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目次














1.見ることに伴う責任


八正道の最初には「正しく見る」ということを掲げてあります。この「正しく見る」という場合は、きわめて難しいところがあります。それは、私たちが「見る」ということを、能動的所作、あるいは能動的行為として、ほとんど考えていないからであります。

私たちは見るということを、朝起きて眼(まなこ)を開けば、そこに姿が映じてくる、映ってくること、というふうにとらえているのです。そうして漫然と、網膜に映ってくる映像を追い続ける一日を過ごすのです。

そうして一日が終わったときには、いったい何がこの網膜に映っていたか、これすらも忘れ果てているのです。

そこでまず、そういう心の改革が必要となるわけであります。

目というものをもらっておりながら、この二個の目を神より、あるいは神から約束された両親より受けておりながら、この目の働きというものをしかと確かめたことがあるか。その二つの目は何のためについておるのか、ということが問われているのであります。

目というものは、単に道で転ばないためだけにあるのか、道を歩くためだけにあるのか、玄関のドアを開けるためだけにあるのか、そんなことのためだけにあるとほんとうに思っているのか、これが問われているのであります。

そうしてみると、私たちは今まで目の役割というものをあまりにも漫然と考えてきていたのではないかと思われるわけです。この目が目として機能しながら、しかし真実の機能はしてこなかったのではないか、ということです。

私たちの目に映されているものは、これは神の創られた世界なのです。この神の創られた世界を、どのように判断するのか。どのように判定するのか。どのように見るのか。これは自己の責任問題であります。

世界は創られています。ただ、その世界をどう見るか、その世界のなかに生きている人をどうみるか、これは一人ひとりに完全に委ねられているのです。そして、その目に映じた光景をどう判断しているか、これについて、現在ただ今、みなさんに責任を問う人はだれもいないのです。

あなたがあなたの目に映っている映像をどう判断しているかについて、だれも何も言いません。それぞれの自由であります。花を美しいと思おうが思うまいが、外の景色をどう感じようが、それに何の責任も問われていないかに見えます。しかしながら、この世の中とは、それほど無責任な世界ではないのです。

目というものがついて機能している以上、ここに何らかの目的があるのであります。それでは、その目的とは何であるか。それは「視覚的映像を通して神の意図を発見せよ」と言っているのであります。

そして、目がひじょうに大切である理由は、目というものが、さまざまな器官のなかにおいては、世界認識にいちばん最適であり、役に立つ器官だからです。

もちろん鼻で認識する嗅覚もあるでしょう。嗅覚によってもある程度、生きものであるとか植物であるとか、人であるとか、これを嗅ぎ分けることはできるでしょう。しかし嗅覚に頼った世界観は、ひじょうに狭くあいまいなものであります。視覚に比べればはるかに劣ります。また、味覚というものもありますが、味覚で理解できる範囲もひじょうに限られたものであります。

また、聴覚というものがあります。これは比較的重要であります。この聴くということ、これは八正道のなかでは明らかにはされていませんが、聴くということをあえて八正道のなかに入れるとするならば、これは後に語る「正思」のなかに入れればよいでしょう。聴き取った情報をどのように分析するか、情報をもとに思いというものをどう組み立てるかということですから、「正思」の一部の作用と考えてよいでしょう。


2.神の業を見る


こうしてみると、八正道のはじめに出したこの「正見」ということは、人間の器官のなかで、世界を認識するためにいちばん大きな働きをしている器官に結びついているわけです。いろいろな肌の感覚といった触覚によっても、世界認識は不十分です。目があるということが、どれだけ私たちのこの霊的な進化とめざめに貢献しているか、これに改めて気づくのではないでしょうか。

器官を一つだけ選べ、感覚を一つだけ選びなさいと言われたときに、目があるということが、どれほど人間として生きていることを認識するうえにおいて役に立つか、考えてみてください。

口が動かなくても、耳が聞こえなくても、たしかにそれは社会的にはハンデイはあるけれども、そうであっても世の中がどうなっているかはわかります。しかし、目が生まれつき見えなかった方は、この世界を理解するのに困難をきわめるということがわかるはずです。人間とは何かが見えない。動物とは何かがわからない。植物とは何かもわからない。目が見えないということは、そういう困難を伴うのです。

そこで真実の「正見」とは何であるかと言うと、実はこの「見る」という行為をもっと高めよ、ということであります。映像としてのみ見、映像としてのみ受け取るのではなくて、もっとその奥にあるものを見よ、神の動きを見よ、と言われているのです。「神の手がなした業を見よ。その業の結果を見よ。」ここまで言われているのであります。それを見抜くことができないものは、少なくとも神の子として地上に生きて「見た」とは言えない。それは目が開いていたというのみであって、見たとは言わないのであります。

これは英語で言うならば、see と look の違いに似ているかもしれません。正見の見は look のほうです。see のように漫然と目に映るというのではなく、これは意志を集めて見るということです。意図的に、積極的に見なければならないのであります。


3.「正見」の出発点


さて、この「見る」という行為を、さらに分析してみたいと思います。見るという行為を分析したときに、問題点としていったい何があるかということです。反省のなかにおけるこの見る行為で、出発点としてまず考えてよいことは、他人の姿です。これが入り口としてはいちばんわかりやすいのです。

それは人間が過ちを起こしやすい理由、心に間違いを起こしやすい理由の一つが、他人の存在を理解できないという部分にあるからです。理解できないという言葉が不十分であるとするならば、理解しつくせないと言い換えてもよいでしょう。いくら見ても見ても、その人の真実の姿はそう簡単には見えてこないのであります。十年つきあっても二十年つきあっても、見えないものは見えないのであります。

しかしながら私たちは、映像として目を通して見ているその人の姿のなかに、その人の人格を見ていることは明らかであります。そのどこを見ているのか、それは定かではないけれども、目に映じてくるその人の姿、そこからその人となりを判断しているのです。すべての人が、世界五十億の人がこうしたかたちでそれぞれ判断をしているのです。

それは一見無責任の判断であります。自分が他人をどう見たかということに関して、責任を問われたことは、かつてほとんどないはずです。自分自身をふり返ってみて、そうではないでしょうか。ある人を自分はこう見たということに対して、責任を問われたということはほとんどないはずです。

問われたことがあるとするならば、それを語ることによってです。後に述べる「正語」においては、これが問題となります。語ること、表現することによって責任を問われることはありますが、見るということのみにおいて責任を問われることはないのです。

ところが、実は私たちが見ているこの人の姿、あるいは世界の姿というものは、ちょうどいろいろな角度から見ている人間によってとらえられるものにも似ています。

キュービズムという芸術があって、立体的に、いろいろなところに目があるようなかたちで物体を見ています。それが何を暗示しているのか、それは私にも十分にはわかりかねますが、おそらくピカソの訴えたかったことは、霊的な目で見た視覚世界は違うということを実は言いたかったのだと思います。

私たちが見ている、この二次元平面的な視覚像、この画像には満足ができない。神が創った世界はそういう二次元平面的にとらえてはならない。それはもっと霊的に、直覚的にすべてを包括する形で見なければならない。そう考えて努力した結果が、おそらくキュービズムの芸術となったのであろうと私は考えます。

これと同じように、私たちはいろいろな人を見ていますが、しかし必ずしも全方位から見つくすことができないでいるということです。もしすべての人が真底わかりえるとしたならば、そこに何の理解のギャップが生じましょうか。そこに何の混乱が起こりましょうか。そこに何の不幸が生まれましょうか。

不幸の根源は、理解のギャップではないでしょうか。自分自身の自己理解と、自分に対する他人の理解との懸隔(けんかく)、あるいは自分の他人に対する理解と、その人のその人自身についての解釈との違い、こうしたことから人間関係の不幸というものは生まれてきているように思えるのであります。

こう考えてみたときに、実はこれは大変なことだということがわかってくるのです。恐ろしくて目を開けていられない。そこまでの責任感が出てこなければならないのであります。自分の目に映じている人たちの姿は、これはほんとうに納得のいく姿なのか。自分はその人の印象というものを目を通して受けるが、それをそのままに受け取ってよいのか。その印象は確かか。

印象に基づく他人への評価、これはみな、その重大さを知ってか知らずか、必ずしているのであります。印象を通して人の評価をしているが、それははたして正しいのか、これが問われるのです。こう考えると、ひとを見るというひとつのことでさえ、大変なことになってきます。


4.自他の姿は合わせ鏡


また、一日中いろいろな人を正しく見るということと同様に難しいのが、自分自身を正しく見るということです。これも反省においては欠くことのできない作業であります。

これは、ひとを正しく見ることができない人は自分自身をも正しく見ることができない、というふうに言うこともできます。あるいは自分自身が見えない人はひとを見ることもできない、と言い換えることもできます。ともに真実であります。真に自分自身を知らぬ人は、ひとを知ることもできません。それは自分のなかに神の子を発見できなかった者は、他人のなかに神の子を発見することができない、ということと同じであります。

また、他人のなかに神の心に反する姿を見ることのできない人もまた、自分のなかに神の心に反する姿を見ることができません。自分が神の心に反した姿をしている、振る舞いをしている、行動をしている、生き方をしている、そういうことを発見することができません。逆も真です。自分自身の生き力、行ない方、これが神の目から見て真実のあり方に反しているということがわからない人は、なかなか他人のそれもわかりません。程度の違いはもちろんあるでしょうが、そうしたものであります。

したがって、他を見るということと自己を見るということは、これは合わせ鏡を見ているようなものであって、自と他を両方見てはじめてほんとうの姿が見えてくるのであります。自と他は、まさに合わせ鏡なのです。他人だけ見えて自分が見えない人もいなければ、自分だけが見えて他人が見えない人もいないのです。両方が見えなければほんとうの自己像、ほんとうの他人像、ほんとうの世界像はけっして浮かんでこないのであります。


5.正しく人を見るための判断基準


では、他人を見る、自分を見るということの、この正しさはいったいどこに力点をおいてとらえなければならないのでしょうか。どういうところに注意して見なければならないのでしょうか。

①映像を客観的にとらえる

まず他の人を見るさいの判断の基準として、第一には、目に映った他人の姿というものを、まず情報として客観的にとらえる工夫がだいじです。第一段階において、主観を交えてそれを判定しようとしてはなりません。まず客観的に見ることです。人となりはどういう人となりであるか、どういう行為であるか、どういう表現のしかたであるか、どんな表情であるか、これをまず客観的にとらえる必要があります。

このときにできるだけ無私であることがだいじです。私心を入れないで、まず観察をする、この観察が第一段階であります。

②自分の感じ方を知る

その次にあるのが、自分の目に映じたその人の姿を、自分はどう感じるかということで、これが第二段階になります。まず客観的にその姿を見、その次にそれを自分はどう感じるかを知る、ということです。

たとえば第一印象で、いい人かよくない人か、こういう判定もあるでしょう。あるいは好きな人だ、あまり好きじゃない人だ、という判定もあるでしょう。少し賢そうな人だと思う人もあれば、ちょっとその反対だと思う人もいるでしょう。あるいはいやなところがある人だな、と思うこともあれば、きつい感じだなと思う人もある。また、優しいなと思う感じもあれば、ちょっと甘い人じゃないかと見る場合もある。いろいろありますが、その人の有様(ありよう)を何らかの感想をもってながめるはずです。この感想、自分はどう感じたかということを知る必要があります。これが第二の段階です。

③相手を相手の立場から見る

そして第三段階は、その自分の感じた姿は相手の立場に立ってみたらどうなるか、ということです。こういう判定基準があるのです。

自分はその人を見て、たとえばきつい人だなと見た。厳しい人だなと見た。しかしこういう見方は、その人の立場になってその意見を聞かされたら、どのように感じるだろうか。これをその人は正当だと思うだろうか、半分ぐらいはあたっているというふうに感じるだろうか。まったくあたっていないというふうに感じるだろうか。こうしたことを推測し、忖度(そんたく)する必要があるのです。

この推論をしてみるだけで、自分と意見のズレがあるだろうと思える人がいることに気づきますず。自分はこういう人だと思うが、この意見はたふんその人も納得するだろうと言える見方もあれば、逆に、この人はたぶんそうは思っていないだろう、きっと自分はそうでないと思っているだろう、という見方もある、というようにいろいろなズレがあることがわかります。ピッタリと一致することもあれば、まったくはずれてしまうこと、ある程度重なっていること、いろいろあるはずです。

④神理の立場から見る

こうして三つの見方で見た映像を通過したうえで、四番目にしなければならないことはいったい何でありましょうか。これは神理の基準から見たときに、自分が見た相手の像の解析、印象と、あるいは相手の立場を想定したときの相手の像の印象と、どちらが正しさに近いか、ということです。この両者を神理の立場において考えてみる必要があるわけであります。

この神理の立場において考えるという作業に、みなさんが日ごろ勉強している神理の知識が役に立つのであります。神理学習の蓄積が役に立つのであります。たとえば、こうしたタイプの人に対して高級諸霊はどのように考えていただろうか。また自分がそういう人から受ける印象についてこう思ったということに対して、どうせよと言われただろうか、どのように理解せよと言っておられるだろうか。それを考えてみる必要があります。

たとえば『イエス・キリスト霊示集』という本の第1章の愛の部分を読んだことがあるならば、その観点から見て、自分が考えている相手のあり方、その相手を自分がどうとらえるかというその考え方はどうであろうか、何らかの反省点がありはしないだろうか、と考えてみることです。

また、『釈迦の本心』という本があるならば、この本で学んだことを基準に考えた場合に、この自分の自己印象と、それを相手がどう感じるかと考えたこと、これを神理の目で見たらどうなるか、点検すべき材料はいろいろあります。

こうしたことを一つひとつ追跡していくのです。そうしたとき、自分の印象がどこまであたっているか。相手がこう思うだろうというその思いは、相手のほうにズレがあるとしたらどの程度までズレがあるのか。あるいは相手のほうがどこまで合っているのか。これを点検してみるのです。

そして点検の結果、おたがいにまったく違うように見ているものをどこかで一致させる必要があります。この作業の部分が、ほんとうの反省であります。


6.愛に先立つ知恵


四段階目で「神理の基準において正しく見る」ということをあげましたが、これはまた違ったかたちで見ることも可能です。この四段階目の神理の基準に照らして、あるいは神理の知識に照らして見るということもなかなか困難な部分がありますから、このときにはもう一つ違った方法があります。

それは何であるかと言うと、心を空しゅうして神と心を通わせる気持ちで、静かに自分の思いと相手の思いというものを見てみるということです。空しく、まったく利害というものを放下(ほうげ)し、そして執着というものを去って、自分のあり方、他人のあり方などについて、見てみるのです。自分の見た像が間違っているのか、あるいは他人の見た像が違っているのか、また、こうした像のズレというものを知った時に、これをいったいどういうふうに埋めていけばよいのか、こうしたことを、心を空しくして見なければならないのです。

こうしたときに、たとえば自分が受ける相手の印象が悪かったとしても、これが実はとんでもない考え違いであったと気づくこともあるのです。相手の立場のほうがやはり正しかった、相手はそういうふうに見られたら不当と思うだろうという、その見方のほうが正しかったということもあります。

また、たとえばある人がひじょうにうぬぼれていくとしましょう。みなさんのなかにもそういう可能性のある方は多いでしょう。ある程度役割を与えられる。たとえば上級試験なら上級試験に合格する。また支部長なら支部長、あるいはそれ以外の委員なら委員、こういうものに選ばれたとします。その時点ではたしかに優秀な人として目がかけられたかもしれません。しかし、それがやがて変化していきます。一年後の姿は一年前の姿ではありません。その人が向上しているか、堕落しているか、あるいは現状維持か、この三つのうちのひとつであります。

そうした人の姿を見ているときに、たとえばその人が増上慢になっていって転落間際だと見えるとしましょう。そういうときに、見方はやはりいろいろあるのです。

ひとつの見方は、たしかにこのままでは悪になってしまう、問違いになってしまうので、これは厳しく糾弾(きゅうだん)せねばならない、という見方があります。

しかし別の見方もあります。これを単に間違ってきているから糾弾せねばならないという考え以外に、愛というもの、自分の与えた愛というものをもういちどふり返ってみなけれぱならないという点があるのです。

その人が、そういうふうになってきた理由は、甘やかしにあったのではないのか。愛のなかには優しさはあるが、この優しさが甘やかしになっていて、こういう危険なところまで本人を追い込んでしまったのではないか。今考えねばならないことは、そうなったからその人が悪いと考えるよりも、こちらの愛の実践において、愛に先立つ知恵が足りなかったのではないのか。こういう見方もありえます。

その人に愛を与えるにさいして、こういう傾向性のある方で危険性があるならば、事前によくそのことを見抜いて、そのように接していくべきではなかったのか。あるいは順序を追ってその人の成長を図っていくべきではなかったのか。まるごとすべてを与えることをもって愛と勘違いしていたのではないか。惜しみなく愛は与えると言うが、その人にとってまだ時期が来ていないときに愛を与えた結果、その人の増上慢の芽をつくったのではないのか。そうであるならば、その人がゆくゆくはそのような立場に立って当然の素質を持つ人であると思えたとしても、その性格をよく見抜いて、本人の自覚が高まるにつれて少しずつ立場を上げていくなり、扱いを上げていくということもありえたのではないか。

こういうふうに、愛の与え方において、それに先立つ知恵があったかどうかという、自己反省のしかたもあります。


7.多様なる認識の上に


このように見方の可能性はいろいろとあって、これを探究していくときに私たちの魂は進化し、飛躍していくのです。こうしたいろいろな見方ができるということ自体、私たちの霊格が、人格が進んできているということなのです。一面的だけにしかみえないということは、まだ霊的成長としては不十分なのです。霊的成長が高まれば高まるほど、いろいろな角度から物事が見えるようになってくるのです。

おそらく神の目から見てもそうであろうと思えます。いろいろな角度からすべて見て、そしてそれなりの評価をたぶんされているのでありましょう。これに近づいていくということは、多面的な見方ができるようになる、違った見方ができるようになるということです。神理というものを探究する過程において多様な見方ができるようになるのです。

しかし、ただ単に多様であるだけではだめです。単に多様であることを認め、まあこういう見方もある、あういう見方もある、そういう見方もある、と、それがすべて店頭の商品でも並べているように、いろいろな見方があるからということのみを結論として、判断を示すことから逃れるのであっては、この多様性は実りを生みません。多様な認識は必要だが、多様な認識が多様な結果だけに終わってしまうなら、そこには何らの霊的努力がなかったということなのです。

多様な見方ができるようになるということは、明らかに霊的な進歩であります。しかし多様な見方ができるようになって、多様な結論が導き出されて、多様を多様としてそのまま放置しておくならば、それはアナーキーであります。無政府状態、無秩序の状態にすぎません。それは混沌にかえっていくということになるのであり、いったん進化しかけた霊的な芽生えが、また逆戻りしていくことになります。

いったん多様な見方をしたうえで、是が非とも神の心に近い判断をせねばならないのです。こういう見方もできる、ああいう見方もできると、さまざまに考えたうえで、では現在ただ今の自分の神性の許すかぎり、霊性の許すかぎり、全身全霊の判断としてみてどう結論づけるか、これを出さねばならないのです。これを回避してはならないのです。

多様な見方ができるようになるために努力した結果、相手もいいところがある、自分もいいところがある、だからお互いにいいところがあるから、いろいろな姿に見えるが、まあそれはしようがないと、これでは済まされないのです。これではまた無秩序の世界が始まるのみです。理解することはだいじだが、理解のあとに意味づけが必要であるということです。

そしてこの意味づけに関して、自己の責任がでてくるということなのです。この自己の責任のしょうずる、正しく見たかどうかの最後の結論を出すときには勇気がいります。どんな人であっても勇気がいると思います。


8.イエスが導いた悲劇


イエス・キリストと言われる方であってもそうです。あのゴルゴタの丘で最後に十字架につながれ、はりつけになったときに、彼はまわりの罪人たちにも祝福を贈りました。また、自分に対して害を与える人に対しても「彼らは何も知らない。だから神よ、彼らの罪を赦したまえ。」このようにイエスは言っていますが、そのイエスの見方について、さて百パーセントか九十九・九パーセントか、九十九八パーセントか、いったいどれだけの正しい見方を彼は最後にしたかと言われたときに、これはなかなか難しいところであります。

というのは、置かれた状況を状況として判定する場合に、彼の見方はおそらく最高限度に近いものであったでありましょう。彼の教えのなかには、「右の頬を打たれたなら左の頬も差し出せ。」また「上着を取られたら下着も与えよ。」「百里行こうと言われたら千里行け。」こういう教えがあります。その教えの実践の結果がどうなったか、これがあの最後の結末になっているわけです。

「暴力を与えんとする者には与えさせよ。」――その結果があの最後になった。あの十字架での最後は、他の罪人への祝福と、自分を迫害する者への愛において終わったけれども、彼自身、では最後におけるその見方はよいが、その途中においてそのような行為を許したという点で、はたして正しく見ていたかと問われたときに「イエス」とは言いかねるのであります。

そこに至るまでの間に、その見方、分析、考え方、思い、これを正当に評価しえるかと言えば、必ずしもそうとは言えないところがあります。そこまで来るには来るだけの理由があり、その過程があったはずです。その過程において、人をどう見るかということについて、もう少し上手な、あるいはレベルの高い見方ができたのではないかということです。

ここで私達は、ユダの問題を考えなければならないと思うのです。イエスはユダをどう見たのか、という問題です。これは『イエス・キリスト霊示集』のなかにも書かれている内容ですが、ユダをどう見たか、またユダの動きをどう見たか、またユダの結末をどう見たかということです。

ひとことで言えば、なぜあそこまでやらせたか、ということです。真に正しく見たのであるならば、なぜあそこまでやらせたか。あそこまでやらせる前に、なぜ一喝(いっかつ)を与えなかったか。なぜもっと知恵をもって見てやらなかったか。なぜもっと知恵をもった愛を与えてやらなかったか。これは考えなければならないところであります。

イエスは、ユダのそのような傾向性は見ていたでありましょう。そのユダの傾向性から、結果としてこうなるであろうということは見えていたでありましょう。しかしながら、自分のかつて愛した弟子であるがゆえに、自分の伝道の初期のころに愛した弟子であるがゆえに、伝道の初期のころに協力してくれた弟子であるがゆえに、その厳しさを出すことができなかったのでありましょう。

現在魂的には善くなくなってきているけれど、また霊道も開きかかって悪霊もよく入り始めている。そういうことはイエスは十分に知っていました。そして、他の者からも不満は出ていました。「あのユダを、先生どうにかしてください。」と、他の弟子たちは言っていたのです。現実に言っていたのですが、しかし「ユダは自分の最初のころの弟子であって、最初のころにいろいろとずいぶん骨をおってくれた。その愛を思うときに厳しくはできない。」こういう遠慮があったのです。

そして、その結果はあのようになりました。運命と言えばそれまでです。しかし運命でないと言えばそれもそのとおりです。まだ選択の余地はあったのです。

これは、あのような大指導霊であっても、この「正しく見る」というところにおいて、究極まではいかない部分がまだあるということなのです。イエスの魂は過去幾転生する過程において、何ゆえにいくたびも悲劇の死を遂げたか、これはそうした運命を担っていた役割だと言えばそれまで。自己犠牲の愛を、彼はあくまでも愛の本質と見ていたと思えばそれまでです。

彼の魂は、過去幾転生のなかで、何度もあのような最後を遂げています。アガシャーのときもそうでした。それ以外のときにも同じようなことがずいぶんありました。アガシャーのときは最後は処刑され生き埋めにされるところまでいっているのです。そこまでさせているのです。させているのであって、されたのではないのです、その愛の見方ゆえに、させたのです。愛ゆえに、多くの人びとへの愛のためには自分の命を捨てるということが最大の愛だと思うがゆえにです。

それはひとつの方法論でありましょう。しかし、その甘さゆえに、優しさゆえに、あるいは増長させたがゆえに、あのような悲劇は起きているのです。

これと対照的なのが釈迦です。過去幾転生を見ても殺されたことは一度もありません。全部成功して終わっているのです。

それはなぜか。この「見る」というところにおいて、イエスと釈迦には違いがあるのです。究極的に人を生かすというところにおいて、どれだけ優しさと厳しさとを合わせうるか。いちばん難しいところは、ここにあるのです。人を見るさいに、優しさと厳しさのこの配合、これがいちばん難しいのです。


9.環境に対する視点


そのほかに、「正しく見る」ということにおいては、他人と自分の見方だけでなく、まわりの世界をどう見るかということもひじょうにだいじであります。

生かされている世界が見えるか見えないかということです。これは環境を見るという言葉に言い換えてもよいかもしれません。幸・不幸の原因のほとんどは、自分をとりまく環境をいかに見たかにかかっていることが多いのです。これは私たちの理論を学んでいる方であれば、十分おわかりのはずです。幸・不幸の原囚が、環境をいかに見るかにかかっている、その見方にそうとう大きな比重があることを学んでおられるはずです。

というのも、百パーセント完全な理想環境というものはないからです。他人の置かれている環境はうらやましく思えるかもしれないが、その環境に自分が置かれたときに、それが百パーセントのものであるかと言えばそうではないのです。

たとえば贅沢がしたいという人であれば、王宮に住むということはひとつの夢かもしれません。しかし神理を学ぶ人にとっては、王宮に住むということは、別な意味での苦しさになってくるということもあります。環境という客観的なものがあって、それさえ満たされればすべて幸福に転ずるかと言えば、そうではないのであります。

ここに、環境に関する二通りの見方というものがあります。第一の見方は「心が変われば環境も変わって見える」という考え方です。これは「三界は唯心の所現」という見方に近い考え方で、ある範囲まではこのとおりに見ることができます。

そしていまひとつの見方は、「心に応じた環境が現われてくる」という考え方です。これも第一の見方と似てはいますが、少し違います。与えられた環境をどう見るかに工夫するということと、与えられる環境そのものが変わってくるという、そういう違いです。この二通りが環境に関してはあります。

そうして見方を変えていくときに、どちらかの現象が起きるのです。環境を見る目を変えたときに、まず現に与えられた環境自体が違ったふうに見える場合と、環境に対する見方を変えたゆえに新たな環境が与えられてくる場合と、この両者があります。どちらも真理です。時間的ズレはありますが、第一の場合から第二の場合へと移行していくことがほとんどであります。

そこで、なぜ環境の見方によって幸・不幸ができるのか、これを考えてゆかねばなりません。この結論はつぎの「正語」のところで述べることにします。


10.植物・動物へのまなざし


いまひとつ「見る」ということに関してだいじなことは、動物、植物など、人間以外の生物の見方です。これへの目をけっして忘れてはなりません。動物にしても、魚もあれば、牛や豚、その他蜜蜂であるとか、いろいろなものがありますが、こうしたものたちの恩恵を考えたことがあるかということです。大部分の人はそれを真剣に考えたことがありません。そうしたものは目に映ってはいるのです。いろいろなところで目には映っているけれども、それについて考えたことがないのです。目に映したままで過ぎ去っているのです。

これは逆の立場から見ればかわいそうなことです。みなさんは職場で働いていて、自分が一生懸命に働いているのに上司から認められなかったら不満でありしょう。動物や植物たちは一生懸命働いているのです。奉仕しているのです。花もまた、みなさんに美しい環境を創るために一生懸命成長しているのです。そのようなことを思ったことがあるでしょうか。私たちの目を楽しませてくれるために、こんなに生命力いっぱいにがんばっているという見方をしたことがあるでしょうか。

ほんとうに「真説・八正道」が板についてくると、植物の気持ちまでわかってきます。心に伝わってくるのです。悲しんでいるのも喜んでいるのも、みんなわかってきます。そういうふうに、やがてみなさんもなられるでしょう。動物の気持ちまでわかってきます。そういうものなのです。

これは真に彼らを見るということができていない人にはけっしてわからないことです。そうした生命たちがかいがいしく生きているということを思ったことのない人間、いや正しく言えば見たことのない人間、生命たちが一生懸命に生きている姿を見たことのない人間には、かれらの気持ちはわからないのです。そうした感情が湧いてこないのです。

感情の変化には必ず原因というものがあります。「見る」ということも最大原因のひとつです。正しき感情を、あるいは崇高な感情を起こすためには、正しく見るという行為が不可欠であります。