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視角の問題

 「ほんとうのジャクリーヌ・デュプレ」という映画がある。天才チェリストでありながら、若くして筋萎縮性側脊硬化症という不治の病に倒れ、悲劇的な最後をとげた実在の人物を描いた映画で、日本でも話題になった。この映画はジャクリーヌ・デュプレの苦悩を描いた映画として理解されたために、臨床心理学の専門家も強い関心を示した。しかし、その理解の仕方は、教育学とは異なるものを感じさせることが多かった。
 二人の仲のよい姉妹、ヒラリーとジャクリーヌは幼いころから音楽の才能を発揮した。姉のヒラリーはフルート、妹のジャクリーヌはチェロで。最初は姉が一歩抜きんでていたが、やがてジャクリーヌが姉を追い越し、その差は大きく開いてしまう。姉は結局音楽大学まで進んだが、音楽の道をあきらめ、結婚生活に入り、ジャクリーヌは天才チェリストとして16歳で華々しくデビューする。しかし、映画で描かれるジャクリーヌは、華やかな活躍をする一方、フロイトも知らないほどの教養の欠けた人間、そして遠くモスクワまで勉強に行ったのにホームシックにかかり、チェリストなどになりたくない、と世界最高のチェリストである先生に語る歪んだ人間として描かれる。そして、その究極として話題になった場面がでてくる。天才ピアニストのバレンボイムと結婚したが、夫婦の間は冷えており、演奏旅行から姉のところに逃げてきたジャクリーヌは、姉の夫とセックスをさせてくれと頼み、姉夫婦は悩みながらもそれを受け入れる。そして、発病してバレンボイムに裏切られた彼女は寂しく息を引き取り、それを車の中でニュースとして知った姉が慟哭する場面で映画が終わる。
 この映画の紹介を臨床心理学者の鑪幹八郎氏が「臨床心理学」1巻5号(2001年9月)に載せている。(「演奏家の表と裏 映画「ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ」」)
 ジャクリーヌは天才であると同時に心に深い苦しみを負った存在であり、もてはやされなんでも手にはいる生活をしていた彼女は、幸福な姉夫婦を「羨望」し、そのために電撃的にバレンボイムと結婚するがうまくいかず、姉の夫を求め、姉夫婦の関係もおかしくなり、またジャクリーヌも精神的に破綻していって、悲惨な死を迎えるというようにまとめ、メラニー・クラインの「羨望」概念の典型として理解している。
 この映画理解の特徴は、文字通り「ほんとうのジュクリーヌ・デュプレ」が描かれており、描かれたジャクリーヌを解釈しているというところにある。なるほど、デュプレは姉に羨望を感じていたんだ、その裏返しとしてバレンボイムと結婚したのだ、しかしそれは満たされない結婚で羨望の強さから自分だけではなく、姉夫婦まで追い込んでいったのだと。この映画は事実とはかなり違う場面がある。実在の人物が描かれ、しかもその死からそれほど年月が経っていないのだから、こうした事実は事情をよく知る者にとっては不可解だが、そのような事実の詮索をすることはやめておこう。
 しかし、教育学の立場からみると、このような臨床心理学者の解釈は基本的に違和感を感じる。
 ある作品を解釈する際、教育的行為の中では「話者」という存在を常に、そして最初に意識する。話者とは作者のことではない。多くは作者が「話者」だが、もちろん違う場合もある。話者が作者と異なるときには、双方の位置関係が異なる。「話者」とはその作品を一人称で語り、見ている者のことである。

  古池や 蛙飛び込む 水の音

 誰もが知っている芭蕉の有名な俳句だが、ここにはもちろん、誰も人は登場しない。しかし、話者が芭蕉であることは誰でも知っている。では、芭蕉はどこにいるのか、季節や時間帯はいつなのか、こうした基本的なことを俳句から確認することができるし、また、歴史の知識を動員して、芭蕉の当時の状況を知ることもできる。そして、「話者」たる芭蕉がどういう状況で見ているのか、そしてどのように語っているのかを確認しておくことは、作品の理解にとって、非常に重要である。
 では、この映画の「話者」は誰だろうか。この映画の原作は、姉のヒラリーと弟のピアスの往復書簡集である。そして、映画化に際しては主に姉が関わっている。映画の本当の題名が「ヒラリーとジャクリーヌ」とされていることでわかる。つまり、「話者」はヒラリーであり、映画には登場しないが、弟も隠れた話者である。しかし、主要な「話者」が姉であることはゆうまでもない。このことは、映画で描かれているのは、「ほんとうのジャクリーヌ・デュプレ」ではなく、「ジャクリーユを通したヒラリー」の心象なのだということを示している。映画は小さな姉妹が海岸で遊ぶ場面から始まり、ジャクリーヌの死をラジオで知ったヒラリーが泣く場面で終わっている。若くして天才チェリストとして大成しつつあるジャリクーヌに対して、音大の修了試験でみっともない演奏をするヒラリー、姉の夫とベットをともにし、満足そうに起きてくる妹に悲しげなまなざしをむける姉、このように、重要な場面でかならずヒラリーの悲しみが出てくる。「話者」を忘れた観衆は、ここで妹思いの姉の温かさを感じるかも知れない。
 しかし姉の感情は決して妹への単なる思いやりだけではなく、もっと複雑な嫉妬、怒り、羨望という感情がいりまじったものである。臨床心理学が精神的な問題を抱えた人たちを対象とし、その克服のための方法を構想し実践するための学問であるとするならば、具体的にこの事例でいえば、クライアントはジャクリーヌではなく姉のヒラリーであるはずである。ヒラリーの癒しのための作品であると考えると、この映画のさまざまな場面がとても合理的に理解できるのだから。
 そして、教育学の立場からすると、話者がヒラリーであり、姉の目を通して妹が描かれているとすると、次に作品解釈の作業として実在の人物であるジャクリーヌとここで描かれたジャクリーヌは大きな相違がないのか、あるとしたらどういう点であり、その相違はヒラリーのいかなる心理によってもたらされたものなのか、などが次の検討課題として出てくる。ここではその実際の相違点については触れないが、少なくともこうした実在の人物が描かれた作品の「作品鑑賞」としては不可欠の作業と言える。そしてそれらを総合的に理解していくことが、教育実践では求められる。
 しかし、臨床心理学の立場からすると、作品解釈の意味は異なるのかも知れない。
 なぜ少なからぬ臨床心理学者がこのクライアントの取り違えをしたのだろうか。教育は一般的に多数の人間(生徒・学生)を対象とし、教育の場面で語られている一人称はたくさんおり、一人称と二人称、三人称が複雑に絡まってコミュニケーションが成立しているのに対して、臨床の場面ではカウンセラーとクライアントが一対一で相対し、通常クライアントが一人称でずっと語り続けるというスタイルととっているからではないかということが考えられる理由である。
 逆にいうと、臨床心理学の立場からすると、これは「取り違え」ではなく、二人の「悩める人物」がいて、それぞれの悩みと対しているということかも知れない。そして、題名のジャクリーヌの方の悩みにより強い関心が生じたということかも知れない。もちろん、不治の病にかかり、演奏家として引退せざるをえなかったジャクリーヌの後年は悲惨であり、大きな苦悩を背負わざるをえなかったのだから、ジャクリーヌの苦悩を問題にすることが検討違いというわけではないだろう。
 しかし、教育学との相違でいえば、実際のジャクリーヌと映画のジャクリーヌがどのように違い、それがヒラリーのどのような精神から生じたかという問題は検討課題とはされないことになる。