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目次




 4.仏陀再誕

 5.新しき伝道





1.ユートピアヘの道


さて、本章においては今後の希望についていろんな話をしてゆきたいと思う。そこでまず最初はユートピアヘの道と題して、いくつかの話をしてゆきたいと思う。

私たちもこのように霊言を地上の人びとに伝えているけれども、こうして霊言を伝える理由は、結局ユートピアヘの道を示さんとしているのだということです。いかにしてユートピアヘの道を拓(ひら)くか。どのようにしてその道を拓く方法を伝えてゆくか。そして人びとの目標をどういうふうに設定するか。こうしたことかだいじなのである。そこでユートピアヘの道として、まず私は最初に三つ大きな項目をあげておきたいと思う。

第一は、まずこれは愛の復権、愛の復活、こういうことだ。イエスならずとも愛ということが今最大の課題となっていると思う。愛とはいったい何なのか。何をもって愛とするのか。いかなる愛を持って生きてゆけばよいのか。また、あらゆる宗教が目標とすべき愛とはいったい何なのか。そういうことが大いなる検討の課題となり、また人びとの生きてゆく方向となるのである。

このようにユートピアヘの道の第一歩はまず愛の復権、愛の復活にある。愛という言葉の力をいま一度考え直してみる必要がある。愛とはいったい何かということをもう一度考えてゆく必要がある。愛ということがひとつの大きなテーマであるということをすべての人が学はなくてはならない。また、神理を学ぶ人は愛とはいったい何ぞや、愛とはどのような方法論を持っているものなのか。愛とはいかなる目標をその内部に持っているものなのか。こうしたことを検討しなければいけないのだ。愛とは何なのか。愛の課題、愛の間題、これです。

愛はもちろん人と人との間に生まれるものです。しかし人と人との間に生まれるものこそが、実際人間の心の教えのいちばんだいじな課題となっているのです。人と人との間には憎しみが生まれることもあります。怒りが生まれることもあります。憎悪が生まれることもあります。嫉妬(しっと)が生まれることもあります。しかし、人と人との間には愛が生まれることもあります。赦(ゆる)しが生まれることもあります。優しさが生まれることもあります。この人と人との間の心の関係学、これがいちばんだいじなのです。

この研究課題のひとつとして愛の問題というのが大きな問題としてある、ということを知らなければいけない。この関門を通らずしてユートピアヘの道はないということです。愛という名の関門を通ってゆくときに、ユートピアヘの道が開けていく。まず愛を課題とせよ。愛の復権を最大の仕事とせよ。愛の復活を最大の問題とせよ。こうしたことがまず言えるのではないかと思います。

ユートピアヘの道の第二として、私は霊的世界の徹底的探究、こういうことをあげたいと思います。今や地上においては何ら目新しいものは見当らなくなってきました。人の思想において繰り返しが多くなり、新たな発見というものが少なくなりました。これからの新たな発見は、もう霊的実相の世界以外にはないわけであります。それ以外はないのです。かつて海底を探検し、かつて大空を飛び、かつて山のなかに分け入ったように、かつてアマゾンの奥地に分け入ったように、これから霊的世界に分け入るということが大いなる探検家の仕事となるでありましょう。それは科学者も宗教家も医学者もすべて全員が力を合わせて、この霊的世界の探究、探検ということ、これに乗り出して行くこととなるのです。この未知なる世界を解明してゆくという仕事は、これは人類の一番大きな課題であり、最終の課題であるとも言えましょう。

この霊的世界の探検。これなくしてのユートピアヘの道はない。なぜないか。それは、今まで考えられたユートピア論というのが、あまりにもこの世的なユートピア論すぎたということであります。あの世におけるユートピアの実在ということ、これをこの世に持っていく以外にほんとうの方法はないのです。実在界にあるユートピアをこの地上に投影させる、これがほんとうのあり方なのです。

さすれば、実在界にあるユートピアとはいったい何なのか。何をもってユートピアと言うのか。これをはっきりとさせねばいけないのです。実在界のユートピアのしくみ、そしてそこに生きる人たちの生活、そこに生きる人たちの考え方、どうした考え方によって調和が生まれておるのか。おたがいの間に愛が生まれているのか。うまく収まっているのか。人びとは幸せになっているのか。これを徹底的に探究し、このユートピアの影を三次元に投影するということです。これがだいじなのです。これなくしてのユートピアヘの道はないわけです。すなわち、霊的世界の徹底的解明、これがユートピア探究の道のりのうち第二番目となるのです。

さて、ユートピアヘの道の第三番目は、ではいったい何でしょうか。これこそ最も難しく、最も困難でありながら、最も価値のあることでもあるのです。それは結局、霊天上界にあるような光の指導霊、これを地上界において数多く創ってゆくということです。この道であります。たしかに天上界においては光の天使、光の指導霊という方が数多く住んでいます。しかし地上にあっては、なかなかそうした方にお目にかかることもできなければ、またそうした方を発掘することも難しい。けれども本当にこの地球を、地上をユートピアにしてゆくためには、そうであってはいけない。地上というのは魂修行の最大の修行場であります。最大の修行場として地上というものがあるのです。さすればこの地上というものを縁として、光の天使となってゆく人たちを数多く創ってゆく必要があるのです。すなわちこの地上を光の天使誕生の場としていくこと、これがだいじなわけです。

このためにはいかなる方法があるのか。どういうことをすればよいのか。これはまさしく「幸福の科学」の課題であると私は思うわけであります。すなわち悟りへの方法論であります。生身(なまみ)の肉体を持ったまま悟りを開く人たちを数多く創ってゆく。光の天使を創ってゆく。光の指導霊を創ってゆく。これが地上における最大の、ユートピアヘの原動力となるわけです。

かつて釈迦という人は、地上にて悟れる人を数多く創っていったのです。もともと悟っている人が、この地上でその悟りを思い出しただけではないのです。この地上というところを縁として、新たに悟った人たちを数多く創っていったのです。新たな光の天使を創出していったのです。この地上は、その魂の修行の度合によっては光の天使誕生の場となるのです。光の天使創造の場となるのです。私はそう思います。それがこの地上の方向だからです。

ですから単に地獄に堕ちないための修行をするのみでなく、この地上界というものを積極的なる存在としてゆく。すなわちユートピア開発への徹底的方法とするということ、これがだいじではないか。このように私は思うのです。

このユートピアヘの道へ入るための三つの方法論、三つの関門、これをもう一度たいせつにして考えていただきたい。第一に愛の復権、第二に霊的世界の徹底的解明、第三に地上での光の天使の発掘、また育成、養成ということです。そして最後の問題が一番むずかしくもあり、最大の比重があるということ。今世の「幸福の科学」の使命も、いったい何人、何十人、何百人の光の天使を創ることができるか。地上という修行場において、それだけの人たちを創っていくことができるかどうか。これが課題であります。本来光の天使が光の天使の自覚を持つだけであっては足りない。地上をユートピアにしてゆくためには、数多くの光の天使を発掘し創り出してゆかねばならんということです。これがだいじなのです。


2.最高指導霊の存在


さて、こうしたユートピア建設への道、そのための道しるべとして、いったい何があるでしょうか。そのための最も力強い道しるべ、あるいは北極星のような役割をしているのが、すなわち他ならぬ最高指導霊の存在ではないでしょうか。

あなた方はさまざまな霊言、霊示集によって、天上界の光の天使たちも数多くの考えを持っており、多様な神理というものを体得しており、個性の違いがきらめいているということを知っているでしょう。そうしたことは実感として感じ取ることはできるけれども、さて最後にいかなる考え方に統一をしていけばよいのか。こうした点で迷いもあろうかと思います。彼もよし、われもよし、これもひとつの考えであるけれども、彼もよし、われもよしだけではひとつの統一はとれない点がある。ではどうするのか。ここで最高指導霊というものの存在ということが必要なわけです。この最高指導霊たちの考え方に照準を合わせてゆくということであります。

現在「幸福の科学」の最高指導霊としては三柱の霊がいるわけです。この第一の座についているのが、これがイエス・キリストといわれた方です。これが「幸福の科学」の最高指導霊の第一人者となっております。「幸福の科学」の最高指導霊の第二は、高橋信次といわれている霊の存在であります。これが最高指導霊の第二となっています。「幸福の科学」の最高指導霊の第三、これがいったい誰であるか。これが他ならぬこの私であるということです。私がやっているのであります。この三人が主として最高指導霊として、現在考えをまとめているのであります。そしてこれ以外の関係のある諸霊として、ほかにたとえば孔子であるとかそうした人が力を与えておる。こういうふうにいうことができると思います。

しかし最後の決定をなしているのはこのイエス、高橋信次、モーゼ、この三人が「幸福の科学」の考え方の最後のとりまとめをしているということです。そしてこの三人の間で意見が分かれた時には、イエス・キリストが最終判断を下していくということです。こういう事実があるということを知りなさい。

正しさの多様さは結構。ただ多様なままであってはいけない。どこかでそれを包摂(ほうせつ)し、統一してゆかねばならん。その最後の統一点にこうした者があるということ、こうした高級霊がいるということを知りなさい。あなた方の指導の最後の判断はイエス・キリストがやっているのです。こういうことを知りなさい。彼自身は前面に出ることはそれほどないであろうけれども、最終判断は彼が持っているということ。彼の責任であるということ。これを知りなさい。

これがいつも私たちがやってきた流儀なのです。私が地上に出た時も、他の者たちが私を指導してくれました。高橋信次が出た時も、私は指導しました。私が地上にいた時には、高橋信次とかイエス・キリストが指導していました。イエスが地上に出た時には、また私とか、あるいはゴーダマ・ブッタが指導していました。こういうふうに交替でいろんな指導をしているのです。ただこうした最高指導霊の存在ということが最後の教えをまとめていく、教えにひとつの方向性を与えていくという意味で大きな意味を持っているであろう。こういうふうに思われるわけです。

したがって教えの多様性や個性の多様性にとまどってはいけない。それは途中の道として多様性はあるけれども、最後にはひとつにまとまっていくということを知らねばならない。その道すがらのさまざまな咲き乱れている花たちであるということを知らねばならない。そうした花の景観を辿(たど)っていながら、最後にはひとつの目標点へと到達する、山の頂きへと到達するのだということを知らなくてはならない。その意味において最後には意見はひとつとなる。こうしたことを言うことができると思います。


3.方法論について


さて、それでは本章「希望の章」の方法論ということで、希望に関する方法論についていくつかの話をしてゆきたいと思います。

人類に希望をもたらすための方法論としてまず第一にあげられることは、これは強力な指導体制の確立ということであります。まず第一に強力な指導体制の確立ということです。天上界にあっても、われら高級指導霊たちはさまざまな指導体制を確立しておりますが、地上においてはまだ高級霊の教えを引いた強力な指導体制というのができていません。この意味において、まず前線基地としての強力な指導体制、これの強化、体制固めということが何にも増してだいじであります。そういうことにおいて光の天使たちのスクラム、これがだいじです。光のスクラムを組むということ、光の天使たちの強力な確固とした指導体制を創ってゆくこと。これがだいじです。何にも増してだいじです。光のスクラムをまず組め。まず光のスクラムを組んで、大いなる闇に対して対抗してゆかねばならない。こういうことです。

そのためには強力な指導体制、これは内部スタッフの充実、それから講師陣の充実、強力な内部体制の強化、こういうことをして指導体制を創らねばいけない。一騎当千(いっきとうせん)の人たちを何十人、何百人と創っていく必要がある。何十人、何百人のそうした指導者たちを養成していく必要がある。それだけの指導者たちがいれば世の中を変えてゆける。まず指導者の養成、これが第一義です。強力な指導者たちの養成。人間一人の力は知れています。人間一人で全国を回り世界を回ったところでその力は知れている。しかし、強力な指導者たちが群(むれ)をなして日本各地を回り始めた時に、そこに大いなる力が顕われてくるでありましょう。私はそう思います。ですから方法論としての第一は、強力な指導体制を創れ、こういうことです。

方法論としての第二は、これはすでにご承知でもあると思いますが、法の基礎の充実ということであります。法の基礎固め、法についてのその重さ、高さ、広さ、深さ、こうしたものを固めてゆくということであります。法というものを一片の紙切れのような薄っぺらいものとするのではなく、それに厚味をつけてゆく。幅をつけてゆく。高さと、深さを創ってゆく。こういうことが何にも増してだいじであろうと思います。それは横の広がりと同じに縦の広がりです。両方が必要だということです。横と縦の両方を創っていく。こういうことがだいじです。

高さにおいてはかつてないほどの高さが要(い)る。法の高さです。かつてないほどの法の頂(いただき)。こうした最高度の法の高さというのが必要。しかしその底辺においては、幼い者たちや、あるいは恵まれない者たち、あるいは目がなかなか開けない者たちをも導けるような、そうした導入部門をも持っていなければならん。そして最高と最低とがあるだけでなく、この途中にさまざまなる悟りの階梯(かいてい)がなければならない。悟りの階梯があって教えの階梯がなければならない。

また高い低いだけではない。幅が必要です。こうした順序です。人間にはおのずと吸い寄せられてゆく領域というのがあります。単に正面からの神理というだけでなく、それが芸術を通したり、医学を通したり、あるいは教育を通したり、経済を通したり、さまざまな部門を通して神理に到達する道があるはずです。そうした多角的な入口の形成、法に対する多角的入口の形成、これがだいじであります。すなわち広がりにおける多様性です。上下に階梯があると同じに広がりにおいて多様性があるということ。これがだいじであります。

こうした多重構造の法の形成、こうしたことが二番目の課題となるでありましょう。こうした多重形成、多重構造の法を伝えていくために、先ほど言った強力な指導団が要(い)ると、指導体制が要るということになりましょう。さまざまな指導団がいて、指導員たちがいて、こうした多様な教えをそれぞれ受け持ちながら教えてゆくことができるようになるでありましょう。したがって指導員の形成と同じに法の多様化、多層化ということが起きてくるということです。

方法論としての第三は、これは価値の創出ということであります。今までは、すなわちとにかく勧誘する、人を集める、こういうことでもって神理というものを広めるということが前提でもあったし、そのことを多くの人たちは当然と思ってきた。広めることはいいこと、人を増やすことはいいこと、こういうことを当然としていたけれども、これに対するひとつのアンチテーゼ、別の見方、別の価値あるもの、これを持ってくる必要がある。それは、その教えを学ぶということ自体にひじょうに値打ちがある、価値があるということをはっきりと示す。神理価値の創出ということ、これがだいじです。この神理価値の創出によって人びとにその値打ちを感じさせる。そしてその値打ちによって人びとを導いてゆく。誘導していく。こういう方法であります。

人びとは価値あるもののほうへと流れてゆくのです。それはそうです。会社の転職においてもそうです。より良い会社へと転職していこうとするではないですか。住居においてもそうです。狭い家より広い家へと移ろうとするではないですか。食べ物においてもそうです。安い食べ物よりは豪華な食べ物を食べようとするではないですか。人間はそうしたものです。試験の成績においてもそうです。低い点数よりは高い点数を欲するではないですか。課長よりは部長を欲するではないですか。同じようにそうした価値を求めんとする心は、人間の本質のなかに連綿(れんめん)として続いているのです。

さすればまず価値を呈示(ていじ)することです。値打ちがあるものであることを見せることです。それによって人びとは導かれてゆくのです。まず値打ちのあるものを創っていくこと。これがだいじです。方法論として、こうした方法論をとっておる人はあまり現代においてはいないのです。現代のさまざまな新宗教がありますが、新宗教のなかに価値の創出によって人びとを集めるということ、これを前面に押し出しているところは数少ないと思います。まず、これを前面に押し出しなさい。ほんとうに値打ちのあるものを創ってゆく、値打ちの創出、値打ちのあるものの増出、これがだいじです。これにひじょうに大きな力を注ぎなさい。これが三番目であります。

第四の方法論としてあげることができるものは、いったい何であるか。それは、新たな社会秩序の形成ということです。これを考えてゆかねばならん。第四に新たな社会秩序の形成です。これを考えねばならん。すなわち今までは、神理の世界と日常生活とがまったく分離された世界でありました。神理と日常生活はまったく分離された世界だった。日常生活は日常生活としてあり、神理は神理としてまた別の空間に、まったく別の領域にあった。これをやはり考え直す必要がある。神理空間をさまざまな世界のなかにおいて創ってゆく。社会のなかに創ってゆく。日常生活のなかに創っていく。こういう方法論理の構築であります。これがだいじです。

仕事のなかに神理に関する時間帯と、神理に関する空間の広がりをどうして創ってゆくか。あるいは仕事以外の時間帯においてどう創ってゆくか。日常生活において、家庭のなかにおいてどう創ってゆくか。地域社会のなかにおいてどう創ってゆくか。こうした新たな社会秩序の形成、これをしてゆく必要があります。会社組織のなかにおける神理の進入、浸透、地域社会における神理の浸透、学校教育のなかにおける神理の浸透、こうしたことです。単に法の多層性、多様性というのみならず、積極的行動原理としての神理のこういう行動領域への移行ということです。実際生活における神理の場の出現ということです。これを考えねばならない。

書店においてもそうです。神理の書を中心とする書店の出現。映画館においてもそう、神理を伝えるための映画館の出現。学校においてもそう、神理を伝えるための学校の出現。絵画においてもそう、神理を伝えるための絵画の出現。音楽においても神理を伝えるための音楽の出現。こうした実際の行動面としての、単なる理論や価値基準としてだけではなく、行動原理としてのこの社会秩序の再構築、再形成、こういうことが必要であります。こうしたものをどんどんと取り入れてゆく。取り込んでゆく。移入してゆく。こういう行動、これが必要です。

以上のような方法論をもって、新たな希望の世界が展開するものと、私は信ずるものです。


4.仏陀再誕


こうした方法論をいろいろと話してきましたが、ここにおいて私はひとつの私自身の見解というものを呈示しておきたいと思います。それは現代という時代に対する認識であります。現代人への新たな認識の呈示であります。新たな世界観の呈示であります。新たな時代認識の呈示であります。それは現代という時代が、仏陀再誕の時代に当たっているということを知りなさいということです。仏陀が再誕している時期なのです。そういう時代が来ているのです。

かつて釈迦がインドに生まれ、そして正法の時代があった。その後像法(ぞうほう)の時代、末法(まっぽう)の時代を経て、また今、正法の時代が生まれようとしているのです。そうした仏陀再誕の時期に、今あなた方がいるということを、これを知らねばならない。そうした時期にあるということ、東の国において仏陀が再誕し、その地において新たな法が説かれているということ、これを知らねばならん。こうした新たな法の根拠として、そうした指導霊が地上に出ているということを知らねばならない。

かつてエジプトの地で私が起こした奇跡のような、かつてイスラエルの地でイエスが起こした奇跡のような、こうした聖なる奇跡がさまざまな形で今後噴出してゆくでありましょう。そしてやがて人びとは、今という時代の持つ大きな意味、大いなる意味ということに気づいてゆくでありましょう。それは今という時代がそうした大きな神のしくみのもとに動いている時代だからです。大いなる救世の星がきらめいている時代だからです。この星は二千年ないし三千年に一度、地上に現われてくる星であります。その星が今きらめいている。そしてかつてより大きな光として、より大きな力を帯びて現われているということであります。

それはこの東方の地に再誕している生命体が、かつて出たことがないだけの力と使命を帯びて出ているからです。仏陀の再誕は、再誕は再誕であっても、仏陀の本体が出ているということを人びとは知らなくてはいけない。その本体が出るということは、いったいどれだけの意味があるかということを知らねばならない。本体が出るということは決してそうざらにはないことなのです。本体が再誕しておるということを知らねばならない。この本体はめったに地上には出ないのです。その本体が出ておるということを知らねばならん。それはそれだけ大きな力を持って人びとを救ってゆかねばならないからです。それだけ大きな力を持っておらねば、全地域を救ってゆくことができないからです。

イスラエルではイエスは法を説きました。イスラエルの人たちの数多くを救うことができたかもしれない。しかし、イエスの教えが全世界を覆(おお)うには二千年の暦史を必要としました。仏陀はインドの人たちを救ったかもしれないが、その教えが全世界に広まるにはかなりの時間を要しました。しかし今という時代は、そうした悠長(ゆうちょう)なことは言っておれない時代なのです。大いなる危機が迫っているのです。人類の危機が迫っているのです。人びとはこのことを知らない。人類の危機が迫っているということを知らない。そして、自分が昨日もあったように今日もあり、今日もあるように明日もあると思っている。しかし、明日がないのです。今、心を悔い改め、神の国を創ってゆかない限り、人類に明日はないのです。そういう時期が来ているのです。そういう危険が切迫しているのです。それを知らなくてはならない。

今、この時期に神の国を、仏国土を地上に創らない限り、新たな人類の希望の光は射して来ないということです。そうした大きな時代が今来ているということです。これを知りなさい。そのために大いなる力が今結集してきているということです。これを知りなさい。これを知らねばならない。これを知るということは、最大の秘密であります。今時代の秘密を解く最大の鍵であります。現代という時代がいったいどのような時代であり、現代における日本という国の役割がいったいどのような役割であるのか。これを解く鍵、これがここにあるのであります。

人びとよ、安逸(あんいつ)に流れるなかれ。安易な生活に流れるなかれ。大いなる時代の転換期が今来ようとしている。我われがこれほど矢継ぎ早に次つぎと霊言を地上に問おうとしている理由が、あなた方にはわかるだろうか。われらがこのように続々と霊言集を地上に問おうとしている理由が、あなた方にはわかるだろうか。われらはなぜこのように続々と霊言集を地上に問うのであろうか。かつてこういうことがあったであろうか。かつて一度でもこういうことがあったであろうか。かつて地上にこんなことがあったか。天上界の指導霊が総動員して霊言を世に問うというようなことが、かつてあっただろうか。かつてどのような宗教でそういうことがあっただろうか。現代人たちが記憶している歴史のなかには、そうしたことはかつて一度もなかったのです。

天上界の最高指導霊たちが、続々続々とそのみずからの考えを世に問い、人びとの心に問うている理由は、人類にとってひじょうに厳しい試練の時期がもう来ているからです。この時期に光の塔を打ち立て、神理の塔を打ち立て、神理の光で満たし、神の国を地上に創る以外に人類を救う道はないのです。

まもなく、大いなる闇が地球を覆うようになるでしょう。地球の人びとを覆うようになるでしょう。人びとはその闇の濃さゆえに、希望を失う時が来るでしょう。そうした時に光の国が必要なのです。光が必要なのです。灯台の光が必要なのです。人びとを照らす、闇を照らす光というのがどうしても必要なのです。そのためにやっているのです。この意味を知りなさい。この大いなる意味を知りなさい。

どうか私たちも休みなく働いている、そして私たちがなぜこれほど急いでいるかということの意味を知りなさい。神理の国を創る、神の国を創り、神の国を広げるということ、神の国を建設するということが今ひじょうに求められているのです。闇の力が全世界を覆う前に、今神の国を創らねばならん。ユートピアを創らねばならん。仏国土を創らねばならん。それを創らない限り、人類にとって明日はないということです。今そうした時期が来ているのです。光の家を創ろうとしているのです。その必要があるのです。


5.新しき伝道


さて、さすればそうした光の国を創るための新しき伝道とはいったい何であろうか。新しき伝道の方法、新しき伝道の姿とはいったい何であろうか。それは、最高度に優れた人たちを、この神理の団体のなかに創ってゆくということです。人間として最高度に完成され、最高度に光っている人たちを数多く創ってゆくということです。これが最高の伝道であるのです。最高の伝道というのは決して、会員の数を増やすことでもない。献金を数多く集めることでもない。傑出(けっしゅつ)した人物をどれほど創ってゆくか、またどれほど集めてゆくか、これがだいじなことです。日本を揺(ゆ)り動かせるような影響力を持った人たちが、どれほど神理にめざめるかということです。これがだいじなのです。日本を揺り動かすような偉大な力を持った人が神理にめざめること。そうした人たちを集めること。そして彼らを光の柱としてゆくこと。これがだいじなのです。

あのヘラクレスのように、大いなる地球を持ち上げるような大きな力が必要なのです。そのためには偉大な人たちが数多く神理にめざめる必要があるのです。偉大な人たちが数多くこのユートピア建設への道に参画していく必要があるのです。神理の名において偉大な人がこの世的にも偉大である時が来ているのです。そういう時代が来ているのです。神理において、神理の名において偉大である人が、この世においても偉大な時期が来ているのです。

そして教会が建てられるべきところは、決して山の上だけではない。この地上におけるさまざまな世界において、さまざまな領域において、さまざまな企業群のなかにおいて、教会が打ち立てられてゆくべきであります。それらのなかに光に満てる偉人たちが、逸材(いつざい)たちが数多く散らばっていることによって、それぞれの持ち場を教会としてゆくことです。これがだいじです。さまざまな教会を創れ。

こうした新しい伝道の方法は、まず偉大な人の創出、偉大な人が神理にめざめること、こうした現象を数多く創ってゆくことです。これがだいじです。まずこれから行なわなければ社会改革はできない。ほんとうの意味でのこの世のユートピア創りはできない。会員一人ひとりを増やして一億二千万人にするよりも、日本のなかで傑出した力を持った人百人を、この神理にめざめさせたほうがはるかに大きな力があるのです。日本の各界で活躍している百人の人が神理にめざめたほうが、はるかに大きな力があるのです。各界のオピニオン・リーダーたちが神理にめざめることです。科学界のオピニオン・リーダーたち、教育界のオピニオン・リーダーたち、あるいは政界のオピニオン・リーダー、経済界のオピニオン・リーダー、宗教界のオピニオン・リーダー、さまざまなそうした世論をひっぱっていくような人たちが数多く神理にめざめる必要があるのです。そうしてこそ、はじめて日本が変わっていくのです。

まず、百人の偉人を集めよ。傑出した人材を集めよ。彼らをして神理のラッパたらしめよ。ラッパとせよ。神理のラッパとして神理を伝えさせよ。そうしたことが新しい伝道の方法であります。この可能性というものを今後模索(もさく)していきなさい。


6.限りなき可能性


さて、本節において本章を閉じたいと思う。その最後の一節として、私は限りなき可能性というものをあげておきたいと思う。

人類に限りなき可能性を与えるものはいったい何であるか。それは勇気です。勇気以外にはないのです。限りなき可能性を与えるものは勇気、ひとえに勇気、いちずに勇気。勇気とは勇(いさ)んで進んでいこうとする気概です。大いに前進し向上してゆくという、ほとばしる情熱です。これなくしては、このエネルギーなくしては何ら世の中が変わることもなければ、人間が変わることも決してないということです。

勇気を持て。まず勇気を持て。勇気を持つことが人生を切り拓(ひら)き、社会を切り拓いていく、世界を切り拓いてゆくのだということを知りなさい。希望ある未来を拓いてゆくためには、勇気を持った人が立ち上がらねばならん。勇気が必要です。何にも増して勇気です。この勇気という大きな力でもって、その剣(つるぎ)でもって道を切り拓いてゆきなさい。勇気がある限り、限りなき可能性がそこにあります。

人間の生命は不生不滅(ふしょうふめつ)であり、不増不滅(ふぞうふげん)です。決して滅びることのない生命というものを人間は持っているのです。みなさん方一人ひとりが生命、限りない生命、決して滅びることのない生命を持っているならば、みなさん方は死ぬことがないのです。永遠に生きているのです。永遠に生きているということを自覚したならば、さすればどうする、さすればどう生きる。永遠の生命があるならば、その生命を一番たいせつなもののために使おうではないか。決して減りもしない生命である。さすれば最もたいせつなもののために使おうではないか。神理のために使おうではないか。神のために使おうではないか。神の正義のために使おうではないか。この地上にユートピアを創るために使おうではないか。

そうした勇気を持つことだ。これを持つこと。勇気というものは心の奥の底の底から、腹の底の底から湧き上がってくるものです。これがなければどうして人が救えるか。どうして世の中が変わるか。どうして悪の勢力に打ち勝つことができるか。魔に打ち勝つものは最後は勇気です。勇気がなければ魔に負けてしまう。魔に打ち勝つのは勇気です。勇気の剣(つるぎ)でもって魔を打ち倒していきなさい。切り倒していきなさい。

あなた方は勇気があり、この地上にユートピア建設のために出た、選ばれた戦士たちであるということを知りなさい。勇気という勲章が胸に輝いているということが、あなた方がユートピア建設のための戦士たちであるということの証明でもあるのです。勇気、黄金の勇気、力強い勇気、これは神から贈(おく)られた剣(つるぎ)であります。この神剣(しんけん)をとりて、この剣をとりて、迷妄(めいもう)を断ち、悪を断ち、正義のために道を切り拓いてゆきなさい。自分たちの命を惜(お)しいと思うな。つまらん地位や名誉や財産や、そんなものがいったい何になるか。あなた方は永遠の生命を生きているのだ。いろんな時代にいろんな立場で、いろんな名前で生まれ変わっているのだ。現在ただ今の自分をかわいいと思うな。現在ただ今の自分を守ろうと思うな。勇気という剣でもって道を切り拓いてゆけ。勇気という一条の光でもって前途を照らしてゆけ。そこに神の道が開ける。そこに神のための道がある。

神の元へ還ってゆくためには勇気が要るのだ。その途中さまざまな試練があるであろう。旅の途中でさまざまな障害物があり邪魔物があるであろう。しかし勇気があればこそ、こうした試練を乗り越えてゆけるのだ。勇気という剣でもって道を切り拓き、父であり母である神の元へと辿(たど)り着け。