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目次

 1.出発点










 11.次元構造の究明

 12.釈迦の次元分析



 15.一千億年の孤独

 16.地球人霊の誕生





1.出発点


基本的な考え方として、神理というものが、唯一のものから出てきているということを前提にしています。諸教、諸宗派、その形は違っても、出ている源は一つであって、その現われ方が時代と地域によって変わっているのだという前提を出しているわけです。このことは、かなりの数の本を読まれた方がたは、もはや当然と思っておられるかもしれません。しかしながら、ほかのいくつかの団体や教えに属している人から見れば、これは当然のことではないのです。むしろ、意外な感じを受けていると言ってもよいと思います。

地上に降りた人間の認識力というものはきわめて低いものであり、自分の見える範囲、聞ける範囲、接することができる範囲でしか世界をつかむことができないという悲しい現実があるのです。トータルで神理というものをとらえ、仏教も、。キリスト教も、他の宗教も、元をただせば根源なる意志が、さまざまな人格的な高級霊を通して現われてきている姿にすぎないという考え方は、世界的に見たならば、ごくごく少数派であると考えてよいと思います。このような考え方自体が、一般的には受け入れられるものではないのです。

霊的なものを信ずる人が、日本人のうちに五〇%いるとして、それらの人が何らかの団体に所属しているとしても、このような考え方をストレートに受け入れられるかどうかといえば、やはりひじょうに難しいと言ってよいでしょう。したがって、みなさんが神理の縁に触れられて、この神理というものが唯一のものから出てきているという前提を常識と考えられて、これを当然だと思い、他の人に押しつけようと思っても、なかなかそう簡単に通るものではないということであります。

たとえば、キリスト教関係の方にこのような話をしたとしても、まずこの最初の前提からして納得がいかないと思います。彼らは、イエス様を通して述べられた教えこそが神理であって、歴史において他によいものもあったのかもしれないけれども、それは教えとして認められていない、ということで頑固に頑張られるのがその筋であろうと思います。

また仏教の方においても似たような考え方はありましょう。仏教で僧侶をしておられるご本職の方が、もしこのような考え方を公式に持っておられるとするならば、やはり僧侶としての仕事がやりづらいというのが現状であると思います。

しかし、神理は神理であります。世のみなさま方が、あるいは過去の人々が認めようが認めまいが真実は真実であります。ここに私たちの立脚点、およびその出発点があるということを確認していただきたいと思います。

また「神や仏があるというならば、なにゆえに宗教があれほど醜い姿をさらしているのか、争いが絶えないのか。」という無神論者、あるいは知識人たちの批判に応えるとするならば、「真実はそうではなかった。一時期、太陽が雲の間に隠れることはあったとしても、けっして消えたことはなかった。その証明として、過去いろいろな光の天使たちが現実に地上に降りてさまざまな教えを説き、数多くの偉業をなしてきたのだ。」と、言うことができます。この光の天使たちの活躍の詳しい説明は『黄金の法』のなかに述べられているとおりであります。

したがって、世界が光を欲しているときに、神理の太陽が昇らないことはなく、また、神は人びとが欲しているときに救いの手を伸ばさなかったことはない。このような前提があるということをまず押さえていただきたいと思います。


2.神を知る手がかり


神とは何かということについて述べてみたいと思います。いわゆる神の存在証明の問題についてであります。これも世の知識人あるいは、このような考え方について批判的な人々に対する、反批判あるいは強烈な一撃として出された考え方です。

無神論者たちの考えは「神などといっても、その存在証明ができた人はいないではないか。見たこともないものを、どうやって信じることができるのか。」というものであります。神理に触れられた方の多くも、いろいろな人に神理を説こうとして、まったく同じ壁にぶつかってこられたのではないでしょうか。

さて、このような考え方に対しての答えがここに一つあります。それは、「確かに直接証明として神の存在を説き、そして世に納得せしめた人はいないかもしれない。それはそのとおりであろう。しかし、神の間接証明に成功した人はかなりの数いるのです。」ということであります。

その間接証明とは、全智全能の神の存在があって、それにそば近き人間であればやはり、その神の能力に近き能力を発揮することができたという事実です。たとえば「現象」がそうです。霊的現象を示してきた人は過去に数多くおりましたし、現在も数多くおります。私自身もそのような「現象」をお見せしていることにもなっていると思います。

そして、もう一つ、どうしても否定しがたい事実があります。釈迦、キリスト、モーゼというような三人の偉人が人類史のなかにおりますが、彼らはけっしてまだ伝説の人とはなっていないということです。ギリシャ神話の時代になれば、伝説の人だと思う方も多いかもしれませんが、この釈迦とキリストとモーゼは明らかに実在の人であったわけです。もちろん、あと二千年もすれば、キリストらも架空の人、伝説の人になるかもしれませんが、現時点で明らかに実在の人であったと信じられているということです。

そして、この実在の人であった三人の巨人が、いずれも神、あるいは仏と、言葉は違えども根源なるものを信じ、そしてそれを証明しようとして努力されてきました。このように数十年の人生を確かに生き、死んでいったという現実があるのです。釈迦やキリストやモーゼのような人類史の偉人たちが、今、神や仏のことを話す方がたを馬鹿にしたり冷笑したりする人たちよりも、劣るような人かどうかをよくよく考えていただきたいと思うのです。

神や仏の実在を否定するような人たちに、「あなたは、イエス・キリスト以上の人格をお持ちですか。あるいは釈尊以上の知恵をお持ちでしょうか。もしそうならば、その証明をしていただきたい。できましょうか。」と問いかけたならば、納得がいくような説明ができる方はいらっしゃらないでしょう。逆に問いかけられれば、説明することができないわけです。人間として生きて、釈迦以上の知恵を持っていること、イエス以上の人格者であることを、証明することはできません。

なかには「イエスは頭が狂っていて、神がいるなどという思想にとりつかれて、気違いじみたことをやったにすぎない。」と言う方もいるかもしれません。このような人には「それでは聖書のなかに語られているこのイエスの語った言葉、これを見てあなたはどう思われますか。これがほんとうの絵空事だと思えるでしょうか。この言っていることに間違いがあるでしょうか。神とか霊とかいう言葉をはずしたとしても、その愛の教えのなかに間違いがはたしてあるでしょうか。また、釈迦が説き来り説き去った言葉、すでに二千数百年の歴史を経ておりますが、その言っている内容に、何か常識人が見て、ほんとうに違っているということがありましょうか。思想家として見て、これ以上の思想家が出ていたでしょうか。どうでしょうか。」と問いかけることができるのです。

したがって、霊とか神とかいうものが信じられず、馬鹿馬鹿しいと言う方は、「釈迦、キリスト、モーゼといった歴史上の偉人たちは霊や神を信じていたけれども、かくいうあなた自身は、彼ら以上の認識力と知恵をお持ちであるということを証明でき、彼らを裁けるだけの人間であるということをほんとうに証明できましょうか。」と問われたときに、沈黙をせざるをえないのであります。

なぜならば、歴史の風雪に耐えた偉人の業績というものは、燦然(さんぜん)たるものであって、少々の人びとの批判では動かないからです。このような実績をつくるにふさわしい努力もまた、彼ら自身してこられたわけであります。

したがってまず、自称、無神論者、あるいは科学的と自認する人に対して問うとするならば、「歴史のなかにどれだけ偉大な人物がいたかということを知っていますか。歴史のなかの偉人たちのなかで、ほんとうに神仏を信じていた人はいくらでもいましたし、偉人の歴史を調べてみれば、その八割以上の人がやはり、なんらかのかたちで神というものとの遭遇を経験しているのです。そして、神を信じていた人は多いのです。そうした人たちが、ほんとうに物笑いにされるような人たちであったでしょうか。もしそうであるならば、人類の歴史そのものにいったい何の値打ちがあったのですか。その歴史そのものを疑ってかからねばなりません。そうではないでしょうか。」ということが言えると思います。

ですから、こういった人はまず謙虚になる必要があります。過去の歴史において、現在の自分以上の知者も、現在の自分以上の人格者もいたという事実、これをまず素直に認めなければいけないのです。そのような人がいて、そして神を信じているという事実がある以上、その事実について、あるいは彼らの思想について、もっと虚心坦懐(きょしんたんかい)に学んでみるべきではないでしょうか。学んでみて、学び尽くして、はじめて批判するのはよいのですが、学んでもいないのに批判するのは甘いということであります。

「人生の探究は、どこかで必ず神の存在にぶつからざるをえません。神を知る手がかりは人生の随所に散りばめられています。」と『太陽の法』に書きましたが、そのとおりです。やはり、この問題と遭遇(そうぐう)しないでは、ほんとうに人生を生き切ったとはいえないのです。そこで私は、本書全体を通じて、この「神とは何か。神は何を考えておられるのか。神は何を意図しておられるのか。」ということを説明してみたいと思います。


3.釈迦の「存在と時間」


「存在と時間」についての基本的な考え方を述べてみたいと思います。
「存在と時間」と言いますと、きわめて現代的な響きでありますが、これが仏教の教説そのものなのであります。釈迦が説いていた教えは実はこういうことであったというと驚かれるかもしれませんが、実際に釈迦は、「存在と時間」について語っていたのです。これについての詳しい説明は、『釈迦の本心』のなかにも述べてありますが(『釈迦の本心』第5章)、業の思想、縁起の思想、こうしたものは実はこの「存在と時間」にかかわる思想であったわけです。そして、この人類、あるいは地上に住んでいる他の生きとし生けるもの、すべてにあてはまる法則があり、その法則こそ生々流転(せいせいるてん)の法則であり、それは普遍の法則であるということを説いています。

この生々流転の法則は、人間であれ、動物であれ、植物であれ、鉱物であれ、微生物であれ、すべてそのルールのもとにあります。この地上のものには、誕生のときがあり、生長のときがあり、衰退のときがあり、そして消滅のときがあるということです。人間にしても、誕生のときがあり、そして成人していく過程があり、老化する過程があり、そして必ず死去せざるをえません。物でもそうです。自動車でも、造られるときがあり、それがいろいろな人の使用に供されることもあり、そうして、やがて故障して、その姿を消していくのです。スクラップになって、ほかのものにまた変わっていくでしょう。

このような循環の法則があるということなのです。これが人生を貫き、またこの地上のさまざまな生物、すべての存在に対して、あてはまる法則であるわけです。別の言葉で言うならば、この三次元現象の存在はすべて変転の時間を内包しているということです。これはきわめて難しい哲学的な議論でありますが、存在のなかに時間が内包されている、変転の時間が内包されているということを言っているわけです。けっして静止した存在ではなく、すべてのものは変転を前提として存在することが許されているのです。

この「存在と時間」に関する考え方は、ドイツの哲学者のハイデッガーという人も出しています。彼についても、『黄金の法』では述べておりますが、やはりこのハイデッガーに対して、インスピレーションはかなり降りていたわけで、そのインスピレーションを出していたもとはひとつで、同じ源から出ているのです。

このように、存在の定義としては、流転するという性質があり、時間を内包しているということ、このことを述べたいと思います。


4.変化するもののうちにある不変の理念


この「存在と時間」から霊魂の存在を推定させる説明が続いていくのであります。

たとえば、私自身の肉体、これを構成している細胞の数は、何十兆という莫大な数であるといわれております。その細胞の一つ一つは、何十日か何百日かたてば、すべて死滅して新しいものに代わっています。しかし、一年たとうが二年たとうが、私は私の個性として、実体として存在し続けております。この実体を存在させているものがいったい何であるかということなのです。何十兆もの細胞があって、それぞれが勝手に点滅するランプのようにできたり消えたりしているわけです。しかしながら、どのようなことがあっても、私自身は、私の個性として存在している。これはいったいどのようなことなのだろうかということです。

植物にしてもそうです。一本の花を花たらしめているものは、いったい何でしょうか。毎日毎日、植物は伸びてゆき、やがては花が開いてゆきます。その姿は変化していきますが、やはり菊の花は菊の花として、水仙の花は水仙の花として、チューリップはチューリップとして、存在しているのであります。昨日と今日とでは姿が違っても同じ存在なのです。ここを統一しているものはいったい何なのでしょうか。

動物でもそうであります。いろいろと変化していきますが、その個性を統一しているものがあるのです。この個性を統一しているものこそ、魂といわれているものの正体であるということなのです。


5.空即是色とイデア説


変化するもののなかにあって、逆に今度は変化しない何かがあるというわけです。この地上のものはすべて変転していくという法則のもとにある。変転していく法則のもとにあって、生命あるものは変転しない何かを確かに持っているのです。姿は変わってゆくのにもかかわらず、統一体として存在しているということ、だれが見てもその花はその花、この人間はこの人間として存在しているということは、いかなることか。そこには、それを統一させるものがある。この統一するもの、このイデア、理念、これこそが実は魂といわれる存在そのものであるといえるのであります。

「色即是空、空即是色」という仏教の言葉がありますが、これも、けっきょくのところ、プラトンのイデア説と変わらないということであります。理念があって地上に存在が許されているということなのです。この理念というべきものがなければ、変転する法則、変化の法則のもとにある地上の物体、物質は、すべて姿・形なきものになっていくのみです。ところが、それが消滅と生成をくりかえしながらでも、統一体を維持しているということは、そこにそれを統一しているイデア、理念といった、かたちが何かあるということなのです。

ここで、変化の法則から説明を続けてきて、今度は変化しないものに説明が移りゆくわけです。『太陽の法』においては、「人間の本質は、時間の流れのなかで変転してゆくはかない存在ではなく、永遠に不変の実在なのです。この不変の実在こそ、生命(いのち)であり、魂であり、霊であります。」と書いております。

霊という言葉を特殊なものとして、摩訶不思議なものとして私は言っているのではなく、この不変の実在、イデアのことを言っているのであります。


6.個性ある意識体


私は、「肉体人間を支配している個性ある知性。肉体人間を存在せしめている個性ある意識体、これらが人間の本質なのですから、霊という言葉に対して、世人がいかなる印象を持とうが持つまいが、真実は一つなのです。すなわち、花には花の生命体があり、人間には人間の生命体があるということです。」と言い切ってよいと思います。事実であるから、否定のしようがないのです。そのとおりだからです。はっきり言ってしまえば、議論の余地はないのであります。

確かに霊というものの存在証明はひじょうに難しいのです。みなさんも、これをなそうとされるならば困難をきわめることとなりましょう。しかし、これは霊というものが実際に存在するということを実体験し、感じてしまえば、これは信じる・信じないの問題ではなく、あるものはあるとしか表現しようがないのです。現実にあるからです。実際に私は毎日いろいろな諸霊と話をしています。現にいるのです。いるものはいるのでどうしようもないのです。それは否定のしようがありません。またそれはデータによっても確かめられることでもないのです。現にいるのです。同じ個性が存在しているのであります。このことは否定しがたいのです。

たとえば、『高橋信次霊言集』という本が出版されています。このシリーズは、すでに一〇冊を超えていますが、何回刊行しても同じものがあります。どれをとっても、内容は全部違いますが個性は同じです。読まれた方もそう感じておられることと思います。第一冊を出してからもう二年以上もたっていますが、どの霊示集においても個性は変わりません。どの部分をとってみても同じです。このようなものではないでしょうか。違う人になれば明らかに違ってくるはずです。

谷口雅春氏の霊示集も何冊も出して、内容がそれぞれ違っても、やはりどこを切ってもいっしょです。谷口雅春氏の個性は個性です。たとえて言えば、栗ようかんは栗ようかん、小豆ようかんは小豆ようかんで、どこの切りロをとっても味は変わりません。例がよくないかもしれませんが、簡単にいうとそういうことです。


7.人間の認識力の限界


有限と無限について考えてみたいと思います。ここに一つのたとえ話があります。ある亀の話です。

昔、大きな亀がいて、右足を出すのに一〇分、左足を出すのに一〇分、後ろ足をそれぞれ出すのにまた一〇分、つまり体をひとまず動かすのに四〇分もかかる亀がおりました。あるとき、この亀は砂浜の海岸に行きつくところがあるかどうか不思議に思って、自分の住んでいる島の探検に出てゆきました。

その島というのは亀にとってはまさしく全世界そのものであったわけです。そして、世界探検にこの亀は乗り出します。体一つ動かすのに四〇分かかる速度で乗り出したのです。見渡すかぎりの海岸線をハッタと見すえ、よし世界探検に出るぞということで勢いこんでスタートし、そして全力で歩きはじめました。そして、自分がどこを踏破したかわからないと困るので、自分の歩いた足跡がしっかりついているかどうかを見ながら歩いていたのです。「足跡さえ見ておけば自分が通ったところがわかるはずだ。こうして、この時間を計っておればおそらく世界がどの程度の広さかわかるだろう。」こう考えてこの亀は歩いていったのです。

しかし、いくら歩けども歩けども、海岸線は終わることなく、ある日、亀は力尽きて死んでしまいました。自分が全世界の半分くらいは踏破したと信じながら生涯を終えました。あくる日に島の漁師がやって来て、その亀を引きずって島の反対側へ持って行って食べてしまいました。島の反対側まで行くのに大変な時間がかかったのかといえば、漁師の足で行けばわずか一〇分ですみました。

哀れな亀は、太平洋の波が非情にも自分の足跡を洗っていたとも知らずに、小さな島の砂浜をグルグルと回っていただけであったのです。自分が確かめようとしていた足跡は波で消されていたのです。それとも知らずにグルグルと小さな島を回っていただけであったのです。

これは、いうなれば、認識力のたとえ話です。有限と無限を考えるときに、どうしてもこの話が出てくるのです。この話は、実在界でよく使われているたとえ話なのです。私も、如来の説法、菩薩の説法をずいぶん聞いておりますが、彼らはたとえ話がひじょうに上手です。そしていろいろな比喩を出してきます。

仏陀の説法のいちばんの特色もたとえ話でした。キリストも実際たとえ話がひじょうにうまかったのです。やはり、そのようなたとえ話を使わないと当時の人々にはなかなかわからなかったからです。このようなことで、やはり菩薩や如来といわれる方はみな、たとえ話がひじょうに上手です。哲学的な話だけではなくて、やはり、それをどのように説明すればわかるように話ができるのかということが大切なわけです。そしてそのなかに普遍的な神理があるのです。

このたとえ話のなかの亀と漁師の違いはどこにあるのでしょうか。歩く速さは、もちろん違うでしょうし、体の大きさももちろん違うでありましょう。あるいは経験量の差、これももちろん違うでしょう。いろいろな要素はありますが、しかし、根本的な差異は認識力の差にあったのではないかということです。わかる者とわからない者の差が明らかにあるわけです。

亀の目的や努力、そして熱意は見上げたものだけれども、その結末においてひじょうに悲しいものが漂っています。悲壮感が漂い、ペーソスにあふれています。これはいったい何なのでしょうか。つくづく考えてみますとけっきょく、認識できないということに対する悲しさです。


8.洞察力と知能の差


神が人間をどのように見ておられるのかを、このたとえ話で考えてみていただければよいのです。このように見えるということなのです。現代の知識人といわれるような方々も、神の目から見れば、この認識力のない亀のようなものなのです。かわいそうです。わからないのです。彼らは一生懸命歩いているのです。この亀と同じように、鼻に汗を浮かべ、脂汗をにじませながらやっているのです。一生懸命、自分の足で歩いて、世界を測量しようとしているのです。それで足跡を残していけば、必ずわかると考えているのです。地上の人間の認識力はこのような段階なのです。

このたとえ話において、ちょうどこの漁師くらいにあたるのが、高級諸霊といってもよいでしょう。また、悟った方といってもよいでしょう。そういう悟った人から見れば、悟っていない人がこの亀のように見えるということなのです。ここに認識力の絶対的で、質的な差があることを知らなければならないと思います。

また、このたとえ話を無神論者と有神論者に言い換えたらどうでしょうか。たいていの無神論者は、「われわれは亀ではない。」と言ってきっと怒るでしょう。しかし、人生が六〇年、七〇年で有限であると思っている人は、まさしくこの亀そのものです。本人が気づくと気づかないにかかわらず、事実はこのとおりなのです。

たいへん気の毒なことでありますが、これは知能指数とは関係がないのです。知能指数の差にかかわる認識の差ではなく、知能指数がいくら高くても、わからない人にはわからないのです。知能指数ではかられるような認識とは違うのです。

これはやはり、魂の奥底から出てくる能力でもありましょう。洞察力にも似たものだと思います。いくら頭がよくても、わからない人はわからないのですから、ほんとうにかわいそうです。

私ももう一〇年近く前にもなりましょうか、東大在学中に、法哲学という授業に出席しておりました。その授業の教授は無神論者でありました。法哲学ということで、過去の哲学を法律的な側面から説いておられる人です。彼の研究する哲学的思想が記された書物は、本来いろいろな光の天使たちが書いたものでありますが、そのような光の天使たちが書いた文献を研究していても、かわいそうですけれど、わからないのです。それでも、東大の教授にはなれるのです。よく文献を調べて、鋭い論文を書けばなれるのでしょうが、本質がわかっていないのです。まったくわかってないといってよいのです。光の天使の書いたものを勉強して、いろいろとやってはいるのだけれども、まことに残念だと思います。

その人が最高レベルの学問であると思っているのは、やはり、私たちが見れば神界レべルを最高の考え方だと思っているのです。そうしたものが最高だと思っていて、そしてご自分の悟りがどのあたりにあるかというと、明らかに四次元幽界から地獄界の間を行ったり来たりしているのです。本人には気の毒ですが、おかしかったです。

そのころ、私はまだ霊道は開けていなかったのですが、多少その前兆があったのでしょうか、人の姿を見ていると、いろいろとそのオーラに近いものがわかるような感じがしていました。そして、その教授を見ておりましたけれど、頭の回りがやはり薄らぼんやりとしているのです。何かをかぶってるような感じでした。あとから考えれば、まあ完全にあれだろうなと思うのですが。

講義のときに学生との質疑応答がありまして、その先生は神とか霊とかを絶対に信じないということを一生懸命にいっているので、そのときに、ある学生が「先生は来世が大変ですね。」と逆に質問していたのです。その先生は「後生恐るべしですね。」などと一生懸命に答え、心のなかでヘヘンと思っているのがわかったのですが、ほんとうに大変だろうなあと思って、私も見ていました。そういう方も最高学府で教えているのです。

私は、卒業の前であったと思いますが、その先生に提出する答案があって、法哲学の試験問題ではありましたが、まったくそれに関係なく、高橋信次先生の『心の発見』の科学編を読んだその感想を答案に全部書いたのです。無神論者で霊を信じていない人に対して、徹底的に霊を信じる立場で書いたのです。私は全般的に成績はよかったのですけれども、その結果は、珍しく「良」ということでありました。それでも不合格ではなかったので安心しました。「不可」かなと思ったのですが、「良」ぐらいはいただいていたようでした。

まあ、あまり唯物論的な講義を聞いていますと、そのように書きたくなることもあります。税金を使って教えているわけですから、やはり許せないという感じでした。言っていることが間違っているのですから、やはりいけないと思います。税金から給料をもらって、それで嘘を教えていたらやはり許されないのです。いくらインテリであって大学の先生であっても、間違っていることは、神理の立場から見ればはっきりしているのです。

このような人は知能指数は高いであろうし、ペーパーテストを受ければ、さぞかしできることでありましょうが、根本が間違っているのですからしようがないのです。まさに後生恐るべしです。ほんとうに学生に言われているとおりなのです。本人は気がついてないのです。もうあと一〇年くらいであろうと思いますが、気の毒です。東大で哲学を教えていた教授などといって、あの世に還っても、自分は絶対偉いと当然ながら思っています。あの世に還って、実際にまわりの世界が暗かったらどうするのでしょうか。困ると思います。

なかなかこのようなタイプの人は救うことができません。ほんとうに救いがたいのです。なぜ救えないかといいますと、頭でっかちになっていますから、あの世でお坊さんのような人が説得に行っても、このタイプだけは説得できないのです。「私はあれだけ知性的に詰めて勉強してきて、絶対これで真理だと思っている。だから間違いない」の一点張りで考えを変えることができないのです。


9.真に開かれた社会とは


『黄金の法』のなかでも少し批判しておりますが、「プラトンの呪縛」という内容に関して著わしているカール・ポパーという有名な哲学者がおります。彼の代表作の一つは、「開かれた世界とその論敵」という題の本で、原書が「The open Society And lt's Enemy」というタイトルです。英文でも読んでみました。かなりの大著であるため、そうとうな時間をかけて書かれたものだと思います。おそらく何年もかかっていると思いますが、やはり間違っているのです。現在、そうとう有名になっておりますけれども、根本が違うところはどうしようもないのです。

学派を興してずいぶん弟子筋もあるのですが、けっきょく、彼の考えでゆくと、「ソクラテスのあとプラトンが出て、"イデアの世界" と称しながら、実際は霊界の世界を哲学のなかに持ち込んでいる。そして、あの世があるようなことを言っている。」ということになるわけです。

このプラトンの呪縛によって世界は暗くされたと、このポパーという人は批判しているのです。そしてこのプラトンの呪縛によって、その後西洋世界がどれほど呪術的になり、暗くなったか。開かれた世界が、プラトンの呪縛によって閉じ込められたようなものだ。このような陰湿な古代のアニミズムと言うか、精霊信仰のような世界に、哲学という優れた学問が押し込められてしまった。このプラトンの呪縛から人類は二千数百年、逃れられないでいるのである。

だから自分は今、自分の哲学によって新たな地平を開いてプラトンの呪縛からみんなを解放させてやるのだ。そして閉じられた世界から、開かれた世界へ導くのだ。このようなことを書いているのです。

ところが事実は逆なのです。プラトンは、四次元以降に広がる世界のことを知っていたのです。そして、それについて、どのようにしてみんなに教えようかと努力して、あのようなイデアの説などをいろいろ出して説明しているのです。この開かれた世界のことを説いたプラトンの哲学を三次元世界のなかに閉じ込めたのが、このカール・ポパーという人なのです。つまり、逆にポパーが閉じ込めたのです。そして、これこそが開かれた社会だと言っているのです。

八〇〇ページくらいにわたる本ですが、まあ内容としてはO点です。まさにO点です。論点がまったく外れているのですから、読む価値はありません。お金を返してもらいたいくらいです。これで、世界的に有名な学者になれるのですから、間違っていると言うのです。

このような考え方がどれほど世界に害悪を及ぼしているかと考えると、はなはだしいと思います。ですから、私も今、霊的なもの、宗数的なものをだいぶ出していますが、もう少し基礎が固まってくれば、このような思想界の方をもっと斬(き)っていきたいと思っています。間違っていますから、私に言わせれば問題にならないのです。真実を知るということは、難しいことでありますが、ほんとうにだいじなことであります。


10.プラトンによる実在界の説明


プラトンも実在の世界、霊的世界のことを説明するのに、ひじょうに難しいと感じていたのでしょう。「洞窟の比喩」をつかって、おもしろい説明をしています。このたとえ話を学ばれた方もいらっしゃると思いますが、プラトンが説明しているのは、このイデアの世界、つまり、実相の世界を知っている人と、そうでない人の説明をしているわけです。

このプラトンの説によると、人間というのは囚(とら)われの存在なのです。人間が洞窟のなかにいるとします。外から光が入っているのですが、その人は、洞窟のなかで手も足も鎖で縛られているために光が入ってくる後ろのほうは見えないのです。そして前方に洞窟の壁面があって、ここに映る彭だけが見えるわけです。

外には道路か土手のようなものがあるらしくて、そこを通行人が行ったり来たり、どうもしてるらしいのです。そうすると、通行人が行ったり来たりするときだけ、その影らしきものが映って見えるのです。このような世界を説明しています。

この比喩で実は、実相世界と現象界の説明をプラトンはしているのです。実際に人間というのは縛られていて、この縛りこそ、実は肉体を意味しているのです。肉体という縛りです。これによって一つの方向しか見えない。つまり、これは三次元の世界しか見えないということです。

ところが、この実在世界における存在が時どき土手の上を行ったり来たりしていて、光があたるものですから、影だけが映るのです。そして、この人間はこの影だけを見て、いったいこれは何であろうかと推定するのです。この程度の世界だと言っているわけなのです。まさしく彼は知っていたと言えましょう。

このような説明は、私たちから見れば、何を意味しているのか、全部わかってしまいます。私たちには、プラトンが何を考えていたのか、直観的にわかるのですが、プラトン以降、後世の哲学者たちはこのようなことを一生懸命勉強して、「プラトンは宇宙人でもあるまいにどうして映画の原理がわかったんだろうか。」などと考えているのです。映画のスクリーンの原理と同じですから、映画のことを知っていたのだろうか、などと議論しているわけです。

これでわかるように、プラトンも「実在の世界」について説明をしているわけですが、彼も苦労しているのです。高級諸霊がこの世に出てきても、なかなかうまく説明ができないという苦労があるわけです。


11.次元構造の究明


多次元宇宙についての説明に入ってゆきます。多次元の宇宙を、人体にたとえてみましょう。三次元宇宙とは裸の肉体人間、四次元宇宙とは肉体を包む下着、五次元宇宙とは下着の上のワイシャツ、六次元とはワイシャツの上のセーター、七次元とはセーターの上にはおるスーツ、八次元とは全身をおおうコート、そして九次元とは頭の上の帽子のようなものだという説明ができます。

このようにほんとうは多次元宇宙や、高次元宇宙といっても、全然別の世界ではなくて、実は同じところにオーバーラップするように存在しているのだということを理解することが大切です。

この多次元の宇宙については、みなさんそうとうなご関心があることでありましょう。しかし、説明はいろいろなところで行なってまいりました。たとえば一九八七年の三月の講演会「知の原理」の質疑応答でもお話ししましたし、それ以外の本のなかでも、この次元についての話は何度か出してきております。

ここで、物理学者的に見た次元構造が、多次元的な宇宙の構造に引き当てられるということがなぜわかるのかという疑問があるでしょう。私も実際に、次元という言葉で表わすのが適当かどうかはわかりません。しかしながら、あの世の世界には確かに、階層の明らかに違った世界があり、それはアインシュタインやエジソンなどの科学者の高級霊たちに聞いてみても、だいたい私がいろいろと詰めてきた結論と同じであります。

私たちが菩薩界と呼んでいる世界が、七次元世界にあたり、神界というのは六次元にあたる。八次元には如来界が相当する。このような結論です。これは、科学者の霊と宗教家の霊が考えているところを全部つき詰めて整合した結果、このようになるということであります。

もちろん多次元宇宙の構造について、この世的にすべてを明らかに説明ができるかというと、かなり難しい面はあるでしょう。けれども、現実に霊層そのものは分かれておりますので、それをどのように呼ぶかは自由であるということもあると思います。

『天照大神の霊言』という本のなかで天之御中主之神が一九八四年二月第一回目に降臨されたときに、善川顧問が「何次元におられますか。」と聞くと天之御中主之神はわかりませんでした。そのあたりのいきさつが明らかに出ています。顧問に説明を求めているわけです。それで、相手の心のなかに浮かんだ説明を読んで、だいたいこのような引き当てをしているのかと思い、たぶん八次元というところだろう、というふうに答えているのです。

日本の神様であれば、何次元に自分が住んでいるかなどということは、考えたこともないのでわからないのです。そのようなものなのです。ですからあくまでもこれは現代的に言い換えればこのような表現になるということです。

「実在の世界」を三次元から九次元、十次元まで分けておりますが、実際、「実在の世界」の構造はもっともっと細かく分かれています。なぜ分かれているかといいますと、この世界は私たちのような物質の世界ではないからなのです。

もし、いまここで、ニメートルくらいのところまでが三次元で、この上から違う人が住んでいるというのであれば、みんな気持ちが悪くてしようがないでありましょう。透明の膜のようなしきりがあって、その上を人が行ったり来たりしていたら、とても住んでいられないと思います。

しかし、実際はこのようなものではないのです。肉体は存在しない世界なのです。物質の世界ではなくて、実質はやはり波長の世界、波動の世界といわれるように、違った存在形態なのです。私たち地上にいる人間にわかりやすいように、やはり地上的な風景、あるいは人間のかたちによって説明してはいますが、実際はそのようなものではないということです。

一九八八年の十月の講演会「反省の原理」で、最後の質問のときに、私が如来界あたりを見てきた話を少ししましたが、それもあくまでもそのようなかたちに翻訳されている姿であるのです。これは翻訳が可能なのです。英語と日本語が翻訳できるように、霊的世界の言葉、あるいは存在というものが、三次元的に翻訳されるのです。

また霊人たちを見ていても、人間的属性がひじょうに強い場合は、人間的に見えるのです。けれども、ほんとうに霊的な悟りが進んでいる場合は、霊人であってもそうは見えなくなってくるのです。今度は、ほんとうのその人の姿が見えてくるのです。ですから、同じものを見ていても同じではないのです。これはなかなかわかりにくいのですが、何重にも、ほんとうは姿があるのです。

これ以外の説明としては、スウェーデンボルグという人がいますが、このスウェーデンボルグという人は一五〇冊ほどの霊界探訪系統の本を書いた方です。この人の霊言も最近出しましたので、読まれた方もあると思います。

彼も霊界へ行って見てきてはいるのですが、スウェーデンボルグが見てきた世界は、だいたい八次元くらいまでのようです。そのくらいまでは行っているのですが、八次元の上段階まで行っているかというと、そのあたりで頭打ちになっているようです。そして、彼が見てきたものは、やはり人間的に翻訳されたかたちでの霊的世界を見てきているのです。

もし彼の悟りが、もう一段高ければ、ほんとうは違ったものが見えたはずです。如来界に行って、如来の姿が人間の姿で見えて帰ってくるということは、まだ向こう側から合わされているのです。こちらの人間のレベルに合わせて、向こう側がそのように見せているだけなのです。

ですから、たとえば谷口雅春先生の帰天報告の描写では日本建築の家に住んでいて池には鯉が泳いでいるという感じに映るわけですが、これは人間的に翻訳するとそのような気分でいるということなのです。それでは実際にその本質を見ればどうかといいますと、やはりそれは光として存在しているのです。