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目次















9.この世で偉くなりたいと思ってはいけない


一遍  もう一つだけつけ加えておくと、さっきもちょっと言いましたが、宗教家があまり偉くなっちゃうことに、私は疑問があるのですよ。偉い偉くないは、あの世へ行けば神様、仏様が決めてくださることなのですよ。だからこの世で、地上で、自分が偉くなってしまうことはないのですよ。聖人君子になってはいけないのです。

ところがね、地上では、自分が偉くなっちゃう人がいるんですな。まあ、某大宗教家でね、登りつめた方で、ときの政府からも信任されて、その仏教界の頂点にいた方が、今、ある苦しいところで喘(あえ)いでいるという事実があります。その事実の背景にあるものは、結局、その方があまり偉くなりすぎたのですな。キリスト教で言うようにね、「自ら高くするものは低くせられ、低くするものは高くせらる」と言いますが、これは真理なのですよ。この世で、己れを高しと思う者はみな、下へ行くのですよ。逆に、己れを低うするものは高うせられるのです。神仏の前には、その人の高い低いはわからないのです。むしろ逆になることが多い。

そういうことで、今度は専門家の方ですな、今後「神理」を説いていこうといわれる専門の方がた、あなた方を始めとして、やがて支部などが、できればいろいろ幹部の方とか、支部長とか、まあそんな名誉職がいっぱいできるのでしょうが、自分を偉いと思ってはいけない。偉いと思っちゃいけませんよ。偉いかどうかは、あの世で神様、仏様が決めることなのです。自分が決めることではないのです。人を導くということを、偉いことだと思ってはいけません。

そういうことで、やはりそういう宗教家というのは、本格的に自分の道というものを求める途中においては、捨てなければいけないのですよ。"執着"、これを捨てなければいけない。この捨てるということが大事なのです。仏道修行に励んでいる人はね、みな偉くなりたいと思っている。そういう方が、けっこう多いのですよ。俗事から離れて一筋に生きれば偉くなれるんじゃないか、と。ところが、偉くなれないんですね。つまり、偉くなりたいという気持ち、その執着の気持ちを捨てられないからです。こういう人は低くされます。

たとえば、普通の人間などには真似できない荒行をやっている人がおります。今だにね、那智の滝だとか、何とかの滝だとかで滝行をやっている人もおります。普通の人にはできないことでしょう。なぜそんなことをやっているのか。つまりは、偉い人になりたいからですな。普通の人にできないようなことをして、偉くなりたいからです。また、"千日回峯(せんにちかいほう)"とかいうものをやっている人もいる。何でやっているのか、これもまた、偉くなりたいからですな。しかし、捨てていませんよ、何も。何も捨てちゃいません。生きながら名僧、高僧といわれたくてやっておるんです。そんなことをやらなくてもね、山歩きがしたけりゃ、黙ってやればいいんですよ。

"千日回峯"などと銘打って、人びとの注目をひいてやることはないのです。そんなのは名誉欲でしかありません。

それとかね、現代では、"ヨガ"なども流行(はや)っているようですがね。ヨガなんかでね、私が見ていると馬鹿なことをね、空中浮揚とか、馬鹿なことが流行っておるようです。修行して空中に体が浮くようになると、それで、われこそはとみんな修行をやったりしている。こういうものもすべて、偉くなりたいと思っておるのですな。こうした人びとにできないことをすると偉くなれると思っている。

しかし、こういう偉くなりたいという気持ちを捨てなければだめです。これを捨てなければ、本当には偉くなれないのです。宗教をやる人びとで、最後の関門は、実はここなんです。欲を絶つことはできるんですよ。食欲を絶って、断食をしたり、菜食主義にすること、これも慣れたらできます。女性を断つ。異性を断つのも、まあ、できないことはないですね。修行だと思えば、女性がいないところへ行けばいいのですからね。これは、断てないこともありません。睡眠をけずる。二時間、三時間と、体をいためるかもしれないけれども、これもできないことはないです。このように、昔からある修行は、できないことではありません。

ただ、一番むずかしいのはね、今の世の中にあって一番むずかしいのは、人から偉く思われたい気持ち、人の上に立ちたい気持ち、そういう気持ちを捨てることです。人を教えるということのなかには、どうしても尊敬されたいという気持ちがあります。現代においても、新興宗教が乱立しておるようだが、結局は、「われこそは本物だ」と言って争っている。何で争うか。偉くなりたいのです。人を蹴落としてでも、偉くなりたい、と。他宗の批判をどんどんしてでも偉くなりたい。そういうことで、「これこそは本当の宗教」だと、そういうことを言いたいわけです。

まあ、あなた方、心の世界を知った人たちは、過去世の姿とかを知っていますね。そこで、過去世の自分というものを知ってみると、ああ、自分が偉いもんだということがよくわかることがありますな。最近できたある宗教でも、そういうのが多かったですが、過去世で偉い人であったから、自分は偉いんだ、と。こういうのは、まあ、「神理」の実証のためにやっとるのはけっこうですが、過去世が偉いからその人がどうだこうだというわけではないんですな。過去世は過去世、今世は今世で、光の天使だって地獄へ堕ちるかもしれません。それはわからない。

しかし、たとえば修行してね、反省をして、霊道を開いてですな、そして、過去世を知った、と。それで、過去世は偉かった、"万才"と、自分は過去世では、キリスト教系の偉い人だった、仏教系の偉い人だったと、こういう人がいっぱいおるわけです。釈迦の教え、キリストの教えを直々に聴いたとかね、あるいは、自分はキリストそのものだなどと言っている人が、なかにはおるかもしれません。しかし、こういうふうに、偉い人になったと思ってはいけない。とくに新興宗教のなかには、そういう考えが多いですから、気をつけていただきたい。

そして、信ずる人も信ずる人でね、その人が過去世で偉い人だから、その人を信ずると、こんなことではいけないのですよ。過去世では本当に偉い人かもしれないけれども、それは過去世の話なのです。ですから、今世の人となり、教えの内容を見て判断しなければいけない。とくに現代の新興宗教を見ると、どうも生き神様がでてくる傾向がある。死んでからはともかくとしても、生きているうちから生神様になって崇(まつ)られている。この方が言っているんだから絶対だと、間違ってても何でもいいからそのまま信じちゃって、それに対する批判でもでようものなら、一蹴(いっしゅう)するか押え込んでしまう。あるいは、悪魔、悪霊が憑(つ)いているなどと言って、名指しで批判する。こういうことをよくされているようです。こういうのはすべて、偉いということを誤解しておるんです。真理はいつも同じなんです。偉いと思っている人は低くせられ、低いと思っている人は偉くされるんです。


10.九次元の人は秀才、しかし、七次元、六次元にはもっと専門家がいる


一遍  だから、あなた方もね、七次元だの八次元だの、九次元だのと、ずいぶん言っているようだが、これも害悪を撒(ま)くことが多いですよ。九次元の人がこう言っているのだから、八次元、七次元の人は黙っていろ、こういう人の意見などは、採ることはない、と。後世において、こういう人がでてきますよ。あなた方の「霊言集」のなかでも、九次元の人の言うことだけ聴いておればいいんだ、と。あるいはまた、八次元、七次元の人の言うことは聴かなくてもいいんだ、と。こんなことを言う人がいるでしょう。しかし、「神理」というものは、そんな簡単なものではないのです。

まあ、九次元におるような人というのは、オール・マイティの秀才なんですよ。国語も、英語も、理科も社会も、何もかもできるような人が、九次元へ行っております。ただね、英語なら英語という特別な科目をとれば、七次元、六次元の人で、もっとできるという人はいます。また、国語だけとっても、同じことが言えます。絵だけ描かせれば、もっとうまい人がいる。詩だけ書かせれば、うまい人もいる。

これは、一つの譬喩(ひゆ)でありますがね。たとえば、よくあるでしょう。学校の先生がね、小学校、中学校の先生がね、まあ、大した学校をでていない、と。ところが、子供のお父さんのほうは、まあ、一流大学をでている。そこで、そういう一流大学をでているお父さんとかお母さんとかがね、PTAに行き、三流大学をでている先生の話だと不安になってくる。いけません、と。塾へでも通わさないとね、心配だ、などと言っているんですね。しかし、専門家というのはいるんです。たとえ、三流大学をでていてもね、小学校で教えるということで専門教育を受けているんですから、一流大学をでているからといって、何も父兄が口をだすことはないんですよ。専門家がいるんですから、同じことです。

親がどれだけ立派な学校を卒業しているか知らんけれども、子供が小学校、中学校へ行っている以上は、小学校の先生の言うことを、中学校の先生の言うことを、よく聴けばいいのです。立場が違うんです。彼らは専門家なんです。同じですよ。六次元の人だからといって、レベルが低いとか、七次元だから意見を聴いてやらないとか、こういう考え方は、間違っています。ですから、あなた方の次元概念も、下手をすると、読者とか信者にそういう間違いを招く惧(おそ)れがあります。


11.権威主義はやめるべきである


一遍  あなた方の前に興ったある新興宗教でも、そうしたことで間違いを起こしている人をずいぶんつくっておるようです。すなわち、この人は上だ、と。人間には、上下段がある。この世にも、上下があるけれども、あの世の上下まで持ってきて、あの世の物差をこの世で通用させる。しかし、それではいけないのです。

いいですか、あなた方の教えを説く講師とかがでてきて、そういう人の教えを聴く場合に、「あの人は、先生が"菩薩"だと言ったから、あの人は偉い。だから教わるんだ」とかね、「あの人は先生に、"如来"の人だと言われたから、あの人の教えを聴くんだ」とかね、こんな馬鹿なことを言う人がでてくるんですね。しかし、そうじゃない。その人の箔(はく)ではないのです。その人の本当に持っている神性、教えの内容をよく見て、それでもって判断せねばならんということですね。そういうことなんですよ。

だから、私は最初に、「空間」の話、それから、「時間」の話をしました。三番目にした話は、「価値尺度」について。この話を私はしたんですね。「空間」「時間」「価値尺度」とこの三つ、すなわち、これはある意味での哲学であります。これをまあ、わかりやすく言ってみたんですが、偉い、偉くないをこの世で計ろうとするなということです。そういうことなんです。あなた方も、それに気をつけなさいよ。過去世においてどんな偉い方であったとしても、また、どんな偉い大聖者の下で修行をしたからといって、今の自分たちが偉いんだなどとは考えてはいけないよ。

ですから、あなた方が今後、布教していくときにおいてね、「私たちは偉いんじゃありません。私たちが偉いから、私たちの教えを聴けと言っているのではありません。私たちの教えの内容を見て、あなた方に汲(く)み取るところがあったら、それを汲み取ってください」と、こういう立場ですね、これをとっていただきたいのです。教えの内容を見て、参考になるところがあったら、吸収していただく。決して、自分たちが偉いから教えを説いているのではありませんよ、と。こういうことです。

――  まあ、私もつくづく考えていることですが、あの世での価値基準でこの世を計ろう、それで自分が渡ろうとしてはいけないということを考えております。

一遍  まあ、あの世にね、神様がつくった価値の序列、上下があるのは確かです。ただそれはね、いろんな理由があって、そうなっているのですから、それをそのまま持ってきてはいけないのです。それぞれの立場で役割があるのですからね。それをそのまま持ってきちゃいけない。この世に引きずり下ろさないようにしてください。

――  このことは、私どもの今後の「法」布教にあたっての"頂門の一針"とさせていただきたいと思います。ありがとうございました。

一遍  まあ謙虚な気持ちでということですな。これは大事です。宗教家にとってはね、この謙虚さということが、一番大事なんです。自分を偉くし、「偉し」とする気持ちは危ないです。もちろん、へり下る必要はないんですよ。それはないけれども、「偉し」と思ってはいけない。

――  それは、私も、近頃ふと考えることですが、こうしていろいろな聖賢の方がたのお話をうけたまわっていても、人によっては、この人はずいぶん偉い人なんだなと感じる方がおられます。

一遍  いや、それもまた、裁いてはいけないのです。本当に偉いかもしれないですよ。本当に偉い人に対してはね、偉いと認めてあげること、これもまた礼儀ですからね。ただ、肉体を持っているあなた方はそう思わないほうがいいでしょうと、私は言っているのです。まあ、あの世へ行けば、偉い人はおりますよ。偉い人は偉いんですから、それはそれでいいじゃないですか、認めてあげてください。へり下るからって、偉いわけではありません。

イエス・キリストはイエス・キリストの、釈迦は釈迦としての立場があるし、毅然(きぜん)とした態度をとらねばいけません。それをへり下ってね、あなた方と同じように戯言(ざれごと)を言っているわけにはいかないのです。それは仕方ありません。立場があるのですから。まあ、偉い偉くないではなくてね、あなた方も、お役に立ちたいという気持ちでやっていきなさい。それがいいことですよ。

私はね、権威主義というのが一番嫌いだったのです。だからあなた方も、"権威主義"にならないようにしてください。私はそれがすごく嫌いでね、ごらんのとおりの生涯の生活でした。やっぱり、私は俗人と混って生きたかったんですよ。これは、あくまでも私の個人的な考えですが、権威主義はやめていただきたいと思います。ま、それは、あなたとも意見が一致するでしょう。昔は、よく話したものです。こういうことをね。つまり、権威主義って嫌いだね、と。お互いに恵まれないことが多かったものですからね。この世的には恵まれないことが多かったもんでね、権威主義は嫌いなんですよ。

お互いにね。神の道を説く者が、この世では、なかなか偉しとはしてくれないこともあってね、でも、いいじゃないか、と。平々凡々とね、そのなかに生きて、そして、光っていればいいのです。

まあ、そういうことで、時間もだいたいきたようでございますから、今日の私の話は終えましょう。唯円様のぶんをとってはいけないので、ここらで私は引きあげたいと思っておりますが、どうですか……。

――  あなた様には非常に斬新な、そして、含蓄(がんちく)のある教えを賜って、心を広くせられる思いがしました。

一遍  まあ、あなたは一遍など忘れているでしょうが、私もまた、あなたの友だちの一人ですよ。あなたの友だちはいっぱいいるんですよ。私たちは、おせっかいではないから、自分たちからはでません。けれどね、あなたは、蓮如様とも友だちだし、私とも友だちです。親鸞様だって友だちです。実は、みんな友だちだったんです。

――  本当に、そういうことでございましたか。如何(いか)んせん肉を持つということは哀しいことで、かつての恩義のある方や、友人方に対し、不義理なことばかりを重ねてしまって……。でも、そちらへ還ったら十分にお詫びをし、お礼も申し上げたいと思っておりますので、今後とも、ご指導をよろしくお願いいたします。

一遍  じゃあ、そういうことです。では、今日は還らしてもらいます。