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臨床教育学の必要性

1 臨床心理学科と臨床教育学

 この授業は、臨床心理学科のためにおかれているものである。
 なぜ臨床心理学を専門に学ぶ学科に、「教育哲学」なる授業があるのだろうか。
 学科新設のさまざまな事情で置かれたという状況を除いて考えれば、以下のような理由をあげることができる。
 第一に、将来カウンセラーになりたいと考えている人の中には、スクール・カウンセラーを志望している学生が少なくないと考えられる。そうした学生は、教師という立場ではないにせよ、学校とは何か、教師とは何か、学校では何が行われ、教師はどうやって子どもに教えたり、指導したりしているのか、こういうことをきちんと理解しておく必要がある。もちろん、教師とカウンセラーでは、生徒と接しても対応の仕方は異なる。従って、教師のようなやり方を、自らの手法として学ぶ必要はおそらくないだろう。しかし、カウンセラーのところにやってくる生徒は、その前は、ずっと長い間、教師とつきあってきたのであるから、教師のやり方を知っておくことは、極めて有効である。
 第二に、臨床心理学を学んでいる学生が、すべてカウンセラーになるわけではなく、さまざまな進路をとっていることになるだろうが、教師もまたその有力な選択肢だということである。教師が子どもが見えなくなったと言われて久しい。以前は、教師になるのは、それほど大変なことではなかった。特に、戦後しばらくの間は、教師不足で、教育委員会の重要な仕事が教師探しだった。しかし、そういう時代の教師は、今のように「教師不信」の対象にはなっていなかったように思われる。
 教師になるのが、ずっと難しくなった現在、「教師不信」は巷に溢れているし、大学生の中でも、特に人間科学部などでは、教師にだけはなりたくないという者が少なくない。そして、教師の側でも、子どもが分からなくなったと嘆いている。こういうときにこそ、臨床心理学を学んだ教師が、現場に求められてもいるのである。このように考えると、臨床心理学科のひとつの科目として、教育学関係の授業が置かれている意味が見えてくるだろう。
 臨床心理学科では、教育学関係の授業はふたつ置かれている。
 ひとつがこの「教育哲学」であり、もうひとつは、人間科学科と重なって置かれている「現代学校教育論」である。
 ところで「教育哲学」という題名はいかにも「古い」イメージをもつ人が多いだろう。また、現実から離れた教育に関する「原理・原則」を与えるという印象も否めないに違いない。しかし、臨床心理学に限らず、あらゆる「臨床**学」は、現場に執着しなければならないし、現実を離れては成り立たない。そこで、この講義では、「教育哲学」という通常のイメージではなく、むしろ「臨床教育学」への橋渡しをすることを意図している。
 さて、臨床教育学を構想するためには、教育学と臨床心理学との関係を明らかにする必要がある。まず第一回としてその点について考えてみよう。

2 臨床教育学への要請

 まず初めになぜ臨床教育学なる分野が要請されるのかを考えておこう。もっとも、この「臨床教育学」という言葉自体は極めて近年使用されるようになったものであって、必ずしも人びとによってその意味が共有されているわけではない。むしろ教育学の世界では「生活指導」という言葉が一般的であった。カウンセラー設置の要請などに象徴されるように、「臨床**学」がもてはやされるようになり、教育学の世界でも「臨床」という言葉を科した分野として、日本教育学会などでも課題研究として継続的な取り組まれるようになっているものである。したがって、ここでは日本の教育研究運動の中で生活指導という分野において追求されてきたことの延長として、臨床教育学を考えておく。
 宗教の発生以来、「聖職者」が行ってきた「悩み」の相談とは区別される、学校や教育世界にいて特に問題となってきた「相談」「指導」はなぜ必要とされてきたのか。これはとりわけ近代日本の教育の性質と結びついている。その基本的な内容を整理しておこう。
 人は本来知的好奇心をもって生まれているし、また労働によって生活を成り立たせていることから必要とされる知的活動に対しては、通常「歓び」を感じるものである。また古来文明の中で作られてきた芸術作品なども、知的究明行為の結果であるし、悩みなどとは別のものであったろう。
 しかし、現代の学校制度を求める知的行為(勉強)は、必然的に多くの人びと、特に子どもたちに対して違和感や苦悩を生じさせるものになっている。それはいくつかの理由による。
 第一に、学校で学ぶ内容の多くが、生活の中で必要であるという実感に根付いたものではなく、必要性を感じさせない膨大な知識の集積となっている点である。学ぶのに苦労が多いし、その意義も理解できないものである。かつては多くの人々は、生活や労働に必要な知識や技術を生活と労働そのものから学んでいた。学校で学ぶことはあまりなかったのである。
 第二に、そうした知識が将来の具体的な生活の中で役にたつという目的ではなく、現在の競争、選抜の道具として機能している面が強いことである。本来人間は「社会的動物」であり、「協同性」に基づいて結びつくものであるのに、競争という排他性が現代の学校の支配的要素となっている。
 第三に、本来歓びである学習が、「義務教育」という強制装置として押しつけられている点である。ここでは学ぶことが外から与えられ、自発的な要素はほとんど認められない。そうした中で学ぶことの必要性が実感できない状況に置かれることになる。
 第四に、大人たちの生活が子どもたちの将来を示すものではなく、社会が極めて急速に変化しつつあり、自分の将来像が見えない中で将来のために学習をせざるをえないという不安が常につきまとっていることである。
 このような中で、教師たちは悩みや問題を抱えた生徒を、生活指導という形で指導してきた。以前は貧しさから来る悩みや、家庭でのしつけが行き届かない子どもたちが犯しがちであった規律を乱す行為などを指導することが中心であったろうが、いじめ、不登校、家庭崩壊に起因する悩み、思春期のさまざまな悩み等、子どもたちが抱える問題は量的にもまた質的にも拡大してきている。そして、その結果もいじめによる自殺などに象徴されるように深刻な事態を引き起こすことも稀ではなくなってきている。更に近年では学校内外での殺人・傷害事件に子どもが巻き込まれるなどの被害も起こるようになり、「臨床心理学」や「臨床教育学」的課題が山積するようになってきたのである。
 これは現代の学校制度そのものがもつ矛盾構造に起因するとともに、社会そのものが多くのストレスを引き起こす構造をもっており、それがますます強くなっていることによっている。臨床教育学が求められる所以である。
 しかし、それが直ちに臨床心理士の資格をもったカウンセラーを学校に設置し、相談活動を行うことが求められるのかは、検討の余地がある。教育がもっている論理、あるいは教育が求める原則と、臨床心理学の立場が調和するものであるのかの検討が必要だからである。