※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。

目次


 2.愛ある人生



 5.愛の臨在






 11.信仰の原点

 12.愛のシャボン玉

 13.広がる愛の輪

 14.愛の定義










 24.文学と愛

 25.愛の大河




1.愛の発展段階説の誕生


『太陽の法』のなかにある「愛の大河」という章は、その本のなかでもメインの部分になるのではないかと思います。ひじょうに特色があり、愛についてこのようなかたちで一章をまとめている本というのは、なかなか、ほかには見当たらないのではないかと思います。それもいろいろな角度から切り込みながら書いた文でありまして、興味をもって読んでいただけるのではないかと思います。

教えの一つとして、愛の発展段階説というものがあります。これは比較的に以前からあるのです。私の考えのなかにはけっこう古くからありまして、この本全体について、ぜんぜん構想がなかった時点においても、この発展段階説だけはわりに昔からありました。私は二四歳くらいのときに霊道を開いたわけでありますが、二七歳くらいのときには、この愛の発展段階説が、だいたい自分の考えのなかにでき上がっていたと記憶しています。

このときはまだ、商社勤めをしていたころで、私もいろいろと考えとしてはまとまっていたのですが、なにしろ発表する機会がないということで、思っていたことを原稿に一部書きとめていたりしていたこともあったのです。あるときちょうど社内報に執筆しないかという話が舞い込んできまして、それではこれを書いて見ようと思いまして、この愛の発展段階説、いまと多少違うところもありますが、要約はだいたいこのような内容で書いてみたのです。

原稿用紙四枚程度で書きまとめ、私の写真入りで出してみたところ、反響はありました。もちろんこういう思想的なバックグラウンドがあるということはみなさんご存じなくて、その原稿用紙四枚分だけを読んでの反響ではありましたが、けっこうたくさんありました。そして、写っている写真がぼけていたところが憎かったという感じで言われたりしましたが、ずいふん評判があがりました。

また、何か目に止まるところがあったのでしょうか、そのころ、ある新聞に、それが掲載されることになりました。社内報からということで、たぶんその新聞社ではいろいろな会社の社内報などを研究しているのでしょう。たまたま私が書いたものが目に止まったらしく、この愛の発展段所説を半分ぐらいに縮め要約したものが、五、六年ほど前に、掲載されたことがありました。そういう意味でも懐かしい部分です。

なぜそれほどに愛について考えたのかと申しますと、「たぶん愛されなかったから、愛をいただけなかったので、与えることに専念した」という考えもあったのではないかとか、それに至るまでにはいろいろと複雑な背景事情もあったのではないかとかんぐる方もいらっしゃると思いますが、私としては「愛の本質を探ろう」ということで、とにかく与える愛の専門になりました。ですから、このあたりについてはいろいろと深く蓄積があるのです。


2.愛ある人生


まず、「愛とは何か」というテーマであります。ここで、最初に私からみなさんへの語りかけといたしまして、愛という言葉のロマンについて述べてみたいと思います。たとえば、今日一日という日があなたに残されたすべての時間であるといたしましょう。そして、夕べには死すべき運命であったとしても、だれかに愛をささやかれたら、すべての人間は幸福の笑みを浮かべて死へと旅立って行くことができるでしょう。

みなさん、見栄とか、虚飾とか、このようなものをすべて去って、本心から話してみればどうかといいますと、ここに書かれているところが、ほんとうに真実であると感じられると思います。ほんとうに心から愛というものを感じることができれば、そのまま昇天してしまってもいいという気持ちがあるのではないかと思います。女性には愛にあこがれる方が特に多いのでしょうが、これは真実だと思います。

何が欲しいかと問われれば、それは食べ物であってもおなかがすいていればほしい気持ちがしますし、お金であっても、無いよりはあったほうがいいのでありますし、服にしても無いよりあったほうがいい。

このようにいろいろあるでしょうが、やはり一生の思い出のなかで、こういう愛の体験といいますか、愛に深く心を揺すぶられた体験、その暖かいオーラのなかに浸っていた体験をした人と、していない人とではかなり大きな違いがあると思います。愛なき人生とは疲れ果てながらも砂漠を歩む旅人の人生ではないでしょうか。一方、愛ある人生とは、道行く砂漠のなかに、その所どころにオアシスがあり、花が咲いている人生です。


3.愛を感じ取るということ


そして、愛についての問題をさらに語るとするならば、「愛とは何か? だれが正確に愛を定義しえたか。」という問いかけがあると思います。こうしてみますと、この部分の定義はひじょうに難しいものになります。文学者であっても、詩人であっても、哲学者であっても、やはりこれを完全に「愛とは何か」というかたちで取り出して見せることができた人はいなかったのではないでしょうか。

愛の風景を語ることはできた。しかし、愛そのものを見せることも、愛とはこのようなものであるという存在証明に成功した人もなかったのではないかと思います。ほとんどが愛の風景説にとどまっていて、風景を語ることによってそれを感じ取れということであったと思います。しかし、愛とは人生にとって一つの大きなテーマであり、喜びでもあり、幸福でもあり、悩みでもあり、苦しみでもある。愛は両極端であって、最高の幸せと最大の不幸とを合わせ持っています。人生の喜びの大半であり、また苦しみの大半でもあるのです。

「人生は一冊の問題集である」というテーマがありますが、このテーマのなかで、共通問題として出されている一つがこの愛の問題だと考えてもよいのです。各人に課せられた問題集のなかにはその人固有の問題がたくさんあります。それは、その人自身の人生修行に関する部分、またカルマに関する部分として固有の部分がありますが、しかし共通のテーマもやはりあるのであります。

人生の問題集には各人が避けて通ることができない、このような共通問題が必ず出ているのです。その共通問題の一つがまさにこの愛であります。これは、だれの問題集にも必ず載っているのです。これを通らずしては、問題集の最後までは行けないようになっているのであります。

そこで私の力には限界があるかもしれませんが、いろいろな形で愛について語ってみたいと思います。また、イエス様と話をしましても、「現代人にこそまさしくこの愛、ほんとうの愛とは何かを語る必要があるのだ。」と、このように強く言われているわけであります。


4.愛の探究と八正道


基本理論の枠組みそのものは、仏教の枠組みの発展の形態で考えておりますが、しかし、そのなかに盛るべきものとして考えてみますと、この愛の部分というのはひじょうに大きなテーマとして考えられているのです。これが今回の理論の一つの特徴であると言ってもよいでありましょう。したがって「八正道プラス愛の探究」、これがおそらく現代人にとって最も望まれる修行の姿であり、現代人に対する福音ともなるはずです。

ここに一つの私なりの解釈を提示してみました。要するに、ここ二年ほどでさまざまなことをやっておりますが、そのいろいろな枝葉を切って、突きつめて何を言っているかといえば、この八正道と愛の探究を言っているのです。中心はこの二本にあります。これをいろいろな形にアレンジし、また発展させ、変化させたりして、さまざまな理論を出しておりますが、やはり基本はこの二つです。

八正道に収斂(しゅうれん)されていく考え方として心の探究、正しき心の探究にかかわるいろいろな考え方があると思います。そして愛の探究です。この二つが大きな二本柱としてあると言ってよいと思います。ですから、いったいあなた方は、何を勉強しろといわれているのか、何を修行せよといわれているのかと聞かれたとき、「八正道と愛の探究です。この両方ができたら、だいたい一人前であると言われています。」と答えればよいわけです。

もちろん講師になるには試験に受からなければならないということはありますが、会員である以上は、八正道のことを毎日、一時間くらいは頭のなかにおいて、また生活においては、愛の実践に生きていれば、なんとなく会員であるような気がするというところです。

そして、簡単ではありますが、現代の日本人および外国人の方もあわせてみなさんにやってほしいことなのです。この二本がだいたい広がってゆき、みんながだいたいこの二本の軸で考えるようになっていけば、基本的なところにおいて、成功ではないかと思っています。

八正道、あるいは正しき心の探究と考えてもよいのですが、これと愛の探究の部分。一般的にはこの二つを常づね頭において、生きていっていただけるならばもうそれで十分であります。しかし、これだけのことが全国に、そして全世界に浸透し、伝播するためには何十年もの時間がかかるのです。ひじょうに膨大な時間がかかるということであります。


5.愛の臨在


私たちが愛について考える機会はたくさんありますが、愛そのものを見たという人は一人もいません。愛とはそれを手にとってみることもできないし、これが愛ですと言って取り出して人に見せることもできません。しかし、確かに存在するのです。私自身、愛の存在を信じていますし、また、みなさんもやはり見たことはなく、また取り出して見せることはできないとしても、愛というものはあると信じておられると思います。

神への信仰のみを信仰と考える方が多いなかで、それでは愛ということはどうなのであろうと、考えてみたときに、ここに書かれてあるところにひじょうに近い部分があるのです。イエスは「神は愛なり」と言いきっておりますが、これを違うかたちで話してみるとこのようなことになるのではないでしょうか。

「神という言葉をいったん消し去りましょう。貴方は愛というものを信じますか?」、こういうかたちで聞いてみればよいわけです。「愛を信じます。」という方はけっこう多いでありましょう。

「どうしてそのように思われるのですか?」と聞いたときに、やはり返答に困ると思います。「うーん………。なんだかよくわからないが、あるような気がします。」というわけです。「説明してください。」といいますと、たいてい場合は人間関係の話をすると思います。

たとえば、夫婦があってお互いに仲むつまじく暮らすと、それが愛であるとか、子供と親とが仲よくやっているのが愛であるとか、恋人どうしで慰めあっているのが愛であるとか、このようにケースごとの説明はできるのです。ではいったい、理念としての愛とは何か。純粋に愛とは何かを説明してください。こう問われたときにわからないのです。答えきれないのです。

しかし、説明はできなくても愛というものが存在するということを、人は信ずることができるのです。まさしく、信仰の原点はここにあると考えることも可能です。

神を信じよとはいわないでもよい、「愛を信じよ」といってもよいのです。その愛こそは、実に神とよく似た存在ではないでしょうか。

愛とはすなわち風のようなものです。だれもがその存在を信じ、それが存在するという感覚を共有しながらも、それを客観的に証明してみせるわけにはいかないのです。私たちは愛の存在を証明することはできません。しかし、愛の臨在を感じ取ることはできるのです。これが愛であると取り出して見せることはできなくとも、そこに愛があるということを感じ取ることはできるのです。愛とは何と神によく似た存在でしょうか。「神は愛なり」というイエスの言葉を私なりに説明するとこのようになるわけです。こう言われてみれば、なるほどと思われる方もけっこう多いのではないかと思います。


6.真実永遠なるもの


イエス自身も神の姿を人に見せることはできなかったけれど、次のように語っていました。「私の言葉を聞く者は、私の天なる父の言葉を聞く者である。父が我にきて今、語っておられるからである。私の業を見るものは私の天なる父の御業を見るに同じである。父が私にこの業をなさしめているからである。」これは、いつもイエスが言っていたことであります。自分の語る言葉、行ないを通し、あるいはそれに接して神を感じとりなさいと常に言っていました。その権威ある言葉、そしてその無限のやさしさ、そこに神を感じ取れと、イエスはいつも語っていたわけであります。ここで私たちはさらに考えを進めることになります。

しかし、神に似たものというのは、それは愛だけであろうか。こう考えてみますと、ほかにもあるのではないでしょうか。たとえば勇気という言葉、英知という言葉、善・やさしさ・美・調和・進歩・慈悲・真理・真心・無心、こうした言葉を私たちは無前提によいものだと考えているけれども、その本質はいったい何なのでしょうか。「その存在を証明して見せてください。」と言われたときにできないものばかりです。できないものではあるけれども、いちばん値打ちがあるものなのです。こう考えてみますと、この世の中でいちばん値打ちがあると思われるようなものは意外に証明になじまない、ということを知るにいたるのです。

それゆえに、証明しなければ信じられないという論法は、これは神、あるいは霊という一点に集約されていたのかもしれませんが、この論点を別のところに向けて、それでは、勇気とは何かを証明できるでしょうか。英知とは、善とは、やさしさとは、美とは何ですか。それを科学的に証明できますかと言われたときに、もはや、これは土台が違う、座標軸が違う、土俵が違うということを感じなければいけないのです。

感覚的に訴えるもの、あるいは計量的に計られるもののみがすべてではなく、ほんとうに意義のあるもの、ほんとうに値打ちのあるものは、そのままこの世界に跳入していかなければわからないところのものであります。


7.信仰の立脚点


けっきょく、肉体人間の感覚でもってはわかりえず、霊となって、生きながら霊的に認識力を駆使して、直観把握しなければほんとうに大切なもの、ほんとうに人間にとっていちばんだいじなものはつかみきることはできません。

しかし、この部分がなければ、哲学や、文学や、詩や、宗教といったもの、こういうものは一切いらないのです。この部分があるからこそ、この不可思議な、しかしてだれもが感じ取りながら、それをつかみ出すことができない世界があるからこそ、哲学や、宗教や、詩や、文学や、さまざまなものが存在するのです。そして、それを追究することが、何千年、何万年と続いてきたのです。そのように考えていただきたいと思います。

ここに信仰という言葉の説明が出てくるわけです。推定することはできるが、それを証明することはできない。しかし、そのなかにすばらしいものがあり、それがあると思うことによってすべてが光り輝いて見える。このような事実を受け入れること、これを信仰というわけです。

二〇次元以降の超高次元の存在とおぼしき神、これを三次元の基準ではかることは、きわめて困難であります。三次元といわず、四次元、五次元の存在でさえ、あるいは六次元、七次元の存在でさえ、私たちはひじょうに遠いものと感じています。そして、彼らの存在様式、活動様式はなかなかわかりません。ましてや、その根源の神というものの証明ということはどれほど難しいかを感じさせられるものであります。

したがって、この信仰という言葉は、けっきょく、本源なるもの、真実なるもの、その内の内なるものを善と認めるところから出発するのです。それをよきものと、ア・プリオリに、先験的によきものがあるということを認める立場なのです。これは、人間社会、あるいは神がつくられた社会のなかで、人間が、それがよいと認めたからよいというものではなくて、人間のこの判断や、理解を越えて始原的にもともとよいものがある、すばらしいものがあると考えるか、考えないかという分かれ目なのです。


8.真・善・美を哲学的にとらえると


哲学的な議論に多少なるかもしれませんが、私たちが物をみて美しいと感じるのは、人間がその美しさをいろいろと研究した結果、、美しいと感じるのかどうか、というところに論点がいくわけです。

たとえば目の前に花瓶があるとします。そして美しい色とりどりの花があって、これを私が美しいと提起したとしますと、たいていの方は賛同されると思います。美しいということでは賛同されるのですが、これをなぜ美しいと感じるのかという問題です。これについて説明してくれと言われたときに、どのような説明ができるでしょうか。ピンクの色が美しいとか、緑とこの赤っぼい色との対比がいいとか、バランスがいいとか、薄紫がいいとか、いろいろあると思いますが、なぜそれがいいのかといわれたときに、この説明はひじょうに苦しいのです。説明ができないのです。説明はつかないけれども、しかし、見ると美しいし、いいと感じるものがあるのです。

すなわち、私たちがある事実に基づいて判断した結果、これが美であるとか、善であるとか、真実であるとかという価値が生じるのか、私たちが研究し分析した結果として認定されるものなのだろうか、あるいは美というものなら、私たちが研究分析しなくても美はもともとあるのか、私たちが議論をする前にあるのかどうか、ここに問題があるのです。こう考えますと、私たちは花が美しいというときに、その美しさについてその理由を、だれにでも納得できるように説明をすることができないのです。

なぜあの海が美しいのかと言われても何ともいえないのです。「何ともいえない輝きが美しい。」というような言い方になってしまいます。そうです。これなのです。いま私は美という例を引きましたが、善というものをとっても同じです。やはりいろいろな説明がされます。これはこうだから、こうだと言い、これは善いこと、悪いこと、というように言うことはできるのですが、突きつめていったときの善とはいったい何なのであろうかといったときに、これはひじょうに難しいものがあります。

あるいは真実の真です。これは真であるということでも、突きつめていくとやはり難しいのです。研究分析の結果、真であると証明されるのかどうかです。この真であるという証明を科学実験のように、何回繰り返しても同じになるから真である、という方法論に限定したときに、私たちはそこから外れるものが数多くあることを発見せざるをえないのです。

たとえば、地球が自転しています。これは一つの真理であり、真ということでしょう。確かに回転しています。しかし、なにゆえにですか。これを説明できるでしょうか。なぜ、自転するのでしょうか。なぜ、何億年も回転していなくてはならないのでしょうか。この理由はありましょうか。そして、その地球はなにゆえに太陽のまわりを公転しなくてはならないのでしょうか。何か理由があるのでしょうか。いつも同じ方向にどうして回らなければいけないのでしょうか。たまには気まぐれを起こして逆回転をしたり、上に上がったり、下がったりいろいろしてもよいのではないでしょうか。

なにゆえ同じ方向に回転するのでしょうか。このあたりが納得いくでしょうか。どうでしょうか。真ということであっても、なぜにということがわからないのです。そのような領域は数多くあり、そのなかにこそ、ほんとうのものといいますか、いちばんだいじなものがあるのです。よくはわからないけれども、それはそのとおりだなという部分がやはりあるのです。

このようにア・プリオリという言葉で、哲学的にはいいますが、アというのは前提的に・先天的にという意味なのです。先天的というのは生まれる前からということです。仏教でいえば、父母未生以前の自己というようなもので、両親が出てくる前の自分はいったい何であったのか、というような自己像です。これと同じことでありますが、存在の前にあったかどうかです。存在に先立って理念があったかどうか。このような問題になるわけです。


9.哲学の二つの流れ


このように考えていきますと、美とか、勇気とか、正義とか、善とか、このようなものは、私たちが研究し分析してそれがよいと認めたからそうあるのでなくて、人間がその議論をつくす前に、知識によって考える以前にやはりあるのではないか、という観点が強くなってきます。これが先験的立場です。

この立場とは逆に経験論的立場というものがあります。これは、人生で経験したものだけが真理であるという考え方です。経験論哲学の流れであります。実際に経験され、そして、それが真理のレベルまで消化されたものだけが真実であるという考えです。いろいろな経験を通して得られたもの、それが普遍性を持ったときだけ真実であるという考え方です。これが経験論です。この経験論と、経験論でない先験性を考える理論と、これは哲学界でも二つの流れとして現にあるわけです。

しかし、真実はどちらかと言えば、明らかに私たちの議論の以前に真実はあるという世界です。これを認めざるをえないのです。私たちの価値判断の以前に、現に美しいものがある、現に善いものがある、現に真実のものがある、という考え方、これが実は宗数的にいえば信仰ということなのです。これが信仰というものの本質です。

ふたたび、哲学的に表現すれば、第一原因論ということにもなってゆくでありましょう。物事はいろいろと結果が現われておりますが、結果の前には必ず原因というものがあります。みなさんがあるには両親がありましたし、今日そこにいるということに到る前には、そこに移動したという事実があります。必ず前の行為があって現在という結果があります。その前に何かがあって、今、みなさんはあるのです。

私が着ているこの服にしても、結果として、このような服になっておりますが、これにも原因行為があるのです。もちろん布を作る前の糸の段階、糸のもっと前である繊維の段階からあります。糸ができて、これを織りあげる段階があり、形ができて、サイズを計って作る。それを持ってきて売場に出し、そして買います。そのような過程があってはじめてここにあるのです。

しかし、原因結果の連鎖を深く深く探っていっても、最初の部分というのはわからないのです。あの鶏と卵の議論と同じです。鶏が先か、卵が先か、考えれば考えるほどわからなくなるといいます。さらに、それ以上にいろいろなものを考えていっても、第一原因へと遡(さかのぼ)っていきますと、わからない部分があります。つまり、ここはわからないけれども、第一原因として考えるか、考えないかということです。ここにも哲学的議論で行き止まりがあります。

これを第一原因である人智を越えたものとして、やはり何かあったのだと考える考え方は、これは哲学的アプローチからいった信仰であります。ですから、経験論的立場に立つのか、そうではない先験論的立場に立つのかは、このどちらかで大きな分かれ目となってくるわけです。


10.経験論哲学を超えて


経験論哲学の流れのほとんどは、経験論哲学を論じている人たちが数学者であったりする事実と関係があるのです。彼らはそのように理論的に説明できないものは納得がいかないことが多かったわけです。しかし、その数学の以前のもの、すなわち、たとえば0という考え方、あるいは数字の1でもよいのですが、これは何であるのかということです。これでいきますと、けっきょく数学の世界であっても、実は信仰の世界に入っていくのです。

1というのはいったい何なのかといったときに、これはひじょうに難しい問題です。コップを1であると考える。グラスを1であると考える。マイクを1であると考える。この1とはいったい何なのか。それぞれを客観的に見たときに全然違うものです。しかし、1という言葉では同じに表わされているのです。この1の意味は何であろうか。これを考えていったときにわからないのです。物を分析していけば、いろいろなものの集まりなのですから。マイクが1本とはどのようなことなのか。グラスが1個とはどのようなことなのか。よく考えていただきたいと思います。

数学の世界でも、確かに1十1=2であるとか、2×2=4であるとか、このようなことであれば、そのとおりでありましょうが、その前提の部分、0とか1とかいった概念、これを証明できるかといえば、できないのです。けれどもこれを先験的に認めているのです。1というものをみなさんは認めます。グラス1個といいます。

しかし、この1個のグラスの1とはいったい何なのかと考えたときに、これを顕微鏡でのぞいて見たならばものすごく多数の粒子の集まりです。これを1というのです。あるいはコップ1杯の水があります。水の場合、これを1杯といいますが、これはいったい何なのだと考えてみたときにも、わからないのです。

数とはいったい何なのか。そもそも0とは何であるのか、0の概念も遡っていくと、これは仏教でいえば空と無の理論、このあたりと関係してきます。そして0とは空か無か、どちらのことを意味するのか、と考えたときにかなり難しい理論になってきます。はたして無なのか。無のことを0というのか。

しかし、0が無であるとするならば、0が数学に持ち込まれて使われるということはいったいどのようなことであるのか。1X0=0になる。2×0=0になる。これはどういうことなのだろうか。

たとえばグラスと瓶が2個あります。この2個のものに0を掛ければ0になるということはいったいどのようなことでしょうか。0とはいったいどういうことなのでしょうか。不思議です。まるでブラックホールのようです。現にあるものに0を掛ければなくなるのです。消えてしまう。これはどのようなことでしょうか。これを信じられるというのは、数学者は信仰の世界に生きているということなのです。そう思わざるをえないのです。私は納得がいかないのです。

現にりんごが2個あるといたしましょう。2個に0を掛ければ0になる。これはどういうことなのか。なぜりんごの2個が消えるのか。この説明をしていただきたい。できないのです。この0とはいったい何であるのかわからないのです。あるとするならば、創造と破壊の神がいて、0とは破壊の神のようなものです。一瞬にして消し去る力ですから、神様でなければ、このようなことはできないのです。

もちろんそのほかにも無限大という、難しい考え方があります。このように数学の世界、証明ができていると思っている世界に入っても全然証明ができない部分があるのです。究極は信仰の世界に入っていきます。そのようなものなのです。ですから、自称、論理的に物を考えるという人でさえも、突きつめていくと、最後のところで行きづまってまいります。


11.信仰の原点


やはり、どうしても前提的に認めなければいけない部分があるのです。これがいったい何なのかということであり、それは人間の知性の産物として許される存在か、または人間としての知性的な活動の以前にあるべきものかということになってきます。

これを思ったときに、やはり私たちは謙虚に考えなければいけないのです。ギブアップせざるをえないところがあるのです。白旗を上げ、両手を上げなければいけない瞬間があるのです。これがやはり結論であろうと思います。ここに信仰の原点があるということです。私たちの理解や、あるいは認識で説明がつかないもの、そして無前提にやはり宇宙の根源であると思われ、そして善いもの、すばらしいもの、と思われるものがあるということです。これを認める立場を信仰というのです。

「信仰とはナンセンスだよ、君。」という人にぶつかったときは、このような話でもしてみてください。

「それでは、数字の1というものを説明してみてください。どういうことでしょうか。0とはいったい何でしょうか。」これを言っていただきたい。

このようなことを考えていけば、神を考えなければしようがないのです。すべてを消し去るような0というものは考えられないのです。「このように0というものを君たちは平然とコンピューターにインプットして計算してはいるけれども、いったいどういうことなのか。」といわれたときに彼らはわからないのです。これが数学における信仰の世界です。私はそう思います。このように哲学的にでもよいのですが、さまざまなアプローチで、全世界を創っているもの、あるいは人間の心のあり方を探究するときに、そこにやはり人間心を超えたものがある、ということを認める立場を信仰といいます。特定の神様を拝むことが信仰ではありません。このように理解していただければけっこうであります。


12.愛のシャボン玉


「愛の力」について語ってみたいと思います。「愛とは私の知るかぎり、この地上では、最大の力をもっております。そしてこの世を去った実在界、四次元以降の多次元世界においても、愛は最大の力です。」と『太陽の法』で述べてあります。

なぜ最大の力かということでありますが、愛の力とは実は、結びつける力であるからです。排斥しあう力が弱まれば、結びあう力は一人の力を二倍にも三倍にも強めていくのです。これはまことに不思議なことです。私たちは人間という立場から、人間と人間の間にある愛というものを考えますが、この立場、物事の観点といったものをかえて見るとどうなるでしょうか。

すなわち、愛というものがあって、そこの立場から人間を考えてみたときにどうなるかということです。ある人と私との間に愛が生まれるとします。すると二人の間に風船のようなシャボン玉のような愛ができ上がるわけです。直径ニメートルくらいの愛があるとしましょう。このようなことが愛と人間との関係学でもありましょう。そして、逆に、この人と人との間にあるシャボン玉のほうから二人を見るのです。

この愛の観点から人間を見ればどうかと考えていくわけでありますが、そうしますと、まことに不思議な世界が、ここに展開してまいります。自分は愛というシャボン玉であるわけです。シャボン玉としての愛がこのように世界を見ていくのです。そうすると不思議なのです。自分という愛のシャボン玉が間に入っていくと、まわりの人間が変わってくるのです。目は生き生きとしはじめ、行動的になり、そして気力は増し、そして活動的になり、いろいろなことを積極的にやりはじめます。そして世界がバラ色に見えてきます。どんどん仕事はするし、家庭のほうはうまくいく、そして人間関係は潤滑油があるかのように流れていきます。いろいろな人と会えば必ず笑顔を振りまきます。その人に会った人もなにかうれしくなって喜んでいきます。

このように、愛のシャボン玉のほうの立場から見ておりますと、自分がここにいるだけで、何だか知らないけれども、人間と人間との間の力が増えていくわけです。別の言い方をしますと、人と人との間に一個の愛のシャボン玉があり、そのシャボン玉によって結ばれている人がいろいろな所を動いてゆき、またその人と接した他の人との間にも愛のシャボン玉が生まれていくのです。たくさん生まれていくのが見えるわけです。まことに不思議でありますが、まさしく、ゾンビの反対でありまして、地獄霊に取り憑かれておかしくなる場合と逆に、愛の霊に取り憑かれた場合といってもいいかもしれません。その愛の霊にとり憑かれた場合、伝染していくわけです。無限に増殖していくのです。ウイルスのごとく。この力はすごいものです。


13.広がる愛の輪


一人の人間が持っている力には限りがあります。また、いろいろと他の力を考えてみても限りがあります。それは人間の持っている力には有限性がどうしてもあるのです。自己増殖していくような力というのは考えてみても、あまりないのです。しかし、愛の力だけは、自己増殖していくのです。パンに入れたイーースト菌のように、自己増殖してどんどん大きくなっていきます。

たとえて言えば、ゴルゴダで死んだイエスという人の愛があります。この人の愛というのも、考えてみれば、ものすごい増殖率です。イースト菌で発酵させたパンどころの話ではないのです。聖書のなかにも出ておりますが、要するにパンを何切れか取り出して、裂いて分けたら三千人、五千人の方が満腹になったと書いてあります。

物質化現象でそのようなこともありえるのでありますが、この部分をもっと深く考えれば、愛というものを分け与えたら、その愛が無限に広がった、という意味にもとれます。これは五千人どころではありません。イエスがこの二千年間に分け与えた愛というのは、いったいどれだけの量でしょうか。おそらく、億という単位でも数えきれないくらいの量であると思われます。一人の人間の愛がそれだけ増殖したのです。

人間の一日に歩ける距離、これは限られたものです。持ち上げることができる重さにしても、限度があります。いろいろなものがありますが、そのカは限られています。頭がよいといっても、それは知れています。それほど人の何百倍も何千倍も頭のよい人などはいません。せいぜい人の二倍か三倍で、仕事の能力からいっても、せいぜい十倍ぐらいのものではないでしょうか。それ以上できるかといえば、できないのです。人間には限界があります。

しかし、この愛の力というのは、自己増殖力があるがために無限大に広がっていく可能性があるのです。この意味において最大であると言っているのです。地上においても最大でありますが、霊界においては、もっと強い力を持っているのです。この伝染力、すなわち、影響力というのが実在界においては、地上よりもっとストレートに出てくるのです。それゆえにこの力は巨大になっていきます。一人の人間に端を発した力がものすごく大きくなっていくのです。

以前にNHKで「大黄河」という特集をやっていました。私も少し見たことがあるのですが、黄河の淵源というのはチョロチョロ流れていて、水があるかがないかがわからないくらいなのです。それが下流にいきますと、あのように凄いうねりになっているのです。たとえていえばあのようなものでありましょうか。チョロチョロとしずくを流したようなものがいつの間にか巨大な水流になってゆき、信じがたいほどの力を発揮します。あのようなものです。人間の持っている力においては、あのような形で大きくなっていくものは、ちょっとほかには見当たらないのです。このようなことを言っておきたいと思います。