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目次



 3.自由の発見





1.未来型人間の理想像


さて、前章の考えの延長のなかにおいて、未来型人間として私たちが考えていくべき理想像はどのように描かれるべきでしょうか。これからいったい、いかなる人が出てくるのか。いかなる種類の人間が出てくるのかといった話もありましょうが、私はある意味において、人類には過去・現在・未来はないというふうにも思っているのです。もし、ほんとうの意味において、過去・現在・未来があって、それぞれ別の時代に別の人間が生きているとするならば、それはまったく違った景観が呈示されるのかもしれませんが、実際この三つの時代に生きていた、あるいは生きている、生きていくであろうと思われる人間は、ほかならぬみなさんであり、私であるわけです。その時間の座標軸のなかを貫いて生きている人は、名前は変わり、姿かたちは変わっても同じであるのです。

さすれば、未来の姿は現在にもあり、そして過去にもあったはずです。その色合いは違い、彩(いろど)りは違っても、その咲かせる花の姿が多少は違っているとしても、その原型はかならず、すでにあったはずです。すなわち、咲く花はどのような色合いになるかはわからないけれども、菊の花は菊の花として、チューリップはチューリップとしてその花の姿はあるはずです。色の出方は変わることはあるでしょう。花の大きさが変わることもあるでしょう。しかし、チューリップはチューリップとして、桜は桜として、菊は菊として、その花の形はおそらくあるでしょう。過去の私たちの姿のなかに、未来へ花咲く姿はすでにあるはずであると思います。

さて、このような観点から人類の歴史というものをふり返ってみますと、私たちがいま模範とすべき、そういう人間の姿、模範とすべき人びとはいったい、いつの時代に、どういう姿で生きていたのでしょうか。みなさんの心のなかには、いくつかの時代が浮かんでくるでしょう。しかし、私はあえてあげさせていただくとするならば、私たちがこれからきたるべき未来社会のなかで、未来型人間として生きていくその原型は永遠のギリシャにあると申し上げておきたいのです。

前章でも述べましたが、新時代に思いをはせるとき、はっきりと感じるのです。あの自由の雰囲気、繁栄・発展を求めていく雰囲気、これはかつて味わったことのある感じです。たしかに何千年かの昔に味わった感覚であるのです。じつはこの未来型人間というものは、このヘルメスの時代から始まったギリシャの繁栄を、近現代、そしてこれからの時代に投影して、その姿を変えていくものにほかならないのであると私は感じます。

さすれば、この今から四千二、三百年ほど前のヘルメスの時代にあって、今わたくしたちが見失っているものは、何でしょうか。一九八九年の一月からの月刊誌には毎号「愛は風の如く」という短い文章を連載してあります。この連載の内容からみなさんはいったい何を感じるでしょうか。それは単なる恋愛小説のようにも読めるかもしれません。あるいは、素朴な物語りのように見えるかもしれない。メルヘンのように読めるかもしれない。

けれども、そのなかに何か私たちが忘れていた懐かしい感触がないでしょうか。何かを忘れてはいないでしょうか。現代という名のもとに、日本という国のもとに、何かを忘れているのではないでしょうか。

このヘルメスの時代に数多く生まれて、ギリシャの国を創っていった人たちの多くは、また現代の日本に数多く生まれているのです。この魂群たちは、ギリシャに大量に生まれたあとインドにまた転生し大量に生まれ、その後また日本に大量に生まれています。それは、こうした魂群の人びとは、二つの課題をテーマとして生きているからです。

この二つの課題とは、極端に揺れる環境のなかにおいて、ほんとうの心とは何かを学ぶための課題であったのです。

一つは、あくまでも繁栄・発展を続けるなかにおける「正しき心の探究」であり、今ひとつは、この三次元世界が修羅場と化したなかにおいて求める厭世的(えんせいてき)な面もある「正しき心の探究」であったでしょう。すなわち、一方は限りなく外交的に、積極的に、外向きに人間が進んでいくときにおける心のあり方の探究であり、今一つは限りなく人間が内向的に、内に内にと沈潜していって神に出会うさいの心の態度であったでしょう。こうしたうねりのなかに、いつも集団として生まれてくる方がたは、常にこの両者を試され、そして魂において真の中道とは何であるか、ということを学習させられているのです。

それは、人間の心のスタイルにおいて、ひじょうに典型的な二つのスタイルであるからなのです。発展的・建設的積極的なイメージのなかにおける人間と、もう一つは一見消極的とも見えるが内にこもっていく、限りなく内向的に深く沈んでいく人間、この両者の人間はまったく別のものではなくて、みなさんの心のなかに住んでいる二つの魂であるのです。この二つの魂は、どちらかがめざめるときに、どちらかが眠るという関係にありますが、しかして片方だけが、みなさん方の実在ではなくて、この両者ともみなさん方そのものであるのです。ここに人生の不思議があり、ここに人生の神秘があります。

しかし、あえていいましょう。これからの時代を生きていく人間は、少なくとも仏陀の時代からヘルメスの時代へと移っていくのです。時代をさかのぼるように、過去二千六百年前から四千三百年前にさかのぼる逆流現象として、仏陀の時代からヘルメスの時代へ移る過渡期の姿が、時代的現象として現われ、その過渡的形態としての人間が大量に出てくるであろうということなのです。すなわち、それはどういう人間群であるかといいますと、まずみずからの心の内を知り、これを治めた後に、三次元世界のなかで、あるいは三次元を超えた多次元世界という、この私たちの箱庭のなかで、どうみずからを発展的に表現するかという使命を帯びた人間なのです。

すなわち、これからの時代に必要とされる人間像は、仏陀とヘルメスを融合した姿であるということです。これが一つの理想像としてあり、この姿に人びとは続いていくことになります。これをまず最初に申し上げておきたいと思います。

私たちは今、そうした過去を通り越してひじょうに難しい応用の段階に入ってきているのです。魂の学習として応用段階に入ってきています。片方が目を覚ませば、片方が目をつぶるという双子の魂のような私たちの実相が、今度は両者とも目を覚ましておれ、という神の命令を受けたわけなのです。両者とも目を覚ませばどうなるのか。それは、今から二千年前にイエスが言ったあの言葉、「この地上の国は、カイザルの国であるが、私の国は神の国、天にある神の国である。」この言葉を乗り越えねばならないという使命があるということです。すなわち、この地上的にもユダヤの王となるキリストの出現が必要とされる。そのような人の出現が必要とされ、それに続く人たちが出現していかなければならないということなのです。

話としては難しく見えるかもしれません。ただ、イメージとして語るならばきわめて簡単であります。仏教的生き方、そうした生き方をスタート点としながらヘルメス的生き方をそれに上乗せしていきなさいといっているのです。すなわち、みなさんはすでに過去数年のあいだに説かれた話のなかで、ずいぶん反省の話も聞かれたでありましょうし、その他自分の精神的あり方のチェックのしかたも聞いたでありましょうが、これからまだみなさんに、みなさんのあり方のなかに現われていないものとしての、かつてのギリシヤ的なるものがあるということです。それをみずからの内に発見し、みずからの外に実現しなくてはならないのです。それがこれからの三次元世界にしっかりと足をつけ、地面に足をつけての活動として予定されているということです。


2.内在する自然の発露


さすれば、いったい、何がみなさんがいま忘れ去っているものとしてあるでしょうか。まずいっておきたいことは、「心の透明感」ということです。ギリシャに象徴されるのは、あのマリン・ブルーの海、いやエーゲ特有のブルーといってもよいかもしれない。あのブルーに象徴される透明でありながら限りなく深い色合いです。それを私たち人間に当てはめるとするとどういうことになるでしょうか。たしかに単なる透明ではない。単なる透明ではないが、しかし限りなく透き通っている。限りなく透き通っておりながら深い色合いを持っている、そういう人間の出現であると思うのです。

この言葉は抽象的に聞こえて、なかなか自分自身のものとして納得することはできないかもしれません。しかしふり返って努力してその姿を描こうとするならば、意外に身近なところに発見があるでしょう。あなたの心というものを、いま、一つの海として見たときにどこまでの透明感があるか、透明度があるか。自分自身の内を眺めていったときに、どこまでそれは透き通っているか。

さすれば自分の内なる海を見るときに、その透明度が低くほんの五十センチ、一メートルしか見えないことに気づくでしょう。なにゆえに底が見えないのか、何ゆえに深い海が見えないのか、それを考える必要があります。それは、あまりにも余計な価値観を身につけすぎたということではないでしょうか。そのあまりにも余計な価値観とは何であるかというと、それは人間がつくり出したものです。神がつくり出したものではない。人間がつくり出したものにもかかわらず、それが現在ただ今のところ無批判に受け入れられているという考え方です。

この観点にさいして、私はなんとも料理のしにくい常識という言葉をもう一度持ち出さざるをえないのです。なまこのように切れず、うなぎのようにつかみどころのない常識という言葉、これに対して私たちは、いま一度神理のメスをふるわざるをえないのであります。

みなさんが当然としているものが、ほんとうに当然であるかどうか。よきものと考えていることが、ほんとうによきものであるのか。こう判断すべきものだと思っているものが、ほんとうにそのとおりのものであるのか。なにゆえにそう思うのか。だれかがいったから、あるいは、このように教えられたからというであろうが、なにゆえそのように教えられたのか。そしてそれを受け入れようとしているのか。これを考えたことがあるだろうか。

すなわち、透明度とは何であるかというと、まず、みずからの心の生地、この純粋なるものから発するものを信ずるということなのです。ここから出発しなければならないのです。したがって、与えられたものを中心に判断していってはならない。そうではなくて、自分自身の自然なる姿は何であるのか。その自然なる姿に照らして、自分の思いと行ないを見たときに、いったいどこが不自然であるのか。不自然になった理由はなぜなのか。それはかならずなんらかの押しつけがそこにあるはずなのです。不自然ならしめ、体をぎごちなくならしめるものがあるはずです。それはいったい何なのだろうか。そしてそれは正当なものなのだろうか。これを考えていただきたいのです。

私たちは、あまりにも多くのものを身にまといすぎている。そういうことなのです。それも必要以上に、まるで凍(い)てついた真冬の野原を歩くように、数多くのものを着込み、着込みしすぎている。そして私たちが今生きているこの季節が、新緑の季節であるということを忘れ去っているのではないだろうか。

発想の原点は他人から来たものにあるか。あるいは他人の共通概念であるところの社会の集合的判断からきたものであるか。あるいは伝統的にそうだといわれていた、その伝統的判断からきたものなのか。それとも、自分の真心からごく純粋に、すなおに出てきたものであるのか。これを考えていただきたいのです。

これは、今までみなさんにお教えしてきたところの反省という観点とはちょっと違います。この違いを知っていただきたい。反省という考え方を神の目から見て、あるいは神理から見て、現在の自分の行ない、思いはどうであるか。このようなことを中心に私は話をしてきました。しかし、いま述べていることはこれとは違います。この違いがわかりますか。

それは、みずからが思いを起こし、行動を起こすさいに、その思いと行動はみずからに本来備わっているところの源から純粋に出ているものであるかどうかを確認せよといっているのです。これは違った種類の教えです。この違いを知ってください。みずからはこうしなければならないと思っているが、それはどこからの命令であるのか、指示であるのか。どういう要請があって、自分はそうしているのか。これを考えてほしいのです。

それは、私たちを単なるあやつり人形から解き放とうとする考え方なのです。知らず知らずのうちに文明というそうした喧噪(けんそう)の社会のなかに生きていて、私たちは自分たちが数多くのピアノ線、目に見えない糸によってぶら下げられているピノキオ人形であるということを忘れていることが多いのです。そのような糸でつらなければ、手が動かないと思っているのか。足が動かないと思っているのか。首が動かないと思っているのか。それをもう一度みずから自身に問え、と私はいいたいのです。

すなわち、ヘルメスの時代のこのギリシャの基本的思想は、内在する自然の思いに忠実に生きていくことこそが善であり、その内在する自然は、あのギリシャの風土に象徴されるように、かくまでも美しく、かくまでも透明であり、それほどまでに人びとを調和の思いに導くものであると考えられていたのです。この違いがわかるでしょうか。すなわち今のみなさん方の多くは、ピノキオ人形といってわからないのであれば、ちょうど五月人形、紙の兜(かぶと)をつけ、いろいろな鎧(よろい)に似たものをつけている、ああした五月人形に近いといってもいいかもしれないのです。いろいろな鎧をつけている。それは自分でつくったものだけではない。与えられたもの。鎧がいいといわれているから着ているにすぎないのです。

しかし、それはごく当然のことなのかどうか、もう一度考えていただきたい。哲学者でなくともよい。人間であることによって、当然発生する疑問であるのです。なぜそういう生き方をせねばならないかということを、典型的な例で問うてみましょうか。たとえば、なぜ学校に行かねばならないのですか。なぜ、大学に行かねばならないのですか。なぜ、会社に就職しなければならないのですか。なぜ、結婚しなければならないのですか。このように、いろいろなことがあります。

当然という価値基準があります。このように生きて当然という考えがあって、そしてその共通項目があります。基準があります。そして、その基準から外れると人は苦しみます。この "なぜ" に答えられないから苦しんでくるのです。そして、他の人とのギャップを知り、嫉妬心で身をこがしたり、劣等感で自分自身をさいなんだりします。このなぜというのに、ほんとうに答えてみたことがありますか、なぜということに。なぜそうしなければならないのか。なぜ、なぜ、なぜ、なぜ……。


3.自由の発見


不思議なことで世の中は満ちています。まったく不思議です。この世の中は目に見えない、いろいろなもので縛られているように見えます。ちょうど私の目には縦横無尽に針金のようなものが、張り渡された社会のように見えます。密林のようです。針金が縦横無尽に張り渡されていて、このなかをくぐっていくのはたいへんです。体を曲げたり、ひねったり、這(は)ったり、いろいろなことをして進んでいかないと進めない。そういうような社会が目に映ります。そしてそれを当然としているのです。みなさん方は当然としています。なぜ、なぜ、これを考えたことがないのですか。

なぜ地価は高い、これを考えたことがあるでしょうか。なぜ、束京、大阪、こういう大都市の地価は高い。人間一人が一生で稼げる金額が一億だ、二億だといわれているのに、なぜ土地は何億もする。そして、なぜそれを不満にいわない。なぜ、暴動も革命も起きないのか。そして高いということを当然とするのか。なぜ、なぜということです。

いろいろなことを考えてみてください。世の中は不思議なことがいっぱいあります。なぜそうなのだろうか。不思議です。政治家になる人はなぜ尊敬されるのでしょうか。あるいは尊敬されていたと思うと、なぜ突然、国民に対する犯罪人のようにいわれたりするのでしょうか。このなぜというのを考えたことがあるでしょうか。前章でも話しましたが、なぜ宗教は、こういうふうに思われるのだろうか。

こうしたことを考えたことがあるでしょうか。こうした "なぜ" に答えたことがあるでしょうか。そして、それは自分自身のごく自然に盛り上がってくる、突き上げてくる感情から見たときに当然のことなのでしょうか。そうではないのではありませんか。これを知っていただきたいのです。

すなわち、この過去のギリシャにあった理想の姿は、あの中国において孔子が一生かかって求めて、そして「七十にして、己れの欲するところに従いて矩(のり)を越えず」といった心境を、そうした経験を通してではなく、人間の生まれつきの生地(きじ)にすなおに生きることによって、矩を越えない、そういう理想社会の出現、これを意味していたのです。各人がみずからの内なる自然の感情に則(のっと)って思い、行動して、そしてそれぞれが生かし合っている世界の出現、こういう考え方もあるということなのです。

そのためには、まずみなさんは、ほんとうの意味で自分にまとわりついている、いろいろなものを捨てなければならないと思います。そして、一つひとつのことに対して、子供が質問を発するようなごく自然の疑問を持たねばならないと思います。ごく自然の疑問です。

そして、いいたいことは何であるかといいますと、「みずからを解放せよ」ということなのです。霊的な目でみれば、手も足も首もいろいろなものでがんじがらめになっている。そして、がんじがらめにしているのは、それをそのままにさせている自分があるのではないかと、そういっているのです。

人間は本来自由であるのに、いたるところで鉄鎖につながれているといった哲学者もおりますけれども、自由を知るということは、必然的にこうした縛りを認めないということなのです。押し着せの価値を認めないということなのです。

本来自由であるということは、あの透明感あふれるエーゲの海において、何一つまとわずに海を泳いだところで、何も恥ずかしいことはなく、ただ歓びだけが満ちているような、そうした世界であるのです。それをなにゆえに、かくまでに不自由な世界としたか、縛りの多い世界としたか。それは、文化や文明という言葉だけで説明かつくものではないはずです。そうではなくて、みなさん自身のなかにつながれておくことをもって善しとし、縛られることをもって善しとする思いがあったのではないか。それを知っていただきたい。

ここで、私がいいたいことは「自由の発見」ということでもあるのです。反省とか祈りとかが、長ずるにしたがって人間には必要になることはありますが、それは不自由に生きてきた人間が何とかして本来の自己に戻ろうとしている姿であるのです。しかし、そういう段階まで行かねばならないまで、何ゆえに我慢をするか。何ゆえにだまっているか。何ゆえに共同して堪え忍んでいるのか。もっと以前に、もっと前になぜ本来の自己の自由というものを知らないか。

本来の自由とは何かというと、ダリヤの球根にはダリヤの花が咲き、桜の木には桜の花が咲く。アサガオの種を蒔けば、アサガオが咲く。そのように、ごく自然に神が予定されているところの美しき調和の姿を現わすということです。

なにゆえに、他の人の存在によって、介在によって、その価値観によって自分をねじまげようとするのか。なぜ、アサガオの蔓(つる)にユリの花を咲かそうとするのか。なぜユリの花に菊の花を咲かそうとするのか。そんなことをせずとも、それぞれの花はそれぞれに美しく咲いている、それでよいのだということ。

すみれの花がいったいどれほどの仕事をしているかは定かではないけれども、すみれの花は大いなる宇宙の摂理のもとに、神の命のもとに、すみれであり続けるということを願いとし、すみれはすみれの使命を実現するために、見事な花を咲かせ、そしてその場所が野原であろうが、山であろうが、岩場であろうが、それを厭(いと)わずにただ無心に咲いている。こうした純粋さをいつ私たちは忘れたのでしょうか。

すみれがすみれの花を咲かせるために、いったいいかなる制約があったでしょうか。どのようなものが邪魔をしているのでしょうか。そんなことを、すみれはたぶん考えていないはずです。風が吹いたから花を咲かせられないとか、そんなことは考えていない。ごく自然に伸びていかんとして伸びている。そういう姿があるはずです。

私が今、みなさんに訴えたいことは、自分の内にあるこの自由の芽というものをはっきりさせなさい。それを伸ばしてゆきなさい。けっして他の人に咲くべき花をみずからに咲かそうとするのではなく、みずからはみずからの花を自然に咲かそうとしなさい。そこに何らの衒(てら)いもないはずです。何らの奢(おご)りもないはずです。ごく自然に咲かせるべきものを咲かせなさい。こういっているのです。

これは、今までみなさんに語ってきたこととは違った第三の教えです。本元なるものを、本元なるものとして、伸び伸びと伸ばしていく。目に見えぬものに縛られた私たちを自由とし、本来の姿に戻す。そしてあるべき花を咲かせていく。こういう考え方です。まず、これを知ってください。

この出発点は二つの作業からなるでしょう。一つは、自分が縛られている現実を直視すること。そして、第二は自由の発見です。

本来何の邪魔もなく、自分が素直にスクスクと成長し、そして世の中になんらの障害もなく、自分の自然な感情に基づいて生きたとしたら、どう人生を展開したか、それを考えていただきたいのです。それが本来のみなさんの生き方であったのです。どう、本来は展開したか。いろいろなものに邪魔されたように思っているかもしれないが、ほんとうはそうではない。それは受け入れてはいけないものを受け入れ、受け入れなければならないものを受け入れなかった、私たち自身の過(あやま))ちでありましょう。

どうかこの本来の自由の姿、これをもう一度思い起こして欲しい。他人のせいにするではなく、まわりのもの、環境、こんなものを考えるのではなく、ごく自然に自分が育ち、そしてふるまい生きてきたら、どうなったであろうかということを知っていただきたい。

これが、これからの未来を生きていく人間にとって、どうしてもだいじなことなのです。


4.内なる価値基準にしたがう決意


私たちが累々(るいるい)として重ねてきた文化の、この蓄積が反古(ほご)にされる時代が来ようとしています。そうした時代においては、過去伝統的にこのように生きてきたから私たちはこう生きていかねばならないという、そういう考えはまったく通じなくなるのです。そのときに、神の声に頼ろうとする人はいるでしょう。しかし、人びとが神の声にすがろうとするときに、もはや神の声を伝える人は地上にはいない。そのときにどうするのか。そのときに頼るべきものは、本来の自己内部にある、この自由の発見であり、この自由の発見から、自由の芽を育て伸ばしていくということです。人間が営々として築きあげてきたもの、価値あるものと思っていたものが、崩壊する時期が近づいているのです。

すべてを取り去られ、精神的焼け野原のなかで、あなたがたは何をもって行動基準とするか。何をもって人間の生きていく道しるべとするか。それは、各人がみずからの原点に帰らねばならないということを意味しているのです。今まで、善しとしていたことを、価値あるものと思っていたことをすべて取り去られたときに、何が残るか。有名な大企業も消え、有名な大学も消え、年収も消え、すべてが消えたときに、何が残るか。そのときにでも、また自分が人間であるということを開始することができるか。人間であるということを続けていくことができるかどうか。

それは、この今述べた考え、これを持って立ち上がる以外にないのです。各人の自然な姿に戻れ、その心は、心の原点は信頼すべきものであるのだということを、すぐれたものを内包しているのだということを信じ、それを素直に生かしていくことです。

何度でも新たな文明を興こすぐらいの覚悟がいります。その出発点はいつもここにある。絶えず純粋に透明感にあふれた考え方をし、透明感にあふれながら深い深い色合いをたたえていくような私たちでなくてはならない。この深い深い色合いとは、自らの本来のこの自由を阻害することなく、しかも知識を、経験をまた新たに蓄積していくことを意味するのです。

私たちはまちがった経験や、まちがった知識を、あまりにも長い間、身にまといすぎました。それは、人間一代だけのことではなく、数世代、数十世代、数百世代にわたってまちがった知識や経験を積み重ねてきました。

そうしたまちがった知識や経験のなかで生き死んでいった人たちの姿は、霊的に見るならば、屍(しかばね)累々です。かつて人間の姿をとっていたものが屍となって、何千メートル、何万メートルも積み上がっているように私には見えます。これだけの無残な死骸が集まっているのを見て何とも思わないのか。それが今文明の総決算だとして、あなた方はそれを認めることができるのか、受け入れることができるのか。こんな屍が山積みになっている上に生活をしていて、そうして、それで最高度に自分たちが幸せであると、ほんとうに思っているのか。これを知らなければなりません。

さすれば、この屍の山を去れ。この屍の山の上を住み家とするのはやめなさい。この山から降りよ。そして、また一から始めなさい。これは大切なことです。今、こうした原点として人間に、ほんとうの人間にいま一度戻り、その状態に戻って出発をしていくために必要なことは、勇気です。これしかありません。この勇気は、しかしながら蛮勇を意味しません。蛮勇でもって戦えといっているのではないのです。この勇気はささやかなる勇気です。

それは、外なる価値、外なる価値基準を鵜呑(うの)みにしたいという誘惑に打ち克って、みずからの内なる価値基準にしたがおうと決意すること。それだけなのです。簡単なことです。外なる価値基準ではなく、内なる価値基準にしたがって生きようと決意すること。この決意の勇気こそが必要なのです。