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目次















(1986年8月10日の霊示)

1.禅道に、只管打坐(しかんだざ)と禅問答あり


無門  無門です。

――  無門禅師ですね。お初に御意を得ます。私は、かねてより、先生の御著になる『無門関』の書により学ばせていただいている者でありまして、本書のお教えの内容の極めて深遠なることに常々感銘いたしております。

さて、私どもの仕事の上から、「自力門」の方がた、とくに禅宗諸賢哲の方から"自力の悟り"ということについて、ご高説を承(うけたまわ)りたいとこう思いまして、先般は、道元禅師よりお説をうかがったのでありますが、本日は、ぜひ無門先生のお教えをうかがって、私どもをはじめ、現代の求道者一同の勉学の資とさせていただきたいと思いますので、よろしくお願いいたしたいと思います。

無門  わかりました。もういつ呼ばれるかと思って、待っておりましたが――。

――  そうですか、それはありがたいことです。それでまあ、私としましては、今回、「自力門」と申しましても、禅宗の方がたのご教義を取りまとめまして、一冊の本に仕上げ、世に出したいとこう思っておりますが、まず一番に、禅とは何か。禅の本義について。二番目には、人生における禅の効用について、三番目に悟りとは何か。真の悟りについて。これらのことについて、お説を承りたいと存じます。

無門  わかりました。第一は、禅の本義についてですね。禅とは、その名の示すとおり、単に示す、「単刀直入に示す」ということであります。では、単刀直入に、一体何を示すか。単刀直入に示すものは、すなわち、「是、仏の心、是、仏の道」、これであります。真理は、単純なもののなかにあるのです。すなわち、知識によって、さまざまなことを知ることが、真理の近道ではないということです。真理は、単にそれを直示することができるのです。

真理というものは、それを眼に見、手に取ることができないものである以上、これをまた、眼に見、手に取る形で示し表わすこともむつかしいものであります。限に見、耳に聞き、そして指に触ることができないものが真理であるならば、真理を感得する方法もまた、五官を超えたものではならないはずです。しかして、五官を超えたるものを如何にして感得し得るか。

およそ人間、この三次元世界において、有限世界において生きる者が、如何にして眼に見、耳に聞き、指に触れざるものを、感得しうるか。すなわち、五官によって、完全に感知しうるものではないこと。五官をも使うことによって、その五官を超えたるものを、ひとつの手がかりを通して感得することが、真理を悟る道ではなかろうか。

さすれば、五官を通して五官を超える道、五官を通して五官に非(あら)ざるものを感じ取る手立てが必要なはずである。それは一体何か。これを解き明かしたのが禅である。この五官を通して、五官を超える方法、これを得るに、禅はすなわち、是、二つの道を用意せり。第一の道は、是、只管打坐(しかんだざ)。日常性を捨て、ひたすらに打坐することにおいて、きっかけをつかんでいくという道。是、すなわち、「道元」の道なり。

しかして、ひとつの道あり。この道は、天より降りたるひとつのインスピレーションをもって、人間の五官知を打ち砕き、しかして、本然と悟らしめる道である。すなわち、是、禅問答。禅問答における公案は是、人の五官知において了知(りょうち)することあたわざるものなり。それを超えたるもの、知識によって判断できるものにあらず。知識を超えたるものなり。禅問答是(ぜんもんどうこれ)、論理的なるものならず。論理を超えたるものなり。論理を超えたるものを、直示することによって、現象を超えたる悟りの道を是、示すなり。これが禅の第二の道。

この第一の道、第二の道をあわせ考え得るに、第一の道は是、心身調和の法。心身の調和を経ずして、禅の一転語(てんご)もまた、価値なきものなり。まず、禅の意義は、第一義として、心身の調和にあり。心身の調和を経ずして、この三次元世界を超ゆる、新たなる悟りを感得することはできぬ。しかして、禅の真意義は、心身の調和のみならずして、心身の調和の後に、この三次元論理を超ゆるものを感得するところにあり。すなわち是、「イデア」の世界なり。如何にして三次元にいながら、イデアの世界を感得しうるかということは是、悟る道なり。

イデアの世界とは何であるか。イデアの世界是、「実相」世界なり。実相世界是、神の世界なり。神の世界是、三次元以降、四次元、五次元、六次元、七次元、八次元、九次元、十次元の世界なり。是、「イデア」の世界にして、「実相」の世界なり。

「実相」世界は、人間のつくりたる世界にあらず。実相世界は是、神のつくりたる世界なり。この世界の秘密を知り得ることをもって、悟りを得ると言う。是、禅の究極の意義なり。

簡単に説き明かせば、以上の二点が、禅の意義であるが、この点に関し、あなたに異言があれば、おうかがいいたす。

――  禅の意義というものを解説すれば、お話になられた今の一、二、の二つにおかれるのであるというお説でございますが、まあ、そうであろうと思いますけれども、このイデアの世界を感得する方法というものは、これはいわゆる坐禅によって得るのでしょうか。

無門  坐禅という言葉に執われる必要はないが、坐禅はその大道、あなた方のうちに、横たわって神と霊交し得る者があるかもしれんが、これは本道にあらず。神仏は人間に是、ひとつの法を与えたるなり。是、坐禅にして、坐禅は体を垂直に立てることにして、これにより、心身の調和によるひとつの霊的波長をあわせるものなり。霊的波長をあわせることは、この地上に神の放送を受け得るアンテナを立てることにして、このアンテナを立てずして、神の世界の霊波を受くることは是、あたわざるなり。これが原則である。

あなた方のうちの多くは、光の指導霊たちの霊波を受けることがなかなかむつかしいはずである。それはそのとおり、このアンテナをこの地上に立てることは、末法の世においては、非常にむつかしいことである。なぜならば、この地上界そのものが、さまざまな悪想念におかされ、けがされ、乱され、単にアンテナを立てるのみでは、神の世界の霊波を受信することはできないからである。

あなた方の多くは、坐禅により、あるいは、他の観法により、アンテナを立てる方法を修法するのであるが、単にアンテナを立てるのみでは、あの世の実相世界とは是、霊交すること、不可なるべし。すなわち、坐禅というものは、単にこの地上に、三次元世界に、受信のアンテナを立てるにして、これのみにしては、我々と交信することはあたわず。現在のように、この三次元世界が、さまざまな悪想念にて乱されておるときには、アンテナを立ててしかる後に、発信をせねばならぬ。こちらから呼んでいるということを発信せねばならぬ。そうでなければ、さまざまな妨害電波によりて、汝らの考えることは、我らが世界には届かぬものなり。

すなわち、坐禅ということは、アンテナにして、坐禅を修することによって、このなかにどのような心を持ちて、どのような調和せる波長を出し得るかということが問題なのである。坐禅という名前に是、こだわる必要はないが、何らかの坐禅的なものを通さずして、我らの世界の者と霊交することは是、またむつかしい。

――  今のお話で、第一番目の禅の意義ということについて、お話をいただいたわけですが、この禅による人生の転換と言いますか、その方向へ良きもの、清きもの、正しきもの、その方向へ自身の心を開いていくということによって、我々が願う究極の目的というものを、どのようにして把握できるかということ、またこれを、どのように実生活に運用していけるかということです。


2.禅は是(これ)、時時、刻刻の"際断(さいだん)"にあり


無門  禅は是、三次元世界の、三次元的生活の、是、際断、前後際断す。是、禅なり。汝らの生き方、三次元世界においては、連綿と続くその日常生活において、三次元を超えること是、むつかし。従って、この三次元生活をどこかにおいて、前後際断する必要あり。これが禅なり。連綿と続く、三次元生活のなかにおいて、人間は是、悟ることを得ず。是、前後際断し、前と後を、まったく別の人生とする必要あり。この前後際断、人生の前後際断において、肝要なること、是、一大発起(ほっき)なり。一大発心(ほっしん)なり。是、仏法において、菩堤心(ぼだいしん)と言うなり。

人生の前後を際断せずして、際断するための発心なくして、人生の一大転換はあり得ない。禅は是、転機。禅は是、転回。禅は是、発願。禅は是、転換。禅は是、死。そして、生。禅は是、終わり。そして、はじまり。終わりにしてはじまり。三次元的生活の終わりとして、是、また、三次元を超える生活の始まりなり。三次元的生活を禅に発心することによって、前後際断し、これを転回せよ。一躍跳入せよ。一躍眼を開け、鱗(うろこ)を落とせ。これが禅である。日々少しずつ自分を改善するという道もあるであろうが、しかし、この連綿と続く三次元世界を、ぶち切らずして、人間は悟ることはできない。是、禅なり。

では、如何にして際断するか。際断とは何であるか。際断とは是、三次元なる空間において、その三次元に流れる時間のなかにおいて、客観的時間のなかに、無限の時間を是、感取することなり。汝らが生きる時間は是、二十四時間、一日二十四時間、時計の長針と短針の組合わせによって決まる。そのような一日二十四時間を、だれもが生きている。しかし、人間の実人生においては、人間の真人生においては、各人一日二十四時間に、是、あらず。悟りたるとき、その人の時間は、一躍永遠のときのなかに跳入するのである。

前後際断とは、三次元生活における前後際断とは是、永遠なる今を感ずること。平凡な日々のなかに、非凡なる瞬間を見出すことである。人生に二種類の"時(とき)"あり。ひとつは是、朝起き、昼を食し、夜就寝す。かくの如き二十四時間の生活なり。しかしまた、人生に、新たな"時"あり。これは神仏の声を聴き、神仏の気持ちを看取し、神仏と自己とが一体となるときなり。

このときに、我は永遠の"時"を生くるなり。この"時"に過去なく、この"時"に未来なく、この"時"に現在なく、永遠の"時"を生きるなり。永遠の如来を生きるなり。是、永遠のときにして絶対の時間、絶対の時間にして純粋の時間なり。この純粋なる時間を感得し得ずして、人間は人生の前後際断することを得ず。おわかりか。

――  まあ、そういうことでございますが、これが人間、日常、常に煩悩に支配されておりまして、たえずそのような澄み切った精神の持続ということがなかなか困難でありまして、そこに迷いがあり、悩みがありという形になります。それを正しい方向に常住坐臥(じょうじゅうざが)、その心を調和した状態に置くということは、これは、一日のうちの限られた時間の"観法"だけで、修されましょうか。

無門  「際断」は是、継続にあらず。一期(いちご)一期が、是また、際断を発するとき、また、新たなる際断が起きる。継続をもって旨とせず。日々に人生を際断せよ。時々刻々に人生を際断せよ。迷える自分と、迷わない自分とを、一挙に際断せよ。迷える自己を見つめたとき、迷える自己を際断せよ。このときに、新たなる自己が現われるであろう。際断に"時"なし。際断に持続なし。際断は時時、刻刻なり。


3.「無」は宇宙観、「機」は是(これ)、発願(ほつがん)


――  ご著による『無門関』を拝読いたしておりますが、この「無」というものは、今おっしゃられた"際断"ということでしょうか。

無門  無は是、際断にあらず。無は是、際断を通じて、「空」の世界、是を観ずることなり。無は是、世界観にして、単なる際断にあらず、際断せるとき、はじめて感得しうるものは是、無。無は是、宇宙観なり。無は是、空間把握なり。そして、無はまた、空間のなかに存在の把握であり、存在のなかに、時間の把握をも含む。無は単なる無にあらず。無は無のなかにすべてを含む。そしてまた、そのなかにすべてを含まない。すべてを含み、すべてを含まざるもの、これが無なり。

無は時間にして、存在にして、しかして、虚無なり。虚無にして存在、存在にして時(とき)、これが無なり。「無」は、別の言葉を使うとするならば、無は是、神の意、神の意は無にして、無にして有(ゆう)、有にして無、時にして時にあらず。存在にして存在にあらず。

――  そういうことを感得できるということは、やはり坐禅なり、観法によって感得できるのでしょうか。

無門  それが平凡なる人間にとっては感得する大道である。しかしてまた、他の道はあろう。

――  先般、中国の老子様、荘子様のご意見を承ったのですが、この方がたは、「無為自然」という教えを説かれておるのでありますが、これは、禅宗と相通うような気がするのですが……。

禅というのも、ひとつの知識を積み重ねていって悟りを開くというのではなく、言うならば、立ち止まって今、自分が被っている砂なり、埃なりを即座に払って、本来の神の子、仏子という宝塔を掘り起こし、実相を顕現する方法である。というようなお説を聴いたのでありますが、禅との関わりを、どのように解釈したらよろしいですか。

無門  禅は是、方法論。しかして、老荘は是、方法論にあらず。

――  さて、それでは、禅による悟りのなかには、ひとつの、「機」というようなものが付加されるような感じがしますが、そういうものを意識する必要はないでしょうか。

無門  あります。「機」は全人生において、もっとも重要なる「時」であります。機なくして悟りなし。機というものは、先程申した発願であり、また、求道心でもあろうと思いますが、その発願なり、求道心なりを持たずして、人生を終えていく人間が大半であります。この人生のなかで、どこか前後が相違う断面が是、機。あなたの人生にしても、そういう断面があったはず。

その断面のときこそ機であり、この機こそ、人生における勝利の瞬間である。機なくして人生を終えた人間に勝利なし。この人生における勝利とは、この三次元生活に流されながら、流され切れない、実相の世界にある自分を感得すること、この瞬間をもって、"機"と言い、この機をもって、勝利のときとす。是、人生の真理なり。

――  あなた様のこのお説を拝聴していると、お説には、いささかの剰語(じょうご)といって、余る言葉もなく、簡潔で、正、否をくっきりと裁断(さいだん)され、真理を明快に示されたものと存じます。なお、先般、他力門のかつての聖賢の方がたからお教えを承ったのですが、その節、人間の生死の問題、人間死後の状態と、死期にあたっての往生の仕方など、いろいろお聴きしたのですが、聖道、自力門の方がたは、この人間の死の問題をどのようにお教えになっておられるのでしょうか、おうかがいいたします。


4.禅における生死、往生の悟り


無門  人生は日々に是、生死あり。生ありて死あり。これは他人のことにあらず。自分自身の内(うち)にあり。人生日々に生死あり。人生日々に臨終あり。一刻、一刻、吐く息、吸う息、この一瞬、一瞬に吐く息が止まりても、吸う息が止まりても、汝らが人生は、それにて終わりなり。

人生は日々に、人生は刻刻に是、臨終なり。是、誕生なり。人生日々に、刻々に生死あり。しかして、往生の極意は、この人生日々に生死ありということを知ることなり。すなわち、死が迫りてはじめて、悟り得て、極楽浄土に行くのではない。人生日々に、時々、別々に生死あり。一瞬の後にこの世を去るとしても、よき覚悟をして、日々を生きるということ。たとえば、あなたは今、私と話をしている。私と話し終えて命途絶(とだ)えるあなたであってもいいようなあなたで、生きねばならない。死は先のことにあらず。死はただ今のなかにあり。死は、阿弥陀如来を願って素晴らしいものとなり、あの世へと往生できるのではない。日々、刻々に白装束にて、単刀を喉元(のどもと)に突き立てたるような、このようなことが、人間の日々である。

これを分からずして、人生の本義は分からん。人間は日々に切腹を命ぜられているような存在なのである。あなたの吐く息が止まっても、吸う息が止まっても、それまでである。息が止まれば、十分と持ち堪えられる体ではない。すなわち、禅における往生の意義とは、現在ただ今に全人生を生きるということ。単に生きるのみならず、全人生を生き切るということ、これにつきる。すなわち、わかりやすく言うならば、今日命はてても悔なきあなたであるかどうか、こういうことだ。これを日々、自らに問いつつ生きなさい。是、往生の意義。是、禅における往生なり。禅は是、生死を超える道なり。


5.因縁解脱(いんねんげだつ)は可能か


――  禅師が、『無門関』第二則(百丈野狐(ひゃくじょうやこ))の公案解説で説かれている"不昧因果(ふまいいんが)、不落因果(ふらくいんが)"の件(くだり)でありますが、これを現代人で、「公案禅(こうあんぜん)」を弁(わきま)えていない者は、どのように理解すればよろしいか。

無門  因縁、因果について、あなたの思うところを、もう少し語ってみなさい。因果、因縁とは、何をもって、あなたは因縁とされているのか。

――  因縁とは、要するに、我々の住んでいるこの三次元世界において、人びとの思想、信条、考え方がみな異なっている。従って、日常生活においても、みなそのとおり違った生活となっている。

この考え方の因ってくるところは、自分がこの世に生まれてよりこのかた、考え行なったとおりの結果が現われているのでありますが、さらに生前、あるいは、前世において、自分が思い、考え、行なってきたことの結果の積み重ね、これは正邪ともにですが、そういう、何世にもわたって積み重ねてきた自分の考え、念いが、この世に生きる今の自分に引き継がれてきて、その結果として、今の環境なり、今の生活があるということだと思います。

このように、この世の人生は、善因、善果、悪因、悪果の現われている相であって、この悪因悪果を晴らすためには、それだけの"悟り"が必要だということではないでしょうか。この点に向かって大悟したならば、すなわち、一躍跳入如来地、ということもありうるのでしょうか。


6.「不昧因果(ふまいいんが)」とは


無門  では、この点に関しては、かなり肝要なことであるから、分かりやすく説明することにする。よろしいですか――。

まず、因果の理法とは、どのようなことをすれば、どのような反応があるか。分かりやすく言うなら、作用、反作の法則、昔流に言う譬(たと)え話で言うならば、蒔(ま)かぬ種は生(は)えぬ。自ら蒔いた種は、刈り取らねばならぬ。こうした簡潔な言葉となるでしょう。

従って、人間がこの世に生きていくうちにおいて、その一生において成したこと。思ったこと。思ったことを行なったこと。心に描きたること。聴きたることに関して、思いたること。すべて是(これ)、自らの作用にして、この反作用を受くること、これを逃がるる手段なし。是、"不昧因果"と言う。

しかして、これを断ち切る道あり。是、悟りの道なり。たとえば、これは、分かりやすくするため、説明するのである。十人の人を殺した人が、ここにおるとする。この者が死後どうなるか。九九パーセント、この人間は地獄にて苦しむこととなる。九九・九パーセント、と言っておく。是、"不昧因果"なり。たとえその人の地位が高かろうと、地位が低かろうとも、十人の人を、善意な無垢な人を殺したならば、まず地獄に堕ちること、これより逃れる手段なし。

仏教者であるあなたが殺そうとも、帝王と称ばれた人が殺そうとも、また、一通行人が、ある日、その気になって人を殺そうとも、あるいは、これまた悪霊の憑依(ひょうい)によりて、気が狂って人を殺そうとも、それ悪霊の所為にあらず、その人はその人なりの責任を負う。是、不昧因果なり。


7.「不落因果(ふらくいんが)」の悟り


無門  しかして、しからば、人生の前半において、十人の人を殺せし人が、後にまた、一大教化者となり、百万人、千万人の人の命を救ったときに、はたしてこの人は、地獄に堕つるや否や。これが、この問答の肝要なる点なり。かつて十人の命を奪いたる自分、しかして後、翻然と悟りて、世のため、人びとのために、悟りの道を説き、世の多くの人びとを救いつつ、全人生をまっとうし得た人。この人は、はたして地獄に堕つるや、否や。「不落因果」是、すなわち正解なり。因果の理は是、昧(くら)ますことできず。しかし、断ち切ることができる。

すなわち、ある作用に対して反作用が起きるという法則自体は、これは、如来であろうと、菩薩であろうと、変えることはできない。しかしながら、その反作用を打ち消すだけの、さらに大いなる作用を起こしたならば、その反作用はなくなってしまう。つまり、悪しき作用あれば、悪しき反作用あり。これは人生の真なり。

しかし、悪しき反作用に対し、さらに良き作用をしたならば、是、悪しき反作用を打ち消すものなり。是、「不落因果」なり。すなわち、悟りはすべてを超ゆるものにして、仏が救いの一乗をここに与えたるなり。そこに一乗の救いの光あり。どのような悪人であろうとも、どのような悪行を生きた人であろうとも、この悟りの一乗によりて、一躍跳入如来地に行ったならば、是、因果の理に惑わされることあらず。

すなわち、悟りは、大いなる青龍刀にして、すべての絆を、断ち切るものなり。すなわち是、作用、反作用の法則は昧(くら)ますことあたわず。されど、さらに大いなる"発心"によりて、この作用、反作用を打ち消す如(ごと)き働きあり。乗り越えるが如き働きあり。是、「不落因果」なり。

地獄にありても、一躍菩提心を起こし、翻然と悟ったならば、その人は、もはや地獄にあらず。百年の地獄の生活も一瞬にして、是、天国、変わりうること確かである。すなわち是、人生の「機」、人生の機は是、生きたる人間のみにあらず。死後の世界にあり、地獄にあり。百年あり、二百年ありて、自らを病のうちに苦しむと思い、百年、二百年を苦しみ、自らは、自らの犯した悪によりて良心を苦しむ。このようなことにて、百年、二百年を苦しむ。しかして、病いの念を持ちて二百年苦しみたるものが、人間肉体なし、霊のみ是、実相。是、悟りたるとき、すでに病なし。すでに地獄なし。是、天国。自らのなしてきたる悪に執われて、地獄に永く住みし者も、翻然と悟って菩提心を起こし、そして、世のため、人のためにつくさんと、一大発心をなしたならば、是、まさに地獄にあらず。

すなわち、人生に量と質あり。質は量を凌駕(りょうが)するものなり。地獄にありても、地獄にありて、さまざまなる悪魔が攻め来たるとも、人間の本性は悪魔にあらず。神は悪魔をつくり給わぬ。悪魔は実在にあらず。悪魔なし、と強く悟ったならば、悪魔はその人に対して何もすることはできない。悪は悪として認めて後はじめて、その力を現わすのである。

いっさいを際断せよ。迷いを際断せよ。迷いを打破し、道破せよ。そこには、"神理"しかない。迷いを打破し、道破したときに、"神理"のみ実在、"光"のみ実在、そこに一乗の"光明"ありて、一乗の光明は世を覆(おお)い、すべてを覆う。これを見出す者は、是、人生の勇者なり。勇者にしてはじめて、悟りを得るなり。人びとよ、人生の勇者たれ。勇者を奮い起こして、真なる自己を発見し、真実なる人生を生きよ。過去に執わるることなかれ。因果の理法ありとも、敢然とこれを断ち切れ。すなわち、前後際断せよ。迷いたる自分を際断せよ。悪人でありし自分を際断せよ。そして、まったく違った別人格として、人生を生きていけ。そのときにすでに、因果断ち切られたるなり。


8.悟りの要諦(ようてい)は、自他一如の真我の理解にあり


――  この因果の法則を際断する力というものは、単なる言葉や、単なる思考や、空念仏でなせるものではない。その力というもののなかには、非常に充実した質的なものが横溢(おういつ)しているものであると思います。浄土、他力門の方は、「南無阿弥陀仏」と念仏を称えることによって、いわゆる前後際断ができて、悟りの境地に入れるというのですが、これでよろしいですか。

無門  それは、「南無阿弥陀仏」の中味による。真実発願を起こし、南無阿弥陀仏のなかに自己投入し、自分が大宇宙のなかに混然一体と化したならば、南無阿弥陀仏の世界は是、光明の世界。自他が別になっているようでは、南無阿弥、に効用なし。迷える自分というものをそこに置いて、迷っていない他の者が自分を救ってくれると思っているうちは、南無阿弥陀仏に救いなし。

しかし、南無阿弥陀仏のなかに、"阿弥陀如来"と一体なる自己を発見するならば、そこに救いあり。そこに迷いなし。そこに悟りのみあり。

――  要は、"発心"の質が問題だということですね。

無門  理解である。――南無阿弥陀仏、ということを、迷える自分でない、悟れる「阿弥陀如来」よ救い給えと言うのであるならば、迷える自分を背負って迷いは解けぬ。しかし、「南無阿弥陀仏」を、迷える自分のなかに、眠っている光明せる我を信ずることであるならば、是、迷える我なし。すなわち是、理解、神理の理解にして、これがすべてなり。

――  深遠なる哲理、真理をお説き願って、まことにありがとうございました。なお加えて、今の世の求道者にご教導願えるお教えがございましたら、この機会にお願いできたらと存じます。禅宗の教えに関して、あるいはまた、禅宗によらず、他に現代人の生くる上において、肝要と思える訓えがございましたら、お願いいたします。

無門  "禅"は是、方法論にして、またこれに執われてはならぬ。従って、今、他力のなかにも真理あり。要するに、人生において、勇気を奮い起こしたときに、真の求道心を起こしたときに、人間はすでに是、仏道に入るなり。

仏道に入れば是、迷いなし。仏道はただ是、一筋に神仏の本に通じているものなり。従って、方法論にこだわる必要なし。日々の生活のなかにおいて、前後を際断するような、勇気ある発願をなして、力強く人生を生きていくこと、そして、その持続は必要ではない。その刻刻に、思いつきたる時時、刻々に、際断せよ。自らの人生を際断せよ。それがまた、人生の秘義であると思う。

"禅"は是、人生を勇気づける方法なり。禅の言葉は是、人生の勇気の言葉なり。これをもって、心に灯を掲げて、高く掲げて歩め。そこに一筋の"光明"の道があるはずである。

――  それでは、"禅"に関しては、禅をひとつの方法として、悟りの世界に、光明の世界に入れ、と。さすれば、因果の理法をも超えれるものだという今のお言葉で、禅の本義を理解すればよいということでよろしいのですね。

無門  それでよろしい。

――  ありがとうございました。

無門  とくにあなたは、現代の日本において、これからいろんな人の教えを説こうとしている。ただ、これを他の人の言葉と思うな。これ以外にあなたの自説があると思うな。ひとつひとつの言葉のなかに、彼であり、あなたであり、あなたであり、彼であるような真理があるならば、それは、彼の言葉にあらず。我れの言葉なり。我れの言葉として彼の言葉なり。

あなたの仕事について言うならば、あなたは、他の方がたの高級霊たちの言葉を紹介しているのであろうが、それを単なる紹介と思うな。その言葉のなかに、あなたの胸を打ち、あなたを共感させるものがあるならば、それ、是、あなたの自説、自説にして他説、他説にして自説、是、単なる紹介にあらず。あなたの言葉を述ぶるなり。この理を忘れてはならない。

自らのやっていることを、先程の他力信者のように、自分以外の者が何かを教えてくれると思うな。あなたが教えてもらっていることは、すべてあなた自身のなかにあるものである。この自他一体の、諸如来諸菩薩と自他一体の境地に入りなさい。さまざまの人が来て、さまざまな教えを説いているのであろう。その教えのなかで、共感するものがあったなら、それ自体は、あなた自身の考えであり、あなた自身の「法」であるということ、これを忘れてはならない。さまざまの方の教えのなかで、あなたのなかに共感するものがあったら、それを綴(つづ)りあわせたものが、あなたの法であり、あなたの教えである。自他は一体であり、自と他を分けるな。


9.無門禅師の前世はアリストテレス、今世は西田幾多郎として生まる


――  ありがとうございました。

それと、話は変わりますが、先生は、かつて中国にお生まれになられたのですが、近年、この日本に、ご再誕されたご経験はございますか。

無門  あります。

――  お聴きするところによると、京都大学の哲学科で教鞭(きょうべん)を執られていた西田幾多郎先生が、かつての無門禅師だということですが。

無門  そのとおりです。

――  西田先生は、我が国において、「西田哲学」という観念論哲学の創始者となられ、「無」の統一論など、高い論理を展開されておられますが、これは無門先生のお考えとは相通ずるものがございますか。

無門  同じです。我は西田にして、西田にあらず。無門にして無門にあらず。無門にして西田、西田にして無門、西田幾多郎是(これ)、無門慧開(えかい)なり。無門慧開是、西田幾多郎なり。

――  西田幾多郎先生としてご再誕されて、無門和尚として何かお教えされた上に何かをつけ加えられたもの、新たな発見、発展というものがあられたのでしょうか。

無門  宗教は宗教として、すでに、世の人びとを救う力がない。今後の世界の人びとを救うのは是、思想。是、哲学。あなた方も、思想として、哲学として、一貫した筋のあるものでなければならない。単なるご利益宗教に走ってしまったのではいけない。これを忘れないことだと思う。

――  私は戦後、ある機会を得まして、西田先生のお弟子様であられた京都大学の哲学科教授、山内得立先生とお会いし、数日間起居をともにした際、哲学に関し、種々お教えを賜ったことがあります。当時、「関係の論理と実践の論理」など、観念論哲学を大いに高揚されておりましたが、この方も、西田先生のご指導を受けた方だと思いますが。

西田  かつて仏教を学びし者、あるとき、日本に生まれて哲学者となり、あるときは、ドイツ、フランスに生まれて、哲学者となる。哲学もまた是、神の教えの現われなり。近代においては、とくにそのような形で現われている。

――  日本の観念論学派の方がたは、ドイツのカント先生など、ドイツの観念論派の方がたとは相通ずるものがあるわけですね。

西田  カントは是、旧約の預言者。ヘーゲルは是、かつて禅宗にて道を学びし者なり。

――  この新しい時代を迎えて、天上界において、だれかこの「神理」を哲学的に体系づけられる人を用意されておられるのでしょうか。

西田  もはや哲学のなかには、救いはないと私は思います。もはや哲学を超えていかねばならない。哲学はあまりにも、抽象的知識のほうに走りすぎ、現在のこの天上界から見ていると、地上に行なわれている哲学は是、あまりにも論理学、あるいは、数学的なものに走っておるようです。記号論理学のなかに救いなし。

――  過般、ソクラテス先生をお招きしていろいろお教えをうかがい、これを『ソクラテスの霊言』として書物に著しましたが、今、天上界では、かつての哲学者方が、神の栄光のひとつの現われとして、ソクラテス、プラトン、カントなどの諸聖賢が、"知"のグループを形成しておられるということですが、そのなかに、先生もご一緒されておられるのでしょうか。

西田  そうです。私は以前に、ギリシャにも生まれております。

――  ギリシャと言われますと、アリストテレスとか……。

西田  アリストテレス、その人です。私はギリシャに生まれ、アリストテレスとなり、また、その後、中国に生まれ無門慧開となり。日本に生まれ、西田幾多郎となっています。


10.自らの人生を、鉛を変えて黄金となす錬金術師たれ


――  そうでありましたか。本日承った範囲では、無門慧開禅師ということでお教えを承りましたが、このお教えの中味を広げたなら、非常に膨大な哲学的論理となろうと思うのであります。集約してお説き下さったのですが、このお言葉のなかには、非常に密度の濃い法理が満たされていると存じました。これを、私どもが押し延べて広めるということについては、なかなか至難なことであろうと存じます。

西田  ただ、わかりやすい言葉で言っておくならば、あなた方も、「禅」のなかで一番大切なものは、やはり"機"だと思うでしょう。人生には、やはり、かつての人生と違った人生を歩むべき瞬間というものがあります。この"機"というものを大切にして、人びとを導いていただきたいのです。

あなた方の教えのなかに、"一転語"として、やはり何か翻然と悟らしめるものがなければいけない。これが人生の機であろうと思う。このときに、前後を際断して、永遠なる宇宙のなかの自分、永遠なる「実相世界」のなかの自分、これを悟ることが必要です。

――  お訓えになられた人生の"機"の機はまた、気力の"気"にも通ずるものではないかと思われるのですが。

西田  機は気に通じます。もちろん、そのとおりです。しかし、気力だけではダメです。気力だけで生きている人は、いくらでもいるのです。気力のなかに、ある時点で、それをつきつめたときに、翻然と悟る、量が質に変わる転換点、それがいります。――ある時点で、核融合が起きるように、ある時点で核分裂が起きるように、その瞬間というものがあります。物質が変化する瞬間であります。それはあなた方の人生の質が、転換する瞬間であります。

自らの人生を、鉛を転じて黄金とせよ。黄金とするために、さまざまな坐法もあり、観法もあり、教えがあるのだということ、これを悟りなさい。つまり、悟りというものは、鉛の人生を、黄金の人生に変えるための錬金術ということです。

――  まことに有益な、ありかたいお教えを承って、ありがとうございました。


11.前後を際断する宗教たれ、教えとなれ


西田  まあ、あなた方に、今ひとつ言っておくとするならば、私は、かつて西洋において、西洋哲学の、まあ、基礎をつくった人間のひとりでありますが、西洋哲学と、東洋哲学は、それぞれ性格を異にしているように見えながら、本質においては同じだということです。私が西洋哲学をやっていたときに、私がアリストテレスとして生まれたときに、論理学というような思考体系を組み立てていきましたが、やはり論理だけでは超えられないものがある。それを知らしめるために、無門慧開として出て、"禅"というものを深めていき、これを体系化していきました。そしてまた、日本の地において、今後、さまざまな思想世界を広げていく、私は、そのひとつの布石として、西田幾多郎として、また出たのです。

やがて日本を中心にして、新たな文化文明が、興(お)きていくでありましょう。そのときに、哲学のひとつの始祖、となるために、私は出て来たのです。日本はやがて、かつてのギリシャとなるでありましょう。文明の淵源の地となるでしょう。ギリシャ、エーゲ海のあの小さな小島を擁したギリシャの半島において、あれだけ質の高い文明が栄えたのです。それと同じく、この日本の地が、また未来の人類にとって、ひとつのギリシャの地となるでありましょう。我々は、そのために出て来たのであり、我々のなかには、私もあり、あなた方もあるということです。

―― 西田先生のお教えを受けた京都の諸先生方は、また代が変わって、新たな時代に向かっての命題に取り組んでおられることと思いますが。

西田  京都の学派は問題ではないのです。また哲学も是、前後裁断、人類の歴史のなかで、幾人かの大哲学者が出て、歴史を前後際断しておるのです。ソクラテス以前と以後とでは、人類の歴史は違うのです。デカルト以前と以後では、人類の歴史は是、違うのです。

あなた方もまた、新たな宗教を起こすのであるならば、前後を際断するような宗教となっていただきたい。あなた方の仕事は大変に多いように思われるでありましょうが、ひとつに、それは、各人の想いの方向を転換、百八十度の転換させることです。これをさせるということです。それにつきておるのです。

悟る、悟らない。救う、救われないは、やはり各人の問題なのです。最後には、そこまでは、あなた方が面倒をみる必要はないのです。あなた方は、人生を転換させるためのひとつの"活"を与えるという、そういう役目のために来ているのです。ひとりひとりの人を救うために来たのではないのです。

――  私たちも、あなた方は総論をつくるのであって、各論はあなた方の教えの裾野(すその)から出て来るのだと訓えられておりますが。

西田  あなた方の弟子がそれをすると言っているのではないのです。あなた方の教えに触れたひとりひとりが悟るということです。禅は、どの宗派に属しても、悟りは個人に属するものです。宗派に属するものではありません。同じであります。

ですから、あなた方の教えを聴いても、悟る人、悟らぬ人、さまざまでありましょう。以上のようなことでありますが、それ以外に何がありますか。――"禅"としては、もうこれ以上のことは、私は言えません。禅を超えた場合には、もちろん、これ以上の話はあります。ただ、現在のあなた方の目的に、それは合致しておらぬでありましょう。

――  はい、西田先生。それでは、本日はどうもありがとうごぎいました――。