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目次















11.人間として生まれて来たことの幸せを悟りなさい


この世に生まれて来た、人間として生まれて来たっていうこと自体が、ひとつの大きな幸せなんです。これを忘れてるんです。あなた、色々の不平不満を言っている人がいたら、その人に言ってあげなさい。「じゃあ、あなたトカゲに生まれてきたらよかったですか。あなた、ヘビかなんか生まれてよかったですか。あなたはどうも執念深いみたいだけれど、ヘビに生まれてどうですかこの地べたをはっていたら幸せですか。どうですか。そんなことないでしょう。じゃ自分はこんな優秀な人間なのに給料が少ないのだの多いのだの言うけれど、じゃ猫に生まれたらどうですか。猫は給料貰いませんよ。猫がもらえるのはミルクか、魚の残りぐらいです。これの量が多いとか少ないとか猫は言ってますか。猫は与えられたものをただ食べてるだけです。」そういうことです。

犬だって一緒ですよ。犬が幸せ感じるのは一日一回、飼い主さんが散歩に連れてってくれるかどうか、今日は風邪をひいてるから散歩に連れてってくれないなんていうと、犬は不幸なんです。「辛いな。今日は散歩に行きたかったのに鎖につながれたままで、僕は辛いな。」って犬は思ってるんです。ところが飼い主さんの風邪が治って、一週間ぶりに鎖を解いて散歩に連れてってくれると、「ああ、嬉しい。やっぱり人生、人生じゃない、犬生かなんか知らないけど、犬の犬生も捨てたもんじゃない。こんな郊外まで散歩さしてくれて嬉しい。」彼らはこう思っているんです。じゃあ犬よりあなたいいんですか。どうでしょう。ヘピだって、そりゃあ子供を産めるんですよ。子供ぐらいヘビだって産むんだけど、結婚できないって言って悩んでる人一杯いるけれど、じゃあヘビに生まれて、男女のヘピがこう睦み合って、こうからみ合って、子供産む姿見てあなた、どっちがいいですか。やっぱり子供産めなくても、人間に生まれた方がよかったでしょう。

神様はいろんな生き物を創られたけれど、それは人間が、人間だけが生き物だったら、自分の置かれた立場が分らないから、様々な生き物を創られたんです。ですから、様々な生き物があるということは、人間として生まれたことがどれだけ幸せかということを悟りなさいという意味なんです。

じゃあ、あなた、植物に生まれたらどうですか。この室内にセソトポーリアの鉢があるけれども、セソトポーリアにあなたが花の精かなんかで生まれてですよ、一週間に一回水だけもらって、水やるの忘れられて枯れてきて、「枯れた葉はちぎって捨てればまたはえてくるから。」なんて言われて、あなた、これで幸せですか。こんな人生、人生っていうか、花生か知らないけれど、可哀相でしょう。動くこともできません。花から見れば、散歩できる犬は幸せですよ。犬は毎日散歩に連れてって欲しいかもしれないけれど、三日間散歩に連れてってくれなかったからって不幸だと言ってるかもしれないけれど、花から見りゃあ、足のある犬はいい。自分の思うとこへ、行けるんだから、その分私たち花の場合は鉢の中に植えられたらもうそれっきり、あとは水がくるかどうか、水をくれたら嬉しい。水があるかないかだけ、これで幸せなんですから、水があれば、一週間に一回、ちゃんと水くれたらそれで嬉しい。二週間に一回は辛いな。

犬だったら、犬の幸せは違います。水くれるだけじゃ犬は怒っちゃう。たまには、鳥の足も食べてみたいと思う。骨をガリガリ食べてみて、犬の幸せはもっと高度だんです。猫の幸せもあります。猫はコタツの中入れてくれると嬉しいとかいう幸せがあるんです。だから、人間の皆さん、どうか動物や植物のことも考えて下さい。この世に人間として生をうけることがどれだけ嬉しいことか。ですから、生まれること自体が一つの幸せなんです。これを幸せと認めて、その中の不足ばかりを嘆かないで、人間として転生輪廻の過程を与えられて、そして、今世において人間として生まれて魂修行ができるということが、どれほど楽しいことか、どれほど幸せなことか、これを考えて頂きたいんです。これが本当の意味での足ることを知るということなんです。

ですから、この感謝、人間として生まれたことへの感謝、これです。

今まで色々な例をあげてきましたが、その人々の中には、目が見えないとか、口がきけないとか、足が動かないとか、そういう人はなかったです。それで五体満足だったら人間として生まれて五体満足であるということがどれほど幸せか、どれだけの可能性を秘めているか、無限の可能性なのです。東京駅の下で浮浪者みたいになろうと思えばなることもできるし、新宿かどっか、歌舞校訂で呼び込みをやる人もあるし、或いは、高橋信次のように、お釈迦様みたいな、とは言えないけれど、まあ近かったんじゃないかと言われるような人生を生きてみるという人生もあるし。無限の可能性があるんです。


12.無限の可能性の中に足ることを知れ


どの可能性をとるかは自由です。そして、人間は人間として生まれた以上、可能性という点においてみんな平等なんです。私だって長野県の佐久、ずい分貧農の生まれです。子沢山で、貧乏人の子沢山で生まれました。で、そういうところに生まれて、農家に生まれりゃあ、あなた、農業を嗣ぐのが普通ですよ。ある人は農業を嗣ぐ、ある人は工場を造ったり、ある人は会社勤めしたりする。いろんなことをする。たまたま、同じような環境に生まれても、私は天命もあったけど宗教家になりました。

こういうふうに、人間というのは生まれや門地じゃないんです。自分自身で可能性を開いていけるんです。ですから、人間として生まれたことの幸せ、五体満足であることの幸せ、こういうことを知った上で、いいですか自分は可能性が開けてるんだと、現時点で不足はあっても、自分には無限の可能性があるんだ、こういうことを知って欲しいんです。ですから、無限の可能性があるからこそ自分は幸せなんだと思うということ。これが足ることを知るという意味です。