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目次































(1986年8月7日の霊示)

1.蓮如上人の「親鸞観」について


蓮如  蓮如です。

――  初めてお招きいたしましたが……。

蓮如  いや、私のほうでは、もういつ呼ばれるかと、ここ数ヵ月、首のまわりを洗って待っておりました。

――  これはどうも……。

蓮如  あなた方も親鸞様のご本をだすということで、不肖蓮如もどうやら呼ばれるそうだということで、居眠りから醒(さ)めて、頭を洗って、顔を洗って、首のまわりをよくこすって、今、でてきたところであります。

――  それはそれは、まことにありがたいことでございます。実は、ただ今お話にございましたように、今回私どもが行なっておりますのは、各時代における東西の聖賢方のご意見を今世におきましてあきらかにし、そして人びとの救いの手立てとしようということでございます。

そこで、いろんな方がたのおでましを願ってお教えをうかがっておるわけですが、今回、親鸞様を始めとする真宗関係の聖賢方のお訓えがうけたまわれないということは、まことに残念だという読者の強い要望がございました。ですから、ここに皆様方のお教訓をうけたまわって、現代、及び未来の人びとの生きる上での光とも、指針ともさせていただきたいと思いますので、上人様にもよろしくお願いいたしたいとぞんじます。

蓮如  わかりました。まず最初に、それでは、私の「親鸞観」ということから始めたいと思います。ごぞんじのように、親鸞様は、私より二百数十年前に活躍された方であります。ですから、私は、直接の面識はなかったのです。私は真宗の中興の祖ということで、世に言われていますが、私がなぜ親鸞様を信じて、この信仰に入ったのか。こういうことから、お話していくのが、最初はわかりやすいかと思います。

親鸞様という方は、非常に誤解された方であります。当時、鎌倉時代においても、いわゆる専門家たち、仏教界のなかにおいても、親鸞の思想を本当に理解した人は数少なかったのです。しかも、親鸞を偉い先生として崇め祭っていた人でさえ、親鸞の真意は理解し得ていなかったと、私は思うのです。そこで、なぜ親鸞様が誤解をされたか。私は、このことについて徹底的に考えてみました。

私が生まれた家というのは、お寺ですから、それも親鸞様の教えを継いでいるお寺ですから、もちろん最初からそういうきっかけはあったわけであります。しかし、親鸞様の思想、なぜそれが誤解されたのか。私はこの疑問を徹底的に追究してみました。彼のどこがそのような誤解を生んだのか。世の人びとの誤解を生んだのか。結局のところ、親鸞の教えは、向上の教えではなくて、堕落の教えであると、世の専門家たちは思ったということですね。

宗教家というものは、人間をよい方向へ導いていくのが仕事であります。向上させるのが仕事であります。にもかかわらず、親鸞は、悪人を肯定し、悪人こそ救われるべきだ、と言いました。

ま、これで一般庶民は非常に喜んだわけでありますが、専門家たちは、それでは、おまんまの食い上げです。悪人で救われて、修行しなくて救われるなら、お寺関係はすべて商売が上がったりです。それでは困るのです。しっかり勉強していただいて、尊い教えを聴いて初めて、極楽浄土へ行けるというのが本当のあるべき相(すがた)であると、まあ、僧侶たちは考えたわけです。そして、そのために、自分たちの修行があったのです。まあ、こう考えたわけです。

親鸞様という人は、もちろん無知な人ではありません。彼は、比叡山、叡山において、二十数年間勉強に打ち込み、大変な秀才と言われて将来を嘱望された方です。しかし、その方が、なぜ山を下りたかです。なぜ山を下りたか。その当時、やはり彼は周囲の人たちを見ていたんです。いくら教学をやっても悟っている人はいない、と。自らの栄達を思う心、あるいは自らの知識を鼻にかける心、こうした心を持っている人は数多いのだけれども、本当に大衆とともに、神仏の教えに帰依して、彼らを救っていこうとしている人が、叡山にはいなかったということです。

今の世界で言うならば、いい学校をでて、立身出世をする人は数多かったのだけれども、いい学校をでて、一般庶民のためにつくしたいと思っている人は数少ない。それと同じです。そこで、親鸞は、栄達の道を断って、自ら悩みのなかにわが身を投じたのです。彼は、考えに考えたはずです。

秀才の彼のことですから、さまざまな教典を読んで、その内容を読破したことでありましょう。内容を吸収したことでありましょう。しかし、彼は、そのような勉強のなかにおいて救いがあるわけではないと考えた。やはり宗教というものは、できるだけ多くの人を救うのがその任務ではないのか、と。そこで、彼は野に下ったわけです。

叡山で出世をするというのは、官僚になって立身出世をするのと同じなんで、官僚になって、大蔵次官だとか、そういうものになるのとか、あるいは、政治家で頂点を登りつめたり、あるいはまた、学者で頂点を登りつめるのと同じ道なんです。しかし、そうした道を捨てて、彼は野に下りました。まあ、学問でいうなら、在野の学者ですね。野に下って、庶民とともに考え、彼らとともに苦しもうと、そう思ったということです。

そして彼は、従来の"戒律"、この戒律というものに対する疑問を深くいだきました。戒律を守らなければ人間が悟れないものであるならば、ではなぜ神仏は、人間にこれだけの煩悩を与えたのだろう、と。人間に煩悩があるということが悪であるならば、生まれてくること自体が悪なのではないか。人間には食欲があります。これが悪だというならば、――人間に食欲がないわけはありません――これが悪だというなら、生まれてくることが間違いだったのではありませんか。

人間にはまた、異性への欲、情欲、あるいは性欲といってもいい、こういう欲があります。宗教家たちはみな、これを悪と言っています。しかし、それは本当の善悪の悪でしょうか。宗教家たちは、すべて悪と決めつけていました。異性への思いというのは間違いである。悪である、と。それは、たまたま「釈尊」が出家をして悟ったということに由来しているのでありますが、本当にそうでしょうか。

では、なぜ神仏は男と女とをつくられたのですか。男が女を思う、女が男を思うことが悪であるならば、男女をつくったこと自体が間違いなのではないでしょうか。男として、あるいは、女として生まれてきたこと自体が間違いではないでしょうか。もし、それが間違いであるならば、男だけを、女だけを、あるいは、男でも、女でもない人間をつくればよかったはずです。

神仏は、その気になったなら、人間を雌雄両方の性格をかね備えた動物としてつくることもできたはずです。男性であり、かつ卵でも産んでですよ、子供をつくれるようにしておけば、それなら、それでいいではないですか。しかし、それにもかかわらず、男女をつくり、しかも、男女の葛藤をつくって悩ませて、地獄に堕とすような神仏とは何だろうか。というところですね。やはり、こうした疑問は追究しなければならないのです。

宗教家たちは、もう最初からですね、前提として当然のことながら、肉食すること、食欲のあるのを悪いこととし、男女の欲は悪いことと決めつけています。そして、自分だけが模範生徒になればいいんだ、と。模範生徒ではない人たちは地獄へ行くと言っているわけですね。しかし、人間には、そもそも生まれついた本性がある。その本性を否定すれば本当によくなるのでしょうかね。そうだとすれば、本性そのものが悪いのではないでしょうか。それならば、人間というような、人間として生まれる、その生まれるということ自体において、そのなかに悪を内包する存在だということになります。

たとえどんな聖人だって、食欲のない人はおりません。あるいは、性欲のない人はいないはずです。あるいはまた、睡眠欲というものがあります。この三つの欲望ですね、すなわち、食・性・眠、この三つの欲望というのは断ちがたいものです。これを断って、そして悟れるのでしょうか。私は、これは違うのではないかと思ったわけです。

そして、親鸞様もまた、その疑問を徹底的に追究した方です。一般の庶民たちは、魚も、もちろん食べていました。では、彼らは魚を食べているから、それだけで、すでに救われないことになるのでしょうか。叡山の僧侶たちは、魚を食べていない。豆腐を食べたり、野菜を食べたりしている。だからこそ、悟り、教われるのだ、と。しかし、肉食をしている人びとは、もうそれだけで"救い"ということから捨て去られているのでしょうか。隔絶されているのでしょうか。

こうしたことを徹底的に考えた人はいないのです。ただ昔から、伝統的にそうなっているから、それを守ったというだけにすぎません。よくわからないけれども、祖師の教えを守って真似をすれば間違いがないんだ、と。そういうことでやっていたわけであって、その疑問追究はやっていないわけです。

また、高野山に因(ちな)んだ話がありましたね。苅萱道心(かるかやどうしん)が、父である自分を訪ねて来たわが子石童丸に、"女人禁制"とされていた高野山には登れず、麓に残っていた妻に対して、「父はすでに没したと言え」と偽って子を帰したため、待っていた妻は深雪のなかに死したという苅萱親子の悲劇物語です。まあ、これは、当時においては、女人を修行の妨げとみなしていたことによるのでありましょうが、これが本当の宗教家の姿でしょうか。この見方によると、女はもう悪だと、迷わすものだという考えでしかすぎません。

逆に考えるならば、宗教とは、男だけのものですか。悟りとは、男だけのものですか。人類の半分は女性ではないですか。女性を悪と決めつけるような宗教が、本当に神仏の御意(みこころ)を反映しているのでしょうか。釈尊が言ったことは、女性にして悟ることはむずかしいと言ったのであって、女性が悪だと言ったのではないのです。

なぜ女性が悟るのがむずかしいか。つまり、女性は、俗世に煩わされることが多いからです。それにまた、女性というものに生まれついたことによって、さまざまな人間関係に縛られるからです。子供を産む、子供を育てなければいけない。母親としての役割があります。また、妻としての役割があります。また、嫁としての役割があります。女性はこうしたものに縛られるがために、解脱(げだつ)することがなかなかむずかしい。釈尊はその本質を喝破(かっぱ)されたのであります。ですから、女性を悪と見たのではないのです。悟りにおいて障害が多いと言ったのであります。

それをどう誤解したのか、女性そのものが悪であるかのように、悪魔の手先であるかのように、誤解している人が多かったのです。こうした根本的な問題を、徹底的に疑問追究しなければ、一般の庶民は救われません。ほとんどの人は、男女があいともに暮らして、子供をつくって育てているのです。これが悪でしょうか。もし男女が結婚して子供をつくることが悪であるならば、人類はとっくの昔に、滅(ほろ)びています。善人を目差している人ばかりならば、とっくの昔に亡(ほろ)びています。

それにもかかわらず、連綿(れんめん)と人類は生き続けています。それは人類は悪だからでしょうか。そうではないはずです。神仏の御意は、人類をずっと永代、末代まで生き伸びさせて、そして、魂修行の場を設けようとしておられるはずなのです。であるならば、悪であるはずはないではないですか。

やはり、この辺を考えないといけない。立脚点を、エリートに置いてはいけないということです。親鸞様という方は、その点を徹底的に追究されたのです。ですから、私が見て、親鸞様の立派だと思うところは、今まで既成概念だと思われていたことを徹底的に追究した。自ら勇気をもって、身をもって示したということですね。

私は、近年、"牛痘"というのですか、"種痘"ですか、種痘ということをした医師の話を聞いたことがあります。牛痘、つまり、"天然痘"ですか、それを治すために、そのワクチンを、自分の子供の腕に植えつけたという人がいたはずです。私はそういう話を聞いたことがあります。これもまた、同じような勇気ですね。一歩間違えば死んでしまう。一番大事なものを失ってしまう。しかし、それをあえてやる。真理のために、あえてやる。同じであります。宗教家というのは、みんな、悟りたいと思っている。悟って、天国のいいところに行きたい、と。みんな、そう思っております。浄土のいいところに行きたいと、だれもがそう思っているのです。

にもかかわらず、その一番大切なものを、あえて危険に晒(さら)してでも、やはり真理のために実行せねばならない。そういうことがあったと思うのです。ですから私は、そういう迷いのなかで、大迷(たいめい)のなかで、大悟(たいご)された親鸞様、そういう大きな勇気をもって行動された親鸞様という方に、大変心魅かれたわけです。

とくに、私たちの世もまた、戦乱の時代でありました。このような時代において、一般の人びとが、聖人君子になることはほぼ不可能であります。ですから、如何にして彼らを教導していくか。これを考えない宗教家は、真の宗教家ではありません。叡山に行ったら救われるというならば、一般の人はすでに救われないことになっているのです。むしろ時代が要請したことは、在家の宗教であります。在家にあって、如何に救われるかということです。

これと正面から取り組まないで、山に篭(こも)ってお経ばかりあげたり、教学ばかり勉強しているようでは、どうして一般の人は救われますか。自分だけが救われようとしている気持ちは、すでにエゴイストではないですか。自己中心主義者ではないですか。こういうことがあったのです。

今の方がたから見てもね、親鸞様の考え方には、よく分からないことが多いと思います。なぜ悪人が救われるのか、と。まあ、一つのね、異説、変わった説だととられるぐらいがおちです。その本当の真意を汲み取ることは、むずかしいです。ただ、親鸞の考えというのは、まあ一つのアンチテーゼであります。従来のね、固定概念がある。釈尊の死後、すでに二千数百年経っています。そして二千年も同じ考えが連綿と続いて、まったく紋切り型で、形だけを真似ている。同じかどうかは分からない。宗教家というと、もうお線香をたいてやっている。線香などはね、日本では必要ないのです。インドの地で線香をたいたのは、かの地では蚊とか虫が多かったからです。修行に差障(さいさわ)るからそういう香薬とか没薬(とうやく)を用いて修行していたのです。ですから、お綿香をたくことが目的ではなかったのです。ところが、そういう形ばかりを真似ている。

私たちは、もう形を捨てた。真理というものは、自由自在なものであり、時代に応じて変幻自在に現われてくるものだと、こういう柔軟な思考をですね、したわけです。私が蓮如としてでたときも、もちろん親鸞様のあとを継いで、この真宗をおおいに広めるという目的を承知の上で、この地上に生まれてきています。まあ、その目的は一応達したというわけであります。しかし、その真宗の教えが、今の時代に伝わって、"浄土真宗"はずいぶん人口が多いようですが、そのなかにあってまだ、形にとらわれている人たちが多いのも事実であります。

他力信仰というと、何かもう題目を唱えているような、すなわち南無阿弥陀仏と唱えていたら救われていたように思われるけれども、当時においては、これはもう画期的な教えであったのです。まあ、当時の新興宗教なわけです。非常に画期的な教え、斬新な考えだったわけですが、今においては、そうではありません。ですから、むしろ今の時代に私たちがでて来たならば、今の浄土真宗を攻撃するかもしれません。そんな考えにいつまでも執われるなというかもしれません。まあ、そういうことが私の「親鸞観」でありますが、このことについて、何かご質問があれば、お聞きください。


2.現代の葬式僧侶は"詐欺(さぎ)罪"を犯している


――  親鸞聖人には、昨日その辺のところのお話をいろいろくわしくお聴かせいただき、大いに教えられるところがございまして、感謝いたしております。蓮如様につきましては、そのご宗旨の本義ということもさることながら、やはり上人様には、当時、ご活躍されたその縁(よすが)というか、ご様子というか、その行動力の活力となったものを、実はお聴かせ願いたいと思っております。そして、私どもが、今日新たな教えを広めようとするにあたっての責重な指針とさせていただけるなら、非常にありがたいと思うのでありますが、お願いできましょうか。

蓮如  わかりました。それでは、他の方がたがおそらくは話をしないであろうと思うようなことについて、私はあえて話をいたしましょう。

鎌倉、あるいは室町の時代においては、要するに、僧侶は独身か、妻帯かという選択を迫られました。そして、一般の人は妻帯をしているということで救われないのかどうか、妻帯したままであっても、他力信仰によって救われるのかどうか。こういうことが、いわゆる争点であり、焦点であったわけです。

しかし現代、私たちの眼で現代を見た場合、何が問題か。現代では、僧侶もすべて妻帯しています。結婚していない人というのは、非常に珍しい。ところが、家庭生活を営んでいる僧侶のなかに、また高僧が少ないことも確かであります。ですから、親鸞様同様、私も、その後の仏教を堕落せしめたとずいぶん批判が多かったことも確かです。つまり、僧侶というのは、「真理」を求める者であるにもかかわらず、それが生活になってしまっていたということです。仏教者がね、そういうお勤(つとめ)をするべきであるのに、生活になっている。勤行(ごんぎょう)し、まあ写経をしたり、それを声にだして詠んだり、あるいは、お葬式にでて行ったり、そういうことが、要するに職業になっています。

ですから、現代において、たとえば私たちがでたとするならば、何をどう改正するか、改革していくか。こういうところが一つの視点だと思うのです。またこれが、あなた方が知りたいところだと思います。

あなた方がやっているような、こういう"霊界通信"ですか、これは、近年イギリスなどを中心にして興ったような、スピリチュアリズムというのですか、まあ、そういうもののように考えられております。一つの新しい、まあ、精神科学ですね。こうとられていますが、いわゆる宗教家のなかでもプロといわれる人びと、あるいは、神社、仏閣で、神主だの僧侶などをやっている人によっては、また遠い話でピンとこないのです。そういうことは、興味としてあったり、ほんの知識として読んだり、教養として読むことはあっても、自分自身にとってはピンとこないのです。つまり、そうしたことは別世界の話だと思っている人が多いのです。

ですから、宗教の大学をでて、宗教大学の学長などをやっている人であるにもかかわらず、いいですか、本心において魂などを信じていない人がいっぱいいるのです。形だけでね、学問だと思っているのです。だから、何とか経にはこう書いてあるとかね、そんなことばっかりやっている。釈尊が思想家だと思っているのです。救うということを忘れている。これについては、たとえば、一般の人びとの信仰に対しても同じことが言えます。「うちのお爺ちゃんが死にましたから、偉い先生、どうか一つお念仏をあげてください」と言われても、せせら笑っている。そんなことね、念仏をあげたところで成仏するわけじゃないが……と腹のなかで思いながらやっているんですね。形だけのことを。

あるいは、偉い学長さんの話でね、最近、私はこんなことを聞きました。まあ、真宗系ですけれども、その信者がね、言ったんです。「家の者が死にましたので、ちょっと来てください。真宗系統では、死んだときに念仏を唱えないと、お棺のなかになかなかうまく納まらないと言われています。そこで、先生、この死者をもうそろそろお棺に入れますから、お念仏を唱えてください。そしたら、死者も安らかになって、体も、手足の骨も柔かくなり、お棺のなかに収まりますので、先生、どうかお念仏を唱えてください」と。すると偉い大学の学長さんで、真宗を専攻しておられるその方は、馬鹿馬鹿しいと思いながらも、形だけね、そう言われたら、気安めだから拝んであげましょうと、お念仏を唱えるわけですね。

こういうことをして、得意気になっている人がいるんです。お坊さんに何か拝んでもらわないと体が柔らかにならないと思っているとはと、馬鹿にしているわけです。しかし、本当の魂の真実においてはどうかというと、その民度の低い人びとのほうがむしろ正しいのです。

実際に、死ぬときに、硬直する人がいるんです。死ぬときに体が碓かに硬直する。なぜ硬直しているのか。要するに、魂が肉体からだされるのが恐いのです。ここ以外には住家がないと思っているんですね。だから、お棺に入って焼かれるのがいやなのです。このように、迷っている魂がいるんですよ。焼かれては困る、と。お棺に入れられて、火葬場へ行ったら焼かれてしまう。知っているんですよ、彼らも。だから、何とかね、焼かれるもんかと、肉体を守らねばならんと、硬直するんです。体がね、抵抗しているのです、霊が。

こういう人に対しては、教えてあげなくてはならない。あなたは死んだのですよ。死んであの世へ行くんですよ。肉体は仮の姿ですよ、と。これは本当の姿ではありません。あなたは魂として、あの世へ行って、あの世で修行させられるのですよと、本当はこういうことを懇々(こんこん)と諭(さと)さねばいけないんです。

そういう死者に対しては、肉体に執着をもっている死者に対しては、それを諭さねばいかんのです。それにもかかわらず、それすら知らない僧侶がおるということです。偉い人でね、そんなことすら知らない。そんなのは気安めだと思っている。馬鹿馬鹿しい、そんなのは民間信仰だ、と。体が折れるだとか、折れないとか、お棺にうまく入るだとか、入らないだとか、こんなことあるもんかと思っている。そういう人がおるんです。しかし、こんな人は職を辞しなさい、と私は言いたいのです。こういう人は、いくら知識だけを詰め込んでも、何も解っていないのです。本当の魂のことが、わかっていない。

ですから、あなた方はね、現代にでているわけですが、私たちも現代にでたら、まずこの僧侶たちに対して、本当の正しいものを教えなければいけない。どうも葬式仏教に堕してしまっている。だから、まずは、葬式仏教の改革が一つ必要です。僧侶たちが死後の世界、魂の世界を知らないのにもかかわらずそういった職業につくというのは、これは詐欺(さぎ)です。"詐欺罪"です。はっきり言ってね。

信じていないのに、自分が死後の世界を信じていないのに、それを職業とするのは、詐欺ではありませんか。あの世は「ない」と思っているのに、袈裟法衣(けさごろも)を着て、お経をあげて、なぜ、お礼を貰うのですか。帽子を被ってバイクに乗って来て、最近では自家用車で乗りつけて来てですね、そして一時間、二時間、お経をあげる。本人は意味も何もわかっていないのにお経をあげる。周囲の人びとは、退屈で、退屈でしょうがない。とくに夏の暑いときなどは、大汗流して、足にしびれが切れて立てない、と。そして、やっと終わってくれてありがたい、と。ありがたいというのは、終わってくれてありがたいということですよ。それで、掌を合わせている。こんなことばかりしているのです。こんなのは、心が入っておりません。

現代の僧侶は、そういうお経をあげるのではなくて、むしろ法話をせねばならんのです。死者というのは、実は、肉体が死んでからも、まだ二日、三日は体から離れていません。さきほどのように、肉体に執着している霊もあります。ですから、そういうお棺を置いておいて、その場で、家族の人、親戚の人を集めて、本当の死というものは何かということについて、僧侶はお話ししなければいけないのです。もちろん、現代語で、わかるようにね。「皆さん、この家の何某という方が亡くなりました。亡くなりはしましたけれども、どうかご安心ください。肉体が、すべてではありません。人間には、死後の世界というのが待っているのです。そして、その後の修行があります。まあ、この方が生きているときにどういうふうに生きられたかわかりません。ただ、ご立派な人生であったと私は聞いておりますので、きっとそのみ魂は天国へ昇られるでしょう。しかし、天国へ昇られたとしても、そこも修行の場ですから、しっかりとね、いろんな方の守護指導を受けて勉強しなければならないようになっているのです。

あるいは、運悪く地獄で苦しまれることがあるかもしれません。もし暗い世界へ行かれることがあったら、それは地獄でございます。もし地獄に堕ちたならば、自分が地獄にいるということを自覚されて、生きていたときに、生前、何が間違っていたのかをしっかりと反省してください。その反省が終わらないと、地獄からでて来ることはできません。生きていたときに、人の悪口を言わなかったかどうか。人を責めなかったかどうか。自己本位のままに生きたかどうか。要するに、人を愛したり、生かしたりしたかどうか。こうしたことを徹底的に反省しなければいけないのです」

このように、お坊さんは、その霊が地獄へ行く可能性があるからこそ、反省という方法を教えてあげねばいかんのです。何も知らないでね、死ねばすべては終わりだと思っていた人は、死んで終わりでなかった場合、どうしたらよいかわかりません。そういうことは、学校で教わっていませんし、あの世で教えてくれる人もおりません。だから、地獄の深いところへ行って、孤独なのです。ただ一人暗いところへ行って、迷っておるのです。どうしていいかわからないのです。


3.迷える先祖、家族霊を救うのは家族の諭(さと)し


蓮如  してみれば、頼るのはこの世の人です。とはいえ、この世の人に頼っても、この世の人も何も悟っていません。お坊さんのところへ行っても、お経をあげるだけです。といって、お経をあげられても、全然成仏できないんです。だから、家族のところへ行きます。しかし、彼らにも、どうしてよいかわかりません。自分は地獄に行っているのだけれども、どうしたら救われるのか、と。たとえば夢枕に立ったとしましょう。しかし、家族たちは、何も言うことができません。何とかさんがね、どうも迷っているようだとは思うかもしれない。迷っていると思ったら、どうするか。お線香を立てて、ろうそくを立てて、チーンと鳴らしてね、掌を合わせて、それで終わり。あるいは、お墓参りをする。お墓へ行って、花を立てて、水をやる。これで、終わってしまいます。

しかし、これでは救われないのです。これでは、救われるわけはない。本当は、諭(さと)してあげなければいけないのです。なぜ地獄へ堕ちたのかを。地獄に落ちた人は、やっぱり生きていたときに、人のためにはつくさなかったのです。自己本位のままに生きていたのです。人間というのは、神の法則のもとに生きているのです。ですから、その法則に外れると、やはりそのぶんだけ、軌道修正をしなければいけなくなるのです。地獄に行っているような人は、生きていたときに、死ねばすべては終わりなんだと思っていた人がほとんどです。そのため、生きているときに、やりたい放題をやってきたはずなんです。そういった人たちには、やはり反省ということが大事です。反省をしなければいけないのです。

ですから、お坊さんはね、法話の話ですが、葬式のときには、そういうありがたい「神理」の話を、遺された家族の人たちにしなければいけないのです。死者は、まだ狼狽(ろうばい)していてわからないかもしれない。しかし、家族の方がたには、こういうことなんですよと、神理を教えてあげる。そして、あなた方がお墓へ行くなり、仏壇に掌を合わすときには、それを口で言って、死者に聴かせてあげなさい、と。「お爺ちやん、あなたは死んだけれども、死んで肉体はなくなったけれども、魂というのはあるのですよ。あなたが、もし自分が生きていると思ったとしても、それは肉体ではなくて、霊体として生きているんですよ。霊体として生きていくために、あの世というのがあるのですよ。この地上は、もう、あなたたちが住むところではありません。お爺ちやんは、天国か、地獄か、どちらかへ行かれるんです。そこで、いずれにしてもね、修行されるのですよ。だから、そちらの人の偉い方の話をよく聴いて反省して、修行してください」

こういうことを真に、心のなかから言ってやる必要があります。そうすれば、死者は成仏するはずです。

死者の霊というのは、通常、頼るところがないから、生きている人のところへでてくるのです。憑依(ひょうい)霊とかよく言いますね。憑依とかよく言います。憑依とか、こんなことあるんでしょうかとよく言います。あるんです。現にあります。「溺れる者は藁(わら)にも縋(すが)る」とはよく言われることです。あなた方もそうでしょう。自分が死んでしまえば終わりだと思っていて、死んではっと気がつくと、まだ生きている。生きているはずなのに、自分は真っ暗な底にいる。これは大変ですね。何とか助けてほしい。助けてほしい、助けてほしいと言っていると、どこか遠くでどこか見たような人影が見えてくる。

これが家族ですね、遺された家族。そこで、「あっ、いた。助かった」とね。だから、助けてもらおうと、子孫のところへでて来て、腰にしがみつく。腰痛が起きます。助けてくれえーと足にしがみつきます。リューマチになります。助けてくれえーと頭にしがみつきます。これで、ノイローゼになっていきます。こういうふうにして、体の調子が悪くなって、子孫に不幸が起きていきます。こういうことがあるのです。彼らは、ただわかっていないのです。別に悪を働いているわけではありません。ただ遺された子孫の方がたに、いろいろ問題が起きてきたら、病気がでたり、事故が起きたり、家族の家庭争議が起きたりしたときには、もう一度皆さん集って、よく考えてみてください。何か問題があるのではないかと、死んだ人も迷っているのではないかと、あるいは、生きている人も、心に何か誤りがあるのではないか、と。こうしたことを反省していただきたいのです。

やはり生きている人が「神理」を悟って、明るく正しく生きていくことが、最高の教えなのです。これが最高の供養になるのです。死んだ人は、まず家族の人のところへ来ます。家族たちが神理に則った生き方をしているかどうか、これを見るんです。それで教わっていくんですね。だから、あなた方がみんな、死後の世界をよく知って、その知識を知って、そして悟っていくことですね。そうすれば、ご先祖も必ず悟ることができるはずです。

私は、あなた方の商売の援助をするつもりではありませんが、できるだけ多くの日本人、あるいは、世界の人びとの一人でも多くが、この「霊言集」を読んで、死後の世界があることを、そして、こういう世界になって、こういう法則があるんだということを、しっかりと知ってほしいと思います。まず、知識が前提です。知っていないと悟れません。知っていて、次の段階として、これを行動に移すということです。これが大事です。

まあ、少し長くなりましたが、とくに、お坊さん方ですね、僧侶たちはこれを知って、要するに生きている人に説かなければ、これはもう職業的に詐欺罪です。こういう方は、あの世に還ったら、絶対反省させられること間違いありません。わけのわからないお経だけをあげておったのでは、ダメなのです。死後の世界について、本当に探究心を起こしなさい。大学で学問的に教わって、単位を貰えばいいというだけではないのです。これをね、個人としても、教養としてしっかり身につける。単にお経をあげるだけではないのです。

もちろん、お経をあげてもいいけれども、それが終わったら、皆さんにわかりやすい説法をしなさい。これが一番大事です。これも宗教改革の一歩です。葬式仏教で終わったのではいけないのです。死後の世界について、説明してあげなさい。そうあってこそ、本当の専門家でしょう。それができないのであれば、もう僧侶はやめたほうがよろしい。これが宗教改革の一歩だろうと思います。