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目次















1.陽の当たる世界観


では本日の演題「足ることを知る」ということについて、私は話したいと思います。これは一番大事なことなんです。今までずい分難しいことを言ってきました。「人生の目的と使命」「反省・瞑想・祈り」「悟り」「真の幸せ真の安らぎ」結構難しいことを言ってきましたけれども、この五番目の「足ることを知る」これが一番大事なんです。家の中の混乱、この地上界の混乱を見渡してみると、結局、何が原因かというと、足ることを知らない人達の争い、闘争と欲望の世の中の渦の中にスッポリと包まれているということなんです。ですから今、仏教なんかやってる人は別として、普通の人に「足ることを知る」なんて言うと、「何ですか」なんて言う人がほとんどなんです。「『足ることを知る』なんてそんな古めかしいことは今の時代に言ったって、通用しませんよ」と、大抵の人なんかそう言います。「何で足ることを知る、どういうことですか。そんな古い話をして、うちはナントカ宗じゃありませんからね。うちは仏教じゃないんです。そんなの関係ないんです。」なんて言われるでしょう。ところが、人間生きているうちに、どうしてもこの足ることを知るっていうことの重要さを知る必要があるんです。

結局、何のために私たちがこうして高級霊界から神法を伝えようとしているか。神理を伝えようとしているか。これを考えて頂きたいんです。この世の人々に、本当の自分たちの使命、自分たちの目的というものを悟って頂いて、そしてより良い生き方、本来の神の心に沿った、叶った生き方というのをやって頂きたい。これが私たちの願いなんです。で、そのためにはまず、本来の生き方は何かという前に、どういう生き方が違っているのか、間違ってる生き方って何なのか、これをはっきりしてしまう必要があるんです。そして、こういう生き方は間違いだからこういうふうに生きなさい、こういうふうに考えるべきであろうと私は思います。

じゃあ、今の世の中の人々は一体どこが間違っているんでしょう。まず間違ってることの根本は、人間は死んだらもう何もかも終わりだと、こういう考え方が一つにあります。これが一番の間違いの元凶であります。死ねば元も子もないんだと。もう何もなくなっちゃうんだと。あなただってそうです。後もう何十年しか生きられないと思ったら、それはできるだけおもしろおかしく人生を生きなきゃ損です。そう思いませんか。ですからまず死ねば何もかも終わりだという考え、これは特に無視するわけにはいきませんけど、死後の世界とか、あるいは宗教の世界、魂の世界っていうものを、昔の古代の人々も持ってた偏見かなんかと考えちゃって、教科書かなんかでも、昔の人々は魂を信仰してたとか、そういうこともあったとか。あるいは日本でも二千年も前の卑弥呼さんの時代には、そういうシャーマニズムみたいなのがあって、素朴な霊魂信仰がありました。こういうことを平気で教科書に載せてるんです。古代人というのは勿論素朴であったから、信じやすかったということもあるでしょうけれども、何も知らなかったから信じられたんじゃないんです。現代人は何もかも知ったからそういうことを否定してるんじゃないんです。現代人は要するに陽の当たらない部分、影の部分ばかりを今本当は知ろうとしているんです。本当の陽の当たる世界を忘れています。この世の中は本当は三次元だけじゃなくて、四次元、五次元、六次元と七次元、八次元、九次元と、こういう神様の創られた開かれた社会の中の一部分なんで、私たちはそういう開かれた大きな社会の一員として生きているんです。本当は、これが「陽の当たる世界観」なんです。

ところがこれを人間は、この三次元だけに押し込めて、四次元以降の世界はわかりません。あの世のことは、分りません。何か、分りませんけれど、とにかく僕らは三次元に生きてるんだから、このなかで受験勉強していい点とっていい学校入って、いい企業入って、出世して、金もらって、美人の嫁さんもらって、ちょっと賢い子供生んで、そして停年退職して病気にもならず、ポックリ死ねたらそれで幸せと、こういうのが平均的な人生観なんです。それでこういった枠の中で、本当にこういった枠の中で足ることを知っちゃって、三次元の中で足ることを知って生きてるんです。ところがある意味では、逆説的になりますけれど、私たちはこういう三次元的生き方の中に足ることを知ってもらっちゃ困るんです。


2.多次元世界を知った上で、足ることを知るの意味を考えなさい


本当は三次元以降の世界がある。こういう無限の世界があるということを知って、神の世界の仕組みを知った上で、初めて足ることを知ってもらわなければ困るんです。三次元で終わってしまったら困るんです。四次元以降の世界は実際あるんですから。そういうことで、四次元以降の世界がなければ、高橋信次が今出てきて話すこともないんです。皆さんこれを幽霊の言葉と感じましょうか、感じないでしょうか。生きた人間がこんなことを喋りませんよ、あなた。生きている人間じゃないから、手足もない人間だからこそ、こうやって力込めてあなた方にメッセージを送ってるんです。よく聞いて下さい。死んで私も足ることを知らないのか、知ってんのか、知らないけれど、ちょっと足ることを知らなかったんだろうか知らないけれど、足りないと思って今出てきて喋ってるわけですから、私の言葉をよく聞いて頂きたいと思います。それで、足ることを知るっていうのも、この三次元的な中で足ることを知っちゃいけないんですよということです。全ての世界の仕組みを知って、多次元的空間の存在、その中を人間は永遠の旅人として旅行してる存在だということをまず知った上で、足ることを知る意味を考えて頂きたいと思います。


3.学歴信仰の落し穴


そうすると、先程私は、この世的な繁栄ということを申しました。まず平均的な人に聞けば大抵そうなんですよ。十六歳までの学生時代ならば、まあ勉強が良くできるか、あるいは野球ができて甲子園に行って甲子園で注目されるか、この二つぐらいしか大抵生き甲斐がないんですよ。こんなもんです。それで甲子園に出るか、或いは勉強が良くできて親から誉められ先生に誉められると、それで何とかやったと、いい人生生きてると、大学入ったら、いい大学入れば、いい女性にもてるとか、東大入りゃ聖心女子大の女の子が追いかけるとか。全然もてなかった人もどっかいるようだけれども、一般には東大に入りゃ、杉並にあるのは東京女子大でしょ、東京女子大の女の子がアパートに遊びに来てくれるとか、こんなこと幻想抱いて試験勉強一生懸命やるわけですよ。ところが実際入ってみると全然もてない。おかしい、話が違うじゃないかと思う。東大に入りや、この辺じゃ東女(とんじょ)、それから聖心女子大の御嬢さん方が是非結婚して下さいと、次から次へと現われて誘われると思っていたら、全く誘われもしないで、四畳半の下宿で寂しくですね。パン焼いて食べたり、こんなことしてるわけですよ。そして、「おかしい、世の中の基準はおかしい。何か間違っている。僕は一生懸命受験勉強して東大さえ入りゃあ、もう金も女も出世ももう手に入ったと思ってやってきたのに、東大に入ったところが全然もてないじゃないか。」東大入っても、やっぱり東京女子大の女性から見ると、「やっぱりスラッとして、二枚目で、もうニヒルな感じが漂ってる人って大好きだわ。」とか、「甘いマスクが何ともいえない」こういうこと言って、やっぱり向こうも選んでるわけです。できたら映画俳優のような方で頭のいい人がいいわとか、やっぱり親がお金持ちで、お父さんが社長かなんかしてて、或いは国会議員かなんかやってて、そして自分も後継ぎしそうな人がいいわとか思って、やっぱりむこうもなかなか選んでるわけなんです。東大入っただけじゃなかなか満足してくれない。いろんな基準を決める。結局四畳半で寂しく、万年床をひいて、焼イモ焼いて食べたり、そんな寂しい生活で四年間も学生生活が継くんです。

そうすると「世の中おかしい。学生時代はもてなかった。じゃあひとつ社会に出て、会社に入ったらこれじゃ済まんぞ、この恨み、晴らさんでおくものか。」ということで会社に入ります。会社入って、一流会社に入ったとしましょうか。一流会社入って、「俺はエリートだ。まあ女の子にはもてなかったけれども、一応東大出てるんだ、どうだ。」なんて胸をはってやるわけです。そうすると、じゃそんなに他の人と違うかっていうとそうじゃないんですね。「オイ、何とか君、これコピーを取りなさい。」なんて言われて、「君、伝票の切り方が下手だね。」「字がきたないなあ、東大ってこんなで卒業できるのかなあ。」なんて言われて、「君、印鑑押すの忘れてるよ。」なんて言われてしまいます。だんだんそういうことで、色々上司から苛められるわけです。そうすると、「何かおかしいな。自分はこんなはずではなかった。」会社入ったらもうすぐ社長候補で、色々と祭り上げられて、給料は人より多いわ、ボーナスは多いわでいくと思ったらとんでもない。「君はこんなことも知らんのかね。東大出てコンピューターも知らんのか君。」といろんなこと言われて苛められる。そして職場に短大かなんか出ちゃって一年か二年先に入った年下の先輩がいて、「まあ何とかさんって本当にひどいんだわ。何してたのかしら。大学で何も勉強してないのかしら。こんな手の遅い人って初めてだわ。」なんて言われて、それから商業学校を出た簿記かなんかやった女性から「まあひどい。これで本当に高等数学できたのかしら。この人足し算引き算もできないのよ。一流大学出の人なんて信じられないわ。」こんなこと色々言われるわけです。そうすると、大学時代に女の子から、東女(とんじょ)の女性や聖心女子大の女の子にもてなかっただけでなくて、会社に入ってからも全然何もできないというレッテルも貼られ、ますます本人は不満を感じます。「こんなはずではない。僕は九州の山奥から出てきた時には天下国家を取るつもりで出てきたんだ。中曽根首相なんかに負けていられない。あの程度の人材で首相になれるなら僕はもう首相じゃすまない。もう国連の事務総長だ。」なんて思って九州の山奥から出てきたりして、入ったところが実際は寂しく、東大の駒場寮かなんかで寂しい生活を送って、会社入ったら全然人気が出ず、勤務評定されても全然平均以上にいかない。「おかしいんじゃないか」また不満が出てきます。

そしたらどうするか、だんだん生活が荒れてくるんです。すさんできます。そして、「仕事なんてもうどうでもいいや。こんなくだらん仕事、せめて夜の世界ででも活躍しよう。」なんて思ってしまいます。そして、もう今度は赤坂だ、六本木だと言ってだんだん遊び始めます。だんだん酒の世界に入っていきます。そして、後輩を集めては愚痴ったり先輩の悪口を言ったり上司の悪口を言ったりして、毎晩酒ばっかり飲んでいます。そして会社の女の子は決してサービスしてくれないから、六本木なんかに行って、お金さえ落とせば「あら社長さん候補ね。」とか「専務さんじゃないですか。もしかして。」なんて言われていい気になって。二十三、四で誰が専務だと思いますか。本当はそうなんだけれど、「まあ専務さんじゃないですか。」なんて言われていい気になっちゃって、「もしかして課長さんじゃないですか。」なんて言われもうのぼせちゃって、そういう気になって夜の巷をだんだん歩くようになります。こうしてだんだん愚痴と不満ばっかり、「学生時代は女の子にもてなかった。会社入っても決して仕事ができるとは言われない。上司から悪口言われる。後輩はおごってくれるうちは先輩先輩と言ってくれて、おごらなくなりゃ全然相手にしてくれない。」と思うようになり世の中がだんだん暗くなっていきます。そして、不平不満が溜ってきます。そして自分を誤魔化す人生が始まっていきます。そして、お酒と女、あるいはマージャンを始めたりしてマージャソ、ゴルフ、こういうことで五十年、六十年の人生、だんだん転落していくわけです。そして、「はっ」と気がつくと、「あれ、俺は何してたのかな。」と思います。もう五十五歳、あるいは六十歳、停年がきてる。あるいはもうひどい勢いにのると、最近は選択停年制なんていって、もう四十代位から肩叩きやられてるんです。もう四十五歳とか、そんなんで選択制で「あなたは会社に要らないから早く退職する方が退職金が多いですよ。」とこんなこと言われるんですね。「長く居てもいいけど給料は減っていきます。早く辞めた方がいいんじゃないですか。」なんて四十代で言われてしまいます。こうして人々は大変困っていくんです。これは、結局自分の意識、自意識と客観的な自分の評価、世間的な評価とのギャップが出てくるんです。


4.スターを目指す人生の悲劇


これは今、典型的な例を私は言ったんです。けれども、もちろんこれ以外の世界でもいろんな事があるんです。例えば女の子でもいいですよ。まあ東京の下町でも何でもいい、浅草かなんかに生まれちゃって、えっ小学校、中学校から「かわいいわ、かわいいわ、美人だわ。」って言われてチヤホヤされちゃって、そして中学校三年かなんかの時に「スター誕生」かなんか知らないけれども、そんなのに応募しちゃって通っちゃった。「これで私はいよいよスターだ。」とまあがんばっちゃうわけですね。「山口百恵なんてなによ。あんなのブスじゃない。私の方がよっぽどかわいいわ。」なんて思います。こういう感じでやる気満々で出てくるわけです。

ところが現実の世の中そんなに甘くない。一流歌手みてても「私の方がかわいい。」なんて思ってても、人気の出る人と出ない人がいるんです。そして十七、八になります。デビューして一曲目、出ないですね。歌がなんか全然流行(はや)らない。「おかしいわ。曲もいいし、私の声もいいし、歌のセンスもいいし、美人だし、なぜ売れないのかしら。ちょっと世の中の人っておかしいんじゃないかしら。」そしたら、あんなとんでもない、自分が見たら「なによ、あんなブス」と思うような人の歌が流行っちゃったりして、「なんであんなのが流行るのかしら。ちょっとおかしいわ。」なんて思って、じゃ仕様がないから二枚目のレコーディングに入って、「今度こそ。」なんて思ってやると、またこれも売れない。そのうちだんだんお付きの人連からも「あんたダメだね。売れないね。」なんて言われてだんだん、もう格も落ちていって、ちょっと夜の店なんかで歌うぐらいになってしまいます。そのうちドサ回りなんかしちゃって消えてしまいます。

本人は日本一の歌手になるつもりだったのが、いつの間にか夜の巷で歌い歩いて、そして寂しく生きています。そのうち変な男に掴まってしまって、ヤクザかなんかに掴まっちゃって、「えー僕はある会社の社長なんだ。君は本当に私の見る限り非常にいい天性、天性の素質だね。これは素晴らしいものがある。顔もなかなか魅力的だし、きっと芽が出ると思う。僕が君のスポンサーをやってあげるから、君ひとつやらかいかね。」なんて言われて「ああそうですか、社長さん。私ってそんなに魅力ありますかしら…そんな才能ありますか。」なんて思います。「いや君は絶対いける。僕は二十年に一人出るか出ないかの逸材だと思う。」なんて言われて、「ああそうかしら。」なんて言って、そして「じゃ僕が君のために事務所を開いてあげる。え、ついては、君の住所は、今のところじゃまずいから、青山のいい所に、マンション借りてあげるからそこに入りなさい。」なんて言われて、いつの間にか二号さんになっちゃったりしてしまいます。こういうふうにしてだんだん転落していくんです。


5.誤魔化しの人生は、自分の理想と現実のギャップから始まる


そして、こういう世の中のいろんな人達をみていると、私はそこに一つの法則があると思うんです。それは何か。結局、自分の、自己意識、世間からこのくらい認められて当然だと思う意識と、世間から受ける評価、これにギャップがあるんです。ギャップがあるんだから、そのギャップにだんだん耐えられなくなってくる。耐えられなくなってどうなるか。自分の評価を落とすか、というと落としゃしないんです。本当は自分はもっと評価されるべきだと思って、もっと上げていくんです。そして、世間が間違っている。人々が間違っている。或いは、本来なら私はこうなっていたはずなのに、あの時あいつが邪魔したからこうなった。本来なら優秀な社員だったのに、たまたま意地悪な上司になってダメになったとか、本来なら素質があったのに、作曲家がヘタクソだったから私の歌は売れなかったとか、本来なら、いいですか、二十代前半にアメリカに留学しているはずなのに、郷里の両親が反対して、留学なんかとんでもないと言われたために、自分は芽が出なかったとか、本来は、例えば大学院に残って学者になってたのが、まあ家に金がなかったので就職したんだと、こんな僕は就職向きの人間じゃないんだと、本当は学者になるべきだったのに、就職したんだ、だからうまくいかないんだとか。言い訳を考えていきます。

彼らに共通しているところは、自分は正しいんだ、自分は何も間違ってない、世間が悪い、あの時の事情が悪い、大抵こういうことです。こういうふうになっていくんです。そして、自分の理想ばかり先走って、現実とのギャでフが大きくなって、この間の埋め合わせがきかなくなって、誤魔化しの人生が始まっていきます。誤魔化しですね。不遇を呪うようになります。自分の不遇を呪い託(かこ)つようになってきます。そしてだんだん苦しい人生です。そして、偽りで身を固めていきます。

例えば、今度は詐欺なんか働いちゃったりして、イヤー僕はもと検事で今は新聞記者をやってて、えーどこそこの大学を出て超エリート中のエリートなんですよ。なんていうこと言い始めて、女性を誑(たぶら)かしてお金を三百万円OLから巻き上げたり、こんなことし始める。本来は本人が抱いていた理想がヽ自分はそういう超エリートなんだと、なんとなくこう思ってて、それが理想と現実とがごっちゃになっちゃって、それでもう、たまたま騙しあげたりして、こんなことするようになってくるんです。こういうふうにして様々な苦しい人生がおきていきます。


6.不幸な人生は、有頂天になるか、自分を蔑(さげす)むかの両極端から始まる


じゃあ何故そういうふうになっていくんだろうか。何故そんなようになるのか。あるいは、人間は何故自分をそういう高い人間、価値ある人間だと思うんだろうか。そういうところをもう一度考えてみたいと思うんです。人間は卑下しておけばいいのかと、じゃ自分は罪の子で、何の価値もない、取るに足らない人間かというと、そんなことはありません。人間、神の子です。神様と同じです。価値があるんです。それはその通りなんです。それで、それを徒(いたず)らに卑下したり、自分は駄目なんだと愚痴る必要はないです。ところが、人間っていうのは極端にブレちゃうんです。そういうふうに有頂天になるか、あるいは自分というのを本当にくだらない人間だと思って蔑(さげす)んでいくか、どっちかの極端にブレちゃうんです。そして、極端にブレてどちらも不幸な人生になります。それで先程の詐欺するような人はまだ自意識が高くて頼もしいけれど、逆になっちゃって「僕はもう駄目な人間だ、何しても駄目なんだ。」と思い、そして駅の構内かなんかで浮浪者みたいに寝そべり始めます。時々いるでしょう。駅の構内なんかに。東京駅にもずい分いるけど、おもしろいのはインテリ乞食がいるんですよ。朝日新聞なんか読んじゃったりしています。なかには、どこで拾ってきたのか英字新聞なんか取ってきちゃって、英字新聞読みながら寝そべってる浮浪者なんかもいるんです。こんなインテリ乞食がいるんです。彼らはもともと能力はあるんです。能力はあるけれど、自分をどう見下げたのか、そういう生活に入っちゃって、こんな人がいるんです。そのように、極端に人間はブレていくんです。


7.中道を基準にして物事を考えることの大切さ


ですから、結局、人間が足ることを知るということを、私はこれから説明しようとしているけれど、何がいけないかと言うと、要するに、両極端にブレること。これが一番いけないんです。やはり、常に、人間というのは中道を基準にして物事を考えなきゃいけないんです。つまり、中道っていうのはどういうことかっていうと、自分の立場っていうのをやはり第三者の目でよく眺めて見るということなんです。確かに自分は優れたところがあるかもしれません。ただ、それが第三者の立場になってみたらどうでしょうか。確かにある人は頭がいいかもしれないけれど、その頭がいいということを充分に活かすだけの努力をしてるかどうか。あるいは、ある人は声がいいかもわかんない。歌を歌えばうまいかもわかんない。ただ、その歌を歌えばうまいということを、よりよい人間関係の中で自分を築いたかどうか。ただ自分はうまいんだとうぬぼれちゃって、そして周りの人々の協力を自我我欲のままに無駄にするようなことをしていないか。うまいんだから売れて当然だなんて思ってないか。周りの人々の善意を無視してるんじゃないか。そういうことを色々第三者の立場に立って考えていく必要があるんです。そうすると、みんな、思い当たる点が何かあるんです。

結局人間というのは、長所と欠点、長所と短所、こういうのが組み合わされてできているんです。どんな人でもそうです。高橋信次でも欠点があったぐらいだから、世の中の人間は欠点があるんですよ。このぐらい言っておいていいでしょう。そういうことなんです。それが大抵、その長所ばっかり見る人は短所を見ようとしない。また短所ばっかり見る人はもう長所まで目をつぶっちゃって、自分は駄目な人間だと思っちゃう。ですから、長所と短所をよく冷静な目で第三者の目で見ていく必要があるということなんです。

そうすると、これでまず考えてみると、先程の東大卒のエリート氏のことを考えてみると、大学時代に女の子にもてなかった。これは自分を客観的に見る目がないんです。女性というものが何を考えているか解っていない。女性は頭がいいっていうだけで来る人もいます。もちろん。こりゃもう頭のいい人だったら誰でもいいわって言う人もいます。大抵その女性もどこか欠けてるんです。まあそれは、顔が綺麗だったら中身がなかったり、頭の中が空っぽだったりして、とにかく女性だったら何でもいいっていうなら、そりゃ、そういう人もいるでしょう。ところが普通の女性なら男性が感じるように、相手のいろんな条件を総合して見ていくんです。だからもてない。けれど、それは自分が客観視できてないんです。そうするとそうなります。

或いは、会社に入ります。いろんなことで上司に叱られる。「僕は優秀な成績で卒業したのに、こんなこと言われるとは情けない。高卒位の女の子が、スイスイと二、三年位で仕事やってて、僕は全然わかんない。情けない。」と思うかもしれない。ところがこれも、客観的に自分を見ると問題があるんです。というのは、仕事というのは、大学、或いは高校で習う学問とは違うんです。仕事というのはそれでもってお金を貰うんだから、一定の代価を払って貰ってるんだから、当然お金を貰う仕事ですから、まあそんなにやって楽しい仕事じゃないんです。大抵の場合は、大抵苦痛を伴うんです。それと学問と違うところというのは、機械じゃないけど、何かの役割を自分が果たさなきやいけないという面があるんです。そういう意味で、まあ誰でもできるような事務作業っていうのが結構多いんです。これが分らないと、実際の社会の要請が、分らないと、正しく仕事をこなすということはできません。八正道の中で、正しい仕事っていうのを言ってますけれど、分るまでまあ三年、四年かかるんです。本当は、仕事の仕方、世の中の動き、会社の動き、こういうことが、分るまでに、まあ三年、四年かかるんです。どんな優秀な人でもかかるんです。それを一年目位で、例えば上司や先輩の批判をしたところで、自分が思いついたようにあれこれと言ったところで、実はそれは違っているんです。三年、四年して初めて知恵がついてくるんです。そういうものが正しい仕事であるということです。


8.自分を客観的に観れないところから不幸が生まれる


こういうふうに世の中の人達っていうのは、例えば今のエリート青年ですが、とらえてみても自分を客観的に観れない。先程の歌手を目指した方もそうですね。他にもそういう方は一杯いるんです。例をあげればいくらでもあります。

まあ枚挙にいとまがないっていう言葉になってしまうけれども、もっとあなたの身近にいるような人を例にあげてもいいんだけれどもそれは、止めておきましょう。そういうふうに結局のところ、何故不幸が出るかっていうと、自分を客観的な目で観れない、これが一つです。ですから客観的な目で見ることができない、そうすると、例えば先程のエリート青年を例にとると、不平不満ばっかり考えてるわけです。ところが逆に考えてごらんなさい。人の羨むような学校を出て、人が羨むような会社に就職できたと、それだけでも、例えば日本人の平均の人の目から見れば素晴らしいことなんです。一流会社に就職できない人だって一杯いるんです。大学にいきたくてもいけない人は一杯いるんです。いろんな人がいるんだから、必ずしも自分の置かれた環境、或いは、与えられた経験を当然だと思って、当然の上にプラス、アルファばかり求めちゃいけないんです。自分の置かれた環境というのも「何かやっばりありうべからざることだ」と思うべきです。これは「有難いことだ」と「滅多にないことだ、有難い」これが有難いの語源です。ありがとうというのは、有難い滅多にないことだということで感謝をするのが有難いってことです。

ですから世の中には、「自分は三流大学を出ました。だから世間に出てから全然駄目です。三流大学を出たから自分は一流会社にも入れませんでした。」と言って会社入ってからも、「全くもう一流大学出た人ばっかりが偉くなっちゃって、それで自分は全然駄目でした。」と思うこういう人もいますけど、とんでもないことです。そんなことはありません。大学に行かしてくれただけでも両親に感謝しなければなりません。それだけでも一般の会社に入れたんだから、大したことなんです。じゃあ何故、三流大学に行ったか。じゃあ、あなた、そんなに言うほど高校時代に勉強しましたかと、大抵しちゃあいないですよ。遊んでたんだから、遊んでてそう言い訳して自分は三流大学にたまたま入ったから偉くならなかったなんて言ってるんです。それで、そんなに血みどろになって勉強したかっていうとやっちゃあいないです。高校時代、あなた十六時間も十八時間も勉強したかと言うと言えないんです。絶対してないんだから。それで本来は自分は能力があったけれど、たまたまああいう入学試験に向かなかったからいい大学に入れなかったけれど、本来は優秀なんだと頭の中で思ってるんです。思ってるから、ただ学歴だけで自分が差別されてると、本当は能力があるんだと思ってるんです。しかし、その能力を世間の人はわかんないと、そういうふうに言ってんです。

ただし、私はそういう人にも言いたいのです。能力があってもそれを発揮しなきゃ、誰も認めてくれません。皆隠れたものがあります。それはあるんです。あなたが隠れた能力がありながら、それを発揮しなかったように他の人々にも隠れた能力があるけれど発揮してないんです。隠れた能力を発揮しなくても優秀な人はいるし、隠れた能力を発揮しても優秀でない人もいるし、色々なんです。だから優秀な人だって全部発揮したから優秀じゃないんです。まだまだ隠れた能力を一杯持ってるんです。だからそれは不公平な物の考え方だと言うんです。だから、他の人はたまたまうまくやったとか、たまたま力仕事で色々やったからいいんだろうなんて、そんなことないんです。皆さんが百%自分を発揮してる人なんていないんです。皆さん、隠れた才能を持ってるんです。他の人も同じくそういう同じような条件のもとに置かれてるんです。だから、自分だけが隠れたところの才能があると思ったら大間違いなんです。

世の中で、例えば一流企業に勤めてる人がいます。その人は会社の中でそこそこの出世してるかもしれません。ところがこの人は、どんな大きな才能持ってるか、分らないですよ。どんな美術的な才能を持ってるかわかんない。詩を書かしたらうまかったり、小説書かしたらうまかったり、あるいは絵を画かしたら天下一品かもわからない。けれどたまたま今、会社で事務仕事をしている。それでそこそこの評価されてる。そういうことかもしれない。それでその人に対して、三流大学へいった某氏は、「なんだあの野郎、別に才能もないのにたまたまいい学校出たために、俺より出世が早い。」なんて恨んでるんです。じゃあその人は学歴以外で、自分は何を持ってたのかというと、無趣味だったりします。こんなこと話して廻るだけが精一杯だったりして。ところが、その一流大学氏はポッと蓋(ふた)をあけてみると、いやあ音楽はよく知ってるわ美術は知ってるわ、文学は知ってるわ、何やらしたって本当は一流の内容持ってたりする。そういうことがあるわけです。そういうことを知りもしないで、例えば逆に学歴主義だということで、それだけで批判する人がいる。こういう人も自分を、分ってないんです。結局、人間っていうのは、そういう得手勝手な存在なんです。ですから、一番の迷いは客観的に観て、自分はどうかってことが、分ってないことです。


9.善意なる第三者の立場に立て


これからどうして脱していくか、脱出していくか、これを考えなければ本当に幸福にはなれません。では、そのことを考えてみたいと思います。どうやって第三者の立場に立って、自分の置かれた立場っていうのをよく理解するかってことです。大体自分に対して甘い人が多いんです。自分に対して甘いっていうのは、世の中のことを知りません。だから自分に対して甘くなるんです。それで結局自分に対して甘い人程、世間の目に、批判の目に自分をさらけ出したくないんです。そして自分は一人よがりになっているんです。

ですから、自分を、自分自身を観て、自分を客観視できないと思う人は、もっと世間を知ることです。見聞を広めることです。経験を広げることです。自分が能力あるなんて思ってる人は、一度外国でも行ってらっしゃい。そして世の中を、世界を見てきなさい。世界にどんな人達がいて、どういう仕事をして、どんな経験をして、どんな生活をしておられるか。一回見てきなさい。天狗になってるんじゃないかどうか。それで例えば自分が英語ができるなんて思っている人は、本場へ行ってごらんなさい。乞食でも英語を喋ってる。乞食の発音の方が自分よりうまい。こんなこと知って、なんだ英語できることで天狗になったけれど、俺の英語なんか全然通用しないなと分ります。分って帰ってくりゃいいんです。そして、いろんな経験を積むことによって人間は自分を客観的に観ることができるようになります。

それと、この客観視するためには、親離れすることです。両親の目ばっかりで自分を判断しないで、いろんな世間の目を知ることです。世間の厳しさ、辛さ、こういうことを知ること。それと友達です。友達が大事です。いろんな範囲の友達を作ることです。自分と似たような友達ばっかり作っていると、自分が観えません。

そういうことで、例えばあなた方、神理伝道だとか、霊魂がどうこうだと言ってるけれど、こういうことが分る人ばかりの中にいると当然のことだと思って、みんないいことだと思ってて、霊魂なんて言うと「ああ素晴しい。」なんて言ってる人がいるけれど、一般の人に言ったらとんでもないです。霊魂なんて言ったら人魂が飛んじゃって、火の玉がひゅーって飛んでって「ああ恐い」「高橋信次の霊言なんて、ああ恐い恐い、ゾクゾクするわ。」「夏に出なくてよかった」なんて言われます。こんな霊言集が夏に出たら、もうクーラーの売れゆきがサッパリで、売れなかったりするかもしれません。高橋信次の霊言読むと、もうゾクゾクしちゃってもう寒くて寒くて震えあがっちゃうから、クーラーも扇風機も売れなかったりするかもしれませんね。これが冬に出てよかった。なんて言われて、本屋じゃなくて電気屋から感謝されたりして。一般の人はそんなもんです。霊言なんて聞いただけでも、もう鳥肌がたってくるにそんなもんなんです。

ところが、こういう宗教の世界ぱっかりに自分が手を染め、足を染めてると、「まあ、素晴しいわ、霊言集。素晴しい霊言集だわ。高橋信次先生ったら、今一番偉いんじゃない。」なんて言ってるわけです。ところが、知らない人からみりゃ、「そんな人魂が出てきて喋るなんてとんでもない、恐い、よして下さい。」こう思っちゃうわけです。ですから類は友を呼ぶということで、まあ同質の人々の間で生きていくということも大事だけれども、それで価値基準というのが一通りに決まっちゃったらいけないということです。世の中の人々の一般的な物の考え方、これを充分理解した上で自分の立場というのを観なきゃいけないんです。こういうふうに九次元から霊魂が来て、手にマイクを握って喋るなんてことは、普通の人が考えりゃ信じられんことなんですよ、あなた。それが現に起きているということは、一つのまあ「あり得べからざること」三次元的な奇蹟なんです。これが起きてるんです。これを当然と思うだけの理解力があなたにあるから、これを聞けるんであって、普通あり得ないんです。だから、これも第三者の立場に立って客観的に観ないと、「すごいのよ。もう高橋信次先生が出てきて毎日喋ってくれるなんて、もう嬉しいわ。」なんて言ったら、背中がゾクゾクする人が一杯出てくるんです。

ですから、足ることを知るという話をしているんですが、結局足ることを知るためにはまず、善意なる第三者の立場で自分を見なきゃいけない。そして、世の中のこと、世間のことを知らなきゃいけない。そして、そういう人々を見て、広い目で自分自身を観ると、「何だ、俺は。優れた人間だと思ってたけどこの世界の人々から観ると、まだまだ未熟だな。まだまだ未熟者だな。」或いは、「自分は本当にくだらないと思ったけれど、何だ、俺の方がよっぽど立派じゃないか。」と。例えばアメリカヘ行きます。ニューョークヘ旅行しました。そうすると、自分っていうのは本当にできない、教養のない人間だと思って自信なかったけれど、ニューヨーク行ってみると、マンハッタンには黒人の浮浪者みたいなのが一杯いて、何だ、これが花のアメリカかと、花のニューヨークかと、黒人たちがゴロゴロしているじゃないかと、汚ないところまでまあトイレ入りゃもう汚ない。こんなのが大都市か、これで文明だなんて言ってるのか。よっぽど俺の方が文化人じゃないかと、こんなことを思って帰る人がいたりします。そういう人もいるでしょう。


10.自分を客観視できた時、本当の自分が見えてくる


いろんな方がいるでしょうけれど、世の中を知って、客観的に自分を観る、そうすると良く見え過ぎていた自分は、やっぱりそれ程でもないなと思われるし、悪く見過ぎていた自分も、いや、そんなに捨てたもんでもない、こんなことが分るんです。人間っていうのはそんな大きな差はないんですよ。ただ、長年の転生輪廻の過程でその輝きが違うだけなんです。ですから、高橋信次もそこらの乞食も全然変わりゃしないんです。魂の本質においては変わらない。ただ、長年の転生輪廻、或いは、神様が与えて下さった役割、そういうものの違いで、たまたま輝き方が違うだけなんです。光が多少違うだけで、本当は、よく磨けば皆ダイヤモンドなんです。

あなた方が気をつけなきゃいけないのは、世の中の人々はダイヤモンドみたいな人もいるけれど、黒ダイヤ、石炭みたいな人もいると、こう思っちゃいけない。本当は皆ダイヤモンドなんです。ですから、輝きは磨けば輝くんです。そういうふうに思ってあげなきやいけないんです。

つまり、「足ることを知る」という本質の中には、そういう平等観、人間は神の子として、皆磨けば光るダイヤモンドだという意識が必要です。ただ磨き方が違うために、自分が思ってるより光っていなかったり、光っていないと思いながら多少光っていたり、こういう色々な違いがあるんです。こういう認識も大事です。ですから、私は今まで足ることを知るということを中心に色々話をしてきましたけれど、結局、そういうふうな自分自身の自我我欲で自分自身を拡大し過ぎたり、縮小し過ぎたりするところに、人間の不幸があるんだということです。

ですから、多くの人に私は言いたいんです。自分の不平不満を言う前に、足らないことを言う前に、現在の自分の満たされている部分をよく考えてみなさい。飢え死にしそうでもないでしよう。世の中をみたら、そんなに悪い世の中でもないです。世の中悪い悪いと言う人がいるけれど、その悪い世の中で、みんな昼寝してたって大丈夫なんですから。窓開いていても強盗は滅多に入って来ないんですから。世の中はそんなに悪くないんです。八割はいいんです。ニ割ぐらいの問題があるだけなんです。だから、悪いところばかり見ないでいいところを見て、多少自分自身の立場をよく考えてみなさい。そして、いいですかあ、自分もそうまんざらでもないなと、或いは、今世に人生を与えられているってことも、そう悪いことじゃないなってことに気づいて欲しいと思うんです。