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目次




















14."道元禅"の限界について


道元  まあこれはね、ある程度の自慢になりますが、ただ逆にね、私の限界もそこにあったということです。つまり、真剣に生きるということは、「道徳」をつきつめた生き方でありますわね。まあ、その段階にしかすぎないということ。悟りそのものではないということなんです、これは。要するに、私は、先程、二段階の悟りということを申しましたが、三次元的地上の悟りではあるのです。もう他人(ひと)は是、我れには非ず、と。我が修行して今に生きるんだと――。これは三次元の悟りです。

しかし、四次元以降、多次元世界の悟りにおいては、これは語っていないんです。はっきり言って、これではいけないですね。だから、宗教家というのは、この三次元とあの世ですね、多次元世界との間に、いわば黄金の懸け橋を掛ける役割なんです。ただ、懸け橋というのは、片側だけでは掛からないです。両側に掛けねばいけないですね。ですから、私のは、片方だけあって、もう一方の片側がなかったということですね。橋を掛けてなかった。では、あの世的な悟りとは何か。やはり肉体として、肉を持って生きていた私は、そこがわからなかったということですね。

まあ、現にこれはね、他にね、あなた、禅宗の方がたとも話をするんでしょうが、これはね、禅の限界でもあるんです。『無門関』とか、いろいろあるでしょうが、禅のほうでの悟りというのは、結局、ある意味において、私は悟っていないと思う。悟っていないというのは、その禅における悟りというのは、感触でしかないのですね。そういう雰囲気ですね。何かそういう違った自分ね、今までとは違った自分、「はっ」と思う、これを悟りと言うとるんですね。禅では。しかし、ほんとうは、はっと思うだけではすまないんです。「はっ」と思うのは、これはきっかけなんです。悟りの契機であり、きっかけであるけれども、悟りそのものの内容ではないのです。

たとえば、私の書いた本のなかにね、私は一度北陸のほう、北陸というか越前の「永平寺」ですね。ここへ行ったときのことなんですが、雷がずいぶん降っていましてね、雪がずんずん、ずんずん降っていましてね。私はその大自然というかね、北陸の大自然に心打たれたことがあります。そこで、「大地雪満満雪満満」そういうことを私、書いたことがありますが、その白い雷がね、神秘的に空から降ってきて、この地上をうずめつくしている相(すがた)。それは、この世のものであって、もうこの世のものではないような、そうした永遠の神秘を感じさせられるものであった――。

そういうものを見たときに、人間は、この世の世俗から離れて、どこか遠い世界へ、どこか遙かなる悟りの世界へ導かれるような気になるのです。「大地雪満満」だけどもね、その満満と雪が降っていても、それは日常生活から離れて、心があの世へ旅立つきっかけとはなっても、それ自体は悟りではないのです。

あるいは、昔のある僧侶は、禅僧というのは、まあ春ですね、春に丘を登っておって、「はっ」と振り返ると、そこに桃の花が咲いていた、と。その桃の花が一面に咲いて、下界に、素晴らしい霞(かすみ)たなびくような桃の花が咲き広がっていた。その桃の花の一面に咲いている風情(ふぜい)に心打たれて、「はっ」と悟ったということになっている人がいます。たとえばね、禅のなかに。しかし、それは悟っていないんです。悟ったのは、この世の世界のなかに、この世ならざるものを感じた。そういう永遠の世界を観じたということなんですね。

これは、ギリシャの哲学で言えば、プラトンという人が言っている「イデア」の世界ですね。このイデアの世界というのは、実は、そういう意味での悟りなんでしょうけどもね。「はっ」と思う、この世ならざる国ですね。これを感じたということ。ですから、私は禅の悟りというのは、ある意味において、三次元において三次元ならざるものを感じると、感知し得たということをもって悟りと言っているようなものですね。

あるいは、『無門関』第五則に出てくる香厳和尚(きょうげんおしょう)が、大燈国師の遺跡のある武当山で自らも庵(いおり)を結んで、竹を植え、住んでいた。あるとき、香厳が道路を清掃していると、箒(ほうき)で撥(は)ねた瓦(かわら)の一片が、竹林の竹に当たって、カーンと澄んだ音を立てた。彼は、それで悟った。と言っておりますが、あなた、それで悟ったと思いますか。

あなた、現在仕入れた知識、あの世のこと、この世のこと、いろんなこと考えた高級霊たちの話を聴いていた。どうですか。いくら修行していてもね、それで、瓦のかけらが竹にカーンと当たる音を聞いて、それで悟ったと彼は言っているが、あなた、それで悟ったとほんとうに思いますか。

それは、錯覚と言うんです。それは錯覚じゃないが、永遠なるものを感じたという意味でね、日常性を越えた何かを感じたのです。もちろん。あの世の世界の実在を感じたということですね。それ以上のものでは残念ながらないですね。その瓦のかけらが竹に当たって鳴る音を聞いて、如来や菩薩の悟りが聞けるかと言えば、聞けません。そうしたもんじゃありません。それは、あの世があるんだという、この世とあの世との一体化したような感じですね。そのようなものを感じ得たということですね。

ですからどうも、禅の流れを見てみると、その箒で掃いていて、瓦のかけらがね、竹に当たって、カーンと鳴るその音で悟ったというたぐいが、どうも多いようです、その後もね。悟りは思想じゃないんだと、そうした一瞬うちにとらえる感性なんだ、と。これもひとつなんですよ。これは悟りへのひとつのきっかけなんです。あくまできっかけであって、悟りそのものではないと思うのです。

ところが今もね、営々として、そうした議論が続いておって、坐禅を組んでいる人たちは皆んな、何か、「はっ」と思うものばかりを探しておるんです。はっと思う。はっと思うぐらいであればね、道を歩いておれば、綺麗(きれい)な女の子が通りかかって、「はっ」と思うことなど、いくらでもあるんです。しかし、それは悟りじゃないんです。綺麗なものが通って、「あっ、きれいだな」とは思う。これが悟りだと言っているんですね、要するに。たとえば、渋谷か、どこかの坂道を歩いている。と、綺麗な女子大生が来た。すれちがった。そこで、「はっ」と思った。振り返って、好みのタイプだなと思った。

これをもって、悟りとするか。否(いな)であります。これは、つまり、美しいものを見ただけであります。こういうように、「禅」の悟りというものを、自分か求めていた美しいものを見たということをもって、悟りとしているということが多いのです。これは誤りであります。これを超えていかねばなりません。

私も「道元禅」をつくったけれどもね、私自身が真に悟っていなかったために、後世の者たちがまた、それを真似(まね)る。ですから、悟りとは、何か分からない、もやっとしたものだと、ベールに隠されていて、文字によって説明できないものだと、こういうことになっています。何だか分からない、何とも言えないのがいいんだ、と。そういう不立文字もいいけれどね、どうもそういう神秘めかしたものに悟りがなってしまったようです。

ところが、悟りというのは、かなり明瞭なものです。結局ね、悟りとは、まあいろいろな言い方があるでしょうが、人生の使命を知るということですね。三次元の立場に立てばですよ。人間がどこから来て、なぜ人生修行して、そして、どこへ行くのか。なぜ人間が永遠の転生輪廻していくのか。神仏はどういう意図でもってね、人間に地上生活を送らしているのか。で、地上生活を送っていくうちにね、どうした生き方をするのが神仏の心に適(かな)っているのか。はたして、あの世の高級霊たちの導きを受けることができるんだろうか、まあ、こういうことを知るのが悟りですな、はっきり言えば。

だから、悟りというのは、言葉で説明できるんです。言葉で説明できないものとするのは、単にできなかったから、そう言っただけであって、できれば、そうすべきなんです。言葉で言えないようなものは悟りじゃない。しかし、そういう雰囲気に酔っている人が、非常に多い。とくに現代を見ていると。こんなもんじゃない。これは、あなた方に、言っておかねばなりません。

どうもね、禅をやる人というのは、そういう傾向が多い。人に分からないようなことを言うと、要するに、悟ったような気になる。人と議論して、要するに、煙に巻けば、それで自分のほうが上のような気になる。外人に説明して、外人などには分かるわけはない、と。この不立文字の世界はね、青い目をした外人などには分からない。こう言っているわけですね。この分かったようで分からないとこがいいんだ、と言っている。これは、言っている本人が分かっていない。

禅、というのは、パズルじゃないんだから、これはちがうんです。悟っていない人たちが、そういうことを言ってきたから悟れないんです。そういうことです。これが禅、の限界であります。ですから、そうした眼に見えない、分からないものを感じるのは、悟りのきっかけであって、この世的なものじゃないものを感じるのは、悟りのきっかけであって、坐禅をしていながら、そういうことを感じることがあるでしょう。永遠の今をね、感じることがあるのでしょう。これは悟りじゃない。悟りへのきっかけ、契機である、と。そういうものを感じたら、皆さん、どうかそれを大切にしなさい。ただその一歩奥を、一歩奥を踏み込んでいかなければいけないのです。


15.私は今、菩薩界で「愛」について勉強している


道元  まあ、私もできなかったことですけどね。そういうことで、地上にいたとき、私は、神界の悟りしかなかった。そしてまあ、あの世に還りました。あの世でもね、まだまだね、自分が修行しなければいけない、と。一生懸命修行に励んでおりましたけどね。

まあ、偉い方がたがね、如来や菩薩が来て、おっしゃるには、「道元よ!」と、「お前は、何をあくせくしとるのか。お前は、何か努力しなければ悟れないと思ってるようだが、そうじゃないんだぞ。お前自身は、もう神仏の子供そのものなんだぞ。お前は、努力してあくせくすれば悟れると思っているけど、そうじゃないんだ。もっとおおらかな気持ちを持って、自分の使命を悟れよ――」と、こう私は聴かされました。

私は、「いや、でも努力しなければ悟れないんじゃないですか」とうかがった。するとまた、こう言われた。「道元よ、それが神界の悟りなんだ。自分が勉強して悟れると思っているのは、まだ六次元神界の人間なんだ。菩薩の世界では、自分が勉強して、人以上に勉強してね、やらなければ悟れないなどとは、菩薩の世界の人は思っていないんだ。菩薩の世界の人は忙しく、人助けに忙しくて、自分を人より高めるなどということは言っていないんだ。自分を捨てて、人を救うために、ただ邁進しているんだ。それが、お前、菩薩の境地だぞ。だから、お前は、そういう自分という執われを捨てなければいかんぞ。自分が、自分が、と思っているうちは、人は救えない――」

こういうことを、私は如来や菩薩の人にずいぶん言われました。そしてまあ、そういうことを言われて、自分なりの修行、自分の形というものにね、どうも執われていた自分というものを反省しました。そしてまあ、何百年かしてね、しばらくして、まあ、菩薩界に上って行ったわけです。今、菩薩界で私が勉強しているのは何かと言うと、――恥ずかしながら、これは「愛」です。

「愛」とは何か、ということを今、私は勉強しています。「禅」にはね、まあ、どうしても、愛がないんです。自分が悟ろうとしても、どうも愛がないんです。自分が悟ろうという、ある意味では、自分を高くしたいという気持ちになってしまうんですね。純粋な気持ちもあるでしょうが、どうしても、人を活(い)かす、という気持ちが、禅のなかにはない。それどころじゃないんだと、自分で手いっぱいだというのが禅、なんですね、どうしても。

お釈迦様のほんとうの気持ちはというと、禅定して悟りを開いた後に、人びとを救う。そういうことがほんとうだったのですね。釈尊の本意は。ところが、釈尊の悟りを開くまでを延延(えんえん)とやっているのが、今の坐禅なんですね。これで止まってはいけないんです。悟りを開いて実践をしなけりゃいけない。ところが、開く前で止まっている。それは悟りを開けないからね、開いたらもちろん説きたいんだろうけど、開けないから、開く前で止まっている。釈尊が本領を発揮する以前のところで止まってしまっているんですね。これが私の教えの限界でもありましたし、私の修行の限界でありました。


16.坐禅だけでは悟れない。学んだ知識を生かし、利他行に励め


道元  皆さん、悟るためだけの修行で一生送ってはいけないんです。悟りの段階はいろいろあるんです。一生かかっても悟れません。ただ、自分の得た悟りの段階で、やはり他の人びとを救っていくことが大事なんです。

先程言ったアフリカの話ではありませんが、アフリカを知るまでは、アフリカの話はできない、と。こんなこと言っていたんでは、地理の先生は務まらないんです。歴史の先生は務まらないんです。自分はアフリカや、アメリカや、あるいは、イギリスヘ行ったことないから、これらの国の政治、経済、歴史のことは話せないと言っていたら、地理の先生は務まりません。高校の社会の先生は務まりません。行かなくとも、務まるんです。それはやはりね、仕事ですから、自分の全力をつくして、知れる限りを言えばいいんです。

英語にしてもそうです。英米人と同じように話せるようになったら、英語を教えられるかと言えば、そういうわけではない。自分がマスターしただけの知識でもって、子供たちに英語を教えるんでしょう。そうしたもんです。ですから、皆さん、小さな悟りに執われずに、要するに、人びとを導いていく、愛していくという気持ちを忘れちゃいけない。悟らなけりゃ教えられないという考えもありましょう。けど、悟りには限りがありません。そして、悟りというほんとうの感激はなくとも、知識として悟り得ることはできます。

自分たちが知り得た霊的知識があります。それを他の人たちに伝えていくこと自体はできるはずなんです。ですから、道元自体が、つまり、「道元禅」をはじめた道元自体が、そこでゆき当たって、今、「愛」の問題を研究しているということを、どうか地上の皆さんに知っていただきたい。

やはり最後はね、宗教というのは、最後は、神仏の道というものは、多くの人たちと手を相携えて、生きていくということなんです。ひとりひとりの小っちゃな殼(から)に入ってはいけない。釈尊が妻子を捨てて山に入り、坐禅を組んだのは、結局、多くの人たちを生かすための、あれは大いなる修行であっただけであります。修行そのものが目的であったのではないのです。修行を捨てたときに、彼は大いなる悟りを開いたのであります。

そういう菩薩行というのを、どうか皆さん、大切にして下さい。禅、をやっている人は、キリスト教の人たちが奉仕をしているのを見ると、馬鹿みたいに見えるかもしれない。何も知らないのに奉仕ばかりしている、と思うかも知れない。けれども、やはりあれは、教えの一面なのです。だからあれを捨てちゃあいけません。

まあ、人生の悩みを解くためにね、坐禅に行っている人たちがいっぱいいるけれども、坐禅ばっかりでは悟れません。私は悟れなかったんだから。

ましてや、後世の人たち、私の教えを受けた僧侶に指導を受けても、悟ることはできないです。もっとも、何かをつかむことはいいです。自分の悩みを解決するために、何かをつかむことはいいですが、あまり悟り、悟りということに追われずに、あなた方の環境において、できるだけのことを、多くの人たちに対してやっていくということ、それは大事です。どうかそういう観点を忘れないでいただきたいと思います。まあ、"道元の限界"ということですが、これについて何かありますか。

――  いや、大変有意義なお教えをいろいろと賜って、感謝しております。他力、自力、絶対力論の問題から、時間論、悟りの段階論、あるいは、道元禅の起こりとその基礎、さらには、道元禅の限界について、また、悟りの飛躍と、菩薩行としての愛行の理解について、このような幅広い論点を明快に、説得力ある論調でお説き下さって、ありがとうございました。他力、自力行者を問わず、おそらく現代人は、並べて警策(きょうさく)をちょうだいしたことと存じます。「愛」の問題は、これはまた段階があり、幅広い視点があろうかと思いますが、最後に、現代の若者に対し、何か助言、指導のお言葉をいただければ幸いと存じますが。

道元  まあ、「愛」の問題は、私に聴くより、多分他の方にお聴きしたほうがいいでしょう。それとまあ、現代の若者たちに対する助言ということですが、若者たちにはね、今、私の言った言葉、「坐禅」というのは、必ずしもお寺へ行ってやるもんじゃありません、と。夜、自宅に帰ってから、一時間ぐらい心を静めて、自分自身の心と、守護、指導霊と対話すればいいですから、そういう自分自身を見つめられる時間というのは大事です。

ただ、もちろん、そればかりではいけません。自分自身を見つめたら、それをね、それで得たものを人に返していく。そういう努力は、大事です。親、兄弟、友だちと不調和のままで、坐禅ばかりしても、決して悟れません。やはり周りの人たちを活かしていく努力、自分が悟ったらその分だけ返していく努力、これをしていかねばいけません。不調和をつくるための坐禅であってはなりません。つまり、調和ということを、その大切さを、どうか噛締(かみし)めていただきたいと思います。

――  それでは、道元先生、長時間にわたって、朝来のご説法、まことにありがとうございました。

道元  ――還ります――。