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目次

















1.高級霊たちは、一つの時代の境目に大きな事業を起こす


今日は第2章「人類救済の原理」ということでお話をしたいと思います。私たちがなぜあの世、すなわち高級霊界より地上の皆様にこういうメッセージを送っているかというと、結局のところ人類の救済です。これをしたいがためにやっておるのです。じゃ神様とか、高級霊たちは、特定の時代にしか仕事をしていないのかと、こんな時代だけ、まとめてやるのかと言うような方がいるでしょう。それじゃちょっと怠け過ぎるんじゃないか、横着じゃないかと言われる方もいらっしゃるかもしれません。

けれどもね、やはり私たちは、一つの時代の境目に大きな事業を起こすのです。これが神様のご計画だからです。本来ならば地上の皆様の生活、あるいは文化や文明、こうしたものは私たちが逐一(ちくいち)指導して、やっていってもいいですけれども、それだけであっては地上の皆様方の努力、精進ということがなおざりになってしまうんです。

そういうことで私たちは常日頃は、地上の人たちを救いたい、あるいは指導したいという気持ちがないわけではないんですけれども、あまりそれをやると、地上の人たちの、自主独立の気運、あるいは独立独歩の生き方、これを阻害するためにできないのです。そういうことで時おり、何千年かに一回、大挙(たいきょ)して、指導霊たちが地上に出て、また天上界にある私たちの言葉を直接受け取って、そうして、この世の中を変えていこうという、そういう大きな運動というのを起こしていくのです。

これがたいていの場合、一つの文明の終りの時であるし、また一つの文明の始まりの時であります。そういう時に、私たちは頑張るんです。あの世からも、あるいはこの世に出ても、頑張るわけです。


2.帰天後十年、法の足りざるを知る


さて私も地上を去って十年、その間あの世で禅定していたわけではありませんけれども、いろいろなことを考えてきました。地上にいた時に、四十代に入ってから四十八歳までに、いろいろな活動をして世の人びとを導いてきたつもりですけれども、あの世に還ってからも、自分の生きてきた間のことをいろいろと考えてみました。また私の指導の仕方、そうしたものが本当に神仏の心に適(かな)ったものであったかどうか、そういうことについて、いちいち反省をしてみたわけです。

そして思いついたことですが、まだまだ私は十分言い足りてないということに結論が達したわけです。地上にいた時は、私はある程度のところまで、十分に法は説いたと思いました。法は説いたけれども、後、これを広めるという点においてまだ不十分であるとこういうふうに考えておったのです。法としては十分に説いたけれども、後は、これを全国各地に、そして世界各地に広げていくだけの時間的余裕がない。その点においては不十分で、残念な点があるけれども、私としては救世の法を十分説いたつもりであったわけです。

しかし今、こちらに還って来て、じっくりと十年間考えてみますと、まだまだという気持ちがするのです。やはり法というのは、固定化したものがあるわけではなくて、人間の数だけの法があると言われるように、時、ところ、場合、そうしたものに合わせて人びとの何と言いますか、性格の違い、気質の違い、あるいは風土における環境の違いに応じてさまざまな説き方をされねばならないのです。

そういうことで法というのは、これだけ説いたから完全だということはあり得ないのです。今までも完全にすべてを説いた法というのは地上に出たこともありませんし、また今後も出ることはありません。したがって私たちは完全なる法を目指して日々精進し、一歩一歩近づいていく以外に方法がないのです。それしか道がないのです。


3.霊道を開くという、釈迦の奇蹟の再現


そこで今日は、「人類救済の原理」という題で、お話をしますから、まあ私が生前、生前と言っても、今だって生きているつもりでいるんですけれども、地上の人たちから見れば、あの世に行ったことになっているから残念ですが、生前、説いたことの反省もかねて、足りざるところこれを補って、人類救済の方法について述べていきたいと思います。

まあ私が七年、あるいは八年にわたって説いてきたことは、二千五、六百年前にインドにおいて釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)、ゴーダマ・ブッダが説いた法の復活が中心であったわけですね。これを私は教えの中軸にすえました。

仏教学者がいくらいても釈迦の本心、釈迦の教えというのがどこにあるかが分からない。また悟りというものも非常に抽象化した議論となって、禅宗とか、そういう中でいろいろなことが言われておるけれども、本当に悟りというものが何かということが地上の人たちにはもう分からなくなってきた。

それで私は、その塵(ちり)や垢(あか)を取りのぞいて、本来の仏教の姿、釈尊が今から二千数百年前に、インドにおいて説いた本当の仏法の姿というものを皆さんに、もう一度復原(ふくげん)して見せたのです。そういうことをしました。そうしたところが、さまざまな奇蹟が起きたわけです。

まあいちばん大きな奇蹟というのは何かと言いますと、まず霊道を開くというような、奇蹟だったと思います。

私は反省的瞑想(めいそう)というものを、ずいぶん教えたつもりです。つまり、禅定(ぜんじょう)して心の曇りを一つ一つ晴らしていく。言いかえれば自分の心の中の間違いを、一つ一つ反省していくと、心の中の曇り、霧というものがだんだん、さーっと晴れていく。そして視界が開けていく。こういうふうになっていく。そして、どうなるかというと、あの世の世界との通信が可能になる。したがって、自分の守護、指導霊と話ができるようになってくる。

まあ、こういうことを説いて、実際その通りの現象が起きてきたわけです。それも、一人や二人ではなくて、何百人という人が心の窓を開いて、自らの守護、指導霊と対話ができるようになったわけです。これは一つの奇蹟だったわけですね。


4.反省的瞑想による釈尊の悟り


実際は釈尊が今から二千数百年前に、インドの地において言ったことも、これと同じであったわけです。釈迦の悟りというのは何かというと、結局のところ彼自身六年間、出家をしてから六年間、道を求めて努力したわけですが、その間に、彼はずいぶん反省的瞑想ということをやりました。自分が生まれ育ってから二十九歳までの間に、はたして曇りをつくったか否(いな)か。はたして自分は間違いをしなかったかどうか。はたして自分は他人を生かしえたかどうか。こういうことを釈尊は二十九歳から三十五歳まで、あるいは三十六歳と言ってもいいけれども、それまで一つ一つ反省していったわけです。

そして彼は、そうした反省を重ねていくとともに、次第に自分の心の中が澄んできて、そして霊的な眼がだんだんに開けてくることを、感じ取ったのです。そしてだんだんとあの世の霊たちの通信というものを受けやすくなってきたのです。

しかし、ある時はあの世の霊たちの話を受けることはできても、また別の日には受け取ることができない。こういうことがあったわけです。なぜそうなったか。それは、悟りというものが、一挙に手に入れられるものではなかったからです。いったん悟り得たと思ったものであっても、また日々の生活の中に、一日二十四時間の中にさまざまな人との出会いがあり、さまざまな葛藤(かっとう)があれば、それでまた、心に曇りをつくっていく愚かな存在が人間であるからです。

そういうことで、釈尊といえども出家して六年の間、過去を振り返りました。しかも現在の中にもさまざまな苦悩があり、その中において日々自らを正していくという必要があったわけであります。それが彼の修行でありました。そして彼は、やがて自分自身の過去の誤り、過ちというものを一切合財(いっさいがっさい)清算して、一切の執着から離れて、いわゆるブッダ、悟りたる者となったのです。私が生きていた時に、皆さん方に教えたことも、この釈迦の悟りの現代版であったわけです。

ところが一人一人の人が、釈迦のような、やはりそれだけ高い霊格を備えた方ではありませんから、いったん霊道を開いても、その後いろんな形で、おかしくなっていった方が多いと思います。

私がいた時に霊道を開いて、守護、指導霊と通信できた者であっても、私が地上を去って十年間、今だに正しい心でもって、守護、指導霊と交信を続けていられる方というのは、非常に稀(まれ)であろうと思います。それだけ厳しいんですね。

というのも私自身、生前はどうやって心の曇りを晴らして、あの世の人たちと話ができるようになるかということは教えたんですけれども、その維持、あるいはその心の発展、悟りの発展ということに関して、まだ十分でない点があったからです。それについて、さらにそれを詰めて話をしていく必要があると感じている現在です。


5.わが教えで心の窓を開いた人びとへの警告


さて、いったんある程度の悟りを得て、その結果心の窓を開いて、パーニャ・パラミタ、すなわち心の奥底にある宝庫、宝の蔵を開いた方がたであっても、その後、十年の間でなぜおかしくなっていったか。この点について私は自分がやったことの責任をとる意味でも、正しいやり方というのを教えていかねばならぬと思うのです。

まず、いったん心の窓を開いて霊的な能力を持った方でいちばん危険なのは、自分は特殊な人間だと思うことです。自分が優れた人間だと思うことです。あるいは、すぐさま自分が神仏の使者であると思い、あるいは教祖のように自分自身を高く思ってしまうという危険があるということです。

まあ実際平凡な人から見れば、心の窓が開いてあの世の霊たちと話ができるような状態というのは、まさしく奇蹟であり、あるいは釈迦かキリストかと思うような面もあろうかと思います。

しかし、これが一般人にとっていちばん危険な落とし穴なのです。まず心の窓を開くまで、反省的瞑想を行って自分の心の中の間違いを正していくでしょう。

たとえば、怒りや、妬(ねた)み、嫉(そね)み、愚痴(ぐち)、足ることを知らない欲望、異性への間違った執着。あるいは金銭、金銀財宝への飽くなき欲望。立身出世欲。こうしたものでもっては、本当の意味で悟ることができないということに気づき、こうした間違いを一つ一つ、取りのぞき反省したとしても、それで一定の心の境地、「アラハン」と言いますけれども、アラハンの境地に達したとしても、人間は、これより先に一歩進めることが非常に難しいわけです。一歩進めるよりも、むしろ転落することを防ぐという方法自体が非常に難しいということなのです。


6.霊能力者の多くが転落しやすい理由


なぜなら、あの世の霊たちと話をするようになると、だんだんに人間はその霊たちの声を信じ、盲信、狂信をしていくようになるからです。あの世の霊たちといっても、さまざまな生き物があの世には住んでいるのです。そして、私が今いるような九次元世界というものは、この地上をはるかに去った、高い次元であって、あなた方地上に生きている人たちの、日々の生活に対して、あれこれと話をするということは、ごく稀(まれ)なわけであります。

しかし四次元世界、つまりあの世の世界でも、低次元の世界の住人たちというのは、まだまだ、このあなた方が今生きている三次元世界に対する執着というものが、十分なくなっておらんのです。

そういうことで、三次元の中の人間に、あの世のことについて非常に関心、興味のある人を見い出したならば、彼らにちょっかいを出して、何とかして彼らを思うがままに操(あやつ)りたいという欲望を持っておる人間が、うじゃうじゃとおるのです。

ですから、いったん心の窓を開いた方も、あの世のよからぬ霊たちに十中八九惑(まど)わされていくのが常であるわけです。それは単なる平凡人だけのたどる道ではありません。如来(にょらい)や菩薩(ぼさつ)と言われるような方であっても、この地上に生まれると、そうした危険があるのです。たいていの新興宗教の教祖たちはそうです。

心清きままで、あの世に還ってきた人もいるけれども、大部分の人たちは自分が心の窓を開いて、あの世の霊たちと話をしているうちにだんだん増上慢(ぞうじょうまん)になり、うぬぼれて、そして転落していくのが常であります。

ましてや教祖になるまでもない通常人にとっては、いわんやということです。

したがって、まず心の窓を開いた場合の正しい心境維持、あるいは転落しないための防止法というのが必要であろうと思います。それは次にあげる三つの点です。これを地上の人たちは、とくに注意していただきたい。


7.転落防止法の第一点―謙虚に努力する姿勢があるかどうか


第一点は自分を偉い、偉いと思う方向に、その霊たちが心の中に語りかけたり、導いておるのか。それともお前はもっともっと、まだまだ謙虚に自分を磨いていかねばならんという方向にあの世の霊たちが指導しておるかどうか。これをよくよく見極めなさい。これが第一点です。

すなわち日々謙虚に自分を磨いていくという姿勢、これを失わないということです。これは毎日毎日のことです。自分が偉くなったと思わずに、如来や菩薩になったと思わずに、毎日毎日、目が開(あ)いたら、その時に自分が生まれたのだと思って、毎日毎日、新しい自分の人生を始めていくことなのです。

私は生前、あの世の階層についてずいぶん話をしました。この地上を去った世界には、ヒエラルキーといいますが、明らかに霊的な階層があります。それは事実です。厳然たる事実であります。

四次元には幽界という世界があり、五次元には狭義の霊界という世界があります。六次元には神界つまり、神様と言われるような優(すぐ)れた高級霊の世界があり、また七次元には、さらに大きな使命を持った方がたのいる菩薩界という愛と慈悲の世界がある。あるいは八次元には如来界という地上のりーダーたち、あの世のりーダーたちの世界があり、九次元には太陽界あるいは宇宙界という、要するに枚世主(メシア)たちの世界があるということを、私は説いてきました。しかし、こういう世界かあるということは、生まれてくる前のあの世の地位が、この世でそのまま通用するということではないんです。

たとえば、自分が如来界から生まれてきたからといって、人生の現時点において、如来の悟りに達しているかといえば、そんなことはない。そういうことはあり得ないことです。昔がどうだったとか、未来がどうだとか言う前に、現時点の自分の悟りが、如来の悟りか、菩薩の悟りか、神界の悟りか、これによって人間は違うのです。

たとい如来の悟りであるとしても、今日一日いろいろな人と諍(いさかい)を起こし、心に乱れをつくった以上は、もはや如来ではないのです。

こういうふうに一日一日、一時間一時間、一瞬一瞬の悟りであるのです。それほど人間の心というものは揺れていくものです。心の針というのはそういうふうに、あの世のどちらの世界へも向いていくものなのです。これを一念三千(いちねんさんぜん)といいます。天台大師が昔中国で説いた教えです。人の心は一念三千、思えばすなわちいろいろな世界へ通じていきます。良い方へも悪い方へも通じていきます。


8.自分の心がガラス張りだと思ってはじめて反省ができる


よく自分自身の心に手を当てて考えてみなさい。一日のうちにどれだけ悪いことを考えてきたか、どれだけ地獄の方へ心が向いてきたかということを、よくよく考えてみなさい。たいていの人は、恥すかしくなるはずです。

この意味が分からなければ、自分の心をガラス張りだと思って、自分の心の中をすべて人に読まれているとして、恥ずかしくない自分であるかどうかを自問自答してみなさい。それが反省の基準です。

反省というのは結局、自分の心がガラス張りだとして、他人様から全部見られているとして、そして今日一日を振り返った時に、恥ずかしくない自分であるかどうかです。それが反省なんです。私は生前あなた方に、毎日反省せよと言いました。反省の基準は何か。結局、ガラス張りの箱に入った自分の心というものを見つめて、すべての人から見られて恥すかしくない自分かどうかをよく考えてみることです。その点を忘れないことです。

ガラス箱の中のように自分の心が見えるということが、善意なる第三者の立場に立つて、自分自身を見つめるということなんですね。まあこういうことで、まずいちばん大事なことは、日々自分を磨いていこうという姿勢、これを失った時に転落が始まります。偉い偉いという方向に自分が行ってはいけないということです。たとい本当に偉くとも、本当に如来や救世主のような悟りを持った人であっても、それを日々続けなければ意味がないのです。


9.光の大指導霊であっても、一歩間違えば地獄に堕ちる


かつてルシフェルという七大天使の一人が、天上界にいたのです。彼が地上にサタンという名で生まれ、そして欲望のままにこの世を生きていって、死んであの世で地獄に堕ち、そして地獄の魔王になりました。そうした強大な力を持った光の大指導霊であっても、一歩間違えば地獄に堕ちてしまうような厳しい試練の揚が、この三次元世界であるのです。

そうした方でも地獄に堕ちるのですから、ましてや平凡な人たちは、心の窓を開いて自分の守護霊と話ができるようになったくらいで、有頂天(うちょうてん)になってはならんのです。こういうことです。有頂天にならず、日々自分を磨いていくことです。


10.転落防止法の第二点―他人への愛があるかどうか


二番目の注意点は何かというと、結局自己愛でなくて、他人への愛があるかどうかです。まあ自己愛といって自分自身を大切にすることはもちろん、大事ですよ。ただ、たいていの人間はね、一日のうち自分のことばかりしか考えておらんのです。真に他人のことを考えていないのです。他人のことを考えるといっても、人の噂話(うわさばはし)とか、ゴシップであるとか、だれそれが失敗したとか、偉くなったとか、こんなことばかりを考えておるのです。

そうではなくて、縁あって人生の途上で自分に出会う人たちに、どれだけの愛を投げかけることができるか。どれだけの慈悲を与えることができるか。どれだけ彼らを導き、彼らを救うことができるか。彼らを生かすことができるか。こういう観点で見ていくことが真の愛なのです。

ですから二番目の注意点は、その愛でもって日々生きている自分かどうかということをよーく考えること。これが二番目です。第一番に謙虚に努力する姿勢。二番目に他人に対する愛というものを失っていないかどうかです。


11.転落防止法の第三点―人格が高まっているかどうか


三番目の基準があります。この三番目の基準というのは、人間として要するに人格が高まっているかどうかです。霊的な世界にどっぶり浸(つ)かっていた人は、ともすればだんだんおかしくなっていきます。

私が死んだ後にもさまざまな混乱がありました。GLAの中で、霊能者が数多く出たわけですが、霊能だけ持ってしまって、そのコントロールをできない人たちがいろいろな混乱をつくっていきました。そしてお互いに罵(ののし)り合うようになりました。「あいつにはサタンが入っている」とか、「いや、サタンが入っているのはお前自身だ」とか、いろんなことを言い合いました。自分に都合が悪いのは、皆サタンになってしまいました。

なかにはサタンが入っている者同士が、お互いを攻め合って「おまえがサタンだ」、「いやおぬしこそサタンだ」と、こういう馬鹿なことを言い合って権力争いをしておりました。まあこれは、地獄であるのです。

実際の地獄でもサタン同士で「わしの方が偉い」と言ったり、「お前は偽物(にせもの)で、わしこそ本物のサタンだ」と言って、威張(いば)り散らしておるようなサタンがいっぱいおりますけれども、こういうのが生きている人間に入ると、わしこそ本物と言って、争うわけです。

まあそういう人を常識人の目で見ていると、言っていることと行っていることがおかしいのです。

あるいは天上界から啓示を受けたとかいって全員でカナダに移住してみたり、そんなことをする馬鹿がいる。あるいは富士山が大爆発するから逃れよと言いだしたり、こんなことを言う馬鹿な人間がいます。また別の人は、昨日もUFOに乗って他の天体に行ってきたところだとか、こんなことを言うのが出て来ます。盲信、狂信です。大変ひどいものです。


12.偉大な霊能力を持ちながら、高い人格者として生きていくことを目指しなさい


ですから、とくに霊的能力に目覚めた方がたというのは、一歩下がって自分自身を見詰める必要があるので、自分はそうした霊的な能力というのを否定し去っても、何か後に残るかということですね。それを否定し去り、のぞき去った時に健全なる人間として、生きていけるかどうかです。あるいは社会人としてまともに仕事をしているかどうか。こういう基準があります。これをとくに気をつけなさい。

まあ神通力(じんつうりき)と普通言われているもの、霊的能力の中にも神通力と称されるものがあります。これは私も『人間・釈迦』の中で説きましたけれども、神通力の中にはいろいろなのがあって、たとえば、「天眼通(てんがんつう)」といって霊眼ですが、霊視ができるようになる。あるいは「天耳通(てんじつう)」といって、霊聴ができる。あるいは「他心通(たいしんつう)」といって、読心力ですね、人の心が読める。また、「神足(しんそく)」といって、神様のように、あっちこっち飛んで歩ける。つまりテレポーションですね。幽体離脱(ゆうたいりだつ)ができる能力もあります。あるいは「宿命通(しゅくめいつう)」といって、人の過去・現在・未来を見通す力、こういうものがあります。

こうした五大神通力の上に「漏尽通力(ろうじんつうりき)」というのがあります。これは、この世の中で通常人とともに生活することができる能力。偉大な霊能力を持ちながら、通常人と同様に仕事をし、偉大なる常識人としても、生きることができる能力。これが漏尽通力です。これがいちばん難しいのです。霊視ができたり、霊聴ができることはたやすいことなのです。これより、もっと難しいのが、要するにこの漏尽通力なのです。

この偉大な能力を持ちつつ、常識人として、偉大な人間として、高い人格者として生きていけるかどうかということです。これが努力の目標なのです。


13.ニュートン、スエーデンボルグ、ダ・ビンチの漏尽通力


では漏尽通力を持つ人は、どのような人がいますか。考えてごらんなさい。

たとえばニュートンがいます。物理学者であり、天文学者でもありました。科学者です。近代の、このニュートンという人が、今、九次元にいられる方で、たとえばクート・フーミーという名でも呼ばれている方でもありますけれども、この人自身、もともとは救世主的素質を持った方なのです。そして科学者として生きた以外に、彼はずいぶん霊的な体験もし、霊的な研究もしておりました。けれども、そうしたことにはまったく無頓着(むとんちゃく)のように装(よそお)いながら、この世的に立派に成功した方です。物理学者として超一流、科学者としても一流、そして彼は勤めもしておったですね。造幣局(ぞうへいきょく)の長官というような仕事、お役人までしておりました。それでも平気でしたね。これは漏尽通力の最たるものです。

スエーデンボルグという人もいました。まあこの人も五十何歳になってから後、霊界探訪記をいっぱい書いていますけれども、それ以前にも本当は彼は霊的能力を持っていたんです。ただ、この世的にはそうしたことを発揮しないで、彼は万能の天才の如く生きていきました。こういう能力ですね。これも漏尽通力です。

あるいはルネッサンス期の天才、レオナルド・ダ・ピンチのような人がいます。彼も霊能力は持っていたんです。そして、あの世の霊たち、つまり私たちと話をすることができたのです。けれども彼は、絵画を描き、さまざまな設計図を描き、さまざまな発明もした万能の天才です。偉大なる常識人であり、だれが見ても、そういう人でもあったのです。こういう能力を持ちながら、また私たちと話をしておったのです。ダ・ピンチというのはガブリエル、大天使ガブリエルの生命体の一部です。そういう人が出ました。これだけの力を持っているのです。

ですから皆さん、霊的能力を持って、それに振り回されてはいかんのです。それを振り回すことが大事であって、うまーく使うのです。こういうことをやっていかねばいけない。


14.霊道を開き人格者となった人びとが各界で活躍することが、救世の原理につながる


まあ本日は、救世の原理ということですから、人類救済の原理についてまとめますと、私はこうした心の曇りを取りのぞいて、反省して、真実の霊能力を持った人びとが、より多く出ることが必要だと思います。そして、あの世の守護、指導霊たちと交信ができるようになることが重要です。あの世があり、それを知ることによって正しい人間の生き方というものを、本当に学ばなければいけないということを知らす意味で必要なことと思います。

ですから心の曇りを晴らして、そして霊道を開き、しかも人間としても向上していくような、今、言ったような諸点を十分反省しながら、生きていくような人が数多く出ることが、やがて救世の原理につながると思うのです。一人、二人では足りません。いろいろな方が出ることが大事です。それが一つの原理だからです。法則だからです。

そして、そうした人たちが霊的におかしくなってしまわないで、偉大なる人物として各界で活躍することが、すなわちニュートンや、スエーデンボルグや、あるいはダ・ピンチのように活躍することが、一つの大きな救世運動となっていくと思うのです。それはあなたにも、あなた方一人一人に、また読者の一人一人にとっても可能なことなのです。可能な道なのです。そういうことを実証していきましょう。まず実証することが大事です。そしてより多くの人たちを目覚めさせていくことです。

まあ、そういうことを中心に今日は話しましたけれども、やはりあの世との通信が確かにあるんだということを、皆さんに体験してほしいと思います。それは可能なことなのです。程度の差はありますが、だれにも可能なことなのです。その正しいやり方を、どうか学んでいってほしいと思います。以上で、今日の私の話を終えます。