戸坂潤によるギュイヨー評


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『認識論とは何か』(1937)
「E・デュルケムは、カントによるアプリオリな諸範疇の類が、実は経験的な社会関係の所産であることを実証しようと企てた。[中略]同じ要領を、美的真理について明らかにしようとした例は、カントの敵対者の一人であるJ・M・ギュイヨーの美学であった。彼によれば美意識即ち美的真理・美的価値・は、それ自身超経験的な通用性を持つにも拘らず、社会に於ける生命的要求という経験的事実からの結論に他ならないのである。この社会的美学は必ずしも所謂芸術社会学ではない。と云うのは、芸術が社会的歴史に従って法則的に変化するということを実証するだけではなくて、美的価値というアプリオリが、如何にして社会的に発生し通用の権利を獲得するに至るかを説くのだ。
デュルケム的実証主義やギュイヨー的な生の哲学には、夫々の制限があることだから、その所説をそのまま借用することは出来ない。だが少なくとも、経験的なものから、逆に経験的なものを指導する原理的なものが産み出されるという、経験的なものと原則的なものとの、アポステリオリとアプリオリとの、事実問題と権利問題との、存在と妥当との、現実的な連関を解く道を与えていることを、見落してはならないのだ。之はカント風の批判主義乃至構成主義では、今日まで解くことの出来なかった困難である。この一見妥当な着眼の認識論上の重大さを測り知ることが出来よう。」(「第三章 真理について(続き)」、『戸坂潤全集第三巻』pp.444-445)

『道徳の観念』(1936)
「だが最後に、ごく近代的な倫理学の一傾向として、 生命 の倫理学を数えておかねばならぬ。その一つはダーヴィン主義的倫理学であり(カウツキー前掲書参照)、その二つは例えばギュイヨーの夫だ(「義務も制裁もなき道徳の考察」其の他)。形式主義的倫理学に了る道徳観念の代りに、生命内容による闘争や生活意識の高揚やを導き入れたことがその特色であるが(特にギュイヨーの如きは道徳を道徳律中心主義的な又善悪対立主義的な観念から解放した)、 道徳の歴史的発展 に就いての積極的な体系は全く之を欠いている。之は、この種の「生」の倫理学が依然として形式主義的倫理学と共に分つ宿命なのである。之はだから実は本当に 内容的 倫理学ではあり得ないわけだ。この点 現象学的 倫理学其の他のもの(M・シェーラーの如き)になれば、もっと明らかだろう。」(「第二章 道徳に関する倫理学的観念」、『全集第四巻』p238)
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