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目次










1.他宗を非難排撃する教えは真の教えではない


善川  いま一つお尋ねしたいのですが、過去における光の天使の方々につきましては、イエス様にしろ、あなた様にしろ、予言者といわれたさまざまな聖賢の方々について考えてみるに、おそらく現世にある時の毎日の、私生活の面では、まず不幸の連続であったと思われますが、現在において、天上界にあっては、それに報われるだけの価値を与えられているという状態なのでしょうか、私たちにいたしましても、今世におきまする生活というものは、あなた方がたどったと同じような苦境が約束されるのでありましょうか。

日蓮  過去の人の例をみても、この点は素晴らしいけれど、この点は間違いであって、或いは改める必要があるといったことがあるはずです。そのときに、あなた方は過去を学ばなければいけないのです。この人は、こういうやり方をして失敗している。ならば私たちはこうしよう。この程度のことが思い浮かばないのでは、どうにもなりません。なぜ、日蓮、といわれた人間があれだけの迫害を受けたか、もちろん私は、それなりの使命を受けて、自らのやるべきことをやりました。けれども、私が迫害を受けた理由は一体なんであろうか―、他宗の排撃をやり過ぎておるのです。ご承知のはずです。敵を自ら造り過ぎているのです。敵というものは、どうしても出てきます。しかしながら敵というものは、積極的に造り出していくものではない。できたら避けた方がいいのです。避けていきたくとも出てくるのが敵です。良い教えであるならば、本当に良い教えであるならば、他のものの批判をせずとも、良いものは人から人へと、伝わっていくものです。批判しなければ良いものであるということが分からないような教えならば、その教えもまた、不完全なものであるということです。

私は、他宗の排撃をやりました。それは、自らの理想を実現せんと、一刻も早く実現せんという焦りの思い、短兵急な思いから発しているのであって、決して悪意はなかったつもりではありますけれども、結果として多数の敵を持ちました。そして本来ならば、もっと多くの人たちに、説くことができた教えを説けなかったことが多かった。

それはそうでしょう。島流しに遭い、或いは、いろいろな法難を受けて、なかなかすべての人に法は説けないのです。
 いたずらに私は敵を造った。あなたは、ご存知でしょう、「良観」という人であります。その者に対し、戦いを挑んだりしました。その心の中には、私の名誉欲があったことは、否めません。これも反省すべきことであります。

例えば、私個人の例をとって考えてみると、あなた方にとっての、これからの勉強に、或いは参考になろうと思われることがあります。

その第一点は、敵を造るなということです。みだりに敵を造るな、ということ。いま一つは、あまり焦らないことです。少しずつ少しずつ、着実に力を蓄えていくことです。


2.日蓮宗について


善川  いま、天上界にあって、日持、日向、その他かつて、日蓮聖人を師とする方々のご活動が伺われるのでありますが、これは当時、「日蓮宗」を興した方々が、これからの時代に向かって、今また、大きな力を結集して、活勤しようとしておられるのですか。

日蓮  関係ありません。全く関係ありません。日蓮宗という宗派には、関係がないのです。光の天使たちの教えが、日本の、鎌倉時代というあの時代に、日蓮というものを中心として、現われたということです。"正法" は一つですから、日蓮宗かどうか、というようなこと、或いは、弘法大師の教えがどうか、或いは、天台智覬がどうか、そういうようなことは、問題ではないのです。たまたま、その時代、その地域において、光の指導霊が出て、光の天使たちが出て、そのような教えを広めたということです。ですから、これ以上の教えはないというわけではないのです。ですから、何百年も経った今でも、私の教えだけを信じなさいとか、そのようなことを、私たちは申しません。そのようなことは、関係がないことです。ただ、ある時代に、ある特色を持った宗教を、私たちは造り出したということであります。いまもって、日蓮宗に特に、どうこうということでは、全くありません。

善川  そのことは、現代においても当てはまることでしょうか、特に現代の日蓮宗は、ひじょうに盛んに発展してきましたが、当時の方のどなたかが、そちらからご指導しているのではないですか。

日蓮  関係ありません。現世において、発展したところで、それは本当の宗教の心と関係ありますか――。

善川  強力な指導霊があって、やっているのではないのですか?

日蓮  違います、違います。しかし、一つだけ言っておかねばならないことは、今、日蓮宗を唱えている人たちが、みんな駄目だという訳ではありません。立派な人たちもおります。ただ、時代を変えるような、立派な人たちは、恐らく少ないでしょう。

善川  なお、重ねてお伺いしますが、こんなことをお尋ねすれば、お叱りを受けるかも知れないのですが、かねがね思っていたことなのですが、後代では、あなたが、日蓮宗という教義体系を組まれ、そして晩年身延山を下りられて、池上の地でご他界されたというふうになっておりますが、あなたがご他界後、この身延系の後継者と、大石寺系の後継者とが二派に分かれて、共に日蓮宗を称して、争ってきましたが、そして今日、また、この二派の論争がやかましくいわれておりますが、何かこの間に、当初の頃の、指導者たちの、霊指導が行われているように思われて仕方ないのですが、これらについては、全く無関係なのでしょうか――。

日蓮  私は興味も、関心もありません。

善川  そうかと存じますが、しかし、いずれにしても、日向師と、日興の両氏が中心になって興された宗派であるので、いずれは、この両師が指導役を務めておられるのではないのですか――。

日蓮  私は何も語りません。日蓮宗という教えがあるわけではないのです。仏の教えを、日蓮という人間が生きた時代に、その肉体を通して、その一端を語り、行じた、ということに過ぎないのです。その私を、二手、三手に分かれて、信じて言ってくださるのは、結構だけれども、日蓮宗と日蓮とは、何の関係もないと言っておきます。

私の思想、私の行動、私の考えは、世尊、仏の弟子としての行動であります。私はそういうつもりです。私の教えというものがあって、それが、何派にも分かれて、議論されるようなことでは困るのです。そのようなものではありません。私はなにも、新しいものは創っていません。私は、ただの行者であります。仏の教えの一部を行じたに過ぎないのです。その人間の一生を捕まえて、或いは自分が、何とか宗だ、何とか宗だ、何とか山系だと言って、争ってくれるのは結構だけれども、私自身が創ったものなどないのです。

私は行者です。日蓮宗と、日蓮とは、無関係であると、私はこの場ではっきり言っておきます。

現在、日蓮宗と称し、誰かが、どのように述べておられようとも、私は存じません。それ以外のことは語れません。ただ、日蓮個人と、後の世の人が、日蓮宗として何を説こうが、それは、別のものであります。

今の日蓮宗が正しいか、正しくないかというようなことは、あなた方にとっては、もう関係がないことです。あなた方は、彼らの正邪を批判する立場にもなければ、そのようなことをしている時間もないのです。無駄なことです。彼らと争うために、あなた方は新しい道を拓(ひら)いていこうとしているのではないのです。いいのです。ほっておきなさい――。

あなたがたに、言っておきますが、正しきもの、真に正しきもの、真に良きものは、必ず人から人へ伝わっていくものだということを、信ずることです。自分たちが、あまりにも伝道しよう、広めようと焦ると、いろいろの無理が出てきます。本当にいいものであるなら、やがて伝わっていくものです。それを信ずることです。


3.日本の宗教的政治団体について


善川  宗教団体でも、政治に関与している団体がいくつかありますが、これらは精神革命への、大きな支柱となりましょうか。

日蓮  私たちは、政治団体については、何の関心もありません。また興味も持っておりません。正法に則った政治が実現されるかどうかということは、私たちは関心があります。しかしながら、現時点のどの政党がどうなるか、発展するか、没落するか、どうなるか、そのようなことは関心がないのです。また、どの政党がどのようなスローガン、キャッチフレーズをたて、唱えていようとも、関係ないことです。党派も関係ないことです。

善川  しかしながら、現在の各党派が、それぞれの主義、主張を持って、精力的に活動していることについては、良かれ、悪しかれ、それは、それだけの意味があってのことではないでしょうか――。

日蓮  それはそうです。この地上界において、無駄なものなど、何もありません。すべて役割がありますからね。


4.神道系の新興宗数団体について


善川  今日、ある神道糸の宗教団体では、他宗を攻撃せず、「万教帰一」を唱えて五十年間、多くの共鳴者を集めておりますが、この趣意、教理というものは、一応成功とみてよろしいでしょうか。

日蓮  そうでしょう、彼は過去世の宗教家たちの、誤りというものを、十分研究し尽くしております。そして、そういうことを考えたのでありましょう。

善川  この宗団を、守護、指導しておられる日本神道糸の方で、中心的親神と申される方が仰せられるには、この宗団の使命も、もう一段落ついたと申されるのですが。

日蓮  そういう失礼なことは、決して言わないことです。それが敵をつくる原因となるのです。言わないこと、思っても言わないことです。他人にロ外しないことです。それを聞いた他人は、その教団の人をつかまえて同じことを、言うでありましょう。それは決してプラスにはならない。この教団の教えを信じている人たちの信仰を、揺るがすサタンの言葉ともなってしまうのです。彼らは、それでいいのです。その教団の教えも、いい教えであります。それを信じている人は、それでいいのです。「彼らの使命が終った」などと、もし、他の者が言ったとしても、あなた方はそれを胸のうちに秘めておかなければいけないのです。それを言うということは、自己吹聴以外の何ものでもないということであります。自分たちの、自己宣伝以外の何ものでもないということです。これのみが "正法" という形では決して説いてはなりません。私と同じ過ちを犯します。他の教えも立派な教えでありましょうが、私たちは、このように考えます、という控え目な態度、考えというものを忘れてはならない。あなたは、その点を特に注意しなければいけない!

善川  私が考えますに、この万教帰一、光り一元の教えを学ぶ限り、いちいちごもっともで、まことにご立派な教えだと感じるのですが、これからの時代に向かって、私たちが更にこのうえに加えるべき、別の理念ともいうべきものがあるのでしょうか。

日蓮  なければ、私の仕事はありません。私が、あなた方の前にこうして出ているではありませんか。既成の、そういう他教団には、私は何も言っていません。何も指導しておりません。私は今、あなた方を指導しております。それが、私の仕事が、いい仕事にならないか、なるか、ということにもなりますが……。


5.光と闇の宗教的概念について


善川  過般来、お教えねがった、"光" と "闇" との関係につきましては、今後、私どもは、まだまだ研究しなければならないところなのですが、

日蓮  確かに神道糸の新興宗教の教え、その主導神の教えには、立派なものがあると思います。しかしながら、彼らの考え方の問題点の一つは、あまりにも論理が飛躍し過ぎるということです。そこまでついていける人は、多くはないのです。あくまでも八割の、少なくとも八割の人が理解できるような論理の話をしなければいけないのです。

彼らの論理は、あまりにも結論へと、飛躍し過ぎるのです。結果的には正しいかも知れません。しかしながら論理を超越していくことによって、さまざまな混乱もまた、起こしているはずです。

この教団の主導神のいうことを、あなた方が理解できても、できない人も多いはずです。たとえ正しい教えであっても、それを理解する人が、一割しかいなければ、それよりも落ちる教えであっても、それを理解できる人が、八割いたら、その方がいいではないですか。

あなた方のやるべきことは、できるだけ多くの人に、間違いのない真理を分かってもらうということです。特に知能の優れた人にだけ、分かってもらうことではないのです。

善川  つまり教理、布教の方法や対象、手段を絞れ、ということなんでしょうか、何もかにもに完全、この教えこそオールマイティだというのではない、お前たちは、お前たちの限られた能力に応じ、限られた範囲でその方法を講じていったらいい、ということなんでしょうか、私たちの場合――、

日蓮  それは、やはりあなた方の選択です。例えば、善悪についても、善のみが実在であって、悪無し、という考え方、これは、ひじょうに優れた教えであります。けれども、善のみ実在で、悪無し、とする。本来悪無し、とする思想、これについていける人間がどれほどいるか、或いはこれを信ずることができても、言っている人と、それを聴いて信ずる人との理解の中に、どれだけの差があるかということ、落差があるかというようなことを、考えていかねばならないのです。結論としてはそうです。「善一元」にわれわれは向かわなければならない。けれども、われわれの日常を見ていてどうですか、良いこともあれば、悪いこともあります。われわれは、良いことも、悪いことも、玉石混交の中で、できるならば、石ではなく、玉を選びとっていこうとする人間的努力、これを踏まえて、やがて、玉のみの世界に入っていくのではないでしょうか。

どちらがより理解され易い教えかということです。結論は同じかも知れません。ただ、私の考えるところでは、八割の人間に誤解されないような教えを説いた方が無難ではないかということです。

善川  この辺の論理のあり方、進め方というものは、大変難しい問題であって、私たちも十分考えなければいけないし、また諸賢の方々から、再三、再四、お聴きし直して、自分たちの方向を定めていきたいと思っております。「空海」さんからは、空海さんなりのお教えをいただいておりますし、また、先程も申し上げました日本神道の主宰神からは、私たちにとっては、まことに力強い、強力なご指導をいただいているわけでありますが、これらのお訓えを、拝聴、玩味させていただき、しかと身につけていきたいと考えております。


6.光一元の思想は一つの比喩であり、一つの活である


善川  今、私が、思想上の問題で、とっかかり、躓(つまず)いている問題は、天上界のあなた方や、釈尊、或いは高橋先生の説かれている「八正道」を基軸とする中道の精神を持ち、他力に頼らず、自力による自己修行の道と、一方、自他力によらず、"光" 一元の世界ヘ一躍跳入するという「生長の家」の絶対力の教えとの、いずれをとるべきかということであります。

日蓮  光一元という「生長の家」の教えは、一つの "比喩" 、一つの "活" 、であります。現実真実がどうなっているかではなくて、そう思うことによって、いかなる効果が出るかというようなことを考えた思想であります。

一つの思想であります。そして一つのたとえであります。

確かに、熱が無いから寒さが有る、という考えもあります。熱有り、寒さ有り、という考えがある一方、熱のみ有り、寒さ無し、寒さは、熱の欠如した状態であるという考えもあるはずです。けれども、現に、見なさい、灼熱の光があれば、"水" というものも、あるんじゃないですか、雪というものも、あるんじゃないですか、「雪」は、熱はありません。しかし、雪は、雪としてあります。単に無いもの、あるべきものが、無い、というだけでは、説明になりません。熱が無いだけで水、或いは、雪が出来るという説明はできません。そうではありませんか、闇は、光が無いというだけの説明で済むかどうか。これは一つの「考え」であります。確かに、光が無いという状態は真実であります。しかし、それは、本来、闇が無いということの説明になるかどうか、同じ論法からいうならば――、

「光」は、「闇」の不在、であります。しかし、そうでしょうか、一つの比喩であります。本来、われわれが行くべき方向を示している比喩であります。その意味において、彼らの考えも間違っておりませんし、善一元、光一元、を信ずることによって、人間が、どれだけ勇気を植付けられるか、ということを考えるならば、素晴らしい教え、ということができるでしょう。

しかしながら、灼熱の不在が、氷の存在、雪の存在をすぐ意味することではないということ、そこには論理的な矛盾があるということ、これは認めざるを得ないことです。

善川  この場合、現世にある者がいずれをとるかということについては、結局は吾人の置かれている境遇、思想の、つまりは悟りの境地いかんによって決まることで、どちらが、自分にとって、最も価値ある方向かという判断に、選択をまかされているのではありますまいか。

日蓮  そうともとれますが、たとえていうなら、足元には雪が広がっている。或いは氷の大地、凍りついた大地が広がっている。足元ばかりを見詰めていたら、この世の中は、実に淋しい世の中であります。荒涼とした世の中です。一面の雪、一面の氷、一面の霜、こればかり見詰めていたら、人間は救われなくなってきます。一転して眼を転じて天を見ると、そこには燦々と太陽の光が注がれている。こちらの方を向けば、私たちは、もはや氷や雪の世界を見ることはできない。これは一つの説明であります。ただ、どちらがわれわれを豊かにし、愉快にし、明るくし、幸福にするかということです。罪、或いは穢(けが)れ、というようなものを取り除いて、はじめて人間は、悟るということができるという考えがありますが、これは足元の雪や、氷を掻き分け、掻き退け、そして大地を出し、元々暖い世界を想い起こすという作業でありますが、一方、太陽のみを見る。光のみを見るという考え方もあります。光、太陽のみを見ている間は、われわれは、雪や氷のことは、思わなくて済むのです。

私たちは、ときとして雪、氷ばかりを見つめているうちに、この世界が寒々とした世界だという考えに陥ってしまう時があります。その意味においては、悪はあまり見つめ過ぎてはいけないのです。

しかし、善のみ、太陽の光のみが、真実在であるかというと、そうでもない。太陽が出ていても、雪や氷は、いちどきには溶けない、そうではありませんか。太陽が出たら、即、雪が溶け、氷が溶けて何も無くなるでしょうか、そうではありません。熱の存在、光の存在と、光に対するもの、熱に対するもの、熱の非存在、光の非存在ではないけれども、雪、氷というものも、同時に存在する時期があるはずです。

しかしながら、持続した、連続した、太陽の光を受けているうちには、いかなる雪も、いかなる氷も、やがて解けて流れて、無くなってしまうということは、真実です。

このように、単に、善と悪、光と闇が、二元的に対立しているのみではなくて、その間には、時間という流れ、或いは、人間的ないろいろな働き、といいますか、ものの流れ、なりゆき、そのような要素が介在してきます。

太陽光線と、氷とは、同時に存在することはできます。しかし、永遠に両方の存在が両立するものではないということもまた、真実です。しかしながら、同時に存在し得ないということは、嘘です。そうでありましょう。あなた方の仕事は、太陽光線によって、雪や、氷を溶かしていく仕事であります。

太陽の光が射したからといって、雪や、氷がすぐ解けてなくなるわけではない。

善一元、悪一元、光一元、闇一元、思想としては考えられることでありますけれども、その間に、時間というもの、人間の業(わざ)、なりわいというもの、そのようなものが介在してくるということであります。

氷が出来るためには、熱の非在、光の非在だけでは駄目です。氷が出来るためには、水という縁がなければならない。そうではありませんか、寒さというものを感ずるためには、空気という媒介がいるのではありませんか、空気が無ければ寒さも感じないでありましょう。媒介があるはずです。

だから、光一元か、闇一元か、光、闇が両立する二元論か、或いは善悪の二元論か、或いは善一元か、というような極論はできません。

私は、光に対するもの、熱に対するもの、善に対するものも、現に現象としてはあると思います。

しかし、それは一時的には両立しても永い時間の流れの中では、両立し得るものではないということを言っておきたいと思います。

どちらが、「本来」であるかといえば、答えは、明らかです。

しかしながら、闇は、闇として、一定の時間の内において、実在らしき形をとるということはできるということです。