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目次











(1988年1月6日の霊示)

1.第一の柱――神理と文学


――  ダンテ先生ですか。突然お招きいたしましたけれども、先生は非常に、偉大な詩人であられまして、それと同時に、やはり宗教的なご造脂(ぞうけい)が深い方でもあり、お作におきましては有名な『神曲』などいろいろ発表されておられるのですが、現在私どもといたしましては、天上界の高級霊の方々から頂いたお教えを霊言集として発行させていただいております。そのなかで、特に今回は「芸術編」として文学者、詩人、あるいは画家、音楽家のご意見を承って、これを一冊の本としてとりまとめて世に問いたいという考えでございますが、先生から何か、詩の方面からでも宗教の方面からでも、ご指教いただければ有り難いと思います。

ダンテ  わかりました。本日は、四本ほど柱を立てて出てまいりました。特に私自身の昔書いたものが、どうのこうのということではございませんが、私として話をしたいことを、四つほど考えてまいりました。

第一は、これはあなた方自身へのアドバイスになると思いますけれども、「神理と文学」というテーマです。

まあ、私も『神曲』という一種の、何と言いますか、物語、戯曲と言いますか、そうしたもののなかに、地獄の様相、煉獄(れんごく)の様相、天国の様相と、こういうことをいろいろと表してまいりました。まあスウェーデンボルグやその他の人たちも、そういうことをやったことがありますが、時折、そうした私たちのようなものが出て来て、そうした霊界の様相というようなものを説き明かす使命というものが与えられることがあります。ただ、そうした場合にも、どうしても地上の人たちは、そうした霊の世界というものをストレートには受け入れることができないがために、そういう文学的なカムフラージュと申しますか、そうしたものをして表されることが多いわけです。

ですから私も実際上、霊能者でありましたし、毎夜肉体を抜け出して霊界に出入(しゅつにゅう)しておりましたし、そしてさまざまな経験もしておりました。そうした体験もありましたが、それ自身を、自体を「我かく聞けり、見れり」ということで話をしたのでは、世の人たちも、なかなか納得がいかないことも多いので、ある程度、文学的な形として残したわけです。この文学的な形で残すということは、直接性というものがやや薄れる点はなきにしもあらずでありますけれども、ただその文学的なる余韻でもって、美しさでもって、後世にまで伝わるという面があるわけです。こういう意味において、非常に有力なひとつの手段ではないか。まあ、このように思います。

ですから今、あなた方もさまざまに霊言集や霊示集を出しているようでありますが、これも、こうした対話、あるいは思想書としてのみ出すのではなくて、時には文学的な装いをもって現れることも肝要ではないか。そのように思われます。優れた文学としても残しておく必要がある。それが、後世まで語り継がれる秘密となるわけです。そういうふうに、神理の普遍性、普及性というものを考えた時に、その文学の纏(まと)いというものを、やはり使っていく必要がある。そして、芸術的に美しいものであればあるほど、人びとの心に迫り、人びとの心を揺さぶるものとなってゆきます。

この意味において、やはり芸術性の高さというもの、これは言葉の美しさでもあるし、言葉運びの美しさでもあるし、全体の構成の美しさでもあるし、胸を打つものでもあるし、こうしたものでありますが、この芸術性の高さという面は、もう少し考えておく必要がある。文学的切り口から入っていくということも大事である。このように思うわけであります。

これが「神理と文学」というテーマについてでありますけれども、今後、今言ったように、思想書のみならず、そうした詩、あるいは音楽、あるいは小説、あるいは戯曲、こうした形で、さまざまに神理を書き残していく必要があると思います。そうしたバラエティに富んだ入り口をつくることが、より一層大きな普遍性というものを、生み出すようになってくるであろう。まあこういうふうに思いますので、この可能性というものをぜひ残しておいていただきたいし、探求してもいただきたい。このように私は考えるものであります。これは、一般論としての第一の柱であります。


2.第二の柱――霊界探訪記の必要性


ダンテ  第二の柱として、私が本日話をしたいと思ったことは、まあこれは私の仕事もそうでもありましたけれども、霊界の様相について、もっともっと情報というものが必要であろうと思います。地上の人たちは、この情報が足りないし、断片的に入ってくる情報が怪奇趣味のようなものが多いために、非常に混乱と猜疑心をあおっている。ま、こういうふうに思われるわけであります。したがって、正確な情報、より正確な見取り図、これが必要です。

本当にこの世の世界の他の国、アメリカや、ヨーロッパに行ってきたような形で、見聞記というものを書いていく必要がある。実際の霊界の仕組はどうなっているのか。住んでいる人は、どうなっていて、どういう生活をしているのか。実際どのように人生が進んでいくのか。これをいくら詳しく書いても書いても、それで話は尽きることはないと思うし、需要を完全に満たすこともできないと思う。この意味において、まだまだ十分ではない。あなた方の仕事をみていると、思想性にやはりウェイトがある。考え方ですね、理論や思想にウェイトがかかり過ぎている。ま、そういうことも大事ではあるけれども、これだけでは抽象的だし、ただ頭のなかだけで考えたようにみえないこともない。

霊界の様相そのものをもっと克明に残していく必要があるし、実際一人ひとりの人間の立場に立って、その人があの世に旅立った時に、その後どうなるのか、どういう生活が待っているのか、これをね、やはり克明に辿(たど)っていく必要がある。こういう霊界物語、探訪記、そういうものをですね、これをやはりどんどんどんどん、続々と出していく必要がある。そのように私は思います。こういうルポルタージュと申しますか、そういうルポですね、探訪記、これが必要です。これは、みんなにとって本当に必要なことです。手引き書ですね。

あなたにしてもそうであって、実際いずれ地上から去るけれどもあの世の世界の実在を知識では知っていても、実際どのように、どうなっているのか――このことについて、そうは詳しい描写ができるわけではない。だから霊界物語、こうしたものを残すことによって、宗教家、あるいは僧籍にある者、こうした者たちにとっても、非常な福音、手引き書となるであろう。基本としては地上に生きている者たちの生活の仕方、生き方、これでよいかも知れないけれども、ただその裏付けとして、人間の本当の姿、行く末、行く手、こうしたものをもっともっと明らかにする必要がある。

この意味では、地獄の構造も含めて、天国の構造、及び生活、これをもっと克明に表していく必要がある。一体何をしているのか。彼らが何を考え、何をしているのか。こういうふうに考えていけば、有名人であっても、必ずしも最上段階に還っているわけではなかろうから、そうした人たちの生活ぶり、こういう者たちの話、こういうものを綴(つづ)り合わすことも大事である。

今は、どちらかというと光の天使を中心に集めているけれども、やはりこれ以外の人たちのものも編集していくと、一般の人たちは、そちらの方がむしろ面白いかもしれない。四次元、五次元の人の話の方が親近感がある。有名な人はいくらでもおります。こういう人たちが死後、どうなったのか、こうしたものを追跡してみる。こういうことも大事であろうと思います。

だからあまり高踏的な、高邁な理想だけを追い求めてはいけない。もっと体験的に、もっと身近に神理を学べる機会、これをつくってゆく必要がある。例としては、近年亡くなった方のその後を追跡してみる。まあこういうこともあり得るだろうし、そういう必要もそろそろ出てきているかも知れません。むしろ、この方が読者層としては広いかも知れない。ま、そういう意味で、地獄編、幽界編、霊界編、このあたりも必要かも知れません。

このように、霊界の仕組、実際どうなっているのか。どういうふうに考えられているのか。どういう基準でもって、人びとは住み分けているのか。何を一体しているのか。特にこの何をしているのかがいちばん肝腎要(かんじんかなめ)のところであり、わからないところなのです。何を一体しているのか。地上の人間の感覚で訴えると、どういう感じなのか。これですね、これをやはりみんなは知りたがっている。これに関する間違いのない手引き書、これが必要ではないか。まあこのように思います。

それには、どうも内容が、思想、理論、こちらにウェイトがかかり過ぎている。はっきり言えば田舎の主婦、こういう人たちにもわかるようなものがいる。物語的なものでよいけれども、霊界の様子がわかるもの、こういうものもいると思います。もっともっとこれが必要です。まあこれをね、そうしたことも心掛けていただきたい。このように思います。決して難しい内容、高度な内容だけがよいものではなくて、親しめるようなものもいるということです。これもなければいけません。これが二本目の柱です。

一本目は「神理と文学」ということで話しましたが、二本目はこの「霊界ストーリーの必要性、ルポの必要性、霊界の実証」です。これがもっともっといるのではないか。まあこういうことです。


3.第三の柱――映画、テレビ等視覚に訴える神理の伝道


ダンテ  三本目の柱として、本日私が考えてきたことは、これもあなた方の活動とも関係があると思いますが、おそらくこれからの神理伝道ということは、書物、あるいは講演、これだけでは足りない、たぶん足りないと思うのです。ではどういうものが必要かと言うと、やはり、「視覚に訴えるもの」がなければいけない。視覚に訴えるものが必要であろう。こういうことを感じます。

その意味において、やがては映画の製作、あるいはテレビ番組の製作、あるいはアニメのようなものが出てきてもいいかも知れない。こうした視覚に訴える伝道方法というもの、これを考えていく必要があると思います。視覚に訴える伝道です。これが必要であると思います。これがなければ、やはり今後、大きな広がりが見えない。このように思います。ですから、この視覚性、これを大事にしていただきたい。言葉だけというのでなくて、感性に訴えるように。また視覚という眼に見えるものだけでなく、音として聴こえることも大事です。つまり音楽性ですね。このように、人間の興味がある内容、対象、こういうものをトータルに捉(とら)えていく。できるだけ大きな範囲で捉えていく。ま、こういう必要があるであろう。こう思っています。

ですから、たとえば勧誘して講演会に連れてくる、話を聴かせるというのもいいけれども、そうではなくて、映画とか、あるいはテレビ放映、こうした形でもって人びとに見せるということも、これからは大事ではないか。そういう感じを受けます。言わばショーです。催し物ですね。こういうものも多少考えてゆかねばならなくなるのではないだろうか。まあこういう感じを、強く持つわけであります。

特に女性向け、あるいは子供向け、老人向けには、こうしたテレビ、映画の類、これは非常にわかりやすいであろう。ま、こういうふうに感じます。やがては、そうしたことも検討にのせていただきたい。まあこういうふうに思います。これが三番目の柱であります。


4.第四の柱――社会的評価を得るためには多角的な実績確立が必要


ダンテ  四番目の柱として、私が考えておりますことは、これはどうしても、こうした神理というものを普及する時には、他の批判とか、非難、攻撃、あるいは、このたぐいのものを受けやすいということです、非常にね。これは、私自身もそういうものは経験しましたし、私が政治家をやっていたこともあって、政敵というものもありましたし、その政敵たちに、私がこういう霊能力を持ったり、神理を語っているということが悪用されると言いますか、攻撃の材料として非常に使われた。こういうことがあると思います。

そういう意味において、まあ今後、批判もあるでしょうから、この批判をかわしていくための方法論を、かなり考えておく必要があると思います。そのためには、どうすればよいかと言うと、神理以外の領域においても、それ相応の実績を積んでおくということが大事ではないか。この霊というものを取り去っても、社会的批判に耐えうるようなもの、これをつくっておく必要があるのではないのか。ま、こういうふうに思うわけであります。この社会的批判に耐えるような実績、特に霊界物ではない部分で実績をつくるということ。これは非常に大事な考えではないかと思います。

ですから、それ以外の領域でも、何らかの成功を収めておく必要がある。まあ私は、そのように感じます。あなた方も、ともすれば信仰の道だとか、宗教の道だとか、いろんなことを言うであろうと思いますが、それ以外にでも生きていけるメドと言いますか、道をつくっておく必要がある。それ以外でも、目覚ましい活躍ができるようなあなた方である必要がある。ま、そう私は思います。

今後、いろいろとどうしていくのか詳しくは知りませんが、あまり宗教そのものにはしない方が、私はいいような感じを受けているわけです。これは他の指導霊団の意見もありましょうから、一概には言えませんが、ま、そういう面もあってもいいけれども、それ以外の面というものを持っている必要があるし、それ以外の面で、ある程度社会的に評価を受けることが大事ではないのか。まあこういうふうに感じるわけであります。

それは、多角的展開と言ってもいい、何頭立ての馬車と言ってもいいけれども、今後の行く末というものを私なりに見てみると、宗教そのものを前面に出す時代は終わったかも知れない。こうした霊的なものを取り入れながら、ひとつの文化ですね、霊文化、あるいは、こういう精神性の復活ですね、これをひとつの新たな文化として練り直していくことの方が急務ではないのか。精神文明、文化ということを強調していく必要があって、宗教ということで全面的に出していく必要はないのではないか。私は、そういう感じを受けるのです。その方がむしろよいのではないのか。ま、こういう感じを受けます。

これについては、異論があると思います。他の方の意見もあると思うので一概には言えませんが、形はどうあれ、趣旨だけはくみ取っていただきたい。あまり神、仏ということを中心にやるのではなくて、やはり、ひとつの霊革命、精神革命、新たな文化の素地としてのこうした霊指導として、捉えていく必要がある。そういう意味で、あまり型に捕らわれ、方向に捕らわれる必要はないのではないか。いろんな多角的展開をしていけばいいではないのか。宗教というものは、やはり私の感想としては、あまり全面に出せば、普遍的な形として、すべてのものを包含していくことが難しくなるのではないか。一部のものは非常に結束するが、他のものを排斥するようになるのではないのか。こういう感じを受けるわけであります。

考えてみれば、古来から本当の世界的な宗教を興した人というのは、文明や文化の起点ともなった人たちであって、現時点で言う宗教家という枠には必ずしも入っていない、ということが言えると思います。そういう観点ですから、自ら好んで貝殻の殻のなかに入っていく必要はないのではないか。私は、これを言っておきたいのです。貝殻の殻のなかに、自ら好んで入っていくと、その殻が邪魔になって行動ができなくなることがあるように、一定のイメージというものが出来てくる。このイメージを、やはり破るような必要があると思います。

特に動きそのものが、おそらく政治家などとも関連がかなり出て来るであろうし、経済への波及も相当あるであろうし、いろんなところに波及していくと思うので、殻があまり付かないようにしていく必要があるように思います。あくまでも、それはひとつの原動力であり、霊的な源泉であることは事実だけれどもね。霊言というのをずいぶん出しているけれども、今年あたりを境に、次第にだんだんとジャンルを増やしていって、霊言そのものの比重はやはり半分以内に収めて、それ以外のものをだんだん増やしていく必要があると思う。そうして、大きく根を張っていく必要があるように私は感じます。

そうしないと、本当に小さな枠のなかに、かえって閉じ込められてしまうことになる。この辺は、特に注意をする必要があります。この四点目ですね、特に四点目、新たな文化の担(にな)い手であるという自覚、これを忘れないようにしていただきたい。これを忘れて新宗教を興すつもりでいると、その枠の殼のなかに入っていく。

私は、そういうふうに感じますし、霊とか神とかが要するに出てくると言えば宗教にしなければいけないのかと言ったら、必ずしもそうではない。新たな器をつくってゆきなさい。私はその方がよいと思います。

まあ、敢(あ)えて古い人間であり、外人である私がどうこうと言うことはありませんが、敢えて言わしていただければ、むしろ私は「株式会社」でもよいと思う。むしろ、これでもよい。株式会社として、あらゆる事業を展開するという観点からやってもよい。神理というものを、いわゆる事業ベースに乗せていくという観点も、ないとは言えない。敢えてね。まあこれは神仏(かみほとけ)を商売の道具に使ったと言われるかも知れぬが、現代の宗教団体そのものが神仏を商売道具に使っているんだし、敢えて言えば、そういうことも有り得る。むしろこれからは、そちらの方が流行(はや)ってくるかも知れない。私はそういう感じも受けます。

ま、これはひとつの考えですので、必ずしも、これに従われる必要はありませんが、今後あなた方が多様な活動をしていくためには、それなりの考え方も作っておく必要はあるかも知れません。


5.霊界探訪記の対象は、幽界、霊界が妥当


――  お教えを一応、お伺(うかが)いした上で、今度は少しお尋ねしたいこともありますので。

ダンテ  まあだいたい四ヵ条終わりましたので、あなたのご質問で結構です。

――  そうですか。では少しお尋ねしたいのですけれども、一番目のことにつきましては、これは先生のご専門のお話を伺って、なるほどこれからの神理伝道ということについては、やはり文学的な表現、こういうふうなもの、あるいは絵画、その他芸術の方向に考えを及ぼしていくということが、指導書だけでなくその方が、効果的であろうというお話をまず最初に伺ったわけです。それはもっともなお話なのですが、次に、その内容としてのお話で、二番目には、この霊界の様相について、もう少し詳しく、正確な見取り図を明らかにしていく必要がある。ついては、やはり、高級霊のおられる世界のことばかりではなく、人類の過半数がわかるような幽界、霊界あたりの探訪記、あるいはルポルタージュ等の話を、今後、多くとり入れていくべきであるということでございました。

それで、私がここでも考えますことは、そういう霊域におられる方のご意見を聞くということは非常に重要なことであるし、現在の生活の状況などをお尋ねするのは大事なことであると思います。ただ、今までに私がお尋ねした範囲では、六次元「神界」の方の範囲で、かなり客観性のある報告、お話を願えたわけですが、霊界、幽界の方々が果たして客観性のあるお話をなされるかどうかということになってくると、やはりその霊域におられる方々の視野といいますか、世間が狭いために、ある程度、自分中心の狭い範囲のお話になって、そういう方々に何人出ていただいてもバラバラの意見や感想になって、とりとめのないようなものになりはしないか、という心配があるわけであります。この場合、こういう世界のお話を伺うについては然(しか)るべきアドバイザーと申しますか、守護していただける方にご先導願って、そしてある程度、合理性のあるお話を伺えるというようなことが、好ましいのではないかと思うわけですけれども、その手立てというものについて何かお考えはありますか。

ダンテ  まあ逆にね、私たちであるから、あなたの質問が生きてこないで、私たちがほとんど一方的にしゃべらなければ話が進まないようになっているけれども、普通の人であれば、かえってインタビューはしやすい。いろんな質問をしてもよいところがあるわけで、「死後どうなりましたか。その後どうして、どういう生活しておられますか」まあこういうことについては、話をしやすいという点もあるであろうと思います。

――  まあ一応社会的に、この地上界において有名であったような人にお尋ねするということが、よろしいのでしょうかね。

ダンテ  まあそういうことになりましょうか。


6.神理の視覚伝道には事業形態をとる方法がある


――  つぎに、第三番目ですけれども、視覚に訴える神理の伝道というお話、つまり映画、テレビ、アニメ等の視覚に訴えるものというようなお話でございましたが、映画、テレビの領域となってくると、関係者と申しますか、この範囲が非常に広いわけです。こうした人たちの了解理解といいますか、あるいは金銭的な援助というか、そのように企業的に協力してくれる者がいなければ、なかなかこういうことはできにくいと思いますが。

ダンテ  だから私は言っているのです。事業形態としてやっていけばよいと――。

――  しかし、視覚ということになってくると、霊現象というか、そういうものが、やはりどうしても要(かな)めにもなるように思うのですけれども、この辺いかがでしょうか。単なる創作だけでそういうことはむずかしいのでは――。

ダンテ  まあそれは、あなたには関係のない内容かもしれませんね。あなた以外の人が考えることでしょう。


7.神理の伝道は、普遍性と普及性を考えて


――  では四番目のこの批難に打ち勝ってゆくための方法論、これについては、ひとつのやはり学校というものか、そういうふうな研修所とか、研究会とか、そういうものが必要になってくるのかと思うのですけれども、そういった間口を広げた環境というもの、環境づくりが必要なのかと思うのですけれども、今後、私たちもそういう方面の研究をしなければならないのではないかと、このように思っております。

まあそのほか、株式会社の問題ですが、非常にこれは重要な問題なのですけれど、もしそういう方向をとっていくのであれば、かなりそれを意識していかねばならんのではないかと、このように思っているわけです。その場合には、こういう方面をご指導していただけるような方も、将来的には出てくるかと思いますけれども…。

ダンテ  まあ我々も今後協力せねばならんことでしょう。

ま、あなたには、それ以上話すこともないようですから、まあ後(あと)、最後の締めくくりで一言だけ言っておきましょう。大事なことは、とにかく、どういう方向であれ神理を広めていくということです。ですから、あくまでも、その手段、方法ということです。手段、方法にいろいろと縛られることなく、どういう形で神理を広めていけばよいのか、この普遍性、普及性、これを第一にしてやっていけばよろしい。

宗教ならこうあるべきだとか、あるいは、こういうものはこうすべきだとかいう「すべき論」で、物事は考えないでよい。ある程度、実用的に物事を考えていかれたらよい。このように私は思います。私個人の見解でありますが、そのように思います。ま、そういうことで、今日の話は終わりといたしましょう。

――  ああ、そうですか、ありがとうございました。また非常に新しい視野が、我々の前に広がったような感じがいたします。今後も研究を、我々は大いにやらなければならんと思います。まあ先生にはどうも突然、お招きさせていただいて、ありがとうございました。

また今後、こういう機会が出てくるかと思いますけれども、その節は、ご指導をいろいろお願いいたしたいと思います。どうも本日はありがとうございました。

ダンテ  では還ります。