目次
4.自分の畑を耕せ
9.箴言(しんげん)
10.心の世界の法則
11.箴言(しんげん)
1.大いなる使命への目覚め
善川 私は昨年夏あなたから、私が前世において日蓮聖人のお弟子の一人であったと聴かされましたが、これは事実でしょうか。
日持 そうです、そのとおりです。
善川 過去世の名ある人びとに比べ、私に至ってどうしてこうも無能な人生を送る結果となったのでしょうか。
日持 あなたの未来はこれからです。これからがあなたの本当の生き方です。一九八一年に、あなたの周辺に新たな始まりが訪れたのです。これからがあなたの本当の使命です。あなたの過去はこれから始まることのために用意されてきた準備期間なのです。
善川 それでは私にとって、あと残されたこの世の時間というものは本当にわずかなものだと思いますが、そのわずかな時間に私がなすべきことがあるというのですか。
日持 あなたもかつての天上界の住人ではないですか、何を気の弱いことを言われるのですか。あなた自身がこれからの時代に、大きな使命をもって生まれてきているのではないですか。
善川 そう言われても、自分にそれだけの能力があるとは思えません。
日持 大衆への霊的指導能力、これは、あなたにとっては、やがてこれから起こる日常の実践生活の中において、おのずから備わってまいりましょう。あまりにも異常に能力がついた場合にどうなるかといえば、自分自身の自力によって悟りを開かないで霊能を開いた場合、魔が入り込むという危険性があって、これはどうしようもありません。しかしながら、自分自身が悟り、己れの自力で霊道を開いた場合には、いかなる魔が自分に入り込もうとしても、それを退けるだけの力があります、勇気があります、自信があります。ですからあなたも、あなた自身に、もっともっと自力をつけてほしいのです。それには特別な修行も、鍛練も何もいりません。あなた自身の心、あなた自身の行い、それが仏教的にいえば、アラカンの境地に達したときに、私たちはおのずと、あなたの開かれた心の中に、自分たちの心を投影し、自分たちの言葉を正確に伝えることになるでしょう。あなたは今、自分の使命に気付いています。そして今決意を新たにしています。それでいながら自分の過去に自信がなかったため、自信を持てないでいるのです。今後、今までと変わったことをやれといわれても、できないのではなかろうかという不安を持っている。それだけです。
善川 今後、私に大きな使命があるとしても、それがいかなる目的をもつものであり、その手段、方法はいかなるものによるのか、今は何も分かりません。
日持 方法論は言えません。それはあなた自身が選ぶのです、それが修行です。
善川 それが定かでないために――。
日持 言えないだけです。定かです。決まっております。もう見えております。道は敷かれているのです。もう道はあるのです。その道をあなたは真っ直ぐに歩くだけです。しかしそれを私たちは語れません。それを語ることは、あなたのこれから後の人生を無駄にしてしまいます。価値のないものにしてしまいます。
自らの価値は自らが作り出してください。誰がみても素晴らしいと思うような人生を送ってください。善川三朗のように生きたいといわれるような生き方を、あなたはしなければいけません。あなたは自分の過去の人生に対して自信がないようだけれど、あなたの過去の生き方はひじょうに立派なものです。社会的には名前はないでしょう。地位もないでしょう。しかし、あなたは自分の過去の人生に対し自信がないようだけれども、過ごしてきた数十年のあなたの人生のドラマというものは、一人の人間の苦闘する姿としては、ひじょうに素晴らしいものです。世の中の誰もがそのことを知らなくても、あなたがこの世でどのような一生を送ったかということは、あの世へ還れば、あたかも映画でも見るように誰でも知ることができるのです。あなたの人生は素晴らしい人生です。あなたの現在のたどりついた精神状態は、並の人ではとても到底到達できない境地にまで達しております。
自らの価値は自らが作り出してください。誰がみても素晴らしいと思うような人生を送ってください。善川三朗のように生きたいといわれるような生き方を、あなたはしなければいけません。あなたは自分の過去の人生に対して自信がないようだけれど、あなたの過去の生き方はひじょうに立派なものです。社会的には名前はないでしょう。地位もないでしょう。しかし、あなたは自分の過去の人生に対し自信がないようだけれども、過ごしてきた数十年のあなたの人生のドラマというものは、一人の人間の苦闘する姿としては、ひじょうに素晴らしいものです。世の中の誰もがそのことを知らなくても、あなたがこの世でどのような一生を送ったかということは、あの世へ還れば、あたかも映画でも見るように誰でも知ることができるのです。あなたの人生は素晴らしい人生です。あなたの現在のたどりついた精神状態は、並の人ではとても到底到達できない境地にまで達しております。
しかしあなたは、本来、自分が光の天使であるということ、本来、菩薩界の人間であるということ、そこにまで、まだ自覚が到達していないのです。
2.正法は他力依存ではない
日持 しかし、あなた自身の心がやがてそうなるのです。あなた自身の心が光明の世界へ近づいたときに、私たちは、自然とあなたを助けざるを得ないでしょう。しかし、他力依存になってはいけません。私の力を借りようと最初から思ってはいけません。そのような心では精進にはなりません。あなたは、あくまで自力で、自力で道を選びなさい。そのときに私たちはそれを助力するのです。
私たちの助けを最初から得ようとしてはいけません、それは他力依存です。間違ってはいけません、正法は他力依存ではありません。しかし、人間は一人だけで正法を説くことはできません、仲間たちが協力して正法を説いていくのです。
また、自分で自力の人生を切り開いていこうとする努力なしに、わずかな霊能をたよりに人にすがろうとする心を起こした時は、魔が差し込みます。私たちは、たとえあなたの身の周りに、地獄霊や悪霊が寄ってきたところで、それを一時的な力によって払い除けようとか、そのようなことは考えません。あなた自身のその時点の有り様、こころの驕(おご)りがおのずから招いている姿であり状態でありますので、そんな場合私たちは、あなた自身が反省し、自らの力で立ち上るまで手を貸すことなくじっと見ております。非情に見えますが、それがあなたにとってためになるからなのです。
あなたには今後大きな使命があるのです。使命がある以上立ち上らなければなりません。勇気を起こして、自信をもって、立ち上らなければいけません。過去世において己れが何者であったかというようなことは、それほど大事なことではないのです。今世においてこのような「正法」に結ばれて、このような環境に生まれてきたということは、ひじょうに恵まれたチャンスを与えられたということです。このチャンスを生かすも殺すもあなた自身です。過去世は過去世、あなたは今、今世を生きねばならない。あなたは今、ひじょうなチャンスに恵まれているのです。あなたは既に、このように私の言葉を聴けるようになったではありませんか、並の人間にこのようなことができますか、修行もせずにこのような能力を持ったではありませんか、この機会を神に感謝しなさい。
3.正法流布の基本姿勢
善川 今後の研究勉学方法についてご指導願います。
日持 既に勉強しているではないですか、本日ただいまも勉強しているではないですか。勉強というものは、特定の型があってやるものではないのです。その機会、機会に、折に触れ機に触れ、自分の心のおもむくままに勉強していきなさい。
善川 特殊な研究はしなくともよいとおっしゃるのですか、私は宗教に関する古典をこの際研究してみたいと思うのですが。
日持 あなたは、今あなたが触れている教えが一体何であるかということを自覚しているんですか、本当に自覚しているんですか。
善川 おことばですが、私が言いたいことは、今後私が接触していく多くの人びとの中には、いろいろな宗教や教義や主義思想を持っている人たちが居ます。その人だちと話をする場合、その人たちの教義或いは主義、または思想というものを知らずしては納得いく話ができない、つまり私の話に説得力が欠けることになるように思えてなりませんが、仏教者には仏教者の、キリスト者にはキリスト者の、彼らが持っている信条というものを私が理解していなければ……。
日持 まず、私はあなたに言っておきますが、あなたは宗教戦争するために、現在生きているのではないということ、理論闘争するために現在あるのではないのです。他の宗教を撲滅するために生きているわけではないのです。あなたは自分の信ずる教えを信奉し、自分の行いを他人に施しなさい、そうする行為の中において、あなた自身の考え、あなた自身の思想、あなた自身の行動が人びとに対して与える影響によって、周りの人は変わっていくのです。周りの人が考えるところの、抱いているところの宗教を取り除こうとしても、そのようなことはできないのです。そうではなくて、もっと本質的な、人間的なことによって、彼らを変えていきなさい。彼らがどのような考えをもっていようと、それはかまいません。そのようなことにとらわれてはいけません。まだまだとらわれています。キリスト教を信ずる人にはキリスト教的に道を説けばいいんです。仏教を信じている人には、仏教的に道を説けばいいのです。キリスト教を信じている人に、むりやり自分の方へ引きずり込もうとしても、それはできない考えです。キリスト教もすばらしい教えです。その中において彼らの本当の生きる道を教えてあげたらいいでしょう。
私のいっていることが分かりますか、ただ私が言いたいことは、現在のあなたは、他の宗教を何十年も、一つの宗教を勉強した人たちを、論破するほどの知識は、今のあなたにはないということです。ですから、無理はしなさんなということをあなたに言いたいのです。このような言い方は厳しいですか。
善川 ―あなたのおっしゃることは行動の原理としてはよく分かるのですが、それだけでなくて、私は知識の勉強の足りなさを補う必要はないかと思うからです。
日持 聖句の一章一節を暗記したところで意味はないのですよ。そういう意味での学問的な聖書研究などする必要はないのです。ただ、イエスが言っていること、その中で真理があること、それは学んだらいいでしょう。しかし、その知識はもう既にあなたにはあるんではないですか。聖書学者たちを論破するために、そのような勉強は無益です。彼らには、彼らの生き甲斐があるんです。聖書を信じ、その章句をそらんじること、それは別に悪いことではないんです。そうではなくて、別の次元において、人間的な生活の次元において、本来のあるべき姿を、宗教でなくてもいいのです。釈迦の名を出さなくてもいいのです。エルランティの名を出さなくてもいいのです、そのようなことは関係ないのです。
4.自分の畑を耕せ
日持 あなたの畑を耕しなさい、あなたの田に稲を植えなさい。他人の畑に種を蒔(ま)くことはできません。他人の畑に育った作物を刈り取ることもできません。あなたの畑に作物を作りなさい。あなたの田に稲を植えなさい、そして刈り取りなさい。あなたはあなたの道を進みなさい。彼らは彼らの道を進んでいるのです。あなたは、そういうふうに、他は他、自は自、そういうふうな寛容の心を持たなければいけませんよ。一つに帰依しなければいけないという心は、すでに寛容のこころを失った証拠ではありませんか。
如来には如来の悟りがあるのです。菩薩には菩薩の悟りがあるのです。神界の人間には神界の人間の悟りがあるのです。しかし、彼らもいったん地上に肉体をもった限りは、己の最高の悟りと思うものを人びとに教えているのです。それはそれでいいではないですか。
善川 ただ、私が思うには、各人が各個に己の悟りに応じた教えを説くのは当然で、それはそれでいいと思うのですが、例えば、教育問題を語るという共通の場をもった場合、それぞれの意見に差ができ論争にならないとも限りませんが。
日持 共通のテーマについて共通の場で語り合うという場合、相手の意見によって自分の主張を曲げたり、下げたりするということが必要かというような心労配慮は全く不必要です。その場合あなたの主張を他の者が、仮に完全に理解できなくとも、それはそれでいいではないですか、論争などしてはいけないですよ。こういうことがあったと、事実として私が体得したと述べるのは別にかまわないではないですか。それを信じるか信じないかは向こうの問題であり、向こうが信じなかったところで、あなたは傷つくこともなにもないのです。そういうことです。ただ、他人に、田植をしている人にですね、他の田に田植をしている人に対し、―私はこういうふうに田植をしていますよ、私の田には、私の畑にはこういうふうにして苗を植えていますよ、こういう作物を植えていますよ―、こういう育て方をしていますよ―、こういうことを語ることはあなたの自由ではありませんか。しかし、他人がですね、近くで苗を植えている人、近くの畑で種を蒔いている人がそれを習うかどうか、それをどうみるか、それ自体は向こうの選択ではありませんか、そうでしょう。ただ、あなたの作物が立派に育ち、あなたの稲がたわわに稔(みの)った場合に、彼らも何かを感じとるところがあるでしょう。
ですから、まずひとを説得しようとする前に、己自身をもっと深めなさい。あなたはまだ自分が到達すべき場所まで到達していないのです。自分自身の田を、自分自身の畑を耕しなさい。まず、そのことが第一です。ただそのことについて、知っている人たちに対し言うことはかまいません。しかし、向こうが信じるか、信じないか、そこまで見込んではなりません。私の言っていることが分かるでしょうか。
5.本物と贋物(にせもの)との相違
日持 今後ものごとに処するに当って判断に迷うときは、自分自身の心を澄まし、清らかにし、自分の内なる声に耳を傾けなさい。自分が本当にどういうことを望んでいるか、じっと自分自身の心を見つめてみなさい。自分が本当にこうしなければいけないのかどうかということを、本当にこちらの方へ行きたい、進みたいという "うずき" があるかどうか、心の中にうずきがあるかどうか確かめてみなさい。うずきが本当にあるのであれば、それは正しいのです。それは私たちによって指導されている方向なのです。ですから今後自分自身の心をよく見てみなさい。内なる声が聞こえてくるか、考えてみなさい。そうすれば、あなたが今後、神理にかなった道を進む方向が明らかになりましょう。
今、あなたは真実の言葉を聴いているはずです。私のこの言葉を聴いたなら、真実のものは何であり、贋(にせ)のものは何であるか、偽りのものは何であるか、ということは分かってくるはずです。そうでしょう、刀を見たときにでも、それが本物の銘刀なのか、そうでない刀なのか、それは一目には分かりません、一見したところでは分かりません。しかし本物の銘刀を眺めていたならば、やがてそれが、贋物か本物か、刀を見た瞬間に分かるようになります。あなたは今本物を見ているのです。本物の言葉を聴いているのです。それをよく味わい、よく見なさい。よく身につけなさい。本物とは何かということをしっかり身につけることです。しっかりと見届けることです。そうすれば、本当かどうか、それは分かるはずです。何が本物であるか、何が贋物であるか、それを区別する基準は、本物とは何かということをしっかりと見届けることです。本物は何かということを、しっかり見なさい。しっかり学びなさい。そうすれば、そうすれば贋物は、はっきりとわかるはずです。
6.現在の環境は自己の選択と判断の結果である
日持 人生において、しばしば人は、己だけが不幸だと思うことがありますが、それは愚痴というものです。現在ある境遇は、すべて自分の選択の結果です。今まであなたは、そのたび、そのたびの選択をしてきたので、それで今のあなたがあるのです。誰のせいでもないのです。すべて自分自身が選んで、自分自身が現在の仕事をしているのです。そうでなければ現在の仕事をしていないんです。あなたが選んだのです。選択と選択を重ねて現在があるんです。その辺をよく考えなさい。自分は不幸にしてこのような仕事をしているなんて考えてはいけませんよ。あなたは、自分が選択して、今このような仕事をしているんですよ。それは一つの選択ではなかったはずですよ、幾つも、幾つもの選択が積み重なって、現在のあなた自身があるのですよ。いいですか、余儀なくされたんじゃないんですよ、自分の責任なんですよ。自分が選びとった責任なんですよ。すべてそうです。その時々の自分の判断によって、あなたは人生の道を選びとってきたのです。そうです。一つひとつの判断が積み重なってここにきているのです。途中で他の判断もあったでしょう。そのときには他の道へ進めたでしょう。しかしあなたはその判断はしなかった。そして今あるような判断をして現在、今あなたがあるのです。この責任は誰の責任でもないんです。あなた自身の責任なんです。自分自身で刈り取らなければいけないんです。その辺をよく考えなさい。不本意にも現在の自分があると考えては大間違いで、自分が思ったとおりの自分が現在あるんです。そうでなかったらこの現在もあり得ないのです。あなた自身の判断の積み重ねだということ、これはすべて自分に責任があるんだということ、一躍して、一転して新たな世界、新たな理想郷が開かれるという、そんなことはあり得ないんです。過去十数年の積み重ね、一つひとつの選択の積み重ねが現在として現われてきているのです。あなたは、ひじょうに他力的なものの考え方をしていることになります。
7.現世において後悔のできる人は幸せである
日持 もちろん後悔はあるでしょう。しかし後悔のない人生というものはないのです。誰もが後悔して還るのです。しかし、生きているうちに後悔できるということは、まだ有難いのです。死んであの世に還ってから後悔する人がほとんどなんです。しかしあなたは、生きながらにして後悔することができる。これは一つの恵まれた環境にあるのです。なぜなら、あなたは本来自分が果たすべきものが、どのようなものであるかということを、現在知っているからであります。それに達しない自分自身を振り返って後悔しているのです。しかしながら、大部分の人間というものは、生きているときに自分が何をなさなければいけないか、ここまではなさなければいけない、ということすら分からないのです。そういう人には後悔すら起きてこないのです。もっとひどい人になれば、死んであの世に還っても後悔すらできないのです。何が悪いのかさえ分からないでいる人さえいるのです。しかし、あなたは、現在生きていながらにして今、自分自身に後悔できる。自分自身はこのような人生でよかったのかどうかということが反省できる。これは、幸福なことなんです。死んであの世に還ってからではどうにもならないんです。肉体が無いんですから。
善川 そこでお伺いしますけれど、あなたは生前この世においでたとき、そして死後実在界へ帰られてから、自分の過去を振り返って後悔ということはなされましたか。
日持 しました。
善川 しかし、取り返しのつかない肉体時の後悔を、どう克服、精算し、今日の菩薩界上段階のあなたとなっておられるのですか。
日持 私、あなたに言いますが、たとえば "日持" として名前が残っています。あなた、私がひじょうに立派な活躍をしているから、名前が残っていると思っているかも知れません。当時の私を振り返ってごらんなさい。 "日蓮" さんも偉い人ですけれど、評価は定まっていません。今のように、こんなに何百年も後の世まで名の残る人だというような評価はないです。そのひとつの血気盛んな僧、 "灰汁(あく)" の強い僧侶です。その弟子にしかすぎないんです。そのお師匠さんについて学んだ僧にしかすぎないんです。分かりますか、鎌倉時代の数多い僧侶のなかの何千、何万という僧侶のなかの、私は一人の僧侶として、数十年の人生を終えたのです。生きているときに、それほど、高僧、名僧という名が立ったかといえば、立ちはしなかったのです。私自身、このようないわば "クソ坊主" として人生を終ってこれでいいのか、俺の人生これで終りか、随分と悩み苦しみました。大勢の人間は、大部分の人間は、そのように自分自身の人生を、十全に生き得なかったという不満感を残して死んでいくのです。だからこそ転生輪廻があるのだということを、あなたは悟らなければいけないのです。それだからこそ、繰り返し、繰り返し生まれ代わってくるのです。そこに魂の向上があるのです。一回きり完璧な人生を送ることができたなら、人間は転生輪廻などしないのです。そういう人間は、輪廻の枠からはずれている人なのです。これを如来の境地というのです。「如来」は自分の思うがままの行動ができるのです。この通常の凡人はそれができないのです。輪廻転生の過程をどうしても得なければならないのです。どうしてもそのようにして生まれてこなければいけないのです。それは、魂の修行が足りないからなんです。十分の人生を生きていないからです。これが「如来」と、そうでない人間との違いなんです。
私の当時を振り返ってみると、現在、日蓮の "六老僧" の一人としての名前は残っているかも知れませんけれど、私たちは後悔を味わっているんですよ。山の中でお寺に篭(こも)って、お経ばかりあげているんですよ。名前は残ったかも知れません。生前の私がやってきたことの一生を考えてごらんなさい。寺に篭って朝の勤行、夕べの勤行、まずいものばかり食べて、妻帯もせず、辻説法したところで人たちの心を変えることもできず、たいていは寺の境内の掃除とか、そのようなつまらない日々の繰り返しなんです。私の名前が残っているのは、後世の人たちが、そう賛(たた)えてくれたからなんです。もしそういう伝えるものがいなかったら、私は平凡な僧として私自身も死んでいったのです。
今のあなた自身の人生も、お寺のね、毎日のお寺の坊さん生活と比べてごらんなさい、もちょっと浮き沈みのある面白い人生を送ったのじゃないですか。総理大臣にはなれなかったかも知れないけれど、どうですか……。
善川 それはそうだと思います。上見れば切りなし、下見れば切りなしで、私の分に応じた人生であったかと思います。
日持 いつの時代もあなたはそうなんですよ。いつの時代にもあなたは縁の下の力持ちになるんです。いつの時代も自分自身、脚光を浴びるということはないんです。後の人は、あなたの名前を覚えているかも知れません。しかしあなたが、自分の人生を生きている間は、あなたはいつも縁の下の力持ちなんです。そのような役柄として人生を託されているのです。あなたはいつも縁の下の力持ちです。光の指導霊たちがこの地上に出て法を述べるときに、側面から援助する人が要るのです。それを下から援助する人が要るんです。日朗にしてもそうです。師、日蓮に従いましたが、彼自身それほど大きな仕事を残したかといえば、別に残してはいないのです。しかし、日朗なかりせば日蓮もまた或る意味ではなかったかも知れないのです。善無畏三蔵なかりせば、仏教の伝道はどうなったか分からないのです。しかし、善無畏三蔵そのものは、それほど仏教を編み出した人ではないのです。縁の下の力持ちなんです。そういう仏数的環境、仏教を伝えるための媒介者としての使命があったのです。あなたは媒介者としていつも生まれてきているのです。
8.地獄界の魔王、サタンとの戦い方について
善川 あなたにご理解ができますならお伺いしたいのですが、現在私どもの周辺にxxと称する地獄界の魔王、サタンが度々現われ、というよりはほとんど離れず憑依しているような現状ですが、これはどういうことを意味しているのでしょう。一体何が目的で彼はわれわれから離れようとしないのでしょうか……。
日持 その一つは、彼××が、現在の新興宗教である××密教の守護霊であるため、あなた方のうちの一人が、この教団にいっとき関係したことがあるということでしょうね。これで彼との道筋というか、縁ができたということが一つであります。もう一つは、やはりあなた方がこの正法、神理というのに触れて、これを将来布教しようとして考えていますから、これを邪魔したいということで、彼はその尖兵になっているわけです。
善川 ××は、私たちと話しているときはひじょうに悲しんで、自分がこのような境遇に堕ちた原因というものをいろいろ後悔したりするんですが、これは真底からの悔悟というものではないのでしょうか……。
日持 それはポーズというものです。そういうような振りをして騙(だま)しているわけです。やはりあれだけ千年もの問、地獄に堕ちていると、そう簡単にあなたのような方の話ぐらいで心を入れかえたりすることは、まず難しいのです。
善川 実は今日も来ておりましたが、
日持 まだおります。そこにおります。ね、××さん、そこに居りますね……。
善川 これは、われわれとしてはどうしようもないのでしょうか……。
日持 どうしようもありません。
善川 結局それの直接の影響を受ける者の心の状態を正す以外に方法はないのでしょうか――。
日持 基本的にはそうですが、まあできるだけ優しくしてあげることですね。優しくしてあげて、まあそれだけの対応をしてあげるということですね。そしてお引き取り願うということですね。やがて来なくなるでしょう。いつまでもは、まあ彼らも打算というものを大事にしていますから、こういうことをして割が合わぬと思いはじめたら、段々と足が遠のいていくわけです―。そのままでよろしいのです。特に余り考えないということ、意識し過ぎないということ、怯(おび)えないということが一番大事ですね。意識し過ぎて、また彼らに対しておぴえるという態度をとると、いつまでたっても来るわけですね。その怯えるという恐怖感、このようなものを持つといけない。来られたらもう帰らないんじゃないかという恐怖感、こういう恐怖感、これが呼び寄せている原因になるわけです。あなた方がですね、××などとは全く話する気はないと心に決めて、絶対に受付けないとすれば、居られないわけです。まだ受入れる余地が残っているから来るわけですね。この意識を全く切ってしまえば、話も絶対しないと、全然耳も貸さない、口も開かない、手も動かさないという形で、ピシャヅとシャッターを下ろしてしまえばいいのです。それは心の持ちようです。これと同じことが、私たちにもいえることです。あなた方にその気がなければ、私たちもこうした通信は全くできないのです。これは同じ原理なのです。波長の合うものの状態にのみ通じることなのです。それだけの問題なのです。だから怖がらないこと、意識し過ぎないこと、まずこれを学んでください。そして心の中を他のことばで満たすことですね。そうすれば彼らが入って来る余地がありません。
9.箴言(しんげん)
日持 ―魔王(サタン)は現世の人々の欲望の想念を自己の活動のエネルギー源としている。個個の人の欲望の念を集めれば物すごいエネルギーとなります―。
10.心の世界の法則
日持 心の世界の法則ですけれども、一応これから先に起こることは既にあるわけです。それは変えることは可能なのです。修正することは可能なのです。既に起こっていることですけれど修正可能なのです。そこに意志の力といいますか、信念の力、気力、というものの果たす役割というものがあるんです。 "像" はあるんです。しかし悪いことであっても、将来悪いことが起こるということが決まっていても、それは変えることができるのです。その辺がまだ十分にあなた方の理解の及ぶところでないんですね。この将来起きること、決まっていること、決まっていながら変えることができるという、この矛盾することが両立するんです。これが霊の世界なんです。先で起こることはもう決まっているのです。決まっているけれど変えることができるのです。
善川 決まっているというのは、例えば天気予報的な予想なんでしょうか、現在の雲の動きを見て何日後にはどの地方は雨になるとかいう予想なんでしょうか―。
日持 というか、あなたの心の中にある映像がそのまま現象になって現われてくるわけです。あなたの心の中には、あなたの未来はもう映っていて、もうあるわけですね。現にあるわけですね。現にあなたは自分の未来は予定しているんですね、予定はしているんです。例えばピクニックに行くこと、これは予想しているんです。今日行くか、明日行くか、来週行くか、行くのは行くんです。それをいつにするかという現象の形は変えることができるのです。
善川 誰しも予定というものはもう決まっているのでしょうか?
日持 生まれる前からの予定などということは余り気にしないことですね。もし本当にそのようになるんであるならば、各人本当にやる気なくなりますね。そうではないんですよ。それは大体のことはもちろん決まっていますけれど、それも変更可能なのです。神はそのように「自由」を人間に与えてくれているのです。ですから余り予定説などをとられない方がよいのです。
善川 こういうことを私は聞いているのですが、人間の運命というものは、その二分の一は業運として決定的である。ただ後の二分の一の半分、即ち四分の一は各人の努力により、さらに残りの四分の一は守護霊の善導による修正が可能だということですが、いかがですか、
日持 それは話の前提が違うのです。普通の人間として生きている場合にはそうであるかも知れません。しかしね、あなた、こういう言葉をご存知でしょう。―如来というのは輪廻転生の法則からはずれること、超えることができる、それを如来といいますね。まあ如来というのは一つのたとえですけれども、こういう霊能力を持っている人間というのは、ある意味において輪廻転生の枠を超えているのです。ある意味においてというのは、将来起こることが分かっておれば、それに対して軌道を自分で変えることができるのです。だから一般としては、一般の普通の人であるならば、将来起こるべく予定されていることはそのとおり起こっていくのです。しかしながら、このように、肉を持ちながら霊的能力を持っているということは、既にもうこれは、輪廻転生の法則、あるいは将来起こるべき図柄の変更が可能だということなのです。だからこれは例外現象が起きている。だからあなたがたは、未来に起こることを未然に察知すれば、未来を変えることができるのです。普通では変えることはできないでしょう。その意味において、もう枠を超えているわけですね。
さて、だからといって霊能力を持っているあなた方は、必ずしも、すべていい意味での任務を持ち、また果たすとは限っておりません。これは霊能力を正しく行使すればということですよ、その霊能力を正しく使わず、地獄霊どもにひきずり回されている状態では全然話が違います。自己の霊能力を売りものにし、多くの信者を集め、この世的利益にのみむさぼり走るとか、或いは、自分が特別な神の申し子でもあるかの如く誤解し、傲慢になり、その能力を嵩(かさ)にこの世的地位や、名誉に溺れるものがあるとすれば、そのものの行く手は明らかであります。地獄です。そこは最も厳しい無間地獄です。現にこの道を過った者たちが、数多くこの地獄で呻吟(しんぎん)しております。これは、今も言った霊能力の正しい使い方を誤った人たちなのです。
このように、あなた方も光の天使として生きることもできれば、地獄へ堕ちる自由も持っているわけです。
善川 その光の指導霊、大天使が今後多く出てこられるわけですが、その役割というものについては、個人個人別々なのでしょうか、全く同じような種類の仕事をするだけではないのですね。
日持 そうです。と言うよりもこうした疑問と応酬の中にも、既にもうあなた方の問われている答えは入っている。もし、あなたが役割があるかということを聴かれた、その役割がないのであるならば、私がこのように、いちいちここに出て答えることがあるかどうかということ、そのことを考えたらよろしい。
善川 指導霊たちは、それぞれ異なった役割を担当して出てきているわけですね、それが各人について定かにされていたら―、
日持 あなたはなにを言っているのですか、要するにあなたは私に、誰がどういう役割を持って生まれているか、それを言ってほしい、そうすれば、そのようにやってゆくだろうからといっているのでしょう。私はそれがおかしいと言っているのです。あなたや、あなた方がなりたいと思うように、あなたたちはなるのです。あなたがこうなりたいと思うことを、もっと明確になさいと言っているのです。あなたには、自分がどうなりたいかという、その明確な像が充分に出来ていないのです。どうなりたいのかということをはっきりと思いなさい。そうすれば、そうなるでしょうといっているのです。自分のあるべき "像" を心のなかに描いてごらんなさい、そのとおりになるのです。
善川 その像をはっきりさせるということが、正しい方向なのかどうかということに迷っているのです。
日持 信念です。もっともっとまじめに思うことです。よく思うことです。もし間違っている像であるなら、やがてそれは消えていくでしょう。
善川 例えば、職業に何を選ぶかの違いによって将来の方向が変わってくるということはありませんか。
日持 ないです、職業について格別予定はないのです。何をやってもよいのです。お好み焼屋をやってもよいのです。たこ焼屋をやってもよいのです。先生をやってもいいんです。そういう予定はないのです。あなたの予定は違うところに予定されて生まれてきています。
本来の仕事というのはもう決まっています。職業は食べるための方法ですね。あなたそれを軽視して出てきているんです。どうやったって生きていけるぞと、食っていけるぞと、思って出てきているんです。この地上に、だからそのような生活になってきているのです。そのとおりです。明確な職業意識を持って生まれてきていないのです。それが一生の目的ではないのです。
善川 私は人に何かを教えたいという思いといいますか執念が強いのですが、そういう思いは今回の生まれてきた目的と関係がありますか。
日持 魂の傾向です。あなたが過去世に獲得したのが今出ているのです。そういう職業、人を教えるというような職業が多かったのですね。そのくせが出ているわけですね。職業が不安定であったということを、主体的な側面から見るならば、大きな誤りがあります。その一つは運命論的なもの、先天的なもの、与えられた環境、そういうものの見方をし過ぎたということですね。自分の力によって主体的に獲得していくという主体性、自主性にあなたは欠けておりました。職業は選びとることができるものです。また自分を生かすこともできるのです。あなたは環境や、与えられたものに対する言訳が多過ぎたと、私は考えます。それはそういうものごとのせいではなくて、あなたの主体的な意志の弱さに起因しているのです。あなたは一筋に生きたいという生き方ができなかったことに対する後悔があります。あなたが一筋に生きたというただ一点は、一生涯を通じて、霊的なものの考えに興味があったということですね。それは一筋につながるものでありました。しかし、仕事の方はそうではありませんでした。しかし、霊的なものに興味を持つのがあなたの人生であっても、それを職業にするということは、ひじょうに困難なことです。もし、あなたの本質的なものが真実神に仕える自分というものを悟ることであり、それが一生の使命であったとするならば、何を職業にしてもそれはそれでよかったのです。
あなたが世俗的な成功をしなかった理由の一つには、あなたは世俗的な成功を悪しきものと思う考えがあったのです。人間は世俗的な成功をするためにこの世に生まれたのじゃないのだと、もっと霊的なもの、神を求めるもの、もっと精神的な生き方が人間にはあるはずだと、そういう思いがあったのですね。そういう思いを抱き続けている以上、逆に世俗的な成功、これは難しいことになるのですね。もともと、それは求めているのですが、求めていながらも、反面、その場、その場で否定していくものだから、現在のような境涯にたどりついたということになるのですね。ただ、これから先の職業については悩むことはありません。与えられます。もう既に用意されています。これは悩まないこと、これはもう用意されています。これがあなたの人生観に役立つような職業として、用意されております。
善川 その職業というのは生活上のことですか、そしてまた、その職業が、私が本来求めてきた「神の道―正法流布」にかなった職業なのでしょうか。
日持 そうです、そのような職業が与えられることになるでしょう。今後もっと人びとの役に立つような仕事が与えられましょう。
善川 まあそれは、できればね。
日持 できれば、というような否定的な考えを持たないことです。そうなるのです。そうなると信じなさい。神の御意(みこころ)に帰依しなさい。そして私たちの言うことを信じなさい。そして自分にそういう仕事が与えられることを信じ祈りなさい。そのとおりになるでしょう。あまり否定的に考え、悩み過ぎないことです。あまり悩むと身体の毒になりますよ。安心していなさい、もっともっと仕事があります。まだまだ先があります。あなたにはまだまだ先があります。あなたは長生きをされます。まだまだ寿命はあるのです。その間せいぜい気を若く持って、健康な身体で働けるような準備をしておきなさい。老い込んではいけませんよ。気を若くして、健康な身体の管理、これはあなたの意志でできることですね。この気を若くするということ、健康な身体の管理に心がけていってみなさい。そして自分の目的とする正法、神理の探究に精進しなさい。仕事はこれからは与えられていくでしょう。まだ素晴らしい仕事が待っています。人びとはあなたを必要としています。あなたは、自分が必要とされている人間だということを、こころの中に刻みなさい。私は人びとから必要とされている人間だということ、まだまだやらなければならない人間だという思いを強くしてください。
まだやるべき仕事がたくさんあるのです。それを信じてください。
まだまだあなたは死ぬことはできません。まだやるべき仕事をやっていないのですから、積み残しの仕事を置いてこちらへ還ってきたら、私たちはあなたを叱るつもりでおります。仕事を置いてこちらへそれでも還ってこようとしたら私たちは押し返します。そうはさせません。きっと叱るつもりでおります。どうか最後まで頑張って、務めを果たして還ってきてください。
11.箴言(しんげん)
日持 ―宗教の世界においては知識の多寡は問題でないのです。学歴も、教育も、教養も関係ないのです。宗教の世界はそうではないのです。これは心の世界です。心の世界は万人に平等です。万人は心のもとにおいて平等なのです。心の使い方において平等なのです、心のもとの平等なのです。
宗教とは何か、宗教とは心をどのように用いたらよいかという方面の科学なのです―。