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目次







1.行動の価値基準としてのユートピア価値


さて、以上で、現代日本のあり方を踏まえたユートピア像をお話しいたしましたが、これからほんとうにどういう世界が展開してくるのか、どういう世の中になってゆくのか。また、どうしたものに、値打ちがあるとされていくのか。このユートピア価値についての話をしてみたいと思います。

まず、最初にいっておかなければならないこととして、私たちは、神理価値という言葉をよく使っています。神理価値とユートピア価値は同じなのか、違うのか、このあたりについて、誤解・混乱もあることでしょう。さすれば、ここで説明をしておきたいと思うのですが、もちろん両者は重なる部分もあります。また、同じように使っていることもあります。しかし、違うところがあるのです。

神理価値とは、時代を超え、地域を超え、あらゆる場所において、環境において揺れることのない価値、すなわち神の正法神理そのものの値打ちのことをいいます。これは、いかなる時代が来ようとも変わることはありません。これを法価値と言い換えてもよいでしょう。正法神理、久遠の法は、その値打ちを滅ずることはありません。いつの時代も同じものが人類の歴史を貫いて流れています。

ユートピア価値も、たしかにこの流れのなかに現われてくるものですが、しかしながらユートピア価値のユートピア価値たる所以(ゆえん)は、その時代性と、地域性、また集まっている人のその集団としての性格に大きく影響されることがあるということなのです。これはどういうことかというと、神理価値というものが、本来は存在の価値、それ自体存在することが値打ちのあることであるという価値であるのに対して、ユートピア価値とは、存在価値ではなく、行為価値、行為をするその実践のなかに生ずる価値であるのだ、ということなのです。ここに違いがあるのです。

神理価値を存在価値というふうにもいいましたが、別な言い方をするならば、精神的価値というふうにいってもいいでしょう。精神の問題です。メンタリティーの問題です。これが神理価値です。もちろん、思いと行動とはつながっているものですから、両方とも共通したところはあります。基底にはありますが、ユートピア価値とは、実践に転じるところにおいて生じる行為の価値なのだということなのです。ここが、大きな違いです。

したがって、行為に転ずる、実践に転ずるというこの観点があるがために、時代性、地域性、あるいは集まった人たちのその群れの性格というものが影響することになります。そのような時代と地域と人という要素を抜きにした実践ということはないからです。かならず、真実の神理価値は同じであっても、その場所・時代・人、この三つの要素とその組み合わせによって現われ方は変わらなければならないのです。すなわち、本来の神のお心をいかなる姿で地上に現わすか、具現するか。その具現のしかたの過程において、生じる価値のことをユートピア価値といっているのです。このユートピア価値は、やはり、大きく考えるならば、そのなかにも、精神的なるものと、結果的なるものとがあると思います。

すなわち、ユートピア価値は、ふたつの要素から成り立っているのです。一つは、動機です。いま一つは結果です。動機としていかなる動機があったか、結果としていかなる結果が出たか。この両者を満たしたならば、ユートピア価値はあったといえるのです。動機のみ値打ちがあって、結果が生じなかった場合は、未完成品です。動機が違っていたが結果だけOKたった、まあこういうこともないとはいえません。

竹薮から二億円が出てきたが、それが実際、社会福祉のために、ほんとうに使われたというのなら、まあこういうこともいえるでしょう。そういうことも絶対にないとはいえないでしょうが、そのようなことを期待するだけでユートピアができるはずもありません。

このように、動機の部分と結果の部分、両方の完成をもってユートピア価値は成り立ちます。もちろん、さらに三分法で考える人であるならば、動機、過程、結果の三つでとらえることも可能でしょう。しかし、話を簡単にするために、動機と結果の二つに分けて話を進めてみたいと思います。

すなわち、これから提唱しようと思っている考え方は、みなさんの行動の価値基準の問題なのです。今までみなさんは、どのように行動してこられましたか。あるいは、生きてこられましたか。今日、一日というものをとりあげたときに、今日一日どのような意思決定をされましたか。そしてどう行動されましたか。どういう経路で、ここにたどりつかれましたか。

今日一日の思いと行動の連鎖はどうでしたでしょうか。あるいは、今日に至るための過去数十年の人生は、どうでしたでしょうか。そのときに、みなさん方の行動を支配していた考え、規律していた考え、それは何ですか。みなさんは、何に基づいて判断をし、そして行為を選び取りましたか。その結果、いかなる反応、あるいは成果が現われましたか。何をもって、みずからの行動のための、生きていくための実践基準とされましたか、私はこれを問うているのです。

みなさんが、たとえばある講演会に行かれたとします。そのとき、そこへ行くことを決めた動機は何ですか。そうして、その動機に基づいて、そこに来たという結果が出るわけですが、来てそれはどうなったのでしょうか。この二つが問われるわけです。まず、会場に来ようと思いたった動機のなかに、いったい何があったか。その動機のなかに、何かあったかを考えていただきたいのです。そのときに、「金曜の夜はひまだなあ。世の中の人びとは花金とかいって、どこかへ行くらしいが自分には誘いもない。お金もない。ここなら、まあお金もたいしてかからないし、飲み食いするわけでもないし、まあ何とかなるだろう。」などと時間潰(つぶ)しのために来た人もいるでしょうが、動機が不純です。だめです。動機のところでやはり問題があります。「行くところが無いので来た。」とか、「雨やどりに来た。」とか、このような理由もだめです。動機においてだめです。「何かいいことでもあるのではないかと思って来た。」このあたりもちょっと不透明です。まだ、ちょっと曇っています。そのようなところもあります。「会員になったから、一回ぐらい出ないと損をするから。」というのもちょっと動機不純です。だめです。その動機を考えていただきたいのです。「同じように会費を取られているのに、東京の会員のところにはたくさん行く機会はあるが、地方の会員のところにはめったにないので損をしている。だから取り返さねばならない。」このへんはやはり、あまり天国的な考え方ではないと思われるわけです。そのように、動機の部分を点検していただきたいのです。いろいろあると思います。

そのときに、やはりこのチャンスを生かして、自分を変えていこうとし、その変えた結果、向くべき方向として、何らか世の中に還元できるような、世の中に対してよき影響を与えるような自分になりたいなと思って来るのであれば、まあまあ合格圏内に入っているわけです。「講演者の顔つきを一回だけ見てから帰ろう。」など、これではだめです。こういうのは失格なのです。「連続セミナーの講義というので、珍しいから来てみよう。」とか、まあこのようなのもちょっとあぶない感じです。このあたりをよく考えていただきたいのです。

また逆に、気持ち、動機の面においては、たしかによい動機で来られた。「ヨシ、これで何かを勉強してつかんで、そして、職場に帰ってあるいは家庭でこれを実践に転化してがんばろう。」と思ったが、思ったに止まった。帰ってみると何を聞いたか忘れてしまった。まあこれはやはりだめです。結果のところでだめなのです。動機はよかったが結果までいっていない未完成品です。思いとしては、たしかに残ります。残りますが、これは点のようなもので、テンテンテンと点が続いているものです。あるいは、表現はよくないのですが、にわとりのフンみたいなもので、ポンポンポンポンと落ちているだけで、何の役にも立たないのです。通った跡だけはわかりますけれども、なんの役にも立たないのです。道路のように舗装をきっちりとするならいいけれども、にわとりのフンでは何の役にも立ちません。

このように、大きく考えるならば、動機と結果の二つに分かれるのです。

2.ユートピアを阻(はば)むもの


①結局自分に返ってこないと満足しない心

ユートピア価値を成り立たせるものは、動機と結果の二つに分かれるが、このユートピア価値そのものがめざしているものは何なのか。ユートピア価値と反ユートピア価値というべきものがおそらくあるでしょう。ここを見分けるのはいったい何であるか。これについて話をしておきたいと思うのです。

これはユートピアを阻害するものといった考えにもなるかもしれません。ユートピアを阻むもの。こういう考えにも、おそらくなるでしょう。ユートピアを阻むものとはいったい何であるか。これを見抜いて、その反価値に対して、抵抗しなければならないわけです。

ユートピアの実現を阻むもの、それは、大きくいって二つあると思います。一つは、自分自身の問題です。自分自身の問題として、ともすれば、すべてが自分に返ってくることを願う気持ちがあります。何だかんだいい、「思いだ、行いだ」といっているが、けっきょくは自分に返ってこないと満足しないという思いがあります。抽象的にいうならば、そういうことです。自分に返ってこなければ、やった値打ちがないと思う心です。これが、やはり一つあると思うのです。

それは、たとえば、ほんのちょっとした違いだと思うのです。紙一重の違いだと思います。たとえば、私が何かの講演をするといたしましょう。これはスケジュールを組んであるからするといえばそれまでです。そして、講演会場に来ました。二時間の時間を頂戴したとしましょう。そこで、私が考えることは、私も毎週、毎週行事をやっているわけです。先週も地方へ行きました。今週も行きました。今月末もまた行きます。ちょっと出前のそばのようなものなのです。少し値打ちが落ちているのです。あまり行くものだから、出前そばのようなもので少し値打ちが落ちているのですけれども、そうするとどう考えるか。「まあ何回も講演するのだから、一回や二回手を抜いてもいいのじゃないか。」とまあ、気持ちはうずくこともあります。

しかしながら、せっかく時間を二時間いただくのだから、そういう自己保身に生きるより、手は抜くことは抜くが、抜き方にも問題があるだろう。やはり上手に抜きながら、やはりためになる話をするのが芸術的なやり方ではないのか。そのような妥協点を出すという考え方もあるわけです。

ですから、同じく二時間の講演をするのに、とにかくやればいいのだ、行事を消しこめば、消化すればいいのだという考えもあるでしょうが、せっかく来たのだから、集まられた大勢の方に何かつかんで欲しいなと思う気持ちがあるかどうか、これは神様が判断しているので、その評価は私にはわかりませんけれども、同じようにしてもそういう判断がやはりかならずあるわけなのです。そして、それが動機の部分なのです。

そして、結果においてはやはり二つに分かれるはずです。結果においては、講演会場に訪れたみなさんは「ああ、よかったな。」と思いつつ、帰る道にもう忘れてしまったという人が多いか、それとも何か種火のようなものを心のなかに残して帰れたか。やはり、結果は二通りあります。私の仕事においても、やはりそれは働いてくるわけです。自分だけに返ってくる心、すなわち講演に来て、みんなに「ああ、いい講演だった。」といわれたいというそのことのためだけに来ているかどうか。そういう気持ちで来ているか、受講料がいくらか知りませんが、「高かった。」といわれないためだけに来ているか、とかいろいろあるでしょうけれども、このへんは、やはりかならず何らかのリトマス試験紙にかかっているのです。かならす、はかられています。

一つひとつの行動に関する思いですが、全部これは毎日毎日、一日のなかでも一時間、一時間のすべてにほんとうはフィルターがあるのです。神様のリトマス試験紙が試験管のなかに、私のなかに入っているのです。赤くなったり青くなったりいろいろ変化しているのです。変色しているのです。かならずこれは、調べられていることなのです。みなさんも同じなのです。

ですから、まず、反ユートピア価値としては、自分自身にすべての結果を期する心がないかどうか。これが一つの点検です。


②他人の不幸を喜ぶ心

もう一つは何であるか。これは、ひじょうに悲しい話ですが、自分以外の他人に対する思いとして、他人を現在より低く評価する、あるいは他人が失敗をする、何か他人のグレードが下がることによって喜びを覚えるような気持ち、これが出てくるかどうかということです。これが明らかに反ユートピア価値なのです。

すなわち、ユートピア価値のなかには、抽象的にいうならば、心の価値、心のなかのユートピアと、あるいは実際、具体的な実社会における活動、あるいはその結果としての共同体としてのユートピア、こういう内と外、私と公の両方があるわけですが、これを精神価値として話をするならば、自分に成果を帰する心、これがあるかどうかと、他人をおとしめる心があるかどうかの点検です。大きくいえば、この二つです。他人をおとしめる心は、これもまあけっきょく自分だけが残ることになりますが、このようなものは少なくとも社会において有用なるものを生み出すという力には絶対にならないということです。

他の人が下がっていく、不幸になっていく、こういうものを見て喜ぶ気持ちがもしあったなら、これは明らかにユートピアの価値として、よき理念によって、思いによって、理想によってよきものを、よき建造物をつくり出すという、この考え方に反しているのです。

ですから、きわめて消極的な判定かもしれませんが、まず自分自身に成果を帰する心がないかどうか、また、他人を害するか、他人の不幸を喜ぶ気持ちがなかったかどうか、これはぜひとも点検していただきたい項目なのです。これがあるうちは、ユートピア価値の名のもとに行動しているとはいえないのです。

この二番目のことについてさらにいうならば、逆にいって、他人が上がることによって、おもしろくないという気持ちがあります。破壊的になる気持ち、極端にいえば暴れてみたくなる気持ちとか、いろいろありますけれどもこういうところをいえば、これもやはりユートピア価値ではないのです。他の人が、すばらしい服をプレゼントされて、うれしそうに着ている姿を見て、「何だ、あんな服。」といわなければならない心は、明らかにユートピア建設の逆を行っているということです。それはすばらしいとやはり認めなければならない祝福の心が要りますよといっているわけです。

他の人が出世をしたのを見て、「きっとゴマを擂(す)ったに違いない。」といいふらさなければ気がすまない心は、これはすでにもうユートピアをつくる力はないということです。他の人が出世したのなら、喜んであげることです。そして、なぜ出世したのかをよく考えて、自分に足りないところがあれば学べばよいのです。自分もそのようになろうとする心がだいじです。祝福の心が大切です。これは何度もいっているとおりです。これもユートピアを創っていくための力なのです。

この二点を、ますチェックしてほしいのです。これがユートピアに反する価値なのです。この二点です。


3.ユートピア出現のための公式


そして、さらに積極的なユートピア価値として、私たちが目標とすべきものはいったい何であるのか、これをユートピア価値として掲げるべきであると考えるものは、何であるのか。それは私たちは、まず他人の喜びを自らの喜びとすることができる、そういう心境を確立するということかだいじであると思います。個人の目標としては、他人の喜びを自分の喜びとすることができる、この心境をぜひとも確立する必要があります。これは、積極的なユートピア価値です。他人の喜びを自らの喜びとする。そう公言してけっして恥ずかしくない気持ちになったとすれば、これは大きな力です。これはユートピア推進のための原動力なのです。他人の喜びを自分の喜びとする。こういう人で世の中が満ちなければ、ユートピアは絶対にできないのです。

一人が幸福になれば、他の人が不幸になるというような関係であれば、世の中はほんとうに幸福に満ちることはないのです。そういう、パイの取り合い、ゼロ・サムのゲームではけっしてないのです。他人の喜びを自分の喜びとして喜べる人が溢れてこそ、ユートピア世界はできるのです。そのときに理想世界はかならずできるのです。まず、これは第一点として、肝に銘じていただきたい。他人の喜びを我が喜びとする、その心境をぜひともつくる。この考えがだいじです。

第二点は、自分の一生をかけてのこのユートピアに向ける仕事量です。これを最大限にするということです。一生をかけての仕事量とは、自分の人生の長さがあります。人生の長さ、五十年の人も八十年の人もあります。この人生の長さに掛けるところのユートピアに対する能力係数というものがあります。ユートピア係数です。これはある意味でいえば霊格です。六次元から来た方、七次元から来た方、八次元から来た方、こういう霊格があります。

ですから、ユートピアのために使った絶対時間、五十年であれば五十年掛けるところの、ユートピア係数、たとえば八次元から来たならば、〇・八、七次元ならば〇・七、六次元なら〇・六、五次元であるなら〇・五、四次元はちょっと難しい、〇・四ないしはマイナスのどちらかですが、マイナスがつけばその他の項はプラスなので、残りの項のすべての積としてはマイナスになります。どちらかです。

すなわちユートピアのために使った絶対時間、この時間掛けるユートピアヘの能力係数なのです。そして、さらには掛けるところの情熱です、これが入るのです。情熱の量、この総量がこれにかかってきます。これが公式です。

ユートピア出現のための公式は、このユートピア建設のための仕事量、この総量を、各人における総量をもちろん増やすとともに、全体における総量である、このユートピア建設のための仕事量の総合量をどうしても増やす必要があります。

そうしてみますと、今の考え方、まず年数、これはもちろん寿命と考えれば各人決まっていますが、ユートピアの建設にめざめてから活動した時間と考えれば、それは伸び縮みはします。長くすることもできます。短くすることもできますが、いろいろあります。十年、二十年、三十年、それは人によって違います。ですから晩年になっている人、これはもう短いです。五年か十年しかない。若い人の場合はこれが長いという有利さが絶対にあります。若い人の場合、五十年ある。晩年なら五年か二年か一年しかないかもしれない。ここはひとつ公式の上にいれてください。この年数が入ります。

そして次にくるものは自分の心境です。まあ共鳴し学ばれている方であれば、いろいろ試験も受けられたり、人と話をされたりしてだいたい推定がつくかと思いますが、学んでおられるみなさんというのは、最低限六次元ぐらいの心境でありたいとは思っていますから、五次元であると自分を思っている人はあまりいないのです。みんな六次元、最低六次元の下段階ぐらいには入っているとたいてい思っているのです。そう思わなければ、学びには来ないのですから、たいていは思っているのです。一応そのぐらいに考えているでしょうから、そう思える場合は〇・六ぐらい掛けてけっこうです。六次元のなかほどにいると思えば、〇・六五でもけっこうですし、ほとんど七次元と思えば○・六九でもけっこうですけれど、まあそのぐらいだと思ってください。そして、あとは情熱の量です。

そうしますと、実際に出てくる仕事量という結果は霊格とかならずしも比例しないのです。どうですか。みなさん、霊格はいろいろあるのに仕事量が違うのが不思議に思うでしょう。それは、この公式によるのです。すなわち、かなり最後になってめざめた場合には仕事量としては減ります。年遅くしてめざめた場合には仕事量が滅ります。あるいは、霊格が高くとも年数が少ないか、あるいは情熱が少なければ仕事の総量は減ります。霊格的に能力係数は低くとも、年数が長く情熱が大きければ仕事量としては大きな仕事ができるのです。

ですから、この掛け算において最高の結果を出すようにがんばってほしい。さすれば、五次元の住人であろうが、六次元の住人であろうが如来、菩薩に匹敵するような仕事もできないわけではないのです。総量としては、それだけの貢献ができないわけではないわけです。この総量を増やすことこそが、実際はユートピア世界を建設するための大きな力になるのです。