残していかれたということであります、そこでお尋ね致したいことがあるのです。

先生の当初のお作はすべて、写実から入られたわけですが、それから一転二転三転とされまして、《青の時代》という時代を通られまして、それから《キュービズム》の世界に入られたわけです。そのキュービズムというのは、そのそもそもの出発点というのが、「アビィニョンの娘たち」というこういう主題で描かれた有名な絵でございますが、ここに現れたこの五人の女性の像、群像、ここにおいて、大いなる転換がなされたというふうなお話でございましたが、これは主としてどういうモチーフで、先生はお描(か)きになられたのでしょうか。

ピカソ  あなた方は、たとえばこのようなかたちで、霊言を受けるものだけが霊能者だと思っておられるかも知れませんが、芸術家や美術家は、あるいは天才と言われる方々は、ほとんどが霊能者なのです。彼らが自覚しているかどうかは知りません。

このようなかたちで降霊するわけではありませんが、ほとんどの方々、美術家、芸術家たちの優れた方たちは、程度の差こそあれ、やはり霊能力者たちなのです。

霊能力者というのは、天上界に在(あ)るアイディアをインスピレーションとして、受けることができるということ。また、もちろんインスピレーションというのは、天上界から、頭、あるいはハートに直接にキャッチするものですけれども、それ以外にも、この眼がありますが、あなた方が観ているものと私たちが観ているものとは、同じものかどうかはわからない。むしろ、私たち芸術家の眼は、「美」という一つの概念のもとにおける霊眼(れいがん)、霊的な眼であるということです。あなた方が何気なく観過ごしてしまうもののなかに、「躍動する美」を見ることができるということなのです。

あなた方は、たとえば旅行をする時、あるいは散歩をする時、そうした時に、ハッと息をのむような風景というものに、気づかれることが多いと思うのです。そこに、何とも言えない美というものを感じます。

けれども、美とは何かと言われても、それを説明することは非常に困難です。なぜそれを美しく感じるのか。木立(こだち)がある。緑がある。小川がある。単に小川があり、木立があり、緑があるだけであるならば、美を感ずる場合とそうでない場合がある。けれども、ある瞬間、ある場面において、そのかたちと生命の躍動と、息づかいとを感じて、「これは美しい」と息をのむ光景というのに出会います。あなた方には、それは単なる物体の上手な配合、配置にしか過ぎないと映るかも知れない。けれども、霊的な眼で見た場合は、そうではないということなのです。

この世において、地上において、素晴らしい景観なり、景色なり、あるいは美を醸(かも)し出しているものには、何らかの精神的なるものが、背後に存在していない場合というのはないと言ってよいのです。偶然ということはあり得ないのです。偶然のものの集まりのなかに美が見出(みいだ)されるという確率は、何万分、何十万分、あるいは何億分の一でしかないのです。たまたま、こういう石があり、岩があり、山があり、木があって、それが美しく見えるという偶然の確率というものは、そのようなものなのです。何百万分の一なのです。

ところが、この地上には至る所に美しいと思われる情景があるのです。それは、もっと有(あ)り体(てい)に言うとするならば、美を醸し出している何かがあるということなのです。それをあなた方は、何と捉(とら)えるでしょうか。

それをたとえば、昔話でいうような妖精たちの力と言ってもいいかも知れません。昔、伝説や民話のなかでは、川には川の妖精たち、ニンフとか言いますね、妖精がいる。そういう西洋の絵を観たことがあるでしょう。あるいはこの日本の地においては、日本の妖精、妖精でなくてもいいです、精霊でもいい、他のものでもいい、さまざまな霊たちがいて、木には木の精があり、水には水の精があり、川には川の、池には池の精がある。あるいは大きな岩山には、岩山に祀(まつ)られている神が住んでおられる。こういうふうに、さまざまな精というものがあるということ、これが言われてきております。まさしくその通りなのです。景観というもの、情景というものは、そこに集まっているさまざまな精霊たちの力によって、生み出されているものなのです。

なぜ五月の、なぜ三月の、そこの景色が美しく感じられるか。それは、そこにいる精霊たちが、ひとつのハーモニーを奏(かな)でているからなのです。美を創り出そうと努力している方々が、いるのです。それは、あなた方の眼に見えないだけです。あなた方は、結果として感じるのです。

けれども、田園風景なら田園風景のそこを見て、なぜ美しく感じるかは、説明がつかないのです。ただ、それを美しく感じるのは、あなただけではないのです。他の方々も美しいと感じる。理由なき美しさを感じる。

その美なら美ということに対して、先天的に、つまり、ア・プリオリに、人間は美というものを知っているのか。あるいは後天的に、生まれ落ちて後(のち)に、美とは何かということを教わって、それを美、美しいものと感じるのか、ということを追究した哲学者たちもいます。カントもその一人です。認識論のなかにおいて、そうしたことを追究いたしました。

たとえば、子供は親たちから、「花が美しい」「花は美しいのですよ」と教わったから、美しく感じるのか。あるいはそうしたことを教わる以前に、美しいということ、美とは何かということを知っているから、美しいと感じるのか。教わったということは、単なる契機に過ぎないのかどうかということです。

幼稚園では、先生たちは幼稚園児に、チューリップの花は美しいと教えています。きれいな花だと教えています。赤いチューリップも、黄色いチューリップも、美しいと教えています。子供たちには美しいという言葉はわからないかも知れません。けれども、言わんとしている趣旨は、間違いなく伝わっています。

はっきりと私から結論を申し上げるなら、美しさを感じるということは、これは知的な理解ではないのです。知的な理解ではないということは、後天的なものではないということです。後天的に美を感じるのではないのです。人間は、先天的に、生まれ落ちる前より、美とは何かということを知っているのです。

では、その「美とは何か」という問いに答えるとするならば、それは、神の光のなかにやはり美を司る一つの流れがあるということなのです。つまり、その美というものを司る方々がいらっしゃるのです。美のための精霊たちがいらっしゃる。美のための神がいらっしゃるのです。

そうしたものは、あらゆる人間の心のなかに流れているのです。あなた方は、人間は神の子だと教わりました。神は全知全能です。神は万物のすべてを支配されている、万能の神であります。そうであるならば、神のお心のなかには、すべてのものがある。すべての性質、一切合切が入っています。その子供である人間であるならば、人間の心のなかにも神の姿のすべてが入っているのです。その心のなかに、美というものを感ずる魂の面があるのです。魂の切り口があるのです。その魂の切り口が、美を司る神霊たち、精霊たちの呼吸を感じとるのです。これが、美しいと感じることの、本当の意味なのです。

ですから本当は、物の配置を見て、色合いを見て美しいと感じているのではないのです。美を醸(かも)し出そうとしている方々の、その心の動きを、人間は感じとっているのです。だから、誰が見ても美しいと思うのです。それは、知的に理解できるものではないのです。


2.すべての作品は霊的バイブレーションとそのレベルを持つ


ピカソ  これは今、風景ということで私は話をしましたが、絵画においても同じなのです。なぜ、ある絵が名画と言われるのでしょうか。それは、偶然の色の配合でしょうか。それとも、単なるデザインでしょうか。単なる着想でしょうか。

絵というものは、真似をして、いくらでも描けるものです。似たような絵を、描くことはできる。しかし、名画と、そうでないものには、一線を画するものがあるのです。それは何かというと、霊的なバイブレーションなのです。

一つの絵を、この地上に実現せんとするためには、やはり、人間の力だけではなくて、さまざまな霊たちの力を借りているのです。美の創造者たちがいるのです。彼らの力が加わっているのです。

ですから、彼らの霊的な力が一つのキャンバスの上に一つのかたち、絵というかたちをとって、現れているのです。これは、ある場合には天上界の景色かも知れません。ある場合は天上界の思想のひらめきかも知れません。そうしたものが描かれているのです。

ですから、観る人は、何となく名画というものを感じてしまう。なぜか知らないけれども、時代を経るうちに、これはとてつもない傑作だということになるのです。単に美しいというだけで観れば、美しい絵はいくらでもある。ただ、人の心を揺り動かすものはそう多くはないのです。それは、その絵を創るために、どれだけの霊的な作用が働いているかという側面があるからです。客観的には、物の上に描かれた絵の具でしかありません。けれどもそのなかに、霊的なバイブレーションというものが、やはり存在しているのです。

あなた方は今、神霊の言葉を書物に編集しています。それを活字に起こしています。活字となって、人びとに読まれています。しかし、それは、活字であって、単なる活字ではないのです。

日本の国にも、昔から言霊(ことだま)ということが言われていたように、言葉には力があります。たとえば、あなた方が作った高級霊の書物の活字を読む時と、そうでない、悪霊の感わしを受けている方々の活字を書物で読む場合と、活字としては同じように見えても、その活字の間にあるバイブレーションが違うのです。まったく違うのです。ですから、あなた方もある迷わしを受けている方々の書物を読むと、吐き気がするようなことがあると思います。

しかし、実際上は、活字というものは、鉛か何か私は知りませんが、そうしたもので造られたものであり、それにインクがついたものであり、それが紙の上に印刷されたものであり、本来何もないもののはずです。有害でも無害でもありません。何でもありません。無色そのものです。

ところがそれが、ある配合をとって、一つの思想を創り上げると、それがある時には人間に吐き気を起こさせ、ある時には素晴らしい陶酔感を起こさせる、心を揺り動かす場合があるのです。ですから、活字の組み合わせによっても、そこに移された文字によっても、そのような違いが出てくるのです。

およそ、人間の精神力が感応して創り出した、この世的なもののなかに、霊的なバイブレーションを持たないものというのはないのです。ラジオにしても、テレビにしても、あるいは襖(ふすま)にしても、机にしても、建物にしても、ありとあらゆるものには、それをこの世に生み出さんとした方々の霊的なバイブレーション、それが加わっているのです。

人間の眼には、同じく見えるでしょう。同じ机を作っているように見えても、その作った人の人生観なり哲学なりの霊的波動は、一つ一つの机のなかにこもっているのです。神の目から見ると違うのです。

これがたとえば、芸術家の創った彫刻なり、そうしたものでも同じなのです。あるいは、芸術家のデザインした建物などでも同じです。何かはわからない霊的なものが、そこにあるということです。そして、その水準、高きから低きに流れるというその水準は、確乎(かっこ)としてあるのです。

ですから、まずあなた方に、あるいはあなたに、美とは何か、芸術とは何か、なぜ私がそのようなものを創ったか、ということを説明する前提として、そこにはやはり霊的な世界の顕現があるという事実を私は述べておきたかったのです。よろしいですか。ですから、芸術作品というのはある意味において、精霊たちの合作なのです。


3.色にはその"色"の生命がある


ピカソ  あなたは、まず私が、《青の時代》というのを経験したとおっしゃいました。その通りです。それは、まだあなた方の知識にはないけれども美の天使たちのなかにも、いくつかの役割の分担があるのです。

たとえば色があるでしょう。十二色というのがあります。あるいは二十四色と言ってもいいかも知れない。赤、青、黄、緑、さまざまな色がありますね。実は、こういった色を司る天使たちがいるのです。これは、あなた方が言っている天上界の、霊界の光線という意味ではなくて、たとえば、色彩、あるいは美ということを司る天使群のなかで、それぞれの色を司る方々がいらっしゃるということなのです。黄色い色を司ったり、白い色、青い色、だいだい色、緑色、若葉緑色、そうしたいろんな色をですよ、司る天使がいるのです。芸術的な意味においてです。「色の天使」がいるのです。

あるいは、「音の天使」というのがいるのです。私は、音楽については詳しくは知りませんが、さまざまな和音があったり、ハーモニーがあったり、いろんな音階があったりするわけです。あるいは、陽性の音楽があったり、陰性の音楽があったり、テンポの速い音楽があったり、テンポの遅い音楽があったりします。こうした音楽というものも、やはり音楽に関する天使というのがいて、役割分担をしているのです。他のものでも同じです。ですから、色には色の役割分担をしている天使たちが、確かにいるのです。

あなたは、《青の時代》ということを言われましたが、青の時代というものは、その色の天使のなかの青という名の色の天使が、私に非常に強く働きかけた時期なのです。青色というものを、世の中に放射しようとしているのです。

たとえば、あなた方の世界には、ファッションの流行ということがあると思います。女性の服装でも、今年は黄色が流行るとか、今年はだいだい色が流行るとか、今年はピンクが流行り、今年は紫が流行り、黒が流行り、こうしたことがありますね。なぜそういうものが流行るかは、あなた方にはわからない。なぜ白が流行ったり、黒が流行ったりするのかはわからないと思います。

けれども、その背後には、私たちの世界での動きがあるのです。さまざまな色彩の天使たちがいて、「今年は私の年です」ということで、働きかけているのです。そうすると、その色が流行っていくのです。

色彩の天使だけではありません。やはり、模様とかですね、そうしたものを担当している天使もいるのです。こうした模様を、今年は流行らせる。そういう役割分担があるのです。そして、いろんなことを考えて、この世にさまざまな色彩感覚、あるいは美の感覚というものを、投影しているのです。それが、私たちの世界です。ですから、青の時代には、青の天使の光を受けて、私はやっていたということなのです。


4.私は霊的な眼で絵画を追究した


ピカソ  その後に、《キュービズム》ということを、あなたはおっしゃいました。まあ立体主義と言いますか、そういったことですね。それがあなたには、非常に不思議に見えるということです。一般の方々にも不思議に見えます。ちょっと見た目には子供の絵のようです。それに、ちょっと見た目には美しさは感じません。けれども、人びとはなぜか、そこから心魅かれるものを感じるのです。

それはなぜか、ということです。当然のことですが、あなた方には眼が二つしかありません。この二つの眼では、一方向からしか物体が見えません。たとえば、ここに瓶(ビン)なら瓶というものがあると、これをあなた方は、一方向からしか観ることができません。しかし、私たちの本当の霊的な眼で観ると、これは一方向だけではなくて、さまざまな角度から観ることができるのです。ですから、私のなかにおいて、物を観る眼がもし分裂していれば、それがキュービズムになってくるのです。

いいですか、すなわち私は、肉体的な眼と、霊的な眼という両方の眼を持っていたということなのです。

ですから、肉体としての私は、この瓶をこちらから観ていたとしても、霊的な私としては、こちらから観ることも、そちらから観ることもできるのです。

芸術家も極端にまで走れば、己(おの)れの魂を飛ばすところまでいってしまうのです。霊的な眼というものは、物体の裏側まで観てしまうのです。斜めからでも、上からでも、下からでも観てしまうのです。見えるのです。こういう眼、いわゆる複眼ですね、複眼のような眼になってしまうのです。

ある意味においては、天眼通(てんがんつう)といいますか、そういうものでもありましょうし、ある意味においては、何と申しますか、テレポーテーションのようなものでもあります。別な世界から、観ることができるのです。

ですから、今はたとえば、観る角度が違うということで、私は申し上げましたが、もう一つ別な眼から観ると、この表面の姿、たとえば善川三朗としてのあなたのシルエットがあるわけですけれども、この表面の姿のあなたと、あなたの内面を観る、内面ですね、心の内側を観る眼、別な眼があるのです。これで観ると、あなたというのは、ダブって見えるのです。通常の人が観て、見えるあなたの姿と、あなたの霊的な姿とが、ダブって見えるのです。さらに霊眼(れいがん)の進んだ人であるならば、あなたの過去世の姿までが、ダブって見えてくるのです。

ですから、たとえば今、柱というものを取り上げてみますと、その柱なら柱といっても、単に柱だけではなくて、柱を在(あ)らしめている他の力もあり得るということなのです。

人間の顔は、一つではないのです。人間の顔は、幾通りものものが現れてきているのです。

一つには、物理的に、物質的に顔を作っているものがあります。けれども、この顔をこのような顔として現しめる力というものが、その顔のなかには入っているのです。心の豊かな人はいやはり豊かな顔になっていきます。慈愛に満ちた人は、そのような顔になっていきます。陰険な人は、やはり陰険な顔つきになっていきます。そういうふうに、魂の輝きがあり、それに対して、外面というのがあります。それ以外に、過去世を親る眼があります。ですから、霊的な眼で観ると、そのなかにいろんなことが入っているのがわかるわけです。

私の絵の中では、さまざまな人物が描かれています。その人物が、真っ二つに割れているようなところもあるはずです。その真っ二つに割れているところは、片方は表から見た人物です。残り片方は、霊的にその人を観たら、こうなるということでもあるのです。魂の断面を、私は描いているのです。大方の人は、そこまでは気がつきません。

ただ、私が言いたかったことは、《キュービズム》を通して言いたかったことは、この世のものは、この世的に見えるだけのものではないということです。物の観方(みかた)というものは、さまざまな観方ができるということです。ここに在(あ)りて在り得ないものまでもが、見えてくるということです。

また、形体の美だけが美ではないということです。外面に美しく見えるものだけが、美ではないということです。それを在らしめているものは何かということも、追究する必要があるということです。


5.キュービズムとは一念三千の世界


ピカソ  あなた方は、私も知っておりますけれども、宗教家たちから教えを受けておられるでしょう。「一念三千(いちねんさんぜん)」ということも教わったと、聞いております。それは、相手の心の世界に応じて相手が変わるように、あなた方の心の世界において、あなた方が観る世界も、また変わるということです。あなた方の心が輝いていれば、世界は素晴らしいものに見えるでしょう。あなた方の心が曇っていれば、世界も曇ったものに見えるでしょう。あなた方が今日、釣りをしたいと思っているならば、雨が降ったら悪い天気でありましょう。ところが、自然を愛し、山を愛し、草木(そうもく)を愛する人であるならば、この雨は慈雨(じう)だなと、慈(いつく)しみの雨だなと、感じる方もいらっしゃいます。

この世の中の景色、この世の中の情景はすべて、その人の心の展開でもあります。これを「一念三千」という言葉で、言われた方がいます。同じです。

絵画というものも同じです。写実主義といって、写真と同じように事物を写すということに、美を感ずる人もいるでしょう。けれども、そうではないのです。向こうの、相手の内面もさることながら、それは自分自身の心を投影している世界でもあるのです。

ですから、私の「キュービズムの世界」は、別な意味でいうと、「一念三千の世界」なんです。私の心の眼で観た世界を描いているんです。私が地獄の心で観れば、地獄の絵が出てくるでしょう。私が天国の心で観れば、天国の絵が出てくるでしょう。そのような、さまざまな一念三千の心を、絵というものを通して表せばどうなるかというのが、私の試みであったわけです。

ですから、私が描いているのは、写実ではないのです。あれは、心の世界を描いているのです。観る人によって、どのようにでも見える絵なのです。まったくつまらない絵に見えることもあります。素晴らしい絵に見えることもあります。「あなたはどう見えますか」と、私は問うているのです。その絵の中に、心の秘密をときほぐしてあるのです。観る人の心に応じて、見えるようになっているのです。私の絵が、まったく取るに足らないように見える人もいるでしょう。素晴らしく見える人もいるでしょう。感動する人もあれば、駄作だと思う人もいるでしょう。

あなた方、絵を観る人びとの心を試しているのです。私だけの心境になれば、私と同じところまでこの美がわかる。しかし、それが同じ心境に達していない人にはわからない。さて、これをどう見るか、あなた方を試験しましょう。これが、私の絵です。

写実的な絵というのは、誰が観ても美しいものは美しい。美しくないものは美しくないのです。しかし、それだけでは、おもしろくないでしょう。絵というもののなかに、立体的な広がりが欲しい。絵というものは、二次元です。いいですか。絵というものは、この世的なものをすべて二次元に表す。これだけでは、もの足りない。

霊的な世界というのは、四次元以降の世界をこの三次元に投影しているのですね。そしてこの三次元を投影するのに、二次元を使っているわけです。いいですか、一つの次元を変化、変転させて、一次元下げて、表現しているのです。

三次元は、三次元のままでもいいのではないか。三次元の絵を描(か)いてみようではないか。こうした心構えがあっても、おかしくはないと思うのです。つまり、二次元を脱皮しようという試みですね。

ある意味においては、私の絵は、(注1 ピカソが観て指している絵は「泣く女」1937年作「ゲルニカ」の完成後一連のシリーズとして描かれたもののひとつ)よく観てごらんなさい、三次元の絵でもなくなっています。もう、これは四次元、五次元の絵を描いているはずです。よく観てごらんなさい。三次元ではない世界です。それが出てきているはずです。それは、四次元、五次元の世界なのです。四次元、五次元霊体としての私の眼が観て、描いている世界なのです。その世界でもそうです。その、あなたが観ている絵でもそうです。(注2 「画家とモデル」1963年作、六〇年代にもっとも多く描かれたテーマで、もはや外部に、描く対象や関心を失ったピカソが、描く自分自身を直接テーマにしはじめ、しかも、モデルはかつての肉塊ともぃうべきどぎつさを失って抽象的なパターンとなり、画家だけが色濃くあらわれてぃる作品)それは、三次元の絵では決してありません。霊的な世界なのです。そこにあるのは――。

いいですか、この三次元に、たとえば今、善川三朗という人間がいます。で、人間としての眼で観ると、あなたという人がそこに座っており、この部屋というのがありますが、これを多次元を観る人の眼から観れば、この同じ三次元にですよ、同時にさまざまなものが同居しているのです。

それを表せば、どうなるかです。霊界と現象界との同居です。人間が普通に住んでいると思うところが、とんでもない世界であることがあるのです。鏡のなかの部屋のようであったり、異次元への迷路であったり、そういうことがあるのです。

ですから、私は絵を通じて、三次元から四次元、五次元、そういった世界をも表そうとしているのです。


6.創造の源泉はすでに霊天上界に在る


ピカソ  それと、もう一つは、あなたが今絵を観ていますけれども、色の持つ意味というものは何か、ということについて、考えてみたいのです。

これはね、やはり学問と同じなんです。一つの学問、数学なら数学で、それを勉強した方には、やさしい算数というのは取るに足らないものになります。けれども、算数をやり始めたばかりの人にとっては、算数はやはり難しいでしょう。

絵も同じなのです。色彩というものを、とことん一生かかって突き詰めた人にとっては、赤という色、たとえば、黄色という色は、我が子のようにかわいいのです。もう自由自在ですし、その色の特徴、個性を、もうつかまえているんです。

黄色という色は、こういうところに使えば、こういうふうに働いてくれるけど、こういうところに使ったら、失敗してしまう――適材適所と一緒なのです。もう人格を持っているのです。黄色という色、あるいは、赤という色、青という色が、人格を持っているのです。私から見るならば、子供みたいなものです。「ここに黄色を使ってやりたいな」と思うのです。まるで、子供をかわいがっているのと一緒です。色彩というものも、最後にはそこまでいくのです。

なぜ、あなたはその「泣く女」の顔を観ていて、顔の左半分が黄色いのか、わかりかねると思います。ただ、黄色という色の個性を知りつくすと、どうしても使ってやりたくなるのです。むしろ、私が使っているのではないのです。黄色の方が使って欲しいと、私に語りかけてくるのです。

絵というものは、そうした図面を描(か)いて、人間はここに何色を塗ろう、赤を塗ろう、黄色を塗ろう、緑を塗ろうと思うのではないのです。本当に突き詰めていくと、黄色の色が動き出して、絵の具が動き出すのです。そして、ここに黄色を塗りたくなるのです。ここに青を塗りたくなるのです。赤を塗りたくなるのです。

それは、色というものは、単にあなた方が科学的に見れば、何ミクロンかの波長の光の反射かも知れないけれども、その光の反射を司(つかさど)っている色を持つ、個性ある天使がいるのです。

ですから、この絵筆を持っている時にですよ、黄色の天使が、黄色を司る天使が働きかけてくるのです。絵の具がまるで動き出すように、私には見えます。顔の色を黄色に塗りたいと言うのです。そういうふうに、働いてくるのです。

昔、ある彫刻家が言ったことがあります。これは、日本の彫刻家です。「木の中に、仏像の姿が見える」という、そういうことを言った方がいらっしゃいます。偉大な彫刻家です。運慶(うんけい)とか、快慶(かいけい)とか、さまざまな像を彫った方です。この方は、柱のなかに仁王様が見えたり、木のなかに仁王さまの顔が見えるのですね。ですから、鑿(のみ)を使っていても、その姿を、単に木のなかにあるのをですね、掬(すく)い出しているだけなんだと。木の中に眠っている仁王様を出しているだけなんだと。自分が彫り出しているのではないのだと。その木のなかに仁王様が眠っている、それを出してあげているだけだと、そういうものの観方をしました。

同じなのです。生きているのです。素材は生きているのです。黄色い色が動いていくのです。瞼(まぶた)をつぶれば、赤い色が動いていくのです。そうして、絵というのは出来ていくのです。

というのは、一つの画面に映った絵ですけれども、本当はこの絵の理念といいますか、インスピレーションといいますか、構想というものが、また、別の世界にあるということなんです。それが、この地上に出たいというふうに強く希(ねが)っているのです。出たくて出たくてしょうがないのです。それが、私たちというような、いわゆる通路ですね、パイプを通じて生まれてくるのです。ちょうど、あなた方という通路を通じて、霊界の思想が伝わっているように、私たち芸術家を通じて、霊界にある色彩なり、模様なり、構想なり、そうしたものがこの地上に生まれてくるのです。

すべてそうなんです。詩だって、そうです。詩を書く人はたくさんいます。この詩も、結局は霊界にある詩なのです。それを、詩人という通路を通じて、この世に送り出しているのです。ただ、その通路といいますか、パイプの出来具合によって、本当にいい着想の詩が、駄作に終わってしまうこともあります。その出方はいろいろです。けれどもやはり、天上界に在るのです。

小説などでも同じです。その素晴らしい小説の構想というのは、霊界において、本当にあった事件であることが多いのです。そうしたものは、作者の守護・指導霊たちを通じて、小説家の頭に閃(ひらめ)いていくのです。

小説家は、よく言います。あたかも何者かが書いているように、ペンが運ぶ、動いていくと。何も考えていなかったのに、どんどん出来ていくと。そういうことがあります。「筆が乗ってくる」ということです。これは、彼らが書いているのではないのです。霊界に在る物語が、その作者を縁として動き出しているのです。物語の方が、もう出て来ているのです。あるのです。さまざまな悲劇や喜劇、さまざまな人生模様についての物語が、もう過去何千年、何万年の人類の歴史のなかにあるのです。さまざまな物語のかたちがあるのです。それがこの地上に出たがっているのです。

ですから、そういうパイプ役としての優れた人を通すと、たとえば夏目漱石のような人を通すと、次々と物語が出てくるのです。それは、あの人が考えて創っていることではないのです。


7.絵画は感性を通して思想を伝えてきた


――  それから、いま一つお尋ねしたいのは、先生が描かれたあの「ゲルニカ」という作品がございますが、あのお作は、非常に何と言いますか、現代を風刺したものが表現されているように思います。ちょうどあの時は、ナチの最も激しい、その過酷な時代であったように聞いておりますが、あれをやはり、人道的に表現したいというような意識がございましたんでしょうか。

ピカソ  私は先ほど、四次元以降の世界をも、キャンバスの上に表すということを言いました。突き詰めていくならば、絵のなかに思想があってもいいのです。よいですか、たいていの画家というものは、とにかく、器用に写すことばかりを考えています。けれども、本当にですよ、行きつくところまで行ったなら、小説家が原稿用紙のなかに、思想を織り込もうとするのと同じように、キャンバスのなかに、思想を織り込もうとするものです。

もちろん、私の全人格的な思想も入ってきています。小説は、読めば読む人によって、わかってしまうものでしょう。しかし、絵は必ずしもその思想性がわかるとは限りません。どちらかというと、絵は感性に訴えかけることが多いからです。けれども、わかる人にはわかります。思想的な絵も、もちろんあります。

――  それから、あの、平和を象徴された鳩がございますね。あれなどもやはり、そういう先生のお考えが、出られたものでしょうか。

ピカソ  私の絵というものは、宗教画とは違っていますけれども、かつての宗教画を描いた方々にお話を例えば、もっとはっきりしています。

なぜ彼らが宗教画を描いたか。ダ・ビンチにしてもそうですし、ミケランジェロにしてもそうです。ラファエルロにしてもそうです。彼らは宗教画を描いています。

その時は、あなた方のように、言葉でもって神の世界を説いても、わからない人たちが多かったということなのです。書物をつくってそれを広めるには、少し時代がまだ無理だったということです。そういう時代にはね、絵を観て感じとる方が早いのです。絵はいろんな方が観ることができます。観ても減らないのです、絵はね。印刷するとなると大変なことになりますが、絵は観ても減らないのです。大きな広場に掛けたら、いろんな人が観ることができます。

ですから、あなた方にしてもですよ、時代が違えば、もしかしたら絵描きさんになっていたかも知れないのです。宗教画などによって、キリストの奇跡を表したり、マリヤの優しさを表したり、神の栄光を表したり、そういうことができるわけです。やはり、絵のなかには、本当は、思想も何もかもあるのです。


8.絵は神の御心、真・善・美を描き残すもの


――  先生は、ご生前の頃には、もちろん絵をたくさん描(えが)かれたのですが、一時(いっとき)、平和運動とか、そういう方面にも関係されたように聞きましたのですが。

ピカソ  ま、人間、九十年以上生きるとね、いろんなことをやってみるものです。それは、あなただってそうでしょう。退屈してしまって、一つのことばかりやっているわけにはいかないはずです。

ただね、私は思いますに、ピカソとして絵に関しては一代を画(かく)したけれども、ただ私のね、人格、人間として到達し得たものを、必ずしもすべての人に残すことができたわけではないと思うのです。ただ絵はね、普遍的な構築物、永遠への道の一つであることは確かなのです。

生きた人間がですよ、いろんなことを語ったとしても、たいていは残らないのです。けれども、絵はね、名画と呼ばれるものであるならば、少なくとも数百年は残っていきます。そういう意味において、あなた方の神理も何千年も残すということですけれども、絵というかたちで残すということも、あり得るのです。

神にはいろんな光がありますけれども、それを一つの言葉で言って、「真・善・美」と言った方もいらっしゃいます。あなた方は「真・善・美」のうちの、どちらかというなら、「真」について、今、語ろうとしているのでありましょう。また、「美」というものも、あるということです。それもまた、永遠に残していかねばならないものです。

しかし、「真」のなかには、もちろん「真」だけではなくて、「善」もあれば「美」もあるのです。「善」のなかには、「真」も「美」もあるのです。同じように、「美」の中にもね、「真」も「善」もあるのです。

ですから、社会風刺は、「美」の中にある「善」の部分であろうし、また、宗教家たちはね、宗教家たちが描いた、宗教画家たちが描いた宗教的な絵というのは、「美」のなかにある「真」でありましょう。神の姿、神の御(み)心、神の配慮というものを描いたのです。

また、古代の、預言者たちの絵を描いた方々も多かったですけれども、彼らのうちの少なからぬ人たちは、古代の事件を霊視して描いている人たちもいるのです、霊的にね。そのインスピレーションというものを、本人は知ってか知らずか、構図を作って、その人物像を描いていますが、その時の本当のその人の姿にそっくりなのです。それは、ある意味での霊的能力です。

あるいは、過去世に自分が宗教家として出た時に、イエス様の顔を観ていた方が、またイエス様の絵を描いている場合もあるのです。過去世の経験というものを使っている場合もあるのです。