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目次




















9.道元禅の「時間論」について


――  では、道元さん。あなたの「道元禅」というのは、現代知識人に大変受け入れられて、勉強の材料になっているわけですが、あなたの道元禅のなかで、とくに「時間論」というのが非常に有名なようなので、あなたの時間に関するものの考え方、そういうことについて、お話いただければと思うのですが、如何でしょうか。

道元  まあ人間というのは、先程来(らい)、何回も言っておりますが、永遠の転生輪廻を繰り返しているものであります。そして、転生輪廻のなかにおいて、一番大切なのはやはり、"時間"ということですね。先程、私は、他力の思想というのは、その時間が関係ないではないか――、ということを言いました。百万年前でもね、現在でも、「南無阿弥陀仏」で救われるのなら一緒でないか、人間の悟りにね、何の進歩もないではないか。――ということを言いました。

私たちはこの時代を選んで、この環境を選んで生まれ来たということはね、今という時間において、何らかの修行の意味があるから生まれて来たに違いないと、そういうことを私は言いました。

人生を魂の修行の場として、正しく観るならば、そのなかにおいて一番大切な考え方は、「時間」ということです。時間というものを無視した修行というものはあり得ないということです。ですから、"即身成仏"とかね、その時点で修行が終わってしまうような、そういう修行はあり得ないということですし、「南無阿弥陀仏」を唱えたら、そのとたんに救われて、あの世に成仏間違いなし――と、こういう教えも、私の考えからいえばおかしいということです。やはり人間というのは、どんどん変転していく環境のなかで、そういう時間を生きている存在であるということです。

ですから、修行に際しては、その時間という考え方、これは非常に大事です。で、その時間とは、一体何でありますか。人間は、過去に還って修行することはできないのです。また、未来に飛んで修行することもできないんです。人間が修行できるのは、現在、ただ今であります。

現在ただ今しかないんです。それを、たとえばですよ、何十年か先に死ねば、極楽浄土へ行けるというような、こんな不確かな約束をするような教え、これは間違っております。やはり、現在ただ今の自分を、少しでも高めていく、そういう修行というのが、私はほんとうの修行だと思うのです。

あなた方が、十年後、二十年後にどんな悟りを開いているか分かりません。それは、ある日突然に、光が射して、あなた方が、百八十度の転回をして、にわかに悟ることがあるかもしれません。しかし、そういうことは不確かなことであります。先のことであります。あるのは、現在ただ今であります。

あなたにとっては、道元と話す機会は何度かあるかもしれませんが、今、あなたの魂修行という点をとってみれば、道元と今話しているあなたは、この今を逃しては話しをするタイミングはないということです。現在のあなたの心境は、もう二度とないであろうし、現在の道元の心境もまた、二度とないのです。一期一会(いちごいちえ)という言葉もありますけれど、現在ただ今というのは、もう二度とこない時間なのです。こういう時間を、あなた方は生きているんです。

ですから、地上の皆さんも、その一期一会ですね、毎日毎日の積み重ね、毎日毎日に起きることは、もう二度と起きないんです。同じ人と二度、三度会うことがあっても、その人と同じ会話をもう一度することもなければ、同じ場所で、もう一回、同じ心境で話しをすることもないということです。人生の要点は何か、奥義は一体何であるかというと、結局、その一日一日、永遠の今を生きていくということであります。このことに関して、何かご質問があればお話しいたします。

――  ただ、道元さん、おうかがいいたしますが、あなたは今、過去はない、と。未来は、まだきていない、まあ、現在だけしか時間というのはないんだというふうな考えについて言われました。しかし、仏教の教典のなかでは、その現在すらないというようなことを言っている経文もあるし、また、現在というのも、たとえば、砂がね、指の間をこぼれ落ちるようなもので、現在というものをつかまえようとすれば、サラサラと下へ流れて行っている、と。――過去なし、未未なし、現在なしと、まあ、こういうようなことを説いているところもあるようですが、これについて、あなたはどう思われますか。

道元  まあ、そういうふうな考え方をすれば、現在というのは、一瞬一瞬がすぐ過去になっていくもんですから、ま、現在もない、と。過去というものは、もう過ぎ去ってしまった。未来というのは、まだこない。では、現在だけがあるかと思えば、その現在をつかまえてみようとすれば、その現在というのは、今言ったようにね、砂が指の間をかいくぐっていくようにこぼれ落ちていく。従って、現在さえない。と。まあ、こういうことを言う人も、もちろんおります。

ただ、これはあくまでも理屈であります。指の間を、現在、つかまえようとしたら、現在というのは、指の間をすり抜けていく、だから、現在もない。だから、過去、現在、未来も全部ない。では、何があるのか、何もない。そうすると、どうするのですか――。やはりこれはね、何かが間違っているわけです。この考え方というのは――。

まあ、よく言うでしょう。線というのは、点が連続していると言いますね。点が連続して線ができる、と。で、線というのが連続していって面ができる。そういうことを、よく言いますね。面には面積があります。線には長さがあります。それじゃあ、点はどうか。理屈の上では、点というのは、位置だけがあって、面積も、長さも、何もないものである。ということになっていますね。

しかし、それは、ひとつの比喩(ひゆ)なんです。点というのは、位置だけあって、面積も、長さも、何もないというけれども、では、面積も、長さも、何もないものが、これが連続していって、じゃ、線分になるかというと、なるわけないのです。線分には長さがあります。長さがないものが連続して、長さがあるものができる。こういうことはないんです。

だから、これは考え方の綾(あや)であって、そういうことで、現在なし、と言い切ったところで、それは、人間の心性にとって、一向に何らの進歩にもならない。ということを、私は思うんです。ですから、過去なし、来来なし、まあそれはいいですが、現在なしと言い切ったところで、それによって、何ら人間が進歩するわけじゃありません。

ね、現在というのはないんだ、と。で、その後、どうなるんですか――。鎌倉の大仏さんか、奈良の大仏さんみたいに、じゃあ、坐っとればいいんですか、と。あれは過去、現在、未来はないでしょう。ああいう大仏みたいな人は、ないでしょうが、そういう考えというのは、生ま身の人間が修行していく途中においては、あまり意味のない考えだと私は思います。

――  また質問ばかりで申し訳ありませんが、日蓮さんという方から教わったことなんですが、まあ、反省のモノサシですね、これについて教わったのですが、反省というのは、現在の立場に立って過去を振り返るということが反省だということですが、日蓮さんから最初教わった訓(おし)えによれば、たとえば、二千年後の立場に立って現在を反省せよ、ということを訓えられたのですが。

たとえば、私たちがこれから説こうとしている「神理」というものは、千年、二千年後まで残るものである。それならば、現時点でいろいろ反省するのではなくて、二千年後、これがどういうふうに伝わるのかということまで考えて、その二千年後の立場に立って現在を反省せよ、ということを私は日蓮さんから教わりました。

また、イエス・キリストという方からは、こんなことを言われたこともあります。まあ、現在反省するということもいいけれども、あなた方の反省というものは、生まれて来てから現在までのことを反省すれば、それで十分なのではない。あなた方は、皆んな、使命を持って生まれて来ているのだから、生まれる前の計画というのがある。皆んな。ですから、生まれる前につくってきた計画というものに対比して、現在の自分はどうか、こういうことを考える必要があります、と。

つまり、たとえば、「神理」を伝道しようとしているものが、単に善人での一生を送っただけではいけない。現在の立場に立って、過去を、生まれてからのことを反省すれば、まあ、善人の生涯を送ればそれでいいではないか――、という気持ちもあるのですが、生まれて来る前の立場から反省をすれば、それではいけない。もっと大きなことをやらねばいけないということもあるはずだ、と。そういうことで、反省の立脚点というのを、単に現在にではなくて、未来に、あるいは、過去に持ってくると、こういうようなことも、高級霊から指導を受けたことがあるんですが、それについてのあなたの見解を聴きたいと思います。

道元  そういうのは、まあ、特殊な事例でありまして、確かにあなた方の法が、遣(のこ)されようとする法が、五百年、千年、二千年遣るのであれば、もちろん、後世への影響というものを考えて、二千年後の立場に立った現時点の法ですね、これを考えるということは大事です。

たとえば、あなたと道元とが話していることが、これが二千年後に遣るとするならば、あなたは、現時点のあなたの気持ちで私と対話するだけではなくて、二千年後の人たちの気持ちになって、今私と話をせよ、というようなものの考え方もできるでしょう。あるいは、あなたの生まれて来る前の立場に立つなら、地上に生まれて来る前に、あなたが、今回地上でどういう神理を伝道しようかとの計画があったはずですが、その計画に照らして、現在のあなた、あなたが、たとえば、「道元」と話しているということがね、どういう位置づけがあるかと、こういうふうな反省の仕方というのはもちろんあるはずです。

ただ、この反省の問題点は、こういう特殊なですね、高級霊たちと話しができるような人たちの場合は、その二千年後の立場、あるいは、その生まれて来る前の立場ということも考え得るのですが、一般の人たちは、自分がどこから来て、どこへ行くのか、これさえも知りません。ましてや、自分の生き方が、二千年後の立場に立って、あるいは、もっと短くてもいいですが、百年後の視点から見て、現在の自分の生き方がどうかと、反省すること、これはむずかしいことです。百年後の立場に立って、今の自分を見たら、さあどうなるかと言われても、これ、ちょっと分かりかねます。

百年後、どうなっているか、分からない。そういうことでね、百年後、たとえば、二千年後の立場に立っても、素晴らしいあなた方であるということは、これは非常にいいことですけどね、ただ、二千年後ということは流動的です。どうなるか、分かりません。だから、百年後も分かりません。百年後の立場で、あなた方の教えが、今高いか低いか、全力をつくしたかどうか、これは分かりません。

そういうことは分かりません。ですから、一般の人にとっては、現在ただ今のなかにおいて、やはり最高のものを積み重ねていくということが、百年後の立場に立っても、二千年後の立場に立っても、素晴らしいあなた方であろうし、あるいは、生まれて来る前の立場に立っても、現在、ベストをつくしているなら、それは素晴らしいあなた方であろうと思います。

ですから、私は一般の人に対しては、やはり、現在ただ今にれいて最高をつくす、ベストをつくすということでいいのであって、やはりあるべき時間は現在のみということで考えていっていいのじゃないか、と。――そう思います。

ただ、反省の視点ということで、先程、言われたように、ときおり、いろんな視点から考えてみるということも大事です。生まれて来てから、このかただけが大事じゃないんだ、ということもあるでしょう。ただ、一般の人にとっては、現在ただ今しかありません。これを、最高に生きるということです。キリスト数的に言えば、一日一生ですか、一日の枠(わく)を一生だと思って、明日のことは思いわずらわず、昨日のことはすんでしまったと、今日を一生懸命生きる、と。今日を神の日として、神の国を生きるということがね、やはり最高の悟りじゃないかと思うのです。

――  いや、わかりました。どうもありがとうございました。


10.「悟り」とは何か。大きく分けて二段階


(1)三次元世界の悟り


――  では、次に、悟りとは何か、ということについて、おうかがいしたいと思います。まあ、"悟り"とひとくちに申しましても、悟りとは一体何であろうか、どういうことをもって"悟り"、あるいは"悟りを得た"と申すのであろうかということを、人びとにわかるようなお話でお願いできましょうか。

道元  まあ、これはね、宗教家にとっては、はっきり言って、面接試験そのものであります。たとえば、あなたがどういう人物で、どういう人生を送って来てですね、そうして、その成果がどうであったかということを知ろうとすれば、あなたがあの世に還って来たら、私たちは出迎えてですね、「ここに坐りなさい。前に坐りなさい。まあ、座蒲団(ざぶとん)ぐらいはあげましょう。そこへ、坐りなさい。さあ、お前の得た悟りとは何か、しゃべりなさい」と。そして、あなたがしゃべり終えたら、あなたがどこへ行くかについては、私たち、もう採点ずみです。

ですから、この"悟りとは何か"というのは、まあ、厳しい質問でありまして、まあ、面接試験そのものです。これは、高級霊全員にぶつけても、それぞれ答えが違うでしょう。そして、なぜかそれに点数がつくでありましょう。ですから、宗教家としては、これはある意味においては、非常に比較される問題であるし、道元の程度が知れてしまうということでもあるんです。しかし、逆に言うならば、私たちが日々求めているものは、この悟りそのものです。ですからこれは、宗教家としては、あるいは、道を求める人としては、避けて通れない関門だということです。

まあ、悟りもね、二段階に分けるという方向もあります。たとえば、三次元における悟り、あるいは、他界後の悟り、こういうふうに分ける考えもあります。そして、まあ、分りやすく言えばですよ、こうした二段階の悟りに分けるならば、三次元の悟りとは何か。これは、普通ですね、ま、この世の人間として、最高に自分を発揮するということで、おそらくありましょう。

神仏が期待するような方向に、如何にして自分自身を最高度に発揮するか、ということを常々考えている。それに対する回答を得たとき、正しくこう生きるのが、神仏の心に、期待にあった最高の自分だということを知ったとき、これが三次元的な悟りだと私は思います。

人には、もちろん、人それぞれの人生航路、環境、いろんなものが与えられています。それぞれの人の悟りは違います。たとえば、不遇な環境に育った人がおります。あなた方の時代であれば、有名な方で言うと、たとえば、松下幸之助というような人がおります。この方も、私が見ていますと、大変貧しい環境に生まれて、幼くして父母に死に別れ、そして、丁稚(でっち)奉公してですね、大変苦労されたようです。で、苦労している時点では、この人、悟っていないんです。しかし、苦労を通して、いろんな事業を興す。ま、失敗もしたりする。そうしたなかで、だんだん、人に雇われる身じゃない、どうやら自分でやっていかねばいかん、と道を究(きわ)めていく。

そして、あるとき、電気器具の便利さというものに気がつく。ああ、これからの時代は、こういう電気器具があふれる時代なんだな、今までは精神だけを言っていたけれども、これからは、世の中を便利にしていかなければいけない時代なんだな、と。自分というのは、あの水道のようにあらねばならない。水道というのは、だれが水を飲んだって、盗んだと言われない。それほど、ありあふれているもんだ、と。水道の水というのは、無限に供給されるから、だれでも飲めるようなもんだ、と。そういうあふれたもんだ、と。こういうふうに、世の中を便利にするために、これからの新時代のための電化製品というのを、この世に供給しよう。無限に供給しよう。できるだけ安く、無限に供給しよう。そして、彼は、彼なりの自分の人生の悟りを開いたわけです。

松下幸之助は、事業家として、要するに、世の人たちにできるだけ安く、できるだけいい品を、できるだけ多くの人びとに分け与えるという悟りをまず開いたわけです。第一段階に。そして、事業家として生きていました。そうしているうちに、彼はそれだけではもの足りなくなってきました。やはり、これだけではいけない、と。ものを豊かにするだけでは、人はほんとうに豊かにはならない、と。

敗戦後の人たちの心を明るく、正しく照らしていくために、電気製品だけではなくて、心を照らしていくことも大事だということを考えて、新たな精神的な啓蒙運動というのを興していきました。これがPHPというような運動でありましょう。

彼の教え自体は、まだ宗教にはなっていませんが、宗教的な要素を多分に含んだ教えを説いてきているはずです。

これが、彼の第二段階の悟りであったでありましょう。こういうことで、彼にとっては、三次元的には、たとえば、自分が事業家として、事業家としてどういう使命を持っているのかをまず知った。そして、二番目に、自分の運命が、どうやらもっと大きな立場で、いろんな人びとに心の糧(かて)を与えることだなと、こういうことを悟りました。これが二段階目の悟りですね。この二つの悟りを、彼はやりました。これが三次元的悟りです。

(2)あの世、多次元世界での悟り


道元  三次元では、まあこれで十分でありましょう。おそらくはね。ところが、あの世、多次元世界に来たら、それですむかといえばすまないです。まだ、あの世の仕組みのことは、十分知っていません。あの世、たとえば、高級霊たち、天使たちの働きということは、十分知っていません。まあ、神仏の力でね、自分たちが生かされている。運命というものがあるというようなことは、彼は知っていますが、あの世へ来れば、あの世での悟りがあります。それは、あの世では心の段階があって、そういう心の修行をしていかねばなりません。こういうことがあります。

これは、まだ十分わかっていない。これはまた、あの世の悟りになります。ですから、私は、分かりやすく言えば、悟りというのは二段階に分けて、まあ、三次元的悟りと、あの世的な悟りとがある、と。だから、あの世的な悟りというのは、まあ、こちらへ来てね、いろんな高級霊の指導を受けて、神仏のほんとうの意(こころ)はどこにあるのかということを知って、それを目指して、日々修行するということですね。これに気づくということです。

まあ、あの世の悟りにも段階があります。たとえば、地獄界には地獄界の悟りがある。要するに、――ああこれで、私は地獄におったんだな――ということに気がついて、反省して、天国へ上がって行く。これもひとつの悟りでありましょう。また、幽界におる人がね、ああ、自分たちは肉体がないんだ、と。どうも人間はね、霊であって永遠な生命なんだということに気がついて、要するに、精神的な自分というのに気がついた場合に、つまり、精神的な悟りですね、人間とは精神的なものであると、肉体に執われてはいけないと、こういうことを知ったときに、四次元幽界から五次元霊界に上がっていきます。幽界の世界というのは、まだ肉体的意識がありますからね、だから、こういう四次元的悟りというのがあります。

また、五次元の人間というのは、霊性に目覚めてね、精神的ではあるんだけれど、まだ神仏というものがはっきりと解(わか)っていない。五次元の人はね。まあ善人ですね、信仰心のある善人が五次元にはおります。ただ、まだね、それに留まっているんですね。信仰心のある善人ということで留まっている。

ところが、こういう人たちがね、もっと心の修行して、どうやら私たちは、自分というのは、単に自分がいい人であるだけでなくて、もっといろんな世の中の人びとの役に立ってみたいな、できたら何か自分の専門を生かして、多くの人たちを教えるようなことをやってみたいな、と。それにはやはり神の道か、仏の道をもっと徹底的に勉強してみたいな――と思います。五次元の人は、こういう念(おも)い、発心(ほっしん)をしますと、やがて六次元に入っていきます。

これが神界ですね。だから、ここに入るときに、五次元的悟りがあるわけです。で、神界ではまた、それぞれの専門を究めます。詩人は詩人としての、芸術家は芸術家としての、あるいは、宗教家も自分の専攻領域としての勉強をどんどん重ねていきます。で、勉強としては、ゆき着くところまでいくんですね。専門家として。たとえば、キリスト教系の人だったら、キリスト教系の教学としてはゆき着くところまではいって、専門家としては、第一人者になります。

そして、霊界や幽界の人を指導するだけじゃなくて、地上界の人も指導できる。そういう経験をします。専門家としては、まあ十分になるんですが、でも、これだけではいけないな、と。゛もっと自分は神近い、神仏に近い存在になりたい、と。全身愛と慈悲の塊(かたまり)になって、人びとを救う。指導するんじゃなくて、教えるんじゃなくて、今度は、救う、そういう道に入っていきたい。そういうふうに、神界の人というのは、まだ自分というのが十分あるんですね。

自分を鍛えて高めるという気持ちが、まだずいぶんあるんですが、自分、己れというものを今度は捨てて、要するに、つくそうと、人のために身も心も投げ出そうという気持ちになってきたときに、こういう神界の人は、菩薩界に上がって来ます。これは神界としては、おそらく最高の悟りでありましょう。

まあ、菩薩から如来界への悟りもあるんでしょうが、まあ、これについては私にはまだ分(ぶん)かすぎているようですので、今は語りません。

こういうふうに、あの世の悟りというのを見てみると、どうやら、結局、自分の置かれている立場を知って、最高度に自分を発揮する、と。それぞれの段階において、最高度に自分を発揮するということで、どうやらあるようですね。結局、四次元界におるときに、七次元の悟りを求めても無理なのです。結局のところ、四次元幽界におる人は、四次元幽界人として最高の自分を発揮して、そして五次元的悟りを得る。五次元へ入っていくということは、すべてなんですね。


11.だれでも、一躍跳入、如来地には入れない。段階を最高度に発揮し、生きよ


道元  そこで、五次元人間は、五次元人間として最高に生きて、ベストをつくしてはじめて、六次元神界へ入って行く。やはりね、段階というものがあるのです。ですから、あの世の悟りにおいても、現在において、最高度に生きる。これが大事なんですね。一直線に飛躍して、絶対力やら、他力やら知りませんが、一挙にね、あなた、幽界、地獄とかね、幽界から一挙に、あなた、如来や菩薩にはなれないんです。

教えのなかには、そういう教えがあってもいいけれども、実際はそうではありません。自分の置かれた環境、立場において、最高度に自分を発揮する。やはり悟りはね、そうしたものでしかありません。一挙にね、一躍跳入というのは嘘です。それはありません。それは、そこにおる人がそう言っているだけであって、実際、そこにいない世界の人たちは、"一躍跳入如来地"ということはありません。絶対にありません。

如来が、如来界へ還って来るのは、一躍跳入でしょう。しかし、普通の人は、それはあり得ません。そういうことはできないです。そういう意味では間違っています。それでは、ほんとうの最高度の努力はできません。努力というのは、やはり置かれた時間と環境のなかで、最高度に自分を発揮していくということでしかないんです。

まあ、今簡単に言いましたが、「悟り」をね、わかりやすく言えば、三次元的悟りと、あの世での悟りがあるでしょう。そして、この三次元と、あの世を貫(つらぬ)いた悟りを体得するためにやっているのが、ほんとうは宗教家の役目だということです。あなた方は、それを貫かなければいけない。この世の悟り即(そく)、あの世の悟りであるような、そういうあなた方でなければいけない。

これがプロの宗教家ですね。あなた方は、その手本ですね。この世におりながら、あの世の悟りも教えなければいけない。――この世の悟りも教えなければいけない。両方です。これを貫くのが、一本で貫くのが、真の意味での宗教家です。ですから、あの世の悟りを知りながら、この世を生きていくと、この世の悟りを生きていく、そういう努力ですね。これが大事です。


12.未経験の他次元世界の悟りは説けるか


――  悟りの本義につきましては、お教えのとおりだと思います。ところで、私たちは、三次元界にあって、このような仕事をしております。そして、この三次元界にあって、四次元以降の高次元界の構造、悟りの境地まで説こうとしています。しかし、人間は本来、自分の悟り以上の悟りというものを説いてはならない、また、説き得るものではないとよく言われていますが、このことに関して、先程の、この世で一貫した悟りの教えを説くということは、如何なものでしょうか。これは、我らのあの世の次元段階の眺望として語ることを許されるのでしょうか。

道元  たとえばね、まあ、謙虚な言葉としては、自分の悟り以上のことは説けない、と。そのとおりです。しかしね、あなたは、アフリカという国に行ったことはない、と。アフリカに住んだことがなければ、アフリカのことは言えない、と。あるいは、アメリカでも、イギリスでも同じことですが、こういう考え方、これはプロの言い方ですね。アフリカに移住して、アフリカを旅行したことがなけりゃ、アフリカを語る資格はないと、プロとしては言えるでしょう。

ただ、実際どうですか、あなた、アフリカに行ったことがなくても、アフリカのことを言うこと、できるでしょう。そうでしょう。そういうことなんですよ。で、アフリカに行かなくても、アフリカの知識を得ようとすれば、得られますでしょう。そうでしょう。そういう実感はないかもしれないけれども、語ることはできるということです。そしてね、アフリカヘ行っていないあなたが言ってるアフリカ論がね、間違っているかと言えば、間違っていないんです。

たとえば、あなただって、ヒマラヤの話をすることができます。ところが、登山家から言わせれば、ヒマラヤに登ったことがない人間は、ヒマラヤのあの山は分からないと、おそらく言うでしょう。それは、その感激がわからないということですね。悟りには、段階も、もちろんあります。ですから、自分が悟っていないことは言えないというのは、自分が悟ってなければ、その悟りを得るについての感激を伝えることはできないということです。つまり、感激は伝えられません。悟りのね、ただ、悟りの内容は、知識として伝えることができるのです。そういうことです。

ですから、その体験ね、ヒマラヤ登頂した人でなければ、もちろん、ヒマラヤ登山の醍醐味(だいごみ)は、分からないでしょう。感激なり、醍醐味は分からない。体得した悟りということの幸せは分からないかもしれない。ただ、悟りということを知識として伝えることはできます。ヒマラヤの山はこういう形で、雪がいっぱい降っている、と。雪の深さはこのくらいである。気温はこのくらいである。山道は、こちら側から行くのは危険です。こちら側から行くのがいいです、と。こういうことは、いくらでも言うことができるんです。知ればね。だから、あなたが登山家から聴いて、ヒマラヤの話を他の人にすることはできるんです。登山家というのは、ちょうどあの世におる私たちであります。だから、限定はしてしまう必要はありません。

ただ、その感激はわからない。たとえあなたが生きていたときに、生きているあなたとして、大菩薩(ボサター)としての悟りを持っていたとしても、その悟り自体は、こちらにおる大菩薩の悟りとは何か違うところがあります。それは、そうした感激、そうした感触、そうした醍醐味、それがないからです。まだね、分からない。つまり、間接的に感じているにすぎないからです。

でも、実際にアフリカに行ったこともない人が、アフリカに住んでいた人よりもアフリカのことをよく知っている、こんなことはいくらでもあることです。もちろん、あるんです。それは、その人の勉強、興味、関心の幅です。あり得るんです。ね、アフリカの西海岸に住んだだけの人が、アフリカのことを語るのと、あなたが語るとではどうですか。アフリカの東も東海岸も、中西部も、西海岸全域も、すべて、あなたが勉強すればいいんです。あなたのほうが、だれよりもよく知っている、と。そういうことはあるんです。だから、悟り以上のことは説けないというのはもちろん一面の真理ではありますが、それを放棄しろという意味ではありません。


13."道元禅"の起こりとその基礎


――  現在、禅師は天上界におられまして、長年のご研究の成果により栄光に浴されていると存じます。さて、現代の人びとは、禅師の書き遺(のこ)されている書物によって、その教えの真髄に触れようとしております。そこで、今このような機会を得ましたことを幸いに、禅師におかれて、かつての教えに加えて、さらに何かを語り伝えておきたいというお考えがございましたら、よろしくお願いいたしたいと思います。

道元  わかりました。まあ、今までね、主として私のいいところを話してきたわけですが、人間は、自分のいいところだけを話すのがすべてではありません。やはり自分というものを知ってもらうためには、私の長所も短所も、美点も、欠点も、知っていただくということがいいと思うのです。

とくに現代人たちは、「禅」というものに大変興味を持って、「禅」ブームというのがありますね。で、禅がすべてであるような気持ちにもなっていて、まあ、知識人にも受けているし、今、欧米でも、禅というのは流行(はや)っています。で、禅というのは、日本的な宗教でもあるかのように言われています。そこで、私としては、いささか面映(おもは)ゆい気持ちもするんですが、やはり、"禅"の限界についても、私は言っておかねばいけないと思います。

まあ、自分の口から言うのは残念ではありますが、私はそれを言っておかねばなりません。やはり、道元の限界が、「道元禅」の限界であるからです。道元としての私の限界でありましょう。そこで、ま、いささか恥ずかしい反省も込めてお話をしますと、鎌倉時代の道元として生きていたときの悟りというのは、どの程度の悟りであったかというと、残念ながら面目(めんもく)ないことに、六次元神界の悟りしか得ていませんでした。

生きていくときには、やはり私は、禅による悟りはどうしても哲学的に、どうしても抽象的に感じていました。私が人間として生きていたときに感じていた悟りというのは、結局、人間というのは、"今"というのを全力で闘ってつかみとっていかねばいかんのだというような考え方が"今"であったし、修行するのは他人じゃないのだ、と。他人じゃなくて、自分かやらなくてどうするか、と。修行というのは、自分がやらねばいかんのだ、と。こういうことは、すでにつかみとっていました。

また、悟りというものを、これはまあ、不立文字(ふりゅうもんじ)ですけどもね、悟りについて不立文字だけでは、説明ができるもんではありませんが、やはり何らかの感覚、こうしたものとしてとらえておりました。それをあえて言葉で表わすとすれば、「永遠なる今」というようなものを感じる瞬間、これが悟りのときだという感じを、私は持っておりました。それぞれの考え自体は、私は間違っていないし、それなりの優れたものだと、今でも思っています。しかし、それをいいものだと思っていたところに、道元の限界がまたありました。

私は若い頃に、中国に留学をしていました。五年ぐらい留学しておりました。そのときに、"天童山"というところでずいぶん修行をさせていただいたのですが、中国の優れた僧侶たちとたくさん出会いました。そして、彼らが、真剣に、ほんとうに自分の修行に打ち込んでいる姿に感動しました。で、やはり修行というのはこういうものなんだなと、真に打ち込んでいる姿というのは、美しくもあるなということで、真剣に打ち込んでいる先輩僧たちの後姿を見て、はっと思うことが多かったんです。

また、"天童山(てんどうさん)"におったときに、食事係をしていた六十すぎのね、老僧侶がおりました。その人が、暑いのに汗をしたたらせながら、暑い夏の日盛りに、あれは椎茸(しいたけ)でしたかね、椎茸のようなものを庭に乾していたんですね。真夏の暑いときに、私が行って間もない頃ですけど、その老僧侶が椎茸を乾していたんですよ。

そこで、そのとき、私は聞いたんですよ。「お坊さん、あなた、ずいぶんお年寄りではないか。見れば、六十歳にもなって、この暑い盛りにそんな椎茸干しなど、何でやるんだ。滝のような汗を流しているじゃないか、小父(おじ)さん。そんなことをあなた、若い者にまかせるか、もう少し涼しくなってからやればいいじゃないか。年寄りの冷や水だよ――」とね。山に行ったばかりの私は、そう言ったのですよ。まだ青年僧でね。まあ、鼻柱が強くって、私はどちらかと言えば、今様に言えば、ニヒルで、人の欠点とかにずいぶん気を回したものなんです。

それでまあ、悪いところと言えば、そういう冷笑するようなところが、冷たく笑うようなところが、私にはありました。だから、いい爺(じい)さんがね、もう六十すぎにもなって、何をやっているんだ、と。こんなことやっていないで、その年になれば、もっと悟っているはずだからね、もっといいことしなさい、と。若い者を教育するとか、お経を誦(よ)むとか、もっと高尚な仕事があるでしょう、と。

爺さんに教えてやるつもりでいたんですね。爺さん、あなたはわかっていないぞ、と。そんなの若いもんがする仕事だぞ。年寄りの冷や水などやめて、あんたは、もっと高度な修行しなさい。年相応な仕事があるでしょう、と。私は教えたつもりで言ったんですね。冷やかして。

そうしたら、その老僧侶が言ったことにはね、――「他人は是(これ)、我に非(あら)ず」と。まずひとこと。私は、これに度胆(どぎも)を抜かれました。――人は是、我れに非ず――。我れが非ずしてだれがあるか。要するに、まあ、修行というのは自分がやるんだ、と。他人に代わってやってもらってもね、そんなの何の意味もない。人は是れ、我れに非ず。こういうことを言われて、私は、これで、「はっ」と思いました。

そして、その次にね、「今でなくて、いずれのときか」と。今やらなく、いつやるんだ、というわけですね。涼しくなってから――、そのときがあると思っているのか。修行というのは、今しかないのだ。今やろうと思えば、今やらないでどうするんだ。涼しくなってやろうとか、そんなことではいけないんだ。人間というのは、先がないんだ、と。修行というのは、秋になったら、あるいは、夜になって涼しくなってからやろうとか、そういうもんじゃないんだ。修行とは、とき、ところを選ばない。今しかないんだ。こういうことを、その老僧侶は、私に言いました。私は、ここで二つ教わりました。

要するに、人は是、我れに非ず、他人は自分に代わって修行はできない――。自分の修行は自分でやるんだ。そして、その、機会は、今しかないんだ――と。結局、私が中国で学んだ教えは、この二点につきるかもしれません。

結局ね、自分がやらないで、他にやってくれる人はいないんです。そして、修行というのは、"今"しかないということです。私はこの二点をつかんで中国から帰ったのです。これが、「道元禅」のある意味では基礎でありましょう。それでね、その真剣に生きる、今に生きるという姿勢が、おそらく現代人にもね、私は受けているんだと思います。