行軍篇
主に行軍中の注意事項と、行軍と同時に行うべき敵情把握について書かれている。
篇名の「行軍」とは?
「軍を行(や)る」という意味で、文字通り行軍中の注意事項について書かれた篇である。その内容は、様々な地形に対する行軍のあり方、駐屯地の選定方法、行軍と平行して進めるべき敵情探索のあり方などである。
四軍の利
山岳地、河川地、沼沢地、平地の四種の地勢に対する行軍のあり方と、敵と遭遇した場合の戦い方は、以下の通りである。
1:山を越える場合は、谷沿いに進み、高みを見分けて高台に駐屯する。谷沿いに進めば道に迷うことが少なく、敵に発見されにくく、水も草も得やすい。
敵と遭遇しても、高地にいる敵に攻め上ってはならない。
2:川を渡り終えたら必ず川から遠ざかる。川の傍は、敵に襲撃されると逃げ場が無くなる。高みを見つけて高台に駐屯するが、川の流れに沿って攻め下ってくる敵を迎撃してはならない。
敵が川を渡ってきたら、川の中にいる間に迎え撃つことなく、半数を渡らせてから攻めるのが有利である。敵は撤退しにくくなる。戦いを欲しても、川の傍で迎撃してはならない。水際では混戦になる。
3:沼沢地を越えるには速やかに通過して、留滞してはならない。足場が悪く、伏兵に対処しにくい。
もし沼沢地で戦うことになったら、飲み水と飼料の草のある側で、森林を背にして態勢を整える。森林を背にすれば、足場が良く逃げやすい。
4:平地では特に問題は無いが、高台を右後方にして進み、低地を前に、高地を後ろにして駐屯する。いざというときに高みを利用でき、利き腕を活かせる。
駐屯地の選択
“凡そ軍は高きを好み下(ひく)きを悪(にく)み、陽を貴び陰を賎しむ。生を養いて実に処(よ)れば、軍に百疾無し。是れを必勝と謂う。”
(軍隊の駐屯地には高地が好ましく、低地を嫌い、日当たりの良いところは好ましく、日陰のところは好ましくない。水や草が豊かな場所に居れば英気が養え、軍中に種々の病気が生じない。これを必勝というのである。)
高所を確保するのは、進軍時と同じく敵の攻撃を想定してのことである。日向を確保するのは兵士の心身の健康を維持するためである。
病気は一度発生すると蔓延しやすく、また進軍の際にはその速度が遅くなる上、看病に当たる者に負担がかかり、戦闘の折には使い物にならなくなる。結果、軍の戦力はがた落ちとなってしまう。病気の発生を抑えることは、重要な要素なのだ。
危険な地を自軍の利に変える
“吾は之を遠ざけ、敵は之に近づかしめよ。吾は之を迎え、敵は之を背せしめよ。”
(味方は危険な場所から遠ざかり、敵は危険な場所に近づけるように仕向けよ。味方は危険な場所が真向かいになるようにし、敵は危険な場所が背に位置するように仕向けよ。)
「六害」、あるいは「五地の殺」と呼ばれる危険な地に遭遇した場合、自軍はその害を避け、敵軍にその害を押し付けるように配慮する。
「六害」とは?
1:「絶澗(ぜつかん)」
険しく切り立つ絶壁に挟まれた谷間。
2:「天井(てんじょう)」
井戸の様に四方がそびえる場所。
3:「天牢(てんろう)」
牢獄のように三方が囲まれた場所。
4:「天羅(てんら)」
網にかかったように草木の密生した場所。
5:「天陥(てんかん)」
落とし穴にかかったように身動きの取れなくなる、ぬかる場所。
6:「天隙(てんげき)」
両側から地形が迫りくる先細りの場所。
敵情把握の具体論
様々な兆候から敵の実情を察知し、敵の真意を洞察する為のセオリーは、以下の通りである。
○敵陣に関するセオリー
→険しい地勢を頼みとしている
→自軍の進撃を望んでいる
→自分、つまり敵軍に有利な条件がある
→進撃の為の工作
→退却の為の工作
→陰謀がある
→陳組みをしている
→合戦を決意した
→誘いをかけている
○自然に関するセオリー
→敵の奇襲の前兆
→伏兵を装う工作
→その下に伏兵が居る
○土ぼこりに関するセオリー
→戦車の襲来
→歩兵の襲来
→薪を集めている
→設営の作業をしている
兵力の多寡と敵情把握
“兵は多きを益ありとするに非ざるなり。惟(た)だ武進すること無く力を併せて敵を料(はか)れば、以て人を取るに足らんのみ。”
(兵力は多ければ善いというものではない。無闇に猛進しないようにして、力を合わせて敵情を推し量って対処していけば、充分に勝利を収めることができるだろう。)
戦争の原則は「多勢に無勢」の言葉通り、多数が有利である。しかし「小よく大を制す」という戦例が無いわけではない。兵力の差が必ずしも勝利への絶対条件ではない。兵力の多さから生まれる慢心は、軍を敗北へと導くことになる。
“慮なくして敵を易(あなど)る者は、必ず人の擒(とりこ)にせらる。”
(思慮を欠いて敵を侮れば、必ずや敵の捕虜にされる。)
戦いの基本は敵を恐れぬことだが、侮ることもせず、まずは客観的に「敵を知る」ことが重要である。
軍令の実効性の背景
“令素より行われて以て其の民を教うれば、則ち民服す。令素より行われずして以て其の民に教うれば、則ち民服せず。令素より信なれば、衆と相い得るなり。”
(軍令が平素より正しく執行されている状態で命令するならば、兵士は承服する。軍令が平素より正しく執行されていないのに(非常時になって)兵士に命令しても、兵士は承服しない。軍令が普段から信用されていてこそ、兵士と上手くやっていけるのである。)
行軍中のような非常時において、軍令は乱れがちになる。実際の戦闘による損害よりも、行軍中の脱走による兵士の損失の方が多かった、という例も存在する。普段から軍令を正しく執行し、その権威を示し、兵士に軍令を守らせることが必要となる。
最終更新:2008年05月05日 20:08