※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。

目次












(1986年5月6日の霊示)

1.人生の主題曲、変奏曲とは何か


ベートーベン  ベートーベンです。

――  ああ、これはベートーベン先生。ご降臨下さいまして、まことにありがとうございます。私どもは各時代におきまして、ご活躍されました偉大なる光の指導霊の方々の神理のお言葉を承って、今世におきまして、新たな正法・神理を伝え述べたいと、このような意図のもとに仕事を進めておりますけれども、今回、さらに芸術に携(たずさ)わられた方々のご指導を願って、芸術に対する、あるいは現在の芸術家、または将来の芸術家に対する、「本来の芸術とは、如何(いか)なるものであるか」ということについてのご指導をお願いいたしたいと、このようなことで、過日はピカソ先生をお招きいたし、ご高説を承ったのですが、本日そのような意味におきまして、先生のお教えを伺(うかが)えるならば、非常に幸せだと思います。このようなところにお招きしてまことに恐縮ではございますけれども、音楽における先生のご生涯を通して、今世のまた未来の者に対し、何かご指導いただけますならば幸いと思いますが、お願いできましょうか

ベートーベン  あなた方は、この日本の国に、新たな宗教の種を蒔(ま)こうとしておられるものと思います。しかし、ともすれば新たな宗教の模索ということは、どうしても過去の宗教の幻影に惑わされるものであります。音楽の世界でも、一大革新というのが近世来、さまざまなかたちで起こったわけであります。私もあなた方には、今日(こんにち)では楽聖(がくせい)とか言われているようではありますけれども、私の使命そのものは、やはり、新たな波紋をこの世に起こすことでありました。

私自身の使命は二つありました。その一つは、音楽という世界において、新たなる芸術の波を起こすということが一つ。今一つは、不僥不屈(ふとうふくつ)の人生をもって、それを示すことによって、世の人びとを勇気づけるということでありました。それが私の人生の主題でありました。その他、主題曲以外にも、変奏曲はさまざまありましたが、主として、主題曲としてはその二つでありました。

さて、あなた方にとっての、主題曲と変奏曲とが、一体何であるかということを考える必要があろうかと思います。あなた方にとってのモチーフ、主題曲は、もちろん、霊的世界をこの世に広めるという、そうしたことでありましょう。そういう意味において、さまざまな方々の霊言を広めていくということ、霊的世界についての知識を普及させるということ、これが主題でありましょう。しかし、これ以外の部分、変奏曲にあたる部分も、また必要ではないでしょうか。それがあなた方にとって今、何であろうかということです。

たとえば、神はあなた方に対して、その霊的世界の普及という主題以外に、如何なる方向を与えられているかということです。それは、あなた自身の個性と本質とを見つめるときに、明らかになってくるものであります。未(いま)だ、あなたご自身も気がついておられないような面もあるはずなのです。そうした変奏曲の部分も、また大切であります。

おそらくは、音楽についてあなたに専門的なことを語っても、多くの話はできないであろうと思われます。また、音楽という性質上、音というものが主役であるし、また、楽器というもの、演奏者というものが主役であります。それをこのようなかたちで、対話という形式を通して表現するのは、とても困難なことであります。私の調べの申に秘めた真実というものは、とてもこのような話の中では表すわけにはいきません。

先般、ピカソ様からは、絵画についてのお話があったとのことでありますが、それではあなた方から何もお話がないようですから、私の方から、もう少し話を続けるといたしましょう。


2.天上界にもそれぞれの階層に照応した音楽がある


ベートーベン  音楽というものの役割、これを考えていただきたいのですが、音楽というものは、もちろん、この地上の世界だけにあるものではありません。音楽というものは、やはり、神の調べの一つであります。神は、人間の魂を、神の子たちの人生を明るく照らすために、さまざまな装(よそお)いを許されました。その一つが、たとえば美であり、美しさですね、粧(よそお)いであり、また、他の一つが音楽でもあったでありましょう。

天上界にも音楽はあります。それぞれの世界に応じた音楽があります。あなた方の思想にも段階があって、それぞれの段階に応じた思想があるように、天上界にもそれぞれの階層に照応した思想というもの、音楽というものがあるのです。ですから、地獄的なる音楽もあれば、天国的なる音楽もあります。

今、クラシック音楽と言われている領域の中には、非常に天国的なる調べが多く残されています。天国というのは、それほど忙(せわ)しいところではないのです。さまざまな物語りでもお聞きの如く、やはり牧歌的な雰囲気のあるところが天国であります。しかし、地獄の方は忙(せわ)しいのでありまして、闘争と殺戮(さつりく)、破壊が相次いでおります。そうした中で生み出される旋律というものは、非常に忙しげなものです。

現代においては、地獄的なる音楽が、非常に地上に蔓延(まんえん)していると思います。あなた方が聴いている音楽の一つひとつが、昔に比べれば、ずいぶんテンポも早くなり、聴くものによっては、騒音にしか聴こえないような音楽が、よしとされている世の中ではないでしょうか。あれは地獄的なる音楽なのです。本当の音楽というものは、人の心に悦びを与えるものです。幸視感を与えるものです。神秘的な情感を与えるものであります。

天上界においても、こちらにおいても、やはり音楽というものはあるのです。天人(てんにん)たちが音楽を楽しみたいというときに、やはりそうした音楽を次々と聴かせてあげるのが、私たちの仕事であります。


3.私たちは、音楽の調べを通して神の世界を表現している


――  おたずねしてよろしいでしょうか。

ベートーベン  よろしいです。

――  私はある方からお教えいただいたのですけれども、音楽も芸術のジャンルの中の一つであろうと思いますけれども、たとえば絵画なら絵画は、一つの感覚、つまり視覚を通して鑑賞するものでありまして、やはり一つの造形芸術と申してもよいと思うのです。彫刻もしかりであり、まあ文学もある意味ではそうでありましょう。けれども、音楽におきましては、聴覚でその美というものを鑑賞する芸術であろうと思うわけなのです。その意味において、実は神の創られた世界のバイブレーションと言いますか、そういうものを端的に表現しているのがこの音楽であると、このようにある方が申されているのですけれども、芸術の中で、音楽こそ至高の神のバイブレーションを伝えるものであるというように聴いているのですけれども、あなた様のお考えとしてはいかがなものでしょうか。

所詮はこの世もそちらの世界も、波動の世界であろうと思うわけなのですが、要は心の波動の世界であろうと思うわけなのですが、それが形象化してきて一つの事物になったり、いろいろするわけですが、つまるところは心の波動であると、メロディー、旋律であろうと思うのです。音楽におきましても、そのことがいちばん重要であり、心の波動の精髄を奏でるというところに、音楽の音楽たるゆえんがあるのではなかろうかと、このようにも思うわけなのです。その音楽を理解し、音楽によって真の美なり、心の振動をかき立てられる、奏でるということができることは、非常に幸せであろうと思うのですけれども。

ベートーベン  まあ、結局は同じことであって、あなた方は、思想というか、活字によって、神の世界を表現しようとしておられる。また、画家たちは、絵というものを通して、神の世界を表現しようとしておられる。私たちは、調べということを通して、神の世界を表現しようとしているのであります。

あなた方は、文字の上には、天国のハーモニーを現すことはできないでありましょう。思想的に訴えて、神の世界を出しているだけであります。しかし、天国の中には、美術でいうような素晴らしい情景もある。これはあなた方の筆では表現できないものであります。絵画を通さずにはわからないものであります。あるいは、私たちが創るような調べというものもあるのです。

ですから、悟りというものには、さまざまな種類がありますけども、視覚的に美しいなと思って信じる場合、こういった方面の悟りもあれば、音楽的なものに陶酔することによって、神の世界を感じるという方もいるのです。

私の音楽を聴いて、やはり、神を感じたと言われる方は多いのであります。また、私の音楽を聴いて、人生を感じたという方も多いのです。また、私の音楽を聴いて、苦難の人生を、素晴らしいものに変えてゆこうとする勇気が湧いてきた、と言われる方も多いのです。

音楽は何も語っていません。言葉はありません。言葉はないけれども、雄弁なのが音楽であります。あなた方が、どれだけ文字で人びとを勇気づけるようなことを書いたとしても、それを読まなければ、なかなかそのことはわかりません。けれども、音楽という普遍的な材料を用いることによって、さまざまな人が、少なくとも私の曲の一部は、一度は聴いているはずなのです。あなた方の書物を一生の間で読むことがある人とない人は、分かれるでありましょう。けれども、ベートーベンの音楽は、世界各国の方が一度は耳にしておられます。

その折々に、さまざまな曲、曲のなかに、私はさまざまな細工をしているのです。それは、あるときは神の国の栄光であったり、あるときは人間が生きていく上での正法であったりするわけです。そうした物事を、音符の中に、私は隠しているのであります。ですから、聴いている人は気がつかないでしょうが、私の「運命」なら「運命」という曲を聴いて、悲惨な人生から立ち直ろうとする人が出たならば、それで私は、あなた方がちょうど神理の書物によって人びとを鼓舞(こぶ)しているのと同じようなことを感じているのであります。思想だけでは、人間というものはついてこないのです。


4.感性を研ぎ澄まし天界の調べを感受せよ


――  やはり、音楽は一つの感性といいますか、人間の感情に非常に大きく影響を与える芸術であろうと思うのですけれども、あの「英雄」、あなたのつくられた「英雄」という曲につきましても、あれのなかに、あの曲を聴く者が、壮大なやはり一つのドラマというか、人間の冒険というか、偉大な意志の発揮というものを感じ取ることができるようになっているのであろうと思いますけれども、感性によって、それが自覚できるようなかたちになっているのではないかと思いますけれども。

ベートーベン  ま、感性というものは、あなた方はともすれば、良く思わない傾向があるのです。宗教的な方々は特にそうです。五官煩悩ということで、目から入るもの、耳から入るもの、鼻から、舌から、ロからですね、入ってくるもの、こうしたものが人間を狂わす、感わすというふうによく言いますけれども、また五官から入ってくるもののなかで、人間を正しく導くものもあるということです。五官を去ればよいのではないのです。釈迦はそう言ったかもしれません。「五官を断て」と。「五官に感ずるものにおいて、美しきもの、楽しきもの、神理に近きものは何もないのだ」と。「むしろ五官を超えた世界のなかにこそ、神理はあるのだ」と、釈迦は言ったはずです。

けれども本当は、五官を通じて入ってくるもののなかにも、神の調べは入っているはずなのです。眼は嫌なものばかりを観ているわけではないのです。美しいものも観ているのです。天国地獄はあの世にあるだけではなくて、また思想的な世界だけにあるのではなくて、眼に映るもののなかにも、天国地獄はあります。

美しい景色は、どう観ても天国であります。目を思わずつぶってしまうような景色というのは、どう観ても地獄であります。耳から入ってくるものものそうであります。騒音は地獄的なる音であります。美しい調べは天国的なる調べであります。美しい言葉は、天国的な音であります。しかし、人の悪口や陰口は地獄的なる言葉であります。

ですから、あなた方は思想として、「人の悪口を言ってはいけない。人は欺(あざむ)いてはいけない」、そうしたことを教わり、また説くこともあるでしょうが、これを音というレベルで捉(とら)えたならば、「悪い音は聴いてはいけない。いい音を聴きなさい、いい音を発しなさい、悪い音を発してはならない」。感性のレベルではこういうことになるのです。

人の悪口とか中傷とかいうようなことは、これは音楽的なる調べに直してみると、大変、乱れた旋律になってしまいます。ところが褒(ほ)め言葉というものは、非常に美しい調べとなってくるのです。人間の言葉というものも、ある変換によって音楽の調べに直すこともでき、そのような調べになっています。


5.苦悩を乗り越えてこそ、人生の一大シンフォニーは作曲できる


――  いささか現代に及びますけれども、現代はまあこのジャズ音楽が非常に盛んになってきておりますけれども、これらはどういう傾向でございましょうか。

ベートーベン  ま、ジャズ音楽を、すべて地獄的と言うつもりはございませんが、ただ、波動としては、高い波動ではありません。特に、悲しみを歌うジャズ、ああしたものは地獄的なる波動も、かなり入っているでありましょう。ジャズ音楽というのは、地獄から、せいぜい霊界、五次元霊界レベルの音楽であります。

――  これは、だいたいアメリカあたりから発生してきたものでしょうかね。

ベートーベン  黒人とか、そうした者が中心になってきたものだろうと思います。

――  そもそもは、呪術(じゅじゅつ)的なものから出発した音楽なんでしょうか。

ベートーベン  言っておられることの意味がわかりません。

――  ま、占いとか、祈りとか、そういうふうな黒人あたりがよく使っておられるものですね、そういう音楽の中から出発したものかと思うのですが。

ベートーベン  そうでもないでしょう。あなたには、どうやら音楽論は不向きのようですから、もっと一般的なことをお聞きになりたければ、そうした話もいたしましょう。

――  それでは、先生のことをおたずねしては失礼ですけれども、特にご生前中に、音楽に心魂を傾けておられた中途におきまして、耳を痛められて、非常にご苦労されたということなんですが、その間のご心境なり、何なりをお聞かせ願いませんでしょうか。

ベートーベン  音楽家にとっては、耳が聴こえない、眼が見えないということは、これは最大の苦痛であります。足が動かなくても、手が動かなくても結構ですけれども、耳が聴こえないということは、最大であります。

ただ、今秋は、それをどうこう言うつもりはございません。やはり、秋の人生というものは、一つの「運命」交響曲を奏でていたようなものだと、私自身思います。人間というものは、決してバラ色の人生だけを送るものではないということです。ただ、どのような苦悩にたとえ打ちのめされようとも、その苦悩を乗り越えてゆく過程において、素晴らしい交響曲を創ることができるということなのです。人生においてですよ、素晴らしい交響曲を創ることができるということなのです。

ですから、あなたにしても、あるいは他の方々にしても、さまざまな苦痛や、あるいは不自由なことも多いと思いますが、そうしたものは、無ければいいことではないのです。順風満帆(じゅんぷうまんぽ)の人生のなかにおいて、宗教を一つのシンフォニーとするならば、素晴らしいシンフォニーはできないのです。やはり、あなた方の人生も、山あり谷あり、ごつごつした岩ありと、そうしたなかで、一つの調べを奏でるようなものでなければいけません。

あなたは、毎日毎日、ずいぶん苦痛がっておられます。あなたにとっては、人生自体がかなりの部分、苦痛であったろうと私は思います。それが外見にも出ていますし、端(はた)の者にも感じられます。また、私のように初めて来た者にも感じられます。ただ、そうしたものに負けてしまうようなあなたであったならば、あなたが作曲する曲は、平凡な曲になってしまいます。

やはり、一大シンフォニーを創るということなんですね。悲しみが深ければ深いほど、喜びもまた高いのです。地獄の奈落(ならく)を経験するからこそ、天国への飛翔というものが素晴らしいものとなってゆくのです。その落差こそが、音楽のスケールの大きさとなってゆくのです。ですから、あなた方の人生の音楽のスケールを大きなものとするためには、やはり、さまざまな苦難が必要だということです。

私は現在、ベートーベンとして、世の人びとから多少の尊敬を受けておりますが、その理由の一つは、ただ、私が素晴らしい曲を書いただけではありません。やはり、私が苦悩を乗り越えた人生を生きたということが、世の人びとの胸を打っているのではないでしょうか。ある意味においては、私の人生は、苦行僧のような人生であったということであります。

日本にも昔、中国から、眼が見えなくなっても仏法を伝えようとして来られた僧がいたと聞いております。鑑真(がんじん)という方だと聞いています。たとえて言えば、そうした方のような人生であったであろうと、私自身思います。眼も見えず、言葉も通じない国に来てでも、やはり、仏法を伝えようとする信念、信仰、そうしたものは、彼に何度かの難破をもものともさせず、彼を日本まで導いたのでありましょう。私の人生もそうでありましょう。眼が見えず、耳が聴こえずとも、やはり、壮大な神の音楽の世界を、この世に伝えねばならないと、そういうことであったと思います。

モーツァルトにしてもそうです。彼もまた、光の天使でありますが、彼の人生そのものは、悲惨でありました。不幸の天才であります。けれども、彼の人生、三十数歳、五歳でしょうか、そのくらいで閉じた彼の人生そのものは、悲惨でありました。不幸な天才であります。けれども彼の音楽自体は、珠玉の名編であります。ですから、この世的な人生の幸、不幸と、神の下僕(しもべ)としての幸、不幸とは、必ずしも重ならないのです。ですから、あなた方にしても、この世的な幸福ばかりをどうかあまり考えないでいただきたいと思います。

――  ただ、まあ私たちの仕事は、より多くの人びとに導きの方向を示す、幸せを示す、そういう仕事でありますために、私たちが、世の人びとから見て不幸なそういうような状態で、人びとに対し神の下僕として「幸せである」という認識を与えるということは、非常に困難な作業でございます。やはり角度を変えた意味においても、私たちの生き方が人びとに正しい生き方であると感じられるような、そういう姿であらねばならんと思っております。

ベートーベン  ただ、あなたご自身について言うならば、まだまだ何と言いますか、魂の足腰の部分が、まだ弱いように私には見えます。あなたは、圧力を加えると、やはりグシャツと潰(つぶ)れてしまいそうな気が私にはします。まだ弱さがあります。そうではなくて、バネと一緒です。圧力を加えられたら、ある程度までは縮みます。これはやむをえません。しかし、ある程度までです。それから後は撥(は)ね返す。こうしたものでなければいけません。圧力を加えられたら、トマトか何かのように潰れてしまうようではいけないのです。いいですか。自分自身を偉大なるバネだと思ってください。偉大なるバネほど縮みはすごいのです。しかし、縮みもすごいけれども、反発する力もまた強いのです。バネのように、どこかの点で、運命の力を撥ね除(の)けるようでなければいけません。そうした足腰の強さが必要です。魂の足腰の強さが必要です。まだまだ弱い。バネのようには生きていない。まだまだ運命に翻弄(ほんろう)されていると、私には思えます。


6.曲の着想は一瞬のインスピレーションの中にある


――  あなた様はご生前中、自分というものを見つめて、自分というものは光の指導霊であるというご自覚がございましたか。

ベートーベン  ありませんでした。

――  それでは、あなた様のお仕事というものに対する意義というものを、お感じになっておられましたか。

ベートーベン  それは感じておりました。ただ、私は宗教家ではありませんから、あるいは天使というようなことは、もちろん、信仰の世界においては知っておりましたけれども、そうしたものが現に地上界に出ていて、さまざまな活動をしているとは思ってはおりませんでした。天使はやはり、天上界において羽を生やして飛んでいるものだと思っておりました。まさか自分が天使で、地上に生まれて作曲をしているとは思ってはおりませんでした。ただ、神は信じていましたし、神の国をこの地上に写すということは常々考えておりました。

――  あなたがお仕事をされているその時に、いわゆる作曲ですね、作曲の時に、天上界からのインスピレーションというものが現れたわけでしょうか。

ベートーベン  そうです。

――  そしてまず、主題を決めて、そして一つの作曲をされたのでしょうか。

ベートーベン  そうしたことは、あなたに言うのは非常に困難を感じますけれども、私が地上で作曲した曲も、一部分はやはり、すでに過去世において、天上界において創っていた曲であるし、また、天上界で制作中の曲が私の方に伝えられる場合もありました。

それはね、ちょうど宗教家たちがそうです。霊的な能力を持っている方々でも、その人の器、その人の性格に応じてさまざまな受け止め方をするはずです。あるいは、神道的なものだけを受け付ける方もいれば、仏教的な霊波動を受ける人もいれば、キリスト教的なものだけを受ける人もいる。あるいはあなた方のように、いろんなものをまとめて受けるような方もいる。そのように個性の差があります。

同じように、音楽においてもそうなのです。天上界ではさまざまな音楽が奏られております。次々と創られております。その中で、自分の個性に応じたものを引き寄せていくのです。

――  まあ、音楽的なことの素養が、あまりにも私にはないために、核心に触れるようなことのお尋ねができないのが、まことに残念だと思いますのですけれども。

ベートーベン  音楽そのものは、こうした対話による話には馴染(なじ)まないものであるということも一つです。

――  しかし、協奏曲というか、シンフォニーというものは、いろんな組み立てということを大事にするのではないのでしょうか。たとえば、まああのピアノならピアノと、バイオリンならバイオリン、チェロならチェロ、その他、そのような弦楽器なり管楽器とを総合した和音というか、そういうものを集大成するという意味で、建築的な組立というか、そういう構成力をもって作曲をされるわけでしょうか。

ベートーベン  ま、それはそうですけれども、ほとんどね、一つの曲、何時間にもわたる曲の着想というものは、ほんの一秒か二秒なんです。その二時間、三時間の着想という壮大な曲が、ほんの一秒か二秒のインスピレーションの中に、集約されてくるのです。直観なのです。

たとえば、画家が、ある情景、あるいはある絵をですよ、インスピレーションとして直観的につかんでしまうことがあります。同じようなものなのです。曲にすれば二時間三時間となるようなものを、ほんの一瞬のうちに凝縮して、頭にその感覚を得るのです。こういうものという感覚があるのです。種のようなものです。これを楽譜に落とすと、大きな本のように育っていくのです。あるいは巻物のようなものですね。一つの巻物が、頭の中に与えられるような感じです。これを曲に書いてゆくと、広げた巻物のように何尺にもなってゆくのです。

ですから、最初、頭に浮かんだ着想が、曲を書き終えるまでに変わることはほとんどないのです。もう最初使った、いわばテープの塊(かたまり)みたいなものです。テープみたいなものです。これが頭に浮かぶのです。このテープを回していくと曲ができるのです。そうしたものです。ただ、その着想を得るために、何年もかかってしまうのです。

――  それは、インスピレーションで与えられるものばかりではなく、ご自身でやはり発想されるわけですか。

ベートーベン  ま、それは曰(いわ)く言い難しで、どうやらあなたにはおわかりにならないようですが、ちょうどね、ちょうどあれです、誘い水みたいなものなんです。井戸の水を汲(く)むときに、一杯の水を置いておくことがよくあるでしょう。水を切らしてしまうと井戸から水が上がってこない。ですから、一杯のコップを置いておいて、その水を上から注ぎかけると、それが誘い水になって、間断なく水が出てきます。そういうことがありますね。ちょうどそういうものなんです。私たちの努力というものは、コップ一杯の水、誘い水なんです。底までね、井戸の底まで水は来ているのです。それはつながっているのですが、誘い水を送り込むことによって水が出てくるのです。そうしたものなんです。その誘い水の部分が必要なのです。

すべての人が、井戸の部分は持っているのです。井戸の中には、水は沢山あるのです。ただ、その誘い水を送らないために、水が上がってこないのです。この誘い水の部分なのです。あなた方にとってもそうです。画家とか詩人たちもそうです。誘い水の部分が必要だということです。あとは無限です。井戸の水は、汲(く)めども汲めども出てきます。涸(か)れてしまうことはありません。

――  非常に内容の深いものであろうと思いますけれども、先生のせっかくのおでましでございますので、現在、また将来の、日本だけではなく、世界の音楽家たちに対する、何らかのアドバイスというようなものをいただけますならば、非常に幸せだと思うのですが。

ベートーベン  まあ、音楽に携(たずさ)わっている方々、作曲をしたり、あるいは音楽を演奏しておられる方々は、技術的なものばかりを磨いておられるようですけれども、本当はそうではないということです。その方々の人生観、思想、あるいは信仰というものが、調べとなって出ていくということです。ですから、その点を誤解されずにやっていただきたい。単なる技術的な練習ばかりをしていてはだめです。心を知らねばなりません。それはちょうどお坊さんがね、お経を上げても、お経の文句は一緒ですよ、どなたが上げても一緒ですが、そのお坊さんの悟りの段階によって功徳(くどく)が違うようなものです。同じです。曲としては同じかも知れない。音楽としては同じですけれども、演奏する人の心の音色に合わせた曲が、出ているということです。

ですから、調和した心の持ち主の演奏した音楽は、天上界の高級霊界にも届いているのです。ところが、不調和な方の演奏した音楽は、そこまでは届いていきません。そうしたものだということです。

ですから、もう少し神理というものを、音楽をする方々にも知っていただきたいと思います。唯物的な物事の考え方をしている人が曲を演奏したところで、それは唯物的な曲にしかなりません。神の世界の表現は無理であります。


7.芸術家は自然と調和の緑色光線


――  私の方から伺(うかが)いますけれども、まあ過日、ピカソさんという美術家、そしてまた今日は、ベートーベンさんという音楽家、その他芸術家、大勢いらっしゃると思いますけれども、芸術の世界というのは、たとえば、神の光の光線で言うと、何色になるんでしょうか。参考までに言うと、仏教のような光が黄色、キリスト教のような光が白色の光線、あるいは哲学者のような光が青の光線、あるいは科学者の光線が白銀の光線、こういうふうなかたちで言われておりますけれども、光線の種類で言えば何色になるのか。あるいは、いくつかの色が組み合わさっているのか。こういったところを伺いたいと思うのですが。

ベートーベン  音楽家というのは、光線で言うならば、緑です。緑の光線が音楽です。芸術も、必ずしも一本の光線ではありません。音楽的なものは緑です。これは法を説く方々で言うならば、無為自然、調和、自然との一体という法を説く方々、彼らとつながっている色であります。あなた方のところに、老子、荘子というような方が出られたでしょうが、この老荘思想、宗教で言うと老荘思想につながるようなもの、それが音楽の世界であります。絵画の世界は少し色が違っています。

――  赤か何か。

ベートーベン  絵画の世界というのは、赤ではありません。絵画の世界も、やはり緑に近いのですけれども、どちらかと言うと、若葉緑に近い色です。芸術は全般的には、やはり緑系統であります。全般には、緑系統ということになっています。

――  文学とかいうようなものはどうなんでしょう。

ベートーベン  文学にもいろいろあります。思想的なものが深いものは、また別な系統になってくるでしょうし、芸術性の高い文学もあります。さまざまなものがあります。けれども、音楽と詩などとは、非常に近いところにあります。詩の流れはやはり緑であります。ですから、一般的に言うならば、音楽系統、あるいは芸術系統は、一般的な色としては緑であります。

――  そうするとこれは、ベートーベンさんにお聞きするのはどうかと思うのですけれども、赤という色は、これはどういった方々を対象とされる色なんでしょうか。ご存知ないかも知れないし、ご存知であれば、教えていただきたいと思うのですけれども。

ベートーベン  赤という色は、もっと、芸術ではなくて、大きな社会的な変動に相当する色です。ですから、赤という色は、やはり政治、経済、こうしたものと関わっています。あるいは法律、こういった非常に、それぞれ三次元なり、四次元、五次元の中で、仕組とか治政、治めるですね、治めるというようなこと、これに関係する色、これが赤です。

ですから、赤の光線の中では、リーダーシップということが大変、重要になっています。いろんな各界の指導者に多いのが赤です。ですから、赤の光線の中に流れているものは、リーダーシップです。ですから、この光線の中にある人は、どうやって人びとを導くか、まとめていくか、治めていくか、こうしたことのプロが多いのです。芸術家は、やはり色で言うと緑でありましょう。自然と同じ色です。

――  緑にも濃緑と若葉緑というようなものがいろいろあるように。

ベートーベン  緑にも少し濃淡があります。


8.お互いに学び合う菩薩界


――  失礼ですけれども、ベートーペン先生が、今、おいでになる地域は、どういう霊域になるのでしょうか。

ベートーベン  あなた方が菩薩界と呼んでいる世界です。

――  どういう方々とご一緒に。

ベートーベン  芸術家の方々が、やはり多いです。

――  たとえば音楽家の方は、どういうお方がおいでになるのでしょうか。

ベートーベン  ショパン、ハイドン、こういった方々です。

――  バッハという方などはおられますか。

ベートーベン  バッハもおります。(注――ハイドン、バッハなどは如来であるが、音楽家霊域について交遊がある、ということである。)

――  ああ、そうですか。シューペルトはまた別ですか。

ベートーベン  いないのです。

――  そうですか。

ベートーベン  他にも、あなた方が知らない古代の音楽家たちは、大変たくさんおります。

――  やはり日常といたしましては、そういう方々が、音楽についてのご研究をされておられるわけでしょうか。

ベートーベン  そうです。そして私たちの研究を、時々発表しております。ですから、各界の方々に呼ばれて、やはり行事がいろいろあるのです。こちらの世界でも、たとえばあなた方のような宗教家たちがね、大講演をやる場合があります。そうしたときに、いろんな方々が集まって来ますけれども、その、たとえばオープニング、あるいはエンディングといいますか、終わりですね、エンディング、エンドですね、終わりにあたって、私たちが演奏したりすることもあるわけです。

――  それはたとえば楽器とか何かを使われるのですか。それは使わないのですか。

ベートーベン  ま、楽器もあることはあります。それはあります。地上的なるものもあるし、地上にないような楽器もあります。ただね、楽器が音色を出すのではないのです。

――  バイブレーションで。

ベートーベン  そうです。ですから私たちが、たとえば私が指揮をすることが多いのですけれども、あるいは楽団員たちの、本当は心から出ている音色なんです。ただ、楽器もかたち上、あることはあります。

――  要するに、心のバイブレーションで、人びとがそれを音楽的に感受できるということなんですね。

ベートーベン  そうです。

――  その楽士さんたちを指揮されておられるという――。

ベートーベン  そうです。

――  その心の調整をされているという――。

ベートーベン  まあ、そういうことですね。

――  そういうことになるわけですか。

ベートーベン  ただね、あなた方が音楽を聴いているようなかたちで、私たちの世界でも、もちろん聴こえるのてす。それは、実際は肉体の耳を通して聴いているのではありませんが、心の耳を通して、その旋律を聴いているのです。念の波動を聴いているのです。

ですから、私たちの世界、あなた方から言えば彼ら霊人たちにも楽しみがあるのです。いつも難しい哲学的議論ばかりをやっているわけではなくて、やはり、音楽を聴いたり、絵画を楽しんだりするような時があるのです。

それと、私たちの世界でも教え合いということがあるのです。たとえば、私たちは音楽について非常に造詣(ぞうけい)が深いわけです。ですからまあ、菩薩界の他の方々もね、たまに音楽を教わりに来るのです。あるいは聴かせて下さい、あるいはこういう作曲を教えて下さいと言って来るのですね。そのかわり後では、私たちが出かけて行って、新しい宗教の先端的な教えを請(こ)ったり、あるいは科学者のグループの処へ行って、科学的なことを学んだり、そういうふうな、お互いに学び合いの世界なんです。あるいは私が演奏をやっているけれども、指揮をしているけれども、指導の力がちょっと弱いと思うと、そういう指導者のグループに入って行って、指導の仕方を教わる。こういうのは、お互いに与え合いの世界なのです。菩薩界においてもそうです。政治家のグループがあれば、音楽家や他の絵画の、美術家のグループもある。あるいは宗教家のグループあり、哲学者あり、さまざまです。お互いに教え合うのです。

――  交流をし合うのですね。

ベートーベン  そうです。教え合ってね、自分が長じているところは先生となり、足らざるところは生徒となって、お互いに交流しているのです。

――  ではまあ、同次元の中に一つの、まあ何と言いますか、区域があって――。

ベートーベン  ま、村があるようなものだと思って下さい。音楽村があり、芸術村がありですね、また文学村があり、哲学村があり、政泊村があり、科学村がありと、こういうことなのです。主として、やはり同じ職能の方々が集まっておられますが、ただそれだけをしているのではなくてね、あなた方の世界にも土曜、日曜があるように、私たちの世界にも土曜、日曜があるのです。そういう時にですね、他の仕事をやるのです。

――  これは地上的に言えば、ご承知のように、日本とかドイツだとか、あるいはアメリカとか、こういうふうに、地域的に分かれておりますけれども、天上界におきましては、そういう地域の区別はないわけなのですか。

ベートーベン  国籍、地域はもちろんありますが、たとえば、その国籍、地域が、音楽なら音楽の、やはり性格の違いを反映している場合があり、そうした場合は多少違うわけで、分かれてくることになります。

――  おいでになるところが違うわけで――。

ベートーベン  そうです。ま、村も一つではないということですね。

――  そうすると、いくつかの村がある――。

ベートーベン  そうです。

――  なるほどね。

ベートーベン  菩薩界にも、何百人もの人がいますから、結構いろんな村ができております。一つの村の構成団員は、だいたい四、五十人です。

――  そうですか。まあ、音楽につきましてはそういうことで、私たちもあまり知識をもち得ないために、おたずねすることも非常に少なく、お教えをいただくことがたくさんあり、それ以外のこともお教えいただいたのですが、なお、私たちは他の文学界の方々もお招きしてお教えを承りたいと、このようにも思っているのですけれども、音楽の関係でお教え願える方というのは、もう他にはございませんでしょうか。

ベートーベン  ただ、どうしても話が専門的になってしまうので、音楽家がそれ以外の人生観を語るのも非常に難しいものだし、仮に言ってもね、あなた方のお役に立てるようなことにならないので、やはり、他の種類の方々をお呼びした方が私は良いと思います。

――  あなた様はご生前中、非常に困苦の中で戦っていかれて、そして偉大な仕事を成されたということからして、私たちは非常な感銘をもっていたわけです。そういう意味で、今回お招きいたしたわけでございますけれども、非常にありがたいと思っております。このようにいろいろとおたずねしたことを、あとで全部再検討させていただいて、非常に有意義な内容を、またこの書物を著すときに編集させていただきたいと思いますけれども、それでよろしいでしょうか。

ベートーベン  結構です。ただ、芸術家たちというのは、まあ、なかなかあなた方の思想に馴染まない者が多いので、ご苦労されることと思います。

――  わかりました。本日は本当にいろいろとありがとうございました。このようなところへ先生をお招きいたしまして、お教えを承ったのですが、私たちの不勉強のために、十分なことをお聞きすることができませんでしたけれども、よく私たちをご理解下さいまして、お教えを賜わり、ありがとうございました。感謝いたします。