目次
24.御祓で悪霊は払えない
14.昔の阿弥陀様、今は潜在意識
蓮如 こうしたものを入れておきますと、現在のビジネスマンたち、社会的地位のある人たち、こういう方がたも、こういう形の宗教なら"大歓迎"だと考えるはずです。日常生活で確かに幸福になれる方法だ、と。こう考えるでありましょう。つまり、他力の信仰は、昔のような、「阿弥陀如来信仰」ではないのです。さきほど申したように、現在では、自己実現の法則で説明する段階にきているのです。すなわち、「光明思想」による自己実現の方向が昔の他力信仰なのです。その点を忘れないでいただきたいのです。
現在では、「阿弥陀如来様、助けてください」と祈りなさいと教えても、だれ一人、そんなことは信用しないでしょう。そうではなくて、潜在意識に頼んで、積極的な生き方をしていれば、必ず自己は実現するのだと説いておれば、人びとは納得するはずです。はるかに、説得性がある。これは別に、偽りでも嘘でも何でもありません。事実そのとおりなのです。明るい気持ちで、守護、指導霊についてお願いしていれば、自分の願いが実現するのは当然なのです。だからこそ、まず、お願いをしなさいと言っているのです。これは、一つの信仰のあり方です。
私は、一番目として、僧侶、宗教の専門家は"法話"をしなければいけない、また、死後の世界について明確に話をしなければいけないということを言いました。二番目は、男女の「性」の問題とか、そういう社会的混乱を考える前に、その正、邪を分かつ前に、「正法」は経済と関係があるのだから、これを忘れてはいけないということでした。そして、三番目には、現代風の他力のあり方について話しました。つまり、「自己実現」の方法というもの、こういうものを採り入れていけば、生きている人間も、日常生活のなかに宗教というものを取り入れていけるのだ、と。だから、こういう視点を忘れるなと、こういうことを私は言ったのです。これについて、あなたに何か疑問があれば、受けましょう。
―― 蓮如様がおっしゃったいろいろのお説については、まさにそのとおりであります。ですから、格別の疑問ということはありません。ただ、自己実現という問題に関して、蓮如様は、潜在意識への自己暗示、明るい肯定的なイメージ、願望の植えつけということをおっしゃいましたが、自己実現がもっと積極的な方法で行なわれ、その実現の確率性を高める方向というものはないものだろうかと思っております。
まあ、昔は、「念仏」を唱名するとか、お題目をあげるとか、太鼓を叩くとかによって、人びとの感性に訴えて、その実現を早めていくという手段もあったように思うのです。今日では、さきほどのお話にもあったように、毎晩、寝る前に目的意識をはっきり持って思念をするということでありますが、これを、今少し、増幅拡大する方法をとることができるのではないか、また、それがよりいい方法なのではないかと思うのです。その一つとして、「観法」を行なう。つまり、坐禅、瞑想を始めとしていろいろありますが、動作とか、唱名とか、あるいは、詠歌、音楽などの感性により、集中的に行なうという方法もあるのではないかと思っております。これについては、どのようにお考えでしょうか。
15.長寿、大成功者は、偉大な力への全託者
蓮如 はい。そのことについてお話します。あなた方は、霊道を開くということを知っております。「正法」というものを行じておって、自分の心の曇りを晴らして、十分に反省をすれば、霊道が開いて、自分の守護、指導霊と話ができる。そして、過去世のことが分かるようになる。こういうことですね。こういうことを教わっているし、すでに知っています。
ただし、霊道を開いたからといって、それですませていたのではいけないのです。それだけでは、わけの分からない異言(いげん)、つまり、あの世の異言を語るくらいのことだけで終わってしまいます。霊道を開くだけなら、普通の人でもかなり開けるのです。ただ、それと"自己実現"とを結びつける思想がまだないようです。そこで、結びつける理論を開発すべきだと思っております。
霊道を開いて、自己実現をはたしていく。霊道を開くということは、すなわち、自分の守護、指導霊と直接話ができるようになっていくということです。まあ、霊道でなくても、そういう「正法」を実践していると、インスピレーションを非常に受けやすくなってきます。「霊道」でなくても、あなた方の心のなかに、うずきがでたり、ひらめきがでたりします。ですから、霊道でなくてもいいのです。「正法神理」を実践していますと、あの世からのインスピレーションが多くなってきます。そこで、こういうものをつくって、自己実現の法則と組み合わせていく。ここが大事だと思います。過去世を知るための単なる霊道ではなくして、自己実現を知るための霊道、つまりは、"坐禅"も現代的にアレンジしていけるというわけです。ただ坐っているだけではだめなんです。心を空っぽにするだけではだめなんです。真の坐禅をして、反省の瞑想をやって、心を開く。霊道を開いてね、あの世の霊たちと直接、あるいは、インスピレーションという間接の交流を開始する。そこで、自己実現というものを強く意思する、瞑想する。そして、それをはたしていく。こういう方法があってもいいと思うのです。
すなわち、これは自他力であります。まず、霊道を開くまでが自力です。開いてからあとは、他力であります。これは、現代人によっての非常に素晴らしい教えになるでありましょう。ですから、現在、心理学の分野で、"潜在意識"とか言って、わけの分からない言葉で説明していることを、あなた方が、明瞭にね、その本当の意味を教えてあげる。その必要があります。病気などは、必ず自分で治せるようになってきます。いわゆる他力、本当の他力で治すのではなく、自分で治せるようになっていくはずです。そして、そういう考えをしていくと、任せきる力がでてきます。昔でいうと、まあ、親鸞様も、私も長寿でありましたけれども、すなわち、まかせきる力というものがでてくると、人間は本当に伸びやかに生きられるのです。だから、その結果として、長生きすることができる。現代においては、この任せきる、全託(ぜんたく)という想いを持って生きている人が少ない。しかし、任せきることも、大きな力なのです。自分一人だけで生きようとしていると、どうしても力が不足する。ところが、おおいなる力に任せようと思っていると、そこにまた自分以外の力が働いてきて、おおいなる業をなせるのです。
現代で目見張るような成功をした人で、単なる自力だけで成った人というのはいないのです。成功者のだれもが、その大いなる力を使っているのです。意識的か、あるいは、無意識的かにかかわらず、この大いなる力なくして、通常あり得ないような大成功をするというのは不可能です。
―― 蓮如様のお考えというものは、何と申しますか、非常に現代のこの時世に即した、新たな教えの本筋になってきつつあるように思います。そこで、私たちも、今後、この"自己実現"というこの方向を今少し強力に訴えていくべきであろうと、このように思います。
蓮如 鎌倉時代というと、だれもが死ぬことを分かっていた。つまり、戦乱の世だったわけですし、飢饉(ききん)はある、天災はある、あるいは、天変地異はあるし、病気がある、と。そういう世の中にあって、だれもが、もうやがては死ぬということがわかっていたのです。だから、人びとは、浄土を信じていました。浄土に行ける、と。天国に行けるということは、すなわち、自己実現だったのです。私たちの時代においても、同じでした。応仁の乱の頃です。この時代においても、人びとは、いつ死ぬか分からない。世が乱れているから、もう長い命ではない、生きていてもいいことは何もない、と。そういうなかにあっての自己実現とは何かというと、極楽浄土に生まれ変わることなのです。これが、自己実現だったわけです。すなわち、『南無阿弥陀仏』と唱え、極楽往生することが、あの時代の自己実現だったのです。
ところが、今の時代での自己実現は、そうではないでありましょう。時代が変わっておりますから、自己実現の方法が異なってもあたりまえなのです。ですから、私たちの"他力信仰"も、現代であれば、そのように変わってくるはずなのです。あの世でユートピアを信じられないのであれば、せめてね、現時点において、現代において、自分を、自分の周りをユートピアにしていく。そして、一つの国を、社会を、ユートピアにしていく。あの世のことが分からないのであるならば、せめてこの世を仏国土にする努力をしていく。すべての人が、そうなるように努力をしていくべきであります。
その際に軌道の修正といいますか、正しい「自己実現」の方法は何かということを、もう一度教える必要があります。霊道を開いても、間違った自己実現の方向へいけば、それは地獄のサタンみたいになってしまう可能性があります。その点で、あなた方の教えが必要なのです。何が本当の神の教えに、御意に添った自己実現であるか。あなた方には、これを教える必要があるのです。
16.この世での「超能力」だけを説くのは眉唾(まゆつば)ものである
―― 現代では、この「自己実現」ということについて、いろいろな説があります。すなわち、いろんな新興宗教や、巷のご利益信仰など、これに類したものが、「超念力」で万事可能とか、「天下を取る」というようなことを言って、思うことを必ず実現させると唱えておりますが、こういうものは如何なものでしょうか。
蓮如 それもね、まあ、一理あるのですよ。ただし、あの世のことをまったく言わないで、この世のことばかりの成功を言っているようならば、それは眉唾(まゆつば)ものです。怪しいと思います。あなた方のようにね、あの世のことをはっきり言って、すべての世界のことを説明しながら、そのうえで、「自己実現」の話をするというのならば、それはそれでいいのです。
人間は、未来に対して、努力することはできないのです。人間は、過去において、努力することはできないのです。人間が努力できるのは、現在においてだけなのです。すなわち、「自己実現」の連続だということです。結局、自己実現を目指して日々やっていくしかないのです、人間というのは。ですから、この世だけのことを説くのは間違いなのです。「この世で成仏する」とかね、そういうことを言っているようでは怪しい。超能力がでてね、何もかもできる、と。こういうのは、ちょっと違っています。
まあ、間違っている霊たちですね。ところが、この世には、そういう超能力信仰を言っている人たちがいます。それが間違っているかどうかは、その人が、あの世の世界のことを知っているかによって、はっきり分かります。あの世の世界のことを明確に説けないような人で、この世的な成功ばかりを説いている宗教家がいたら、まず間違いなく、インチキです。あの世の世界を明確に説けるかどうか、それが一つのチェック・ポイントだと言えます。そういうことになるでしょう。
地獄の霊たちは、あの世のことをあまり言いたがりません。すなわち、あの世のことを言うと、自分たちのことが分かってしまうから言いたがらないのです。あの世でも、地獄の霊たちが指導している宗教家というのは、この世のことばかりを言います。まあ、そういうことです。ほかに何か質問がございますか。
17.高額の戒名やむずかしいお経で死者は成仏しない
―― 人間の死期、死後とその間の取り扱い、その他のことについておうかがいしたいと思います。まず一点は、葬式と戒名(かいみょう)についてです。ま、これは前段における、現代仏教の真のあり方というところでお話がありました。僧侶の任務についてでした。つまり、死者の葬式にあたって、ただ漢語のお経だけをあげるのではなくて、現代語で参列している遺族の人たちにもわかるように、人間の生死の問題について説教することが大事だということでありました。蓮如様のこのお話は、僧侶の方にもよくご理解がいただけたことと思いますが、今一つ、うかがいたいことがございます。というのは、戒名という儀式といいますか、仕来(しきた)りというものがございますが、それについてです。近年におきましては、この戒名に際して、金銭の多寡(たか)に応じたランクづけということが行なわれております。最高額が院典夫居士(いんでんだいこじ)、ついで院夫居士、院居士、大居士、居士、信士の順となっております。寺によっては定価表まであるということです。それはさておき、死者は自分につけられた戒名というものがわかるのでしょうか……。
蓮如 死んであの世へ行って、自分の戒名など知っている人は一人もおりません。何とか居士とか言われたって、わからない。招霊だって、何とか居士でて来なさいと言われたって、わからないです。しかも、ああいうものをつけて、あの世で偉くなる人はいないのです。称号をつけてもらっても、あの世の地獄に堕ちてしまって、何とか院典夫居士って言われても、地獄からでて来れないのです。地獄のなかで、悪魔に追いかけられて、「何をする、俺は何々院典夫居士だぞ」とね、地獄の釜のなかで茄(ゆ)でられながら、「俺は偉いのだぞ、俺は百万円もだして、高い戒名をつけて貰ったんだぞ。お前たちは、十万円の戒名のくせに、俺を釜茄にするとは、一体何事か」と叫んだところで救われない。どうにもならないのです。
高いお金を払って、戒名をつけて貰う。こうしたことが、実際、お寺さんの収入になっているのかもしれないけれども、こんなのは間違っています。もちろん、戒名をつけるのはかまいません。習慣だからかまわんけれども、金銭の多寡でもって、何だかんだと言うのは、間違っています。金銭が高くなればいい名がつくというのは、当然のことながら、間違っています。こういう馬鹿な信仰は、どうか止めていただきたいと思います。
―― 蓮如様のおっしやることは、よく分かります。ところで、現代の仏教系の僧侶の方がたの第一の仕事というのは、死者を弔(とむら)うということが、その大きな行事になっております。それがまったく正しい弔い方であるならば、それはそれなりの意義があります。しかし、ただ生活の方法としてだけの存在意義ということになりますとね、どんなものなのでしょうか……。
蓮如 ただね、まったく意義がないこともないのです。生きている人間は、葬式をやりますね。ですから、自分も一回や二回は葬式に行ったことがある。自分が死んだときに、自分は死んでも霊体があります。つまり、自分の周りで行なわれていることを知っているのです。どうやらこれは葬式をやっているらしいなとわかる。お坊さんが来て、拝み始めた。お経をあげて、拝み始めた。だから、どうやら俺は死んだのかなということをとりあえず悟る契機ではあるのです。
ですから、葬式というのも、否定しかねるものがあります。しかし、悟った人には、葬式は必要ではないのです。悟った人は、あの世ヘ一直線に行ってしまいますから、葬式などは、全然いらない。ただし、死んでしまったその人が悟っているかどうかは、この世の人には分かりにくいですから、まあ、葬式というのも風習ですけれどもね、死者に死を悟らせるという意味においては意義があります。そういうことがあるので、葬式については、私は完全には否定しません。
ただ、死者は、お経をあげたところで成仏はしないということです。ですから、お経をあげる代わりに、その死後の世界の話をよく知らせてあげなければいけません。そうぃうことを、私は言っているのです。まあ、生きている人にしてもね、自分の父や母が死んで、それをそのまま棺桶に入れて、焼場に持って行くのは何か忍(しの)び得ない、何かやってあげたいという気持ちがあるでしょう。ですから、葬式をすること自体については、それが間違っているとは言いません。これ自体は、それほど、否定すべきものではないからです。
ただ、また繰り返しますが、お経をあげて貰ったからといって、それだけで、成仏するわけではない。たとえ偉いお坊さんが来たからといって、成仏するわけではないのです。むしろ、あなた方が行ったほうが成仏します。お坊さんがお経をあげたところで、般若心経をあげたところで、何をやったところで、成仏はしません。そうする代わりに、あなた方が、二十分か三十分、お話をしてあげたら、すべて成仏してしまいます。おもしろいですね。世の中というのは、つまり、成仏にも、まず知識がいるのです。基本的には、世界観が分からないと、どこにいるかわからないのです。自分がどうしたらよいか分からないのです。とくに今問題なのは、科学万能になって唯物思考が増えているから、死んだあとで生きていた時代と死後とのギャップが大きいのです。そのギャップが大きいために、非常な不幸が起きているのです。そのため、とりあえず地獄に行くという人が多くなっています。
―― そこで、この死の問題に関して、今一つおうかがいしたいと思うのですが、よろしいでしょうか。
蓮如 何でも聞いてください。
―― 人間の死の瞬間に際しての容姿、形相(ぎょうそう)はさまざまです。そこで、平安な顔と苦痛に満ちた顔というのは、死後の行き先の方向を暗示しているものでしょうか。
蓮如 それは、人間の死態(しにざま)だけではわからないのです。もちろん、よっぽどの悪人というのは分かりますよ。というのは、よほどの悪人というのは、暴れ廻るとか、死後硬直するとかします。要するに、死にたくないということの表われです。しかし、ふつうの人の場合には分からない。とくに病気などで死ぬ人は、苦しみながら死にますが、それでも成仏する人はいます。もちろん、そうでない人もおります。それこそ坂本龍馬さんの霊言の本にもありましたが、刀で斬られて死んだとき、そんなに嬉しく成仏する人はいないでしょう。斬られたら、そりゃあ、痛い。痛いけれども、成仏すべき人は、成仏するのです。
ただね、死に方があまり不幸な場合には、死後しばらくの間は、魂がかなり傷ついていますから、その傷が癒えるまでの時間が必要です。たとえば、とても激しい苦痛のなかで死んだ。病気の苦痛のなかで死んだ。凄絶(せいぜつ)な事故とかね、戦争のなかで死んだ。こういった場合には、魂がやはり傷ついてしまいます。だから、その魂の傷口が癒えるまでに、しばらく時間がかかるのは当然です。一方、いろんな人に看取(みと)られて、安らかに死んでいける人というのは、魂が傷ついていませんから、あの世で、そのぶんだけ、成仏するのが早くなります。その差はあります。
18.因果はくらますことができない
―― 最近、ある宗教で、悪い因縁(いんねん)を絶つ法というものを説いているようですが、これについては如何でしょうか。
蓮如 確かに、ある宗教では、"因縁を切る"とか言って修行をしているところがあるそうです。たとえば、親子の因縁を切るとか、自分がかかえている悪い刑罰の因縁を切るとか、あるいはまた、自分の横変死ですか、不幸な死に方を回避する法とかで、坐行をやるとか言っているようですが、そういう宗教は、私から解説しておきますが、絶対に間違っております。
"因縁"というものの、そもそもの理解の仕方が間違っております。因縁とは、原因・結果という連鎖でありますが、これは切れないものです。切れるわけがないのです。男と女が結婚するという原因があって、子供ができる。両親と子供。この親子の因縁が切れますか、切れないです。たとえば、前世において、殺しをしました、と。まあ、それを十分反省して、浄土へ上がって、この世に生まれてきた。じゃあ、前世で、人を殺して、反省させられたという過去が切れるかというと、切れない。このように、因縁というのは、絶対に切れないものなのです。すなわち、因縁とは、原因・結果の連鎖だからです。
人間の永遠の転生輪廻は、そういう原因・結果の連鎖です。そして、これは絶対に切ることができない。ですから、因縁というものに対する正しい考え方というのは、現在というのもまた、将来に対する原因になっていくわけですから、その悪い原因をつくらないということですね。悪い種を蒔けば、悪い草が生え、悪い実がなっていきますから、まず、悪い種を蒔かないようにする。因縁というのは、この点だけで考えられるべきなのです。
現在において、いい種を蒔けば、いい結果がでてくる。すなわち、善因善果、悪因悪果です。これは、霊の世界では確実です。百パーセント、間違いがありません。ですから、因縁に対する正しい考え方とは、現在において、悪の種を蒔かないようにしなさい、と。この部分です。そして、これだけが正しいやり方でありますからして、"因縁を切るための修行"とか、そういう考えは、完全に間違っています。そういうことは、ありません。あり得ません。因縁を切るなどいうことは間違っていると、私は、はっきりと言っておきます。
19.「即身成仏(そくしんじょうぶつ)」などはあり得ない
蓮如 また、「即身成仏」ということについても、はっきり言っておきます。ある宗派においては、即身成仏とは、この世において、この身、このまま仏になれるんだと、言っていますが、そういう人たちは、まず、そもそも即身成仏とは何かの意味が分かっておりません。即身成仏とは何かがさっぱり分からない。分からないから、結局、昔の大宗教家のような超能力者になれるのだとか言っている。超能力者になれば、即身成仏なんだ、と。こんなことを言っています。
しかし、生きている人間で、即身成仏などできる人はいないのです。今の末法の世に、そういうことはありません。そんな人は、成仏はできません。成仏というのは、死んであの世に行って初めて、成仏するのです。この世で、成仏はできません。この世に生きているかぎりは、この体という絆、あるいは、この物質世界の絆から離れることはできないのです。仙人のように切るようなわけにはいかないのです。普通の人間はね。ですから、「即身成仏」というのはありません。
もちろん、悟りを日々高めていくということはできます。「如来」であっても、この世に生まれ、肉体を持てば、ただの人です。ただ、他の人よりはもう少しいろんなことを知っていて、識見が高い、悟りがやや高いと、こういうことは言えるかもしれません。しかし、「如来」にあっても、この世に生きている間は、人間として生きていかねばならぬということです。
たとえ、どんな高級霊が地上に降りたとしても、やはり人間としての制約は越えられません。イエス・キリストのような人が地上に生まれたとしても、十字架にかけられたら、死んでしまうのです。そういう意味においてはね、「即身成仏」ということはあり得ません。ですから、こういうことを教えている宗教があったら、それは、間違いです。もし、私の言葉を信ずるのであれば、人びとは、よく耳を傾けて、このことを聴いてください。
20.親鸞や蓮如の意見を聴いたなら、浄土宗各派は時代遅れしないよう学べ
蓮如 まだほかにも言っておきたいことがあります。たとえば、賽銭(さいせん)やお布施の額によって、偉さやご利益が決まるとか、十万円以上寄付したら、あの世でのいい席が約束されるとか。あるいは、護摩(ごま)木ですか、それを何本以上焚いたら霊格が高まって、いい守護霊がつくとかね。こういうことも、すべて間違っています。お金ではないのです。お金では、あの世の地位は約束できません。お金で予約できるのは、飛行機や、船や列車だけです。ですから、金銭の多寡によって成仏が決まったりするというのは、間違っております。このことを正しておきたいと思います。何かほかに、現代宗教についての質問がありますか。
―― 現代宗教についてというわけではありませんが、蓮如様もまた、一宗の時代の先達、リーダーでいらっしゃったわけですが、現在、ご承知の仏教、就中(なかんずく)真宗系のお方で悩んでおられる人びとに対し、蓮如様は、どのようなご指導をなさろうとされていらっしゃるのでしょうか。
蓮如 いや、むしろね、これについては、もうあなた方の仕事です。仏教もすでにその時代を終わろうとしているのです。ですから、新たな教えが必要なのです。また、あなた方のお弟子さんたちが、ある意味で、昔の僧侶に代わってこなければいけないのです。もう時代が終わりつつあるのです。だからこそ、今後新たな教えの種を蒔いていっていただきたいのです。
―― と言われますと……、仏教系の何宗ということではなく、その立て直しが、近い将来に行なわれるということですね。
蓮如 いや、すでに現在、もう行なわれつつあるのです。現にね。親鸞様のご意見、あるいは、私らの意見、これを聴いただけで、真宗の方がたは、ずいぶん精神的なショツクを受けられると思います。実際、まさか蓮如が、「自己実現」の法則を説くとは思ってはいなかったでしょうし……。
―― 確かに、思ってもみなかったまったく破天荒(はてんこう)のことで、驚愕(きょうがく)するでしょうね。
蓮如 そういったことは、西洋の心理学などでやることで、まさか『南無阿弥陀仏』を教える人が、自己実現を説いているとは思わないでしょう。「阿弥陀仏」を言っていた人が、「潜在意識」などと言うと思っていないでしょう。しかし、時代は変わってきているのです。皆さん、この時代の流れを、どうか読み違えないでいただきたいと思います。
―― その意味で、現代の真宗の皆様方も、この際、どうかこの蓮如上人様のお言葉を襟(えり)を正して拝聴していただきたいと思います。
21."墓相"を唱(とな)える者への警告
蓮如 それからね、この際、ついでですから言っておきたいことがあります。お墓とか墓相とかね、こういうことを言っている人がおります。墓相が悪いから先祖が迷っているとか、墓相がいいから成仏しているとか、こんなことは完全に間違っています。ですから、皆さん、こういった商売に惑わされないようにしてください。墓相が悪いから迷っているなどと言うような人は、すべて地獄霊です。高級霊や浄仏霊は、お墓などにはおりません。成仏霊は、すべて天国にいるのです。
―― 仏壇などについても、同じことが言えますね。
蓮如 そうです。しかし、それはね、仏壇はあってもいいのですよ。人間というのは、もちろん、何もなくて精神統一ができれば、一番いいのです。ただふつうは、そうはできないでしょう。そこで、そういう方便としてね、先祖を思う気持ちを持つ。これは大事です。つまり、先祖を思う気持ちを向けるために、仏壇をつくるということは大事だと言えます。ただし、いい仏壇かどうか、金ぴかかどうか、何百万円するかどうか、そんなことは、関係ありません。要は、気持ちの問題、心の世界なのです。
ですから、いい仏壇だからといって喜ぶようでは、たいした先祖ではありません。仏壇がいいかどうかを見て喜んでいるようなら、この世を浮遊している浮遊霊にすぎません。地獄にさえ行っておりません。つまり、この世で、まだうろうろしているということです。本来は、仏壇などなくてもいいのです。もちろん、つくってもいいのですけれども、あくまでも、先祖供養の一つの方法としての仏壇だということです。ですから、墓相がどうとか、仏壇がいいとか、悪いとか、そのようなことは、関係がございません。
22.大安、仏滅、友引は何ら関係なし
―― 今日でも、日本の暦には、今だに、大安、仏滅、友引などが残っております。そして、こうしたものによって、日常生活が歪(いびつ)にされている部分が多々あると思うのですが……。
蓮如 そうしたものは、もう完全な風習にすぎません。ですから、やがては滅びていきます。日本の国がそのうちなくなれば、こういう風習もなくなります。いわば、外国の十三日の金曜日みたいなものです。こんなものは、何の意味もないのです。だから、仏滅であっても、どんどん結婚式をやってください。友引に葬式をやっていただいてもけっこうです。
あの世の世界へ行くということは、いいことなのです。これを悪いことだと考えているのは、間違っているのです。仏滅は、釈迦入寂(にゅうじゃく)、入滅という意味でして、これは素晴らしいことなのです。つまり、お釈迦様がこの世で成功を収められて、見事、実在界に還ってこられたことを意味しています。あの世では、大祝賀会が開かれているのです。ですから、皆さん、仏滅に喜んで結婚式をあげましょう。人間本来生死なしです。実相においては、生死なしです。永遠の魂、生命をもっているのです。死ということは、ないのです。
この地上の生活を送っているということが、むしろ、あの世の人から見たら死なのです。あの世での生活ができなくなって、このむずかしい現象界にでて、苦しい人生を送っているのです。これは死ですよ。つまり、あの世に遠るということは死から蘇(よみがえ)るということですよ。あの世に還る、要するに、死ぬということは、あの世から見たら誕生なのです。還ってきてくれるということなのです。素晴らしいことなのです。
ですから、仏滅だからといって、忌み嫌うのは間違っています。友引にしても、何ら関係ありません。そうしたことは、単なる風習です。神社のおみくじにしても、やれ大吉だ、凶だとかいって金儲けをしているようですが、こういうのは、昔のどこかの土人などがやっている風習にすぎません。ですから、こうしたことに大の大人が惑わされてはいけないのです。
23.占星術、姓名判断では人は縛れない
―― 星占い、占星術などが近年流行っていますが、これについては如何でしょうか。
蓮如 確かに、こういうことを専門にしている人がおります。もちろん、その効果がまったくないとは言いませんが、本当の"神理"というものは、そういう占星術を超えていかねばならないものです。
なぜ人間が、生まれたときの星の位置で、一生を支配されてしまわねばいかんのですか。また、姓名判断というものがありますが、なぜ名前によって、一生を支配されるのですか。名前によって、一生が決まるというのならば、名前を変えればよくなるのですか。生まれた星が悪ければ、もうどんなに努力しても、いい一生は送れないのですか。努力できないのですか。
そういうことは、おかしいのではないですか。それは、「決定論」でしょう。しかし、あなた方は、いろいろと学んでいて、決定論が通用しないということがわかるはずです。決定論があるのならば、何のために、自力門があるのですか。決定論が効くならば、なぜ他力、私たちの言う他力があるのですか。神仏の信念があるのですか。そういうのは、間違った教えです。
ヨーロッパにも、そういうものがありました。つまり、「予定説」といって、生まれたときから、天国へ行く人と地獄へ行く人が決っている。自分が天国へ行くことだけを信じておりなさい、と。こういう教えがありました。しかし、これも、間違っております。
神は、人間の努力に期待しておられるのです。そういう姓名判断とか星占い、これが当たっているか、いないかは知りません。ある程度は、そういう傾向というものがでてくるでしょう。そういう専門家がおるのですから。ただし、それは、乗り越えていけるということです。心の教えを知って、正しい生活をすれば、そうしたことは乗り越えられるということです。
―― 蓮如様のお言葉として、「墓相、仏壇」「仏滅、友引」「星占い、姓名判断」など、こうしたことについてまで、明快なお教えをうけたまわれるとは思ってもおりませんでした。ありがとうございます。
24.御祓で悪霊は払えない
蓮如 あと、何か宗教に関しての誤りがあれば、この際に、正しておきたいと思います。何かありませんか、現代の人びとの信仰についての質問が。まあ、"御祓"というのがありますが、あれについても、ちょっと言っておきましょう。"御祓"というのは、そういう霊的能力ですね、高級神霊の能力を持っている人がお祓をすれば、もちろん影響はあります。すなわち、悪霊を祓う力があります。しかし、神社の神主さんが、ただ単にお祓いをやったところで、悪霊はなくならないのです。つまり、彼らは、何にも知らないから、ですから、お寺のお坊さんが、数珠で拝んでいるのと同じです。何も死者には影響がありません。むしろ、あなた方がお祓をしたほうがよく効きます。あなた方が、「神理」の言葉を言えば、悪霊たちはいなくなります。私が見ていると、車を購って、何とか神社へ持って行って、御祓して貰って、祈祷料を五千円、一万円払っている。何ともおかしくて、おかしくて、仕方がありません。
25.滝行、千日回峯行(せんにちかいほうぎょう)は、皮膚と体を丈夫にするだけ
―― それから、山岳信仰や滝行などがありますね。こうしたことについては、どうなのでしょうか。
蓮如 まあ、こういう人はね、みんな仙人や天狗になる人です。普通の人ではありません。あなた方は、行(ぎょう)に走らないようにしてください。滝を浴びたからといって、悟れるわけはないのです。悟りとは、心の教えなのです。ですから、滝を浴びて潔められるのは、体ぐらいなものです。体は強くなるでしょう。皮膚が強くなって、風邪を引かなくなるかもしれない。しかし、それは悟りとは違います。
また、千日回峯(せんにちかいほう)とかいって、山のなかを千日も歩けば悟れる、と。こういうことを言っている人がおるが、間違いもいいところでず。千日回峯をやったからといって、悟った人などいないのです。千日回峯をやって、体力がついた人はおります。スーパーマンみたいな体力がついた人はおります。しかし、もしあなたが、千日間、山のなかを歩いたからといって、悟れるのですか。もし、それで悟れるならば、すべての人が、千日歩けばいいのですか。そうではないはずです。競歩の選手かそういうものになればいいんです、そういう人はね。
まあ、千日回峯の行者を尊敬するような人は、まあ、ホームランを何本打ったからその選手を尊敬しているというのと同じです。しかし、ホームランを何本打ったからと言ったって、あの世へ還れば、何も関係ないのです。まあ、いろんな人を尊敬したいと思っている気持ちがあるでしょうから、それはそれでけっこうです。
しかし、肉体行は、あまり重視しないことです。大切なのは、皆さんの心の教えなのです。それが、すべてなのです。肉体行は、必要ありません。肉体行をやるくらいなら、スポーツをやって、体を鍛えてください。また、お念仏を何万回、何百万回称(とな)えたからといって、関係ありません。大切なのは、本当の正しい信仰を持つことです。このことについては、それでよろしいですね。
26.夫婦の正しい心の結び方について
蓮如 男女のことに関して、言い残したことがあります。さきほど、宗教の日常化ということを言いましたが、願わくば、あなた方の教えが広まって、あなた方の教えを信じる男女が、お互いに協力しあって、「神理」の伝道をやれるような、そういう世の中になってほしいものです。人類は、やはり男女に共通項があるかないかによって、全然違うのです。お互いに精神的な支えを持って、夫婦生活をやっていければ、これは、大調和です。
今、精神的支えがないから、金銭とか、そんなことでもって争いが起きているのです。経済生活をするために、男女は一緒ではないのです。肉体的な欲望のために、男女が一緒に住むのでもないのです。一つの精神的目標のために協力しあっていく。この姿こそが、本当に神仏の心に適(かな)った相(すがた)なのです。これから結婚されていく若い人たちは、どうか共通の人生目標なり、共通の精神、精神主義というかね、共通の信仰、こういうものを持っていただきたいと思います。
ですから、若い人にも持っていただけるような信仰、そういうものを、あなた方には、どんどん説いていただきたい。本当に強い男女の絆というのは、信仰というか、精神的な結びつきにあるのです。これこそが、一番強い結びつきなのです。こうしたことを忘れているから、次々と離婚、再婚を繰り返していくのです。精神的な結びつきが大切なのです。その点について、あなた方が教えてあげてください。