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教師とスクールカウンセラー

 教育学と臨床心理学は、90年代の半ば愛知県で起きたいじめによる自殺事件を契機として、文部省が全国の学校にスクールカウンセラーを置くという方針を立てることで、大きな接点をもつことになった。
 しかし、学校に臨床的なカウンセリングを導入しようという努力はもっと以前からあり、そのときには臨床心理学の専門家としてのカウンセラーではなく、教師がカウンセリングを学ぶことで生徒たちの相談活動を行う計画だった。実際にそれほど多くはないが、意欲的な教師たちがカウンセリングを学び、生徒の相談活動に従事した。また、学校では「生活指導」とか「生徒指導」という形で、生徒たちの学習以外の人間関係や精神的な指導をしてきた。優れた生活指導の教師たちは、生徒に現れたさまざまな困難を解決するのに大きな力を発揮してきた。
 しかし、そうした教師自身の努力よりも、臨床心理士を中心とするカウンセラーの導入が進んだのは、結局教師という存在が、一般的には生徒の精神的な困難を解決するのには不適切であるという認識が強かったからであろう。
 教師は生徒を指導する立場だから、生徒の上にあり、また成績をつけるために、一種の権力者のように生徒には思われがちである。自分の人生を左右するような成績をつける存在に対して、自分の悩みをさらけ出して、解決の糸口を見いだすための助言をもとめることは難しいと考えられ、そのために、生徒に対する権力的な要素のない相談者が必要であると考えられたのである。本当に教師は生徒に対して、上位者としてのみ存在するのか、逆にカウンセラーは本当にクライアントと平等なのかという問題は、検討してみる必要がある問題だが、ここでは少し具体的に教育の世界での悩みの対応方法をみてみよう。
 日本は世界的にみても、ユニークな教育研究運動がたくさんある。民間教育研究団体と呼ばれる教師たちの自主的な研究団体である。その中に生活綴り方という手法で認識や感性、そして人間関係の形成を促進させている日本作文の会という団体がある。国際的にも注目されている実践方法である。
 生活上なさまざまなテーマに基づいて日常的に作文を書かせるが、そのなかに悩みを綴った作文などが現れたとする。普段から生徒の書いた作文や日記に、赤ペンをいれて、感想やコメントを書き入れるが、いくつかを印刷して配布したりする。文章は会話と違って時間をかけて書くものであるし、読む方もじっくり、繰り返して読むことができるから、会話などと比較して、深いコミュニケーションが可能である。悩みを綴った作文を印刷し、みんなの前で読み、そうして討論したり、感想を言い合ったりする。それがいじめの問題であれば、いじめによって傷ついた生徒の心を理解することになる。また、家族のことが心配で不安な状態にあるとしたら、みんなで励ましたりする。もちろん、そういうことが可能なように、クラスを組織することも、また教師としての力量が問われるところで、自然にうまくいくわけでないことは云うまでもない。
 こうした日常的な作文や討論を通して、クラスの関係が改善され、また社会を見る目が育っていく。残念ながら、このような実践をしている教師はそれほど多くはないし、また、社会全体の個人主義的な志向の中で、クラス全体での討論がやりにくい、あるいは反発する風潮もあるようだ。
 しかし、優れた綴り方教師たちのクラスの運営は、個人的なカウンセリングなどではとうてい不可能な成果を示すことがある。
 生活綴り方実践と比較すると、カウンセリングは方法的に大きく異なっているように思われる。
 カウンセリングでも作文を書くことはあるだろうが、誰か他人を交えて討論するようなことはないにちがいない。
 多くの場合、クライアントは一人であり、せいぜい家族を含む程度で、集団の形成とは無関係に成立している。集団療法というやり方もあるが、学級運営のような集団形成を目的としているわけではなく、あくまでも治療の方法として集団が利用されるわけである。つまり臨床心理学にとって集団は治療の手段だが、教育学にとっては実践の手段であると同時に目的でもある。
 このことは次の第二の相違を生む。集団形成が目的でもある以上、集団の情報は可能な限り共有が目指される。作文をみんなで読みあうことはその端的な例である。しかし、臨床現場では情報はクライアントとカウンセラーおよび医師のみが共有し、その他への情報提供はクライアントの同意を必要とするし、必要最低限の範囲に限定されるべきものである。双方がテストを行うが、教育では解答の解説や結果の提示がなされるけれども、カウンセリングではそういうことはないだろう。
 さて、こうした相違を踏まえて、価値観的立場と価値相対主義の問題をもう一度考えてみよう。
 価値観をめぐって教育と心理臨床は正反対の立場にあることがわかった。しかし、この相違はふたつの職業が共存しうること、あるいはそれが望ましいことを示しているということでもある。以前のように、学校には教師だけが職業者として存在していて、教科だけではなく生活上の指導もすべて行い、それで事足りていた時代にはカウンセラーは必要なかっただろうが、現在では教育への期待は以前よりずっと大きくなり、また要求も多様化している。とても教師だけでは対応できないほどの複雑さになっているのである。特に多様な価値観をもった生徒や親がいる状況では、固定的な価値観で対応する場面しかもたないことは、問題が起きたときの解決能力を低下させてしまいがちとなる。したがって、学校も教育的価値を大切にしながら、価値観に対しては柔軟な対応をとることが求められているといえる。
 また、価値相対主義といっても、あらゆる価値を平等に扱い、すべての価値を自分の価値観として拒否するわけではない。非常に限定されてはいても、基本的な人間的価値は是認し、その立場にたつのが価値相対主義であるとされている。
 価値相対主義にたつ人たちと価値観的立場にたつ人がそれぞれの持ち場で活動することは、その協力がうまくいきかぎり問題解決能
力を向上させると言えよう。
 ここに教師とカウンセラーというある面で対立する原則にたつ職業が協力可能な理由がある。しかし、その役割の相違を認識することもまた重要である。

付記

 さて本論とは別に以上の点について、若干付記しておきたい。
 上記の文章は、価値相対主義と価値観的立場における調和的立場を表明したように受け取られるかも知れないが、私の立場はそうではない。私自身は教育学者であるから、当然価値観的な立場にたつ。教育の方法的に相対主義にたつとしても、学の原則において、相対主義ではない。それは最初に教育学が価値観的な立場にたつと述べた通りである。
 そうした立場から臨床心理学を見ると、方法的相対主義とは言い切れない現代社会の、特に若い世代の「傾向」について感じざるをえない。それは講義をしていて、ある対立する見解があることを紹介すると、必ず「両方とも教えるべきである」という立場をとる学生が圧倒的に多い。もちろん、教育の方法としては、それは間違いではない。しかし、それは多くの場合、「自分の価値判断回避」としての表明であるように見えるのである。
 これは「現代学校教育論」における授業で扱う対象であるが、教育内容について争いがある場合どのように考えるべきた、というテーマで、アメリカにおける代表的な論争的課題である「進化論と創造説」の事例を紹介する。そうすると、上記のような立場を多くの学生がとる。つまり、両説に対立がある以上、学校では進化論も創造説も教えるべきであるという。
 しかし、説の対立があるという場合、その対立は決して「一様」ではない。特に社会的な観点が入る場合には、決して純粋に科学的な対立ではなく、むしろ、一方の側は意図的に反知性の立場にたつ場合が、歴史的には少なくないのである。「由らしむべし、知らしむべからず」という言葉にあるように、意図的に真実を隠し、まったく科学的ではないことを学校教育で教えることは、決して珍しいことではなかった。日本の戦前の歴史教育で「神話」を歴史として扱ったことはその代表的な事例である。
 おそらく「創造説」もそのひとつであると考えられる。
 そうすると、進化論と創造説は科学の学説として対立しているのではなく、教育における真実を教えるか、そうでないかという対立である。真実を教えるべきか、そうでないかという「対立」においても、価値相対主義は成立するのだろうか。ここが問題である。
 もし臨床心理学が、方法的にではなく、原則的にも価値相対主義に陥ってしまうとしたら、それは最終的な「人間的な状況の復興」に至らない活動になってしまう恐れもある。