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価値観的立場と価値相対主義

1 価値観的立場にたつ教育学

 私は臨床心理学科に属しているが、専門は教育学である。そして心理学には疎い人間であるが、心理学の学科に属していることで毎日心理学者や心理学を学ぼうとしている若い学生たちと接しており、そのために心理学と教育学の発想の違いを意識することが多くある。
 もちろん、人間を相手にしている学問であり、特に臨床心理学は実践を主たる目的とする学問であるという点から、共通点もたくさんある。広い範囲をもった心理学の中で臨床心理学は教育学と近いともいえる。しかし、ここでは主に違いを明らかにし、何故そのような違いが生じるのかも合わせて考察してみたい。
 人間は社会的存在であり、非常に弱い存在として生まれてくるから、大人が育て、社会のことがらを教えなければ大人になって生きていくことはできない。人類がこの地球上に現れて以来そうであったといえる。
 また、社会的存在である以上、悩みごとからまったく自由であったこともないであろう。したがって、教育的行為も相談的行為も、先史の時代からあったと考えで間違いない。しかし、教育を司る学校は5000年も前に発生したと言われており、それ以来学校という組織と教師という職業が綿々と続いてきたが、相談活動をする人は、以前は年配の経験豊かな人であったり、また聖職者であったりした。ヨーロッパのカトリック教会には、いまでも「懺悔室」が残っているが、神父が悩みごとと対していたことをよく示している。今カウンセラーは人気の職業となり、先進国では「資格」を伴った専門職となっているが、これはごく最近のことである。今でも欧米の学校でカウンセラーといえば、むしろ進路について相談にのる人を意味することが多く、人間的な悩みを相談する人だけを意味しているわけではない。このように歴史的に見れば職業形態という点で大きな違いがあるが、これは次の違いを生む要因ともなっている。
 教育という行為は、必ずある「理想」「望ましい状態」を前提に成立しており、明確な教育的価値をともなっているのに対して、臨床心理学は最終的にはそうであるにしても、臨床的な実践においては、むしろそうした「望ましい状態」を具体的に示すことを避ける、そこから自由になることを重視しているように思われる。
 何かを教えるときに、価値がないと思っている内容を教えることは通常ありえない。まして、社会的な制度の中で、共通カリキュラムに入っていることで、社会がそれに価値を置かないような内容があるとは考えられないだろう。もちろん、人それぞれの価値観の中で、あんなことを学んで、どんな価値があるんだ、という疑問は少なくないし、学生諸君の意見としても、高校で習う数学なんて、実際には役にたたない、と感じている人が圧倒的だろう。しかし、ここではそういうレベルのことではなく、もっと原則的なこととして考える。おそらく、「高校の数学なんて役にたたないよ」と考えている人は、将来高校の数学の先生になりたいとはおそらく思わないに違いない。数学を学ぶことは人間として価値があると思う人が、おそらく多く数学の先生になるだろうし、また、そうした信念が強く、情熱的であるほど、いい数学の先生になる可能性が高いと考えるのが自然だろう。5000年の歴史のある教育は、そうした積極的な評価を積み重ねてきた内容が、基本的な教科として存在し、また多くの人に受け入れられてきた。

2 教育の目的としての自律的人間形成

 アメリカにサドベリ・バレイ校という学校がある。詳しく講義で取り上げることになっているが、1960年代にたくさんアメリカに生まれた、普通の公立学校とは違う教育をめざして設立されたオルタナティブスクールで例外的に今日まで生き延びてきた、いや生き延びただけではなく、多くの支持者を獲得してアメリカに広まりつつある学校である。この学校は、4歳から18歳までの生徒が学年に分かれることなく、一緒に生活し、カリキュラムも存在せず、好きなことをやってよいという教育を行っている。学校に来ることだけが義務で、通常の勉強をする必要すらない。勉強は自分でしたいと思ったときにだけ行い、それも自習でやってもよいし、もし大人やほかの生徒に教わりたいと思ったら、交渉・契約して初めて「授業」が成立するという方針をとっている。何をやってもいいのだから、理想や望ましい状態というような考え方を放棄していると考えられる余地もある。たしかに、普通の学校とはまったく違っており、普通の学校が理想とすることを理想と考えていないことは間違いない。しかし、このように、価値観的立場と無縁に見えるサドベリ・バレイ校も、実はきわめて明確な理想をもち、それを実現するために、このような方式をとっているのである。
 サドベリ・バレイの教育目標は、自分でやりたいことが発見でき、それを実行するための能力の形成を自律的に行うことができ、そして共同体の中で協同しながら自立的に生きることができる民主主義的な人格を形成するというようにまとめることができる。理想や価値がないのではなく、きわめて明確なのである。
 ではカウンセリングの場合はどうだろう。カウンセリングといってもかなり多くの、時として対立する立場があり、単純にはいえないだろうが、クライアントが自分で解決の方向を確信することが、治療の基本であるという考え方は多くの立場で共通しているようだ。つまり、カウンセラーの価値観的な立場を前提に治療を行うのではなく、それをできるだけ抑えることが求められる。そして、どのような状態になることをもって治療ができたと考えるかも、またカウンセラーの価値観的立場によって判断するのではない。
 ひきこもりや不登校の問題を考えてみよう。
 不登校の生徒が出た場合、学校では多くの場合教師や生徒が家庭を訪問して、学習内容を伝えたり、様子をみて励ましたり、さまざまな取り組みをするが、最終的には再度登校できるようにすることを目的としているといってよい。もちろん、性急な解決が求めることは事態を改善しないことは段々と知られるようになってきたが、学校という立場から、「学校などにはこなくてもいいのだ、そういう生き方もあるさ」というような解決を目指すことは考えられない。学校という制度があり、そこに登録されているとき、特に義務教育段階では、学校に通うことが「当然」のことであり、そのことについて否定することはおかしいと考えられている。もちろんこれはいろいろな状況を無視して、ただ単に学校に来られるようにすればいいという意味ではなく、学校という制度、教育という立場から見れば、原則的な考えは通学できるようになることを目標とするという意味である。
 しかし、カウンセラーが不登校に対応するときには、必ずしもそういう立場をとらないだろう。学校に行けないのは、行けない原因があり、本人がその原因を自覚して乗り越えようとすることが大切であり、学校にいくべきであるという「立場」を前提にカウンセリングすることは、解決を逆に遅らせる危険性があるし、また、自分で主体的に選択しないかぎり、真の解決には至らないと考えているからであろう。
 不登校といってもいろいろな要因、状況がありうる。本当に学校に問題があって、他の学校に移ろうという人もいるだろうし、学校という形態ではなく、とりあえず独力で学習したほうが効果的だと考える人もいるかも知れない。そういう人たちにとっては、不登校は合理的な選択といってよい。しかし、学校でうまくいかない状況があり、当人あるいは教師、他の生徒たちとの関係で改善可能な要因である場合には、それを正確に認識し、適切な対応をとることが求められ。また家庭に要因がある場合、あるいは何かの精神的な疾患が原因であるということもありえる。

3 カウンセラーと価値相対主義

 カウンセラーはこうしたさまざまな要因がありうる中で、クライアントの状況を正しく把握することが、何よりも重要であり、そのためには、あらかじめ「かくあるべき」という価値観的な立場で接すると、不正確な理解に陥る危険性があり、方法的な誤りであるという立場にたっていると考えられる。もちろん、現在の学校では問題がありすぎ、むしろ不登校の生徒こそ健全なのだ、というような立場も、一見「学校に行くべき」という立場から解放されているように見えて、偏狭な価値観に囚われていると考えられる。
 では、価値観的な立場と価値相対主義は絶対に相いれないものなのだろうか。もしそうだとしたら、教師とスタールカウンセラーは協力の難しい職種ということになってしまう。この問題は最後にもう一度立ち返って考えてみることにしたい。
 先に、カウンセラーは新しい職業であり、以前は年長者や聖職者が相談を担っていたと書いた。それは担い手だけの問題ではなく、この価値観的立場に関わっている。宗教は道徳的な価値観の体系をもっているのが普通であり、それを示す教典がある。聖職者が相談を受け、ある解決策を提示するときには、その宗教の教典が重要な役割を果たすことになる。もちろん、単純な教典の解釈で解決するわけではなく、相談を受けた人の個性的な考えも反映され、その根拠を教典に求めるということもあるが、少なくとも聖職者が教典に基づいて相談への解決策を示すときには、明確な価値観的な立場が前提されている。そしてそれは「神の教え」だった。
 しかし、19世紀ヨーロッパは市民革命、産業革命よって、大きく社会的に変化し、信教の自由などの自由権が認められ、他方選挙権によって、市民が政治の自立的な主体として登場した。つまり、国家や教会が特定の価値観を市民に唯一正しいものとして提示する社会ではなくなってきたのである。ニーチェはそれを「神は死んだ」と表現した。そしてそれと入れ代わるように、フロイトが登場したのは偶然ではない。
 具体的に安楽死の問題を考えてみよう。ある不治の病となって、苦痛に苛まれ、ただ死を待つ患者が医者に安楽死を希望し、精神的なケアのためにカウンセラーに治療の一部を任されたと仮定してみる。宗教的に見れば、多くの宗教は出生を神の意志と規定しており、命は神から授かったものとされている。「神が生きている」時代には、神の意志として安楽死など容認できないと言えば済んだに違いないが、今ではそれは不可能である。そして、カウンセラーが、安楽死を勧めてそのために助力するとか、あるいは逆に死んではいけませんと強くいって、激しい苦痛に耐えることを求めたりできるのだろうか。
 いじめで悩んでいる生徒の場合はどうだろう。
 「いじめられるのはあなたが弱いからだから、もっと強くなって対抗しなさい」とか、あるいは逆に「一時のことなんだし、卒業してしまえば関係なくなるから今は我慢することが大切だ」とか、「転校して彼らから離れるように」、「警察に訴えなさい」などと、具体的な方針を、自分の考えに基づいて提示することは、カウンセリングの原則からいってほとんど行われないに違いない。いじめをめぐる原因やまわりの人間関係、また解決すべき人たちの力量など、さまざまな要因によって、実際の解決策はさまざまだろうし、また解決策を実行するのもカウンセラーではない。できること、またする必要があることは、そうしたことをしっかりと考えさせ、クライアントが自ら解決策を見いだし努力できるようにすることと、解決に関わる人たちに対して、クライアントの合意の下に、情報を提供し協力することだろう。それがどのような価値的立場をとるかは、臨床心理学に内在するものではないと考えられる。