目次
12.日常生活の知恵について
15.箴言
9.神は人間に真の自由を与えられている
富山 つまりお説では、悟らない人間がいる限りユートピアは実現されないということですね――。
日蓮 そうです。そうしてすべての人間が、やがて悟っていくということが神によって予定されているのです。焦ってはいけないのです。私たちの肉体時間によって、人間として生きている六十年、七十年の短い尺度によって、測ってはいけないのです――。そう思いませんか、また、例をとれば、ここに、ある生徒は問題を見た瞬間に答えが出ます。そうですね、ところが、ある生徒は十分、二十分かかって問題を解きます。ある生徒は一時間かかってもとうとう解けず、宿題として家へ持って帰る。それでも解けず、三日間考えてやっと解ける場合もあります。或いは全然解けず、何年か経ってから、ああ、あの問題はこうだったんだなあと、思う人もいるかも知れません。どういうふうに問題を解いていくかは、それぞれの人の自由にまかされているんです。みんながすぐ解けた方がいいかも知れませんけれども、それは、逆に個人の、その何といいますかこの苦しみ、悩み、問題を解いていこうとするその貴重な経験ですね、それを奪ってしまうことにもなりかねないのです。みんなが優等生である必要はないのです。劣等生にも、優等生にも同じく生きる権利を与えられているのです。同じく問題に取り組む権利を与えられているのです。一気で解こうが、一時間で解こうが、神はひじょうに永い眼で見ておられるのです。
富山 まだ一つ疑問なのは、あなた方のそういうお考え方が、なぜ彼らサタンとよばれている知的水準の高い連中に対して、失礼ですが説得力を持たないのでしょうか。彼らはそれが正しいということは分かっているはずですが、それなのになぜ受け入れないのか、彼らは……。
日蓮 それは、先程も申しましたように、自由ということです。人間は自由を与えられているのです。神によって、どう判断していくか、善の方向に行くか、悪の方向に行くか、自由です。上昇の自由も堕落の自由も、神はお与えになっておられます。そのために堕落する人たちが出てきました。しかしながら、彼らもまた自らを正すことによって、本来の神性をとりもどすことはできるようになっております。
その時に、私が先程説きました "悟り" ですね、悟りという偉大な経験、この体験を積むことができるという幸せ、これを、予定されているんです。
いま、ある教師が教壇に立って生徒に教えています。その教師が教えていることは間違いないでしょう。ある人は百パーセント分かります。ある人は半分も分かりません。これは、自由とは違うかも知れません。能力の問題があるでしょう。同じように魂にも碓かに能力の問題があります。自分の魂の故郷をよく記憶している人たちは、私たちの話を聴けばすぐに悟ってしまうんです。しかしながら、悟れない人もいるのです。分かりますでしょう。あなたが私の言っている言葉を、すぐに受け入れることができるのは、過去世において、天上界において、あなた方は、私たちと話をしていて、知っているからです。ところが、今あなたが居るところに、全く見知らぬ人が来ていたとしましょうか。彼に私がこういうふうに話をしたとしましょうか。彼は私の言っていることをどれだけ分かるでしょうか。本当に死後の世界があるんだろうか、そこから彼の発想がもし行くとするならば、私はこのような話はできないはずです。
今、地獄で苦しんでいる人たち、彼らに対して、あなたは、なぜ私たちの言葉が説得力がないのかとおっしゃいましたが、それは、あなたの今現在の仕事と関連して言うなら、それぞれの人によって進度が違うからです。進度といいますか、学習度、習熟度とでも申しましょうか、違うんです。習熟度が違う、落ちる人に難しいことを言っても分からないのです。それはそれなりの配慮というか、ある程度の時間がかかるのです。一挙に私たちが言っていることを言ったところで分からないのです。生きている人たちも分からない、まして、苦しんで、悔やみ苦しんでいる地獄の人たちには、分からないのです。彼らは自分のことしか考えていないからです。他人のこと、或いは広い世界のことを考えるということが、彼らの救いに繋がっていくのですが、彼らはそれに気がつかないで、自分自身の悩みや、苦しみにしか眼がいかないからです。分かりますか。これが分かりますか、ある人はすぐに分かりますが、しかし私が今言っていることを一生かかっても分からない人もいるのです。
現に、あなたは恵まれた人なのです。私が言っていることが理解できるのは、これは恵まれた人なのです。分からない人もいるのですから、しかしそういう人があっても、生かしていこうじゃありませんか。彼らだってやがて気付いていくのですから。ゆっくりと教えていこうではないですか。これが補習というものじゃないのですか。正規の授業についていけない人もいるのじゃないですか。ゆっくりと永い眼で彼らを見ていこうじゃありませんか。何度も何度も繰り返して教えていこうではありませんか。私たちが言ったことがすぐ分かるような、そういう生徒ばかりではないということです。私が言っていることが説得力がないというのじゃないのです。すぐには分からない人たちも多いということです。これはあなた方、人間世界を見ていてもそのとおりだと思うのです。
富山 そうすると、結局のところ自分の生き方は、自分で決めればいいということですね。どういう方向を目指そうと、自分で責任がとれるならば。
日蓮 ただ一つだけその場合に前提があります。例えば、子供が二十歳、成人になるまでは、親は子供を教育し、庇護していく責任が与えられていますね。ご存知でしょう。彼らには未だ、自らの責任において行動する、それだけの自由を与えるだけ成長していないからですね。分かりますでしょう。子供が責任をとるといっても実際とれないですね、自らの判断も未熟です。それである程度の年齢、肉体的にも精神的にもある程度に成熟するまで、いろんな人たちの指導を受け、先生方、或いはご両親方の指導をうけて成長し、それ以後成人した後は、自らの責任でもって自由を選びとっていくのですね。同じようなことは魂の世界にもあてはまることです。例えば、生きていく中においては、社会の中での約束ごとがあるはずです。人間として最低限守っていかなければいけない約束事があると思います。それは、常識といわれている場合もありますが、或いは法律とか、或いはいろんな規則、ルール、こういうものがあります。これは守っていかなければいけません。自由が与えられるといっても、私たちの魂が未熟な面に関しては、別で、成熟している部分について自由が許されているということです。最低限のルールは、守ってほしいんですね。その上であなたがどのような判断をし、どのような選択をし、どのような行動をとっていくか、それはあなたご自身の自由です。しかし、人間として最低限のルールは守っていってほしいということです。
最低限のルールとは何かというと、すべての人が社会生活を営んでいるということ、すべての人ができるだけ幸せに生きていきたいと願っている、その願いを犯さないということです。今後どのような生き方をあなたがするかはあなたの自由ですが、社会人として要求されるこのルールだけは守っていってほしいと思います。
10.神を信じるということが勇気と行動の原動力となる
日蓮 人はまず神を信じるということが何にもまして必要です。信じるという力が弱くてはいけません。信じるという力、根本的に信じていないところ、揺れているところがあるから、悩みが生じているのです。本当に神を信じるということができたら、あなたの悩みの大半は解決するはずです。信じていないからです。信ずるという行為によって、はじめて人間は生きる自信と、勇気が湧いてきます。勇気は二次的なものです。まず信ずるということです。そこに勇気が湧いてくるはずです。
あなたは、今私がしゃべっていることを聴いている間は、分かったような気がするし、ある程度信じてくれるかも知れませんが、これがまた一か月、二か月経つとあなたは私の言葉を忘れてしまうのです。あなたは私の話した内容を忘れてしまい、また疑ってくるのです。かつてそうであったように、やがてそうなってくるのです。この臨場感を忘れてしまうのです。だから私が今言っていることを一言でも多く心に刻みつけてほしいのです。人間は眼に見えないものはすぐに忘れてしまうし、信じなくなってしまいます。
残念ながら私は、あなたの前に、確かに「日蓮」であるという証拠を出して語ることはできません。私はこのような表現方法で、三次元に居るあなた方に語るという稀(まれ)なケースでありますが、この稀な方法を通してあなたに語りかける以外に手立てがありません。
このような方法しかとれない私を信ずるか、信じないか、それを私は強制はできません。私の言うことに理があると思うなら信じていただきたい。私はそれ以上のことは言うことはできません。
富山 ――
日蓮 あなたは今まで、私が長々と述べ説いてきたことが信じられますか。要約しますと、自らが、神の子、であるということを信じ、信じて疑うな。そして信ずることから生きていく勇気を奮い起こしてほしい。そういうことであります。誰もあなたを苦しめたりしようとしているんじゃないのです。あなたの魂が今病んでいるのです。私たちはあなたに立ち直ってほしいと思っております。
私たちは常に応援しております。あなたは孤独ではありません。あなたは今、長距離レースを走っているのです。あなたが長距離レースを終って最後のテープを切る瞬間まで、私たちは見届けたいのです。あなたは今走っているのです。私たちはテープの向こう側であなたを待っております。どうか迷わず真っ直ぐに、テープまで、テープを切るまで自分の足で走ってきてください。私たちは待っております。
マラソンは一人で走るものです。他人の介添が必要なのではないのです。守護、指導霊がたとえ居たとしても、走るのはあなたです。あなたは、人生というマラソンを今しているんだということを、どうか忘れないでほしいのです。マラソンは一人で走るものです。しかし私たちは応援しております。応援しておりますが、応援のかけ声以外には何もしてあげることはできません。それ以外に、私はあなたにしてあげることはないのです。マラソンは自分で走らなければいけないからです。どうか最後のテープを切る瞬間まで、完走してください。
このレースを最後まで完走せずに途中で退場する人もいるでしょう。中にはそういう人もいます。しかし、どうか、どんなに苦しくてもあなたは退場などせずに、最後まで完走してください。私たちはテープの向こう側であなたを待っております。必ず待っています。どうかそれを信じて、後何十年ですか、どう長く生きても百年も二百年もあなたは生きることはできないので、生きている時間は限られた時間です。この時間こそ本当に黄金のような日々ですよ。この黄金のような時間を、毎日毎日どう過ごすかは、あなたの自由です。しかしこの日々はもう二度と帰ってこないのです。あなたが二十世紀に(富山誠)という名前で、この日本の国に生まれて、そして生きていくというこの環境は、たとえ、あなたが転生輪廻を繰り返すとしても、二度とかえってこないのです。このチャンスは二度とないのです。あなたは同じような国に、同じような環境に生まれてくることはもうできないのです。この機会は一生、あなたの全人生を通じても一回限りなのです。この一回限りのわずかの時間、どうか退場などせず最後まで、一生懸命走ってほしいのです。
11.光の指導霊はプロのランナーである
富山 今のたとえなんですけれど、私が思うにあなた方が私に対し要求されていることは、マラソンにおいて私はつねに誰かを背負って走れといっているのと同じだと、そのように私は受けとれるのですが。
日蓮 どう受けとるかは、あなたご自身の自由です。すべての人が、人生のマラソンに招待されているのです。すべての人が自分で走っているのです。その中にはプロの選手もいれば、素人の選手もいるという違いはあります。そのプロのマラソン選手というのが一体何者であるかというと、これが光の指導霊たちであります。彼らは人生レースにおいて、プロでなければならない。なぜなら、彼らの走る姿を見て、他の人たちは、自ら走っていくコースをどのようにすればよいのか、ということを悟っていくことになっているからです。あなたは、プロの走者とならなければなりません。あなたに誰かを背負えと私はいっておりません、あなたはあなたで走りなさい。そのあなたの姿を見て救われていく人もいるのです。どうですか、世の中で偉人といわれる人たち、人びとを照らした、この世の中を照らした偉大な人たち、彼らの中に、苦しみや、悲しみがなかった人たちがいますか。一人でもいますか、順風満帆の人生を送った人で偉いといわれた人がいますか、一人でもいますか、一人もいません。
彼らはひじょうに大きな悲しみや、苦しみの中を走り抜いていっております。その走るたくましい、素晴らしい姿を見て、人びとは、彼らについていったのではないでしょうか、イエスにしても、モーゼにしても、釈迦にしても、エリヤにしても、ミカエルにしても、みなさん、それぞれひじょうに苦しみを背負って生きていったのです。あなたもどうか、自分一人が苦しんでいるんだなどと思わず、あなたの先輩、先任者や、あなたの仲間たちも、やはり同じような、この肉体修行をしていたのだということを忘れずに、どうか頑張ってほしいのです。あなたが途中で退場したところで、私は、私たちはあなたを責めようとは思いません。ただ、あなたはやはり悔いが残るでしょう。懺(く)いが残るでしょう、なぜならば、あなたは今後未来氷劫生きていかなければいけないからです。あなたは二十世紀の後半の日本という国に生まれて、その偉大なる機会を充分に活用できなかった、ということをやはり後悔されると思います。この次に、あなたが肉を持って生まれてくるのは一体いつになるのか、まだ分かりません。しかしその時まであなたは悔やしい思いを持ち続けることになります。
どうか、そういう先のことはさておき、現在ただいま、与えられているこの機会をどうか大切に、大切に生きていっていただきたいと思います。
12.日常生活の知恵について
富山 人間の生活、人生航路において、失業、貧困、病苦、自暴自棄、その他諸々の不幸が襲ってくるということは、これは本人の過去世から背負ってきた "業(カルマ)" によるものでしょうか、或いは悪霊に憑依されてのことでしょうか、それとも守護霊の意志による、本人の霊的昇華向上を目的としてのことでしょうか。
日蓮 このことについては、いろんな要素が絡んでおりますから、一概には申されませんが、基本的には、これは本人の責任です。現在の生活のすべてが不如意であり、耐え難い不幸と感じ悲嘆し、その原因を外部または他人のせいに置き換えようとする心は、自己保存、自我々欲の狭い心の現われです。自分が可愛いのです。自分が可愛いという心が結局は自分を縛って自分を苦しめているのです。私があなたにアドバイスしたいことは、もっと広い大らかな心を持ってもらいたいということです。もっと柔軟性といいますか、幅広い、変化に富むものの考え方を持っていただきたいのです。それぞれの人間がさまざまな生き方をしているように、あなた個人の人生をとってみてもいろんな生き方ができるはずです。これだけしか生きられないとは思わないでほしいのです。そういう考え、偏狭な考えをせずに――あなたは目標点は分っているのです。その目標点に向かってその都度、その都度、軌道修正をしながら生きていっていただきたいのです。
人には物事の本質を理解する能力がやや遅く、聡(さと)くないもの、機を見るに敏といえない人もいます。それもまた個人個人の個性があるから一概には言えないけれども、こういう人は、物事が過ぎ去った後で、やっと分かるようなことであって、例えば、線路の踏切りを横断する場合、向こうから汽車の汽笛が聞こえてきて、ああもう後何分程すればここを汽車が通過するということが分かる人もおれば、汽笛が聞こえても気がつかず、後尾車が通過していってはじめて気がつく人もいます。
このように、人生の認識において早い人もいますが、どうかすると早飲みこみということもあります。また遅い人もいますが、遅い人は遅いなりにその深さといいますか、掘下げ方、その間の悩み、そういうものも深いわけですから、どちらがどうというわけでもありません。
人生には余裕が必要です。冷静にものごとを判断し、余裕をもって生活するということを考える必要があると思います。これは、社会人として生きていくうえでの知恵であります。無理をしないということ、力を蓄えて八分の力で事に当たることも必要です。後二分で必要に応じ軌道修正を可能にするということが、生きる上での知恵であります。一年、二年、ここで短期的に現在の自分の苦境を打開しようなどと考えずに、長い眼で徐々に、徐々に巻き返していく、徐々に、徐々に調子をつけていく、そういう生き方を考えるべきです。ですから無理をせず、そこそこの成果で我慢すればよいのです。別に百点をとらなくてもいいのです。八十点でもいいじゃないですか。も少し余裕をもって、自分でそこそこの成果、そこそこのところで我慢するということも大事です。なぜならば 順調な時には全速で走ることもいいですが、苦しい時は、胸突き八丁という苦しい時には、力をセイブして、やがて自らの内にエネルギーが充満してくるのを待つということも一つ大事なことです。苦しい時には力を溜めていく、そのことが大事です。どうか力を溜めて、力を溜めて生きていってほしいのです。
13.劣等感をどう克服したらよいか
富山 私には凝り性なところがありまして、必要以上に完全性を求めるこころがあるのですが。
日蓮 それは、あなたの劣等感からきています。あなたは自分自身が完全でないということ、とかく完全主義をとろうとする心的要素のその裏には、あなたの劣等感が作用しているのです。自分自身が完全でないということは誰しも感じております。その劣等感を補正と申しますか、埋め合わせようという、心的エネルギー、これが働くのです。これが完仝主義的傾向として出てくるのです。これは、根本にある劣等感が作用して起こってくるものでありますが、ではこの劣等感なるものをどう処理するかということですが、この劣等感は、実はすべての人間が持って生きております。ですから、それもある程度の、さばけたものの考え方をすれば、完全志向的な性格もなくなってくるのです。ところが、劣等感を持っているために、すべての人が、やはり自分の劣等感に気がついて、責めさいなんでいるような錯覚にときおり陥るわけです。そうしてそれを埋め合わせようとするために、無理に百パーセントといいますか、完全主義という傾向が出てくるのです。これの対策としては、もうすべての人間が劣等感を持っています。あなたの劣等感が、客観的にみて、それ程重要なものであるかどうかを考えてみて、やがて、ああ俺はずっとつまらぬことに劣等感を持ち続けてきたな、ということが分れば、そのときにあなたは、楽な気持になるのです。楽な気持になれば、そうした完全主義的な傾向も消えていくでしょう。
人間そんなに神ではありませんから、完全に生きることはできません。大人の知恵、世間的な知恵を身につけることが重要です。
富山 いま一度お尋ねしたいのですが、この憑依行為というもの、この憑依するものの側の行為というものは、お認めになりますか、これは正法にかなっていない行為だと思いますが――。
日蓮 "正法" というものを、どのように理解するかということが、まず重要だと思いますが、ただ宇宙の理法、宇宙の原理、宇宙を支配している法則、という観点からみれば、憑依という行為も、宇宙の理法に通じているものがあります。同じもの、同じ波長のものが通じ合う、というのは一つの理法であります。この原則に則って彼らは行動しているのです。彼らの憑依現象ができないというような法則にあれば、その所を得て、現在私がこういうふうに語るということもできないのです。憑依ということは、その当事者の精神状態、つまり精神の周波数によって、"類は類を招く" の法則に従ってどのようなものをも呼び込むことができるのです。肉慾、物慾、自己顕示慾、或いは他人を攻撃非難し、自己のみを高しとする傲慢な心があるとき、そしてまた、必要以上に敵を恐れ、恐怖心に陥り、主体的自立心を失った時、そういうときには、その心に応じた、つまりそれと波長を同じくする者が依り添ってきて憑依するのです。そして憑依をうけると、その感情が一層強くなり、神の子としての主体性をいよいよ失ってしまうような結果になるのです。反対に、愛と謙譲と、神への信仰の心に満ち溢れている時、天上界からの祝福と指導を受けられるので、その意味で今のあなたは非常に危険な状態にあるんだということを、警告しておきます。
すべてあなたの意志と判断と認識と行動によって現在のあなたがあるのだということを、再確認しなさい。その結果に対しては、今も言った、作用と反作用の法則があるように、自らが責任をとらなければならないということです。現在出ている結果について、その原因となる種を蒔いたのは、あなた自身であるということ、原因があって結果があるというこの法則は、あなたもよく知っている仏教の根本です。あくまでも他に頼らず、自力で立ち上りなさい。彼ら地獄に迷っている人びとは、俺たちは、誰も何もしてくれない、何でこんな不自由な思い、苦しい思いをしなければならないのか、なぜこんな不自由な環境に置かれるんだ、どうしてこんな不幸になるんだ、我慢ならない、世の中、世間、他の人たち、親類縁者、すべての人を恨む心になっているのです。あなたのその心は、彼らとひじょうによく似ているのです。憑依という現象、気になるのは、よく分かります。ただ、そのために、もう何もできない、というものの考え方はやめることです。憑依は憑依として認め、彼らが憑依するには、それなりの事情や彼らの意志もあるだろう。それはそれでいいと割りきり、しかし自分は現にこうして生きている。自分は自分としてどう積極的な人生を生きていくかという、もっと前向きにものを考えていくことです。マイナス面にばかり眼を向けると、どうしてもそこから抜けだすことができないからです。
あなたは、例えば、ここに厚い木の板があります。これに杭でもいいですし、釘でもいい。それを打ち込んだとしましょうか。釘は打ち込まれてなかなか抜けない状態にあります。これをどう抜くかですが、いま釘を引っぱり出すことばかり考えているが、なかなか引っぱり出せないで困っているのですね。どうしたらよいか、もう一つの方法がある。どういう方法か、それは、抜けない釘の頭を、別の太い釘で上から叩いていくのですね、更に新しい釘、プラスの釘を上から打ち込んでいくのです。そうすると、マイナスの古い方の釘は板の下に抜けていくのです。
同じように、あなたの現在の悩み、苦しみから逃れるためには、悩み、苦しみにとらわれてはいけない。マイナスにとらわれずに、プラスの釘を打ち込んでいくのです。そうするとマイナスの釘は抜けていくのです。マイナスの概念と闘うのに、マイナスのことばかり考えていてはいけません。マイナスと闘うにはプラスの考えで闘うことです。
あなたにいろんな悩みがあるとすれば、いいことを考えなさい。失望することがあれば希望を考えなさい。プラスのことを考えていくのです。憑依されてもいいじゃないですか。今度は憑依されてもいい、それでも俺は生きている。現に生きている、毎日生きている。そうか、自分には生きているという実感があるし、自分の思うところへ歩いていけるし、自分の言いたいことは言える、健康的には苦しいけれども、身体はちょっと重くだるい、まだ判断は自由じゃないかも知れない、そういうことはあるけれども、自分がやろうとすることはできるはずです。そうだったら残りの自由なものを使って、よし俺は積極的に生きていこうと、友人にも信愛の情がこもった手紙でも出してみようとか、誰かに感謝の気持を捧げることを忘れているのではないか、どこかでいいことをするのを忘れているのではなかろうか、そんなふうにプラスのことを考えていきなさい。
悩みからの脱出方法、地獄霊からの脱出方法、それは、彼らをあまり気にしないこと、彼らは、彼らとしてさておき、自らできる範囲で、残された余事の中でプラスのことをやっていく。プラスの考えを抱いていく、そちらの考えでゆくことです。
人間は、二つのことを同時に考えることはできないのです。分かるでしょう。人間の心、人間の頭は同時に二つのことは考えられないのです。今あなたが苦しんでいるのは、あなたの心の中にマイナスのこと、マイナスの概念ばかりが詰まっているからあなたは苦しんでいるのです。そこにプラスの概念、プラスの考えを入れるのです。人間、同時に二つのことは考えられません。あなたがよいことを考えていたら、同時に悪いことは、考えられません。あなたが希望に満ちたことを考えていると、その時には、不安なことや迷っていることは考えられないのです。
その気になれば、プラス面の考えは何かあるはずです。これから毎日、朝起きたら、寝る前でもいいですよ、何かプラスのことを考えてみなさい。これからできることは何かないか、自信がつくようなことは何かないか、人に対して愛の行為や、慈悲の行為で自分のできることは何かないか、考えてみたらいいんですね。できないことはない。あります。例えば一日、朝起きてから晩寝るまでの間でも、あなたは例えば人に対してどういうことを言っているか、自分自身に反省してみるといいです。あの時ああいうことを言ったけれども、こういうふうに言う方が、良心に従う言葉ではなかったか、それくらいのことは考えられます。やさしい言葉の一つぐらい、かけること、それができないはずはありません。その他、いくらでもあなたの環境の中で、あなたの努力することはあるはずです。それは毎日毎日これからの努力で考えてほしいのです。いいですか、人間の心は同時に二つのことは考えることはできない。マイナスの概念、マイナスの悩みから、脱出するためには、プラスの考えをその中へ注ぎ込むことです。
案ずることはありません。勇気を出しなさい。時は近づいています。あなたにとって、その時は近づいております。その時が来たならば、眼から "鱗" が落ちるようにポロッと古い殼がとれる時がきます。そして一つの悟りの段階を上ることができましょう。
私はあなたに、ここに重ねて言っておきますが、どうかそのような他界の波動によって苦しめられるというような時には、まず体調を整えるということを第一に考えて、さらに前向きに、精神的にものごとを考えていける方向にもっていくよう努力してほしいのです。大丈夫です。心配ありません。そして今あなたが苦しんでいるということも、やがてこれは、大いなる魂の糧になっていくのです。
天国を知るためには、地獄も知らなければいけないのです。天上の霊を知るためには地獄の霊も知る必要があるのです。
そして、彼らと接して、なぜ彼らは地獄に堕ちたのか、やがてあなたは、あなたが受けた体験を通して悟っていくでしょう。これは無意味ではないのです。もう蒔かれました。私たちから真理の種はもう蒔かれました。しかしこの種がやがて成長して大きな大木になっていくには、まだまだ数十年という永い時間がかかります。まず種は蒔かれました。これからやがて苗になっていこうとしています。どうか大切にこの苗を育てていってください。やがて大きな大木になってきます。それには何十年という時間がかかります。どうかこの種を育て広めていってほしいと思います。
14.浅い悟りで霊道を開き苦しむものへのアドバイス
富山 霊道を開いてから、はじめのうちは私の心も澄んでいたためか、天上界からのご指導を得ておりましたが、過般ご指摘がありましたように私の心に傲(おごり)が出たせいか、以来サタンの憑依に煩わされ、久しく正念をとりもどせず苦しんでおります。何卒再度のご指教をお願いいたします。
日蓮 交霊中に悪霊が入ったり妨害したりして霊域を混濁させたり、混線させたりすることがあるということは、これは一つの宇宙の法則でもあります。これは、類が類を呼び念が念を招くという原理の現われであります。
この場合、当事者の精神状態が調和されており、その波長が天上界に通じるものでなければ、われわれの波長と合わないのです。もし不調和のままで天上界の霊を呼べるとするなら、イエスも釈迦も、その他の諸如来、諸菩薩も、恐山のイタコに呼び出されたらみんな出ていかねばならない。しかし実際はそんなことはあり得ない。この法則は現象界、霊界を貫く法則であって、いかなるものもねじ曲げることはできない。
地獄霊もサタンとなると、身分を隠すことが巧妙となり、ときには霊界語の一つや、二つは喋(しゃべ)るようになります。まずあなた方にご注意申し上げるとすれば―、
第一点として、霊的なものごとは、あなた方の日常生活が、正常な生活として行われているという基本条件に立ったうえで、プラス・アルファとして考えなさいということです。
第二点は、あなたが悪霊の跳梁(ちょうりょう)に晒(さら)されていると考えるかも知れないが、それはすべて原因はあなたの心、あなたの生き方にあるということです。同じような立場に置かれても、悪霊を寄せつけないような人もいるのです。それは心の持ち方が違うのです。これが第二点です。
第三点として、あなたの守護、指導霊ですが、現在、彼らの考えていることは、今のままのあなたを救うことはできないと思っているということです。なぜかというと、人間がこの地上生活を送るということは、あくまでも、あなた方の主体的な努力によって、自らの生き方を、選びとるということが、神によって与えられた権利としてあるということ、この原理は誰もねじ曲げ、誰も取り去ることができないということです。あなたは、幸福になりたいと願いつつも、あなたの選びとっていく道、あなたの選択は、あなた自身を不幸に追いやる方向へと思念し、選択しようとしております。これに気付くか、気付かないかということは、あなた自身です。不幸の結果の原因は誰にあるわけではなくて、あなた自身の選択の連続の結果であります。今後あなたがどのような生き方をするかということは、あなたの守護霊の責任ではないということです。現在あなたの置かれる立場にあっても、違う人であれば違った生き方ができるのです。しかし、あなたなら、例えば、こういう生き方しかできないというのであれば、あなたの考え方のどこかに間違っているものがあるのではないか。或いはあなたの考え方のどこかに、柔軟性を欠くものがあるのではないか、常に点検することが肝要ではないでしょうか。
第四に、あなたは経済的な問題に何度も何度も苦しんでおります。なぜ、こういうことになるのかという根本原因を、も少し考える必要があるのではないでしょうか。なぜ何度も、何度も経済的な問題に出くわすのか。
第五に、あなたの将来についてですが、ひじょうに流動的な地点に今あなたはあるということです。あなたが素晴らしい成功をする見取り図が与えられているわけではありませんし、あなたが徹底的に不幸になるような見取り図も与えられておりません。あなたが将来の予定ということを、お考えになるかも知れないけれど、あなたに限って言うならば、現在、白紙です。右へ行くか、左へ行くか分かりません。ご自分で地図を描いてください。
最後に一つ、もっと隣人に対する感謝という念を起こしてみてください。
取りあえず以上をアドバイスしておきます。それ以外に聞きたいことがありますか。
富山 ――
日蓮 あなたが苦しいことは分かっておるのです。また霊的な体験というもの、これが苦しいものであるということも分かっております。悪霊たちの災いが、肉体的にどのような影響を及ぼすかということ、これも分かっております。なぜなら、ほかならぬこの私が、その問題で一生の間、悩んでいたからであります。あなたの悪霊はまだ眼に見えぬ精神的な力にしか過ぎません。しかし私を襲った悪霊は、眼に見えぬ世界だけではなくて、刀をひっ下げた悪霊たちが私に、次ぎ次ぎと襲いかかってきたのです。私も同じような体験をしておるのです。しかしそんな中で、どのようにたくましく生きるかということではないですか、いま刀を下げてきてあなたの首を掻き斬ろうとする人はいないでしょう。しかしながら、わたくしは、この首をとられようとしたこともあるし、島流しにも遇うし、沖の岩の上に置き去りにされたこともある。斬りかかられたこともあるし、さまざまな苦痛を受けました。彼らは人間でありながら人間ではありませんでした。そのようなものと戦ってまいりました。
あなた方は、強くなければいけないのです。言い訳はきかないのです。なぜなら、そういう人生であることを承知のうえで生まれてきているからです。日蓮にとって、日蓮以外の人生はあり得なかったのです。私は当然ああいう人生を覚悟のうえで生まれてきていたということです。
ですから、あなたも、いろんな霊に憑(つ)かれて不愉快な思い、体が重い、或いは思考力が鈍るとか、或いは、ときには身体までも支配されているというような状態が続くかも知れませんけれども、これには負けてはならないのです。強い意志があるならば跳ね返していけるのです。彼らが憑いているから思考力が鈍るというような考えでいると、そのとおりの結果になってくるのです。彼らが憑いていようが、いまいが、あなたに考えるべきことがあり、あなたに言うべきことがあるならば、自分というものを信頼しなさい。神の子である自分というものを信頼しなさい。彼らが憑いていなければいい考えが浮かぶのではないのです。彼らが憑いていようがいまいが、あなた自身の心次第で、正しい考えを生むことができるのです。もう気にしないことです。憑いていようがいまいが、関係なし、自分は自分の考えを打ち出していくという強い意志の力さえあれば、悪霊もまたあなたを避けて通ります。彼らが一番獲物としているのは、あなたの弱気、あなたの憶病な心なのです。勇気を出すこと、勇気を出して進むということ、不安や、或いは未知への恐怖というものは誰もが抱いて、自分で納得したところで本人の人生は少しも進展はしないのです。そのようなものを考えたからといって誰一人として同情をする者はいないのです。不安は誰にもあるけれども、不安で得した人など一人もいないし、とりこし苦労をした人たちは、時間が経ってみると、結局それが影にしか過ぎず、何ら自分を脅かすものではなかったということを、やがて気がついていくのです。あなたの過去もそうであったでしょう。要するに悪霊に支配されようがされまいが不退転の自己を創るということ、そういう修行をするために生まれているということ、また、光の天使たちは、悪霊との戦いを抜きにして生きることはできないということです。それが仕事なのです。それが仕事、"戦争(いくさ)" に出ていると思えばいいのです。あなたは職業戦士なのです。神の戦士として、神の兵士として、職業軍人なのです。悪霊たちと戦わざるを得ないのです。これは避けちれないのです。。避けられないものであるならば、勇敢に戦うことです。強い自分を持つことです。太っ腹なあなたになることです。肝が小さいから起きるのです。太っ腹なあなたになることです。彼らは三年以上にわたってあなたを悩ましたところで、結局あなたをどうすることもできないでいるではありませんか。太っ腹なあなたになることです。職業を失ってもまた見つければそれでいいではないですか。それが彼らの妨害に遇って失っても、また見つければいいではありませんか。気にしないことです。そして明るい未来を心に抱くことです。不安を心に抱くということは、敵の中にあって敵の味方をするようなことを自分で言っているようなものです。一掃することです。しかし現実としては、良いこともあり得るし悪いこともあり得ます。イーブンなのです。けれども、できたら良いことを予想しなさい。あなたたちは神によって見守られているのです。悪いことが起きるわけはないのです。あなたの現状況は、新たなチャンスヘの飛躍台となるということ、新たなチャンスの飛躍台にしなければならないということをよく考えなさい。危機はまたチャンスです。危機は機会です。危機の機は機会の機であります。どうか悪いことばかり考えないでほしいのです。
人は、敷かれたレールの上を走るわけではないのです。悩み、それはつきものです。みんな悩みです。過去世の人がそれぞれにおかれた自己の環境の中で悩んできたように、今世においてもまた己れに課せられた任務を遂行する途上での悩みを、悩まなければならないのです。それは宿命であります。みんな悩んでまいりました。あなたもまたそこから逃がれるわけには参りません。レールが敷かれたその道を、一本道を走るのではないのです。自分でレールを敷いてから走らねばならぬという苦悩があります。一つはまた創造していく楽しみでもあるのです。苦しみと見えしものが、実はまた創りあげていく楽しみでもあるということが多いということです。
結果論ではありますが、あなたに対しても、私はこのようにアドバイスしたいのです。悪いことのみを心に描くな、いいことと、悪いこととが起こることは半々であるが、いいことが起こることを信ずることによって、その半々の可能性はいいことが起きる可能性の方が大となる方向へ行くということ、そういう心を持ちなさい。考えを持ちなさい。