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目次


 2.調和の根本

 3.正義と悪

 4.悪霊の姿

 5.地獄の歴史

 6.天使の計画




1.大自然の意味


本章では大自然ということに関して話をしてゆきたいと思う。

まず、大自然の意味ということを考えてみたい。今、人びとは都会に住み、都会の雑踏のなかでさまざまな思いをめぐらしながら、小さな自分というものを見つめている。都会の雑踏のなかの自分、大多数のなかの個、大勢のなかのひとり、大海原(おおうなばら)の一滴、こういうふうな自分への考えというのがあるであろう。それはある時には空しくもあり、ある時には小さな歯車にしかすぎないという気持ちでもあるだろう。しかし人びとにはある種の解放感というのがある。それがこの雑踏、都会の雑踏を抜け出して大自然に遊んだ時の気持ちである。幼いころ、そうした大自然のなかで育った記憶、あるいは何かの折に、旅行か何かで大自然のなかを行った時の気持ち、こうした気持ちを時には取り戻さなければいけない。そういう必要性を感ずるであろう。

大自然というものにはそうした意味がある。すなわち、大いなる母の胸という意味があるということだ。そのなかに、かつて人間は優しく優しく抱きとめられていたのだけれども、やがてそのなかから飛び出し、そして自我我欲のままに、自己本位のままに、あちこちを放浪し始める。そして苦しみを作り、傷口を作り、悩みを作り、挫折を作っていった。したがって、もとなる母の胸に時おり還ってゆくという必要があるのだ。

大自然を見よ。たとえばあの広々とした草原を見よ。気高い山を見よ。あるいは北海道のような原生林を見よ。富士の裾野(すその)を見よ。あるいは大海原を見よ。こうした大自然に接した時に、人びとはふと自分のとらわれに気がつき、自分の存在というものをもう一度考え直すのではないだろうか。

結局、大自然というものは、人間に本来の世界のことを教えんとしているのだ。本来のその広く豊かで穏やかな世界、この存在を教えんとしているのだ。大自然はそうした大きな教育の意味があり、大きな母としての存在の意味があるのだ。決して都会のなかのビルのなかに住んでいることが人間の本来の姿ではあるまい。そうした大自然のなかに大いに遊ぶ気持ちと、都会のビルのなか、地下鉄のなかにいる気持ちと、この両者の気持ちを比べてみた時に、本当の幸せとはいったい何なのか、何をもって幸せというのか、大きな誤解がそこにあるのではないか。こうしたことに人間は気がつかねばならないのではないだろうか。そうしたビルのなか、電車のなかにいることをもって価値あることと考えている理由は、そこに人びとの評価というのがあるからにしかすぎないのではないのか。人びとが、そうしたことが都会人であり、都会人としての優雅な暮らしであり、高級な暮らしであるという、そうした意識を持っているがために、その意識に引きずられてそう暮らしているのではないのか。ほんとうに本心に立ち返った時に、そうした暮らしがすばらしい暮らしであるのかどうかをもう一度考えてみなさい。それはかならずしもそうではないはずだ。そうした暮らしがすべてではない。

本当は人間は自由性を求めている。自由性とはいったい何か。それは魂の解放である。魂の解放を求めているのだ。魂の解放ということは本来の無垢(むく)な心、これに立ち返るということ。縛(しば)りを取るということ。こうしたことだ。都会に住んでいて、現代の高度に発達した産業社会のなかに生きていると、人間にはさまざまな縛りが出てくる。義務感と言ってもよい。あれをしなければならん、これもしなければならん、こうした義務感。上司には報告をせねばならない。部下は教育をせねばならない。同僚とは合意を取りつけねばならない。あるいは仕事のなかではこうしたことをしなければならない。仕事が終わったらこうしたつきあいをせねばならない。こうしたところだ。こうしたところにさまざまな義務感というのがあって、それがお互いを牽制(けんせい)し合い縛り合っているのだ。

こういうふうに人間社会のなかにはいつしか目に見えない縛り、鎖というものが、がんじがらめになってきているのだ。ここに大いなる問題がある。この目に見えぬ鎖を断ち切らない限り、本来の魂の自由さというものを取り戻すことはできないのである。

あるいは瞑想ということでもそうであろう。そうした都会人としての忙しい生活のなかでは、大いなる瞑想的生活のなかには入ってゆくことはできないのである。すなわち大自然に戻る、大自然に立ち返るということは、そのなかにおいて瞑想的生活をするということとも同じであろう。大自然のなかで自然と一体となり、そして神の心を感ずるということ。これは大いなる瞑想の境地でもあるのではないだろうか。

人びとは時おり、こうした都会を離れて大自然に触れねばならない。これは意図的に触れねばならない。そうした時に自分を包んでいる世界観、その再確認と、神あるいは神のごとき母の胸のイメージというものを、もう一度つかみ直さねばならないのである。

人間よ、決してみずからが進歩発展した立場にあると思うな。そうした環境にあると思うな。都会のコンクリートの建物をすばらしいと思うな。超高層エレべーターをもって文明の利器だと思うな。そうではないのだ。気高い山に登った時のあの感慨は、都会の超高層エレべーターを昇った時とはまた全然違った内容がある。高級車を乗り回すことがそんなにすばらしいか。そうではなくて大いなる原野に立って、馬の背中に乗っていることのほうがよほどすばらしいことではないか。少なくとも魂においては、はるかに優れたことではないのか。

この世の世界というものは、今、有用性という基準がひじょうに重宝(ちょうほう)がられていて、その基準が有用かどうか、こうしたことでもって計られているが、そのなかに魂の悦びがない。たとえば自動車というものでもそうだ。瞑想的生活をせんとしておる者にとっては、自動車というものはひじょうに害がある。刹那(せつな)的であり衝動的である。常に他の車の流れに気を配り、そしてハンドルを握らねばならん。スピードの調整をし、しかしそれでも人びとは車へ車へと行く。その小さな空間のなかで、孤独を楽しむことをもってよしとしているのだ。ただそのなかには本当の意味での快感はない。解放感はない。やはり一定の車の流れのなかにおける個の独立、これを楽しんでいるのみである。したがって本当はそれは魂の解放ではないのだ。現代社会のそのままの象徴である。車社会というのは現代社会を象徴しているのです。そのままに象徴しているのです。

こうした孤独な独立した群れ、孤立した群れのなかのひとつの流れ、このなかに巻き込まれているだけでもって本当によいのか。それを考えてみなさい。人びとは学んだ知識でもって、原始人たちの生活を馬鹿げたように言うことがある。そうした馬鹿げた生活のように思うかもしれないけれども、どちらにいったい魂の幸せがあるかということはわからない。背広を着て満員電車のなかで揺られて一日中拘束されている生活と、鹿を狩りに行って何頭かの鹿を捕(と)って、そして賑(にぎ)やかな団欒(だんらん)の時をとって家族で喜んでいた時と、いったい魂はどちらが嬉しかったかと言えば、これはかならずしもわからない。いいや、わからないというよりも、はっきりとしていると言ってもよいかもしれない。大自然のなかに本当の魂の故郷はあるということだ。


2.調和の根本


さて、こうした大自然が私たちに教えてくれている姿とはいったい何かというと、それはひとつの調和の姿であろうと思われる。調和のある姿、大調和の根本にいったい何があるのかということを教えてくれているのではないか。自然は急がない。自然は忍耐強い。自然は循環してゆく。こうしたなかに本当の調和の姿があるのではないのか。大自然のなかには春夏秋冬がある。

柿の木はたわわに実をつける時があり、そうでない時もあるかもしれぬが、毎年毎年、無心に柿の実をつけてゆく。人間たちはその柿をもいで食べているわけだけれども、彼らの生きがい、悦びというものを感じたことがあるであろうか。毎年一回、たわわに柿の実を実(みの)らせるということが彼らにとって最大の仕事であるのだ。そしてそれが人間たちに食べられていって大きな悦びとなり、楽しみとなってゆくということ。これが彼らの奉仕の生活であるのだ。

こうした単純な悦びというものを人びとは知っておるだろうか。一年に一度たわわに柿の実を実らせるような、そうした悦びというものを知っているだろうか。柿の実を実らせるということにおいて大した発展はない。しかし毎年毎年、秋になれば柿の木が実を実らせるということが、大いなる大自然の摂理となっているのではないだろうか。

あるいは二月ごろになれば、ふきのとうが黒い土から芽を出してくる。毎年毎年ふきのとうが出てくる。こうしたことも自然の摂理であるけれども、彼らは彼らでなすがままに己(おのれ)の本分を果たしているが、それが大自然の調和の姿を創り出しているのではないだろうか。

あるいは渡り鳥たちもそうだ。春になると渡って来る鳥あり。冬になれば飛んでゆく烏あり。さまざまな地域で生活をしている。彼らは毎年毎年一定の行動パターンをとりながら、そのなかにおいて倦(う)むことがない。飽きることがない。こういったように大自然というものは大いなる摂理のなかにあり、大いなる循環のなかにあるということだ。

さすれば人間よ。人間たちも心の大自然、心の四季、心の循環、心の大調和ということを心がけよ。あくせくあくせくとしてはならない。人生にも春夏秋冬がある。春の時期がある。芽吹いてゆく時期だ。勢いをつけて木々は芽を伸ばし、草たちはどんどん伸びてゆく。夏の時期もあろう。夏は生い茂り繁栄である。ここぞとばかり生命力が氾濫(はんらん)している。大いなる力だ。繁栄の力だ。繁殖(はんしょく)の力だ。秋、物悲しく大自然のなかに凋落(ちょうらく)の様相が入ってくる。その寂(さび)れたもののなかに、大いなる哲学的空間がある。大いなる詩的空間がある。大いなる安らぎもまたある。大いなる悲しみへの序曲がある。そして魂が深まってゆく。冬、忍耐の時期だ。枯渇(こかつ)の時期だ。枯れている。しかし次なる生命はたしかに息づいている。躍動している。この冬の時期、この冬をどう過ごすか。

鳥たちに渡って行く季節があり、草たちに芽吹く季節があり、枯れる季節があり、果物になる時あり、ならない時がある。そうであるならば、人間にもそうした大自然のリズムというものがあってしかるべきであろう。

人びとよ、こうした春夏秋冬をよく考えなさい。そして毎年毎年、たわわに実を実らせる柿の木のようなことを、自分にも一年に一度はしているかどうかということを考えなさい。一年ということをふり返ってみて、一年の自分の姿というものをふり返ってみて、自分があの柿の木のように無心に何百個、何千個の柿の実をたわわに実らしたかどうか これを考えねばいけない、本年に収穫のなかった人たちはよくよく反省をしなさい。そして来年にはもっとたわわな実を実らせるようなそうした自分でありなさい。そうしたたわわな実を実らせるためには水が要(い)ります。肥料が要ります。あるいは寒さを防ぐためのそうした布を巻いたり、あるいは藁(わら)を寄せたり、そうしたことも必要かもしれません。

いずれにしても自然が、大自然が大いなる知恵のなかに生きているように、人びとも大いなる知恵のなかに生きてゆきなさい。そして単に成功だけを、繁栄だけを追い求めるのではなくて、毎年毎年確実な実りをつくってゆく。人びとのためになるようなことを何かしてゆく。その行ないにおいて、その心において、思いにおいて人びとのためになることを何かしてゆく。こうした積み重ねというのがひじょうにだいじだろうと私は思う。大自然は飽きることがない。大自然は循環し循環して飽きることがない。そして飽きることなく循環しておりながら、自然に様相を変えてゆくではないか。人間もそうありなさい。循環し循環し、倦(う)むことなく、飽きることなく、そして前進をしてゆきなさい。それがだいじであろうと思う。

調和の根本はここにある。すなわち調和というものは一方的なものではないということだ。そのなかに忍耐の時期があり、そのなかに繁栄発展の時期があり、そのなかにやはり衰退の時期がある。そうした循環のなかにおいて、大自然は繰り返し繰り返し同じことをつくっていきながら何かが微妙に違っている。こうした人生がひとつの調和ある人生のあり方なのだ。毎年毎年平凡に積み上げていったらよい。平凡に同じように、主人は主人として妻を愛し子供を愛し、毎朝会社に出て行ってよい仕事をして帰ってくる。それもひとつの実りである。そうした繰り返しをしながらそのなかにおいてたしかな成果をつくってゆく。これがだいじだ。一躍大きな成功を求めようとするな。一躍大きな失敗を招こうともするな。平凡に積み重ねてゆくなかに、非凡なものを光らしてゆけ。そのなかに人生の真実があるのだ。調和の根本はここにあるということを知れ。調和の根本というのは平凡なる循環のなかにおいて、非凡なるものを出してゆくということ。

柿はかならず秋になれば実をならせ、桜はかならず三月に花を咲かせる。去年の桜と今年の桜とどちらが美しかったかは、人びとの目には見えぬかもしれない。しかし桜は桜として、去年、今年、そして来年と新しい装いを確かにしているのだ。桜の木にも生長がある。若木の時、また成熟した木の時、老化の時期、いろんな時期があるけれども、どんな老木であっても桜は桜として立派に花を咲かせているではないか。若木と変わらないような立派な桜の花を咲かせているではないか。

しかし人間よ。人間はなぜそう愚痴(ぐち)るのか。自分は歳(とし)をとったなどというのか。自分は年が寄ったからもう仕事ができないとか、歳をとったからこうしたことができないとか、そういうことは関係がない。大自然のなかに学べ。桜の木は老いも若きもない。人びとにそんな説明をしているか。彼らは「私たちの花が不十分であるのは私たちが歳をとっているからです」とか、「私たちが若すぎるからです」とか、そんなことをいうことがあるであろうか。そんなことはないはずだ。こうしたものです。

人びとよ。言いわけや愚痴は慎んで、大自然のごとく黙々(もくもく)と実りをつくってゆきなさい。黙々と花を咲かせてゆきなさい。そのなかに大いなる魂の進化の糧(かて)があるのだ。


3.正義と悪


さて、私はここに、いわゆる正義の問題と悪の問題というのを考えてみたいと思う。世には正義があり悪があると言われる。正義の味方があり悪人があると言われる。悪役があってまたよき役柄、善玉がいると言われる。善玉悪玉論である。こうしたことを考えてみたいと思う。

悪というものを見た時にいったいそれは何か。悪人で本当に自分は根本から悪人であると思っている人はそうはいない。みんなそれぞれに自分は善い人間であると思っている。善い人間であるけれども自己実現をしようとする過程において、人びとの反発をくったり、人びとのやっかみをくったり、人びとの邪魔を受けたり、妨害を受けたり、悪口を受けたり、批判を受けたり、批難を受けたりすると考える。そして世に悪人と言われる人ほど自分は被害者である、こういうふうに思っているものです。そこにいったい何の問題があるのかということを考えてみたいと思う。

結局、それぞれの人間が自分の一番やりたいことをやろうとしているのだ。自分の一番やりたいことをやろうとしていくなかにおいて、それがある時には正義と思われ、ある時には悪と思われるということだ。なぜあるものには正義と言われ、あるものは悪と言われるか。一番たいせつなことはもちろん神のお心に適(かな)うか適わないか、こうした判断であるだろう。神のお心からみれば、これは正義である。正しいことだ。神の心からみればこれは悪である。まちがったことだ。こうしたことは言えるだろうと思うが、しかし一般の人間にとってはここが難しい。神のお心はいったいどこにあるのか。これがわからない。このために古来より偉人、哲学者、宗教家、こうした人たちが力を尽くしてその善悪を分ける基準というものを考え、そして共通の思想というものを打ち出すために努力をしてきたのではないであろうか。

私もかつて三千百数十年前に、シナイ半島においてモーゼの十戒というものを明らかにしたことがある。人びとに何が間違っているかということを教えた。こういうことをしてはならないということを教えた。こういう形で簡単に教えることもできるであろう。また現代では刑法というようなものがあって、それに触れるようなことをしてはならない。そういうことが列挙されている。あるいは民法というようなものがあって、そのなかで財産権、あるいは経済的な法律関係、親族関係、こうしたものが守られているであろう。こうしたものの淵源(えんげん)をたどってゆけば、もちろん私の律法につながってゆくのかもしれないし、あるいはそれ以前のイスラムの契約法に戻ってゆくのかもしれぬ。

最初はそうした約束ごと、法律というのは神と人間との契約であったのです。神と人間との契約であった。そして人間は神に誓ったわけです。神との契約を守ります。それを破った時にはそれが悪となります。こういうことが言われていたわけです。しかし今や法律は、神と人間との約束ごとではありません。法律は人間と人間との約束ごとです。ルールとなっています。こうした法律という面に、いま一度神の光、神のお心というものを吹き込んでゆく必要があるのではないか。そういうふうに私は思います。法律でいう正義のなかに、神のお心というものを吹き込んでゆく必要があるのではないか。

なぜ、隣人の物を貪(むさぼ)る、他人の物をとることがいけないのか。なぜ人を殺すことがいけないのか。なぜ人を騙(だま)すことがいけないのか。なぜ人を脅迫することがいけないのか。なぜ人に傷を負わすことがいけないのか。なぜ暴力がいけないのか。なぜ名誉毀損(めいよきそん)がいけないのか。なぜ侮辱(ぶじょく)がいけないのか。こうしたことを人びとは考えたことがあるであろうか。その根源にあるものはいったい何であろうか。これはひとつの神理であるということを知らねばいけない。

たとえば強盗をするという行為において、その心の有り様、これが裁かれるのである。これは神理から裁かれてゆくのだ。他人の物を奪ってでも自分が幸せになりたいという心が許されないのではないのか。詐欺罪(さぎざい)にしてもそうだ。他人を騙してでも自分が幸福になりたいという気持ちが許されないのではないのか。暴力罪にしてもそうだ。他人を殴(なぐ)ってでも自分が幸せになりたい、こういう気持ち。これがはたして許されるのか。また、強姦(ごうかん)という罪もある。男女の睦(むつ)み合いということは、これはよい方向で行なわれたら限りなく幸せなものであるが、これが合意のないところに自由に動物的本能のままに行なわれると、そこに大きな苦しみを作り、悩みを作ることとなる。

こうした一連の事柄というものを見た時に、そこにある法益とは何か。守るべき利益とはいったい何なのか。法律に照らして、あるいはその奥にある神理に照らして守るべき利益とはいったい何かと言うと、これが調和ということではないのか。大調和という利益ではないのかということだ。すなわち裁かれるべき罪というのは調和を乱したということではないのか。それは刑事的なものだけではない。民事的なるもののなかにもあろう。さまざまな法廷闘争があるであろう。権利の主張があるであろう。少なくとも調和を乱すということが、さまざまに利害を生み出しているのだ。この調整が必要だということになる。

したがって、この世的なる法律の根源にあるものはいったい何かというと、法の根源にあるものは、この「調和の理念」、これである。調和の理念とはいったい何であるのか。それはこの世のまず調和、ユートピア世界ということではないのか。しかしてこの世におけるユートピア世界とはいかなる世界であろうか。それは結局、実在界の投影された姿ではないのか。神のみ心に適った姿ではないのか。そうした神の心に適った大いなる調和の姿ではないのか。こういうことです。基本的には同じだということだ。

したがって今後大いなるこの神理の流れのなかには、こうした社会を律する法律の奥にあるものを明らかにしてゆくという作業も必要であろうと思う。なぜそうしたことが罪とされたり、違法なことだとされるのか。この根源、理由、これを神理の立場から、心の世界の法律の立場から明らかにしてゆく必要があるであろう。そういう時代がもう来ている。このために、新たなる律法、モーゼの律法に代わる新たなる律法、精神憲法というべきものが必要になってきているのではないか。それを私は今、言う必要があるのではないかと思う。


4.悪霊の姿


さて、正義と悪ということについて考えてきた延長として、悪霊というものについてもう一歩踏み込んで考えてみたいと思う。悪霊というものが現にあるかないか。もちろんこれは悪をどう規定するかという考え方でもあるけれども、現に地獄という存在はあり、現に地獄に悪霊といわれる者はいる。また、そうした者たちを指導し、救済するために私も日夜努力しています。そしてその私の仕事のなかで悪霊の姿というものを眺めてみるならば、そこにあるものは何かと言うと、結局、不調和な霊であるということだ。調和を乱した霊たちがいる世界が悪霊の世界である。こういうふうに言うことができると思う。

結局、それぞれの人間は自分の自由、これを追求していった。その自由の追求の結果がユートピア建設になった場合に天国があり、それが大いなる調和の破壊となってきた時にそこに地獄があるわけである。悪霊たちも自分の思うがままに生きてきた。天国の霊たちもそうであろう。天使たちも思うがままに生きて天使となり、悪霊たちも思うがままに生きてきて悪霊と現在なっている。思うがまま、どのように思うかということは自由である。しかしその思いの方向と思いに基づく行動とが、調和を生み出すか、不調和を生み出すか、ここが大いなるポイントとなっているのだ。不調和を生み出す生き方というのがこれが悪なのです。

ただこの不調和という考え方のなかには、二つの立場がある。単に世の人びとに気に入られるということだけをもって、調和、不調和を考えるわけにはいかない。もう一段高い見地からの調和、不調和ということもありえるであろう。神の国実現のための調和、不調和ということもあるであろう。たとえばイエスの生き方そのものは当時の人びとから見れば不調和かもしれないけれど、神の目から見れば大いなる調和でもあっただろう。そういう観点の違いということは当然ある。

しかし大まかな点において、やはり人びととの不調和を起こす人たちは、何らかの点において心に、行ないに誤りがあると言ってよい。彼らは自分は心清き人間であって、善意に基づいて行動しているということを信じ切っているけれども、結果としてそういう結果が出るということは、そこに悪の存在があるということだ。悪というものは、それ自体を実在として取り出して見せることはできない。悪というのは少なくとも不調和な姿として現じることができる。こう言うことができると思う。

地獄界において人びとは調和をしていない。悪霊たちの姿というのは不調和そのものである。そして彼らの一番の根本は、つねに「自分が、自分が」ということで、「自分さえよければ」という気持ちで動き回っているということが、これが悪霊の発生の原因となっている。つねに他の人びととの調和ということが念頭にある人から見れば、そうした悪霊というのは発生のしようがないのである。ただ他の人への気持ちと言いつつ、他の人びとを自分の思うがままに支配するというような気持ちで生きている人もいる。こうした方々は、なかなか自分のそのやり方ということに気がつかないけれども、実際問題、それが大いなる不調和を生んでいるのだ。他の人びとのために生きるということと、他の人びとを服従させたいという気持ちとは、近いようで遠いところにある。ここに人間に任かされた、課せられた自由のむずかしい面があるということだ。この点について考えてゆかねばならない。

悪霊の姿、これは結局のところそうした不調和を起こしているにもかかわらず、みずからが不調和を起こしているということを、これを認めない人たちの姿である。あるいは認めたくないと思っている人たちの姿、認めることができない人びとの姿であるということができよう。なぜみずからが不調和を起こしていることを認めないか、認められないかというと、その根本において自分にそれだけプライドがあるということ、自分が偉い偉いと思っているということだ。実際、自分が偉いという気持ちのなかには向上心というものもある。自尊心というものもある。それをかならずしも悪とは言えない。しかしながら自分が偉い偉いと思う気持ちのなかに、他を見下し、他を切り離す思いがあれば、そこに愛という名の神の血液の循環が断ち切られているのである。こうしたことを知らなくてはならないであろう。

悪霊の姿というものは結局、神の、神という大きな母体、これから切り離された人びとの哀(あわ)れなる姿であるということ。親の言うことをきかずに勝手なことをしている人びとの集まりであるということ。姿であるということ。こういうふうに言うことができるでしょう。

しからば悪霊たちは、いったいどうすればよいのか。彼らは自分たちの客観的なる姿というのが見えないでいるのである。これをどう見るかというところが問題だ。そうしてみると少なくともみずからを覆(おお)っていた殼(から)をまず取り去る必要がある。「自分が、自分が」という思いで自分に殼をつけていた、その殼を取り去ってゆく必要があるであろう。もう一度赤心になれ。裸になれ。赤ん坊のような心になれ。こうした人たちはもう一度ゼロからスタートしてみる必要があるのだ。ゼロから再出発をして、もう一度自分というものを見つめてみる必要がある。自分が社長をしていたとか、自分が部長をしていたとか、自分が芸術家であったとか、自分が政治家であったとか、そうしたことを取り去ったときに、自分にいったいどのような価値があるのか。それを考え直してみる必要があるということだ。

人間はともすれば社会的評価や自分の地位、お金、こうしたものでもって自分の値打ちを見せんとしているが、こうしたものを取り去った時に自分にいったい何があるか。自分がこういう肩書きでやっていた、仕事をやっていた、それを取り去ったときに何が残るかということだ。いったい何が残るか。その経歴を取り去ったときに何が残るかということだ。素手(すで)になった時に、あなたはいったいどんな生き方をしたのですかと言われた時に、いったいどれだけの人を愛したと言い切ることができるだろうか。考えなければいけないことは、このへんであります。

現に不調和を起こしてさまざまな問題を起こしている人は、もう一度出発点に帰ってみるということです。出発点に帰って考え直してみるということです。それがだいじです。そして不調和を起こしているなら不調和の原因を考え、探究して、その原因を除いてゆくことです。なぜ不調和が起きているのか。それは自分の他人に対する言葉かもしれない。他人に対する行動かもしれない。あるいは自分の考え方の違いかもしれない。そうした考え方の違いが不調和を生んでいるのかもしれない。こうしたことを一つひとつ探究し、不調和を生んでいる原因を発見してゆくことです。そしてその原因が自分自身にあったということがわかったならば、それを他の人びとに対して素直に詫(わ)びることです。

地獄に堕(お)ちる原因もすべて人と人との関係であります。自分に原因があったことでもって他人を苦しめたというその反作用が、地獄というところで出てきて、悪霊という姿、自分が悪霊になっているというそういう哀れな姿となって返っているのだ。それは生きている時に自分自身の姿に気がつかなかった人たちが、自分自身の本性がいったい何であったかということを衆人の目に晒(さら)されるようになるということだ。そんな哀れな姿であった自分ということに気がつかせるための、ある意味での方便でもあるということだ。それを知らねばならん。


5.地獄の歴史


さて、こうした悪霊の姿について話をしましたが、ここで私は地獄の歴史についても語っておきたいと思います。本来地獄はなかったという説があります。それはその通りです。本来なかったのです。地球に人類が渡って来、そこに住んでいた当初にはそうした地獄はありませんでした。しかしながらそのなかにおいて地上でさまざまな人が生活し、さまざまなエゴのままに生きてゆく時に地獄ができてきたわけであります。すなわち地獄もまた、人間の創造性の産物であるということです。神は人間に自由な創造性を与えられました。その結果、さまざまな活動を人間はできるようになりました。こうして不調和な行為を起こしていた人に対しては、それなりの反作用が働いて、そうした不調和な人びとの集まる場所ができました。

それが地獄の根源でありますが、そうした不調和な行為の原点はいったいどこにあったかというと、これは霊なる本質を忘れ去ったところにあったわけです。地上に生きている人間が霊という本質を忘れ去って、霊のほんとうの美点、長所、輝ける点というものを忘れて、そして地上での物質のままに栄華のままに生きてきて、その結果、心をくもらせて地獄界をつくってきたということです。結局、霊的本質の欠如、これです。それと、この世にはこの世の法則というのが働いているがために、この世的に偉くなってしまい過ぎて人びとを見下してきた人たち、こうした人たちが大いなる裁きを受けるという面があるかもしれません。

天国においては、やはり偉大なる人とそうでない人との差は歴然としてあります。住む世界も違います。しかしこの世においては住む世界が同じです。同じ世界において偉大なる人もそうでない人もいます。しかしあの世においては偉大なる人はそれなりの世界におりますが、この世においてはわからない。偉大な人たちも同じく三度の食事を食べ、そして同じように悩み、同じように生活をしています。それゆえにその偉大性がわからない。また大いなる凡人であってもその平凡性に気がつかない。自分もまたそこそこの人物だと思う。世の中を見れば、偉大な人を平凡な人が指導するような立場に立っていることが数多くあります。そうしたことが数多くあるのです。こういう現状というものを見た時に、やはりここが落とし穴であったということがいえるであろうと思います。

地獄が発生した理由のもうひとつとして、これはこの世のルールというものが先行しすぎているということもあるでありましょう。本来この世のルールという別なルールがあったわけではないのです。本来神のルールしかないのだけれども、神のルールとこの世のルールというのがあまりにも分かれすぎたがために、そういうふうになってきたのではないか。このようにいうことができると思います。本来同じであるべきものが別になってきた。ここに地獄の出現の原因があったということです。

ではそうした不調和を作ったり、あの世のルールを守らない人たちは、なぜそうした世界に入ってゆくのかということ、これについてさらに突っ込んだ議論をしてみたいと思います。今から一億二千万年ほど昔、かつて大天使ルシフェルといわれた者が地獄に堕ちたと言われています。この堕天使についてはいろいろな説があって、いまだにキリスト教会の教義においても決着がついていないといえましょう。なぜそうした偉い人が地獄に堕ちることになるのか。この理由です。理由のひとつとして、もちろんこの世的な物質的な生き方をしたということもあるでしょうが、これに関しては、なぜそういう霊格の高い人がそういう生き方をするのか、こういう検討があるでしょう。

本当は、この堕天使の本当の理由は結局何かというと、みずからが神になろうとしたその思い上がりにあったわけであります。これは決して古い昔のことだけではありません。現代においても数多くあるのです。あちこちに新興宗教が数多くあるでしょう。その教祖たちが大なり小なり、そのルシフェルのかつての姿を示しているのです。あまりにもみずからが偉いと思い込みすぎたということです。みずから自身がもう神となってしまって、生き神様となってしまって生きた時に、そうしたことが起こるということです。それは神の世界には偉大なる世界というのがあるけれども、また謙虚さも神の属性のひとつです。神というのは大いなる慎ましやかさのなかにあります。神は衒(てら)いません。神は驕(おご)りません。しかしそうした世界においてみずからを神より偉しとした人たちは、そうしたことによって不調和の原因を作ってゆくわけです。

なぜ謙虚さが美徳といわれるのか。それは、謙虚さのなかには自分を生かし人を生かすものがあるからです。人間は謙虚であるからこそ、こつこつと努力して生き、学んでゆくことができるのです。また謙虚であるからこそ、他の人びとをよく見ることができるのです。みずからを偉大なる神の化身のように思っていた人はみずから努力することもないであろうし、他の人びとをも尊敬することもできないでありましょう。すなわち謙虚さとは結局、自と他を共に押し上げるためのひとつの美徳でもあるということです。これが謙虚さの根本なのです。したがって謙虚な人間ほど大きく大きくなってゆくということです。

これは我われも常づね議論し、考えることでありますが、神はこの三次元の地球の世界を見てどう思われているだろうか。神はそれを見て完全である、自分の事業は成功だというふうにいつも思っておられるだろうかどうかということを考えなければいけない。神という方はおそらく相当謙虚な方なのです。謙虚であるからこそ絶え間ない進化、調和、発展、こうしたものを目指しておられるのではないのか。もしみずからの創った世界を完璧だと思うならば、進化ということは必要はないはずです。神が創られた世界には永遠の進化があります。なぜ進化があるか。神は謙虚な方だからです。謙虚であるからこそ進化をもって旨(むね)としておられるのです。もっともっと良くなっていかねばならないと思っておられるということです。

神自身がそうした謙虚な姿勢を持っておられるならば、人間が謙虚でなければいられないことは言うまでもありません。地獄に堕ちている人たちのなかに謙虚な人たちはほとんどいません。しかし地獄に堕ちている人たちのなかに弱い人たちは数多くいます。あるいは自己卑下的な人は数多くいます。こうした人たちは謙虚だという神の美徳ではなくて、みずからをつまらないもの、くだらないもの、こういうふうに見ることによって神の子としての本性(ほんせい)をくもらせているのです。これと謙虚さとはまた別のものです。謙虚さというものは無限に発展していくがための謙虚さであるのです。自己卑下とか自己否定とかはこれとはつながりません。すなわちここには発展がないからです。ここには進歩がないからです。自己卑下をしたところで、自己嫌悪をしたところで進歩・発展はありません。それは謙虚さとはまた別なことです。

このようにして、かつて大天使というルシフェルがサタンという名で地上に肉体を持って、その後地獄界に堕ち地獄の帝王となってゆきました。これ以前にも低位霊界においてはもちろん地獄的なる想念が集まり地獄霊たちも多少はおりましたが、これ以後巨大な地獄が出現するという可能性が出てきたわけであります。それはみずからが神になろうとしているからです。神が創られた調和の世界に対し、不調和の世界を陣頭指導しようとしている人がいる。しかしそういう者をも神がまた大きな目で許しておられるのも事実であります。これに対して、これをひとつの芝居であると言う人もいるでありましょう。そういう者が地獄に堕ちたということも、これはひとつの神の計画ではないのか。二元的な世界を創ることによって、この世とあの世を進化させるための神の方便ではないのか。そういうふうに思われる方もいるかもしれません。それに対しては、私はそうかもしれないし、そうでないかもしれないと言うに止(とど)まります。

ただ言えることは、そうした者たちが地獄にいることによって、やはり地上の人間と地上を去った人間の苦しみが増大しているということは事実であるということです。地獄のなかにも相対的なる悪として善を磨くための材料がないわけではない。その意味において地獄も存在に一片の価値はある。ただそれをもって地獄を肯定し、よきものと見るということはできない。それはやはりなくしてゆくべき課題目標であり、克服目標であるということ、これは事実なのです。私たちは同じく仲間としてこの地上に生きている以上、地獄霊たち、こうした者たちを見捨てておくわけにはゆきません。神のお心が最終的にどういうところにあるのかは何ともいいかねますが、少なくとも苦しんでいる人を見たら助けてあげなさい、悲しんでいる人を見たら慰めてあげなさい、怒っている人を見たらなだめてあげなさい、これらは神のお心であるということは間違いがありません。

さすれば私たちは神の深遠なるお考えはわかりませんが、ただ神の属性としてあるそうしたお心を守り、実践してゆくのみです。そこに本当の人間の生き方があるのではないでしょうか。したがって私は黙々と今地獄霊たちを諭(さと)しているわけであります。彼らを諭し、彼らをなんとかして天国に導いてくるために諒々(じゅんじゅん)と諭しているわけであります。身を粉にして私は働いています。毎日毎日地獄界というところへ行ってさまざまなる者たちと話をし、地獄をなくしてゆくというためにどうすればいいのか、日夜考えています。私の最大の仕事のひとつでもあります。こういうことをしているのです。私自身がなぜその仕事をせねばならないのか。そういうことを深く考えてはいません。ただ私にそうした役割がある以上、私はそれを遂行するまでです。そして私がみなさんにお願いすることも、地上にいるみなさんにお願いすることも、あなた方もこの地獄を無くするための事業に大いに参画していただきたいということです。これを知っていただきたいのです。