ギュイヨーとデュルケムの「アノミー」について( Marco ORRU "L'Anomie")

 

*ギュイヨーによる、デュルケムに先行した「アノミー」概念の使用。内在論的立場からの「アノミー」について。

 

 

Marco ORRU,L’Anomie: Histoire et sens d’un concept, L’Harmattan, Paris, 1998(Trad. de l’anglais par Patricia Simonson)

 

Chapitre 4, L’Ethique de l’anomie dans le XIXe siècle français

 

 

 

 ほとんどの社会学者にとって、エミール・デュルケムが、『社会的分業論』(1893)においてアノミーについて書いた最初の近代の著者である。実際にはさらに六年前に、『将来の無宗教』(1887)-フランスの哲学者・社会学者ジャン=マリ・ギュイヨーの作品-についての書評(1887)の中で、デュルケムはその用語を最初につかっている。当のギュイヨーが『将来の無宗教』においてだけでなく、それに先立つ本『義務も制裁もなき道徳についての素描』(1885)においてアノミーという用語を使用していることに、この書評は言及している。他方、デュルケムは、『社会的分業論』(1893年に書かれ、後に修正されることになる)の序文の中で、ギュイヨーによって進展させられたアノミーの観念、およびその基底にある倫理を独自のやり方で批判し、デュルケム固有の概念体系に統合することで概念を変形している。それでも、デュルケムがアノミーの観念を発見したのが、ギュイヨーの著作の中であることには、変わりがない。だが、デュルケムによるギュイヨーの作品についての批判が切り開いた討議が行われることはなかった。彼の対話者は、33歳で1888年に死んだのである。

 

  デュルケムがアノミーという用語を用いた最初の社会学者だったという観念は、凡庸な誤りでしかないことになるだろう。・・・ギュイヨーは、内在論の伝統にもとづき、みずからのアノミー概念を構築する。内在論の伝統に従えば、人間の行為を統治する道徳的諸規範は、超越論的基底をまったく持たない。そうした道徳的諸規範は、諸々の特殊状況に由来するのであり、自らの存立を諸個人間の諸関係のなかに見出すのである。デュルケムは反対に、道徳的規範が諸個人の関係を統治し、諸個人の関係に外的なものである。いずれのケースでも、アノミーという概念、道徳についての哲学のビジョンに結びついている。(pp142-143)

 

   デュルケムにとっては、社会は個人に超越的であり外的である。ギュイヨーにとっては、社会は個人に内在的であり、内的である。個人は社会的環境を積極的に形成し変形する。・・・デュルケムの理論は本性上、公理的である。アノミーは道徳の否定としてのみみなされうるのであり、支配的道徳体系に代わりうるものとはみなされえない。つまり、アノミー[無律]は、オートノミー[自律]とは一致しないのであり、それはただ道徳性の欠損として、理念の歪曲として存在するのである。ギュイヨーは反対にアノミーを、認識の進歩と人間の合理性の進歩によって独立したあり方で生み出される道徳の一形式として、十分に正当な道徳として提示するのであり、単純な否定としては提示しない。(pp172-173)

 

 

最終更新:2009年05月05日 23:57
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