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目次


 2.光の本質

 3.積極性

 4.創造性

 5.本来の人間

 6.神の本質



6.神の本質


さて、以上の話をもとにして、神の本質というものを考えてみたいと思います。神の本質というのはいったいでは何だろうか。人間がさまざまな肉体を持って修行してきたという話をしたし、今後もその肉体舟は変わってゆく可能性があるという話もしました。そうすると、神がなぜそういうことをやっておられるのかということであります。このへんについて、もう一度考えてみなければいけないと思います。

結局、こういうことなのです。神というものは、神の存在というものは、できるだけ多様な可能性のなかに魂の輝きを発見しようとしているということです。一つの可能性だけではなくて、できるだけ多様な可能性のなかにその創造性を発揮していこうとしているのです。そこにおそらくは悦びを感じておられるということです。さまざまな環境を創り、さまざまな環境のなかで自分が創ったもの、被造物たちがさまざまな活動をしてゆく。そのなかにおいて、無限の幸福感と無限の躍動感、無限の向上感を感じとっておられるということであります。それがおそらくは神の本質であろうと思います。すなわち、神は本質において、巨大な芸術家、偉大な芸術家でもあるということです。それだけ大きな芸術的な才能を持っているということです。

現在の地球のなかのさまざまな諸生物、人間のあり方、これはやはりその一通過点にしかすぎないということです。先ほどもいったような譬(たと)えを引くならば、魚になぜ足がないのでしょうか。魚に足があってもよいのです。ただ、現代という時代の通通点においては、魚には足がなく、背びれ、尾びれ、胸(むな)びれ、こうしたもので泳いでいるわけであります。ところが魚にとっても、足があってもよいわけです。ある魚は自由選択で地上に生活をし、時どき海に潜(もぐ)ってもよいわけであります。ただそういう魚はいない。あるいは足があって羽根がある魚があってもよい。飛魚(とびうお)というのがあって羽根で空を飛んでおりますが、足もあって地上も歩くことができる、海も潜ることができる、空も飛ぶことができる、こういう魚があってもいいわけであります。

そういうふうにいろいろな可能性はあるのです。それぞれのなかで、小さいながらさまざまな魂が修行しているのです。魚として海に潜っているものは、要するに海という、その水のなかの環境における魂修行を今経験しているわけです。こういうところで、何万年、何十万年、何百万年と魚を経験して、そして魚として魂の修行がほぼ終わったものは、また違ったものに出て来ることがあります。このことは、たとえば魚の修行が終わったものが、両生類として生まれ変わってきたりすることがあるということです。蛙(かえる)ですね。水に縁がある蛙というようなもので生まれ変わってきたりすることがある。あるいは爬虫類(はちゅうるい)として出て来ることもあるわけです。爬虫類というのはワニであるとか、ヘビであるとか、トカゲであるとか、こうしたものたちですね。これが爬虫類ですが、こうしたものとして出て来ることもある。水のなかで泳ぐだけに慣れてきた時に、次に手足を動かして歩いてみるという魂の経験をするために、そういうところに入って来ることもある。さらに、手足を使って地上を歩いている時に、次なる魂の修行がしたいと思うものがいる。空を飛びたいと思う魂がだんだん出て来ると、今度はその魂の一部が、鳥、鳥類のなかに入って来ることもある。このように魂においても、地球のいろんな生物を使っての進化という、その魂群自体の進化というものはあるということであります。そういういろいろな経験をしているのです。

このように、肉体、あるいは地上に出ている存在形式というものは、かならずしも絶対的なるものではないということです。いろんな可能性、徹底的な可能性を探り、そのなかでいろいろな経験をする。魚の時にはできなかった経験が蛙になるとすることができる。人間として、もうそれ以上の経験が積めなくなった魂はどうなるかといえば、これは他の惑星へとまた転生してゆくわけです。そしてまったく違った環境で生活をするなかにおいて、魂の向上をめざす。

こういうように、ありとあらゆる可能性を探究しながら、そのなかに創造の美、芸術的な躍動感、こういうものを神は満喫しておられるのではないのか。これが神の世界観ではないのか。神の宇宙観ではないのか。神の動物観であり人間観ではないのか。このように私には思われるわけです。すなわち神というのは、ひじょうに偉大な芸術家であると共に、偉大な教育者でもあるということ。そして教育ということ、魂の教育ということを楽しんでおられるのではないかということであります。

これは、神近き存在といわれる偉人たちが、また偉大な教育者であったということを見れば、その存在が推定されるわけであります。人類の偉人たちはみな偉大な教師でありました。偉大なグルでありました。大導師でありました。みな先生であります。教師であります。そうであるならば、神近き彼らが偉大な教師であるならば、神そのものもまた、はるかに偉大な教師であるということ。教師である以上、自分の下位にある者たちを徹底的にさまざまな可能性のなかにおいて、教育しようとしておられるのではないかということ。こうしたことが想像されるわけであります。ここに神の本質としてのすばらしさがあるということです。すなわち、すべてのもののなかに積極的に創造性を発揮しながら、すべてのものを発展せしめてゆこうとする力、これこそが、神の本質そのものであります。