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目次

 1.天人の羽衣












(1987年2月14日の霊示)

1.天人の羽衣


今日は、第3章ということで、「天女の舞い」ということについて話をしていこう。昨日は昨日で、仙女だとか、そういう話もしておいたけれども、今日は、仙女とは言わず、天女ときたから、皆さん、よーく耳の穴をかっぽじって、聞いてほしいもんじゃ。

仙女と天女は違うか、違わんかと、まあ、言うことでね。昔からよくあるじゃろ、三保(みほ)の松原か何かに。漁師が魚をとりにか何か行っとったら、ふっと見ると、天女が天から降りて来て、何んじゃあれは、羽衣(はごろも)かい、あの羽衣を松の木に打ち掛けて、水浴びをしておったのかのう。行水(ぎょうずい)をしておったのか、洗濯をしておったのか、わしもよくわからんけれども、何かをしとったわけじゃ。まあ、今流に言うと、言葉は悪いが、女性がいい恰好(かっこう)しておったわけじゃろ。

それで漁師の男は、もう目玉が飛び出すほど驚いて、まあ、目飛び出して見とったわけじゃ、松の木の陰からのう。そしたら、天女が、おもしろそうに歌っとったんだか、泳いどったんだか、体洗っとったんだか、わしは忘れたけれども、しとったんで、その羽衣を取ってみせたら、「どうかその羽衣を返して下さいな」ということになったわけじゃ。

その後どうなったか、わしはよう覚えておらん。こんな羽衣伝説というのが、いろんなところにある。東北のほうのあるところの浜辺にもあるし、山陰海岸の浜辺でもあるし、あるいは、琵琶湖のようなところにもあるらしいのー。湖にも、羽衣伝説があるらしい。

こういうことで、ほんとうにそんな天女というのがおるんかのーと。そして、ときどきは降りて来て、羽衣かけておるかどうかじゃのう。こういう問題があろう。それから、昔から仏教のなかでも、まあ、何億年とか何兆年とかいうのじゃなくて、仏教の時間の単位のなかで、「劫(こう)」という時間があるのう。劫(こう)と言うか、劫(ごう)と言うか、これは天女が、要するに、何年間に一回、一年に一回じゃったか、忘れたけれど、まあ、一年に一回降りて来て、大きな岩、山ほどある岩の上に降りて来て、そして、その上をちょっと歩く、そのときに、羽衣が擦(す)れて岩がちょっとだけ削(けず)れる。

そういうことをやっとって、その岩がなくなる期間、これが一劫(いちこう)じゃ。一劫(いちごう)と言ってもいいけど、こういう期間じゃと言うとった。そして、弥勒菩薩(みろくぼさつ)というのが、その何劫も先、何十劫か、何百劫か忘れたけれども、まあ、はるかなる無限の先に、生まれ変わると言われておったはずじゃ。

つまり、そういうふうに、天女の羽衣で擦(す)れて、岩がなくなるというんだから、これはだいぶ気の長い話じゃのう。とっても気の長い話で、とてもついていけんぐらいの長さで、そんなに長いことやっとったら、大宇宙がもうひとつぐらいできそうじゃとわしは思うけれども、まあ、実際問題、羽衣でどれだけ岩が削れるか、疑問じゃけれども、まあ、頑張っとれば、それはだんだんに削れんことはなかろう。

点滴石を穿(うが)つというから、まあ、削れるじゃろう、羽衣でものう、少しずつ。そういう話が仏教のほうにもあろう。まあ、そういうことで、天女というのが、昔からあるとされておる。

じゃ天女とは何かということを、もうちょっと話をしていこうと思う。もちろん天女というのは、天に住んどるから天女であって、わしらの世界におるわけじゃ。それでまあ、そういう美しい女性が、集団となっておるかおらんかということだけど、やはり、ここにはおるんじゃ。天女の世界というのは、いろいろ分かれておるんだけども、まあ、大きく分けると、三種類ぐらいになろうかのう。


2.天女の第一番目は観音様


一種類目の天女というのは、いわゆる先生格の天女で、これはちょっと偉いわけじゃ。いわゆる観音様という天女がおるな。今、観音様と言うても、皆んな男だか女だかわからんように思うとるけれども、観音様というのは、実は女じゃ。昔からある観音様ちゅうのは、女でね。仏像を見ても、そういえばやさしそうな、女性的な微笑(ほほえ)みを浮かべておるじゃろ。また、手を美しく組むなりして、非常に悩(なや)ましげな眼差(まなざ)しで人を眺めておろう。まあ、こういうふうに、ほんとうは観音様というのは、女性なんじゃ。

そして、女性で、どういう女性が観音様かって言うと、観音様の条件というのがあってのう。観音様の条件というのは、まあ、ひとつは、人助けに奔走(ほんそう)した方ちゅうことじゃのう。これが観音さんじゃ。やはり観音様の条件は、どれだけ多くの人を救ったかということでのう。やはり十人、二十人の人を救ったぐらいでは、観音様にはなれんのじゃ。観音様になるためには、少なくとも、やはり何百人かの人を救わにゃいかんのじゃ。そのぐらいの影響力がなければ、観音様とは言えん。まあ、こういうふうに、観音様ちゅうのは、人を救うという使命を持ってきた方じゃ。したがって、まあ、慈悲の塊(かたまり)であってのう。自分のことを考えずに、とにかく人を一生懸命救って巡っとるのが観音様じゃ。

西洋では観音様とは言わんけども、まあ、観音様にあたる人を言ってみればのう、たとえば、あれじゃ、「ナイチングール」というのがおったのう。クリミヤ戦争のときに、敵味方へだてなく、負傷者(ふしょうしゃ)を救っておった女性じゃ。そして、看護学校をつくって、ずいぶん多くの人を救った。こういうナイチンゲールというのがおったけれども、まあ、これなんかも、西洋に出た観音さんじゃのう。

あるいは、観音様と言えば、今、インドかなんかで一生懸命人を救っておる観音様がおるのう。「マザー・テレサ」というキリスト教の修道女だけれど、貧民窟に住んで、一生懸命貧民の人たちを救おうとしておるのう。まあ、あれもキリスト教だから、キリスト教では観音と言わんけれど、やはり観音様じゃ。ああいうふうに、慈悲の塊がだいたい観音様じゃ。

あるいは、日本の歴史のなかでは、大昔に、「光明皇后」と言われる方がおられた。まあ、皇后様という偉い身分の方じゃけれども、当時、ライ病じゃったかのう、ライ病が非常にはやって、これではいかんというので、ライ病院だな、ライの収容の病院をつくった。そして、自らも出向いて、そのライ病患者の体の膿(うみ)をふいてやっとったようじゃ。口づけまでしとったというぐらいじゃ。そういう光明皇后じゃった。

ある大変酷(ひど)いライ病患者がおって、膿がすごいので、一生懸命拭(ぬぐ)って、あまりの可哀相(かわいそう)さに、光明皇后が抱き寄せて、今流に言えば、キスをしたそうじゃ。そうすると、そのライ患者から、あっという間に、今度は光が出てきて、あれはどうしたことかと思えば、まあ、すごいのう、゛尽十方無碍光如来(じんじっぽうむげこうにょらい)゛と言うかのう。光輝く如来となって、出てきた。実は、如来様が、光明皇后の徳を讃(たた)えるために、ライ患者に化(ば)けておったと。そういう話があるけれども、まあこれは、ライ病患者に化けておったという話になっとるけれども、実際は、そのことを言うておるのじゃないんじゃ。

わしの弟子で谷口雅春というのがおったけれども、あれは生命の実相とか言うて、まあ、ずいぶん景気のいいことを言うておったじゃろう。まあ、今次に言えば、あの生命の実相を言うておるのじゃ。こういう病人だとか、悪人だとかいう、そういうどうしようもない、この世の何と言うか、見捨てられた人たち、こういう見捨てられた人たちの心のなかにも、やはり神様としての本質があるということを教えとるわけじゃ。つまり、地上の人を見るとね。悪人じゃとか、善人じゃとか、健康な人じゃとか、病人じゃとか言うけれども、ほんとうは人間ちゅうのは、皆んな、神様の子であって、一緒なんじゃということを言うとるわけじゃのう。

じゃが、通常の人間というのは、やはり自分が可愛(かわい)い。自分が可愛いがために、自分の生命を賭(と)してまで、人を救おうとは思わぬ。ところが、光明皇后という人は、ライ患者の膿なんか拭いとったら、自分が死んでしまうかもわからんのに、それでも平気でやっておった。やっていたところが、そこが光輝く、大如来と変わっていった。ライ患者が。まあ、こういう話である。

こういう話は、西洋にもあろうのう。ある何じゃったかのう、神父(しんぷ)さんだったか、修道女だったか、わしは忘れたけれども、まあ、神父としておこうか。重病患者が来てのう、そしてどうしても助かりようのない重病患者を一生懸命介抱(かいほう)して、まあ、抱きしめようとしたら、そのやせおとろえた、重病患者というのは、実は、イエス様の姿に変わって出て来た。主の姿であったということを、わしも何かで読んだことがある。これなども、重病患者がイエス様に変わるというのは、まあ、おかしいわけじゃけれども、実相においては、そうじゃということじゃのう。

まあ、病人であっても、つい昨日まで、痛い痛いと言うとった病人であって、「死にとうない、死にとうない」と言うとった病人が、それを介抱する人の愛を受けて、優しさを受けて、感謝の日々を送る。昨日まで喚(わめ)いておった病人、わがままを言うておった病人が、急に、その人びとの愛を受けて、やはり考え方を変える。

ああ、私は自分の生命(いのち)ばかりを言うておったけれども、ああ、人びとの、これだけのお世話を受けて、現在があった。一日生きのびただけでも、私はありがたいことであった。皆さんありがとうございました。という感謝の気持ちになって、わがままを言うておった病人が、手を合わしたとき、その病人の姿っちゅうのは、もう観音様に変わっていくわけじゃ。

こういうのを、霊的な目がある人が見ればのう、人間というのは、そういうふうに、悔悟したときに、光り輝く存在のように見えるわけじゃ。つまり、弟子の谷口雅春が言うように、人間のなかには、生命の実相というのがあって、これが万人のなかに宿っておるんじゃ、と。生命の実相というのは、ほんとうに素晴らしい無限の光なんじゃ。病人じゃから、健康人じゃからといって、分けへだてはない。悩んでおる人じゃから、悩んでおらん人じゃからといって、分けへだてはない。偉い人も、偉くない人も、何の関係もない。金持ちも、貧乏人も、分けへだてない。

生命の実相は、ただこれ光であって、その実相というものは、自らの心を光に向けたときに、顕(あらわ)れるんじゃ、と。まあ、谷口は言うとる。弟子ながら、よう頑張っておる。ようわかっておる。よう悟っておる。そのとおりじゃ。そういうことであってのう、まあ、観音様の話をしとるわけじゃけれども、そういうふうに、多くの人を救うのが、観音の役割であって、また、救われる側の人であっても、心を改めたときに、観音のように見えることもあるということじゃ。

女性というものは、とくにそうじゃのう。ずいぶん千変万化する化(ば)けものみたいなものじゃ。ああ、夜叉(やしゃ)の顔というのも、あれは女性だぞ、あれは怖(こわ)い。男で、ああいう男はおらん。口は耳まで裂け、耳はとんがり、角がはえ、目は三角でらんらんと輝いておる。こんな恐ろしい夜叉(やしゃ)の顔というのは、女じゃのう。男であるなら、一生に一度や、二度は、これを経験しておるのじゃ。

ある晩、酔って帰って来ると、自分の女房が夜叉に変わっておったというのは、これはよくあることでのう。これは怖いぞおー。酔って夜中の二時に千鳥足で帰って来て、「オーイ、玄関開(あ)けろ、オーイ、何で開けんのじゃ」ちゅうて、叩いてガラス割って、なかに入って来て、また一升瓶を出して飲んだくれておると、光がパツとっく。後ろをふっと振り向き、酔った目で見ると、そこに立っておるのは、夜叉じゃ。口は耳まで裂け、目はらんらん、角がはえ、髪は振り乱し、そして、口を開ければ、なかから真赤な燃えるような舌が、のぞいている。これは怖いぞ。

男はこれを経験したら、一生そのゾーッとした雰囲気を忘れることはない。こんな夜叉というのがある。まあ、こういう夜叉は、なるべく嫁にもらわんほうがいいわ。運悪くして、もらった人は、可哀相じゃのう。夜叉も、まあ、観音のまた変化(へんげ)の姿じゃと思う以外ないのう、そういう場合には。観音様が夜叉に化けて、お前さんを救いに来ておると思わざるを得んだろう。まあ、そう思うことじゃ。

ああ、インドの昔話にもあるんじゃ。ある民家で、夜もう寝静まった頃に、あるいは、皆んなで寝ようと灯を消したときに、入口をドンドンと叩く人がいる。「何じゃ何じゃ、こんな時間に、もう夜も十二時を回っておるのに、だれじゃ」と聞くと、「旅の者でございます」という可愛い声が聞こえる。「うーん、女子(おなご)か、うーん、若い女性のようじゃ、どうした、こんな時間に」ということで、閂(かんぬき)をはずして開けて、女性を入れると、大層(たいそう)若く美しい妙齢の女性が入って来る。「私は旅の者でございます。道に迷いました。どうか一晩泊めていただけませんでしょうか」と。五十年輩の主人が見ると、まあ、大層美しい。うちのかみさんに見つかったら怒られるかも知らんけど、まあ、一晩ぐらいは泊めてやりたい。

「まあ、そんなにいいところではないし、せんべい布団しかないけれども、まあ、あなたひとりぐらい泊めてあげられんわけではないから、まあまあ、入られたり」と言ったら、「私には、双子の妹がおります」とその美しい女性が言う。「双子の妹さんですか、そうですか、どういう妹さんですか」と、主人が見るともなく見ると、「こちらにおりますのが、妹でございます」と、その美しい女性が手を引いて、妹を引き入れる。

すると、そこにおるのは、夜叉みたいな女じゃ。世の中には、えてしてそういうことがあるようじゃのう。観音様と夜叉みたいのが一緒に住んでおることがよくあってのう。これは妹じゃと言うが、主人が見たら、夜叉みたいじゃ。そこで、「ああ、その夜叉はいかん、牙がはえて、目がらんらん、角がはえとる女性は、これはかなわん」と。口を見れば、耳まで裂けとるではないか。そして、赤い舌がチョロチョロ出ておる。髪を振り乱し、これが入ってきた分には、わしは食われるかもわからん、これは困る、と。

そうすると、その美しい女性が悲しげに、「しかし、この妹と私とは、双子の姉妹でございます。私だけが泊めていただいて、妹を外で凍えさせるわけにはまいりません」と言うてのう、悲しい涙をはらはらと流す。こうして、私は何軒も断(こと)わられてきたのです」と、そういうことを言って、去っていくというインドの昔話があるのじゃ。

これはのう、二人の人がおるということじゃなくて、象徴を言うておるのじゃ。男二十七、女二十四かのう。美しい女性と思って結婚したところが、十年も経てば、フライパンじゃ。フライパンを振り上げて、頭を殴りにかかってくる。玉ネギは投げる、箒(ほうき)で足は殴る、唾(つば)はふっかける。場合によっては、馬乗りになって、つかみかかってくる。月給袋を持って帰ると、さっとふんだくる、そして、何も言わん。

まあ、こういう女性を見ておると、だんだん、怖くなってくる。そして、ときどき見ておると、うちのかあちゃんに角がはえているような気がする。あれほど美しかったと思って、迷いに迷うた女性が、何と夜叉じゃ。わしがあのとき、あんなにラブレターを出して、くどきにくどいて、断(ことわ)りに断られたのを、何とか言って、両親をくどき、親戚をくどいて、何とか式をあげた。自分の親に勘当されてまで、式をあげた。そんなにその女性と思っとったのに、今は角がはえておる。こんなはすじゃなかった。自分の誤解じゃったかと、まあ、思うわけじゃ。

ところが実は、そうじゃない。誤解じゃない。それは女性(にょしょう)のね、女性(じょせい)というものの本質なんじゃ。双子の姉妹なんじゃ、女性はのう、ひとりじゃと思うても、ほんとうは、二人おるんじゃ。美しく心やさしい女性と、鬼のような女性と二人おるんじゃ。女性の心には、いつもその二人が棲(す)んでおる。肉体はひとつでも、魂のなかにその二人が棲んでおるんじゃ。したがって、嫁をもらう男というのは、二人いっぺんに泊めてやらねばならんオヤジと一緒じゃ。真夜中に、夜叉と美人とを一緒に泊めねばならんオヤジ、嬉しいような、怖いような、まあ、こういうもんじゃ。

そういうことであってのう。人間というものは、決して天女のように、最初から創られておるもんでもないし、逆に、夜叉のように創られておるもんでもないんじゃ。それは、長い人生経験のなかで、天女のように顕(あらわ)れたり、夜叉のように顕れたりするのじゃ。口が耳まで裂け髪を振り乱して、夜叉じゃと思うて、この夜叉は早く殺さねばならぬと言って、平手打ちなんかして、電気をつけてみると、そこに倒れておるのは、自分の可愛いねー、かあちゃんだったということもあるわけじゃ。

髪を振り乱していたのは、当然、寝ていた姿で出て来たんじゃから、それは、髪も振り乱しておったじゃろう。頭を掻(か)き掻き出て来たんじゃ。それが夜叉に見えるかもしれない。酔った眼でのう、酔眼で見れば、そうかも知れない。まあ、こういうもんじゃ。そういうふうに、夜叉と天女がおるわけじゃないんじゃけれども、人間の心には、そういう両面性があるということを、わしは話しておるんじゃ。

それでは、わしらの世界におる天女の話、もっと続けていこう。さっき言うたような観音様の世界じゃのう。いわゆる法のお助けをする女性たちもいる。何百人、何千人を救う女性もおるし。


3.天女の第二番目は乙姫様


その次におる女性というのはのう、今度は竜宮界(りゅうぐうかい)の女性じゃ。竜女(りゅうじょ)と言うて、これは人助けはしておらんのじゃ、はっきり言うて。竜宮界の乙姫様(おとひめさま)というのは、人助けなぞ全然興味がないんじゃ。ただ、乙姫様たちというのは、まあ、心はきれいなわけじゃのう。少しも悪いことを考えたことがない。

浦島太郎が言うように、ほんとうに、鯛や平目の舞い踊りで、水族館のなかに住んでおるようなもんじゃ。鯛や平目と一緒に踊ったり、舞ったりしておるわけじゃから、心が曇るわけもない。毎日が楽しくて、永遠の時間を生きておるわけじゃ。年も取らんし、永遠に若い。竜宮だけは、年も取らんのじゃ。竜宮の一番偉いお姫様、「玉依姫(たまよりひめ)」という方がおるけれども、王依姫様というのは、そうじゃのう、年齢も二十四、五じゃのう。それで竜官界の一番お偉い方じゃ。

美しい女性じゃぞ。それから、あなた方はご存知かも知らんけれども、「弟橘姫(おとたちばなひめ)」様という立派な方もいらっしゃる。この方なども、そうじゃのう、二十二、三の気丈な女性じゃ。二十二、三の気丈の女性という感じがするのう。この人も、まあ、竜宮界では、女性三羽烏(がらす)のひとりぐらいじゃろうかのう。大変気位の高い方じゃ。へんなことを言うと、無礼打ちに合う。そういう偉い方じゃ。こういう乙姫様の世界があるわけじゃ。

彼女らは、地上の人を救おうとかは思うとらんのじゃけれども、永遠の何と言うかのう、やはり幸せの世界に生きとるわけじゃ。まあ、そういうわけでは、理想郷じゃのう。人類の長年の希望である、理想郷のなかで生きておるわけじゃ。まあ、そういうことで、理想の生活を実践しておるわけじゃ。

ただ、わしらから見ておったら、よく退屈せんもんじゃのうという気はせんでもない。わしらなんかも、やはり退屈するから、新しいことのひとつや二つはしてみたいけれども、竜女は、いつも鯛や平目とばかり踊っておるから、まあ、よく続くもんじゃのうと思っとる。まあ、飽きないんじゃのう。千年でも、二千年でも、同じことをやっておるようじゃ。まあ、そういう至福(しふく)の世界でもあるわけじゃ。まあ、これが天女じゃ。第二番目じゃ。


4.天女の第三番目は仙女


第三番めの天女ちゅうのがおる。それは、昨日もちょっと話はしたけれども、まあ、仙人界の天女じゃ。まあ、仙女(せんにょ)と言ってもいい。仙女も美しいぞ。それはそれなりに、美しい。それに仙女の場合には、非常に霊能力が優(すぐ)れておるわけじゃ。そういうことであって、仙女の霊能力というのは、まあ、千変万化する霊能力じゃのう。だから、相手の、たとえば、男性がおれば、相手の男性の好みに合わせて、自由自在に自分を変えていく。これが仙女じゃ。

そうすると、地上にも仙女みたいのがいっぱいおろう。女性というのは、千変万化するけれどものう。まあ、昨日もおかしな話をしたけれども、よくもまあこれほど変わるわと思うようなのう、歌でも、歌合戦などでも、孔雀の羽根みたいなのを、尻尾(しっぽ)につけて出て来る歌手もおるしなあ。よくこんなに変わるもんじゃと思うほどに変わるのう。まあ、そういうふうに、仙女というのは、地上の人は、そういうふうにメーキャップをしたり、舞台衣装を整えて変わるけれども、仙女というのは、舞台衣装やメーキャップがあるのではござらぬ。仙女というのは、自分の心じゃの、まあ、霊能力で、それを変えるわけじゃ。

したがって、千変万化、非常に素晴らしい。まあ、わしなぞは和風の女性が好きじゃから、わしが行くときには、それはそれは大和撫子(やまとなでしこ)の女性が勢ぞろいじゃ。向こうからサーッと大きな雲がきて、おっ、何の雲だろうか、この虹色の雲はと思うと、虹色の雲が目の前に到着する。それで、目の前の、そうじゃのう、目にわかるように言えば、一メートルぐらいの高さじゃろうか。出口王仁三郎が立っておる一メートルぐらいの地面のところに雲がきて止まる。直径、そうじゃのう、直径十メートルぐらいの雲じゃ。厚さは、そうじゃのう、五、六十センチ。キントン雲じゃないぞ、虹色の雲じゃ。そういう雲がくる。

そうすると、そういう雲の上に、美しい和服姿の女性が、四人も五人も坐っておるわけじゃ。そして、「王仁三郎様、大変お目出とうございます」と言ってくる。「何だ何だ、何が目出たいんじゃ。目出たいことなぞないぞ、少しもええことはない」とわしが言うと、和服姿の妙齢の女性が、五人が、「おほほほほ」と笑うわけじゃのう。「王仁三郎様、何を御冗談言っておられますか。今日は嬉しい日ではありませんか」と、まあ、こう言うわけじゃ。「何が嬉しいのじゃ」「それ、このとおりでございます」と言うとのう、玉手箱を出してくるわけじゃ。「おお、玉手箱か、どれどれ」「王仁三郎様、開けてごらんなさいませ」「うーん、じゃ開けて進ぜよう」と開けてみる。煙が出て、年取るわけじゃないぞ、この玉手箱はのう。

開けてみると、何じゃ、バレンタインのチョコレートが入っておるじゃないか。「これはチョコレートではないか。わしはこんなもんは食さんぞ」「あーら、王仁三郎様、何をおっしゃるんですか。下界では、はやりですわ。もう一日前から、デパートではチョコレートの山で、若い女性がいっぱい買いに行っております。私たちもそれを真似してみたんです。下界がバレンタインなら、私たちの世界もバレンタインがあってもいいでしょう。私たちは、王仁三郎様の日頃のご恩に報いて、バレンタインのチョコレートを持ってまいりました。どうぞ召し上がって下さい」なあんて、持って来るわけじゃ。

そうか、よしよしよし、そういう心掛けのいい女性なら、褒(ほ)めてつかわそう。よしよし、今後も可愛いがってやるぞ、うーん」と、わしが言うわけじゃ。そうすると、仙女が言うわけじゃのう。「どうぞおひとつ、お口に運んでみて下さい」って言うから見てみると、まあ、チョコレートが五つぐらい入っているわけじゃのう。ひとりひとりからの心がこもったチョコレートじゃ。

それで、玉手箱のチョコレートをひとつ取る。最初のチョコレートを取ると、これは金色じゃのう。銀紙じゃない、金紙が巻いてある。この金紙を取ってチョコレートを食べようと、パクッとロに噛(か)もうとすると、そのチョコレートが、パッと消える。パッと消えて、何が出るかと思うたら、鶏になっちゃう。鶏になって、コケコッコーと言って、金の卵を産んで、飛んでいくわけじゃ。そして、最初の仙女が、笑うわけじゃ。「おほほほほ、王仁三郎様、残念でしたわね。早くチョコレートを召し上がらないから、チョコレートが、鶏に化けてしまいました。金の卵を産んでしまいましたから、それで、明日の朝、御飯でもお食べ下さいませ」と言うて、最初の金色の和服を着た、帯をつけた女性が笑っとるわけじゃ。

しようがないのう。それでは、二つ目のチョコレートを食するとするか、ということで、わしがまた手を伸ばす。そうすると、今度は、銀紙で包んでいるわけじゃ。どれどれ、これは、ほんものじゃろな思うて、銀紙にくるんであるのをほどいて、ハートの形のチョコレートを口に運ぶわけじゃ。ところが、歯に触れるか触れんかの間じゃ、何とあなた、銀色の蛇が出てきた。チョロチョロチョロチョロと出てきた。あっ、こりゃいかん、もうちょっとで、蛇の頭を噛み切るとこじゃった。

この銀色の蛇が、また空中を飛んで行く。空中を飛んで行ったかと思うたら、今度は竜になってしもうた。空中で竜になって、雲の高いところまで飛んで行ってしもうた。これで、二人目の仙女がまた笑うとるわけじゃ。銀色の帯をしておる、銀色の仙女じゃ。「おほほほほ、王仁三郎様、残念でしたわね。今のは竜でしたわ。オホホホホ、おわかりになりませんでしたか」とまあ、こういうことをやるわけじゃのう。あー、竜じゃったか、もうちょっとで竜を飲み込むところじゃった。しょうがあるまい。

それでは、三つ目にかかるとするか。で、三つ目のバレンタインのチョコレートをほどくと、今度は赤じゃ。赤い包装紙に包んである。これは、まさしく間違いない。赤の紙を取って、パクッと食べようとすると、何じゃと思う。今度は、まあ、これは冗談がきついぞー、赤ちゃんが出て来たわけじゃ。女性か男性かの興味はないけれども、まあ、女性の赤ちゃんじゃ。王仁三郎様が食べようと思った瞬間、赤ちゃんじゃ。「オギャーオギャーオギャー」で、わしの腕のなかで抱かれておるのう。それで、赤い帯をした仙女がまた笑っておる。「王仁三郎様って、残酷な方ですわ。赤ちゃんを食べようとされたんですね」と、こんなことを言うておる。まあ、女性との遊びじゃ。

ついでに遊んでやろう。四番目に手を出す。四番目は緑色じゃ。緑のラップでくるんである。うんそうか、緑じゃと。そうすると、今度はこれは果物じゃな、何だろうなとわしは思いながら、開けるわけじゃ。そうしたら、緑に出てきたのは何じゃろかと思う。緑で出てきたのは何と、日本刀ですわ。食べようと思ったら、今度は刃渡り一メートルの日本刀になっちゃった。こんなの食べれば、わしでも口が切れてしまう。まあ、きついことをする女子(おなご)じゃ。緑色の帯をした仙女がまた笑うておる。

「王仁三郎様、ついでですから、最後のを開けて下さいませ」と、まあ五番目のが言う。ああ、これが黄色じゃ。黄色の紙で包(つつ)んである。黄色のチョコレートを開けてると、もうこれは、もう偽(にせ)ものに決まっていると思って、わしゃ、もう、ええいままよと思って、食いちぎってやれと思って、ガブッと食べたわけじゃ、そしたら今度は、ほんとうのチョコレートじゃった。そして、仙女五人が大笑いに笑っとるわけじゃ。

まあ、わしらの世界は、こんな世界じゃ。まあ、楽しいこともあって、今日は、二月の十四日じゃのう。バレンタインデーということで、そういうことも先程やっておったところじゃ。こういうプレゼントもあるんじゃ。まあ、これが仙女じゃけれども、仙女というのはのう、そういうふうに、いたずらが非常に好きで、自分のそういう超能力を使って、いろんないたずらをするんじゃ。


5.魔法界、魔女たちの術競べ


そしていわば、西洋で言えば、魔法が得意の奴らじゃから、西洋で言えば、魔法使いじゃの。女性の魔法使いじゃろうけれども、そういうふうに、いろんなことをして楽しむわけじゃ。西洋の話でも、魔法使いが、杖を回して、いろんなものを変えるじゃろう。杖を回せば、家になったり、家が今度、鶏になったり、人間が豚になったり、いろんなことをするのう。あれは、決してつくり話じゃないんじゃ。仙人界、あるいは、西洋では魔法界と言うとるけれども、魔法使いの世界があってのう、そういうところでは、ほんとうに日常茶飯事でやられとるんじゃ。そこでは、霊力の競争があってのう。強い者には勝てんわけじゃ。

たとえば、二人の魔法使いがおって、杖を振り回して、どっちが強いか競争しとるわけじゃ。そして片方は、もうひとりの魔法使いを、豚にしてやろうとしとるわけじゃ。ところが、もうひとりの魔法使いは、今度は、別の奴を鶏にしてやろう、と思っとる。二人で杖を回したり、箒(ほうき)を回したりして、霊力を競っておると、しばらくすると、どっちかの力が強いわけじゃ。そして、片方が強いと、その箒を回したときに、相手を豚にしようと思った奴が、自分が鶏になってしもうて、コケコッコー言って、周りを回っておるわけじゃ。

そうすると、魔法使いは喜びに喜んで、まあ、三日ほどしたらその魔法が解けるから、三日間そこで遊んでらっしゃい、というわけで、鶏にされたほうは、三日間、「悔(くや)しい悔しい」と言いながら、やっとるわけじゃ。三日経ったら、全部戻(もど)って来て、もっともっと霊力をつけにゃいかんというので、また、修行に励むわけじゃ。

まあ、こんなことをしておる世界がある。魔法界じゃのう。まあ、日本だと仙女の世界じゃけれども、仙女たちはたいてい美しいけれども、そうぃうふうにいたずらが好きじゃ。そして、彼女らは、そういう雲に乗って、あの世を渡っていく乗りものを持っておってのう。五人乗りの雲もあれば、分かれて、それがひとり乗りの雲になることもある。雲に乗って、絵に書いたようにのう、空を虹色に渡っていくわけじゃ。


6.天女の舞い、世界コンテスト


まあ、おもしろいのが、月に一回ぐらいじゃろうか、そうした天女の舞いというのがあってのう。いろんなところから雲に乗って、仙女がいっぱい集まって来るわけじゃ。月一回じゃのう。たいてい満月の晩なんじゃけれども、月に一回集まって来て、仙女同士で、自家用の雲に乗って来るわけじゃ。そして、二千人集まってのう、山の上で。まあ、何となく満月が出とるのじゃ、満月の雰囲気が出とるのじゃ。まあ、満月でもないけれども、気分的に満月じゃ、出とるわけじゃ、山のほうに。「ああ、今日はとってもいいお月様ですわ」ということで、それから、まあ、下界で言えば社交ダンスじゃのう、あの世で言えば天女の舞いが始まるわけじゃ。

それで、二千人が自家用の雲に乗って来たけれども、それぞれ、そこでパレードをし始めてのう。まあ、これは水着ショーみたいなもんじゃのう。順番に出て来て、「私はこういうものよ」と、いろんな衣装を着て、いろんな雲に乗って出て来るんじゃ。そして、わしら男たちも、そのときには、その天女の舞いを見物に行くんじゃ。そうすると、いろんな美人が出て来てのう。まあ、ミス何とかいうのがいっぱいおるわけじゃ。したがって、まあ、地上でも、ミス何とかユニバースじゃとか、ミス日本じゃとか、ミス何じゃろうのう、ミス杉並というのはまだおらんかのう。知らんけれども、まあ、そういうのがおるんじゃろうけれども、そういうもののなかにも、仙女が多くてのう。まあ、美人を競(きそ)っておるわけじゃ。

美しくするというのは、やっぱり、これも仙術、霊術のひとつでのう。まあ、美容にあまりふけると、そっちへ行くぞ。地上の女性も気をつけろ。美容にふけるということは、要するに、美しく化けて、男を騙(だま)したいという気持ちじゃから、男を騙したいという気持ちは、これ仙女に通じてのう、先程みたいに、騙し始めるぞ。気をつけにゃあいかん。素肌で生きなさいね、素肌で勝負をするんじゃ。まあそれは余計なことじゃけれども、そういう仙女になる。

そうして、まあ、美人競争したりのう。あるいは、踊り競べがあるわけじゃ。出しものがあって、月一回踊り競べをやっておるわけじゃ。仙女にも派があって、何とか仙女、何とか仙女というのがいっぱいあってのう、ミス・ユニバース仙女とか。いろいろあるわけじゃ。いろいろ分かれておるわけじゃな。

あるいは、中国仙女もあって、そういうときには、外国からも駆(か)けつけて来るわけじゃ。香港あたりから、チャイナ服を着てな、手をそのなかに通して、前で袖を通して、チャイナ風の仙女がいっぱい寄って来る。あるいは、インドから、サリーというのか、インド服を着て来る仙女もいっぱいおる。あるいは、また、西洋の魔法使いも、箒を持って飛んで来る。

そういうことで、月に一回、仙女界ではそういう天女の舞いというのをやっておる。まあ、これは、非常に珍しい行事でのう。万国オンパレードなんで、わしらも他の世界におるんじゃけれども、見に行くわけじゃ。そしてまあ、観覧席で拍手しながら、やるわけじゃ。そして、今回は日本の歌手、今回は香港の歌手、今回はインドネシアの歌手、今回はイギリスの歌手とか、こういうことを決めておるんじゃ。拍手の数での。まあ、そういう楽しい世界なんじゃ。


7.竜女、乙姫様の舞い


まあ、天人の舞いの場合は、それが多いのじゃけれども、それ以外にもさっき言った竜女の舞いもある。竜宮界の乙姫様たちが、ときどき、舞いを踊るときもある。それを見に行くこともあるんだけれども、まあ、琵琶湖のほとりに乙姫様がおったというのは、これはまあ、たいてい、こういうのは竜女のほうじゃのう。

竜宮界というのは、霊域ではあるんだけれども、場所はどこにあるかというと、やはり水に縁があるわけじゃ。天国、地獄ちゅうのはのう、決して上空にあるわけではなくて、いろんな地上のものに関係するなかにおるんじゃ。大きな竜宮というのは、たとえば、富士山系の竜宮というのがある。富士五湖というのがあるけれども、富士五湖系統の竜宮界というのがある。これが日本で一番大きい竜宮じゃのう。

ここに、玉依姫とか、弟橘姫とかは、だいたいおられる。富士山系じゃのう。それ以外にも、三保の松原竜宮、というのもあるし、あるいは、何じゃのう、丹波篠山(たんばささやま)のあたりの何と言うか。あれは若狭か、若狭湾のあたりの竜宮もあるんじゃ。それから、山陰松江、松江にも宍道湖(しんじこ)というのがあるけれども、宍道湖の竜宮というのも有名じゃ。それから、琵琶湖にも竜宮がある。こういうふうに、この世の、地形に合わせたところに、けっこう霊域というのがあってのう、竜宮界というのができておるんじゃ。

だから、そういう竜宮界の竜女たちが、ときどき水浴びをしておるように見えたりすることがあるんじゃのう。ときおり、普通の人間でも、霊視ができて、竜女たちを見るわけじゃ。そうすると、えも言われぬ美しい女性たちが、何と琵琶湖のほとりなり、三保の松原のほとりで、水浴びをしとるわけじゃ。羽衣を木にかけての。これはもう男が見れば、よだれが出るわのう。もっと近う寄って見ねばいかんというので、羽衣を取りたい、写真も撮りたいと思って、寄って行くわけじゃけれども、気がつくと消えてしまう。惜(お)しいことをした、まあ、そういうことでのう。まあ、そういう天女というのは地上人の男性にとっては、永遠の憧(あこが)れの的じゃ。実際にそういう水という霊域を通しておるわけじゃ。

まあ、お前たちの考えでは、まあ、五次元、六次元あたりに竜宮界があるように言うけれども、それは上層階にあるというよりは、そういう地域に関係したところに、できとるわけじゃのう、竜宮界というのは。女性が多いから、女性は水を象徴しとるんじゃ。水とは、海、あるいは湖、これは女性を象徴しとるわけじゃ。なぜかと言うたら、女性のお腹じゃのう、子宮を象徴しとるわけじゃ。海とか、湖というのは。だから、竜宮界という女神の世界というのは、だいたい水に関係があるんじゃ。


8.天狗界の象徴・山岳信仰


これ以外にも、たとえば、仙人界のなかにも、荒々しい、仙人、天狗がおるけれども、荒々しい人は、やはり山岳地帯を中心にしておる。いろんなところに山岳信仰があるけれども、御岳山(おんたけさん)であるとか、富士山も富士山であるがのう。あるいは、他にもいろんな、四国の山脈なら山脈、四国の山岳信仰があるし、阿蘇岳にもあるし、木曾岳にもあるし、いろんなところがある。そういうところに、霊域で、やはり、天狗界、仙人界というのがあるんじゃ。これも上層階にあるというよりは、やはり、そういう地上の地形を利用したところに霊域ができとるんじゃ。

そういう天狗の姿を、ときどき、山を歩いている人が、修行者が見るわけじゃ。霊視ができる人がいると、天狗が杉の上に逆さまに立っておったり、あるいは、岩場の上に立っておったり、法螺貝(ほらがい)を吹いておったり、そういうのを見たりするわけじゃのう。そういうふうに、まあ、地形に関係した霊域があるわけじゃ。まあ、話はずれたけれども、竜女の舞いというのもある。


9.観音様の舞いは何千年ぶり


あと、さっき言った、観音様の舞いっていうのが、あるかないかっていうことじゃけれどもなあ、これはまあ、めったに見えるもんではない。ただ、ないわけではない。観音様の舞い、とはのう、たまにあるんじゃ。それは、まあ、現代もそうしゃけれども、こういうふうに何千年ぶりに大きな法が説かれるときっていうのは、地上に大挙していろんな人が出て来るわけじゃのう。こういう光の大指導霊たちが、大天使たちが、地上を去って、あの世に還って来たときに、やはり女性がもてなさねばしょうがないだろう。男性にもてなされても、ええ気持ちはせんから、女性がもてなすわけじゃ。

それで、宴席を設けて、祝うわけじゃけれども。宴席を設けたら、踊り子がおらんと、やはり、話にならん。ポンポンと手を叩けば、向こうの障子がサーッと開くわけじゃ、襖(ふすま)がのう。それで、出て来るのが観音様じゃ。観音様が、それぞれにべべ着て出て来て、踊りを舞う、これが、観音様の舞いじゃの。これはめったにないけれども、そういう大きな法が説かれて、法を説いた人が還ったときに、そういうことをやるわけじゃ。まあ、わしのときにはやってくれんかったけれども、谷ロとかは、やられとるようじゃのう。悔しいけれども、仕方がない。観音様の舞いを見とるようじゃ。わしには、やってくれんかった。まあ、仕方ないのう。

こういうことで、天女の舞いというのも、三種類あるわけじゃ、どうじゃ、勉強になったじゃろが。まあ、今日はそれぐらいにしておこう。