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目次








1.カイザルの手から神のものを取り戻せ


前章において未来型人間としてあるべき原点が明らかにされました。しかし、それだけがすべてでは、もちろんないでありましょう。さらにこの次なるものがあるはずです。それは、ある意味において、私たちが今まで宗数的には罪と決めてきたこと、そして罪を犯した結果、罰というものを受けるとされてきたことがらに対して挑戦していくということになります。

この自由の姿において、過去の文明や文化がつくってきたと十把(じっぱ)一からげにいえることだけではなく、神から出たと思われて、そして人間の間に堆積してきたこうした教えをも、勇気をもって突き破っていかねばならない。あの藁葺(わらぶ)き屋根を突き破る竹のように、勇気をもって、こうした罪の観念と戦わねばならぬ。なにゆえに、それが罪であったのか、なにゆえに……。まさしく、より高次な戦いがここにおいて始まります。

一般的にみなさんを縛っていたもの、そうした価値というだけではない、次には罪として、神の手のもとに、みなさんの額に刻まれたこの十字架を疑わねばならないときがくるのです。それはいったい何であろうか。それは、過去の聖人たちが生きていた過程において、誤った、たった一点のことがらにかかわっているのです。それは、正しくあらんとして弱かったこと。よく生きんとして消極的であったこと。こうした過去の偉人たち特有のこの弱さです。弱さとの闘いがある。

私たちが罪という名のもとに、一からげにして考えていたものは、ちょうどあのアマゾンの探検をみなさんが志したときに人びとはどういうか、その反応と同じであるのです。危険であるからやめておきなさいというでしょう。命がなくなるかもしれませんよというでしょう。それはごく一般的な考えであって、正論でもあるでしょう。しかし、それはアマゾンの奥地に分け入ろうとする私たちを、いつまでもとどめておくことができる口実ではないのです。

私たちは真実の勇気を持ったときに、そうした一般的に危険だという名の観念でもって押しとどめられていてはならないのです。勇気を持って力強く立ち上がり、過去の殼を撃ち破ってゆかねばならない。それは、いくつかの方面から考えられることでもあります。しかし、あえていうならば、私は「カイザルの手から神のものを取り戻せ」と言いたいのです。それは、神理の観点からみて、価値なきものにこの地上での勝利を収めさせてはならないということなのです。

罪という名で避けていた数々のことがら、あるいは戒律という名で避けていた数々のことがら、こうしたものに勇気を持って私たちはいま戦いを挑まねばならないのです。

私たちの目の見えるところ、また目に見えぬところに神の光が射していないところはないのです。さすれば、いかなる場所においても、いかなる空間においても、いかなる時代においても、いかなる人たちにおいても、宇宙のどの点においても神の存在を許さない、そうした空間はありえないのです。ましてや、この小さな地球の小さな地上世界のなかにおいて、そうした存在は許されるものではない。それは、ひじょうに厳しい言葉かもしれませんが、ある意味で、この三次元世界における革命であります。神理の尺度に照らして価値なきものを青竜刀でもって切って捨てるという荒作業であります。

今までどれだけ多くの人たちがそれに価値ありと評価をし、それを威厳あるものと認めていたとしても、神理の名のもとに壊さねばならぬものは、壊さねばならぬものとして、現われてくる。そういうことなのです。

それはいったい何でしょうか。これは結局において先ほどからお話ししているところの、真に自由なる人間が真に自由を発現する過程において、縛っていたものが、鎖が足かせが外されていく過程でもあります。私たちは、この地上において真の人間として生きる権利がある、いや生きる義務があるのです。私たちが真に自由なる人間として生きんとして、これを阻んでいるものに対しては、断固としてこれを破砕せねばなりません。これは徹底的にやらねばなりません。そのさいにおいて妥協はないのです。

地方での連続講演を第一回目は一九八九年二月に開催いたしました。そのときに、ある公的会場をお借りしましたが、そういうところでは、宗教には会場は貸さないということで、私の話をその会場の責任者が終始聞いて点検しているというありさまでありました。それが宗教にあたるかあたらないかを判断する権限があって、もし宗教にあたるとそこで講演はやめてもらって出てもらうという話でありました。そういう条件のもとで、私は、みなさんの前でお話をしたことがあります。

しかし、こうしたことは、いつまでも許されるべき屈辱ではない。そのようなことを、そんな間違った判断をさせてはならない。本来的に値打ちのある、本来すばらしきものを、それをごく当然に花咲かせる過程において、この花が咲くことを阻害する動きは断固として破砕せねばなりません。竹の子が屋根に当たればこの屋根を突き破るまで、そうせねばならないのです。

すなわち、今、ユートピア価値革命へと向かっていく私たちにとって、これを単なる精神的活動として押さえている時期は、もう終わりが近づいてきているということを、私は明言せんとしているのです。私たちの運動は、地上的なるいかなる定義を付すことも許さない、そう私は思います。これは宗教でもない、思想でもない、信条でもない、経済でもない、政治でもない、教育でもない、科学でもない、こうした一切のものではなく、また一切のものである、それが私たちの動きです。


2.透明感の深い情熱


それは、個人個人の単位を取ったならば、本来自由なる人間が立ち上がっていく、そうしたプロセスでありましょうが、もっと大きな目で見るならば、この三次元世界というのは、神様の、神の花園であったが、番人がいないということをいいことにして、この神の花園を荒らし続けてきた、そうした人びとの、あるいは人とはいえないものたち、すでに地上を去った者たちの暴挙は、これ以上はもう許さない。今、神の使命を帯びて、その番人が出てきた以上、もはやこの花園をこれ以上荒らすことは許さない。

私たちの運動は、個人個人の小さなユートピア化運動を超えて、大きな神の体が三次元世界において、その眠れる巨体を起こしていく過程にも似ているといえましょうか。本来、すべてを所有している人のもとにすべてを返す。この世でもあの世でも本来、主であった人のもとにすべてを返す。そうした運動です。

本来あったものを、本来の姿として現わすこと、それこそが自由にほかならないのです。私たちはこうした大きな自由という理念のもとに、いま新たな活動をしてゆかねばなりません。立ち向かうべき敵があるとはいいません。しかしながら、手枷(てかせ)、足枷があるならば、これは振りほどくまで、切り裂くまで。これだけの決意はいると思います。

私はこれより後、特定の方向にのみ導くをもってよしとは考えません。可能なかぎりあらゆる領域において、あらゆる世界に対して、あらゆる人びとに対してアプローチを開始していきたいと考えます。そのさいに必要な心がけはいったい何であるか。それをみなさんもともに学んでいただきたいと思うのです。

それはまず第一点において、みずからの情熱に私心がないかどうか、"わたくしごころ" がないかどうかこれをよくよく考えていただきたい。いくら情熱が燃え上がったところで、"わたくしごころ" があったら、この情熱は大火事になるだけです。そうであってはならない。この情熱を限りなく透明感の深いものとせよ。透明感の深い情熱とせよ。限りなく無私となれ。無私となるということは、燃え立とうとせずに、自然に燃え上がる炎のようになれといっているのです。

私のいっていることの意味がわかるでしょうか。自分のための火とするな。人生を私物化するな。私有化するな。自分個人のものだと思うな。そこに尽きているのであります。みなさんは、手もあり足もあり、目もあり鼻もありロもあると思っているかもしれませんが、みなさんは神の目から見れば一個の固形燃料です。燃料の固まりなのです。これに火をつけて炎を燃やす、それが人間の使命なのです。燃え尽きるまで燃やす。そこにおいて、はからいごとがあってはならないのです。いいですか。まず、情熱において私心を去れ、"わたくしごころ" を去れ、人生を私有化するという、個人の所有にしようとする思いを去れ。そのなかにおいて情熱を高めよ、燃やせよ。炎を透明とせよ。透明なる炎こそ、高温を保つことができるということを知れ。そういうことです。


3.限りなく知恵ある者となれ


第二に必要なことは、私心なき情熱のあとをうけて、限りなく知恵ある者となれということです。頭が一個あるぐらいでは足りない。みなさんは頭を四個も五個もくっつけているぐらいの、そういう知恵ある者となっていただきたい。そんな一個の頭、二十年ぐらいの学校教育を受けて、そのあといくばくかの社会経験を得たぐらいのそんな頭では通用しない。これから必要とする頭は、みなさんの四倍も五倍も十倍もそれだけの容量を備えていかなければいけない。

この知恵はどこから出るか、それはもちろん地上的な努力のなかからも出てくるでありましょう。しかし、それ以外からも出てくる。それは内在する自分の本来の力に気づけということでもあります。みなさんは、自分に魂の兄弟というのがあるということを、私たちの本で学んでいるはずです。それはあるということを活字で見ただけであって、自分のものとなっていないでしょう。魂の兄弟がいるということはどういうことですか。肉体に入っていない自分自身があるということでしょう。その自分自身は使っていないということでしょう。違いますか。手が十本あるのに二本しか使っていない、頭が六個あるのに一個しか使っていないことと同じではないですか。

なぜ、本来の自分がもっているすべての知恵を使おうとしないか。すべての知恵を使うのは難しいことではないのです。それはごくごく簡単なことであるのです。先ほどから何回もいっておりますように、この三次元に生きながら三次元特有のもの、魂を縛っているもの、この鎖を切ったときに彼らは活動を開始するのです。三次元にいて三次元を超えよ。この世にいてこの世の人となるな。この世にいてすでにその身、霊人となれ。こういっているのです。それを私は鎖を切れとか、魂を透明にせよとかいろいろなことをいっておりますが、三次元的な縛りをとらないかぎり絶対にみなさんの本来の知恵が出てこないのです。そのために何の必要があるか。釈迦がかつて執着を断てといいました。執着という言葉で表わしましたが、それは何かというと、毎日いろいろな立脚点のもとにいろいろな条件のもとに生きている、そういうみなさんでありましょう。

人間であるということは、条件づけられた存在であると考えているでしょう。肉体的条件、また食糧や金銭や空間などといういろいろなものの条件によって、自分が現在あると思っているでしょう。しかし、この世的には、たしかに人間というのは条件づけられた存在ではあるが、この条件づけられた存在であるということに満足してはならない。この条件づけられた世界のなかにおいて、条件づけのない人間となれ。すなわち時空間を超越せよ。この世界にいて、この世界を超えよ。人間生活をしておりながら人間生活を超えよ。そうしたものに縛られない本来の自分自身に気づけ。その姿を取り戻せ。

そのときに、内在せるみなさんの叡智はかならず働きはじめます。何度もいっておきます。みなさんの一個の頭では足りない。頭を四個も五個も取り出してほしい。そういう知恵がなければ、これからの時代を変えていくことができない。この頭脳、こんなものは諦めなさい。こんなものではだめだ、通用しない。もっともっと四個、五個と出してきてください。五個も六個も出してください。そして、そうした力を使ってほしい。そうでなければ、ユートピア価値革命などはできやしない、絶対に。もっともっと、この世だけではない、すべてのものを総動員しなければいけません。これが二番目です。


4.発展のなかにおいて発展を超えよ


そして三番目にいうことは、「発展のなかにあって発展から外れるな。」ということです。発展していく過程に私たちの心のなかに甘い誘惑が忍び込んできます。それは怠惰という名の誘惑です。怠け心という名の誘惑です。現状のままでいいのではないかという、そういう誘惑です。こんな誘惑に負けてはならない。断じて発展から目をそらしてはならない。発展のなかにあって、発展についていくのみならず、発展のなかにおいて、発展を超えることによって、自らの心に余裕が生まれるということを知っていただきたい。

これから大きな力が起きていくでありましょう。そのさいに、目の前に展開されていくドラマに、ともすればついていけなく思うこともあるでしょう。それは、発展のなかにおいて発展に遅れているからです。発展のなかにおいて、発展と同速度に動く人は、それは現状のままのようにも見えるでしょう。しかし、願うのは、私が乞い願うのは、発展の流れのなかにおいて、発展を超えよ。それは、今年に生きておりながら、みなさん心はもう来年に生きてほしい。三年後に生きてほしい。十年後に生きてほしい。五十年後に、百年後に千年後に生きてほしいということであります。

すなわち、現在自分が立っているところの、この座標、時間の座標、空間の座標、人の座標、こうした一点にある自分を、これを当然だと思うな。今、自分の肉体の影はそこに映っているかもしれないが、みなさんの理想とすべきは発展の先にある姿である。もっと先にある自分を、時間の軸のなかにおいて、もっともっと先にある自分というものを確実に知っていただきたい。そこから現在の自分をたぐりよせるのです。まちがってはならない。

現在自分が山の麓(ふもと)にいて、これから山を登ると思ってはいけない。先を行く自分を見よ。八号目を登る自分を、頂上に登った自分を見て、そのもう一つの自分が、今、山の裾野にある自分をたぐり寄せるようでなければ、発展のなかにおいて心の調和を保ちつつ生きていくことはできない。よいですか、遅れてはならない。発展のなかにおいて発展を超えよ。時間の系列のなかにおいて、現在を超えよ。それが、私がいいたいことです。

以上、三つの点をあげました。ユートピア価値革命はあくまでも現実社会における実践の力として現われてくるべきでありますが、それは出発点においては、やはり個々人に始まる。個々人に始まって個々人を超え、そして神の巨大な体の動きのように、その動きは統一され止揚されてゆかねばなりません。そのために私たちの活動がある。この原点を知っていただきたいと思います。

共にユートピア価値を目ざしてがんばりましょう。