目次
1.一定の時空間内での実存者は実在
善川 先般、空海大師からお教えを賜った際、大師は、「人間は、人間としての生活をすべきだ―」と、言われたのですが、そのお言葉の中には、ひじょうに、われわれ肉体人間にとって、含蓄深い示唆がかくされているように思われましたのですが、結局、われわれが、この現象界に生まれたということは、生まれ、現に生きているこの肉体人間というものは、その肉体という「衣」を通して、衣を着た、いかにも人間らしい生き方をしなければいけない、というふうに解したのでありますが、そのことは、一面において、その闇なり、氷なり、というものを、一時は認めざるを得ないというふうに、受け取ったのですが、そういう考えでよろしいでしょうか――。
日蓮 ―たとえていうなれば、光一元、善一元、という考え方は、こういう考えなのです。ここに氷塊があるとします。私の掌の中に、氷の塊があるとします。氷はあるように見えて、本来は無いのであるという説き方があります。
これは解けて流れて消えてしまうからです。そうでしょう。解けて水になりやがて蒸発して、空気の中に混り見えなくなるでしょう。実在するものなら、無くならないはずです。それが、無くなるように見えるのは、水が実在しないという考え方が、一つにはあるのです。これが善一元、光一元の考えです。それは、ある意味においては正しいのです。
しかし、現に氷が、氷として私の掌の内にあることは、できるのです。これが、やがて、氷でなくなるからといって、氷が無いというわけではない。そうではありませんか。
ここが、ものごとの話の分かれるところです。
一定の時間の中で、一定の形をとる場合、そのものを、「実在」として認めるか、認めないか、ということが議論の分かれ目です。
「氷」も一定の条件の枠の中で、一定の形をとっているということを「実在」と認めるなら、氷は実在でありますが、しかしながら、やがて無くなっていく「無常」なものであるから、氷は氷と仮に見えたとしても、それは仮の相であって、本来そういうものは無いのである。氷は、実在しないのだ、という考えがあります。無常観であります。
そして、「空」といいますか、空、或いは、「無」の思想、そういう考え方があります。その立場に立てば、氷は無いのであります。
ただ、あなた方が、生身の人間として、生きていくうちに、水は実在するか、しないかというなら、ある一期間、やはり「実在」するといわざるを得ません。
しかしながら、永い、永遠の時間の中、物事の本質の問題として考えた場合は、「氷」という形は、今あってもやがてなくなっていくもの、もともと、氷ではなかったものである。そういう大いなる輪廻の相を考えれば、"氷" というものは、仮の相であって、実在でない、という捕え方もあります。
つまり、問題は、永遠不変のもののみが実在なのか、それとも、一定の時間の中に、一定の形をとるものも、実在と認めるかどうかということであります。
一定の期間、一定の時間、一定の形をとるものを、実在とみる見方でやれば、あなた方、肉身の人間も実在です。
しかしながら、本来無いものから、あなた方の肉体人間が生まれ、そして、やがて消えていくものは無常の相であって、一定永遠のものでないということから、実体でないというなら、そうもいえましょう。
本来肉体無し、という考えは、本来「氷」無し、という考え方と同じであります。
しかしながら、氷というものの形、それは、万人が認めることができ、万人が感じることができるものです。
万人が見、万人が感じ、万人が存在を認めるものが存在しない、実在しない、と言い得るかどうかということ、ここも一つの議論です。私の言っていることが分かると思います。
一元論、二元論の分かれ目の時間であります。大きな時間というものからみたならば、善、悪、の二元論はないのです。光一元、善一元、これが真実です。
しかしながら、永遠の時間、というものではなくて、一定の時間というものをとってみた場合には、善も、悪もあるように見え、その一定の時間の中に、同時に存在しているものにとっては、実在であります。
本来、説明している地盤なり、基盤なり、立場、が違うもの同士であるから、互いに論破できるものではありません。
2.三次元世界が空なら、四次元以上の世界も是空
善川 そういうお説からするならば、これを仏教的に解釈すると、「色即是空」「空即是色」、「有」即「無」、「無」即「有」ということに要約換言されてよいことになるのでしょうか。しかして「色」は「空」の、「有」は「無」の、根本「法」観の認識に立っての「実在」感としてとらえらるべきだという考えでよろしいでしょうか――。
日蓮 もう一度考えてほしいのです。従来の仏教の思想というものは、単に、三次元是空、三次元是無、という思想ではなかったでしょうか。そして四次元以上の世界が、真実の世界であって、三次元は、「空」の世界、仮の世界であるという考えであります。
ところが、四次元の世界も五次元の世界からみたら、空であり、無であります。
五次元の世界も、六次元からみたら、空であり、無であります。そうではありませんか。そうであるなら、本来すべてが「無」い、と言えますが、私たちの住んでいるこの世界、七次元、八次元の世界を「実在」の世界と認めるならば、三次元の世界もまた実在、二次元の世界もまた実在、であります。
私たちの住んでいる世界も、われわれより一段上の世界からみれば、空であり無であるならば、同じことではありませんか。
四次元が実在であり、三次元が空であり無であるならば、四次元も五次元も、六次元から見たら空であり無であるはずです。
そうして、われわれの世界からみた、四次元、五次元、六次元も空であり無であります。
われわれの世界も、また一歩、一段上の世界からみたら、空であり無であるはずです。
それであるなら、私の存在、こう語っている私の実在、それも実在ではなく影であり迷いであり、仮の姿であると言えないこともありません。
そうではありませんか。いずれにせよ、どこに基本の軸をおくかということ、どこにその語るものの立場があるか、ということによって異なるわけです。
四次元が実在であり、或いは、五次元、六次元、七次元がもし実在であるというならば、三次元もまた実在であり、四次元、五次元、六次元、七次元も実在でないというなら、三次元もまた実在でないといえると思います。
それは、どういうことかといえば、神のみ、神のおられる世界のみが実在である。それ以外は、すべて仮といえば仮といえるということです。
だから、あなた方の世界からみて、あなた方の生きている世界が空の世界、無の世界であって、私たちの世界が実在かも知れないというけれど、そういう私たちの世界も神の世界からみれば、空であり無であり仮の世界であります。
何が実在で何が実在でないか、これはひじょうに難しい問題であります。われわれの世界が、神の世界からみて実在であるなら、われわれからみたあなた方の世界も、また実在であります。
善川 そこでお尋ねしたいのですが、あなた方は、今、八次元にお出でになるとして、十次元の世界を認識することができる。或いは、六次元の方は、七次元の世界を認識することができる。その認識する方法というものが、明らかにされているのではないでしょうか。
日蓮 明らかとはいかなることでしょう。
善川 ―認識できる能力を保有することができるようになるのではないでしょうか。
日蓮 あなた方も、私たちのことを認識し得ています。同じような方法であります。
善川 いや、私たち肉体人間の場合は、ごく限られた、少数の特異能力を持つものだけでありますが――。
日蓮 同じです。あなた方は、われわれと、話することによって、低次元があるということを認識し得ております。あなた方自身は、生きていながら、われわれの世界に来ることもできなければ、そのような経験を積むこともできないはずです。あくまでも、われわれが三次元で話をしているのです。あなた方がこちらに来ているのではない、そうでしょう。同じように、六次元の人間であっても低次元、七次元、八次元の人間が来て、語ることはでき、彼らの世界を理解することはできるけれども、彼らが、七次元、八次元、に昇っていけるわけではないのです。そういう意味では不自由です。
善川 しかし、そうではありますけれども、あなた方、八次元、の方が、直接五次元以下の世界へお出でになって、講習会を開いたり、或いは、説法をされて、同時に不特定多数の人間が認識できるというようなシステムをとられているにかかわらず、この三次元世界の人間だけにはそういうシステムがないということは、いかがなものでしょうか、
日蓮 あるのです。システムはあります。光の天使たちがこの地上に出ております。肉体を持つという一つのハンディは負っております。しかし光の天使たちは、肉体を持って、「法」を説いております。同じであります。五次元の人間に対して、六次元、七次元の人間が降りていって、「法」を説いております。同じなんです。
下の次元の人間にとっては、上の次元の人間の生活は分かりにくいのです。彼らが一体どのようなことを考え、何をしようとしているのか分からないのです。
四次元の生活、四次元は幽界、霊界以前と申しましょうか、彼らは、肉体人間界と同じような生活をしております。
しかし、彼らの生活は、われわれの世界からみれば、仮の世界であります。彼らからみたら、われわれの世界は、天上界の世界であります。同じようなことなのです。
3.四次元、五次元世界の生活様式は、三次元世界の延長である
善川 ただしかし、例えば、五次元あたりの世界の方であれば、高次元の方のお話される内容が、われわれの世界でいう、テレビとか、そういった形のもので放映されていて、その認識の範囲が広く行き届くというシステムがとられているということですが、この三次元世界では、高次元世界の説法をそういう方法で聞くことができないという不自由さがありますが――。
日蓮 ――そうでもありません。同じなんです。四次元の人間も、四次元の中に、神社、仏閣を持っております。彼らも休みの日には、神社へ行ったり、仏閣へ行ったり、或いは教会へ行ったりして、神様のことを祈っておるのです。彼らも分からないのです。神様がどういうものか分からない、仏様がどういうものなのか分からないのです。そして時折、指導者と名乗る者が出てきて、彼らに説教をし、四次元の人間に五次元、六次元の世界を説いているのだけれど、あなた方に私たちが説いているのと同じようで、「ほう、そういう世界があるのかなあー」ということであって、はっきりしないのです。各世界に居る人たちは、自分たちの居る世界が実在であって、それはやむを得ないのです。
高次元の話をしても、やはり、夢、まぼろしのように聞こえてしまって、実感としては分からないのです。
善川 ――ところが、先般、紫式部さんをお招きして、この方の現在お住まいになっている世界の模様をお尋ねしたのですが、その時に、式部さんは、「実は先日も、日蓮さんのお話をテレビでお伺いしていたところです――」というようなことなど、いろいろお話したのですが、それをお聞きする限り、私は、その次元が高まるにつれて、その高次元の認識の程度というものが、克明にもっと明確にされる仕組みになっているのではないかと考えたのですが。
日蓮 程度の問題であります。テレビで観るといっても、現象界であなた方が、時代劇で私なり空海さんなりの伝記物を、テレビ番組で観ているように、これも、紫式部の住んでいる世界で創ったテレビ番組かも知れません。あなた方も偉人伝や、歴史物のテレビや映画を観ているはずです。同じようなことかも知れません。
善川 それでは、実際に五次元に降りていって、テレビで説法されたという訳ではないのですか。
日蓮 ――それは愚問です――。霊界、天上界にも、ひじょうに厳しい段階の差があって、それぞれ、別個の世界になっておって、その断絶は、また激しいのです。例えば幽界の人間がまとっている、幽体とでも申しますか、その霊的な体は、われわれの霊的な体とひじょうに違っているのです。
彼らの霊的な体は、たとえていうならば、われわれから見るとあなた方の肉体と同じなのです。彼らから見れば、私たちは、空気だか、霧だか、霞だか分からないような、そんな体を持っているように感じてしまうのです。それだけの差があるのです。
この現象界と霊界、というふうに二つに分かれるのではないのです。三次元から四次元へ、四次元から五次元へ、それぞれ近いけれども差があります。同じ程度の差があるのです。そういう意味で、三次元がもし空であり無であるとすれば、四次元、また空であり無であるわけで、五次元もまた然り、そういうことが言えるわけです。それぞれ、その立場に立ってものを言うからです。
―あの世―と、ひと言でいうけれど、それは、あなた方がたまたま三次元に居るからそうであって、五次元に居る人間にとっては、六次元以上もまたあの世です。会えないのですから、仕方がありません。似たような生活をしている人たちだけが集まっているのです。そして、上の世界があるということさえも知らない人たちが、一杯いるのです。
現に、四次元に住んでいる人たちなどは、そうです。四次元以上の世界があることなど、知らないのです。彼らは、彼らで、地上生活を営んでいるつもりでいるのです。そして、時折、神様の話とか、仏様の話とかを聞いて、そういう世界が天上にあるのかなあ、と想像しているのです。
4.人間死後、他次元への移行は一律ではない。その人の心性の高低による
善川 いま一つ、お尋ねしたいのですが、私たちは、この世の寿命が尽きて他界しますと、まずは四次元の世界へ入って、そこである一定の修行をして五次元へ、そしてまたここである一定の期間修行して六次元の世界へと、こういう過程をとるのでしょうか。
日蓮 それは、あなたがどのような一生を送ったか、ということによって変わってくるのです。どのような一生をあなたが送り、どのような心の状態でこの世を去ったかということが肝要です。
善川 人間は、死と同時に、一旦は一様に四次元世界に留まるのではないのですか。
日蓮 そうではありません。一直線に如来界に還ってくる人もいるのです。ゴーーダマ・ブッダがそうであったように、イエス・キリストがそうであったように、一直線に彼らは如来界に還ってきました。もう彼らは人間として生きながら、すべてのことを知っているからです。或いは私のように、人間として生きた時に、多くの過ちを犯したたために、こちらで修行をした人間もおります。
善川 天上界において、修行の時期というものもあるのでしょうか。
日蓮 そうです。それは各人によって違います。私が十分だと思う期間、私はこの地上での過ちを正すために修行しました。
5.過去世の記憶の消去は死後復活する
善川 この現象界へ、つまり現時点の三次元の世界へ、あなた方のような高次元の方々が降りてきて指導されるということは、これは特別な意味があるのでしょうか。
日蓮 それはもうご承知のはずです。
善川 これは、聖人さんが進んでお出でになられるばかりでなしに、その上段階の方々のご指命もあるわけなんでしょうか。
日蓮 私たちが計画したことです。あなた方も計画したのです。一緒に。あなた方も一緒に計画して、地上に出てきているのです。あなたも私に、「しっかり指導を頼む―」といって、六十数年前に生まれてきているのです。その約束を、今、私は果たしているのです。私は約束を違えていないのです。こうして、私が出て、あなたと話をしなければ、あなたが他界して天上界に還ってきてから、「約束が違うじゃないか、ちゃんと指導してくれなかったじやないか―」といって、私はあなたに文句を言われるでしょう。私は、こうしてあなたとの約束を果たしているのです。
善川 そういう記憶というものは、私は現在、全く喪失しているわけですが、これは他界すると、再び甦(よみがえ)るのでしょうか。
日蓮 本来の世界へ戻ってくれば、そのとおりです。けれども、地獄や、或いは、幽界あたりで迷っていると戻ってきません。
善川 あなたは、私にとって、かつて地上にあった時には、お師匠さんであられたということですが、その時の私の前任者である日朗という人と、現在の私とでは、性格的には、何か開きがありましょうか。
日蓮 性格的には、よく似ております。
善川 一途なところは持っておるのですが、どうも今世においては、効率の悪い生涯で終ってしまうように思うのですが。
日蓮 「日朗」もまた、そう効率のよい生涯を送っているとは言えません。
善川 効率の高い生涯を送られるという方は、これは特殊な人なんでしょうか、
日蓮 私も、今だからこのように、「日蓮」という一定の評価をされていますが、当時は、いろんな山に棲(す)んでいる僧侶のうちの一人にしかすぎなかった。当初は、やま気の多い、僧侶の一人といわれていたわけです。或いは、政治に口を出したり、血の気の多い僧侶だと、思われていました。日朗という人も、そういう血の気の多い坊さんらしくない坊さんに、ただ、この人を信じていこうと思ってついてきただけのことです。当時、それ程、名前のあった人ではありません。
ただ、何百年か経ってみると、私の言ったことの中にも、それなりの、何か酌(く)むべきものがあったという評価が定まってきて、それなら、日蓮という人間の弟子たちも、また、そこそこの考えを持っていた人たちであろうと思われているということです。日朗といわれた方が、どれだけの精神生活を送っていたかということは、そう分かるものではありません。ただ、あなたの、今のあなたの方が、「日朗」の時代よりも恵まれた環境にあるということは確かです。
あなたは、いろんな教え、いろんな如来や菩薩たちの教えを総合して、今勉強できるチャンスを与えられております。しかしながら「日朗」として生まれた時は、単に、日本の国の一地方に生まれて、そこで仏の教えの一派を学んで一生を送ったというに過ぎませんでしたが、今のあなたの経験なり、知識なりは、一層広がっているはずです。
6.本体、分身の概念について
善川 いま一つ、お尋ねしたいのですが、人間には、本来、本体と分身とがあるという方と、分身、即ち五人の魂の兄弟があって、それらのうちの一人が、交互に現象界に出て魂の修行を積む、ということを聴きますし、また、ある人は、それは数人のように思えるが実は一人であって、その人が名を変えて、ある時代、時代に転生してくるのであって、本来同一人であるというお説もあるのですが、その点についてはいかがでしょうか。個性を持った個別の霊というものがあるのでしょうか。
日蓮 これも、今のあなた方の感覚からいくと、ひじょうに理解し難いことです。
どのように説明していいか、それぞれの、地上生活を送った時のあなたは、個性的な魂のあなたとして、大いなる魂の記憶の中には残っているということであります。
日朗としてのあなた、善川三朗としてのあなた、それは、あなたは今、時間としての系列でみているから、その時間の流れの中で、同じものであろうか別なものであろうか、そのように考えているのですけれど、われわれの世界においては、時間はあって、時間は無いのです。それが分かれば、その本体、分身を解く一つの鍵が握れるのです。「日朗」という人は、この現世においては、何百年か前に肉を持った人かも知れません。そういう意味では、あなたと別の人間でありますが。
では、われわれの世界ではどうでしょう。昨日が「日朗」で、今日が「善川三朗」かも知れません。そうでしょう。昨日のあなたと今日のあなたは、同じあなたですか、この質問に答えられますか、明日のあなたと今日のあなたが、同じあなただという証明がつきますか? できないはずです。そういうことです。
善川 次に魂の兄弟、という概念についてお伺いします。実は先般、天上界に私の魂の兄弟で「エビウス」という、今から二千年程前のイスラエルで、イエス様のお弟子の一人として当時のイエス様と行動を共にしたという方がありまして、この方が私の少、青年期の守護霊を務めていてくれた方だとして、いろいろ「法」についての話もしていただいたのですが、このことは、かつてGLAの高橋先生が、本体と五人の分身、つまり、魂の兄弟があると説かれていた概念に相当すると思うのですがいかがでしょうか。
日蓮 私は、そういうものがあるかどうかということを、あなたに語ったとは思っておりませんが、彼を、あなたの魂の兄弟、分身と思うかどうか、それはあなたの自由です。
善川 本人が、私があなたの魂の兄弟だというわけですが。
日蓮 それは、証明のできないことです。例えば、私があなたの魂の兄弟だと言ったらどうしますか。
善川 それは、今の私には分からないことです。
日蓮 分からないはずです。みんな魂の兄弟なのです。そういう意味においては、元が一つなのですから。一つの親から分かれてきたんですから、一つの親から生まれたんですから、みんな魂の兄弟なんです。私とあなたも兄弟なのです。なぜなら、われわれの父であり、母である神は、われわれすべてを創られたからであります。すべては兄弟であります。
その意味において、魂の兄弟という言葉を、どのように使うかということです。兄弟であるということは、事実であります。すべてが兄弟であります。恐らく、あなたが考えている魂の兄弟というものは、また違う意味での魂の兄弟だろうと思われます。たとえて言うならば、こういうことです。日本に生まれている人間は、すべて魂の兄弟なんですけれども、その中で、特に密接な人がいるかどうかということです。あなたが考えている魂の兄弟というのは、元々創られた時から、あなたに密接な魂として、創られた魂があるかどうかということなのです。
すべてが魂の兄弟なのです。けれども、その中で「善川三朗」という人間が、一つの目的を果たすために必要な、ひじょうに密接な魂の兄弟、仲間たちがいるかいないか、ということだと思います。すべてが魂の兄弟ですから間違いはないのです。絶対に間違いはないのです。
善川 それでは、高橋先生の説かれた魂の兄弟論というのも、その個別の生命体があるというのではないのですね。
日蓮 生命体の認識そのものが、今のあなたの認識では理解できないのです。作用としてみることもできます。これは、ある方から、あなたはもう説明を受けているはずです。
存在として五個のりんごがあるように見えるが、物が五つに分かれているように見えることが許されているのか、作用として五通りの作用を出すことが許されているのか。それとも、五個存在するのかどうかというような議論となるのです。例えて言うなら、手の五本の指を、これを五本とみるか、指は指ではないか、指という概念において一つであると、例えばあなたという、指という概念でくくれば、指は一つであります。しかしながら、生き方というものを見たら、五本あると、別々のものだな、しかし指という概念、本質からいえば一つだな、作用の仕方は五つだな、このような違いがある。指としては一つ、指は指なのです。あなたの指ということにおいては、一つなんです。しかしながら親指としての作用、中指としての作用、いろんな作用があるわけです。
同じように、あなたの魂も、あなたの魂としては一つだけれども、働きの仕方としては、幾種類かの働きがあるかも知れない。これは比喩でしか語れません。比喩としてしか語れませんが、そのようなものであります。
善川 そうしたら、われわれはこのように現象界に居るために、そういう差別知でものをみる習慣がありますが、けれども、あなたご自身も、あなたご自身の魂の兄弟を差別知で理解してみるということはしないのでしょうか。
日蓮 ――一人と思えば、一人なのですし、五人居ると思えば、五人居るのです。そういう捕らえ方です。
善川 その五人居ると思えば、五人とおっしゃる、その各人にはみんな、個有名詞があるんでしょうか。
日蓮 ですから、八百年前、九百年前のあなたの前任者とあなたとは、ひじょうに時間が離れていると思うから、別の個性だと思うし、今のあなたではないと思うのだけれどもどうだろうか、というけれども、私たちの世界では、七百年前もつい昨日のことであります。それであるなら、昨日のあなたと明日のあなたは、別々のあなたであって、昨日、今日、明日をとっただけで、あなたは三人居るのです。この三人は、どれがあなたですか?、分からないでしょう。
それが、どういうことかというと、昨日という場に現われたあなた、明日という場に現われたあなた。今日という場に現われたあなた、そういうあなたがあるということです。あなたは一つだけれども、働く場と、時によって、あなたは別のものであります。分かるようで、分からないと思います。
これは、難しいはずです。なぜなら、認識のレベルがそこまで来ていないからです。分かり易く言うとするならば、「善川三朗」として、その魂として、目的を果たすために、あなたの魂の兄弟というのは、それだけの作用の数があるということです。そういうふうに考えていいのです。人間のような形をしたものが、五人、六人居るという考え方もできるならば、千手観音のように、千本もの手を持っているというふうに考える場合もあるのです。千手観音は、千人の魂の兄弟があるといえるかも知れません。けれど、一つであります。この作用という考え方は、あなた方の世界からは、ひじょうに分かりにくいことかも知れません。
善川 その作用ということについては、今のお説で分かるのですが、私の場合、現に、天上界において、エビウスという、イスラエル時代の、イエス様のお弟子が、図書館様(よう)の役所の館長、もしくは記録係のような仕事をしている魂の兄弟があるということですが、そういう彼の言葉を信ずるということになりますと、これは私とは別個の個性を持った魂が生き、かつ活躍しているのではないかと思われるのですが、これはいかがなものでしょう―。
日蓮 それなら、こういう考えはどうしますか、あなたの一〇パーセントの意識が肉体舟を支配して、この人生航路を歩んでいて、本来のあなたの九〇パーセントの意識は天上界に残っている。あなたの本来の意識の九〇パーセントは天上界にあるということ、これをどう理解するかということです。肉体舟をもって修行しているあなたは、あなたの意識の一〇パーセントにしかすぎないということであって、あなたの一部分が、今のあなたと思われる肉体舟で修行をしている。
肉体舟から、あなたが何であるかを逆に推論するから間違っているのです。
あなたは、器の、入物の大きさで計っています。
あなた、そういっているあなた自身は、百パーセントのあなたではないのです。あなたの一部が、あなたと思われる体に入って、あなたのことを語っているのです。
たとえて言えば、あなたはトカゲの尻尾の部分なのです。尻尾のトカゲが、私だけでトカゲなのか、残りの部分もトカゲなのかと言っているようなものです。あなたは自分の意識の残りを天上界に置いてきているのです。意識という形では、難しいかも知れないけれど、あなたは、自分の本来の生命体の一部を使って、いま肉体修行をしているのです。何人かが居るのじゃなくて、何人かが居るのじゃないかと思っているあなた自身が、あなたの一部なのです。あなたのすべてが、そう思っているんじゃないのです。あなたの一部が、そう判断しているのです。
たとえて言うならば、手には手の意識があり、足には足の意識があり、頭には頭の意識がある、と思えばいいのです。そして、あなたという人間は、人間としての意識を持っております。だからあなたは、今それを考え、判断し、私の話を聴こうとしているあなたが、百パーセントのあなただと思っているから、そのような誤解があります。それを思っているあなたは、あなたの一部分のあなたなのです。
善川 今のお話で、本体、分身というこの問題の輪郭が分かりかけたような気がします。今まで何人かの方々が、本体分身の関係について、語ってくれたのですが、各人によってお話のニュアンスが違うように受け取られましたが、それは理解者の理解度によって異なったそれぞれの意味にもとれるのだと思われましたが、そういうことでいいのでしょうか。
日蓮 今話しているあなたが、百パーセントのあなたであるならば、あなた以外に、エビウスという人が居るならば、別の個性であります。別の個性であるのに、魂の兄弟で、一つだというのが分からない、と、あなたはおっしゃることができます。けれども、今、語っているあなたが、あなたの百パーセントではないのです。あなたの一部が語っているのですから、残りの部分があるのは当然です。お分かりになりましたか。
善川 現象界に出て、肉体舟を持っている私の魂が、全休の一〇パーセントとするならば、天上界に残された私個人の、九〇パーセントの本体との交通を、いわゆる魂の肉体離脱という方法で、行うことはできないでしょうか。
日蓮 その必要はありません。やがて還るのですからみんな、あなたは三次元という枠の中に今降りてきて、肉体に入っているのですから、三次元の法則の中で生きていかねばならんのです。こういうことは例外なんです。こういうことは、答えを見せられて、問題集を解いていることと同じなんです。本来は邪道です。
こういう私の言葉を聞かずして、あなたはわれわれの世界のことを感じとらなければいけないのです。それが修行であります。答えを教えているのです、私は今。だからあなたは、今、問題を解く力がひじょうになくなってきているんです。
それはそうでしょう。私たちの話を現に聴いて信じるのと、聴かないで信ずるのと、一体、どちらが難しいかといえば、眼にも見せず、聴きもせず、触れもせずして、信じることの方が、遥かに難しいのです。
もう、これ以上何を望まれるのですか、あなたのように、宗教心もあり知識もある人間が、それでまだそのようなことを知ったり、そこまで行かなければ、なかなか確信がいかないというのであるなら、一般の方々はどうですか、彼らはどうですか。どうして神を信じ、仏を信じることができましょうか。彼らよりは、遥かに恵まれております。
7.物質世界と霊との関係について
善川 しかし、私たちは、この「精神世界」を、現代人が理解できるように説明しなければならない立場にあるように思うのですが、端的に言って、そのためには、物質の構造なり、物体はいかなる因果律によって、存在しているのであるか、などについて、お尋ねし、それを私の知識に加えたいと思うのです。すべて物質万能と考えている現代人は、恐らく九割を超えるのではないかと思いますが、彼らを説得するためにも、その知識を得たいのですが。
日蓮 ――私は、あなたの言葉を聞いて悲しい……。まだ、そんなところで迷っておるのか、まだ、そんな段階で迷っておるのか! われらが、三年以上にわたって説いてきたことを、あなたは、少しでも学んでいるのか。全く分かっていない。今の発言は、全く迷っている。どうして、そちらの方向へ行ってしまうのか、まだ、そんなことを言っている。魂の向いている方向が、違うんじゃないでしょうか、と私は言いたいのです。
下を向いては、上のことは分かりませんよ。
地面を眺めても、太陽は見えませんよ。
霊を知るには、霊しかないのです。
霊のみが、霊を知るのです。
物質は、霊を知らないのです。
霊のみが、霊を知るのです。
善川 ありがとうございました―。
善川 わが国の湯川秀樹博士は、世界的な物理学者でありますが、この方は、晩年、宗教的なというよりは「精神世界」の存在について、ひじょうな興味を持っておられたということですが、この湯川博士にいろいろお尋ねしたいのですが、お呼び願えましょうか、このお方は今、どこの霊域におられましょうか、
日蓮 ちょっと、お待ちください。――湯川博士は、やはり、われわれと同じ世界、菩薩界に居ます。
善川 この人は物理学者ですが、亡くなる前に、自分の研究ももうこれから先は神の存在を認めざるを得ない、というところまで達せられたようで、その意味からして、湯川先生に、物理学者としてのお立場からみた宇宙の構造―マクロの世界なり、物質の構造―ミクロの世界なりについて若干お話を伺いたいと思うのですが。
日蓮 ―彼はまだ、われわれの霊的世界に充分にはなじんでいない。まだまだ現象界の考えや、物事を取り除くという作業のための修行中であります。まだまだあなた方に、このような形で法を説くような立場にはないということです。まだこちらへ来て日が浅いというあなたの言葉、そのとおりであります。彼もまだ、われらの世界では一年生です。勉強をもっとしなければいけないのです。
善川 それでは、物質の最究極の存在とみなされている "陽子" の問題、"クオーク" の問題等について、なおこれらを包括し、存在たらしめている霊の世界、神の存在というものを、論理的にお話しいただけるような方がおられましたらお願いしたいのですが。
日蓮 私は適当な任にないようです。私には充分に答えられる自信がありません。
善川 磁場の問題とか、重力の問題、そして、今、現代物理学が当面している「統一理論」について、どなたかお話願えたらと思いますが。
日蓮 ――しかし、あなたに対話、対談するだけの力がおありですか?
善川 もちろん私は素人ですが、その私にでも分かるように、それなりのお話が願えたらと思うのですが、要するに現世において、物理学者として、ミクロの世界からマクロの世界にわたって研究しておられていて、他界後天上界に昇られたという方で、現在のお立場で過去世、つまり現象界ですね、この現象界で自分たちが勉強しておられた学問なり研究なりの課題が、今、自分が霊的世界に入って、その立場に立たされて、過去の自分の学問なり研究を顧みて、その畢生(ひっせい)の仕事に対する所見、位置づけがどういう言葉でなされるのかということであります。
日蓮 私の知り合いの方には、それに適した方がおられませんが。
善川 私が案じますには、霊と申しましても、四次元の幽界とか、五次元の霊界とかにおられる方と、七次元以上の菩薩界、如来界に居られる方とでは、相当霊的バイブレーションが違うと思いますが、その下の段階におられる方々については、いわば、荒い波動を出しておられると、それは物質的な表現を用いるならば、エクトプラズム体(電子体)とでも申しますか、何かそういう体を保有して日常を経過しておられるのではないか、また、天上界の方々は、更に高度に精妙な体を持っておられると思うのですが、それがどういう精度の高い霊体を持っておられるのか、そこのところをお聴きしたいのですが。
日蓮 あなたは今、大変な誤解をしています。あなたは今自分の五官知、五官知によってこの世界を感じとろうとしています。超えたものなのです。あなたの五感による認識を超えたものなのです。今あなたは、精妙なという言葉を使いました。精妙なという言葉を使って分かったような気分にはなりますけれども、これ以外の説明はできないのです。実際にあなたが、あなたの世界へ来なければ分からないし、またそれ以上の世界へは、行ってみなければ分からないのです。分からない人は永遠に分からないのです。
われわれは、われわれより下の世界は分かります。それより以上の次元の世界は分かりません。あなた方はまだ、三次元におります。三次元に居ながらにしてどこまで認識ができるでありましょうか。
善川 しかしまあ、私たちが、今後いろいろな人びとに法を述べ伝えるということになってきますと、いろんな角度からの質問もあり、また私自身も知りたいし、認識したいという希望もあり、また強い意欲もあるのですが。
日蓮 私は、イエス様のお弟子様のペテロという方から、こういうことを聴きました。
彼らは学問がなかったために、イエス様のお教えを人びとに説くのにひじょうに苦労をしました。そして彼ら、ペテロをはじめ他の弟子たちがイエス様に伝道に行きなさいと言われて、「一体イエス様、何を言ったらいいのでしょうか。私たちは何も知らないんです。何も知りません。何も分かりません。先生のお言葉だけを信じて、お伴してきたのです。どうしたらいいのでしょう」とペテロという人はいったそうです。そうしたら、その時にイエス様が、ペテロという人にこうおっしゃったそうです。「汝ら、案ずることなかれ、その場、その場で言うべき然るべき言葉が出てくる。どのように人びとに説教するかというようなことを汝ら案ずることなかれ―」とイエス様に言われたと、ペテロという人は私に語っておられました。同じではないでしょうか。
分からないものは、分からないでいいではないですか。恐らく私たちが語ったところで、例えば専門家の物理学者があなたに質問したら、あなたは答えることはできないでありましょう。私はそう思います。それはそれでよいではないですか。
善川 ただ、しかし、私の考えますのは、宗教者として神、仏を説くなら、神仏の位置というものがどこにと……。