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目次








1.発展の基礎としての貨幣経済


本章ではユートピアと経済について、とくにテーマを設けて解説を進めてみたいと思います。

従来、ユートピアというものを精神的なるもののみにとらえる向きがありました。その考え方に対して、本書ではユートピアをこの地上生活の生き方、地上世界とのかかわりにおいて考え直してみるという試みを提示しております。

そこで、この地上にユートピア世界を建設するために、現代、きわめて大きな力を持っている経済の問題をどう考えるのか、それを検討してみる必要があると思います。すなわち、この経済はユートピアに真に貢献することができるのか。また、ユートピア創りのなかには、経済をどのように織り込まねばならないのか、ということであります。この金銭に対する考え方は、伝統的宗教の流れにおいては、どちらかというと否定的に取り扱われてきました。それは、執着を呼ぶもの、この世的なるものという形で、ユートピアの埓外(らちがい)におかれたことが多かったと考えられるのです。

しかし、現代の社会というものをもう一度見回して見るときに、ここにあるのは発展の姿であり、発展の基礎としての貨幣経済である、ということがいえると思うのです。すなわち、貨幣経済は発展をつくっていくための血液の役割を果たしているように思えるのです。この貨幣というものに対して、文化は新たな定義を与えているということを人びとは知らなければなりません。昔の貨幣というものは、貨幣そのものは、金であったり、銀であったり、銅であったりという高価な金属でできていて、それそのものが存在的な値打ちを表わしているものでした。

ところが現在はどうかというと、もちろん貨幣のなかには金属を使ったものがありますが、大多数のものはいわゆるペーパーマネー、紙幣であります。それは、まったくの紙屑同然というのが、その材質そのものの値打ちであります。しかし、その紙屑同然のものが値打ちあるものとして使われている。それは、紙幣というもの、そのものが値打ちがあるのではなくて、紙幣というものは、これはじつは簡単な契約書であるということを知らなければなりません。それに千円という値打ちをつければ、これでもって千円という価値を表わすものだという取り決めがあり、それを授受するときにその千円の価値を認めるという契約が成り立っているのです。一万円札も同様であります。

すなわち、現在では、このお金の値打ちというのは、お金そのものの値打ちではなくて、お金が表わしているところの値打ち感覚を信ずるという契約が、その紙幣を媒介として成立する、と考えてよいでしょう。したがって、私たちがともすれば執着の権化として軽蔑しがちであった金銭、および金銭に代わるものとしての小切手、手形、その他のものは、すべて信用とまた信用に裏打ちされた経済単位を表わしている、そういう契約書なのである、と考えてよいと思います。

そして、貨幣経済そのものは発展の形式をより円滑にするためにつくられているものだ、というふうに考えていけばよいと思います。そうすると結局はどう考えればよいかということですが、貨幣経済そのものは、ユートピア増進の方向に使われる分にはまったく問題がない、というふうに考えてもよいですし、ある意味においては、ユートピア構築のために是が非とも必要なものであるといってもよいでしょう。

宗教の全般が嫌われる理由のひとつとしては、お布施とか献金とかいう形で多くの富を吸い上げて自分たちの大殿堂をつくるという点があげられるでしょう。ただ、これは現代的に考えるならば、何らかの貨幣経済的基礎をつくらねば、この世において確固とした基盤・土台はつくることができない、というのが真実であります。こうした神理の世界においても、何らかの経済的活動が必要とされているのが現実です。したがって、ユートピア創りといっても、その理念のなかに、きわめて合理的で建設的な経済の考え方が入っていってよい。私はそのように思います。


2.ユートピア創りのなかに需要を喚起する


そうすると、ユートピアと経済に関して新たに考え直すべき柱というものが出てまいります。その柱とは何であるか、私はこの柱を三本に集約して考えてみたいと思います。

第一の柱、これはユートピア創りというもののなかに、需要を喚起させることであると思います。経済は需要あるところに動いていくことになっています。したがって、今後ユートピアと経済のテーマを考える際には、ユートピア創りというものに需要そのものを喚起させる必要があります。そうしたものを起こしていく必要があると思います。

ではなにゆえに、ユートピア創りが需要を引き起こすのか、これを考えてみましょう。そうしてみると、そこには人間の根源的な欲求があるというふうに考えられるでしょう。人間の根源的欲求とは何であるのか――それは幸福になりたいという欲求です。この幸福になりたいという欲求をかなえるためには、人間はあらゆる活動を開始せざるをえなくなってゆきます。さすれば、ユートピア創りをすることによって、いかに幸福な日々が手に入るか、幸福な生活が手に入るか、幸福な仕事をすることができるか、これを考える必要がありましょう。

こうしてみると、ユートピアのその悦びとして提供できる内容、これが明らかにされる必要があるのではないでしょうか。ユートピアを実現したときに、いったいどういう状態になり、それがどのように各人の幸福感にはね返ってくるのか。それが明らかにされる必要があると思うのです。これをまず、第一の柱として考えたいと思います。


3.価値選択性の強調


第二の柱、それは経済原則のなかで価値選択性というものを、もっともっと強調する必要があるということです。この価値選択性ということは、わかりにくいかもしれませんが、現在の価格システムそのものの改良ということになります。それは、価格決定のメカニズムそのものでもあります。もう一度、どのようなメカニズムによって価格が設定されているのか、それを再検討してみる必要があります。

すなわち、価格の決定において、どういう要素が入っているかというと、たとえば製造のコスト、流通のコスト、あとは売れ行き、こういうものでしょう。これによって基本的なコストが定まっています。しかし、これでひじょうに困ることは、価格による差別化現象というものが少ないことです。

魚にも値段がありますが、少ない魚は高い値段がつき、よく獲れる魚は安くなるという現象がありますが、もしこの魚に、たとえば信仰的なものを加えたとしたらどうなりましょうか。この信仰的なものというのはわかりにくいかもしれませんが、たとえば、魚のなかで、鯵(あじ)なら鯵という魚を取り出して、これはひじょうに霊的にも優れた魚であって、この魚を食べることによって健康になるというふうなイメージが、もし一般に浸透したらどういうふうになるかということですが、この鯵そのものに付加価値が加わり、そして高級感が出てくるようになるでしょう。

違ったかたちでは鰻(うなぎ)というものがありましょう。鰻は蒲焼きという、あのような食べ方を発明されたことによって、高級魚の仲間入りをし、高級感が出てまいりましたが、もともとはそんなに値打ちがあると思われていた魚ではありませんでした。それはドジョウの親戚であり、蛇の親戚であるというような、そうした気持ちの悪いものであると思われていた鰻が、夏バテにひじょうに効く高カロリーの健康食品であると考えられることによって、高度付加価値を生んで高級感をもってきたのです。

そして、その高級感そのものは、人びとに負担感を強いるものであるかといえば、かならずしもそうとはいえない。高級感があるが、それを食べることによって健康になると信じることによって鰻に値打ちが出てくる、鰻は一匹一円、二円であって、毎日食卓で食べられるものであれば、それだけのありがたみがない。しかしながら高級感があるがゆえに、いつもいつもは食べられない。それゆえに食べたときには元気になるような気がする。そういう意味合いがあります。

こういうことが、それ以外のところでもありうるということです。たとえば、現在、書店に並べられている本では、同じ形をして、同じ厚さであり、活字の量がほぼ同じであれば、本の値段はだいたい同じになっています。そして、その中身の善し悪し等についての判定は、本の売れ行き、その売れる部数そのものだけで判定される、というふうになっています。しかし、これは考えてみれば、まことにおかしい話であります。どのような著者が書いた本であっても、二百ページそこそこの内容であれば、すべて一律千円付近の値段がついていますが、これは考えてみれば、商品としての値打ちがなんら提示されていないということになりはしないでしょうか。まさしく、そうであるというふうに思えるのです。

どれが高級な本で、どれが高級でない本なのか、定価だけを見たらまったく差別がありません。また、売れ行きで判定するという考えもありますが、売れ行きそのものがその本が名著であるかどうかを表わしているかといえば、かならずしもそうではないと思えます。いわゆる俗受けをする本ほど、よく売れていることもある。

こうしたことにおいて、出版業界は一つの良識ある考え方を展開せねばならないのではないでしょうか。すなわち、定価を決定するさいに、その本の値打ちというものが表わされる必要があるというふうに思います。この値打ちを織り込むことによって、その定価の意味が出てきて、定価に差があったとしても、それに大いなるありがたみというものが加わってくることになります。

低俗本を安くするということは、それをほんとうにより多く売りたいということになるだろうか、より多く売れるということになるだろうかといえば、そうではないということになるように思います。本一冊の提供するところの、幸福感をどう見るかという考えです。すなわち、いままでは単価がだいたい千円程度でおさまる本であったとしても、ユートピア建設に役に立つ本であれば、千百円の定価を設定することもできる。そして平均程度であれば千円の値打ちを提示することもできる。しかし、ユートピアにやや反するような本であれば、九百円の定価を付することもできる。あるいは九百円以上で売ることはできない、こういうふうになるということがあります。

定価を低くするということによって、よく売れるという考えもあるでしょうが、高級志向が、いま中心になってきている現代経済のなかにおいては、かならずしもそういうふうになるとは私は思いません。安ければ売れるというものではないはずです。それは、化粧品業界、あるいはファッション業界、こういう業界を見てもまったく同じです。人びとは高級感とそのブランド感、あるいはその斬新なイメージというものに値段を見出しているのであって、安ければいい、安いものを着ればいいというものではないはずです。

こうした価格設定のメカニズムがもっともっと働くべきです。このメカニズムは本という一般的なメディアだけではなく、新聞にも雑誌にも、また映画、演劇、あるいは絵画、ビデオ、テープ、そうしたものにも働きかけるべきであります。まったく同じというのはおかしい。映画などでも、どの映画も同じ値段でやるというのはおかしい。私はそのように思います。


4.ユートピア価値を考慮した金利・税制システム


ユートピアと経済を考える際に、三番目に気をつけておきたいこと、それは何であるか。この三番目の桂について申し上げます。それは、金利と税制の問題です。この金利と税制の問題は、どうしてもくぐり抜けなければならない現代経済の関門であると、私は思います。

たとえば、ある資金が必要なときに、金融機関からの資金の調達というものがあります。金融機関のほうから見れば、資金を貸し出すということになります。この貸し出しの金利そのものは、どういうふうになっているかということですが、相手方の信用度そのものに基づいています。この相手方の信用度とは何かというと、経済的信用度、すなわちどれだけ借用金を返す能力があるか、また経済を大きくしていく能力があるかということを見て、その信用感が弱いところは金利が高くなります。また、いわゆる一流企業、超一流企業ほど安い金利で資金が調達できるようになっています。こうするとどうなるかというと、持てる者はさらに持ち、奪われる者はさらに奪われるという経済原則が働くようになっています。小さなものはますます小さくなり、大きなものはますます大きくなるようにできあがっているのです。

それはそれで大きな役割はありましたし、自然淘汰の原則が働いたでありましょう。現に力のあるものは大きくなり、力のないものは淘汰されるということになって、強者を残していくという、そういう競争の原理が働いたことは事実でしょう。しかし、ここでもう一つ、企業の論理というものを、あるいは企業倫理というものを考え直すべきではないでしょうか。いったいいかなる目的のために活動しているものであるのか、ということを考える必要があります。

たしかに、零細企業や個人向けの金融というような制度もあることは事実ですが、その活動の内容によって金利が違うということは、私はまだ聞いたことがあまりありません。もちろん、福祉とか老人向けの預金金利などで、差別があるということは聞いたことがありますが、実際の貸し出しにおいて、そうはなっていないように思います。

というものも、神理価値、あるいはユートピアに奉仕せんとする人たちの事業活動というものは、どうしても裏目に出ることが多い。すなわち、金銭的にそれを十分軌道に乗せることができないでいる人が多い。いわゆる宗教家的な資質を持っているがゆえに、経済的・経営的手腕が弱い人が多いのです。それゆえに信用に不安があり、結局お金の貸し出しができない。したがって、その善なる仕事に資金を注ぎ込むことができない。これゆえ、発展ができなくなっていく。そういうメカニズムになっていると思います。

私は、現在の金融機関全体を見渡してみて、あまりにも利益を上げすぎている。という感じが否(いな)めません。日銀からの貸し出しと、一般個人から、あるいは企業からの預金というものを元手として、それを貸付け、そしてその利息を回収して利益を上げているわけですが、その利益の上がり方があまりにも大きすぎる。お金のやりとりという単純な行為に比して利益の上がり方が、あまりにも大きすぎる。そういうふうに思います。これは金融機関が公的な使命を十分に、はたしていないという感じがするのです。それだけお金のやりとりだけで莫大な利益をはたして上げてよいものかどうか、それだけではなくて、もっとさらに二次的、三次的な仕事をしてゆかねばならないのではないか、私はそう思います。

金融機関はその体力的な余力の部分、上がった利益の幅の大きさの部分を一部、社会に還元してゆくべきであります。その還元の部分を何に使うか、ユートピア建設のための資金として使ってゆくべきである、私はそう思います。そうしなければいけない、真にユートピアを創るための事業、企業に対して実際の一般貸し出しの半額、三分の一の金利で貸し出しをしてゆけばどうなるか。そうするとユートピアのための活動というのは活発化します。当然のことです。当然ながら活発化してゆきますし、今まで反ユートピア的な仕事をしていた企業であっても、この経済原則の流れのなかで、このままではいけないということになって、ユートピア価値を取り入れていこうとします。そして、少しでも経済活動が楽になる方向に行こうとします。こうすることによって、社会全体の企業をユートピアの方向に引っ張ってゆくことが可能になってくるはずです。こうした力があるにもかかわらず、それをしないということはまことに情けないことであると、私は思います。

もう一点、別の面からいえば税制の問題です。この税制はやはり、悪平等になりすぎているという感覚が否めません。どういう内容で収入を上げたとしても、その内容にかかわりなく、一律に税金が課されるようになっています。しかし、ほんとうはこれは、私は公平ではないと思います。賭博とか、そうしたあまり人びとのユートピアを前進させない方面で収益を上げたとしても、また、ひじょうに世の中のためになる活動をして収益を上げたとしても、その額に対しては一定の税率がかかってまいります。これが悪平等でなくて、いったい何でしょうか。

仕事の内容において、ひじょうに人びとを害する内容をやっていても税金は同じ、益する内容をやっていても同じ。そうであれば、人びとを益する行動をしている人たちは、さらに発展していくことができなくなってきます。その発展度が弱まっていきます。やはり、私はこれは勇気をもって、その税制のシステムを変えてゆく必要があると思います。企業なり、個人なりの社会的ユートピア建設への貢献度を、ある程度判定すべきだと思います。

そして、ユートピア建設に貢献している人に対しては、優遇税制を敷くべきです。そして、それを資金としてさらに活動できる方向へと誘導してゆくべきであります。こうしたことを公的機関がやらなければならない。そうしなければ、社会全体が悪くなっていく、そういうふうに思えるのです。

毎年毎年の、企業なら企業の活動というものに対して、このユートピア価値からの判定が必要です。そしてユートピア価値の判定から見て、税率も変わっていくということでよいと思います。もし、社会的利益に反する行為を企業が犯したとするならば、それは単に社会的制裁を加えるということのみならず、税率でも変化が起きるようにしておけばよいと思います。むしろそちらのほうが、企業の論理からいくと怖いはずです。社会的利益、大きなユートピア価値から見て、それに反する行動をとった企業は税率が重くなる。しかし、ユートピア貢献度の高い企業は、税率が安くなる。こうしておけば、がめつく自分の利益だけを追求するのではなく、常に世の人びとの役に立つ仕事をすれば、経済的にも楽になるという方針が確立されていくと思うのです。私はこれであってよい、いやこのようでなくてはならない、そういうふうに思います。

ユートピアと経済について、以上いくつか話をしてまいりましたが、これは個人のレベルだけでは、どうしても発想が十分ではありません。もっと大きなレベルから、国、公共団体、あるいは企業の団体、こうした大きな観点からの改造がぜひとも望まれる。そのように思えるのです。そうした大きなマクロの観点からこの改造をやっていかねば、けっしてユートピアの建設はできません。

もちろんユートピア建設は、各人の心から出発いたしますが、制度的な面からも改良を加えてゆかなければ、より大きな、高次な力を発揮することはできない。私はそのように思います。

以上、貨幣経済とユートピアに関する考えを述べてまいりましたが、結論は一つです。経済とはユートピア増進のために奉仕すべきものである。これを妨げるために働いてはならない。これが私の考えですし、この方向においてのみ貨幣経済の進展は許されるものである。そして、ますますの繁栄をみてよいのである。そのように考えます。