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目次













1.他力信仰の問題は御利益信仰にある


それでは、私の講演も今日で第七回目。本日の演題は、自力と他力ということです。これは、私もかねがね自力と他力の問題、随分言ってきました。そして、人間は他力では救われません。やっぱり、自力です。自力じゃなきやいけないということを、私は、生前ということになるんでしょうか、生前、随分強調致しました。というのは、現在、末法の世の中になって、日本の、或いは、世界の宗教を見渡してみると、どうも御利益ばっかりを求める宗教になっている。他力、他力という言葉自体で批判するというのも問題ありますけれども、他力批判と言いますのも、御利益信仰について、私は言っているんです。もちろん、私たちもあの世の世界の人間ですから、宗教というのは、あの世の世界との関わりを無(なし)にして、抜きにしてやれるわけじゃありませんから、そういう意味で、他力なしということはあり得ません。ただ、私が批判する他力信仰と言いますのは、他力依存は何かと言うと、要するに、御利益信仰のことですね。

今、例えば、お寺を見てみなさい。日本のお寺、あっちもこっちもお札を売ったり、交通安全のお守りとか、それから、お札、おみくじ、そういった類ばっかり、或いは、観光、全くの観光仏教になっちゃって、片や葬式仏教、片や観光仏教、こういうことでやっていることは何かと言うと、何か御利益があると、要するに、この神社にお参りしたら、御利益があります。或いは、この仏閣、お寺にお参りしたら御利益があるこういうことばっかりしているわけですね。そういうことで、じゃ、実際の神主さん、それからお坊さんが、そういう御利益というのを本当に信じているんですか、信じてるかって言われると、急に不安になるんですね。昔から。「ここのお寺は、昔から何とかに効くと言われています。」とか、或いは、「このお線香の煙がね、前厄(まえやく)、後厄(あとやく)、本厄(ほんやく)に、それぞれ効くんです。」とこういうことを言ってるんです。で実際に、それ本当に効くのかと、徹底的に追究したことあるんですかと聞いてみると、「いや、それはどうか分りません。」それじゃ、神主さん、或いは、お坊さんでもいい、住職さんでもいいけど、「神主さん、あなた本当に神様を信じてますか。」と。「いや、神様というのはあると教わっています。」と。或いは、住職さんに聞きますと、「いや、仏さんというのはあると聞いてます。」と。「じゃ、仏さんというのは何ですか。」とこう聞くと、「いやあれですよ。あれ見て下さい。」と御本尊を指しちゃって、「あれが仏さんですよ。」と「ああ、仏さんというのは、金ピカの金箔を張ったあれが仏さんですか。」「そうです。あれが御本尊なんです。」「ああ、そうですか。あの御本尊さんが、人間に御利益下さるんですか。」「ええ、そうなんですよ。あれは、本当に立派な方が、昔造りましてねえ、今から何百年前に。そして、今国宝なんです。それが御本尊ですから、これは御利益あります。」こういうわけですね。「じゃ、住職さん、まあ、国宝かなんか知らないですけど、じゃ、その国宝は何で人間を守ってくれるんですか。人間の病気を何で治してくれるんですか。何で交通安全の祈願が通るんですか。」「いやそれがまた、そういう尊い仏様ですから、それを拝むだけでも御利益があるんです。まあ、なにせ、偉いんです。」だんだん、そういう唯物的になって、要するに、そういう仏像というものがあるからこれに何か超能力じゃないけれども、特殊な能力というものがあって、この仏像を拝んでりゃ、何か御利益がある、何だか分んないんですね。その因果関係が全然分ってない。とにかく、国宝だか何だか知らないけど、御本尊様ってのを拝めぱ、願いごとが叶うとこう考えているわけなんです。

またある神社でも、神社には御神体というのがあるんです。御神体を祭っています。御神体って何かと言うとね、ふた開けて見たら、ただの石ころが入ってるわけなんですね。「石ころじゃないか」と「こんな石ころに、何の御利益があるんですか。」と聞くと、「いやあこれに、この御神体に御魂(みたま)を入れてあります。御魂を鎮めてありますから。これが効くんです。」とこうおっしゃるわけなんですね。石ころなんかに、あなた、神様が入るわけがないんです。石ころなんかに宿るようなものは、もう本当に低級霊です。低級霊はありますよ。物に執われた霊ですね。これは、古い建造物、古い仏壇、墓石なんか、こんなものは一杯霊がかかってますよ。物にかかる霊、こんなのは、地上に執着のある霊たちです。殆どそうです。執着のある霊たち、石ころなんかにあなた、河原なんかで拾ってきた石ころなんかに、何で神様が宿るんですか。この辺が間違っているんですね、ものの考え方が。


2.対象がないと祈れない人間の弱さ


別に私は神社が悪いとは言ってませんよ。まあ、人間、何か対象がないと祈れない、これが人間の弱さなんです。本来、そういうもんじゃない。神様っていうのは、他次元世界にあって、心と心で同通するもんなんだけれど、それが技術的にできないもんだから、「何でもいいから」と日蓮宗で言えば曼陀羅、曼陀羅をぶら下げて日蓮が生まれてきたわけじゃないんだけど、曼陀羅はとにかく尊いんだっちゅうわけで、曼陀羅に向ってお題目を上げたり、まあ、他にも色々ありますわね。中には日蓮宗系のある人は、生きてる会長さんの写真を飾って、線香立て、蝋燭立て、会長さんを拝んでいる。あの世じゃなくて、この世の人の写真を飾ってね、拝んだりしている。まあ、こんなことやっているわけですよ。要するに、人間というのは、どうしてもそういうふうに、何か拝む対象が、欲しい。

まだ、これは決して現代人だけを批判できるわけじゃないんですよ。モーゼの十戒と言って、有名なんですけれども、ああいう十戒を神から頂いて、それは本当は人間の生きていく心の指針なんですけれど、それだけでなくて、モーゼは、小羊を屠るっていいますかね、殺して血を流してヤーヴェの神に捧げる、こういうことをやっています。これは、小羊を裂くっていうのは昔のそのユダヤの伝承的な、伝承的っていうか、土俗の信仰のやり方でもあったわけですけれどもこういうことを、真の神が要求するわけがないんです。そうでしょう。「いやあ、羊よりは人間がいい。」なんて言って人身御供ですよ。人身御供を要求するのは、これは、あなた、神様の仕業じゃないですよ。どこかの鬼ですよ。何とか山の鬼ですよ。私が鬼だったら、これは、あんた羊なんか嫌いですよ。私は羊よりは、あなた、ピチピチした女の子の方がいいですよ。これ食べたいですね。まあ、そんなことは冗談ですけれども。

実際そうですよ。それは、何かおかしな信仰が入っているわけです。こういうふうに、神様、仏様が供物を欲しがるとか、生贄(いけにえ)を欲しがるとかそういうことをすれば、今度は御利益があるとか、こういう物の考え方、これは日本だけじゃなくて、世界中に残っている考え方です。しかし、これを徹底的に疑問を追究しなくちゃいけないんです。じゃあ、何故、神様はお札買った人は守ってくれるんですか。神社でね、千円のお札、或いは、五百円のお守り、お金を出してぶら下げていたら、何でその人を守ってくれるんですか。買わなかった人は守らないんですか。お札買わなかった人は、善良に生きていても事故にあって、交通安全のお札ぶら下げときゃ、何やったって守ってくれるんですか。神様って、そんなお金で、物事を判断するんですか。お金で支配される人ですか。そんなことないでしょう。あなたが神様だったらどうですか。あなたのお名前書いたお札(ふだ)、五百円のお札を買ってる人は、ずっと守ってあげて、あなたのお札を買わなかった人、貧しくて五百円も出せないような善良な心をした人、こういう人を交通事故に遭(あ)わせて、「なんで、私のお札を買わんのだ。」こういうことを言いますでしょうか。言わないでしょうね。神様は、銭、金じゃありません。また、神様っていう人は、拝まれて、それで御利益を与えるような人でもないんです。


3.本当の御利益の意味


本当の御利益っていうのは、自分自身の心を創って、自分自身の心を神の心と同通させてはじめて、神としての力、本来なる神の力、神聖なる力というのが働いてくるんです。これ以外にないんです。本当に。何の修行もしないで、何の心構えもなく、ただ、お金払ってお賽銭(さいせん)を投げたり、或いは、お守りを買ったり、お札を買ったりして、これで救われるんじゃないんです。もちろん、例外はあります。私は公平な立場から例外の話をしております。もちろん、低級な霊たち、動物霊は、何とか神社のお札とかね、こういうもので感応することがあるんです。それは原則、ありますから、私は言っておきます。そういう動物霊たちは、たわいもない霊たちは、お札見せられたら、「こういうものには、力があるもんだ。」と思って、自己催眠を掛けちゃって、ここの家には何かお札が張ってあるから、ここはあまり行けないとか、霊たちが自己催眠掛けちゃって行けないことがあるんですよ。こういうこと、ないとは言いません。何とかのお寺が守っているから駄目だとか、そういうことがないとは言いません。

それともう一つ、神社仏閣の中でも、そこを経営というか、管理している人たち、お坊さんが、本当の高徳の人、徳の高いお坊さん、或いは、徳の高い神主さんでね、その神社や仏閣が、本当に一つの聖域になっている場合、心と行いが調和されて非常に素晴しい聖域になっている場合があります。そういうとこも、ないとは言えません。世の中には、そういうとこもあります。その住職なり、神主さんが、非常に心が調和されて、お弟子さんたちも、神の心にかなった生活をしている。そうすれば、その信徒たち或いは、檀家の人たち、こういう人たちだって何らかの力を受けるのは当然です。そういう意味で、高い神域にある、神社仏閣、こういう所で力が無いとは言いません。こういう人たちのやっていることであれば、もちろん、地獄霊たちを撥(はね)つけるような、そういう力がないとは言いません。けれど、こういうのは例外です。末法の世の中には、お寺や神主さんで、お寺や神社で、生きている人間を、悪霊から守れる力を持っている、それは殆どありません。原則として、ないと思って結構です。

ですからいいですか。私が言いたいのは、神社回りをしたり、或いは、仏閣回りをしたことによって、人間は救われるわけじゃないということです。まあ、奈良かどっか、知らないけれども、三重県だか、奈良か知らないけれども、ポックリ寺とかいうのかあって、六十歳過ぎたら、そこへ行って、ポックリ寺へ毎年行って、よく願いを込めれば、ポックリとあの世へ引っぱっていってくれると、そればっかりがもう人生の生甲斐になって、ポックリ死にたいとそればっかりを願って行ってる人もいます。ポックリ死ぬぐらい簡単なもんです。一億円ぐらい保険金かけといて、どっかへ飛び込みやぁポックリいきます。そうでなくて、「いや、そんな血腥(ちなまぐさ)いこと、私は嫌です。綺麗に死にたいんです。」と言って、死に方の欲が色々でるわけです。私は死に方が良くなかったけれどまあ、死に方は色々ですけれど、死んでから後が問題であって、死に様がどうってことないんです。畳の上で死ねないかどうかっていうのはありますけれど。それだけじゃありません。まあ、死んでから後のことです。


4.本当の意味での他力とは何か


そういうふうに、自分以外の力っていうのを誰でももちろん頼ってしまいます。親鸞の思想なんていうのもありましたが、あれは、本当の他力ですね。他力信仰、他力本願。今は他力信仰とか、他力本願というと、本当に悪いことのような価値判断があって、自力がいいような、日本語としてそういうニュアンスがあるから、まあ、親鸞さん、気の毒ですけれど、他力本願という考えがあります。

私はこの考えも、一応検討しなきゃと思っています。本当の意味での他力って何かっていうと、それは、本当の神っていうのを信じる、本当に信じきった時、人間は十倍百倍の力が湧いてきます。ここのところを間違えたらいけないんです。いいですか、他力信仰、他力本願といっても、単に財布の紐を緩めてお札を買ったり、お賽銭(さいせん)投げたりして救われると思う他力信仰と、いいですか、本当に、赤子が母親の乳を求めるように、お乳が欲しくてお母さんの膝に駆け上がって、そして、乳を貪って吸うように、そういうように神を求めに求めた他力の信仰とがあります。これは、単なる御利益信仰と違うんです。ですから、私は他力が駄目だからといって、親鸞さんの教えが駄目だとは言っていません。或いは、そういう意味での他力批判であれば、クリスチャンたちもほとんど引っ掛かっちゃうでしょう。「イエス様、イエス様」って祈ってます。決して悪いとは言いません。私は、それは悪いとは言いません。ただ、イエス様に自分の心が通じるためには、自分の心を創っていかなければいけないんです。自分の心を創らずして、ただ「イエス様」と名前を呼びゃあ、救ってくれる、そういう考えは甘いです。ただ、本当に、真剣に、あなた方が道を求めるようなつもりで、本当に、真剣に神を求めるような人であるならばいいですが、もう、その大いなる神の慈悲、大いなる神の愛、大いなる神の叡智、こうしたものを感じる場合があります。宗教家の中で。そういう時に、神の前に本当に小さくなった自分というものを感じる時があるんです。

まあ、奈良の大仏さんであります。私は、正確なあの大きさというのも忘れましたけど、まあ、十六メートルかなんかあるんでしょ、大きさが。その大仏様、十六メートルの大仏様の前に立ってみると、人間というのは、いかにも小さいですね。神様と相撲、まあ、仏様ですか、仏様と相撲するにしても、向うは十六メートルあります。立ち上がったら三十メートルもあります。そういう人と、一メートル何十センチの人間とが互角に闘えるわけがありません。それ程、神様、仏様っていうのは大きいものです。あれは、そういうイメージを抱かすために、ああいう大仏っていうのを造っているんですけど、ああいう偉大な仏様の前に立ってみると、人間っていうのは、どれ程自分が小さいか、ということを感じるんです。そして、神仏の前に、自分がいかに小さいかということを感じる時にはじめて、人間は、謙虚さっていうものが出てくるんです。

ですから、本当の意味での、真実の意味での、他力論者っていうのは、決して御利益信仰ではないんです。神の前に、神仏の前に、その小さな自分というものを投げ出して、赤裸に投げ出して、「神よ、こういう私ですけど、どうか、あなたの御胸に抱いて下さい。神よこんな小さな私ですが、この小さな私ですがあなたのために投げ出しますから、どうか、あなたの御自由にして下さい。」こういう純粋な思いで自分を投げ出すのが、本当の意味での他力です。私は、これは否定は致しません。こういうことは、あり得るでしょう。ただ、これは、真実、自分の小ささ、神の大きさを感じとったような聖者にしてはじめて可能な他力信仰であって、通常の人はそうはいきません。鰯の頭も信心からというような、普通のおばさんたち、漁村や農村のおばさんたちね、鰯の頭、信心したら御利益あるなんて言ってポクポク何か叩いちゃってね、鰯の頭、信心してるような人たちには通じないんです。こういう言葉は、こういう考え方は通じないんです。そういう大いなる神との相対的対坐という言葉は、とても通じないんです。ですから、親鸞のような、パウロのような、偉大な人であってはじめて通じるんであって、一般の人はなかなか無理です。或いは、修道院で修行したり、或いは、僧院で修行したり、本当の他力の偉大さを知った人は、それは他力信仰で結構です。


5.自力の落し穴


小さな自分というものを、自分の計らい心「自分で努力すりゃ救われる。」とかね、「あいつより俺の方の修行が勝っているから、神様、俺の方をひいき目に見てくれるだろう。」と、こういうことを批判しているのが、親鸞たちなんです。いいですか、これは正しいんですよ。

あなたは、あなたの同僚の坊さんとあなたを比べてみりゃ、「私の方が反省を余計にやっているから、私は反省三年やりました。あの人は反省一年半しかしていない。だから私の方が上なんだ。だから、神様は私の方にいい点つけてくれるに違いない。」こういうふうに考えるんです。バカな人間になってくると。あなたは、バカじゃないよ。あなたはバカじゃないけど、バカな人間になるとね、「私は三年反省した。あの人は一年半しか反省してない。私の境地まで達するのは、あと一年半かかるのよ。」そんなんじゃ、ありません。人間の道を求める心っていうのは量じゃないんです。質なんです。イエス様も言っています。「先のものが後になり、後のものが先になる。」これは、長く修行をしたからと言って悟れるわけじゃないっていうことです。それぞれに永遠の転生輪廻を重ねてきた人たちですから、ある機会に接すればね、突然悟る人もいるんです。突然に御仏(みほとけ)の弟子になる人もいるんです。だから、そうじゃないんです。それを、いいですか、自力論者の愚かな自力論者たちは、要するに、「自分はこれだけ修行をやったから、神仏のお誉めが愛(め)でたいんです。」ね、或いは、「比叡山で二十年龍(こも)ったから、自分はもうすぐ神様の近くへ行けるんだ。」こう思ってしまうんです。親鸞なんかは、徹底的にそういう偽善というのを憎んだ人ですから、親鸞というのは、そういう偽善、「自分は、何万巻お経を読んだから人より優れているから、神仏に救われる。」とか、「人より朝早く起きて、雑巾掛けしているから、神様の点救が高い。」とか、こんなことを思う人を徹底的に嫌ったわけですね。そういう人間心で悟れるわけじゃない。そんな人間心で救われるわけじゃない。御仏(みほとけ)の、阿弥陀仏(あみだぶつ)の心というのはもっと広いものだ。もっと大いなる、無限大です。神対人間というのは、無限大対一ぐらいの開きがあるんです。そんな大きな阿弥陀の心で比べて、人間は何故、そんな計らい心で救われる必要がありますか。そういう計らい心を捨てて帰依しましょう。本当に阿弥陀様を信仰しましょう。これが、親鸞の気持ちです。

ですから、こういう他力は、また違います。また、自力の悪いところをハッキリと突いています。あなた方、ともすればね、「自力、自力、自力ですよ。」と言えば、反省を三年やったから、五年やったら、十年やったから、或いは、内観を朝から晩までやったから、十五時間やりました、八時間やりました。私は一週間やりました。二週間やりました。こんなふうなことで競うようになるんです。或いは、霊視が効くようになるために、一日中寝そべって、布団の上に寝て、「何か見えるように、何か見えるように。」そして一日中お題目唱えて目をつぶって、眉間を睨んで、「何か見えてきませんか。」とか、こんなバカなこと、言う人がだんだんに出てくるんです。何も悟っていません。こんな自力論者、決して悟っていません。

こういうふうに、要するに、形に執われているんです。自力も形に執われ、その量に執われ、或いは、他人との比較に執われた時、大変な落し穴に入ってしまいます。ですから、他力も自力も、どちらも落し穴があるし、どちらも真実を突いているところがあります。


6.複雑に悩む現代人の悩みの解決法


ですから、私はこれから一番間違いの少ない、少なくともハ割の人に通用するような考え方というのをご披露したいと思うんです。やはり、さっきの鰯の頭も信心からじゃありませんけれども、単に、要するに、何とか様の名前を唱えたら救われる、或いは、イエス様の名前、唱えたら救われる、こういう考えでは人間は救われません。原始時代ならいいですよ。原始時代で、何にも知らないで、石斧でトナカイの頭でも叩(たた)いて、それを料理して食べてる時代は、何も知識もないから、誰か偉い人がいて、「イエス様」って言えば救われる。それでいいんです。現代みたいな、あなた、こんな複雑な世界で、「イエス様」って言っただけでね、救われるって、そんな単純じゃありませんよ、あなた。人間の心も複雑ですから、複雑に人間も迷っているんです。単純に迷ってないんです。昔なら、雨が続いて、獲物がとれないからとか、そんな悩みがあったわけです。獲物がとれないとか、雨が降らないために、作物が実らないとか、こういうことが、叶わなくて神仏に祈ったりするようなことがありました。

こういう悩みがありました。ところが、現代人は複雑に悩むんです。ある時は、コンピューターが入って、「私はコンピューター、習ってないから。」テクノ・ストレスと言って機械についてのアレルギーで悩んじゃったりして、こういう悩みもあるんです。その時、「ああ、イエス様、私のテクノ・ストレスを救って下さい。」「私のコンピューター嫌いを治して下さい。」と言ったって、治りゃしないです。イエス様に祈ったって治らないです。イエス様、コンピューター、知らないです。分らないです。全然分らないです。イエス様、コンピューター、嫌いです。祈ったって無理です。そんなもんじゃないんです。この悩みを解決するのは単純です。自分でコンピューターの勉強すればいいんです。コンピューター学校に行って勉強するか、或いは、コンピューターの要らない仕事に入るか、どっちかなんです。そしたら悩みはなくなるんです。こんなもんです。

だから、他力っていうのも単純な世界では通じるけれども、現代ではなかなか通じません。そういうふうに人間というのは、まず、自分自身でその悩みの元凶を調べて、徹底的にそれを追究していくんですね。まず、悩みの原因そして、その結果、これを徹底的に追究していくことであります。

あなたの悩み、例えばですよ、あなたがある若い美しい女性だとする、何かをあなたが悩んでいるとする、大体何を悩むか、もう大体解ります。普通の人なら大体分るわけですよ。普通の人は、あのう、若い美しい女性だという前提ですよ、とすると、例えば、「私はいい人を見つけて嫁に行くべきか、嫁に行かないとするならば、一生の職業をもつかもたないか、そういう職業でうまくいくか、いかないか。」とか、或いは、「親がどうこう言う。」とかね、「妹に先を越される。」とか、大体こんなもんですよ。人間の悩みなんて決まってるんですよ。それで、そういう悩みをどうしたらいいかと、あれこれと考えるわけです。

そうすると、まあ、自分で考えるというのも一つだし、自分の頼りになる人、友達、先輩、或いは、親戚、或いは、恩師、こういう人に相談するのも一つです。こういう人で頼りになる人が多い人は本当に救われます。けれども、普通の人間は、そう頼りになる人はいないわけです。そういう意味において、そういう理想的な相談相手がいない場合に、自分自身で考えなきゃいけない。そして、何故、それが悩みなのかを考えてみる。例えば、自分はどうしても結婚したいと思う。結婚したいけれども相子がいない、これで悩む。ところが、結婚の相手がいても悩んでいる人がいるわけです。相手がいても、「この人と結婚して本当に幸せになれるかどうか。」まだ結婚してもいないのに悩んでるわけです。結婚したらしたで、「この人と一生、一緒にやっていけるだろうか。」悩んでるわけですね。で、子供ができたら、「子供が本当に大学入れるまで、この人勤めてくれるのだろうか。」或いは子供が一人できたら、「もしかして、子供が三人ぐらいできて、この人の給料じゃ、三人も大学出せないんじゃないだろうか、その上、私は頭が悪いから、この子は国立に行けないかもしれない。」もう生まれた時に、二十年後の心配をしている。いくらでも悩みはあるんです。だから今のあなたの悩みを考えてもその悩みがなくなったとしても、また別の悩みが出てくる。ですから、人生はある意味において悩みの連続であります。この悩みを「イエス様」と言って救われるか、阿弥陀様と言って救われるか、救われないです。人間というのは、何十年という人生を生きていく過程において、必ず、いろんな疑問、悩みに突き当たるようにできているんです。これがなければ、人間は進歩というのがないんです。悩みと対決して進歩していく、そういうふうにできているんです。人生っていうのは、疑問の追究、そして、悩みの解決、こういうことになっているんです。この悩みが幾つも出てくるんです。何十も何百も、人生っていうのは出てくる…。これを自分でね、四つ相撲ですよ。がっぷり四つに組んで解決していく。こういうことを神様から教えられているんです。


7.原則として人生は自力で問題を解決してゆきなさい


日蓮聖人の霊言集がありまして、あの中でいいことを言ってますよ、日蓮さん。「人生は一冊の問題集である。」いいこと言ってますね。私よりはいいこと知ってますよ。一冊の問題集なんだそうです。だから、いいですか、「アーメン」なんて言って、答えを求めてはいけないんです。自分で解きなさいということなんです。還ってきたら、点数が分るから、あってるかどうか、一冊の問題集です。だから、それが悩みだということですね。

ですから、問題集を与えられているんですから、皆さん、これを解いていかなきゃいけないんです。自分で解くんですよ。答えを見せられてあなた、こうだっていうのは、これは横着ですよ。自分で解いていく、そういう意味で自力です。人生っていうのは、一冊の問題集ですから、自分で解くんですよ。だから、あなた他力ってあり得ないじゃないですか。自力ですよ。問題集で勉強するんですよ。自分で答え書かなければ、誰が書くんですか。家庭教師が居て、「先生、第一問目が分りません。」「これは答えはAですよ。」「先生、何も意味が分りません。」「答えはBですよ。」あなた、これで勉強になりますか。ならないでしょう。だから、それは、人生に対する取り組み方ですね。人生を何と考えるかです。人生を一冊の問題集、神から与えられた問題集と考えるならば、答えを解くのは、問題を解くのは、自分自身です。これは、自力以外あり得ないんです。

「ね、イエス様、どうか、この答えを教えて下さい。」エンピツ転がすことがあります。エンピツを転がして、エンピツがここで止まったから、ああ、答はこれ二番だ、なんて、こういうこともありますよ。マーク・シート方式で受験勉強には、これだってあることはあるのだから、本人の信仰が深ければ、まぐれでよく当るかもわからない。しかし、それは、あくまでも邪道であって、問題解けないで何も書かないよりは一つぐらい埋めとけと、受験のテクニックです。一つぐらい埋めとくと、埋める時にどうしたらいいかわかんないから、エンピツ転がして、それで丸つけるでしょう。これもいいですよ。ただ、これに走っちゃいかんということです。自力と他力という関係はこうなんですよ。

だから試験問題解いていてね、あの記述式はわかんなければ書けないけれど、記号式もあるわけですよ、人生の中には。記号式の開題も、そういう時には自分で考えて答えが出る場合と、いくら考えてもわかんない場合がある。いくら考えても分らん場合は、エンピツを転がして丸をつける、こういうこともあります。こういうことは、他力的瞬間でしょう、人生におけるこういうこともあります。そして、たまたま、それが合って合格できる場合もあるし、それがはずれて不合格になることもあります。そういうこともありますよ。入学試験なんか現に、その、まぐれスレスレで合格する人なんか皆、そうですよ。合否スレスレの人は、たまたま合ったのと、たまたまハズレたのがあって、落ちたり受かったりしてるんです。

ただね、それはボーダーライン、スレスレの実力を持っている人のことであって、本来は、そういうまぐれが当らなくても、いいですか、自分の頭で考えて解いて、合格できるようにならなきゃいかんのです。スレスレ合格狙っているからそうなるんです。どんな試験受けたって、受かるぐらいの実力をつけなさいと。まず、これが先決なんです。それを「いやあ、スレスレでも受かりゃいい。」とエンピツ転がして、それをどう当てるか、コックリさんで当てるか、イエス様で当てるかなんてやってるわけなんです。そんなんじゃ駄目だっていうことです。だから、テクニックとしての他力もあるけれども、原則は、問題は自分で解きなさい。こういうことです。これは、自力の意味です。それで、その時に、いいですか、正しい心構えで生きて、常々、神仏を思っていると、何故か正しい答えが浮かぶ場合もありますよ。そういう意味での他力的思考も考えてみなさいと、こういうことです。だから、私が自力と他力と言っているのは、原則として、人生は自力で問題を解決していきなさいということです。


8.自力あってこその他力である


ただ、その中で、行き詰まることもあります。そういう時に、偉大な他力の光明が人々を救ってくれることがあります。それが何かっていうと、心の窓を開いた時です。

あなた方、反省というもの、反省瞑想というのを続けていきますと、次第に、心の曇りが晴れてきます。そして、神の偉大な光が心に射してきます。こういう時に、いろんな啓示というのが与えられます。これは、自分から求めて与えられるもんじゃありません。まず、自分の心の曇りを晴らして、スモッグを取り除いてはじめて神の光が入ってきます。そうすると、そういうふうに心が澄んできた人は、あの世からのインスピレーションというのを受け易くなるんです。これは他力です。インスピレーションは、自力じゃありません。

ですから、不思議なことに、他力を求めた人には他力は与えられず、自力を一生懸命磨いた人に他力が与えられるんです。皮肉ながらそうなんです。だから、自力によって生きた人が、インスピレーションによって、本当に自分がとるべき道というものを与えられていきます。あなたにおいてもそうです。私は反省の話であなたを皮肉っているけれども、あなたは三年間反省しました。反省によって、自分の心の曇りをとって、真実の自分の生き方っていうのを考えました。そして、それから後がなくて、それから後、どうしていいか分らなかった。そういう自分に突き当ってると、こういう高橋信次が出てきて、あなたと話をするようになりました。そして、あなたに正しい方向を与えました。インドに行ったって、あなたは悟れません。フィリピンでも救われません。あなたの使命は他のところにあります。私が出てきて言っています。これを私が言わなきや、あなたは分らなかった。あなたの自力だけでは駄目でした。そうでしょう。

結局そういうことで、本当に人間は、道を求めた時に、初めて他力の光明がその人を救ってくれるんです。何でもそうなんです。それをあなた、最初から、いいですか、何も修行もしないでね、「高橋先生、御願いします。私はどうしたらいいんでしょうか。」「あ、先生は口がないんですか。じゃ、私が消しゴムを六角に切ってね、サイコロに切って目をつけます。一から六番まで目をつけますから、これで出た数字で、これで占いますから、先生、頼みますよ。」「ナム、高橋先生、できたらこの番号で教えて下さい。」で、あなた、選択枝六つ位書いといて、その番号出たらそれにするなんてやって、こんなんで絶対救われるわけないんです。結局、そうなんですよ。

だから皮肉だけど、神の真理っていうのは一緒で、本当に一生懸命自力でやっていると、他力が助けてくれる。他力だけを求めても、他力は助けてくれない。これは、先程の問題集に返ると、まあ、受験ということで、皆さん、問題集解かれるでしょう。そして、幾つかの問題集解かれて、正解と自分の解答合わせて、そして、間違ってたり、合ってたりする。ところが、問題集で解いているのと同じ問題は、入試問題に普通は出ません。けれども、問題集、しっかり解いている人は、違う問題であっても、何故か、いいですか、できるんです。できるようになってくるんです。一生懸命問題やってると、違う問題でもできるようになってくる。そうすれば、違う問題でも解いていると、だんだん、推理力が働いて、その答えが浮かんでくるようになる。自力と他力はこんなもんなんです。問題集を数多く解いてると、だんだんに、他の問題でも類推が効いてくる。そして、分ってくるようになる。これが、類推が効くってことが、いわゆる他力なんです。インスピレーションの部分なんです。

こういうふうに、あなた方の人生っていうのも、基本的組み立ては、やはり、ハ割自力、二割他力、このつもりで行って下さい。これが一番間違いのない方向だと、私は思います。以上で、自力と他力ということを話しました。

9.偉大なる他力を知った時、謙虚さが生まれる


それと、まあ、もう一つ話しておくと、まず、それで、自力で壁を突き破った人は、まだ自力に執われているところがあるんです。本当言うと、自分が反省して、そういうふうな道を得られたら、また、他の人にも反省、反省ということを言いますけれども、それだけじゃないんです。自力に執われているものは、自力天狗になってしまいます。自力だけではできないんです。本当は、自力反省だけでは悟れないんです。本当は。そして、あなたが、今度は、高級霊たちと話しはじめて、自分の小ささっていうのをだんだん悟ってきます。そして、謙虚になってきます。謙虚になってくると、他の人にあまり偉そうに言えなくなってきます。

これが、自力から他力への移行の部分なんです。皆、これを通るんです。これを通らないで、本当の信仰ってあり得ないんです。まず、自力で優れた人間となっていく。優れた人間になったと思うと、もっと優れた人が出てきて、「おまえなんか、全然駄目だ。」とペシャンコにされてしまう。こうして初めて、謙虚になってきます。そうすると、回りの人に対して慈悲深く、優しく、なってくるんです。偉大なる者の前で、自分の小ささというのを感じると、慈悲深くなってくるのです。相談に来た人に、「あなただって、悩むの当然ね。」と、そしたら、回りの人は、「あら、ま、あれ程、自力天狗の先生が急に優しくなってきた、やっぱり、先生悟られたに違いないわね。」こうなってくるんです。これが "実る程頭(こうべ)を垂れる稲穂かな″っていうのは、このことを言うんです。分りますか。まず、実り、要するに、稲の穂としては、しっかり実をつける必要があります。これは、自力です。それで、自力でいっぱい実ってくると、頭がだんだん垂れてくるんです。謙虚になってくるんです。その謙虚になった姿っていうのが、偉大なる他力を知った時です。これからのあなた方も、 "実る程頭を垂れる稲穂かな″これでいきなさい。実りをつけるのは自力です。そして、自力で実りがついてくると、だんだん自らを低くしていきます。謙虚になっていきます。この時に始めて、大いなる太陽の恵みに対して、感謝してる稲穂としての、あなた方の姿があるはずです。