著者序文

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著者序文   教育の目的は人に「善の予断」を与えることにあると、ある才気ある思想家は述べた。このことばは、日常的な道徳の基底がどんなものかを浮き彫りにする。それに対して哲学者にとっては、思考が理解しようと務めない要素が、ひとつとして行為のなかに在るべきではなく、つまり説明されない責務は、根拠を提示しない義務は在るべきではない。   したがってわれわれは、ある道徳がいかなるものだということになるか、どこに到達しうるであろうかを探求するつもりである。ある道徳とは、いかなる「予断」も関与することのないだろう道徳、確実性についてであれ、見解についてであれ単に蓋然的な仮説についてであれ、すべてがその真の価値において推論され評価される道徳である。もし大多数の哲学者が、功利主義派、進化論派、実証主義派の哲学者たちでさえ、自らの課題に十分には成功しなかったとするなら、それは彼らが、自分たちの合理的道徳を、日常的な道徳にほとんど一致するものとして、おなじ範囲をもつものとして、その戒律における「命令」にほとんど等しいものとして、提示したからである。そうしたことは不可能である。科学はさまざまな宗教のドグマを転覆したのにもかかわらず、科学はそれらのすべてを代理しようとはしなかったし、明確な目標を直接的に提示しはしなかった。道徳にたいする科学の立場は、宗教にたいするのと同様である。純粋に科学的な道徳、つまりひとが知る事柄にもっぱら基礎づけられる道徳が、ひとが感じる事柄もしくは予断をもつ事柄から大部分が構成される日常的な道徳と一致すべきだということを、指し示すものは何もない。二つの道徳を一致させるために、ベンサムとその後継者たちはあまりにしばしば事実を歪曲する。彼らは誤ったのだ。他方ひとは、知的論証の領域が、道徳的行為の領域と範囲を等しくしない場合がありうるということを、非常によく思い描くことができる。こうしたところにいたると、この種の場合、習慣、本能、感情が人を導く。みずからがなにを行っているかということをよく知りつつ、習慣・本能・感情に付きしたがっていくことによって、何らかの神秘的な責務ではなく、社会的生のもっとも正当な必然性に従うと同時に、人間本性のもっとも豊穣=寛大な衝動に従っているのだ、ということを確信しさえすれば、未来においてもなお習慣・本能・感情に付きしたがっていくことができる。  科学としての科学の対象が制限されているということを示すことによって、ある科学の真理、例えば道徳の科学の真理は揺るがされない。逆に、科学を制限すること、それは多くの場合、科学により大いなる確実な性格を与えることなのだ。化学[chimie]は観察可能な事実へ制限された錬金術[alchimie]でしかない。同様に、純粋に科学的な道徳はすべてを包含することを望まないし、自らの領域の拡がりを誇張することを望むどころか、自らの領域を限定することに自ら務める、とわれわれは考える。純粋に科学的な道徳は、以下のように述べることに率直に同意する。そうした場合われわれは、義務の名においてあなたに命令的に指示することはまったくできない。その時、もはや責務も、制裁もない。みずからのもっとも深遠な本能、みずからのもっともいきいきとした共感、みずからのもっとも正常で人間的な嫌悪感に、助言を諮りなさい。次に、事物の根底に、もろもろの存在の命運と自分自身の命運に、形而上学的な仮説をこしらえなさい。まさにこの地点から、あなたはあなたの「自己統治self gouverment」にゆだねられるのである。― それが、道徳における自由なのであって、あらゆる規範の欠如ではなく、科学的規範が十分な厳密さで正当化されえないならその都度それを拒否するということにその本質をもつ。そのとき、実証科学が抹消し得ないし、全面的には補うこともできない哲学的投機=思弁の持ち分が、道徳においてはじまる。ひとが山に登るとき、ある瞬間、山頂を覆い隠している雲の中に包み込まれ、くらがりの中で道に迷うことがある。思想の高みに関しても同様である。道徳のある部分、形而上学とたまたま混同されている部分は、雲の中に永久に覆い隠されているものなのかもしれないが、堅固な基礎も持つ必要があり、人間が雲の中に入るのを甘受すべきなのがどの地点においてなのかを正確に知ることは必要である。道徳に関する最近の重要な著作の中で、種々の理由で、われわれにもっとも重要と見えた三つのものがある。イギリスではスペンサーの「Data of ethics」、ドイツではハルトマン氏の「道徳的意識の現象学」、フランスではアルフレッド・フイエ氏の「現代道徳の諸体系の批判」である。とても異なった影響のもとにあるこれらの作品の読解から、二つの論点が同時に出てくるようにわれわれにはおもわれる。すなわち一方では、自然主義的、実証主義的道徳は、責務に関してにせよ制裁に関してにせよ、非可変的な諸原理を提示していないということである。他方では、観念論的道徳はそれを提示することができるにせよ、そうするのは純粋な仮説的な資格でであって、確然的な[=断定的]資格でではないということである。言葉をかえると、諸事実の秩序(オーダー)に属するものはまったく普遍的ではないのであり、そして普遍的なものは思弁的な仮説である。絶対的で定言的であるかぎりでの命令的なものは、これら両方の側で消滅しているということが、そこから帰結する。われわれは、われわれ自身の説明のためにこの消滅を受け入れて、ある限度内においてそこから帰結する道徳の可変性を悔やむかわりに、逆にそれを未来の道徳の特性として考えよう。未来の道徳は、さまざまな点において、単にオートノミー[自律的autonomos]ではなく、アノミー[anomos]である。生きんとする意志の狂気と、理性によって論理的義務として強いられるニルヴァーナとに関するハルトマンの超越的思弁に対して、行為は、もっとも充実し、もっともひろく、もっとも多様な生を動機としてもつということを、スペンサーとはことなったやり方で個人的生と社会的生の和解を構想することにもっぱらよってではあるが、われわれはスペンサーとともに認める。他方、「現代道徳の諸体系の批判」の著者(フイエ)とともにわれわれは、イギリス学派と実証主義派は不可知なものを認めるがこの主題についてのあらゆる個人的な仮説を禁じるということにおいて誤った、ということを認める。だが、「行為の実践的に限定的で制限的な原理」、つまりカントの定言命法と自由な形而上学的仮説の間を仲介するものとしての純粋な正義の原理を、不可知なものが提示しさえできるということは、われわれはこの著者とともに考えたりしない。  容認することのできる、義務のいくつかの「等価物」もしくは「代用物」は、「自由と決定論」の著者[フイエ]と同じ言葉遣いを用いておくと、つぎのようなものだとわれわれには思われる。 1)われわれの優れた内的力=能力への意識。われわれは義務がそれに実践的に還元されるのをみるだろう。 2)諸観念が行為へと及ぼす影響 3)諸感性の増大していく融合と、われわれの快と苦のつねにより社会的な性格 4)行為における危険への愛。われわれは今まで正しく評価されて来なかったその重要性を示すだろう。 5)形而上学的仮説への愛。それは思考における危険の一種である。  われわれにとってはこれら結合したさまざまな動機[原動力]はまさしく、もっぱらの事実と事実を補う仮説とに還元される道徳が、古い定言命法を取り替えてしまうであろうものすべてなのである。社会的制裁と区別される、固有にいうところの道徳的制裁に関しては、われわれが、無条件にそれを除去するのをひとは見るだろう。というのは「贖罪」としては、制裁は根本的に非道徳的なのである。だからわれわれの本は、ひとえに科学的な道徳の射程、範囲、そしてまた限界を規定するための試論として、考えることができる。したがって、われわれの本の価値は、道徳性の絶対的かつ形而上学的な基底の上にひとが作り上げる見解とは、独立して存続することができる。
著者序文   教育の目的は人に「善の予断」を与えることにあると、ある才気ある思想家は述べた。このことばは、日常的な道徳の基底がどんなものかを浮き彫りにする。それに対して哲学者にとっては、思考が理解しようと務めない要素が、ひとつとして行為のなかに在るべきではなく、つまり説明されない責務は、根拠を提示しない義務は在るべきではない。   したがってわれわれは、ある道徳がいかなるものだということになるか、どこに到達しうるであろうかを探求するつもりである。ある道徳とは、いかなる「予断」も関与することのないだろう道徳、確実性についてであれ、見解についてであれ単に蓋然的な仮説についてであれ、すべてがその真の価値において推論され評価される道徳である。もし大多数の哲学者が、功利主義派、進化論派、実証主義派の哲学者たちでさえ、自らの課題に十分には成功しなかったとするなら、それは彼らが、自分たちの合理的道徳を、日常的な道徳にほとんど一致するものとして、おなじ&bold(){範囲}をもつものとして、日常的道徳の戒律における「&bold(){命令}」にほとんど等しいものとして、提示したからである。そうしたことは不可能である。科学はさまざまな宗教のドグマを転覆したのにもかかわらず、科学はそれらのすべてを代理しようとはしなかったし、明確な目標を直接的に提示しはしなかった。道徳にたいする科学の立場は、宗教にたいするのと同様である。純粋に科学的な道徳、つまりひとが&bold(){知る}事柄にもっぱら基礎づけられる道徳が、ひとが&bold(){感じる}事柄もしくは&bold(){予断をもつ}事柄から大部分が構成される日常的な道徳と一致すべきだということを、指し示すものは何もない。二つの道徳を一致させるために、ベンサムとその後継者たちはあまりにしばしば事実を歪曲する。彼らは誤ったのだ。他方ひとは、&bold(){知的}論証の領域が、&bold(){道徳的}行為の領域と範囲を等しくしない場合がありうるということを、非常によく思い描くことができる。こうしたところにいたると、この種の場合、習慣、本能、感情が人を導く。みずからがなにを行っているかということをよく知りつつ、習慣・本能・感情に付きしたがっていくことによって、何らかの神秘的な責務ではなく、社会的生のもっとも正当な必然性に従うと同時に、人間本性のもっとも豊穣=寛大な衝動に従っているのだ、ということを確信しさえすれば、未来においてもなお習慣・本能・感情に付きしたがっていくことができる。   科学としての科学の対象が制限されているということを示すことによって、ある科学の真理、例えば道徳の科学の真理は揺るがされない。逆に、科学を制限すること、それは多くの場合、科学により大いなる確実な性格を与えることなのだ。化学[chimie]は観察可能な事実へ制限された錬金術[alchimie]でしかない。同様に、純粋に科学的な道徳はすべてを包含することを望まないし、自らの領域の拡がりを誇張することを望むどころか、自らの領域を限定することに自ら務める、とわれわれは考える。純粋に科学的な道徳は、以下のように述べることに率直に同意する。そうした場合われわれは、&bold(){義務}の名においてあなたに&bold(){命令的に}指示することはまったくできない。その時、もはや責務も、制裁もない。みずからのもっとも深遠な本能、みずからのもっともいきいきとした共感、みずからのもっとも正常で人間的な嫌悪感に、助言を諮りなさい。次に、事物の根底に、もろもろの存在の命運と自分自身の命運に、形而上学的な仮説をこしらえなさい。まさにこの地点から、あなたはあなたの「自己統治self gouverment」にゆだねられるのである。― それが、道徳における自由なのであって、あらゆる規範の欠如ではなく、科学的規範が十分な厳密さで正当化されえないならその都度それを拒否するということにその本質をもつ。そのとき、実証科学が抹消し得ないし、全面的には補うこともできない哲学的投機=思弁の持ち分が、道徳においてはじまる。ひとが山に登るとき、ある瞬間、山頂を覆い隠している雲の中に包み込まれ、くらがりの中で道に迷うことがある。思想の高みに関しても同様である。道徳のある部分、形而上学とたまたま混同されている部分は、雲の中に永久に覆い隠されているものなのかもしれないが、堅固な基礎も持つ必要があり、人間が雲の中に入るのを甘受すべきなのがどの地点においてなのかを正確に知ることは必要である。   道徳に関する最近の重要な著作の中で、種々の理由で、われわれにもっとも重要と見えた三つのものがある。イギリスではスペンサーの「Data of ethics」、ドイツではハルトマン氏の「道徳的意識の現象学」、フランスではアルフレッド・フイエ氏の「現代道徳の諸体系の批判」である。とても異なった影響のもとにあるこれらの作品の読解から、二つの論点が同時に出てくるようにわれわれにはおもわれる。すなわち一方では、自然主義的、実証主義的道徳は、責務に関してにせよ制裁に関してにせよ、&bold(){非可変的な}諸原理を提示していないということである。他方では、観念論的道徳はそれを提示することができるにせよ、そうするのは純粋な&bold(){仮説的な}資格でであって、確然的な[=断定的]資格でではないということである。言葉をかえると、諸事実の秩序(オーダー)に属するものはまったく普遍的ではないのであり、そして普遍的なものは思弁的な仮説である。&bold(){絶対的}で&bold(){定言的}であるかぎりでの命令的なものは、これら両方の側で消滅しているということが、そこから帰結する。われわれは、われわれ自身の説明のためにこの消滅を受け入れて、ある限度内においてそこから帰結する道徳の可変性を悔やむかわりに、逆にそれを未来の道徳の特性として考えよう。未来の道徳は、さまざまな点において、単にオートノミー[自律的autonomos]ではなく、アノミー[anomos]である。生きんとする意志の狂気と、理性によって論理的&bold(){義務}として強いられるニルヴァーナとに関するハルトマンの超越的思弁に対して、行為は、もっとも充実し、もっともひろく、もっとも多様な&bold(){生}を動機としてもつということを、スペンサーとはことなったやり方で個人的生と社会的生の和解を構想することにもっぱらよってではあるが、われわれはスペンサーとともに認める。他方、「現代道徳の諸体系の批判」の著者(フイエ)とともにわれわれは、イギリス学派と実証主義派は不可知なものを認めるがこの主題についてのあらゆる個人的な仮説を禁じるということにおいて誤った、ということを認める。だが、「行為の実践的に限定的で制限的な原理」、つまりカントの定言命法と自由な形而上学的仮説の間を仲介するものとしての純粋な正義の原理を、&bold(){不可知なものが}提示しさえできるということは、われわれはこの著者とともに考えたりしない。  容認することのできる、義務のいくつかの「等価物」もしくは「代用物」は、「自由と決定論」の著者[フイエ]と同じ言葉遣いを用いておくと、つぎのようなものだとわれわれには思われる。 1)われわれの優れた内的&bold(){力=可能}への意識。われわれは義務がそれに実践的に還元されるのをみるだろう。 2)&bold(){諸観念}が行為へと及ぼす影響 3)&bold(){諸感性}の増大していく融合と、われわれの快と苦のつねにより社会的な性格 4)行為における&bold(){危険}への愛。われわれは今まで正しく評価されて来なかったその重要性を示すだろう。 5)形而上学的仮説への愛。それは&bold(){思考における危険}の一種である。  われわれにとってはこれら結合したさまざまな動機[原動力]はまさしく、もっぱらの事実と事実を補う仮説とに還元される道徳が、古い定言命法を取り替えてしまうであろうものすべてなのである。社会的制裁と区別される、固有にいうところの&bold(){道徳的制裁}に関しては、われわれが、無条件にそれを除去するのをひとは見るだろう。というのは「贖罪」としては、制裁は根本的に&bold(){非道徳的}なのである。だからわれわれの本は、&bold(){ひとえに科学的な}道徳の射程、範囲、そしてまた&bold(){限界}を規定するための試論として、考えることができる。したがって、われわれの本の価値は、道徳性の絶対的かつ形而上学的な基底の上にひとが作り上げる見解とは、独立して存続することができる。

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