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目次













(1988年1月6日の霊示)

1.私の本体はミケランジェロ、過去世は鑑真


ピカソ  ピカソです。

――  只今、先生の二年前のお説を再拝聴しておりましたのですけども、非常に感銘を新たに致しましたのですが、一応その他の方がたのお説も承ったところで、最終的な総括をお願いして、そして、今までのピカソ先生のお言葉を表題として出したいと、このように思います。そこで、全体を見渡して、さらに先生のお教えを一層学ばせていただくとして、なお、この上のご指教を賜ったなら幸いと思いますので、よろしくお願い致します。

ピカソ  ま、私の二年程前の話を聞きながら、いろんなことをあなた方は考えておられたようです。

ご推定の通り、私は非常に宗教的な魂です。ギリシャにも出たことがあるという話もしましたが、もちろん、それ以後も何度かは地上に出たことがあります。ま、この辺がご関心のあるところのようですから、話しを致しますと、ピカソとして出た以前に、私は、実はミケランジェロという名で出た者です。本当はそうなのです。

ミケランジェロというのは、どちらかと言えば、私の本体部分に当たる者です。ピカソという魂と同一ではありません。本体部分に近い部分が、ミケランジェロと言われている者です。霊的にも、その格においても、もちろんミケランジェロの方が遙(はる)かに私よりは上でありますが、そういう魂を本体部分に持っております。

それ以外に出たことがあるかと言われば、出たことはあります。ミケランジェロとして、中世のヨーロッパにも出たことがありますが、それ以前には、実は――日本にも一度出ているのです。日本にも一度出ていて、まあ、こういう話が可能かどうか、いろいろと考えるものでありますけれども――。

――  やはり鎌倉時代、その辺でありますか。

ピカソ  いや、もっと前です。

――  では、平安。

ピカソ  ま、近いですが、実はピカソとしてのイメージが変わってしまう恐れはあるのです。それを言うとね。

――  やはり、美術関係、建築関係、宗教方面ですか。

ピカソ  ま、そういうこともないとは言えませんが、実はもう少し違った仕事を私はやったことがあるのです。

――  宗教関係――。

ピカソ  そうです。

――  やはり、そうしますと仏教関係――。

ピカソ  そうです。

――  ああ、そうですか。仏教関係でしたら、やはり何でしょうか、天台系統の――。

ピカソ  もう少し前になりましょうか、どうでしょうか、微妙なところではございますが。ま、正直に中せば、日本人というよりも、日本に渡来した僧であります。

――  ああ、では、鑑真――。

ピカソ  そう鑑真です。鑑真和尚というのは、あなた方も御存知と思うのですが、中国から日本に何度も渡航して、失明しながら、日本に仏法を伝えた僧です。ま、信念、意志の人ですが、この鑑真も、実は私の過去世の姿の一つであります。鑑真、ミケランジェロ、ピカソと転生してきているのです。ま、それ以前にも、もちろんローマの時代にも出たことはあります。ローマの時代にも出ました。ある有名な人間として、出たことがあります。

その以前には、ギリシャにも出たことがあります。まあ、こういうことです。こうしたことは、にわかには信じ難(がた)いでしょうが、私自身のなかに、宗教的な部分と、絵画、芸術的な部分と、両方をもちろん持っているわけであって、前回にも言いましたように、ギリシャでかつてパルテノン神殿という偉大な神殿ができた時にも、その建築家をやったのはこの私です。

さらに過去を辿(たど)れば、エジプトの地に出て、さまざまな芸術を創ったり、ま、そういうふうにいろんな所を転生している魂でありますし、その行動様式においては、あなた方の魂の転生と同じような計画の下(もと)に、いろんなかたちで地上に降りて、法を学び、法を説いてきた、そういう魂の仲間です。霊系団的には、そう変わらない仲間どうしであります。そういう仲間、グループの一人です。

今世においては、ピカソという名で、芸術、特に絵画、彫刻、陶器、ま、そういうことを中心にやりましたが、私自身の本当の世界観というのは、もっと霊的なものです。それがたまたま近代における、あるいは現代における新芸術を創るという使命を持って出ただけであって、また違った時代には違ったかたちで出るのです。

――  私が鎌倉時代、あるいは、それ以前にも、天上界でピカソ先生のお教えを受けたということを、前回ちょっとお話を承ったのですが――。

ピカソ  ま、そうしたこともあったでありましょう。光の天使の主流系団というものは、いつも共に学び合い、いろいろと啓発し合い、また計画をして、いろんなかたちで地上に出てきているのです。ですから、過去を紐解(ひもと)けば同時代に出たこともあるし、また片方が出て片方が指導霊をやったこともあります。そうしたことは、いろいろとあったわけです。

そういう意味で、長い転生輪廻のなかでは、法友は数多くいるわけです。日蓮聖人なども、結構よく交流のある魂の一人です。転生において、縁の深い魂の一人です。

ま、こうしたことをピカソが言っていたのでは、なかなか世の納得が得られないかも知れません。そこで、最後ということでもあるので、また違った話もしておこうと思います。

――  できましたら、一つお願い致します。


2.霊的世界を描き出す神理芸術が台頭しよう


ピカソ  それでは、最後に締め括(くく)りという意味で、新時代の芸術観の展望について、いくらかの話をしておきたい、このように思います。

今、二十世紀ももう終わりが近づいております。二十一世紀以降、どういう新世界が展開するのか、こうしたことを考えてみると、これから神理の時代が来ることは確かであります。

ただ、神理の時代といっても、恐らくこれは単に抹香(まっこう)臭い宗教のみの時代ではない、総合的な霊文化の時代になってくるであろうし、その一端を担(にな)うものとしての芸術、この重要性というのは否めないであろうと思います。これは、単に絵画のみならず、文学や詩やそうしたものにも重要性があるということ、これは、他の諸霊もすでにお話をしたであろうと思います。

そこで、これからの新時代に当たっての芸術観、芸術観の新展開ということについての話を、しばらくやってみたい。こういうふうに思います。

これからは、もう単なる写実の時代でもなく、単なる色彩の時代でもない。単なるハーモニーの時代でもないであろう。ま、これが間違いのないことであろうと私は思います。

新時代というものは、これはもう人間の心にプラスする、この方向性がなければ、もはや芸術としての存立基盤があり得ない、という時代でもありましょう。恐らくそういうふうになります。絵画を描くということは、絵画そのもののなかに、やはり、何らかの神理のよすが、悟りのよすががなければ、絵画として意味のない、値打ちのないものとされる時代となってくるでありましょう。

絵画というものは、本来、神の世界を教え、人に生き方を教え、美とは何かを教える、そうした教育的なる役割をも数多く持っているもので、こういう意味において、時代のリード役としての画家、こうしたものが活躍してくる時代が近づいているように思います。

私の「ゲルニカ」という絵にも、時代の精神が含まれたということは言われますし、起爆剤である、爆薬であるというようなことも言われました。そうしたナチ、彼らの暴虐(ぼうぎゃく)に対する反抗の現れと、まあ、こういうふうなことで世界の注目を集めたわけでありますが、絵画を通して、世界の世論に訴えかけるという試みを、私は初めてなしたわけです。

それは、神理であるとか、思想であるとかそうした領域でなくとも、単なる絵描きであっても、世界的なる名声を得ていれば、それだけの仕事ができる。可能である。まあこういう証拠、証左であろうと私は感じます。

たとえば、トルストイの思想が世界を揺り動かしたように、画家は絵筆でもって世界を揺り動かすこともできるのです。

ですから、これからは音楽でもって世界を揺り動かすような、そういった音楽家も出なくてはならない。ただ、音楽の自由性、素晴らしさということは、あり得るでしょうが、説得力と客観性という意味においては、絵画の方が私は優れているように思うのです。音楽では、その作品の主題というものは、聴く人びとの耳といいますか、心といいますか、感性にまかされているけれども、絵画にはある程度の客観性があることはある。

ま、そういう意味において、より多くの思想性を盛り込むことができるのではないか、そういうふうに私は思うわけです。私のその「ゲルニカ」の考え方を、今後新展開していくとするならば、新しい時代の到来を告げる絵画の続出――これが予想されるわけです。新世界の続出、あるいは、新たな神理の像についての絵画。こうしたものが要請されるのではないのか。このように私は思います。

これからは、もっと新しい局面を絵に描いていくという、そうした作業が必要であろうと思います。そして、できるならば、この地上を去った世界、四次元世界、五次元世界、六次元世界、さまざまな世界が展開しておりますが、こうした世界の様相をも絵画にしていく画家が欲しい。できれば欲しい。こうした霊の世界を、人びとに視覚によって訴えかける画家が欲しい。天才的な画家であって、そうした霊的世界を人びとに教える画家が欲しい。書物として、霊言集として出すこともあるであろう。しかし、それは一冊の書物であり、読む人の範囲が限定され、読むという時間において、労力は非常にかかります。しかし、絵は一瞬です。一瞬にしてその思想がわかる。こうした新たな神理芸術、これの気運が高まってこなければいけない。

そのためには、まず、霊界の様相についての絵が欲しい。あるいは、天使の活躍についての絵が欲しい。また、地上にある人びと、生きざま、あるいは風景における天国的なる情景の絵が欲しい。また、間違った思想や間違った行動、間違った考え方に対する批判の絵が欲しい。それらを風刺するものも欲しい。こういうふうに、芸術というものを通して、時代を良き方向にリードしていくための力として欲しい。私はそう思います。


3.芸術家でも一流となれば、世界を揺り動かせる


ピカソ  それは、確かに、宗教家であるとか、思想家であるとかで、非常に力を持った方にはそれなりの仕事というのがあり得ると思いますが、ただ、そうではなくて、芸術というものでも、世界的に名声を得れば、それだけのことができるということを知って欲しい。私はそのように感じるものです。

私自身も、九十何歳という長寿を全(まっと)う致しましたし、生きている間に名声も富も社会的地位も得ました。お城のなかで、お城をアトリエにして絵を描いていた。ま、そういうことはご存知であろうと思います。そして、世界の重要人物ともずいぶん会いましたし、私を核としていろんな人びとの集まりもありました。サルトルであるとか、ボーボワールであるとか、そうした人たちとの交流があったことも、あなた方はご存知でありましょう。

こうして、私を中心に文化的サロンができていった、ということも事実です。そして振り返ってみるならば、青年時代から営々と築き上げてきた努力によって、自らの地歩を固め、地位を固め、名声を固めたことによって、その後の自由奔放(ほんぽう)な活動ができたということは、これは皆さん方がご承知の通りであろうと思います。

こうした自分の過去を振り返ってみると、あなた方にもやはり比較的早い時期に、私はさまざまな名声や地位、実績、こうしたものを築いていただいて、そして、その後自由自在な活動を展開していただきたい。こういうふうに思います。

かつて、あなた方のところにソクラテスという方が霊言を送っておりました。その方は、自分が日本に生まれるとするなら、日本一の学者となって、その後、その後ろ姿でもって人びとを導くと、こういうことを言っておられたように私は聞いておりました。

ところで、それは学者でなくとも私はよいと思うのです。芸術であっても、日本一の芸術家となって、世界一の芸術家となって、その力でもって世の中を揺り動かしていける人が必要ではないのか。芸術のみと言わずとも、科学の世界でもよい、科学者として世界の一流となって、その考えでもって世の中を変えていくことも可能です。


4.これからは個性の時代、優れた個性が世をリードしていく


ピカソ  私はこれからはね、大衆の時代ではないと思う。皆さんは民主主義ということで、大衆大衆と言って多数決ということを考えるけれども、私は多数決の時代はもう終わったと思います。多数決の時代は終わって、やはり優れたる個の時代です。優れたる個性の時代です。優れたる個性が恐らく時代をリードしていくであろう。私はそう感じますし、それに間違いがないと思います。優れたる個性の時代です。

そうであるならば、時代をリードしていく人というのは、優れたる個性を持たねばいけません。優れたる個性というものは、他の者と同じであってはいけない。自分の突出した性格、性質、能力、これを思う存分に発揮する。そして、社会的にある程度認められる。評価を得て、そしてそれ以外の世界をどんどんと出していく。こういうことが、私は大事であろうと思います。

日本においても、今必要なのは、傑出した画家であり、傑出した音楽家であり、傑出した教育者であり、傑出した政治家であり、傑出した経済学者であり、傑出した詩人。こういう人が必要だと思うのです。こういう人がいれば、世の中は変わってくる。

平凡な人がいっぱい集まるということも大事だけれども、やはり、これからの新時代を揺り動かすのは、個の時代、個性の時代であろうと思います。そういうことで、一万人の平均的実力を上げるよりは、優れた十人、二十人、五十人を出すことの方に時代の要請は傾いてきている。私はそのように思います。

ですから、絵なら絵で、傑出した人物を創るための努力、音楽なら音楽で傑出した人物を、科学なら科学で傑出した人物を生み出す。そのためには、そうした教育、及び社会環境の整備、これが非常に大事であろうと思います。自由奔放に生きていける人間、その個性の発現、これが必要であろう。こういうふうに思います。

あるいは、芸術のみならず、宗教の世界でもそうかも知れない。過去の教えに捕らわれることなく、キリスト教だ、仏教だ、という過去の教えに捕らわれることなく、これからはそうした新しい思想家群、宗教家群が出てきてよい。

その個性のままに、自由奔放に生きていく宗教家、新たな思考方法と、新たな行動様式を持った個の出現、これが大事です。どうか、そうした思想的な側面からのアプローチをするにしても、自らの個性を最大限に伸ばして、その優れた個性でもって、世界の名声を築くという作業を忘れないでいただきたいと思います。

あなた方に対する具体的なアドバイスとして考えるならば、たとえば今、霊界通信というか、霊示というか、霊言というか、私たちの言葉を伝えるという仕事をしています。これに対して抵抗をし、アレルギーを起こす方々もいるでしょう。そうした人たちの気を紛(まぎ)らわすために、中間領域といいますか、あまり霊的ではない、宗教的ではない領域をも広げねばならんと、こういうふうに考えるかも知れない。ま、これはこれで確かに当たってはいるわけですが、それがあなた方の個性を殺す方向に動いていってはいけない。特色を殺す方向に動いていってはいけない。やはり、自分の最大限の能力と、特色の面でもって、時代の新局面を切り聞いていく必要がある。

霊界通信なら霊界通信でよい。そのかわり、かつてない、空前絶後、前代未聞、未曽有(みぞうう)の霊言を出していく。こういうことが必要だと思う。


5.霊文明を切り開くまで「神理」の書を徹底的に書き続けよ


ピカソ  こうした勇気と、努力、行動力によって新時代の局面が開けていく。新時代の局面を開くのは常識ではない。常識の枠のなかで、重きにつき、主流についている人びとでもっては新世界は築けない。今の時代において異端視され、例外視されるなかにこそ、本当は新時代の局面があるのです。

そうであるならば、自分たちの個性を発揮する場を見出したなら、徹底的にそれを追究していきなさい。それを切り裂き、切り裂き、切り進んでいくうちに一流となっていくでしょう。その時に、その返(かえ)す刀で世の中をいろいろと切り刻(きざ)んでいきなさい。いろんな局面を切り開いていきなさい。それ以前において、総花的な人生を送ったり、世に迎合するような生き方をしてはならない。徹底的にやりなさい。新局面、時代の新局面が切り開けるまでは、自分たちの特色を生かして徹底的にそれを追究していきなさい。

これでもか、これでもか、というかたちです。画家にしてもそうです。私たちは絵を描かねば、うまくはならないし、描かねば有名にもならん。私が一枚の絵を描いただけでは有名にならない。毎日毎日、毎月毎月、毎年毎年、いろんな絵を描いていて、そのなかで初めて光るものが出てくるのです。それは、ダイヤモンドの鉱山を発掘しているのと一緒です。ダイヤモンドの山で、いろいろと泥や砂利と一緒に掘っているうちに、ダイヤモンドがコロコロと出てくるのです。そうしたものです。ダイヤモンドだけを掘り出そうとしても、そうはいかないのです。そうしたものです。

ですから、数を作っていくということも大事なことです。今は、私はあなた方に、私たちの世界からアドバイスをするとするならば、絵を描いていると思いなさい。絵をね。ピカソの絵が百枚あろうが、千枚あろうがそれでもって値打ちが下がることもない。一枚一枚描いていくことによって、一つの画境が開け、一つの世界観ができてくる。絵が多い方がいいでしょう。私の絵が何百点あったか、何千点あったか私自身も知りません。ただ、それが多ければ多い程、世の中のためになったであろうと私は思います。それが、いくらいい絵であっても、五点や十点しかないのでは、世の中を変え、世界に影響を与えることはできなかったでありましょう。私はそう思うのです。

そうであるならば、あなた方はとにかく右顧左眄(うこさべん)することなく、自分たちのこの神理を神理だと思うならば、どしどしと、もう怯(ひる)まずに絵を描いていくつもりで、一作一作、世に問うていくことです。これが、いちばん間違いのない方法であろうと思います。

そして、この時代に対して迎合しないという新しい方法論のなかに、新時代の局面、新局面を切り開くものが何か出てくるはずです。それを徹底的に追究してみて下さい。そして、比較的短期間のうちに、自らの地歩を築いてみて下さい。そうすれば、それ以外のところに浸透し、参入していくことはそれほど難しくはない。

今、あなた方がこうした神理の探究ということをおろそかにして、やはり芸術論であるとか、そうしたことをやっていても、それほど大きな仕事は多分できないであろうと私は思います。ですから、神理なら神理で結構、新局面をとにかく開くまでは、がむしゃらに進む。時代の新局面を開くまではとにかく前へ進んでゆく。

画家が絵を描く時は、もうそれはキャンバスとの取っ組み合いです。寝食を忘れて、とにかく出来上るまでは何もできないのです。そうしたものです。一作一作絵を描いていると思えば、十作描こうが二十作描こうが満足しないものはしない。いくらでも描かざるを得ない、次から次へと。そうしたものだと思いなさい。

絵には限界がありません。私も同じ絵をいくつも描いたわけではない。一つ一つの絵が違う。同じように、神理の書も一冊一冊が違う。この一冊でもって、自分の絵が完成したということはないであろう。そうしたものです。ですから、徹底的に絵を描くつもりで一作一作新たなものを書いていく。そのうち名作が出てくる。こういう考え方をとっていきなさい。これが間違いがないと思う。

その意味においては、あなた方は何百冊もの書物を出していくであろうけれども、私の対話者をしているあなたにしても、まだまだそうしたことで満足してはならんと思う。あなた自身の仕事を見ても、まだまだ私は三合目程度ではないか、そういう感じを受けます。まだ、五合目、七合目、八合目、九合目、十合目と残りがあると思う。

ま、時代が非常に恵まれている時代であるのだから、この時代を最大限に生かさねばいけない。私はかつて鑑真として出た時に、何度も何度も日本に渡航しようとしては、嵐にあって流し戻された。そして、失明までして日本に法を伝えたことがあるわけです。こうしたことを考えてみると、その方法論で費した時間と手段、方法の部分で費した時間の多さその苦役の多さ疲労の多さ、というものを考えた時に、やはり内容そのものに費せる時間があるということが、一体どれだけ大事であるか、それを感じるわけです。

今、そうした恵まれた時代にある、法の本論に入っていける時代にあるということは、これは怠けてはいけない。心をもっともっと引き締め、心を鬼にして、芸術家だと思って、一枚一枚の絵を描いていかねばならん。

画家は絵を描かねば、それでは飢え死にです。それでは画家は画家でなくなるんです。画家は絵を永遠に描き続けているということにおいて、画家であることが許される。芸術家であることを許される。一作一作が、秀作であるか駄作であるかは、それはわからない。それは、自分で思うこともあるし、世間の人が認めることもあるし、あるいは、時代が過ぎ去って人が認めてくれることもある。しかし、描いている最中、製作の途中においては、一心不乱です。人が認めようが認めまいが、とにかくやっていく。こういうことであろうと思います。

この意味においては、あなたも一つ一つ絵を描いているのだから、絵というものは十作や二十作で満足できるものではないということを知らねばならない。数多く作れば作るほど、いろんなものに対して好感を持つ人の層が増えてくる。そう私は思えるのです。ですから、自分で一作一作が駄作であるか、あるいは素晴らしい作であるか、傑作であるか、こうしたことは考え過ぎないで、絵を描いていると思って一作一作仕上げていくことです。これが大事です。


6.断固妥協するな、徹底的なる個性の追究発現を果たせ


ピカソ  それと、先ほど言ったように決して逃げてはいけない。時代の新局面を切り開くまでは、決して逃げてはいけない。断固として、自分らが正しいと思うものを追究せよ。そこで価値を認められるまで、止めてはいけない。徹底的にやりなさい。妥協的性格では新時代は築けない。妥協的性格では天才とはなれない。断固として、徹底的にやりなさい。

あなた方は、天才となるべく生まれている人たちなのです。今、死して天才と言われるかどうか、よく自問自答しなさい。そして、まだその境地に達していないと思うならば、それはまだまだ手ぬるいのです。仕事において手ぬるい。もっと徹底的にやらねばならんのです。徹底的にやらねばならん。あくまでも、他人が何と言おうとも、信念のなかで、徹底的に生き抜くことが大事です。芸術だと思って、手を抜いてはならん。芸術に妥協はない。徹底的に個性の発現を、個の発現をしていかねばならん。人から良い人間であるとか、良い人柄であるとか、褒めてもらおうと思ってはならん。

芸術家がそれを描こうとしている時には、もう徹底して集中するしかないのです。没頭あるのみです。人の言葉や惑わし、こんなものを受けてはならん。一喜一憂してはならん。人の評価で一喜一憂したり、人のものの言い方で内容を変えたり、そんなことをしてはならない。徹底的にやりなさい。まだまだ足りない。徹底的にいきなさい。徹底的にやりなさい。それを貪欲(どんよく)にやりなさい。自分一人でできないと思えば、どんどん助手でも何でも入れて、徹底的に、時代の新局面を開くまでは、止(と)めない、止(や)めない、そういうつもりでやっていきなさい。

小さくまとまってはいけない。決して小さくまとまってはいけない。人が何を言おうがそんなことは気にしてはいけない。キュービズムの世界などは、これは人の評価を受け入れるものではない。しかし、徹底的にやった時に、そこに新時代の芽が出てくる。平面的な美を超越したもの、それは次のステップです。自分自身のものが完成されたものでなくとも、新時代のキュービズムが次なるステップを生んでいくのです。あなた方も、そうしたものでありなさい。

こうした高級霊の言葉や、神近き人たちの言葉を伝えられるということは、かつての時代になかったし、今後もなかなか出ないことでしょう。後世の人から見ても、これだけの証拠があるなら動かし難い、と言われるだけの仕事を徹底的にすることです。徹底的にやりなさい。

あれだけ絵を描いたからこそ、ピカソという人がいたということは、これは動かし難いものとなるのです。一枚や五枚、十枚の絵を描いたところで、どんな人間がいたかいないかわからない。徹底的に自分としての個性を訴え続ける。そのためには、やはりそれだけの実績を積むことが大事です。

私の立体の絵を観ても、そのままでいいとは思わんであろう。ただ、その前に、私はちゃんとした軌跡を通っているから、それなりの評価がある。いきなりあの絵を描いたのでは、そうは思われんであろう。したがって、それだけの積み重ねがあったということが、評価を生むこととなったのです。

したがって、あなた方も一冊一冊を積み重ねていって、世を唸(うな)らせるだけの実績をつくったならば、初めて聞く人から見れば、絵空ごと、夢物語のように聞こえることでも、真実味を帯びて聞こえてくるようになるのです。

ですから、最後に当たるかも知れませんが、断じて妥協してはならん。徹底的個性の展開。時代の新局面を切り開くまでは、絶対に止めない。こういう気持を、私は大事にして欲しい。良い人である必要はないのです。変わった人でも悪人でも何でもよい。少なくとも、時代を切り開くまでは、止めない。愛人がいようが、恋人がいようが、結婚を何度しようが関係はない。そんなものではない。断固として新時代を築く。そういう気持が大事です。

ま、これについて何か質問があればお答えしましょう。


7.神理を銃弾の如く撃ち出せ、評価、枠組は後世人の仕事


――  まあ、先ほどダンテ先生からいろいろご教示を賜ったのですが、あの方がもう少し幅の広いところでその霊界の状況の説明とかいうようなことを強調されたのですが、それについても私は一理あると思いました。ただ、今の先生のお話では、我々の核となるものはやはり、この断固とした個性の追究なり、展開であるというふうにお聴きしたわけですが、やはり、これを核として、ダンテ先生のそういう考えも許されるということでよろしいでしょうか。

ピカソ  まあ、ですから私にしてみればね、画家でなければいけないのか、彫刻家でなければいけないのか、一体何でなければいけないのかといった、こうでなければいけないというものに、私ははまりたくないのです。私はやりたいようにやり、描きたいように描き、彫刻を作りたければ彫刻を作る、絵を描きたければ絵を描くのです。しかし、結局のところ追究しているのは何かというと、それは徹底して美の精神を追究し続けたということであろうと思います。それが、いろんなかたちで出てくるだけです。

したがって、あなた方は何を追究しているのか。追究しているものが、いろんなかたちで出てくるだけのことです。

だから、自分たちが宗教をやっているのだとか、芸術をやっているのだとか、文学をやっているのだとか、哲学をやっているのだとか、こうした枠に入れてはならんということです。本質的なものを求めていて、その展開として、いろんなものが出てくるのでよいのです。

したがって、自分たちは宗教家だからこうあるべきだとか、自分たちは思想家だからこうあるべきだとか、こういう考えは持たないことだと思う。私はたとえば画家なんだ、という定義でいけば、絵を描く以外何もできないことになる。そういうことです。私は自分のことを美の精神の探究者だと思っているから、何にでも手を出すことができるのです。

したがって、あなた方は神の探究者であるべきです。神の探究者であるのならば、神を説明し、神を知らしめるためのあらゆる活動を行うということです。自分たちで定義をしてはならない。これを、私は言っておきたいと思います。

それで、ダンテの如く現実妥協論もあるでしょうし、それはそれなりの根拠も恐らくあるであろうと私は思いますが、そこにはやはり、今ひとつ自分の個性を貫いていないというところにおいて、少し残念さがあるのではないのか。もっと徹底的に自分というものを主張すればよかったのではないのか。あるいは、信奉者というのが少なかったのではないのか。まあそういう感じを受けるわけです。孤独に自分ひとりで闘った人は、そうなることもあるでしょう。

だから、その過程において数多くの信奉者を得ておくという順序ですね、これを間違わないことです。孤独な闘いだけをするのではないという意味でです。もちろん神理において、芸術において孤独さということはあるでしょうが、その客観性ということを常に忘れず、人々の評価、名声も博することを辞さない、こういう考え方が大事であろと思います。

比較的初期において、そうした名声をつくっておくことです。これが恐らくあなた方を守ります。あなた方は今、神理の書物を出しているけども、まず最初の数年のうちに、その値打ち、評価を固めてしまうことです。この評価が、あなた方を守ります。今後何をしようとも。それが宗教であろうがなかろうが、関係なくあなた方を守るようになる。まず、そうした世間的な評価を得ること。これから二、三年以内に確立してしまうぐらいのつもりで、やればよい。

また、偉大な芸術家は、たいていの場合、多作であるということを知らねばならない。それをね、言っておきます。

だから、まず評価が固まってくれば、その評価があなた方を守ってくれるでしょう。宗教だから間違いであるとか、何々だからどうかということではなくて、中身の評価があなた方の活動を守ってくれるでしょう。私のキュービズムにしても、ピカソが描くのだから、何かそこに美があるのではないか、意味があるのではないかという見方をされたわけです。「ピカソが」というところがなければ、誤解を生むことになる。ま、ピカソという名に、それだけの価値ができていたということであります。

そうであるならば、あなた方はあなた方の名前に、それだけの価値をつくっておくことです。これに最初の二、三年はできるだけ私は力を注ぐことを勧めます。

そうであれば、一年に書物も二十冊であろうが、三十冊であろうが、四十冊であろうが断固として出し続けなくてはいけない。これは絵を描いているのと同じだと思いなさい。画家は一年に何作描くということが決まっていますか。一年に一作ですか。十作ですか。五十作ですか。百作ですか。いくら描いてもよいのです。そのなかで、いいものがあればよいのです。一つあればよい。いいものが一つでも出ればいい。ま、そうしたつもりでね、神理というものを銃弾の如く撃ち出していく。この姿勢に間違いがないと、私は思います。

神の探究者なんだから、神の探究者として、今後あらゆる活動をしていくということです。その枠が先にあって、そのなかで動くのではない、中身があってそのあとに枠が用意されていくのだ。こういうふうに考えなさい。

そして、あなた方にどのようなレッテルを貼るかは、これは他の人びとの仕事です。あるいは後世の人の仕事です。私はそう思います。レッテルは他人に貼らせなさい。自分たちは、中身をつくることに生きることです。


8.強靭(きょうじん)なる精神で書き、吼(ほ)え続けよ


ピカソ  ま、私からあなたに言わしていただければ、まだまだ仕事量としては遙かに不足をしているように思います。一生の目標として上げるならば、私はあなたには、講演は五百回以上はやっていただきたい。五百回以上の講演。百冊以上の著書。これをやっていただきたい。これは、私からのお願いです。同僚としての、かつての同僚としての、また、今あなた方の指導霊団の一人としての私の願いは、あなた個人にとっても五百回以上の講演と、百冊以上の著書の刊行、ここまではがんばっていただきたい。これは可能であると思います。おそらく、可能である。それは意志と努力です。これさえあれば可能です。

――  先生は万という単位の作品を生み出されたということでございますが。

ピカソ  その通りです。それが、百枚であろうが、五千枚であろうが、誰に遠慮することもないのです。神理というものであっても、一冊でも多くの書物、一回でも多くの記事、一言でも多くの演説をすることです。これが記録となり、人びとの肥(こ)やしとなるのです。数多く講演しているうちに、いいものも出てくるのです。それでよいのです。一回一回がダイヤモンドの如くである必要はない。数多くをやっているうちに、いいものができるのです。それでよいのです。

画家だとしても、画家の絵はすべてが褒(ほ)められることはない。駄作と言われるものはいくらでもある。しかし、そんなことで意気消沈していては、真の芸術家にはなれない。そうではないだろうか。そういう意味で、あなた方はもっと図太くなければいけない。もっと強い強い精神、強靭(きょうじん)な精神を持たねばいけない。はね返していくだけの精神。駄作を一つつくれば、もっといい作、素晴らしい作を十作つくればよい。こういう気持でやっていけばよい。

どうかどうか、目標を大きくおいて、もっと荒々しく逞(たくま)しく生きていかねばいけないと思う。書き続けることです。吼(ほ)え続けることです。これが大事だと、私は思います。

あなたに、もう一度目標を言っておきます。五百回以上の講演と、百冊以上の著書の刊行。これが終わるまでは還って来るな。これを私は言っておきたい。今、そのうちの何パーセント、達成しているでしょうか。よくよく考えていただきたい。精神力があればそこまでもっていけるはずです。

画家であれば絵を描く。画家でないならば、あなた方は講演をし、書物を書く以外にないではないか。それを徹底的にやることです。それが生命のエネルギーであり、個性の発現ということです。それをやらずして、いくら言い訳をしても、人の言葉にいくら耳を傾けても、そんなものは何の役にも立たないということです。

ピカソが人の批判を受けて、そして「ゲルニカ」以降、たとえば制作を中止にしたところで、それが何になりますか。何にもならない。止めないから値打ちがあるわけです。徹底的にやることです。

信念が強い場合、世間がそれに合わせてくるのです。認めざるを得なくなるのです。そこまでやるなら本当だろうと、思う時が来るのです。神の世界、霊の世界ということについては、人びとはまだ藪(やぶ)のうちであり、山の向こうです。そう思っている。しかし、ここまでやるなら本当であろうと、思う時が来ます。それまでやり抜くことです。止めないことです。徹底的にやることです。一枚一枚、絵を描いていると思って書いていきなさい。

五百回以上の講演。百冊以上の著書。何度も言っておきます。この程度書かねば、ピカソの業績とは少なくとも匹敵(ひってき)しない。あなたは、あの世では私とだいたい同じ位の境涯に還ってくることになっているのだから、それに匹敵させるためには、神理という面において少なくともその程度の仕事をして還らなければ、匹敵しない。そういうことを言っておきたいと思います。

ま、そういうことです。この辺で話を打ち切ろうとは思いますが、最後に何か一言聞きたいことがありますか。